佐伯俊哉という人物を語るうえで欠かせないものの一つに、華やかな交友関係があった。
社会的地位の高さと家柄のよさ、何より自身の魅力的な容姿を、俊哉は実に効果的に活用している。野心を満たすために人脈を作り上げ、味方――というより使える手駒を増やす。佐伯家で頻繁に行われていた〈勉強会〉への参加者は、そのまま俊哉の信奉者たちだった。
人を惹きつける笑顔も弁舌も、己の利得のためなら惜しまない俊哉だが、反面、家族に対しては非常に素っ気なかった。冷淡と言ってもいいかもしれない。
そんな俊哉を尊敬し、憧憬の情を抱く兄の英俊とは違い、和彦はまったく親しみを覚えることはなかった。
だが俊哉には、家庭でも職場でも見せない、また別の顔があると、些細な出来事から気づくことになる。
控えめな男性用のコロンしかつけない俊哉が、ある日の深夜に帰宅したとき、やけに甘ったるい香りをまとわりつかせていたのだ。まだ子供だった和彦だが、それが女性からの移り香だと気づいた。香りは日によって種類が変わり、ときには俊哉宛てに女性の声で電話がかかってくるときもあった。
六つ歳の離れた英俊はどういう状況なのか、和彦よりも早くすべてを理解しており、俊哉に向けられない苛立ちや嫌悪感という感情を、和彦にぶつけてきた。俊哉を尊敬しているからこそ受け入れ難い現実を、不義の子である和彦にすべて背負わせ、痛みを与えることで紛らわせていたのだ。
母親は、それを知りながら見て見ないふりをした。元凶ともいえる俊哉を、責めもしなかった。佐伯家の内情は歪で、淀んではいたが、それぞれのやり方で、完璧な家庭の形だけは保っていた。
そして和彦は、完璧な佐伯家の中では異物だった。それでも、とりあえず普通の子供として成長できていたのは、俊哉だけは、血縁者としての情を示してくれたからだ。ただしそれは、優しさとも穏やかさとも違うものだった。
俊哉は普段、和彦の存在など目に入らないかのように振る舞っていたが、ときおり気まぐれに書斎に招き入れてくれた。書斎は特別な場所だ。優秀な英俊ですら立ち入りを許されなかったぐらいだ。
一定の距離を取って向き合う形でイスを置き、温かみに欠ける雰囲気の中、父子で話し込んだ。話題は、俊哉から振られた。和彦が通う学校のこと、友人関係、最近読んだ本の話題、今日の新聞の一面について。ときには佐伯家の歴史と輩出した人物について、ひどくつまらなさそうな口調で語られたこともあった。
ついでのように、義妹と関係を持つに至った経緯も。
結果として生み出された〈悲劇〉について語るときには、俊哉の口調は淡々としたものに戻っていた。話を聞くうちに波立っていた和彦の気持ちも、自然と落ち着いた。
俊哉の話は、怖い童話そのものだった。和彦の中に、異常なほどの俊哉への恐れが根付いたのは、この出来事も一端となっているはずだ。しかし、恐れてはいたが、嫌ってはいなかった。息子の目から見ても、俊哉は魅力に溢れた人間だったのだ。
父親の本質に、性的なものに対する奔放さが含まれていると悟ったのは、自分自身も同じ性質を持っていると悟ったときだった。
息苦しい実家を飛び出して、金銭的に不自由しない恵まれた医大生として過ごしながら、広くなった人間関係の中に身を置いて、和彦は自分という人間が見えたのだ。
束縛されない享楽的な関係を欲望のままに結び、そのことに一欠片も罪悪感を抱かない。ただ、パートナーと刺激を求め続ける。俊哉も同じだ。名家の名も、官僚という肩書きも、俊哉にとっては快楽を求める衝動の歯止めにはならない。むしろ、刺激を生むための小道具という捉え方だったのかもしれない。
だが一方で、周囲の人間が畏怖するような権力の化け物でもある。
その二つの事実がどう作用したのか、俊哉は義妹と関係を持ち、子を生した挙げ句、法を犯す形で佐伯家の戸籍に入れた。
和彦を佐伯家の次男とした〈本当の〉理由までは、教えてもらえなかった。おそらく英俊も、聞かされていないのではないかと思う。
