クリニックが休みの土日は、和彦の体が空くのを待ちかねていたように、一気に予定が埋まる。一応、伺いを立てられはするが、和彦個人に予定があることは滅多にないため、都合が悪いとも言えない。口ごもっているうちに、押し切られてしまうという感じだ。
もう少し要領よくならなければいけないという自省は、これまでに何度も繰り返してきたが、自分でも進歩しているとはまったく思っていなかった。
男たちの事情に振り回されるという点では、ある意味、和彦にとっての日常が完全に戻ったともいえるだろうが、あまりに前向きすぎる考えかもしれない。
テーブルについているのが自分一人となり、軽くため息をついた和彦はすっかり凝った自分の肩を揉む。イスの背もたれに体を預けようとしたところで、背後から声をかけられた。
「お疲れ様でした、佐伯先生」
和彦は反射的に姿勢を戻して、おそるおそる振り返る。にこやかな表情の藤倉が立っていた。気配すら感じられなかったため、同じ部屋にいることをすっかり忘れていた。
速やかに和彦の側に歩み寄ってきた藤倉が、テーブルの上に広げられた書類をまとめ始める。
「初の顔合わせはいかがでしたか?」
藤倉の問いかけに、力ない笑みでまず応える。
「……驚きました。まさか、こんな大事になっているなんて」
「そう身構えないでください。佐伯先生の負担を極力減らすために、集めた者たちですから。彼らが中心となって、新しいクリニックに関する作業のすべてを請け負います。先生は要望を伝えるだけでけっこうです」
はあ、と気の抜けた返事をした和彦は、慌てて口元に手をやる。込み上げてきた苦々しさを、そのまま本音として口に出していた。
「皆さん、フロント企業のマネジメントとかもされているそうですね。顔を合わせた場所がここでなければ、本当に、一般の企業に勤めるマネージャーの方たちだと疑いもしなかったと思います」
「実際、マネージャーではありますよ。総和会のために働いている、という前提がつきますが。佐伯先生にとっても馴染み深いコンサルタントもそうです。今は、荒っぽい手口だけでは稼げませんからね。依頼があれば彼らは、あらゆる組や会社に派遣されます。結果として、総和会の資金力強化に繋がりますから」
そんな人物たちを自分のサポートにつけたのかと、見えない重圧が和彦の肩にのしかかる。
和彦が今いるのは、総和会総本部内にある会議室の一つだった。大した説明もなくここに連れて来られたときから何かあるとは思っていたのだが、総和会による新しいクリニック設立の話が具体的に進み始めたことを告げられたときは、絶句するしかなかった。
候補地探しを行ってはいたが、和彦が実際に足を運んだのはほんの数か所で、そこについても用地を買い取るのか、借りるのか、そんな話すら出ていなかった。だからこそ、実際にクリニック経営の計画が動き出すのはまだまだ先だと、いくらか安穏と構えていたのだ。
いまさらだが、総和会は本気なのだと実感した。
長嶺組からクリニック経営の話が出たときは、まだ裏の世界の組織というものがよく理解できておらず、追い立てられるように目的に突き進み、その最中で現実というものを嫌というほど叩き込まれた。今は、一端とはいえ裏の世界における総和会という組織と、自分の置かれた立場を理解している。
そこに付随する、負わされた役目の重さも。
長嶺の男は、本気で和彦を裏の世界から逃がすつもりはなく、どんな手段を使ってでも、雁字搦めにしてくる。賢吾の場合、根本にあるのは強い執着と情だ。体中に蛇が巻きついてくるようで、ゾッとするような怖さと同時に、狂おしい情欲のうねりを感じてしまう。
しかし、守光の場合は――。自分を介して何かを得ようとしていると、漠然としたものを感じるが、それがなんであるかはわからない。何度体を重ねようが、守光という存在を掴めないのだから、仕方ないともいえた。
まとめた資料をファイルで綴じた藤倉が、そのファイルを和彦に差し出してくる。
「こちらはお持ち帰りいただいて、お時間があるときにでも、また目を通してください」
