と束縛と


- 第38話(4) -


 明日の今頃、自分は俊哉と会っているのだと、ベッドに腰掛けた和彦はぼんやりと考える。
 久しぶりの父親との対面だというのに、湧き起こるのは困惑と恐れという感情だけだ。自分勝手な行動の果て、実家に迷惑をかけていることに対する申し訳なさは、自分でも不思議なほど感じなかった。
 かつて、英俊と会うことになったとき、和彦はひたすら警戒し、委縮していた。自分の背後にあるものの存在を悟られてはいけないと、そのことだけに神経を費やしていたかもしれない。あのとき、同じ状況の相手が俊哉になったら、と考えないわけではなかったが、現実は和彦の想定を超えてしまった。
 俊哉は、何もかも知っている。鷹津が把握している範囲のことを。
 守光から、俊哉に会うよう告げられたあと、胸にじわじわと広がっていったのは、諦観だ。もし俊哉から、実家に戻るよう宣告された場合、和彦は抗う術がない。英俊にはかろうじて虚勢を張れたが、俊哉が相手では――。
 和彦はブルッと身を震わせると、ベッドを下り、落ち着きなく室内を歩き回る。
 ここは、総和会本部四階の宿泊室が並ぶ一角の、和彦のために準備されたワンルームだ。人の気配を気にせず過ごすには申し分ないスペースだが、窓の外の景色を見ることも叶わず、なんとなく自分が檻に閉じ込められた動物のような感覚に陥る。
 総和会の都合で本部に留まるのは、よくあることだ。そのこと自体に誰も――、賢吾が不審に感じることはないだろう。まさか、和彦と総和会が父子対面の準備をしているとは、考えもしないはずだ。そうでないと困る。
 賢吾を裏切っているという罪悪感に心が痛まないわけではないが、自分たちの事情に巻き込みたくなかった。
 俊哉にぶつけるのは、総和会であり、長嶺守光でなければならない。
 ひっそりと心の中で呟いたとき、ナイトテーブルの上に置いた携帯電話が鳴った。反射的に駆け寄り、携帯電話の一台を取り上げる。里見との連絡用に持っているもので、今晩話せないか、事前にメールを入れておいたのだ。
『――今、平気かな。和彦くん』
 里見の穏やかな声で呼びかけられると、和彦の感覚は高校生までの自分に戻る。甘く優しい、里見と過ごした時間に。
「ごめん、里見さん。どうしても話したいことがあって、突然メールして……」
『何言ってるんだ。電話ぐらい、気を使わずにかけてくれていいのに』
「そういうわけにはいかないよ。仕事、忙しいんだろう? それに――誰かと一緒にいるかもしれないのに」
 ふいに里見が黙り込む。しかしそれは気まずいものではなく、よく耳を澄ますと、微かな笑い声が聞こえた。
『君に話したいことがあると言われたら、わたしは何を差し置いても優先するよ。それに今晩は、もう部屋に帰っている』
「……なら、いいんだ」
 和彦はふと、里見が自宅マンションの他に、職場近くに仕事部屋としてもう一室を借りていることを思い出す。部屋というのはどちらのことなのだろうかと、少しだけ気になった。
『なんだか元気がないけど、困ったことでもあった?』
「ううん。そういうわけじゃ……」
『わたしはいつでも、君の力になるよ』
 里見と話すと、嫌でも自分の現状を振り返ることになり、なんとも苦々しい気持ちになる。だから里見と電話で直接話すのは、必要最小限に留めていたのだ。
「本当に、なんでもないんだ。ただ、教えてもらいたいことがあって」
『まあ、君のその心細そうな声を聞くと、だいたい予想はつく。実家のことで、何かあった?』
 ある程度、佐伯家の事情に通じ、そのせいで巻き込まれている里見だが、今回の件は何も知らされていないらしい。そのことに素直に安堵する。
 和彦は窓際に歩み寄り、ガラスに片手を押し当てる。
「最近の、父さんたちの様子が知りたいんだ」
『佐伯審議官――……、と、この呼び方はいい加減やめろと言われているんだった。君のお父さんとは、滅多に会う機会はないよ。相変わらず忙しいみたいだ。仕事もそうだけど、退官後のことを見据えて、いろいろと勉強されているらしい』
「ぼくのことは、何か言ってなかった?」
『特には。電話だと、仕事の話ばかりなんだ』
「だったら、ぼくの実家に誰か出入りしているなんてことは、わからないよね……」
『誰か?』
 迂闊なことを口走ったと、和彦は口元に手を遣る。咄嗟に鷹津の存在を気にしてのことだが、あの俊哉に限って、ありえない行為だった。俊哉と鷹津の繋がりは秘匿されている。万が一にも佐伯家に近寄らせるはずがない。
 自分はまだ冷静にものを考えられる状態ではないと、和彦は痛感する。