俊哉は、和彦の人生に配慮した結果だと言っていたが、そんな綺麗事を家族の誰も信じていない。それでも、佐伯家は成り立っていけたのだ。
血の繋がった息子なら、より有用な使い道のある手駒にできると俊哉が考えたとしても、不思議ではなかった。それぐらい利己的なほうが、むしろ俊哉らしい。
あの人はきっと、心のどこかが壊れているのだ。自分もそうであるように――。
ビクッと体を震わせて、和彦は目を開ける。
「あっ……」
声を洩らして、ゆっくりと瞬きをする。夕食後、入浴を済ませてから客間に入り、総和会から回ってきた書類に目を通していたのだが、堪らなく眠くなってきて、少しだけのつもりで横になったのだ。
体調が悪いわけではなく、単に昼間、クリニックが忙しかったせいだ。寒くなってきて、肌を露わにする機会がめっきり減ると、この間に肌のトラブルを解決しようという患者の数が増えてくる。もちろん、美容整形の施術目的の患者も訪れるため、朝から晩まで予約で埋まり、息つく暇もない。
忙しいと余計なことを考えなくて楽な部分もあるのだが、和彦の帰宅時間が遅くなると、少々機嫌が悪くなる男たちがいるのだ。
身を起こした和彦は、このときになって自分が寝汗をかいていることに気づく。布団もかけていなかったため、暑かったというわけではない。
ふっと息を吐き出して、夢見が悪かったなと、心の中で呟く。俊哉と対面してから、子供の頃の記憶が、やけに鮮やかに夢の中で蘇る。和彦にとっては、はっきりいって嬉しいことではない。強烈な恐怖と不安という感情に、いつも夢の中で足首を掴まれているようなのだ。
自分が抱えた秘密を賢吾と千尋に打ち明けて、何かが大きく変わったということはない。二人は相変わらず、和彦を大事に扱ってくれるし、それが過ぎて過保護なほどだが、それはいつものことだ。むしろ変わったのは、和彦のほうだろう。
佐伯家を捨てた自分というものを、漫然とながら考えるようになっていた。そして、そんな和彦を引き留め――咎めるように、子供の頃から積み重ねてきた俊哉とのやり取りを、夢に見てしまう。
これは父親に対する情の現れだろうかと考え、和彦は身を震わせる。怖かったからではなく、寝汗が引いて急に肌寒くなったからだ。
体にかけていた茶羽織に袖を通し、もそもそと這って布団の上から下りる。再び文机に向かう気にもなれず、だからといって買い込んで積んである本を読む気分でもなく、なんとなく客間を出ていた。
ダイニングでコーヒーを飲もうと思っていたが、廊下を歩いているうちに気が変わった。途中で会った組員に、賢吾が帰宅しているかを確認して、向かう先を変更する。
声をかけて部屋に入ると、寛いだ格好で賢吾が座卓につき、携帯電話を手にしていた。それを見た和彦は、慌てて部屋を出ようとする。
「電話中なら、あとで出直すっ……」
「かまわねーよ。メールの整理をしていただけだ」
賢吾に手招きされ、部屋に入り直す。傍らに座ると、すかさず肩に腕が回された。
「メシは食ったか、先生?」
「ああ。あんたは、帰りが遅かったみたいだが……」
「いつもの会食だ。最近、何かと誘いが多くてな」
どうしてだと、和彦が首を傾げて見せると、賢吾は答えず、表情を和らげる。そっと髪を撫でられた。
「寝てたのか?」
「……いや、仕事をしていた」
「そうか。寝ぼけたような顔をしていると思ったが、俺の気のせいか」
そう言う賢吾の声が、笑いを含んでいる。和彦はわずかに顔を熱くした。
「少し横になっていただけだ。ここのところクリニックが忙しくて」
「そんなに繁盛しなくていいと思っていたが、いざ、患者が来るようになると、金を出している身としては嬉しいもんだ。だが、忙しすぎるのは、どうだろうな。そのうち先生が、診察時間を伸ばして、土曜日の休みもなしにしたいと言い出すんじゃねーかと、少し心配しているんだが」