和彦は受け取ったファイルを、いつも持ち歩いているアタッシェケースに仕舞うと、やっと席を立つ。これで解放されると思いながらドアを開けた瞬間、廊下に立つ男の姿を見て硬直した。
壁にもたれかかっていた南郷が悠然と姿勢を戻し、意味ありげに笑みを浮かべた。
「休みの日にまで大変だな、先生。――さあ、帰ろうか。送っていく」
「……どうして、南郷さんが……」
「たまたま用があってここに立ち寄ったら、ちょうど先生が来ていると教えられたんだ。だったら、俺たちが送っていこうと。ああ、途中でどこかで昼飯を食おう。少し早いが、混み合って待たされるよりいい」
一方的に話しながら南郷が片手を差し出し、廊下に出るよう促してくる。やけに微笑ましい表情でこちらを見ている藤倉の前であまり邪険な態度も取れず、やむなく和彦は従った。
不本意だが並んで歩きながらエレベーターホールへと向かう。和彦としては、南郷と会話を交わすつもりはなく、黙ってエレベーターを待っていると、隣で南郷はスマートフォンを操作しながら話しかけてきた。
「さて、どこでメシを食おうか。せっかくだ。いい店がいいな。フレンチでも中華でも、寿司でもいい。とにかく美味いものが食いたい」
突きつけられたスマートフォンの画面には、さまざまな飲食店を紹介するサイトが表示されている。ちらりと一瞥した和彦は、うんざりしながら応じた。
「……ぼくは、昼は手軽に済ませたいです。ですから、わざわざ南郷さんに送ってもらわなくても――」
「たまたま用があって、というのは方便だ。あんたに話したいことがあったから、総本部まで足を運んだ。なんと言われようが、送っていく」
和彦は露骨に顔をしかめて見せたが、対照的に南郷は、歯を剥き出すようにして笑った。和彦が逆らえないと確信している、傲慢さに満ちた表情だ。
ステーキの厚みにありありと不満を見せながら、南郷は意外なほど器用にナイフとフォークを扱い、肉を切り分けていく。和彦は、南郷と同じテーブルについて食事をしている状況に内心うんざりしながら、フォークにパスタを巻きつけた。
「遠慮しなくてよかったんだぜ、先生。あんたに金を使うのは惜しくないんだから、もっと高い店をリクエストしてもらってもよかった」
芝居がかった動作で南郷がぐるりと周囲を見回す。落ち着かないほど広々として見通しのいいファミリーレストランは、南郷のような〈職業〉の男にとっては、落ち着かないのかもしれない。仕切りの側に座りたがっていたが、あいにく、すでに店内は混み始めていたため、南郷の希望は通らなかった。
「自分の分は自分で払います。――それで、ぼくに話したいこととは?」
見るからに筋者である南郷と、こんな場所で長居はしたくない。和彦のそんな苛立ちを知ってか知らずか、南郷はのらりくらりと本題をはぐらかし続ける。さすがに腹に据えかねて険のこもった視線を向けた。
怖いな、と揶揄するように呟いた南郷は、口にステーキを押し込む。肉を咀嚼する様に、なぜかゾッとするものを感じて、和彦はさりげなく視線を伏せた。
「最近、あんたが本部に立ち寄ってくれないと言って、オヤジさんが寂しがっている」
「……それは、申し訳なく思っています。ぼくも忙しくて。外で食事はご一緒したんですが」
「そういうことじゃないだろう。オヤジさんが言いたいことは」
南郷が言わんとしていることを察し、食欲が失せた和彦はフォークを置いていた。
「あんたと直接会って、相談したいこともあるそうだし、近いうちに呼ばれるはずだ。そのときは、よっぽどのことがない限り、受けてほしい」
和彦としても、守光に会って俊哉との関係について確かめたい。一人であれこれ推測したところで答えが出るはずもなく、結局、本人に問うしかないのだ。だからといって自分から行動を起こすこともせず、守光に呼ばれることを待っていた。
自分の狡さと意気地のなさに、いまさらながら胸が悪くなる。和彦は唇を歪めると、グラスの水を一気に飲み干した。
ふと気になることがあり、南郷に尋ねる。