『気になるなら、直接連絡すればいいのに。自分の実家なんだから、遠慮する必要はないだろ。君の声を聞かせれば、ご両親も安心する』
「……どうかな。いっそのこと、完全に関わりを絶ったほうが――」
『それはダメだっ』
 思いがけず里見の激しい反応に、和彦は目を丸くする。
「里見さん……」
『家族ともう二度と会わないつもりか? おれとも……』
 そもそも里見とは、高校を卒業してから十三年ほど顔を合わせるどころか、連絡も取り合っていなかった。長嶺の男たちと知り合うことがなければ、そのままの状態が続いていたはずだ。里見は佐伯家の厄介な問題に巻き込まれることなく、和彦とのことも、単なる思い出になっていただろう。
 だからこそ、里見の物言いが気になった。しかし指摘してはいけないように思え、和彦はあえて違うことを口にする。
「――今、〈おれ〉って言った」
 数秒ほど、戸惑ったように沈黙した里見が、ああ、と吐息のような声を洩らした。
『仕事でもそれ以外でも、ずっと〈わたし〉で通しているから、馴染んだつもりだったけど……。君が相手だとダメだな』
「ぼくにとっては、そっちのほうが里見さんらしい」
『何があったのか話してくれたら、昔の言い方に戻すよ。和彦くんだけに』
 口ぶりは冗談めかしているが、電話の向こうで里見は真剣な顔をしているのであろうと想像できた。
「……ズルいな、その言い方」
『前に会ったとき、おれは言ったよ。大人は、ズルいんだと。きっと、大人になった君でも想像できないぐらい』
 自嘲気味に洩らした里見が、大きく息を吐き出したあと、囁きかけるような声で言った。
『また、会いたいな。君に』
 里見の声音に記憶を揺さぶられる。蘇ったのは、和彦が高校生の頃、体を重ねたあとに里見から惜しみなく与えられた、甘い睦言の数々だった。
 そんな場合ではないと頭ではわかっていながらも、顔が熱くなって冷静ではいられなくなる。里見にはまだ聞きたいことがあり、なんとか言葉を紡ごうとした和彦の耳に、電話の向こうから微かな物音が届いた。続いて、里見が発した鋭い息遣いが。明らかに里見は動揺していた。
『悪いっ、和彦くん。仕事用の携帯が鳴ってるんだ』
「あっ、うん。じゃあ、これで――」
 言葉の途中で慌ただしく電話が切られ、和彦は呆気に取られる。どうにか気を取り直してから、携帯電話の電源を切った。おそらく今夜は、電話をかけ直してくることはないだろうという気がした。里見は誤魔化そうとしていたが、部屋に誰かやってきたのだ。
 和彦は携帯電話をナイトテーブルに置くと、そのままベッドに横たわる。思わず深いため息をついていた。
 里見ほどの人物が、いまだに独身であることがそもそもおかしいのだ。穏やかで優しい人柄と恵まれた容姿をしており、元官僚のうえに現在は一流の民間シンクタンクに勤めている。四十歳を過ぎているとはいえ、つき合うには申し分ない人物だと誰もが判断するはずだ。
 だからこそ、恋人がいたところで不思議ではない。そう頭ではわかっているのに、胸の奥がチクチクと痛む。
 里見に対する意識だけは、自分はまだ高校生の頃から変わっていないと、和彦は痛感する。あの頃の里見は仕事で忙しくしながら、せっかくの休みの日であっても、ほとんどの時間を和彦のために使ってくれた。傲慢ですらあった当時の和彦は、それを当然のこととして受け止めていたのだ。
 里見の優しさに甘えすぎる癖が抜けていなかったと、自省した和彦は半ば強引に気持ちを切り替える。今はとにかく、明日を無事に切り抜けることに意識のすべてを傾けるべきだった。
 憂鬱だ、と声に出さずに呟く。憂鬱すぎて、今いる場所から逃げ出したくて堪らないが、行く場所もない。だったらせめて、自分を大事に扱ってくれる男たちを守るために、ささやかな戦いを繰り広げるしかなかった。




 俊哉と会う当日、和彦は何も知らされないまま、いつもと変わらずクリニックでの仕事を終え、総和会の迎えの車に乗り込んだ。
 和彦はともかく、俊哉の立場が立場なので、人目につかないようレストランの個室を貸し切るか、せめてホテルの一室でも取ってあるのかと思ったが、車が向かったのは意外な場所だった。
 まさかと思っているうちに、イベントホールの駐車場に入った車はエンジンを切る。
「―――……ここ、ですか?」
 困惑した声を洩らすと、助手席の男が振り返る。これまで和彦の護衛についたことのない男で、おそらく南郷が、今日のためにつけたのだろう。
「ここです。すでに周囲にはうちの者を配置してありますので、ご安心を。それと念のため、携帯は車に置いていってください」