「勘弁してくれ。ぼくの身がもたない……」
「総和会のクリニックのほうもあるしな」
さらりと賢吾に言われて、咄嗟に言葉が出なかった。賢吾はこれまで、和彦が関わることになる総和会出資のクリニックについて、言及してきたことはない。和彦に言っても仕方ないと思っている部分もあるのだろう。また、和彦の知らないところで、賢吾と守光の間で何かしら話し合いが持たれているのかもしれないのだ。
「……その件で、資料をマンションのほうに置いてあるんだ」
「どこにあるか言ってくれれば、うちの人間に取りに行かせる」
そうではないと、和彦はじっと賢吾を見つめる。即座に、和彦が言いたいことを察したらしく、賢吾は唇の端に皮肉げな笑みを浮かべた。
「先生はまじめだ。総和会のじじいのワガママなんざ、適当に聞き流せ。そういうところにつけ込まれて、なんやかんやと無理を押し付けられるんだ」
「できるわけない。もうすでに、人も金も動き出しているんだし――」
「だから、本宅でのんびりしていても、落ち着かないか? そろそろマンションに戻りたいと言いたいんだろう」
「まあ……、そういうことだ。十分甘えさせてもらって、落ち着いたし」
肩にかかった賢吾の手が動き、ゆっくりと腕をさすられる。ますます引き寄せられ、ぴったりと賢吾に身を寄せると、浴衣の衿の合わせからさりげなく片手が侵入してくる。甘く淫らな予感に、ズキリと和彦の胸が疼く。
「うちとしては、もっと甘えてもらってもいいぐらいなんだがな」
「ときどき、たっぷり甘えさせてもらうから、いいんだ。すごくほっとできるし、ここは居心地がいいと実感できる」
「先生は、一人で過ごす時間が必要か。……俺たちとは違う、繊細な生き物だからな。無理に閉じ込めて、窒息させたくない」
ぐっと手が深く差し込まれ、荒々しい手つきで胸元をまさぐられる。和彦は思わず賢吾の膝に手をかけた。
「千尋は、まだ帰ってないのか……?」
「なんだ。三人で楽しみたかったのか」
「違っ……。何度でも言うが、宿でのようなことは、二度と嫌だからな。本当に、あとが大変で――」
こちらは必死で訴えているというのに、賢吾はニヤニヤと笑っている。
「大変なのは、俺もだな。一週間以上、先生と一緒に寝られない。隣にいると、寝ぼけて襲いかかっちまいそうで」
「……それの何が大変なんだ」
「蛇の生殺しって言葉があるだろ。毎晩、俺はそれを味わってる」
刺激され続けているうちに、胸の突起が硬く敏感に尖る。さんざんてのひらで転がされたあと、賢吾の指先に捉えられ、和彦は喉の奥から声を洩らす。誘われるように顔を寄せてきた賢吾と唇を重ね、柔らかく吸い合う。
「千尋は用があって今夜も泊まりだ。総和会とは別件でな。あいつも、呼ばれたらあちこちに顔を出す立場になったんだ。そうやって顔を広めてから、満を持して、長嶺組の正当な跡目として披露できる。それまでは、長嶺組の坊ちゃん扱いだな」
「それでもここのところ、それらしくなった」
「極道らしくなった、ということか?」
どうかな、と返事を濁すと、短く笑った賢吾に軽く唇に噛みつかれた。囁かれて、促されて立ち上がった和彦は、肩を抱かれながら隣の部屋へと移動する。
すでに延べられていた布団の上に押し倒され、いきなり下着を引き下ろされる。のしかかってきた賢吾に有無を言わせず唇を塞がれた。和彦は条件反射のように、賢吾が着ているシャツの下に手を潜り込ませようとしたが、柔らかな口調で窘められた。
「煽るなよ、先生。これでも本当に、先生の体を気遣っているんだ。――まだ〈ここ〉に、無体はできねーからな。だが、俺恋しさで部屋に来てくれたのに、何もせず帰すのも忍びない」
そう言って賢吾の片手が下肢に伸び、秘裂を指先でまさぐられる。
「別に、そんなつもりで――」
来たわけではない、と言いたかったが、結局言葉となっては出てこない。用もないのにここに来たということは、賢吾にこう言われても仕方ないのだ。