「先日からほのめかされていたのですが、長嶺会長がぼくに相談したいことがなんなのか……、わかりますか?」
「さあ。オヤジさんは、あんたに関することでは秘密が多い」
ウソだ、と和彦は心の中で呟く。守光の行動をサポートし、その守光がいないときは主のように傲慢に振る舞っている男が、わからないはずがない。
「気になるなら、会って本人に聞くしかないということだ」
「そう、ですね……」
そう返事をしたところで和彦は、軽く眉をひそめる。
「あの……、ぼくに話したいこととは、本部に顔を出せということですか? それなら、わざわざ場所を移動しなくても、総本部で言えば済んだのでは」
「立ち話だと、簡単に受け流されそうだったからな。俺にとっては重要なことだ。オヤジさんの体調だけじゃなく、気持ちを慮るのも」
「受け流すなんてしません」
「だがあんたは、一刻も早く俺から離れようとするだろ。――いい加減、俺の存在にも慣れてもらわないと」
これまで南郷にされてきたことが一気に蘇り、和彦は怒りで我を忘れそうになる。こうして同じテーブルについていることも、精一杯の自制心を費やしてのことなのだ。
和彦は、本能的に南郷を恐れている。近づいてはいけないと、頭の中でずっと警報が鳴り続いているような状態だ。そんな和彦に対して南郷の要求は、あまりに酷だと言えた。
顔を強張らせると、南郷に鼻先で笑われた。
「そう、露骨に嫌そうな顔をしないでくれ。さすがに傷つく」
言い訳もできずに和彦が口ごもっている間に、言葉とは裏腹に平然とした様子で、南郷はステーキを平らげ、スープもあっという間に飲み干してしまう。そして、テーブルに置かれた伝票を手に立ち上がった。
「外で待っている。あんたはゆっくり食べればいい」
そう言われても、優雅にランチを楽しめるはずもなく、和彦はどうにかパスタを半分ほど胃に収めて、急いで店を出る。途端に、物陰に身を潜めていた護衛の男たちにさりげなく囲まれた。少し大げさではないかと感じているが、鷹津に連れ去られた件が尾を引いているのかもしれない。
駐車場では、車の傍らに立った南郷が煙草を吸っていた。そんな南郷に、携帯灰皿を差し出すのは――。
「あっ……」
和彦が洩らした声が聞こえたのか、南郷はほとんど吸っていない煙草を携帯灰皿に押し込んだ。
「早いな、先生。慌てなくてよかったのに」
「そういうわけには……。それより――」
南郷の傍らで、頭を下げ気味にして控えている青年を見遣る。やはり、間違いなかった。何日か前に、中嶋と一緒にいるところを見かけた青年だ。
Tシャツがぴったりと張り付いた体つきは精悍で、全身から若さが漲っているなと半ば感心して眺めていた和彦だが、逞しい左腕に黒々とした影が差しているのを見て、一瞬ドキリとする。目を凝らしてやっと、肌に彫ってあるものだとわかる。袖で絵柄の大半が隠れているが、瑞々しいともいえる黒の鮮やかさから、かつて千尋が入れていたタトゥーを思い出した。
和彦の視線を追うようにして、南郷も青年に目を向ける。
「こいつが気になるか、先生?」
「えっ、ええ……」
南郷は素っ気ない手つきで、青年のあごを掴み上げる。見ていてヒヤリとするような行動だが、おかげで、青年の顔をよく見ることができた。
これまで和彦は、長嶺組で下働きをしている二十歳そこそこの青年たちを何人も見てきたが、彼もまた、同じだった。どこか荒んで、ふてぶてしい雰囲気を漂わせながら、それでいて大人になりきれていない純朴さのようなものがある。
切れ長の目と、高い位置にある頬骨が印象的で、人によっては惹きつけられそうな容貌をしており、和彦の記憶にもよく残っていた。
「前に、中嶋くんと一緒にいるときに、彼に会ったことがあるなと思って。たくさんの若い子たちの面倒を見ているそうですね、第二遊撃隊で」
「雑用を任せて、寝床と小遣いをやっている。もちろん、善意からじゃない。有能な奴を見つけて、囲い込むためだ。こいつ――加藤(かとう)は、その囲い込んでいたうちの一人で、最近、正式にうちの隊員になった」