 いまさら警察に連絡するとでも疑われているのだろうかと思いながら、和彦は急いでコートのポケットから携帯電話を取り出してシートの上に置くと、思い切って車を降りた。
 冷たい空気が頬に触れて、一気に鳥肌が立つ。肌寒さもあるが、それ以上に、これから起こることに対しての底知れない恐れが体の反応として表れたようだ。
 和彦はゆっくりと息を吐き出しながら、慎重に辺りを見回す。駐車場のスペースの半分は、車で埋まっている。ホールを出入りする人たちの姿はちらほらあり、何かイベントが催されているようだ。てっきり自分も建物に入るのだと思ったが、物陰に立つスーツ姿の男と目が合うと、こちらに来るよう促され、和彦はふらふらとついていく。
 ホールの側にレンガ敷きの歩道があり、キャラクターの描かれた看板が立っていた。どうやらまっすぐ進んだ先には広場があるらしい。歩いていけばわかるとだけ言って、男はすぐに来た道を引き返し、和彦は一人で進むことになる。
 すぐ傍らを小川が流れている。歩道は街灯で明るく照らされ、散歩やジョギングをしている人の姿もあって、心細くはなかった。
 ここを、父子の久々の対面場所に選んだのは誰なのだろうかと、歩きながらぼんやりと和彦は考える。人目につくことを何よりも避けそうなものだが、一方で、人目があるからこそ迂闊に手出しできないことを計算に入れた可能性もあった。
 二人の権力の化け物の考えることはわからないと、そっと嘆息した和彦は、何げなく視線を先に向け、ドキリとする。小川に沿うように設けられた柵の前に人が佇んでいるのだが、その立ち姿に嫌というほど見覚えがあった。背の高さも体つきも、鏡で見る和彦自身によく似ている。
 心臓の鼓動が急に速くなり、呼吸が荒くなる。じわりと手足の先から冷たくなってきた。できることなら引き返したいが、体は和彦の意に反して、まるで機械のように歩みを続ける。
 佇む人物との距離があっという間になくなる。足を止めた和彦は、父さん、と心の中で呼びかけ、向けられた横顔をじっと見つめた。
 佐伯俊哉という人物は、とっくに六十代という年齢に突入していながら、非常に若々しい外見を保っている。髪は染めているにせよ黒々としており、それが不自然に思えないほどに肌はキメが整い、皺もほとんどない。
 怜悧狡猾な気質を巧みに覆い隠すように、常ににこやかな表情を浮かべる顔は、一言で表現するなら〈美男子〉が最適だろう。老いを、深みという言葉に変えてしまう整った目鼻立ちと、それ以上の魅力を与える華やかで艶やかな雰囲気は、天性の人たらしがもたらすいわゆる魔性だ。和彦が知る限り、俊哉と相対すると誰も逆らえない。
 和彦は息も詰まるような緊迫感に耐えながら、今度は声に出して呼びかけた。
「――……父さん……」
 みっともないほど声は掠れていた。ようやく俊哉が身じろぎ、こちらを見た。向けられる柔らかな眼差しは、誰に対しても平等だ。おそらく、道端に転がった虫の死骸にすら、俊哉は同じ眼差しを向けるはずだ。
 和彦の強張った顔をじっくりと見つめて、俊哉が言った。
「お前は昔から、英俊同様、母さんの家の血がよく出た顔立ちをしている言われていたが、久しぶりに見ると、そうでもないな。どことなく、わたしに似てきた」
「……兄さんは、自分とよく似ていると言っていたけど」
「あれは、見たいものしか見ない。自分より、お前のほうがわたしに似ていると、認めたくないのだろう。頭は切れるが、ものの本質を見るということをしない。自分の目から見た判断と、他人から与えられる評価に囚われて、結果、いつまでもわたしの忠実なコピーでいようとする。傲慢にも、自分だけが佐伯俊哉の代わりになれると信じている」
 この場に英俊がいなくてよかったと思った。穏やかな口調とは裏腹の、兄に対する俊哉の厳しい評価を聞きながら、和彦は震撼する。英俊の前では、自分はどんなふうに評価されているのかと想像していた。
 英俊は、父親である俊哉を盲信している。家庭内において、和彦はあくまで異物であり、俊哉がそう扱うから、自分もそうすべきだと信じ、なおかつ和彦に痛みを与え続けた。
 しかし和彦は、幼少の頃からわかっていたのだ。俊哉は、どんなに自分を疎外し、いないものとして扱いながらも、決して見捨てることはしない――できないと。それは言い換えるなら、和彦が俊哉のもとから逃れられないということでもある。
 和彦が何も言えないでいると、俊哉は優しい笑みを浮かべた。
「英俊のことは今はいい。時間は限られている。さあ、化け狐が望んでいる通り、父子の久々の対面とやらを演じてやるか」
 ハッとして目を見開く。俊哉の言葉で、守光との間に何があったのか、自分は知りたがっていることを思い出した。
