と束縛と


- 第39話(2) -


 初めて羽織った〈とんびコート〉の着心地が新鮮で、和彦は意味もなく腕を上げたり下ろしたりして、そのたびにケープがふわりと揺れる様子に見入ってしまう。
 丈の長いコート部分と、上半身を柔らかくすっぽりと覆うケープ部分の組み合わせが、妙に和彦の心をくすぐる。昔読んだ探偵小説の挿絵で、探偵が似た形のコートを着ていたことを思い出したりするのだ。
 今の和彦は、新しく仕立てられた着物姿だった。寒くなってきたということで、長着は厚みのある濃紺の生地のものとなり、その下に着込んでいる長襦袢も小物の類も一式すべて、やはり落ち着いた色合いのものを揃えられていた。
 着物に関しての知識がない自分は着せ替え人形らしく、与えられたものを身につけるだけだと思っている和彦だが、新しく仕立てられたものを見るたびに嬉しくないわけではない。やはり、心は浮き立つのだ。
 自分のために仕立てられたという感覚は特別だし、それを、忙しい男が心を砕いて調えてくれるのだから、なおさらだ。
 特に今回は――。
 形式張った外出ではないからということで、用意されたのは羽織ではなく、黒のとんびコートだった。やけに手触りがいいと思ったら、カシミヤだという。
 和彦は、地面に伸びる自分の影を見下ろしながら、もう一度腕を動かしてみる。すると、背後から抑えた笑い声が聞こえてきた。ハッとして振り返ると、賢吾と千尋が並んで立って笑っている。
 賢吾はいつものようにスーツ姿だが、その上から珍しくレザーコートを羽織っており、一方の千尋は細身のジーンズに、きっちりと前を留めたミリタリーコートという出で立ちだ。三人並ぶと見事に統一感がないが、賢吾と千尋は意に介していないようだ。
「――ずいぶん、そのコートが気に入ったようだな」
 賢吾の言葉に、和彦の頬は熱くなってくる。はしゃいだ姿をさんざん披露しておいて、否定するのも大人げない。渋々頷いた。
「こういう型のコートは初めて着たんだ」
「冬用の着物一揃いを見立ててもらっていて、こういうのもシャレていいんじゃないかと勧められてな。一目見て、先生が羽織っているところを見たいと思った。実際、よく似合っている」
「それは……、ありがとう」
 和彦がぼそぼそと応じると、父子がまた笑い声を洩らした。
 さりげなく千尋が隣にやってきて、鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌な面持ちで和彦の姿を眺める。
「ようやく、先生の着物姿をじっくりと見ることができた。眩しくて目が潰れそう」
「何言ってるんだ……。って、ああ、そういえば、お前とは――」
 これまで、着物を身につけて連れ出された際、そのどれにも千尋が同行することはなかった。せいぜいが、本宅で着つけの練習をしているときに、こっそり覗きにきたぐらいだ。しかも和彦が恥ずかしがって、すぐに追い出してしまった。
 悪いことをしたとひとまず謝るべきだろうかと考えていると、千尋がこんな提案をしてくる。
「ねえ、写真撮っていい?」
「嫌だ。だいたいここで撮るのは変だろ」
 和彦と長嶺の男二人――と、護衛の組員たちが今いるのは、駐車場だった。それなりに広い駐車場なのだが、ほぼ満車に近い状態で、さきほどからひっきりなしに車が出入りしている。
「みんな、この時期に考えることは同じだ」
 和彦と同じく駐車場を見回した賢吾が、笑いながらこう洩らしてから、さらに一言付け加えた。
「俺もだがな」
 どんな顔をして応じればいいのかわからず、とりあえず和彦はもう一度、腕を動かしてケープを揺らす。
 賢吾と千尋が気をつかってくれているのは、何日も本宅に滞在しながら、肌で感じていた。俊哉と対面し、さらに守光に報告をしたあと、和彦は寝込んでしまった。熱が出たわけでもないのだが、体に力が入らず、起き上がれなくなったのだ。心身の緊張と疲労が限界にきていたのは明白で、不本意ながらクリニックを一日だけとはいえ休診せざるをえなかった。
 体調が戻ったあとは、ここぞとばかりに父子だけではなく、長嶺組の組員たちに世話を焼かれ、まさにぬるま湯に浸かったような生活を送っている。最初は、いつ俊哉から連絡が入るだろうかと警戒していた和彦だが、次第に肩から力が抜け、現状を冷静に考えられる程度には心身は復調した。
 それを待っていたように、昨夜、千尋から切り出された。紅葉狩りに行こう、と。
 和彦の気分転換を目的にしているのだとすぐに察し、あまり気をつかわないでくれと言ったのだが、そこに賢吾まで加わり、甘やかすような口調で説得されると、抗える術はない。
 新しく仕立てられた着物を身につけ、こうして目的地にやってきたというわけだ。
「――ここには、前にも来たことがある」
 賢吾の手が背にかかり、促されるまま歩き出す。護衛の組員たちは、いつもより心もち距離を置いて背後からついてくる。
「昔の男とか?」
 澄ました顔で賢吾に返され、一拍置いてから和彦は足早に先を行こうとしたが、肩を掴まれ止められた。
「冗談だ、先生。去年の梅雨時、俺が見舞いに行っている間、先生に一人で観光させたときのことだろう」
 賢吾の言葉に反応したのは、千尋だった。ピクンと体を震わせると、すぐに和彦に詰め寄ってくる。
「それ、覚えてるっ。俺に内緒でオヤジと出かけたと思ったら、泊まりで温泉に入ってくるって先生が電話してきた」
「……出かけたというか、連れ出されたんだ。それに、急に予定を変えて、泊まることになって……」
 和彦は組員とともに車で観光地巡りのようなことはしたのだが、雨が降っており、車中からは景色がよく見えなかった。今いる場所も、車で通り過ぎただけだ。
 あれからもう一年半近く経ったのかと、少しだけ感慨深さに浸っていたが、横から賢吾が余計なことを言う。
「あのときは、楽しかったな。雨が降って鬱陶しいと思ったが、あれはあれで風情があった。俺と先生、雨音が聞こえる宿でしっぽりと――」
 思わせぶりに言葉を切った賢吾が、ニヤリと千尋に笑いかける。当然、千尋が目を吊り上げてムキになる。
「ムカつくっ。いっつも、先生を勝手に連れ出しやがって。確か、二人で花見に行ったときも、一泊してただろ」
「悔しかったら、お前もとっておきの場所を見つけて、先生をエスコートするぐらいのことをやってみろ。ああ、俺から小遣いをもらってる身じゃ、まだ無理か」
「俺だって働いてるんだから、正当な報酬だっ」
 自分を間に挟んでの父子のやり取りに、嘆息した和彦は心の中で呟く。二人とも大人げないと。
 それとも、深刻な雰囲気にならないよう示し合わせているのかもしれない。和彦は横目でちらりと賢吾を一瞥する。狙っていたようなタイミングで目が合い、薄い笑みを向けられた。