説明を受けた和彦は改めて、紹介された加藤という青年を眺める。よかったねと、言葉をかけるのは違う気がした。総和会の中で居場所を確保できたことは、野心を持つ者にとっては喜ばしいのかもしれないが、それはあくまで、内側にいる人間の理屈だ。社会的には、とうてい容認されたものではない。
こんなことを考えてしまうのは、やはり自分は偽善的なのだろうなと、ほろ苦い気持ちになった和彦だが、加藤と目が合い、反射的に笑いかける。
秦は、この青年が中嶋と『寝ている』と言っていた。どういう理由からそうなったのか、あれこれ推測したい衝動に駆られるが、これは下衆の勘繰りの類だと自戒する。
「――今日、あんたにつき合ってもらったのは、こいつらを紹介したかったというのもある。総本部の中を闊歩させるには早いから、外で。できることなら祝いも兼ねて、いい店で、高いメシも食わせてやりたかったんだがな……」
南郷から意味ありげな流し目を寄こされる。その目は、和彦の〈わがまま〉のせいで、美味い食事を食わせる機会を失ったと言っている。
こちらに相談なく、勝手に物事を決めるからだと心の中で反論した和彦だが、口にしたのはまったく別のことだった。
「こいつら?」
「もう一人とも、前に会ったことがあるはずだ。――おい」
南郷が軽く手招きすると、少し離れた場所に立っていた青年がこちらに駆け寄ってくる。タンクトップの上からシャツを羽織った、一見ごく普通の若者らしい服装をした青年だった。女の子に騒がれそうな華のある甘い顔立ちをしているが、感情を押し殺した無表情は、青年から個性を奪っているように思えた。
彼のこともまた、和彦の記憶には残っていた。しかし、強く印象に残っているのは顔立ちよりも、青年の胸元で揺れるシルバーのネックレスと、耳にいくつも空いたピアスの穴だ。前に、南郷に騙されて呼び出されたとき、和彦をカラオケボックスの一室に案内した青年だった。
「こっちは小野寺(おのでら)だ。加藤もだが、この先、何かと先生と顔を合わせる機会もあるだろう」
どういう意味かと、和彦は首を傾げる。南郷は口元に薄い笑みを湛え、車を示した。
「いつまでも立ち話もなんだ。車に乗ってくれ」
素早く後部座席のドアを開けてくれたのは、小野寺だった。
車が駐車場を出てすぐ、助手席の南郷が話し始める。
「――あいつらには、ゆくゆくはあんたの身の回りの世話や、護衛を任せたいと思っている。今は、あんたが本部に滞在していたり、総和会の仕事をするときにだけ、うちからの護衛をつけているが、いつまでもそういうわけにはいかない」
「と、言うと?」
「俺は……というより、オヤジさんの考えでもあるが、常にあんたに護衛を張りつかせておきたい。何かあってからじゃ遅いからな。これからあんたの価値と存在感はますます増す。そのことは、総和会の外にも知られるようになるだろう。目敏い組織だったら、すでにもうあんたに注目していても不思議じゃない」
和彦が顔を強張らせると、その反応を読んでいたように南郷がちらりと肩越しに振り返る。ニヤリと笑いかけられた。
「心配しなくても、あんたの身はうちがしっかりと守る。例の刑事のような害虫は、金輪際近づけさせない」
言いたいことはあったが、ここで南郷に抗議しても仕方がない。南郷の背後にいるのは、守光だ。守光はよほど、鷹津の存在を不快に感じていたのだろうと、南郷の発言からうかがい知ることができた。
「さっきの若い二人だけじゃなく、使える人材はいくらでも欲しい。あんたの事業が起ち上がれば、そこに回す人員もいるだろうしな」
「……それは、第二遊撃隊から回す人員、ということですか?」
十秒ほど、ヒヤリとするような沈黙が訪れた。自分は何かマズイことを言っただろうかと、シートの上で和彦が身じろぎかけたとき、ようやく南郷が話し始めた。