「父さんは、長嶺会長と――」
 カツンと靴音を響かせて、俊哉が歩き始める。和彦は慌ててあとを追いかけ、近くのベンチに並んで腰掛けた。このときさりげなく周囲の様子を観察したが、離れた場所からこちらをうかがう人の姿が数人ほどいた気がする。
「まずは、お前の気持ちを聞いておこう。――今一緒にいる連中のもとから離れる気はあるのか?」
 いきなり核心を突く問いかけに、和彦は体を強張らせる。異常な口中の渇きを自覚しながら、懸命に言葉を紡ぐ。
「今は、ない。向こうから、もう必要ないと言われて切り捨てられる日がくるだろうけど、少なくともそれまでは、このままでいさせてほしい……。佐伯の家に迷惑をかけているとわかっている。だから、姓を変えろというなら、ぼくは受け入れる」
「殊勝なことを言っているが、ずいぶんお前にとって都合のいい申し出だな」
 俊哉は語気を荒らげることもせず、表情もにこやかだ。
「どう思っているか知らないが、お前は佐伯家にとって……、いや、わたしにとってかけがえのない存在だ。何も知らない他人は、わたしとお前との間に確執があると勘繰っているようだ。綾香(あやか)や英俊ですら、父親であるわたしも、お前を疎んじていると思っている。だから簡単に、お前を和泉(いずみ)の家に養子に出せと言う」
 この瞬間、初めて俊哉の顔からにこやかさが消える。代わって浮かんだのは、心底不快そうな表情だった。その表情はゾッとするほど冷ややかだ。
 綾香というのは、英俊と和彦の母親の名だ。自身も仕事で多忙ながら、夫である俊哉を支え、人の出入りの多い佐伯家を取り仕切り、母親や妻という役割を完璧に務めてきた。ただ和彦は昔から、母親と会話というものを交わした記憶はほとんどない。いつでも、一方的に用件を告げてくるだけだった。
 今顔を合わせても、その態度は変わらないだろう。
 ちなみに和泉は、母親の旧姓だ。
「誰がなんと言おうが、わたしはお前を手放す気はない。――お前は、わたしが唯一、自分の人生を犠牲にする覚悟で手に入れた〈もの〉だ。身内ですら、わたしにとってのお前の存在を安易に考えている。つまりそれほど、わたしは薄情な人間だと思われているということか?」
 最後の問いかけは、和彦に対するものではなく、自身に向けられたものだ。すでに俊哉は元のにこやかな表情を浮かべており、心の内を完璧に覆い隠していた。
 俊哉が腕時計に視線を落とす。
「総和会から、お前と話せるのは三十分だけだと言われた。今日はあくまで、お前の身の安全を確認するために設けられた機会というわけだ。どうやら長嶺守光は、交渉を長引かせて、わたしからより多くの利得を得たいらしい」
「利得?」
「わたしの審議官という肩書きは、いろいろと魅力的だ。これまで培ってきた人脈もあるしな。それに退官後の天下り先も、気になるところだろう。我欲に走る男ではないと思っていたが、数十年ぶりにその認識を改めるときがきたのかもな」
「……長嶺会長と話したんだろう?」
「電話越しで話していても疲れる相手だ。徹底して腹の底まで探ってこようとしてくる。――気にはなっているんだろう。総和会や長嶺組の内情や、お前を巡る人間関係を、わたしがどこまで把握しているか。把握しているとしたら、誰がわたしに伝えたのか」
 鷹津の存在を仄めかされていると感じ、和彦は思わず俊哉のほうに身を乗り出す。口を開きかけたが、すかさず釘を刺された。
「お前はまだ、鷹津くんのことを聞かないほうがいい。知ったところで、お前が長嶺守光の目を欺けるとも思えん。奴の息子も、なかなかの人物だと聞いた。その二人から問い詰められて、鷹津くんの役割と居場所を隠し通せるか?」
 鷹津のことは知りたいが、俊哉の判断の正しさを認めざるをえない。隠せないなら、知らないほうがいい。鷹津のためにも。
 そう自分に言い聞かせる和彦の気持ちを、俊哉はたやすく翻弄してきた。
「総和会を引っ掻き回せるなら、いくらでも憎まれ役をやってやると彼は言っていた。……まあ、これぐらいは教えておこう」
 唇を引き結んだ和彦を、俊哉はおもしろそうに眺めている。表面上とはいえ、俊哉は英俊よりよほど表情が豊かだ。どういう状況で、どんな表情をすれば、他人から共感や好印象を得られるか知り抜いており、そのための労力を惜しまない。
 そんな父親の計算高さを知っているからこそ、和彦にとっては不気味なのだが。
「鷹津に、危険なことをやらせるつもりじゃ……」
 これ以上話すつもりはないと、俊哉は唇の前で人さし指を立てた。
「――お前は愚かだ。情なんてものに振り回された挙げ句に雁字搦めになり、切り捨てることもできずに深みにハマる。それほど、何人もの男に大事にされる生活は、捨て難いか?」