内奥の入り口を指の腹で撫でられ、声を上げる。
「あっ……」
「まだ痛むか?」
「……もう、気にならなくなった」
「まだ少し腫れているような気もするが」
気遣っているようで、賢吾の指の動きは確実に、和彦の官能を引き出そうとしている。敏感で繊細な部分を執拗に撫でられながら、口腔に舌を押し込まれ、じっくりと粘膜を舐められる。和彦は懸命に賢吾の肩に掴まりながら、何度も爪先を布団の上で滑らせていた。
「はあ、あっ、もっ……、触る、な……」
乱れた息の下、弱々しく訴えるが、賢吾には逆効果だったようだ。邪魔だと言わんばかりに茶羽織を肩から下ろされたうえに、浴衣の前を大きくはだけさせられる。
熱を帯びた眼差しで賢吾に見下ろされると、身を焼くような羞恥に襲われるが、和彦はすぐにそれが、狂おしい情欲のうねりに姿を変えることを知っている。
体の負担も考えず、見境なく求めてしまう事態を危惧して、上体を捩って賢吾の下から抜け出そうとする。しかし、そんな和彦を余裕たっぷりに賢吾が押さえつけた。
「乱れた浴衣も相まって、実にそそる姿だな。俺を誘っているだろ」
「都合よく解釈するな。ぼくの体を気遣っているんじゃないのかっ……」
「だったら、俺によく見せてくれ。ついでに、消毒もしてやる。なんたって、気遣っているからな」
そう言う賢吾の声は笑っている。和彦は必死に前に這い出そうとするが、逞しい腕に易々と腰を抱え込まれ、引き寄せられる。浴衣の裾をたくし上げられ、強引に足の間を開かされたときには、もう抵抗する気力は奪われていた。
剥き出しとなった腿を掴んでくる指の力強さに、内心、少しだけ和彦は怯える。賢吾に限って暴力的な行為に及ばないとわかってはいるが、本能的な反応はどうしようもない。
和彦の体の強張りを感じ取ったのか、機嫌を取るように今度は内腿にてのひらが這わされ、撫でられる。力を抜けと言われているようで、和彦はおずおずと息を吐き出した。
片腕が腰に回されて、持ち上げられる。賢吾に望まれるまま、腰を突き出した扇情的な姿勢を取った。尻の肉を強く揉まれながら、和彦は全身を熱くする。わざわざ背後を確認しなくとも、賢吾がどこを凝視するのかわかって――いや、感じていた。
「やっぱりまだ、少し腫れているな。いつもより、赤みが強い。……あのとき、血も出ていたしな」
内奥の入り口を軽くくすぐられる感触に、和彦は大げさなほど腰を震わせる。
「だが正直、血を流している先生の姿に、興奮した。多分、千尋もな。痛みに弱い先生が、俺たちのためにここまでして耐えてくれたのかとな。あとは純粋に、先生に血の赤さが映えていたんだ」
「……危ない父子だな」
「そうだ。俺たちは危ないんだ。何かの拍子に、簡単に狂って、猛るぞ」
ひくつく内奥の入り口に、熱い息遣いが触れる。ゾクゾクするような興奮が和彦の全身を貫き、尾を引く喘ぎ声をこぼしていた。
「あっ、あぁっ……。んんっ、んっ、んくっ」
熱く濡れた舌先が繊細に蠢き、内奥の入り口を優しくくすぐってくる。与えられる感触はささやかながら、どこを舐められ、その様をしっかりと間近から見つめられているのかと考えると、全身が震えてくる。同時に、嫌でも情欲が高まり、感覚が鋭敏になる。
無意識に腰が逃げそうになるが、容赦なく尻を叩かれた。
「逃げるな。消毒できねーだろ」
「そんなっ――」
抗議の声は、あえなく吐息となる。内奥にわずかに押し込まれた舌先の感触に小さく悲鳴を上げ、突き出した腰を揺らす。和彦の痴態に感じるものがあったのか、賢吾の片手が両足の中心に入り込み、慣れた手つきで柔らかな膨らみを愛撫し始める。
「くうっ……ん、そんなところまで……」
「可愛くて健気なオンナのためだ。いくらでも感じさせて、悦ばせてやる。遠慮せず、いくらでも腰を振って、いやらしく涎を垂らして見せてくれ。――和彦」