「そう、〈うち〉からだ。元はどこの組にいたか、どんな仕事をしていたか、そんなことは関係ない。俺が欲しいと思った奴は、いくらでも隊に引き入れる。特に、若くて活きのいい奴なら、大歓迎だ。隊に任される仕事も増えてきたから、人員のやりくりはなかなか頭を悩ませるところだからな」
「第二遊撃隊は、今でもずいぶん人が多いんじゃないですか? ぼくは、総和会の他の隊……というか、部署や委員会にどれだけの人が所属しているのか把握しているわけではないので、ただそう感じるだけなんですけど」
「御堂が言っていたか? 第一遊撃隊に比べて、大所帯だと。御堂のところは、よくも悪くも少数精鋭にこだわっているからな。俺とは隊の運営に対して、根本的に考え方が違う」
御堂が批判を口にしたように思われるのではないかと危惧して、和彦は返事ができなかった。南郷と話すとき、必要以上に己の発言には慎重になる。
南郷は再び肩越しに振り返り、すぐに正面を向く。倣ったわけではないが、和彦も背後を振り返る。やはり、総本部を出たときにはいなかったはずの車が、ぴたりとついてきていた。ハンドルを握っているのは加藤だ。助手席には小野寺が。
さきほど南郷が言っていた、彼らに和彦の身の回りの世話や護衛を任せるという話は、どうやら本気らしい。
「――心配しなくても、いきなりあいつらに危ない仕事を任せるわけじゃない。遊撃隊は一応は、保安部という部署に属していて、そこでみっちりと基礎を叩き込んでいる。上の人間を守るプロが揃っているからな。そのプロが、今のあんたを守っている。今日はあんたへの紹介も兼ねて、あの二人を呼んだんだが、せっかくだから近くで仕事ぶりを見て覚えろと言っておいたんだ」
何もかも、和彦の知らないところで決定されることに、いまさらながら強い苛立ちを覚える。ただ悲しいことに、今のような生活を送り始めて、そういった感情を腹に呑み込む術を和彦は身につけてしまった。
乱暴に息を吐き出すと、抑えた声音で応じる。
「……ぼくの生活に立ち入るようなことはしないでください」
「んっ? ああ、あいつらに、あんたの身の回りの世話をさせるという話か。それは、まだ先のことだ。今から渋い顔をしないでくれ」
正面を向いた南郷に、和彦の表情が見えるはずもない。それでもズバリと言い当てられ、思わず眉間を指の腹で押さえる。南郷が短く笑い声を洩らしたように思えたが、多分、気のせいだろう。
捲り上げていたシャツの袖を下した和彦は、ふっと息を吐き出す。すかさず長嶺組の組員が歩み寄ってきた。
「お疲れ様です、先生。……申し訳ありません。せっかくのお休みなのに、来てもらうことになって」
「いつものことだから、気にしないでくれ。それに今日は、思っていたより軽い怪我ばかりだったから、いつもの仕事に比べたら――」
仕事を終えた気楽さもあり、和彦が口元に淡い笑みを浮かべると、それを受けた組員が大仰にしかめっ面を作った。
「まったく。ガキってのは、ときどきとんでもないことをしでかすもんですよ」
二人の視線は自然と、傍らで正座している青年へと向けられる。頬に大きな絆創膏を貼ってはいるものの、目立った怪我といえばそれぐらいだ。なかなかいい体つきをしており、坊主頭もあいまって、道ですれ違いたくないタイプに見える。だが今は、叱られた犬のように項垂れ、肩を落としていた。
昨日、南郷から紹介された、加藤や小野寺と同年齢ぐらいだろう。長嶺組の正式な組員というわけではなく、いわゆる組員見習いのようなものだ。組員から小遣いをもらいながら、仕事の手伝いをしているそうだが、ただの雑用もあれば、危険な橋を渡ることもある。
若いのだから、今からでもまっとうな仕事に就くことは十分に可能だろうが、食えないヤクザたちは、その辺りは巧みだ。彼らの居場所は組が作ってやるといわんばかりに、程々に世話を焼き、程々に厳しく躾をする。まるで、親代わりのように。そうやって囲い込み、組から抜け出せなくするのだ。
長嶺組だろうが総和会だろうが、人材を集めるためにやることは、基本的に変わらない。
和彦は視線を上げると、広めの室内をゆっくりと見回す。やけに窮屈に感じるのは、部屋にいる人間の数が多いせいだ。和彦や組員たちを含めて、男ばかり十人いる。