「そんな言い方……、やめてほしい」
「しかし愚かなりに、最低限のものは守っているようだ」
 ベンチに座り直した俊哉が、ゆっくりと辺りを見回す。さきほどから目の前の道を人が行き交っているが、俊哉の目が捉えようとしているのは、総和会の男たちだろう。楽しそうな口調でふいにこんなことを語り始めた。
「昔……、お前が生まれる前だが、長嶺守光に会った。あのときの奴は、どこかの御曹司のように見えた。行儀がよくて控えめで、話し方も品があった。会話を交わしてすぐにわかったが、当時のわたしの同期たちよりよほど頭がいいと感じた。見た目とは裏腹に、抜け目ないが、少なくともわたしの前では、極道の地金は出さなかった。わたしの抱えたトラブル処理のために、よく手を回してくれたよ。どうしてそこまでするのかと聞いたら、当時組長だった父親に命令されたと言っていた。わたしが頭を垂れて感謝したくなるほど、徹底して尽くせとな。だから遠慮なく尽くさせた」
 俊哉の口から語られる守光の話に、不思議な感覚を味わう。和彦が知っているのは、総和会会長としての守光だ。しかし俊哉の記憶にある守光は、まだ長嶺組の組長ですらない。おそらく今の和彦と変わらないか、わずかに上ぐらいの年齢だったはずだ。
「どうしてぼくに、そんな話を――……」
「わたしはあの男を恐れていないということだ。今ではずいぶん大物になっているが、人間の本質はそう変わらない。わたしは昔、長嶺守光の本質を見抜いた。もっともそれは、向こうも同じだろうがな」
「……ごめん、父さん。何を言いたいのか、よくわからない。ぼくにとっては長嶺会長は、ただ畏怖の対象だ。大事にはしてもらっているけど、怖い。逆らえない」
 ふっ、と俊哉は短く声を洩らして笑った。
「どれほどの化け物だと思っているのか知らないが、あの男も弱みがないわけじゃない。――まだ三十そこそこの、わたしと変わらない若造のくせに、妙に家に固執している男だった。長嶺という家を。いや、血というべきか」
「ああ、それは……」
 わかる、と心の中で和彦は答える。
「いざとなれば、こちらも手段を選ばない。総和会全体を相手にするのは無理だが、一つの組を弱体化させる手段ぐらいは持っている。お互い、失いたくないものはあるし、傷を負いたくもない。交渉はあくまで平和的に行うべきだと、そう化け狐に伝えておいてくれ。伝えるまでもなく、わかってはいるだろうが。結局のところ、今日会ってお前に伝えたかったのは、これだけだな」
「――父さんは、本心からぼくを取り戻したいと思っているのか? いっそのこと、厄介な存在のぼくなんていないほうが、佐伯家にとってはいいんじゃ……」
「わたしは一度でも、お前を厄介な存在などと思ったことはない。英俊はいろいろと言っていただろうが、気にするな。あれに決定権は一切ない。わたしだけが、お前の人生を決められる」
 物心ついた頃から、俊哉にはこう言われ続けていた。和彦の意思は必要ないということでもあるが、そのことに反発心を抱くこともなく、和彦は従順に従ってきた。それはきっと、自分が恵まれていると認識していたからだ。物も環境も、何もかも万全に整えられ、望む以上のものを与えられていた。
 だから俊哉の命令に従って医者となり、自分はもう俊哉の息子として、これ以上何かを望まれることはないだろうと安堵さえしながら、佐伯家の名を汚さない程度に奔放に振る舞い、満足していた。
 そんな和彦の生き方を変えてしまったのは――。
「……今の生活で、ぼくは必要とされている」
「自分を抱いてくれる男たちの、資金洗浄のためにか?」
 揶揄するわけでもなく、あくまで優しい口調で問われ、和彦は屈辱感を味わう。
「鷹津から聞いて知っているだろうから言うけど、ぼくはもう、犯罪者だ。佐伯家にいてはいけない人間になったんだ」
「〈そんなこと〉で、わたしが怯むとでも?」
 俊哉は再び腕時計に視線を落とす。
「ああ、そろそろ三十分経つな」
 そんなに話し込んでいたのかと、和彦は軽く目を見開く。久しぶりの父子の対面ということで、英俊のときのように荒んだ雰囲気になるかと思っていたが、よくも悪くも俊哉はいつも通りだ。いつでも、どんなときでも落ち着いている。
 一方の和彦は、言いたいことの何分の一も口にできなかった。俊哉を前にすると、委縮した子供になってしまうのだ。
 そんな和彦の様子を知ってか知らずか、俊哉は興味深そうに言った。
「初めてじゃないか。お前とこんなに話したのは」
「話す必要がないほど、父さんはぼくのことはなんでも一方的に決めていたから」