「せっかくだから、同じ宿を取っておいた」
「……前に泊まった宿のことか?」
「観光シーズンだし、今日は天気もいいから、あの周辺は人は多いだろうがな。それはそれで、いいんじゃねーかと思ったんだ」
 どうだ、と問うように賢吾がわずかに首を傾ける。ここまで甘やかされて拒否できるはずもなく、和彦は頷く。すると今度は千尋に腕を突かれた。何事かと隣を見ると、千尋はやけに難しい顔をして言った。
「先生、このコートだと、腕を組みにくい……」
「組まなくていいだろっ」
 そんなやり取りを交わしながら駐車場を出て歩いているうちに、賢吾がどうしてこの場所を選んだのか、その理由がわかった。
 少し歩いただけで、燃え盛る炎を思わせる紅葉が視界に飛び込んでくる。ところどころ銀杏も見え、こちらは陽射しを受けて、黄金色に輝いているようだ。雲一つない澄んだ青空との、色彩の強烈なコントラストに和彦は感嘆するしかない。梅雨時に通りかかったときには、想像すらできなかった光景だ。
 草履を履いているにもかかわらず、知らず知らずのうちに歩調を速め、紅葉の並木道までやってくる。足元に視線を向けると、落ちた紅葉が敷石の上を赤く彩っていた。
 さすがに並木道では、頭上を見上げる人々の足取りは自然とゆっくりとなり、あるいは写真を撮るため立ち止まったりするので、ちょっとした渋滞となっている。おかげで、先を歩いていた和彦に、すぐに長嶺の男たちが追いついた。
「先生が転ぶんじゃないかって、後ろから見ていてヒヤヒヤした」
 妙にまじめな顔をして千尋が言い、賢吾が同意して頷く。
「……失敬な」
 そう呟いたそばから、カメラを構えた通行人とぶつかりそうになったが、すかさず賢吾に肩を抱かれて事なきを得る。どうだ、と言いたげにニヤリと笑いかけられて、和彦はぼそぼそと礼を言った。
 混んでいた並木道を抜けて、さらに進んでいくと橋に差しかかる。ここも撮影スポットになっているようで、欄干の前に人が鈴なりとなり、橋から並木道の紅葉の写真を撮っている。
「陽の下できれいなものを見ようと思ったら、どうしたって人混みは避けられないな」
 賢吾の言葉に、和彦はちらりと笑みをこぼす。
「こういうのもいいけどな。自分が人並みのことをしていると実感できる。なのに隣にいるのはヤクザの組長と、その跡目で、変な感じだけど」
「まったくだな。俺も、先生がいなきゃ、好んで人が多いところに行こうなんざ考えもしなかった。――まあ、新しい着物を着せて、こうして連れ出して、先生の機嫌を取ろうと必死ってことだ」
 賢吾の優しい表情に、急に気恥かしさに襲われた和彦が視線を背けると、今度は、真剣な顔でこちらを見つめている千尋と目が合った。
 いつになく鋭い眼差しに和彦がまず感じたのは、千尋が変わりつつあるということだった。背に刺青を入れたことによって、千尋は身の内に物騒な何かを飼い始めたのかもしれない。
 危惧と呼べるほど物騒ではなく、むしろ甘い予感めいたものに和彦がそっと息を詰めると、ケープの下に千尋が手を入れてくる。驚いて目を丸くすると、素早く手首を掴まれた。
「先生、あそこから川のほうに下りられるみたい。行ってみよう」
 返事をする前に引っ張られ、勢いに圧されるように和彦は千尋についていく。
 橋の近くになだらかな坂道があり、そこから河原へと下りられるようになっている。さすがに河原には大小の石が転がっているため草履で歩くわけにはいかず、その手前で立ち止まる。千尋が名残惜しそうに手を離した。
 冷たい風が川を渡ってくるのもお構いなしで、河原にも人の姿がちらほらとある。子供は石を投げて遊んでいるが、大半の人の目的は、紅葉と川という組み合わせのようだ。少し遠くに見える山は、紅葉の赤だけではなく、緑や橙、さまざまな色をまとってまるで絵のように美しい。
 和彦は目を細めながら、ケープから両手を出す。頬だけではなく、指先でも空気の冷たさを感じた。
「やっぱりこの辺りは寒さが違うな。十一月に入ったばかりとは思えない」
 陽射しもあるため、歩いているうちに暑くなってくるのではないかと思っていたが、余計な心配だったようだ。むしろ、いくらか厚着をしているおかげで、寒さを防げていたのだと実感する。和彦の格好を見立てたのは賢吾で、何もかも万全だと感心するしかない。
 ふと視線を感じて隣を向く。案の定、千尋は和彦を見ていた。せっかく紅葉狩りに来たというのに、さきほどから千尋の目に鮮やかな紅葉は映っているのだろうかと心配になってくる。
「――ぼくはここにいるから、川の近くまで行ってみたらどうだ」
「別に、いいよ」
「だったらどうして、ここまで下りてきたんだ?」
 問いかけに対して、千尋の視線が橋へと動く。欄干にもたれかかった賢吾がこちらを見ていた。
「先生とオヤジがイチャついてたから、ちょっと邪魔してやりたくなった」
「してなかっただろ……」
「気づいてなかったのは本人だけってね」
 向けられた千尋の横顔は、拗ねた子供そのものだった。機嫌を取ったほうがいいのか、変なことを言うなと叱ったほうがいいのかと迷ったのは一瞬だ。和彦は、ぐいっと千尋の腕を取って引っ張る。
「千尋、熱いお茶が飲みたい」
「えっ、あー、奥に続く道の途中で、茶屋が出てるみたい。でも、きっと混んでるよ」
「そうだろうな。でも、少しぐらい待ってもいいじゃないか。急ぐわけでもないんだから。――なんなら、ぼく一人で行くけど」
 千尋は考える素振りを見せたあと、にんまりと笑った。
「仕方ないなー。先生のわがままにつき合ってあげるよ」
 跳ねるような足取りで先を歩き始めた千尋だが、すぐに慌てて引き返してくると、ぎこちなく和彦の背に手をやる。勾配が緩やかとはいえ坂を上るということで、気遣っているらしい。
 和彦は顔を伏せると、込み上げてくる笑いを必死に押し殺した。


 紅葉を堪能してから、宿がある温泉街に移動すると、ここで父子とは一旦別行動となった。この辺り一帯を縄張りとしている組の組長と連絡が取れたということで、急遽、顔を見せることになったのだという。
 前に、長嶺組と昵懇だと話していた組のことだろうなと見当をつけ、和彦は二人を見送った。
 その後、まっすぐ宿には向かわず、護衛の組員を伴って、そのまま温泉街を歩いて見て回る。紅葉の名所が近くにあり、土曜日ということもあってにぎわっているが、それでもどこか落ち着いた雰囲気が漂い、土産物屋を覗いたりして、のんびりと過ごすことができた。
 夕方前には父子と再び合流し、今度は千尋と二人で、宿の周囲を散策した。元気だなと、どちらに向けての言葉か、そう言って賢吾は笑っていた。