二人ほど床に敷いたマットの上に横たわり、他の青年たちは、つらそうではあるものの、とりあえず床の上に座っている。普段はふてぶてしい面構えで、肩をいからせて歩いているであろう彼らは、一様に神妙な表情を浮かべていた。当然、和彦を恐れてのものではなく、部屋にいる組員たちが睨みを効かせているからだ。
「いちゃもんをつけられてからの、殴り合いのケンカなんて、笑い話にもなりゃしない。相手が、イキがってるだけのチンピラ崩れだったから、組の名前が出る事態にはならなかったんですけどね。……ガキとバカのケンカの後始末に、先生の手を借りることになって、こいつらの面倒を見ている身としては、なんとお詫びをすればいいのか」
「まあ、一番の重傷が少し縫合する程度の怪我で、骨折や内臓が傷つくとかの大事にならなくてよかったよ。あっ、万が一のこともあるから、あとで気分が悪くなったとか、頭が痛いとか言い出したら、さすがに病院に連れて行ってくれ」
「だったら、こいつらに対する仕置きは、一日ぐらい様子を見たほうがいいってことですね」
人の悪い笑みを浮かべての組員の言葉に、項垂れた坊主頭がますます位置を低くする。和彦は曖昧な返事をして部屋を出た。
キッチンで手を洗ってから、ジャケットに袖を通していると、組員に問われる。
「先生、夕飯はどうされますか?」
「あー、もうそんな時間か。そういえば、お腹が空いたな」
「食べたいものがあるなら、おっしゃってください。すぐに最寄の店を調べます」
「……あれこれ考えるの面倒だから、てっとり早くコンビニで――」
「先生に、休みの日にはできる限りコンビニ弁当は食べさせるなと、うちの笠野から言われているんです。それをさせるぐらいなら、本宅に連れて来てくれとも言われています」
厳しいなと、口中で呟いた和彦は苦笑を洩らす。
「じゃあ、焼き肉がいいな。一人だと寂しいから、ここにいる組員たちだけじゃなく、部屋にいる子たちも、動けるようなら誘っていいか?」
「肉が食えると聞いたら、這ってでもついて来ますよ。……明日は一日中説教で、メシも食えなくなるでしょうから、今のうちに」
傷に障らない程度にしてやってくれと、医者として和彦は控えめに忠告はしておいた。
他の組員に聞いて、歩いていける距離にいい焼き肉屋があるということで、希望通りに食事会が決定する。その場で組員たちがあっという間に打ち合わせを済ませると、和彦は安全のため車で移動することになった。大げさだとは思ったが、気遣われる立場であることは自覚しているので、口には出さない。
慌ただしく玄関から出ると、外はすっかり日が落ち、マンションの共用廊下には電気がついていた。部屋の窓には厚手のカーテンを引いたままだったので、外の様子がよくわからなかったのだ。
和彦は風の冷たさに首を竦めながら、二人の組員とともにエレベーターに乗り込む。一階に降りると、車を正面玄関まで回してくると言って組員の一人が走って行った。残った組員の隣に立ち、なんとなく、人気のない通りを眺めていた和彦だが、少し離れた場所に設置された自販機の陰で何かが動いたように感じ、目を凝らす。一瞬、気のせいかとも思ったが、そうではなかった。
何か、ではなく、明らかに人がいる。そう察したとたん、肌がざわりと粟立った。
和彦の視線の先をたどったのか、隣に立つ組員が一気に殺気立つ。素早い動きで和彦をエントランスの中へと押し込むと、次の瞬間には、弾かれたように通りへと駆け出した。
「お前、どこの者だっ」
腹に響くような怒声が聞こえ、和彦は咄嗟に体を強張らせる。ガラス扉の隅からそっと外をうかがうと、組員が、自販機の陰から人影を引きずり出しているところだった。勢い余ったように地面に倒れ込み、そこを逃さず組員が相手の襟元を掴み寄せる。
ここで、街灯の明かりに照らされて、相手の顔がはっきりと見えた。
「あっ」
声を洩らした和彦は、慌ててエントランスから飛び出し、二人に駆け寄る。気づいた組員がぎょっとしたように目を剥く。