「責めているのか? 人並み以上のものは与えてきただろう。お前もわたしに従って、結局のところ安穏とした医者としての生活を手に入れ、満喫していた。長嶺の人間と知り合わなければ、おそらく今も。お前は結局、自分を満たしてくれる環境を与えてくれるのであれば、相手は誰だっていいんだ」
「そんなことはないっ」
 和彦が声を荒らげると、俊哉は軽く眉をひそめる。だが次の瞬間には、極上の優しい笑みを浮かべた。ただし和彦にとっては、底知れない俊哉の闇を感じる恐ろしい表情だ。
 かつて俊哉は、こんな表情を浮かべながら――。
 古い記憶が刺激され、軽い吐き気を催す。無意識に和彦は口元に手をやり、必死に実の父親から目を背けていた。
 この感覚があるから、何があっても自分は俊哉に逆らえないと思ってしまう。骨身に刻みつけられるどころか、体中に流れる血に、細胞に、俊哉への恐怖が組み込まれているのだ。だから、会いたくなかった。
「――定期的にお前と会う機会を作らせる」
 じっと考え込んでいた和彦は、何か大事なことを言われた気がして我に返る。
「えっ?」
「息子の身を案じる父親としては当然の要求だ。わたしと交渉をしたいなら、向こうも呑まざるをえないだろう」
 化け狐と腹の探り合いだと、どこか楽しげに俊哉は呟いた。
「……会いたくないというぼくの要求は、当然通らないんだろうね」
「上手く立ち回れ、和彦。今は紳士ぶっている連中だが、お前をわたしに取り上げられるかもしれないとわかった途端、どんな極道らしい手口を使ってくるかしれない。お前は野獣どもの中でがんばって、自分だけじゃなく、わたしも守るんだ。言う通りにできたら、褒美をやろう」
 このとき自分がどんな表情を浮かべたのか、和彦には自覚はなかった。ただ俊哉は短く声を洩らして笑ってから、スマートな動作で立ち上がる。和彦の目の前に立つと、スッと耳元に顔を寄せて言った。
「お前は、特別な息子だ。英俊よりも。だから、〈父さん〉が言いたいことはわかっているな?」
 和彦は震えを帯びた声で、俊哉が求める答えを口にする。
「ぼくは――」


 靴音を響かせて俊哉は去っていった。
 和彦は、魂が抜けてしまったような虚脱感に全身を支配されていた。ベンチに腰掛けたまま半ば呆然として、さきほどまでの俊哉とのやり取りを思い返す。それは苦行に近い作業だが、自分は何か重要な言葉を聞き洩らしたのではないかと、不安で仕方なかったのだ。
 やはり会うべきではなかったと、後悔を噛み締める。俊哉と話してみて痛感したが、すべてを知りながら、和彦の身柄を巡って一歩も引くつもりはない。父親としての強い情に駆られてのことという一面は確かにあるだろうが、それだけではない。そう断言できる程度には、和彦は俊哉という人物を知っていた。
 さきほど話していた口ぶりでは、和彦を通して、守光を手玉に取ろうと企んでいる節すらある。
 ゾッとして身を震わせたあとで和彦は、自分の迂闊さを口中で罵っていた。
 俊哉に直接、昔、守光との間に何があったのか尋ねようと思っていたのに、できなかったのだ。怒っている素振りを一切見せなかった俊哉に、それでも委縮してしまった。
 ほんの三十分、隣り合って話していただけなのに、和彦の精神力は限界まで消耗していた。これまで男たちに注がれてきた激しくも優しい情愛すら奪い取られたように思え、そう感じる自分に、心底恐怖する。
「……気持ち悪い……」
 再び込み上げてきた吐き気に、口元をてのひらで覆う。そこに、総和会の護衛の男がさりげなく近づいてきた。
「佐伯俊哉氏は、通りからタクシーに乗ったそうです。我々も帰りましょう」
 のろのろと頷いた和彦は立ち上がろうとしたが、体がふらついてベンチに手をつく。素早く男に片腕を取られて支えられた。
「大丈夫ですか?」
「……体が冷えたみたいで。少し気分が悪い、です……」
「でしたら、急いで車に」
 足元が覚束ない和彦は腰を抱えられるようにして、やや強引に歩かされる。駐車場で待機していた車の後部座席に乗り込むと、速やかに車は動き出した。
「これから、どこに?」
 預けていた携帯電話をコートのポケットに入れてから、和彦は問いかける。答えはわかりきったものだった。
「本部にお連れするよう、言いつけられています」
「ああ、そうか……」
 守光に、俊哉と話した内容を報告しなくてはならない。もちろん、言われたことすべてではなく、和彦が選別する必要がある。薄々察しているにせよ、鷹津と俊哉が通じていることも、隠さなくてはならないだろう。
 守光と向き合って、また神経を擦り減らすことになるのかと考えた途端、和彦は限界を迎えた。