 宿に戻ってから、浴衣に着替えて大広間で夕食をとったあと、和彦は前回同様、大浴場での入浴をゆっくりと堪能する。
 冷たいお茶のペットボトルを抱えて部屋に戻ったとき、廊下に組員が一人立っていた。他の組員は、賢吾と千尋にそれぞれついているという。
「千尋さんは家族風呂に行かれていて、組長は少し外に出られています」
「外?」
「今日お会いになった方の口から、組長がここに滞在していると他の方に伝わったようです。それで、どうしても挨拶をしたいとおっしゃられて、組長も無碍にはできなくて……」
「……組長も大変だな。威張っているだけじゃダメなんだから」
 和彦の率直な感想に、組員はなんともいえない表情を浮かべた。
 部屋に入ると、すでに三組の布団が延べられていた。別の階の、賢吾の名で取られた部屋には、一組の布団が延べられているはずだ。当の賢吾は、どちらの部屋で休むつもりなのかは知らないが――。
 風呂上がりで火照っているせいばかりではなく、別のものによって和彦の顔がさらに熱くなる。
 着込んでいた丹前を脱ぐと、お茶を一口飲んでから窓に歩み寄る。まだ宵の口といえる時間のため、通りは街灯や店先の明かりで照らされており、昼間ほどではないが人が行き交っている。中には、浴衣に丹前姿の人もあり、それがいかにも温泉街らしい。
 今の自分は寛いでいるなと、ふと和彦は実感する。今日一日、実家のことをまったく思い出さなかったのが、その証拠だ。本宅を出るとき、賢吾に言われて携帯電話を置いてきたことも関係あるだろう。
 知らない顔をしていれば通り過ぎる嵐ではない。相手が父親だからこそ、きちんと向き合い、なんらかの対処をしなければならないし、話はもう個人レベルではなく、家同士の問題となっている。和彦をオンナにしている限り、賢吾も難しい判断を迫られるのは明らかだ。
 寸前まで、寛いでいると実感していたはずなのに、すでにもう、自分が厄介な存在であるという現実に胸を塞がれている。惜しみなく与えられる、男たちからの情愛に報いたいという気持ちがあるからこそ、どうにかしたいと足掻きたくなる。
 ふっと息を吐き出した次の瞬間、窓ガラスに反射して映る自分以外の人影に気づく。慌てて振り返ると、浴衣姿の千尋が立っていた。
「風呂に入ってきたのか?」
 笑みをこぼして和彦が尋ねると、頷いた千尋が側にやってくる。
「入った。ほかほかだよ。……先生も、一緒に入ればよかったのに」
「せっかくの機会だから、やっぱり大きい風呂のほうを選ぶんだよ」
 言うまでもなく、千尋の背には大きな刺青が入っているため、貸切にでもしない限り大浴場には入れない。些細なことだが、千尋はもう普通の生き方ができる青年ではないのだと、改めて実感する。
 再び窓の外に目を向けていると、肩に腕が回される。自分で言った通り、浴衣を通して千尋の高い体温が伝わってくる。一方の千尋も、同じことを感じたらしい。
「先生もしっかり温まってきたんだね。体、ほかほか」
 千尋の表現がなんだかおかしくて、つい声を洩らして笑うと、ため息交じりに言われた。
「ほっとする。先生がここにいることに」
「何言ってるんだ。もう何日も、本宅でも顔を合わせてるだろ」
「でも、ピリピリしてた。今は違う。顔つきが穏やか……元に戻った」
 ハッとした和彦は、思わず千尋に目を向ける。紅葉を見ながら、子供のように拗ねた表情を浮かべていた青年は、今は大人びた静かな表情を湛えている。
「……ずっと、気をつかってくれていたんだな」
 本宅で過ごす間、千尋は同じ布団に潜り込んではきても、和彦を求めてくることはなかった。それは、賢吾も同じだ。父子揃って、和彦の精神状態が落ち着き、気持ちが解れてくるのを待っていたのだ。いつも、和彦が塞ぎ込んだときにそうしていたように。
「そんないいものじゃないよ。先生が実家に戻ると言い出すんじゃないかって、見張ってたんだから」
「ぼくが、実家に戻るって……」
「先生、優しいだろ。ときどき腹が立つほど。――俺だってわかるよ。先生が、俺やオヤジに迷惑をかけたくないとか考えて、大事なことを一人で抱え込んでたことぐらい。先生が泣きながら寝てる姿を、隣で見てたんだから」
 肩にかかった千尋の手にぐっと力が加わる。
「俺、大丈夫だから。何があっても、先生を責めたりしないし、迷惑だなんて思わない。……そんな権利もないしさ。ただ、先生に側にいてほしいんだ。どこにも行かないでほしい」
「千尋……」
「カッコいいこと言って、今の俺じゃ、難しいことはオヤジに丸投するしかないんだけど。まだまだ俺は、ガキだ。先生に犬っころみたいに甘えることしかできない」
 卑屈さもなくこんなことを言えるのが、千尋の美点だ。生まれた頃から、組を背負う長嶺の男たちを見てきて培ったものが、確固たる芯となって千尋の中にはある。きっと将来、千尋もあの怖い男たちのようになるのだ。
 和彦はちらりと笑みを浮かべると、千尋の頬を軽く抓り上げる。
「あまり急いで、組長みたいになられても困る。――演技だとしても、お前の屈託のなさと明るさに、ぼくはほっとするんだ」
 千尋は何か言いかけたあと、きゅっと唇を引き結ぶ。片手で和彦の肩を抱いたまま顔を近づけてきたので、意図を察して慌てて頭を引く。
「外から見えるっ……」
「見えないよ。見えたとしても、湯に浸かってのぼせた恋人同士が盛り上がってるなー、ぐらいにしか思われないよ」
「それが恥ずかしいんだろっ」
「……相変わらず、妙なところでモラリストだよね、先生」
「その言い方だと、妙なところ以外はインモラリストってことにならないか……」
 違うの? と真顔で千尋に問われ、今度は力を入れて頬を抓り上げてやった。
 肩にかかった手を押し退けてカーテンを閉めると、布団を敷いた部屋へと戻る。すると、背後から近づいてきた千尋に飛びつかれ、和彦は布団の上に倒れ込んだ。のしかかってきた千尋が真上から顔を覗き込んできたかと思うと、首筋に鼻先を擦りつけてくる。
「犬みたいだな、お前」
 さりげなく千尋の肩を押し上げようとした和彦だが、びくともしない。一見ふざけているようで、しっかりと押さえ込みにかかっているのだ。
 和彦は、浴衣に包まれた千尋の背に両腕を回し、てのひらでさすってやる。
「――……心配しなくても、ぼくは実家に戻るつもりはない。ただ、そうは言ってもすぐには諦めてくれそうにないから、時間を稼ぎながら、わかってもらうしかないんだけどな。それとも、会長が上手く交渉をしてくれるか……」
「わかってくれそうなの?」