「先生っ、中にいてくださいっ」
「違うんだっ。彼は――、その子は、ぼくの知り合いだっ」
組員がパッと手を引き、困惑したように和彦を見る。
「……知り合い、ですか? このガキと……」
和彦は頷き、組員が『ガキ』と呼んだ相手の傍らに屈み込む。こんな状況にあっても動じた様子のない切れ長の目が、じっと見つめてくる。和彦は硬い口調で問いかけた。
「こんなところで、何をしてるんだ。――加藤くん」
焼き肉屋の一角は、長嶺組関係者で占領されていた。正確には、そこに総和会関係者が一人加わっている。もちろん和彦ではなく、加藤のことだ。
隣のテーブルから、組員たちの厳しい視線をちらちらと向けられながら、和彦はせっせと網に肉をのせていく。
「ほら、焼けた肉からどんどん食べて。まだまだ入るだろう、若いんだから」
「……すみません」
向かいの席に座っている加藤がぺこりと頭を下げる。状況として仕方ないのかもしれないが、なんとも空気が重苦しい。一方、乱闘で怪我まで負った青年たちは痛々しい見た目とは裏腹に、猛烈な食欲を見せて、次々に肉を注文しては瞬く間に食べ尽くしている。苦い顔をしているのは、加藤を眺める長嶺組の組員たちだけだ。
加藤から事情を聞くため、焼き肉屋に一緒に連れてきたのだが、先生は甘いと、組員たちの顔が言っている。しかし、加藤があの場で何をしていたか聞いてしまうと、厳しい態度を取る気にはなれなかった。
「――張り切ってるんだな、第二遊撃隊での仕事」
焼けた肉を自分の皿に取ってから、和彦はぽつりと呟く。その言葉に反応して、加藤がこちらをまっすぐ見つめてきた。見る者によっては不遜と映るかもしれない目つきだが、和彦は嫌いではなかった。多弁ではないからこそ、眼差しで訴えてくるタイプなのだろうなと分析する。
元ホストで口が上手い中嶋と、どんなやり取りを交わしたうえで体の関係になったのか、性質の悪い好奇心が疼きそうになり、和彦は冷たいウーロン茶とともに腹の奥へと流し込む。
「しかし、スクーターで車を尾行って、危ないことをするんだな。だからこそ、か。……そこの組員たちの機嫌が悪いのは、あとをつけてくる君に気づかなかったからだ。君に怒っているというより、己の不甲斐なさに腹が立っている」
「……途中で、見失ったんです。道が入り組んだ場所でグルグル回っているうちに、俺の視界から車がふっと消えて。それでずっと、当てもなく走っているうちに、駐車場に停まった車を見つけました」
「それで、あの場所でずっと待っていたと?」
「佐伯先生たちが出てきたところで、今日は尾行はやめようと思っていました」
加藤を見つけたときの組員たちの剣幕を思い出すと笑い事ではないのだが、それでも和彦は、小さく声を洩らして笑ってしまう。
「ぼくの護衛につくことになるから、そのためのシミュレーションを一人でやってたって……、気合いが入りすぎだ。それに、護衛云々はまだ先の話で、今は勉強中なんだろ?」
「だから、ただあとをつけて、見ているだけのつもりで……」
「見つかったのは、予想外だったというわけか」
加藤がウソをついているとは思えなかった。せっかく第二遊撃隊に入って居場所と立場を得た青年が、和彦を襲う理由がそもそも見当たらない。蛮勇に駆られて何か企んでいたとしても、計画としてはあまりにお粗末だ。
つい加藤を庇う方向で考えてしまうのは、彼自身を無条件に信用したからではなく、中嶋と関係を持っていると聞かされたからだ。つまり和彦は、加藤を受け入れた中嶋を信用したといえる。
「――中嶋くんには連絡してあるから、多分もうすぐ来るよ」
和彦の言葉に、初めて加藤の顔に動揺の色が浮かんだ。その様子を一瞥した和彦は、焼けた肉を網の隅へと移し、今度は野菜をのせていく。
「君はまだピンとこないだろうけど、ぼくの扱いに対して、長嶺組と総和会は取り決めを交わしているんだ。連絡を取り合って、スケジュールを確認して、そうやって折り合いをつけて、無用な衝突を避けている。君の思いつきの行動は、そういう二つの組織の面子と苦労を踏みにじりかねなかったんだ」