名を呼ばれた瞬間に、腰から力が抜けていた。いい子だ、と賢吾が洩らし、再び舌を蠢かせ始める。
じっくりと時間をかけて愛撫を施された。発情を促すように内奥の入り口を丹念に舐められ、口づけられ、蕩けそうなほどに柔らかく解されながら、浅く侵入してくるのは舌先だけだ。さらなる刺激を欲して和彦が腰をもじつかせ、細い声を洩らすと、忌々しいほど魅力的なバリトンで窘められる。
「――あまり、俺を刺激するな。これでも、ギリギリのところで我慢してるんだぜ」
「ウソ、だ……。ぼくの反応を見て、楽しんでるだろ」
和彦が控えめに詰ると、返ってきたのは低い笑い声だった。反り返った欲望の先端から、悦びの証である透明なしずくをトロトロと垂らし続けるが、賢吾は頓着しない。執拗に柔らかな膨らみを揉みしだき、ときおり弱みを指先で苛めてくるのだ。
賢吾の欲望を、内奥深くに埋めてほしいと思った。もう痛みはないし、傷ついた部分も治っているはずで、愛し合うには支障はない。仮にあったとしても、賢吾から与えられる痛みなら耐えられると、和彦は体で知っている。
「賢、吾っ……、中、欲しい――」
「我慢してると言ったばかりだろ。煽るんじゃねーよ。あとで痛い思いをするのは、お前だ」
柔らかな膨らみをきつく揉まれて、ジンと腰が痺れた。やや乱暴に体を仰向けにされると、和彦はすがりつくように賢吾に抱きつきながら、はしたなく足を広げる。触れられないまま、切なく先端から透明なしずくを垂らし続ける欲望を、やっと握ってもらえた。
「ああ……」
吐息をこぼすと、和彦の顔を覗き込んでいた賢吾が口元を緩める。
「いやらしい顔だ。物欲しげで、だらしなくて、壮絶に色っぽい」
「……誰の、せいだ」
返事の代わりに唇を吸われた。和彦は喉の奥から声を洩らすと、激しく賢吾の唇を吸い返し、誘い込まれるように口腔に舌を差し込む。
一週間以上、賢吾と体を重ねないことなど珍しくもないのに、今夜は理性の箍が外れてしまったのか、大蛇の化身のような男が欲しくて堪らなかった。賢吾と千尋に貫かれたとき、何かが自分の中で変わったのだろうと和彦は考えている。あの無茶な行為によって何かが壊れたのではなく、生まれたのだ。
和彦はさりげなく、賢吾の下肢へと片手を伸ばす。布の上から触れた欲望は、大きくなっていた。指先でまさぐると、口づけの合間に賢吾に囁かれた。
「――まずは、お前をイかせてからだ。嫌だと言っても、じっくりしゃぶってもらうから、覚悟しろよ」
下卑た物言いに、興奮が高まる。和彦の返事など聞くまでもないとばかりに、賢吾が口づけを再開した。
覚束ない足取りで和彦が客間に戻ったのは、日付も変わった夜更けだった。だるい体でなんとかシャワーを浴びてから、一緒に寝たらどうだという賢吾の誘いを振り切った結果だ。
あの男の側にいたら、いつまで経っても情欲が鎮まらないという危機感があった。それこそ、精が尽きるほど賢吾の手と口で果てたというのに、いまだに胸の奥で燻ぶるものがあるぐらいだ。到底、隣で穏やかに眠れるとは思えない。
和彦はふらふらと畳の上にへたり込み、熱っぽい吐息を洩らす。さすがに今夜はもう、堅苦しい書類に再び目を通せる集中力はなかった。部屋の電気を消す前に、明日の出勤の準備を整えておこうと文机に這い寄ったところで、あることに気づく。
「あっ……」
出したままにしておいた携帯電話二台のうち一台に、着信表示があった。里見との連絡用に使っている携帯電話だ。一瞬、和彦の脳裏を過ったのは、いよいよ俊哉から連絡がきたのかということだった。履歴を見る限り、里見の携帯電話からかかってきたようだが、慎重にならざるをえない。
無視することもできず、おそるおそる折り返し連絡をしてみると、すぐに呼出し音は途切れた。
『――ああ、よかった。かけてきてくれたんだね』
聞こえてきた里見の穏やかな声に、心底ほっとした。前回、連絡を取ったときは、里見のもとに誰かが訪れた様子で、妙な空気で電話を切ったのだ。