「――今日は、マンションに戻ります」
「いえ、しかし会長から……」
「戻ります。できないというなら、ここで車を降りて、タクシーで帰ります」
 頑なに和彦が主張し続けると、ようやく本気だと悟ったらしい。助手席の男が携帯電話を取り出してどこかに連絡を取り、ぼそぼそと相談を始める。和彦はあえて聞かないようにしていた。誰から何を言われようが、自分の意志を曲げるつもりはなかったからだ。
 結局、総和会が折れることになり、車はまっすぐ自宅マンションに向かった。
 部屋まで送り届けられ、玄関のドアを閉めて一人になると、一気に体中の力が抜けた。何もしたくなかったが、明日も仕事があることを考えると、このままベッドに潜り込むわけにもいかない。
 バスタブに湯を溜めている間にスーツを着替え、食欲はなかったが、今日は朝から何も食べていないことを思い出し、仕方なく冷凍庫を覗く。気が利く長嶺組の組員は、手軽に食べられる冷凍食品も常備してくれていた。
 焼きおにぎりを温めると、これだけの食事のためにわざわざダイニングのテーブルにつく気にもなれず、キッチンの隅に置いたイスに腰掛けて、さっさと胃に収める。その後、ふらふらとバスルームに向かった。
 湯に浸かった和彦だが、到底寛げるはずもなく、今後のことを考えて胸が苦しくなった。俊哉と顔を合わせるたびに、今のような気持ちを味わわなくてはならないのだ。罪悪感に押し潰されそうになる自分の姿が容易に想像でき、行き場もないのに逃げ出したくなる。
 本当に雁字搦めだと、和彦は荒く息を吐き出す。
 和彦に何かあったとき、俊哉はまず間違いなく、総和会と長嶺守光の双方に確実なダメージを与えられる長嶺組を狙うだろう。俊哉は、ハッタリは口にしない人間だ。いつだって、口にしたことは実行してきた。
 のろのろとバスルームから出た和彦は、脱衣所でバスタオルを手にしたところで、ふと耳を澄ます。部屋の電話が鳴っていた。ここで、携帯電話の電源を切ったままにしてあることを思い出した。護衛の男から報告を受けた守光からだろうかと見当をつけたが、今夜はもう、どれだけの義務感を費やしても、誰かと話せる心境にはなれなかった。
 和彦はパジャマを着込んでから、鳴り続ける電話を無視して、ダイニングに戻る。キッチンボードの引き出しから安定剤を取り出すと、少し迷ったが、一日分の用量を超えた錠剤を口に放り込んだ。
 寝室に入ると、身を投げ出すようにしてベッドに横になる。手足を広げて、暗い天井を見上げた。とうとう俊哉と会って話したのだと、和彦は改めて事実を噛み締める。事態は唐突に急変し、明日にでもこの部屋から引きずり出される事態もありうるのだと考えると、息が止まりそうになる。
 守光のもとに身を寄せることになっても、俊哉に連れ戻されることになっても、確実に和彦を取り巻く人間関係は整理され――切り捨てられる。
「――……嫌だ」
 和彦はぽつりと呟き、横向きとなる。不安を掻き立てられる想像ばかりしてしまい、安定剤を飲んだのは間違っていなかったようだ。
 ベッドの広さがいつになく気になり、所在なく右へ左へと転がっていたが、それも長くは続かない。頭がふわふわとしてきて、安定剤がゆっくりと効き始める。
 緩やかな眠気が、不安感を遠くへと押しやってくれる。ふと和彦は、目覚まし時計のセットをしていないことを思い出し、体を起こそうとしたが、すでにもう頭が重くて動けない。なんとか頭上に腕を伸ばそうともしたが、パタリと途中で落ちてしまう。
 現実と夢の境が曖昧になり、部屋のひんやりとした空気を肌で感じていたのに、俊哉と会っていた公園の空気がやけにリアルに蘇り、同時に、和彦を取り巻く情景も変わる。ベンチで並んで俊哉と腰掛けていたかと思えば、前触れもなく場面が切り替わる。
 常に居心地の悪さが漂っていた実家の自分の部屋であったり、明るくて生活感に溢れていた里見の部屋。さらには、医者となって初めて自分で見つけて契約した部屋に、三田村が和彦との逢瀬のために借りてくれた部屋も。殺風景で寒々とした部屋の主は、鷹津だった。
 寂しい、という気持ちに胸を突き破られそうだった。これまで注がれてきた男たちの情愛に一刻も早く包み込まれたいと、本能が求めてしまう。
 そのせいなのか、夢の中で見ている情景がまた変わり、和彦はベッドの上に横たわっていた。裸で。
 背に触れるシーツの感触を認識した次の瞬間、誰かが覆い被さってきて、素肌同士が重なる。首筋に唇が這わされながら、体中をてのひらでまさぐられていた。相手の顔を見ることはできないが、愛撫の仕方に覚えがあり、誰だろうかと考えているうちに、両足の間に顔を埋められていた。