「すみません……」
「ぼくは別に怒ってないけど、少なくとも長嶺組は、何様だと思うはずだ。君に対してだけじゃなく、第二遊撃隊、総和会、あとは――南郷さんにも。少し前まで堅気だったぼくでも、それぐらいは理解できるようになった。君は?」
加藤が固く唇を引き結び、あまり他人に説教をすることがない和彦は、言い過ぎただろうかと内心で焦る。焼けた肉を慌てて加藤のほうへと押しやった。
「ほら、食べて。今日はこのあと、何か食べられる余裕がないかもしれないから」
彼らのように、と別のテーブルで必死に肉を掻き込んでいる青年たちに目を向ける。そのときちょうど、店に飛び込んできた人物の姿に気づいた。軽く店内を見回したその人物と、いきなり目が合う。
和彦が軽く手を上げると、その動作に反応したように加藤が箸を置き、呟いた。
「中嶋さん……」
和彦たちのほうへと歩み寄ってくる中嶋は、緊張で顔を強張らせながら、加藤を見る目には明らかな怒気を滲ませていた。
和彦が電話で指示した通り、中嶋は一人でやってきたようで、そのことにとりあえず安堵する。和彦としては、加藤の行動を大げさにする気は毛頭なかった。
組員たちに頭を下げ、詫びの言葉を述べてから、中嶋がやっと和彦の傍らに立つ。
「先生――」
「とにかく、座ってくれ。目立つから」
頷いた中嶋が、加藤の隣に腰掛ける。次の瞬間、テーブルに額を擦りつけるようにして頭を下げられた。
「うちの隊の若いのが、本当にご迷惑をおかけしました。つい最近まで、組織同士のルールも関係なく好き勝手に生きてきた奴なので、と言い訳するつもりもありません。こいつの不始末は、面倒を見ていた俺の不始末です。長嶺組が求める処罰を、一緒に受けるつもりです」
いつもの中嶋らしくない硬い口調に、今の事態は自分が考えている以上に大事なのだと和彦は実感する。
どうしたものかと、困惑するしかなかった。和彦としては事を荒立てるつもりはなく、次からはせめて事前に連絡をしてくれという注意で済む類のトラブルだと思っている。しかし、この場にいる組員や中嶋の様子を見ていると、事はそう簡単ではないようだ。
「処罰については、ぼくはよくわからないから、組に任せることになると思う。だけど、君がぼくの目の前に現れなくなるのは困るから、そこはしっかりと、組に要望を伝えさせてもらう。加藤くんについても、隊に入ったばかりだというし、張り切り過ぎたうえでのことだともわかるから……、君から上手く伝えてやってほしい」
簡単な状況の説明を電話で伝えただけなので、すぐには和彦の話が理解できなかったらしい。中嶋が眉をひそめて、和彦と加藤を交互に見る。
「張り切り過ぎた、とは……?」
「ぼくのあとを尾行して、自分が護衛する状況をあれこれ考えていたらしい。黙って立ち去るつもりだったらしいけど、たまたま見つかったものだから――」
いきなり中嶋が、拳で加藤の頭を殴りつけた。驚いて目を見開く和彦の前で、中嶋は大きくため息をつき、再び頭を下げる。一拍置いて、加藤も倣った。
「……本当に、申し訳ありません」
「ぼくの立場だと、軽々しいことは言えないけど、それでも、組長のほうには穏便に済ませてほしいと頼んでみるよ。それに……、南郷さんにも」
そっと頭を上げた二人を眺めてから、和彦は別のテーブルの青年たちにも目を向ける。
「若いと、本当にいろいろと無茶をするもんだな……」
微笑ましいという表現で済まないのが、この世界の怖さなのだが――。
食事の邪魔はできないからと、中嶋が加藤の腕を掴んで立ち上がる。さすがに中嶋の強張った顔を目の当たりにしてしまうと、一緒に食べたらどうだとは誘えなかった。
二人が立ち去る姿を見送ってから、テーブルに向き直った和彦は、うっ、と声を洩らす。網の上では、焦げかけた肉と野菜が山となっていた。
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