「難しいな。昔から、子供の意見を聞き入れてくれたことのない人だ。なんでも、思う通りにぼくを動かしてきた。ぼくも、逆らわなかったし。……正直、今のようなぼくは佐伯家に必要ないと言って、縁を切られるんじゃないかと、少しだけ希望を持っていた。でも、父さんに久しぶりに会って、その気はまったくないんだと思い知った。よくも悪くも、ぼくは〈大事〉にされている。佐伯俊哉の息子として」
「それでも、戻るつもりはないと言い切るんだ」
 千尋がまっすぐな眼差しを向けてくるのは、和彦の胸の内を探るためだ。少しでも気持ちが揺れていないか、里心が出ていないかと。不安だからではなく、強い執着心ゆえだ。
 和彦は自分に向けられる執着心に、快感にも似たものを感じてしまう。
「戻らない。ここにいたいんだ」
 現金なほどパッと表情を輝かせた千尋だったが、目を細めた和彦が優しく髪を梳いてやると、すぐに引き締まった顔つきとなる。
「先生、お願いがあるんだけど」
「なんだ」
「これから先生のこと、名前で呼びたい」
 そんなことかと拍子抜けした和彦は、微苦笑を浮かべる。
「前にもお前、ぼくを名前で呼んでいたじゃないか。なんでいまさら改まって――」
「あのときはっ……、勢いっていうか、その場限りのつもりだった。今、俺がお願いしてるのは、これから先もずっと、先生を名前で呼びたいってこと。……最近のオヤジ、話していてときどきポロッと洩らすときがあるんだよ。『和彦』って。それを聞いて、羨ましいなあって」
 千尋は真剣だ。こういうことでも父親である賢吾と張り合うのだなと思ったら、もう笑うことはできなかった。
 和彦が黙り込んでいると、千尋の眼差しが不安に揺れ、捨てられた子犬のような表情で小首まで傾げる。
「……ダメ?」
「お前、寸前までの強気な発言はなんだったんだ。――名前なんて、好きに呼べばいいだろ。自分の名前を呼ばれて嫌なはずがないんだから」
 次の瞬間、千尋が抱きついてくる。そして耳元で呼ばれた。
「和彦」
 改まって名を呼ばれると、気恥かしいものがある。くすぐったさもあって和彦は首を竦めたが、かまわず千尋は何度も名を呼びながら、耳に唇を押し当ててきた。熱い吐息を注ぎ込まれて、鳥肌が立ちそうになる。
 千尋は、名を呼ぶだけで満足するつもりはないらしく、和彦の腰の辺りに手を這わせてきたかと思うと、帯を解き始めた。反射的にその手を止めようとしたが、途端にぐっと腰を押しつけられる。
「……呆れた。名前を呼んでいるだけなのに、どうしてもう興奮してるんだ」
「それはもう、先生――じゃなくて、和彦が大好きだから」
 きっぱりと言い切った千尋に浴衣の裾をたくし上げられ、露わになった腿を忙しい手つきでまさぐられる。下着に手をかけられたところで顔を覗き込まれた。
 見つめ合ったまま唇を重ね、すぐに余裕なく舌先で互いをまさぐり合う。和彦は自ら腰を浮かせると、下着を脱がせてもらう。千尋ももぞもぞと体を動かしたあと、和彦の両足の間に腰を割込りませてきたが、直に擦りつけられた欲望は、熱くなっていた。
 千尋の直情さは厄介だ。努めて冷静に、年上らしく余裕を持って接したいのだが、簡単に煽られてしまう。
「千尋、千尋っ……」
 和彦は、千尋が着ている浴衣を握り締めながら、あまり慌てるなと宥めようとするが、すでにもう歯止めを失いかけている千尋には無駄だ。荒く息を吐き出して、和彦の首筋に歯を立ててきた。
 ギリギリのところで力を加減しており、血が滲むようなことにはならないが、じわりと痛みが走る。ただしその痛みは、肉欲の疼きを伴っている。千尋の後ろ髪を掴んで和彦は訴えた。
「痛いのは嫌だ」
「ごめん。……痛かった?」
 ベロリと首筋を舐め上げた千尋が、今度は機嫌を取るように柔らかく吸いついてくる。浴衣を脱がされ、肩先を愛しげに撫でられて、和彦は揺れる茶色の髪を見つめる。人懐こい大きな犬に乗りかかられているようだと思ったが、千尋のプライドを慮り、この状況で声に出しては言わない。
 手を伸ばし、千尋の浴衣の帯を解いてやると、待ちかねていたように一気に浴衣を脱ぎ捨てた。向けられる期待を込めた眼差しの意味を、即座に和彦は解する。思わせぶりにゆっくりと、千尋の背に両手を這わせてやると、それだけで若々しい体がブルッと震えた。
「俺の背中の絵は、和彦だけのものだから。この先ずっと、誰にも触らせない」
 若い肌は、刺青を入れたあとでも元の滑らかさを取り戻そうとしているのか、ざらつきは少し治まっているようだ。こんな変化を知ることができるのも、ある意味、特権なのかもしれない。
「――お前が初めて刺青を見せてくれたとき、ぼくに言った言葉を覚えているけど、すごいな、お前は。この先、心変わりがあるかもしれないって、全然疑ってないんだな」
「和彦が俺のことを、嫌いになるかもしれないってこと?」
「反対だ。お前がぼくのことを、ということだ。どうして断言できるのか、本当に不思議なんだ」
 和彦の言葉に、ムッとしたように千尋が眉をひそめる。
「俺の告白を真剣に受け止めてない?」
「受け止めているから、そう思う。……客観的に見て、お前は魅力的だから、この先もぼくが独占できるとは思えない」
 十歳も年下の青年に、こんなことを告げるのはひどく勇気を必要とする。それでも言わずにはいられなかったのは、やはり千尋の、そして長嶺組の将来を思うからだ。
 和彦の安穏とした人生設計を狂わせた存在が、今の和彦を丸ごと抱えて大事にしてくれている。そのことに和彦は居心地のよさを感じているからこそ、やはり〈彼ら〉を大事にしたいのだ。
 こちらの胸の内を知ってか知らずか、にんまりと笑った千尋がいきなり顔中に唇を押し当てきた。
「今の、愛の告白だよね?」
「……どうかな」
「照れ屋だなー」
 興奮を堪え切れなくなったように千尋に唇を塞がれる。貪るように激しく唇を吸われてから、無遠慮に口腔に舌が差し込まれて、口腔を舐め回される。和彦はその勢いに圧倒されながらも、懸命に千尋に応えようとする。差し出した舌を絡め合い、千尋の唇を丹念に吸ってやると、もどかしげに腰を擦りつけられた。
 今すぐにでも繋がりたいとばかりに、千尋に片足を担ぎ上げられる。さすがに焦った和彦は、慌てて千尋の顔を押し退けて、もう一度念を押した。
「痛いのは、嫌だからな」
「じゃあ、痛くならないように――」
 今度は膝を掴まれて足を大きく左右に開かれる。秘められた部分をすべて曝け出した格好を取らされ、慣れない羞恥に和彦は身じろごうとしたが、千尋が嬉々とした様子で内腿に顔を寄せた。
「動かないでね」
 熱い唇が肌に触れ、濡れた舌にちろりと舐められる。さらに、慎重に歯を立てられた。痛みはないが、歯の感触にゾクゾクするような感覚が腰を這い上がり、和彦は動けなくなる。それをいいことに、千尋の手が敏感な部分をまさぐり始めた。