 欲望を口腔に含まれて、声を上げる。しかし、その声が和彦自身の耳に届くことはなく、ただ空気を震わせただけのような気がする。
 自分は夢を見ているのだと漠然と理解はできたが、恍惚としてしまうほど、与えられる愛撫が心地いい。和彦に対する深い愛情が伝わってくるような愛撫は、三田村を思い起こさせる。いや、三田村そのものだ。
 いつの間にかうつ伏せになり、高々と腰を上げた姿勢を取らされて、内奥を舌と指を使って解される。そのまま背後から貫かれて、和彦は喉を震わせて歓喜に鳴く。何度も力強く突き上げられて、腰から背筋にかけてじわじわと快感が這い上がってくると、大きな手に欲望を包み込まれて手荒く扱かれる。その手つきは賢吾のものだ。
 ここでふいに繋がりが解かれて再び仰向けにされると、きつく抱き締められる。和彦がおずおずと両腕を相手の背に回すと、しなやかな筋肉の感触を感じる。
 まだ若い体は熱く、余裕なく和彦を求めてくる。内奥に欲望が挿入され、ただひたすらに奥深くを突いてきながら、耳元で荒い息遣いを繰り返す。これは千尋だと思い、背を撫で回す。まだ刺青を入れる前の滑らかな肌の感触が懐かしく、いとおしい。
 次の瞬間、強い力で上体を抱き起こされ、繋がったまま相手の腰の上に座らされる。胸の突起を吸われながら、尻の肉を強く掴まれて揺さぶられる。内奥で逞しい欲望が蠢き、襞と粘膜を小刻みに擦られるたびに、和彦は声を上げて背をしならせる。思わず和彦は、こう呼びかけていた。秀、と。
 何人もの男たちが次々と入れ替わり、和彦の肌を吸い舐め、体位を変えながら内奥を犯してくる。恥知らずに足を大きく開き、和彦は男たちを求めていた。男の手を取り、柔らかな膨らみを手荒く揉みしだいてもらい、弱みを指先で苛められながら、放埓に悦びの声を上げ、絶頂に達する。
 夢の中だからこそ際限なく享楽に耽ることができるが、次第に気づくことになる。いかに快感を与えられようが、自分がまったく満たされないことに。
 和彦は、自分がどれだけ男たちに頼りきり、支えられて生活してきたのか、よく自覚している。だからこそ、今の生活を失いたくなかった。打算のみで繋がることになっても、男たちが温もりを与え続けてくれる限り。
 元の生活に戻ったときのことを想像して、人恋しさに気が狂いそうだった。でも、近いうちにそのときが訪れるかもしれない。
 嫌だ、と強く思った瞬間、左頬に衝撃が走った。心地よい夢の中から意識を引き剥がされそうになり、無意識に和彦は抗うが、今度は肩に重みが加わり、揺さぶられた。
 目を開けるより先に、口を開いて大きく息を吸い込む。もう夢の中ではなく、現実の世界だと理解した和彦は、失意に打ちひしがれながら、ゆっくりと目を開けた。
 なぜか目の前に、賢吾の顔があった。目が覚めたつもりで、自分はまだ夢の中にいるのだろうかと一瞬混乱したが、頬を撫でてくるてのひらの感触は温かく、優しい。もっとも、顔を覗き込んでくる賢吾の眼差しは険しかった。
 大蛇の潜む目だと、和彦はぼんやりと賢吾を見上げる。知らず知らずのうちに、両目から涙が溢れ出していた。賢吾はそっと眉をひそめ、痛ましげな表情を浮かべながら指先で涙を拭ってくれる。
「……ど、して……」
「携帯は電源が入ってないし、部屋の電話を鳴らしても出ねーから、何かあったんじゃないかと思ってな」
「ぼくがここに戻ったって、総和会から……?」
 強い眠気に、涙を流しながら目を閉じそうになるが、賢吾に強く頬を擦られて、なんとか意識を保つ。
「あそこの連中は、隠し事ばかりだ。そうやって、お前を俺から取り上げようとする。だから安心できない。――盗聴器を仕掛けたままにしておいて、間違いなかったな」
 そういうことかと、返事の代わりに和彦は吐息を洩らす。玄関に仕掛けられた盗聴器はしっかりとドアの開閉する音を拾い、和彦の帰宅を長嶺組に知らせたのだ。
 賢吾の抜け目のなさに口元を緩めた和彦だが、その拍子に嗚咽が洩れる。賢吾はとっくに、和彦の様子が尋常ではないことに気づいていた。
「お前の眠りが深すぎるから、仕舞ってある安定剤の残りを確認した。……いつもより多く飲んだな」
 この男に隠し事はできないと、和彦は観念した。その途端に、また涙が溢れ出てくる。
 賢吾の唇がこめかみに触れ、涙を吸い取りながら囁かれた。
「――これから本宅に連れて行く。いいな?」
 和彦は声を上げて泣き出しそうになりながら、小さく頷いた。









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