「里見さん……。ごめん、こんな遅い時間に。もう休んでたんなら、日を改めるよ」
『気にしないでくれ。おれのほうこそ、驚いた勢いで電話をかけたから、君の事情をまったく考えてなかった。……今、話して大丈夫?』
里見の口ぶりが気になり、和彦は咄嗟に質問で返していた。
「……驚いたって、里見さん、何かあった?」
『今日……、もう昨日になるけど、君のお父さんに会ったんだ。話があると言って呼ばれて』
俊哉の話題が出た途端、心臓を締め付けられたような苦しさを感じた。和彦は硬い声で応じる。
「そう、なんだ……。話って、もしかして……」
『おれも無関係ではないからということで、内密にと念を押されて教えてもらった。――ようやく、会って話をしたそうだね』
うん、と返事をした和彦だが、すぐに大事なことに気づいて、正直ゾッとした。
「里見さん、父さんからどこまで聞いたっ?」
『どこまでって……、君と会えたことと、今後はとりあえず、連絡を取り合えるようにはなったということを。それはいいことではあるんだけど、おれとしては、君が一体何に巻き込まれて、普段はどこで生活しているのか、そういうことを知りたかったんだ。もちろん、佐伯さんに聞いてはみたけど、知らないほうがおれのためだと言われると、引き下がらざるをえなかった』
「父さんの判断が正しいよ。これ以上、里見さんに迷惑をかけられない……、かけたくない」
『ということは、やっぱり厄介なことに巻き込まれているんだな。今も』
「否定はしないけど、居心地はいいんだ、〈こちら〉は」
和彦が言外に含ませたものを感じ取ったのか、里見は少し沈黙したあと、ため息をついた。
『君にそんなことを言わせるために、おれは君と一緒の時間を過ごしたわけじゃないのにな。医者として順風満帆に過ごして、望むものを手に入れて、穏やかに笑って日々を過ごしてくれたらいいと、そう願っていた。そのために、独占欲の強いおれは、早いうちに身を引いたほうがいいと考えたんだ。君の将来にも関わっていきたいと、そう思い始めるのは目に見えていたから』
思いがけない里見の言葉に背を伸ばした和彦は、廊下に面した障子に反射的に視線を向ける。その向こうに、賢吾が立っているのではないかと、咄嗟に危惧したのだ。
ほんの少し前まで賢吾と濃密な時間を過ごしておきながら、里見からこんな言葉を囁かれたことが、とんでもない背信行為に思えた。
「里見さんが独占欲が強いなんて、初めて聞いた。そんなふうに思ったことなんて、一度もなかったよ。いつだって、穏やかで余裕があって――」
『君に嫌われたくないから、そう装ってただけだ。優しい思い出だけを作って、いつまでも君の中に残っていたかった。おれは、君と初めて会ったときから、打算的なズルい大人だったんだ』
里見の口調は穏やかなままだが、確かな熱を感じさせた。和彦の中に、ふっと疑問が芽生える。
俊哉は本当に、里見には詳しい事情を教えていないのだろうか、と。何か根拠があるわけではない。ただ、〈ズルい大人〉だと念を押されて、気になったのだ。
「……ズルい大人だったとしても、昔のぼくは、里見さんに救われた。だから今のぼくにできるのは、これ以上、里見さんに迷惑をかけないことだけだ。嫌な言い方になるけど、佐伯家の問題だし……」
『迷惑をかけられたとは思ったことはない。いつだっておれは、和彦くんのことを心配しているだけだ』
里見の優しさが、心に絡みついてくる。昔なら素直に受け入れられたかもしれないが、大人となった和彦にはそれはあまりに甘すぎた。わずかな忌避感を覚えるほどに。
「――……里見さん、すっかり〈おれ〉に戻ったね。やっぱりそのほうが、ぼくの知っている里見さんらしいよ」
電話の向こうで、里見は数秒ほど言葉に詰まった様子だったが、すぐに笑い声を響かせた。
『また君に会いたいよ。君と一緒に過ごせていた頃が、おれは一番楽しかったし、充実していた』