 柔らかく欲望を握り締められて、そっと息を詰める。千尋は上目遣いに和彦の反応をうかがいながら、内腿に愛撫の痕跡をいくつも散らし、欲望を緩く扱く。
 うねるような情欲の高まりに、体中が熱を帯びていく。千尋の頭が深く潜り込んできて、際どい部分に荒い息がかかる。無意識に和彦の腰は逃げそうになるが、低く笑い声を洩らした千尋に、欲望の根元を指の輪で締め付けられた。
「ダメだよ、逃げちゃ。これから、和彦に気持ちいいことしてあげるんだから」
 身を起こしかけた欲望の先端を舌先でくすぐられて、思わず和彦は細い声を洩らす。次の瞬間には括れまでを口腔に含まれ、ねっとりと舌がまとわりついてきた。
「うっ、うぅっ……」
 爪先を突っ張らせながら、ビクビクと腰を震わせる。千尋は、和彦の理性を性急に突き崩すように、今度は柔らかな膨らみをてのひらで包み込むように触れて、揉みしだき始める。和彦は布団の上で大きく仰け反り、脱がされた浴衣を咄嗟に握り締めていた。
 千尋もまた、他の長嶺の男同様、和彦の体を知り抜いている。容赦なく弱みを指先で攻めながら、欲望を口腔深くまで含み、吸引してくる。和彦は腰を揺らし、間欠的に悦びの声を上げる。
「あうっ、うっ、んんっ」
 和彦の反応に貪欲な千尋は、柔らかな膨らみすらも口腔で愛撫したあと、舌先をさらに奥へと這わせてきた。
「足、自分で抱えてて。もっと気持ちよくしてあげるから」
 興奮気味に掠れた声でそう言った千尋が、一度だけ視線を上げる。獣じみた鋭い視線に、和彦は逆らえなかった。自分の両膝に手をかけ、千尋にすべてがよく見える姿勢を取り続ける。
 愛撫を期待してすでにひくついている内奥の入り口に、温かく濡れた感触が触れる。この瞬間、和彦はピクンと爪先を揺らし、短く息を吐き出した。
 執拗に内奥の入り口を舐められ、ときおり舌先を潜り込まされると、理性が溶けていくのに比例するように、柔らかく解れていく。
「ふっ……」
 指を挿入されて、唾液を擦り込むようにゆっくりと出し入れされる。和彦が痛みを訴えないとわかると、即座に指の数が増やされた。
 襞と粘膜を優しく擦られているうちに、息が弾む。ようやく顔を上げた千尋は、自分の愛撫の成果を満足げに見下ろし、目を細めたあと、舌舐めずりした。その表情に、和彦の中で淫らな衝動がゾロリと蠢く。
「――今、中、すごく締まった。気持ちいい?」
「そんなこと、聞く、な……」
「えー、聞きたいな。和彦の口から、気持ちいい、って」
 千尋に名を呼ばれるのは、そうすぐに慣れるものではない。いつもの千尋とは違っており、耳に新鮮だ。気恥ずかしくもあるが、もっと聞きたくもある。和彦が顔を背けて息を喘がせていると、ぐうっと指が深く突き込まれる。返事を求めているのだ。
「言わなくても、わかるだろっ……」
「うん。でも聞きたい」
 和彦が睨みつけると、千尋はしたたかな笑みを浮かべながら、見せつけるように己の欲望を軽く扱く。すでに十分高ぶり、逞しく反り返っていた。
 千尋が内奥を掻き回すように指を動かし、湿った音が和彦の耳にも届く。浅い部分を執拗に擦られ、押し上げられ、広げるように圧迫されると、堪らなくなった。無意識に腰を揺らし、必死に内奥を収縮させて、強い刺激を求めてしまう。すかさず指が引き抜かれ、熱く硬い感触が擦りつけられた。
「和彦、言って」
 欲望の先端に、内奥の入り口を押し広げられる。わずかに生まれた異物感は、あっという間に肉の愉悦へと姿を変え、和彦は喉を震わせる。
「……早く、入れてくれ」
 大胆、と笑いながら言った千尋が、すぐに表情を引き締める。同時に、内奥を逞しい感触に押し広げられた。
 千尋が腰を揺らすたびに、欲望が挿入されてくる。指では届かなかった場所すら容赦なくこじ開けられて、さすがに和彦は苦痛の呻きを洩らしたが、自分の上で動くしなやかな体の感触と熱さに圧倒され、制止の声を上げることすらできない。
 本当に魅力的な男なのだ――。
 ぼんやりと千尋を見上げながら、そんなことを和彦は思う。長嶺の男らしい端整な容貌は、まだいくらか線の細さを感じさせはするが、それもあとわずかな間だろう。汗を浮かせ、眉をひそめた表情は野生的で、ゾクリとするような男らしさを匂わせている。
 和彦が向ける眼差しに気づいたのか、千尋が唇の端にちらりと笑みを浮かべた。
「どうかした? すげー不思議そうに、俺のこと見てる」
「イイ男だと思って。それに、色気がある」
「だったら、ずっと俺に惚れていてね。もっとイイ男になるから」
「……殊勝なこと言ってるようで、すごい自信家だよな、お前」
「長嶺の男だから」
 腰を突き上げられて、内奥深くにまで熱い塊が到達する。ぐっ、ぐっと力強く律動を繰り返されているうちに、和彦の体はふてぶてしい侵入者に馴染み、それどころか嬉々として奉仕し始める。千尋のものをきつく締め付けながら、多淫な襞と粘膜で包み込む。
 千尋が小さく声を洩らした。
「それ、いいっ……」
 乱暴に腰を打ちつけられて、それが和彦の官能を刺激した。
「あっ、あっ、はっ……ん、ああっ――」
 上体を捩るようにして悶えると、嬉しそうに目を輝かせた千尋が顔を寄せてくる。深く重ねた唇を貪るように吸い合っていると、千尋が腰を引き、内奥から欲望を抜いていく。
「ふあっ……」
 甲高い声を上げて和彦は絶頂に達し、下腹部にトロトロと精を滴らせる。一度上体を起こした千尋が、じっくりと和彦の痴態を見下ろしながら、濡れた下腹部を撫で、まだ身を起こしている和彦の欲望を軽く扱く。和彦は思わず甘い声で鳴いていた。
「本当に、いやらしいよなー。俺のオンナは」
 再び覆い被さってきた千尋の背に両腕を回したところで、異変を感じた。傍らを見上げると、いつからそこにいたのか、浴衣姿の賢吾が立っていた。和彦と目が合うなり、ニヤリと笑った賢吾がその場に腰を下ろす。
「驚いてるな、先生。俺がしばらく戻らないと思ったか? 早々に用を切り上げるのに苦労したんだぜ」
 話しかけられ、応じようとした和彦だが、千尋にあごを掴まれて有無を言わせず唇を吸われていた。
 強引な口づけで、今は自分だけを見ろと千尋が訴えてくる。賢吾の存在を意識しながらも、和彦はおずおずと口づけに応え、舌を絡め合う。繋がった下肢では、しっかりと千尋の欲望を感じていた。突然の賢吾の登場ながら、呆れたことに――いや、感心するべきなのかもしれないが、千尋はまったく動揺していないのだ。
 腰を揺すられて内奥を攻め立てられる。同時に、精を放ったばかりの欲望を、千尋の引き締まった下腹部で擦り上げられる。和彦は下肢から間断なく送り込まれる快感に、すぐに激しく乱れることになる。
 唇が離されると、堪えることができず放埓に悦びの声を上げ、千尋の腰にしっかりと両足を絡める。乱れた息の下、千尋がこうせがんできた。
「背中、触って」
 言われるまでもなく、和彦がすがりつくように背に両手を這わせると、内奥深くを抉るように突かれる。咄嗟に背に爪を立てていた。若い体に彫られたばかりの大きな犬に傷をつけるようで心が痛んだが、それも一瞬だ。
「あっ……」
 千尋が一度動きを止め、深くしっかりと繋がっている感覚を二人で共有する。和彦の内奥は物欲しげに蠢動を繰り返し、一方の千尋の欲望は力強く脈打っている。
「もう、限界っ……」
 耳元で洩らした千尋が緩やかに二度、三度と腰を突き上げたあと、ブルッと体を震わせる。内奥深くに精を注ぎ込まれ、和彦は体の隅々まで行き渡るような充足感を味わう。
 二人は抱き合い、呼吸が落ち着くのを待っていたが、千尋の欲望は内奥で硬さと熱を保ったままだ。すぐにまた求められるのではないかと、和彦は甘い危惧を抱きながら、千尋の頭を撫でる。ここで、傍らに座っている賢吾に目を向けると、冗談交じりで言われた。
「ようやく俺の存在を思い出してくれたか、先生?」
 賢吾は、口元に薄い笑みを湛えてはいるものの、両目は怖いほど真剣だった。怒っているのではない。欲情しているのだ。
 それを和彦が悟ったとき、自分でも気づかないまま反応していたらしく、ピクリと肩を揺らした千尋が顔を上げ、拗ねたような口調で言った。
「今、オヤジを欲しいと思っただろ」
「違っ――」
 必死に抗弁しようとしたが、千尋は一気に内奥から欲望を引き抜き、その感触に和彦は唇を噛む。腰から下がだるくて力が入らず、それでもなんとか引きずるようにして体を起こしたが、妙なところで連帯感が強い父子は、のっそりと互いの位置を入れ替わる。
 和彦は慌てて身を引こうとして、腰に逞しい腕が回され、簡単に布団の上に転がされていた。腰を高々と抱え上げられ、尻の肉を鷲掴まれる。千尋に愛されたばかりの内奥から、身じろいだ拍子に精が溢れ出して思わず息を詰めるが、賢吾はまったく気にならないらしく、いきなり尻に熱い欲望を擦りつけてきた。
「欲しがりだな、和彦。寸前まで、あんなに美味そうに千尋のものを咥え込んでいたのに、〈これ〉も欲しいのか?」
 否定の言葉は出てこなかった。和彦は小さく喘ぎ、もったいぶるように尻に欲望を擦りつけられるたびに、意識しないまま腰を揺らしてしまう。千尋の見ている前で。
「可愛くて、いやらしいオンナだ」
 緩んだ内奥の入り口に先端が潜り込んでくる。和彦が浅く息を吐き出すと、そのタイミングで一気に貫かれた。
「うあぁっ」
 今度は賢吾の欲望に襞と粘膜を擦り上げられ、内奥深くを突かれ、犯される。あまりの凶暴さに、千尋によって蕩けさせられた身が竦むが、すかさず賢吾が機嫌を取ってくる。
 巧みに腰を使いながら、和彦の両足の間に片手を差し込み、反り返って震える欲望ではなく、柔らかな膨らみを手荒く揉みしだいてきた。和彦は手を伸ばし、畳に爪を立てる。
「んっ、ああっ、い、やぁ…………。それ、嫌だっ――」
「そのわりには、声が甘くなってるぞ」
 内奥で円を描くように欲望を蠢かされ、呻き声を洩らしながら和彦は腰を震わせる。賢吾の指先が思わせぶりに欲望の形をなぞり、透明なしずくを尽きることなく垂らしている先端をくすぐってくる。上擦った声を洩らして快感を知らせると、突然、愛撫の手が止まったうえに、繋がりを解かれた。
 わけがわからないうちに背後から抱き起こされて、あぐらをかいた賢吾の腰の上に座るよう促される。内奥に欲望を受け入れるようにして。否も応もなかった。逃げようとする和彦の腰を抱えたまま、賢吾は半ば強引に行動に移してしまう。
「うっ、くううっ……」
 下から内奥を突き上げられて、和彦は背を反らす。信じられないほど腹の奥に、熱い塊を感じるのだ。圧迫感に苦しんでいると、賢吾がうなじに唇を押し当てながら、胸元や下腹部にてのひらを這わせてくる。正面には、千尋がいた。向けられる強い眼差しに羞恥して、つい顔を背けると、それは許さないとばかりにすぐ側まで這い寄ってきた。
 賢吾と千尋の手によって両足を立てて広げた姿勢を取らされる。身を起こして濡れて震える欲望も、賢吾に貫かれてひくつく内奥の入り口も、すべて千尋に見られてしまう。こういう状況は初めてではないが、やはり激しい羞恥は覚えるし、そこに背徳感も加わる。厄介なのは、和彦は羞恥と背徳感と非常に相性がいいということだ。
 耳元に唇を寄せた賢吾が、ひそっと囁きかけてくる。
「千尋に見られて、興奮しているだろ。中が、うねるように蠢いている。本当にお前は性質が悪い。俺を咥え込んだ途端、千尋を欲しがるんだからな」
 そのまま耳の穴に舌先が潜り込み和彦が身を震わせると、賢吾に腰を掴まれて揺すられる。伸びやかな喘ぎ声を上げると、すぐ目の前までやってきた千尋に唇を塞がれる。
 差し出した舌を千尋と絡め合いながら、賢吾には緩慢な動きで内奥を突き上げられていた。父子から与えられる快感のリズムが体の中で同調して、和彦は惑乱する。
「んうっ」
 下肢に千尋の手が伸び、賢吾と繋がり、擦れ合っている部分をまさぐられていた。たったそれだけの刺激を、快感で満たされていた和彦の体は耐えられなかった。ビクビクと腰を震わせて、二度目の精を先端からこぼす。見えなくても、内奥の反応でわかったらしく、賢吾が低く笑い声を洩らした。
「イッたか、和彦」
 あごを掴まれて促され、千尋と絡めていた舌を解くと、今度は賢吾に唇を塞がれる。激しく唇と舌を吸い合う間も、千尋の指先が繋がった部分をなぞってくる。まるで、無言で何かをせがむように。それを賢吾も察したようだった。唇を離すと、柔らかな苦笑を浮かべて言った。
「お前が甘やかすおかげで、うちの跡目はどんどんワガママになっていく」
 賢吾の指先も繋がった部分に這わされ、和彦は吐息をこぼす。
「――とはいえ、俺もお前が欲しくてたまらねーんだ」
 忌々しいほど魅力的なバリトンが怖い響きを帯びる。その理由を、和彦はすぐに自分の体で知ることになる。
 布団に仰臥した千尋の腰を跨がされ、再び大きく育った欲望を内奥に受け入れる。心地よさそうに目を細める千尋の表情につい見入ってしまいそうになるが、それ以上に和彦が気になるのは、背後に回り込んでいる賢吾だった。
「はあっ、あっ、んんっ……」
 首筋に唇を這わせながら、大きなてのひらに欲望を握り込まれて手荒く扱かれる。そのたびに、内奥に呑み込んだ千尋のものをきつく締め付けてしまう。
 和彦は二人の男に誘われるように、ゆっくりと腰を前後に揺らす。賢吾のもう片方のてのひらに尻を撫でられたあと、擦られ、広げられている内奥の入り口を指先でまた擦られた。
「あっ……ん」