「機会があれば、そのうち」
返事として正しいのかよく考える間もなく、和彦はそう答えていた。そして、逃げるように電話を切る。こうでもしないと、いつまででも里見と話し込んでしまいそうだったのだ。
携帯電話を充電器にかけてから、やはりどうしても気になり、障子を開ける。もちろん、廊下に人の姿はなかった。
予約状況で想像できていたが、今日もクリニックは忙しかった。
ありがたいことではあるが、いつ長嶺組や総和会から呼び出されてもおかしくない立場である和彦としては、心情としては複雑なところだった。つい二日前に、クリニックの忙しさについて賢吾にも笑われたばかりだ。
清掃を終えて、あとは大丈夫だからとスタッフたちを帰すと、クリップボードを手に一人黙々と薬品庫の在庫確認を行う。今週中に発注をかけておく必要があるものに印をつけながら、長嶺組が管理している薬品庫も近いうちに見ておきたいなと考える。和彦の仕事を増やさないようにと配慮してもらっているが、何もかも他人任せというのも落ち着かない。
薬品庫を施錠してから診察室に戻ると、なんとなく壁の時計を見上げる。終業時間からすでに一時間以上経っていると気づいた途端、どっと疲労感が押し寄せてきた。
暖房を切ってから、帰り仕度のため仮眠室にコートを取りに行く。そこでふと感じるものがあり、ブラインドの隙間から窓の外を見てみる。案の定、雨粒がガラスを叩いていた。雨が降っていると知ったからではないが、急に肌寒くなってきたようだ。
和彦は小さく肩を震わせる。帰宅したら、何より先にバスタブに熱めの湯を張ろうと思った。昨日から自宅マンションに戻っており、本宅のように何から何まで至れり尽くせりというわけにはいかない。一人の時間を欲した結果なので、不満はなかった。
ぼんやりと暗い景色を眺めていた和彦だが、窓の外で黒い影が動くのを見てギクリとする。一瞬、強い雨足による見間違いかとも思ったがそうではない。外の非常階段を歩いている足音がするのだ。
最上階にあるこのクリニックにだけ繋がっている非常階段だ。他の階は、非常階段に通じるドアが塞がれているため、存在を認識している者はほとんどいないかもしれない。長嶺組は、緊急時に患者を運び入れるときなどに利用しているのだが、かつて不埒な目的で活用した男もいた。
「まさか……」
得体の知れない影を見た怯えよりも、この瞬間、期待が上回っていたかもしれない。和彦はふらりと仮眠室を出ると、非常階段に通じるドアに視線を向ける。
見た影が錯覚などではなかったことを証明するように、ドアがノックされた。すぐには動けなかった和彦だが、もう一度、今度は少し乱暴にノックされると、引き寄せられるように足が動いていた。心臓の鼓動が速く、大きく鳴る。
もどかしい手つきで鍵を解いてドアを開ける。そこに、癖のある髪をオールバックにして、不精ひげを生やした彫りの深い顔立ちの男が立っていると信じて――。
「不用心だな、先生。相手も確認せずにドアを開けて」
どこか嘲るような口調で男は言った。和彦は何も言えず、ただ目を見開く。なんの根拠もなく、ドアを開けた先に鷹津がいると思った。
しかし目の前に立っていたのは、南郷だった。
「ど、して……、あなたが――」
歯を剥き出すようにして野蛮な笑みを浮かべた南郷は、和彦を押しのけるようにして中に入ってくる。目の前を通り過ぎた南郷のジャケットは雨で濡れていた。
寒気と危機感に怖気立ち、本能的に和彦は非常階段へと逃れようとしたが、すかさず南郷に腕を掴まれて阻まれたうえに、乱暴にドアを閉められる。有無を言わせず和彦の体は壁に押し付けられた。
数十秒ほど、二人はただ見つめ合う。ただし和彦は怯えながら。一方の南郷は楽しげに。
前回、南郷と顔を合わせたのはいつだったか、どこだったか。混乱した頭でそんなことを考えながら、和彦は問いかけていた。