 蕩けている内奥の入り口を、熱く硬いもので強引にこじ開けられていた。一瞬、何が起こっているのかわからなかった和彦だが、下肢に走る痛みに悲鳴を上げ、本能的に前に逃れようとしたが、しっかりと千尋に腰を掴まれた。その間にも、内奥を強引に押し広げられていく。
 内奥はすでに千尋の欲望を呑み込んでいる。そして、さらに押し入ってこようとしている太く逞しいものは、賢吾の欲望だ。千尋の腕に爪を立てて、和彦は切羽詰まった声で訴えていた。
「痛いっ」
 賢吾の返事は、さらなる侵入だった。千尋が眉をひそめて苦しそうな顔をするが、内奥の圧迫感がつらいのか、腕に食い込む爪が痛いのか、今の和彦に推し量ることはできない。ただ、痛くて堪らなかった。
「……嫌だ。痛いのは、嫌だ」
 賢吾の動きは慎重だが、止まることはない。容赦なく和彦の内奥に、己の欲望を呑み込ませようとしてくる。すっかり萎えてしまった和彦のものに再び愛撫を加え始めたが、弱々しく拒む。些細な刺激が痛みとなって下肢に走るのだ。
「これ、やめてくれ……。痛くて、死にそうなんだ」
「――俺たちのために、この痛みに耐えてくれないか?」
 耳元に注がれた言葉に、和彦は唇を噛む。この言い方は卑怯だと思った。こんなふうに言われると、否とは答えられない。和彦は、この父子に甘いのだ。愚かなほど。
 千尋の腕に立てた爪をそっと退けると、自分がつけた爪痕をそっとてのひらで撫でてやる。ほっとした表情を浮かべた千尋が、和彦の体を熱くするために胸元にてのひらを這わせてくる。
 痛みで意識が朦朧として、自分が今なにをしているのかわからなくなるが、皮肉にも、和彦の意識を正常に戻すのは、賢吾と千尋から与えられる痛みだ。正直、憎たらしいという気持ちさえ湧いてくる。
「んっ……」
 背後からゆっくりと突き上げられ、千尋の胸に手を突いて体を支える。限界以上に広げられた内奥で、父子の欲望が擦れ合い、せめぎ合っている。仲がいいのかそうでないのか、よくわからない関係だなと思ったところで、気がつけば和彦は口元に淡い笑みを湛えていた。千尋が惚けたような顔で見上げている。
「和彦――」
 千尋が片手を伸ばして、顔に触れてくる。唇をなぞった指が口腔に押し込まれてきたので、和彦は従順に吸ってやり、舌を絡める。一方の賢吾は、欲望を扱く手の動きを速めた。
 父子は和彦の体を蹂躙しながら、献身的な愛撫を施してくる。痛みも快感も体に刻み込めと言うかのように。
「あっ、あっ、嫌、だ……、ゆっくり、してくれ……」
「してるだろ。ゆっくり、お前の体を愛してやってる」
 賢吾に背後から突き上げられるたびに、頭の先まで駆け抜けるような痛みが走る。苦しくて堪らないが、二人の男の欲望を自分が包み込んでいるという実感は、奇妙な高揚感を生み出してもいた。苦痛から逃避するための錯覚だろうかと、ぼんやりと考えもするのだが、それで賢吾と千尋が悦ぶのであれば、なんでも受け入れてやりたかった。
 自分は、この痛みは愛してやれるという確信が、和彦にはあったのだ。
「ふっ……、んっ、んんっ」
 耳元で感じる賢吾の息遣いが切迫してくる。和彦はぎこちなく顔を動かし、賢吾と唇を吸い合う。一方で、千尋とはしっかりと手を握り合う。
 時間はかかったが、父子は和彦の中でそれぞれ精を吐き出した。


 ひどい有り様だと、浴衣に包んだ体を布団に横たえて、和彦はぐったりとしていた。仰向けになれないのは、もちろん理由がある。体を横向きにしていても、腰が――いや、全身が痛い。
 こうなった原因である男はすぐ隣で横になり、さきほどから和彦の髪や頬を優しく撫でてくる。もう一人は、和彦の背後からぴったりとくっついたままだ。一応、無茶をさせた和彦を気遣っているつもりなのだろう。
「明日……、車に乗れないかもしれない」
 どうするつもりだと、気恥ずかしさもあって和彦が睨みつけると、賢吾は口元を緩めた。
「先生の体調が落ち着くまで、ここに滞在してもいいぞ。三人で」
「三人で」
 背後から千尋がすかさず復唱する。頬をつねり上げてやりたいところだが、体の向きを変えるのも今はつらい。
 和彦は深々とため息をつくと、ぼそぼそと忠告した。
「……ああいうのは、もう嫌だからな。ぼくが壊れる。本当に、痛いのは嫌なんだ」
「だが、俺と千尋のために耐えてくれた」
「逃げるに逃げられない状態だったからだ」
「先生が泣き叫んだら、さすがにやめるつもりだったが」
 ひどい目に遭ったのはこちらだが、なぜか分の悪さを感じる。
 賢吾に片手を取られて、てのひらに唇を押し当てられる。お返しというわけではないが、和彦はその手で賢吾の頬を撫でた。
 本宅に滞在しながら心のどこかで気になっていたことを、行為のあとの気だるさも手伝って、さらりと切り出すことができた。
「――ぼくのことで、総和会から何か言われてないか?」
「どうしてそう思う」
「ぼくには何も連絡が入らないからだ。だから……、あんたが止めているんじゃないかと思った」
「先生の父親から連絡がくるまで、そっとしておいてくれと言ってあるだけだ。総和会としても、文句はないだろう。本宅にいると、先生を連れ出すのに少々難儀するが、その代わり、安全だ。大蛇と犬っころが、しっかり先生を守っている」
 賢吾の言いように小さく笑みをこぼした和彦だが、すぐに表情を引き締める。
「それでも……、線引きはしておきたい。あんたたちの世界では、確かにぼくは無力で何もできないから、守ってもらうしかない。だけど、佐伯家に関わることでは、手を出さないでほしい。あくまで接触するのは、総和会か、総和会に庇護されているぼくだ」
 背後で千尋が身じろぐ気配がして、遠慮がちに腰に腕が回される。何か言おうとした様子だが、賢吾がわずかに首を横に振った。
「自分の父親から、組や俺たちを守るためか?」
「父さんがどういう人間か知っている会長は、ぼくと同じことを考えていると思う。会長にとっても、長嶺組に傷はつけたくないだろうし……」
 でも、と和彦は言葉を続ける。
「あんたにも会長にもまだ言ってなかったことがある。……父さんに脅されたんだ。総和会全体を相手にするのは無理だが、一つの組を弱体化させる手段ぐらいは持っているって。どういう手段なのかはわからないけど、今はあの人を刺激したくない。やると言ったら、本当にやる人だから」
「なるほど。先生が父親と会った日に、安定剤を飲んで泣きじゃくっていた本当の理由は、それか。――怖かったんだな」
 今度は賢吾の手が頬にかかり、息もかかる距離まで顔が近づく。さきほどまで強い情欲を滲ませていた目には、今はひどく理知的な光が宿っていた。その奥からうかがえるのは、警戒する大蛇の気配だ。
「安心しろ。俺は臆病で慎重な蛇だ。無闇やたらと獲物に飛びかかったりしない。先生の背中に張り付いている犬っころも、同じだ。世間知らずだが、相手を見定めるぐらいの頭はある」
 返事のつもりか、千尋が肩先にぐりぐりと頭を擦りつけてきた。和彦はふっと表情を和らげ、腰にかかった千尋の腕をそっと撫でてやる。
 賢吾と千尋を愛しいと思うし、この二人から向けられるときおり窒息しそうになるほどの強い執着心や独占欲すらも、心地いいと感じる。できることなら和彦は、守りたかった。自分が非力であると自覚しながらも。
 だからこそ、今できることは――。
 短く息を吐き出し、ひたと賢吾の目を見据える。
「何かに使えるかもしれない切り札がある。多分、この切り札を使えば、佐伯家から簡単に金を引き出すことができると思う。それと、和泉家からも」
「和泉家……。確か先生の母親の旧姓だったな」
「やっぱり、きちんと調べてあったんだな」
 皮肉ではなく、素直に感心して見せると、賢吾が複雑そうにわずかに唇を歪めた。
「けっこうな資産家らしいな。山林や不動産を多く所有して、地元で絶大な影響力を持っているとか。佐伯家の血筋も立派なものだが、和泉家のほうもかなりのものだ。莫大な資産は、順当にいけば先生の母親に、そして先生たち兄弟に受け継がれていく。確か、先生たち以外に、直系の人間はいないんじゃなかったか?」
「……今の当主は祖父で、娘が二人いた。三つ違いの姉妹。いた、というのは、調べたならわかっているだろうけど、一人はずっと昔に亡くなったからだ。でも、それぞれ息子を一人産んでいる」
 数秒の間を置いて、賢吾は感情を押し殺したような平坦な声で応じた。
「それぞれ息子を一人、か。だが実際は、先生には兄貴がいる。……つまり、どういうことだ?」
「ぼくの本当の母親は、妹のほう……、戸籍上は叔母だ」
 和彦の話が、いわゆる暴露という類のものだと気づいたらしく、賢吾が起き上がる。千尋も、慌てた様子で和彦の枕元近くに座った。
「母親が違うということか」
「ぼくは、不義の子という存在なんだ。不倫して、できた」
 ここで賢吾が目を眇め、和彦のあごに手をかけて顔を覗き込んでくる。賢吾が何を考えたのか、すぐにわかった。
「――母親が違っても、母親同士が姉妹なら、その子らに似ている部分があっても不思議じゃない。だがあまりにも、先生と、先生の兄貴はよく似ている。そもそも、どうして佐伯家が先生を引き取って育てた。不義の子は、佐伯家という名家には相応しくないと考えそうなものだが。しかも戸籍には、先生が養子なんて記載はなかった。プロに調べさせたんだ。見落としはないはずだ」
「もう、わかってるんだろ。……佐伯俊哉がぼくの父親であることは、変わらないんだ。父さんも母さんも、自分たちの罪と恥を隠ぺいするために、非合法な形でぼくを〈実の息子〉にした。この方法を主張したのは父さんらしい。自分の人生を犠牲にする覚悟で手に入れた〈もの〉だと言っていたけど、その通りではあるんだ。厄介な存在であるぼくを、遠くに養子に出すこともできたのに、そうしなかったんだから」
 ああ、と賢吾が声を洩らす。すべてが腑に落ちたという声だった。さきほどから黙ったままの千尋は、険しい顔つきで和彦の髪に触れてくる。その行為の意味をなんとなく想像して、和彦は笑ってしまった。
「別に、ぼくは自分の生い立ちをいまさら不幸だとは思ってないし、落ち込んでもない。今、こうして話したのは、長嶺組の組長と跡目に、利用してほしいと思ったからだ」
「利用?」
 首を傾げた賢吾の手を、ぐっと握り締める。両目に力を込めて和彦は告げた。
「もし父さんが、長嶺組やあんたたち父子に何かしようとするなら、この話を取引の材料にしてくれ。ぼくという証拠も一緒に。さすがの父さんでも無茶はできない――と思いたいが、どうだろう。なんとも思わないかもしれない。でも、佐伯家の事情を何も知らないよりは、マシだろう」
「……お守り、ということか。だが、先生がさっき言ったように、二つの名家から、俺たちが金を引っ張ることもできる。本当に話してよかったのか?」
「ぼくの誠意として話したことだ。あんたがどう扱うかは、任せる」
 大蛇の警戒がふっと緩むのを感じた。その証拠に、賢吾が柔らかな声でこう返した。
「誠意という名の、先生からの愛情だな。――粗末に扱ったら、バチが当たる」
「別に……、恩に着せるつもりで話したんじゃないからな」
 わかっていると言うように、賢吾に手を握り返された。
 和彦は、ずっと背負っていた重荷の一つを下ろしたような感覚に襲われていた。楽になった反面、自分の選択に正直不安は覚えている。誰かに、自分の選択は間違っていないと肯定してもらいたかった。
 揺れる心情が表情に出たのか、賢吾と千尋が顔を覗き込んでくる。誤魔化すように和彦は頼み事を口にしていた。
「――……体を拭いてもらったけど、やっぱり、湯を浴びたい」
「一人じゃ危なくて、この部屋のシャワーは使えねーだろ、先生。とはいっても、狭いから二人入るときついだろうし……。よし、この時間でも家族風呂に入れるか聞いてくる。三人で入るぞ」
 そう言って賢吾が立ち上がり、止める間もなく部屋を出ていく。半ば呆気に取られて見送った和彦は、髪を撫で続けている枕元の千尋を見上げる。目が合うなり、笑いかけられた。
「オヤジの奴、わざわざ部屋を出なくても、電話があるんだからフロントにかければいいのに」
 和彦が片手を伸ばすと、千尋が顔を寄せ、てのひらに頬ずりをしてきた。
「……黙ってぼくの話を聞いてくれてたな、千尋」
「なんていうか、先生――じゃなくて、和彦がどんなふうに実家で生活してたのかなって、あれこれ想像しちゃってさ」
「お前が想像するほど、悲惨なものじゃなかったぞ。どこの馬の骨ともしれない出自というわけでもなかったし。お前たちと出会わなかったら、安穏と飼い殺しの人生を送っていた。それはそれで、多分ぼくは不満は感じていなかった」
 話しながら和彦が体を起こそうとすると、千尋が手を貸してくれる。ついでなので、もたれかかった。本当に明日は車に乗れるのだろうかと、少しだけ心配になってくる。
 和彦の背を優しく撫でていた千尋だが、真剣な口調で切り出した。
「ねえ、嫌なこと聞いていい?」
「なんだ」
「和彦の本当の母親は亡くなったって言ってたけど、どうして――」
「病死だ。……そう、聞かされている。ぼくはよく知らないし、確かめようとも思わない」
 和彦の硬い口調から何かを察したのか、千尋は唇を引き結ぶと、そっと肩を抱いてきた。









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