「……南郷さん、護衛は……?」
「すぐ側で、あんたの護衛が張っているのに、のこのこと連れ立って歩けるはずがないだろう。長嶺組からは、第二遊撃隊は蛇蝎のごとく嫌われているからな」
さりげなく出た〈蛇蝎〉という言葉に、ピクリと肩が揺れた。
「今晩は、俺一人だ」
「雨も降っている中、わざわざ一人で、ここに来られたんですか?」
なんのために――。ようやくわずかに平静を取り戻した和彦は、南郷に対する露骨な警戒と敵意を隠そうとはしなかった。もっとも南郷にしてみれば、捕えることもたやすい小動物のささやかな反抗だとしか感じていないだろう。余裕たっぷりの表情と口調を保ったまま、和彦の腕を掴む力は強い。
「昨日、長嶺の本宅からマンションに戻ったことは報告を受けている。本宅にいられると、あんたに話があるといくら訴えたところで、体よく追い払われるからな。さっそく出向いてきたというわけだ」
「話って……」
「あんたが、自分の父親と会ったとき、本当に鷹津の話題が出なかったのか、確かめたかった」
「……出なかったと答えたはずです」
「いや。さあ、と一言答えただけだ」
足元から寒気が這い上がってくる。威圧的に見下ろしてくる南郷の視線から逃れたいが、壁に押し付けられたうえに腕まで掴まれていると、身じろぎすらできない。
「だったら言い直します。鷹津さんの話題なんて出ませんでした。父は……、彼の存在すら知りませんから」
南郷は、ひどく鷹津の存在を気にかけている。正確には、警戒している。総和会の護衛を欺いて和彦を連れ去ったのだから、南郷の立場からすれば無理からぬことだろうが、鷹津が姿を消したことで、警戒心がより強まったようだ。
和彦の言葉を信じたのか、端から聞く気などないのか、南郷はふいに視線を非常階段に通じるドアへと向けた。
「――ここの非常階段はいい具合に、通りからも駐車場からも死角になっている。あんたが、監視の目を気にせず男を連れ込むには最適というわけだ」
「そんなこと……」
「してるだろ? ドアを開けたときのあんたの顔を見たらわかる。待ちかねていたという顔だった」
南郷はあからさまに一人の男の存在をほのめかしてくるが、和彦は動揺を表に出すまいと努める。さりげなく南郷の体を押しのけようとして、びくともしなかった。反対に、さらに体が密着してきた。髪に南郷の息が触れ、ゾッとする。
「悪いオンナだ。ちょっと目を離すと、あっという間に男が群がってくる。……まあ、俺も人のことは言えないが」
話しながら南郷の指にあごの下をくすぐられ、思わず顔を上げた和彦は、次の瞬間、身が竦んだ。じっと見つめてくる南郷の眼差しの鋭さに、本能的な危機感を覚えた。
「久しぶりに二人きりになれた」
そう囁いた南郷の顔が、すぐ眼前に迫っていた。ああ、と和彦が声にならない声を洩らしたときには、唇を塞がれる。
久しぶりの肉を味わうように、まず上唇を吸われた。執拗に、丹念に。次に下唇にはじわりと歯が立てられ、今にも食い千切られるのではないかという恐怖に、和彦はされるがままになるしかない。歯列に舌先が擦りつけられ、無言の求めに応じておずおずと歯を食い縛っていた力を緩める。南郷の太い鞭のような舌が悠々と口腔に入り込んできた。
感じやすい粘膜を荒々しく舐め回され、上あごの裏にまで舌先が這わされたとき、ゾクゾクするような感覚が和彦の背筋を駆け抜ける。おぞましいと思いながらも、南郷を突き飛ばすことはできなかった。体を強張らせている間に、南郷の両腕の中にしっかりと捕らわれてしまった。
抵抗しない――できない和彦に、南郷は積極さを求めてきた。
「舌を出せ、先生。俺によく見えるように」
後頭部に南郷の手がかかり、髪の付け根をまさぐられる。獰猛な光を湛えている南郷の目を間近から見つめていると、逆らう気持ちなど湧かなかった。
言われるまま舌を出すと、いきなりきつく吸われる。
「もっと出せるだろ」
舌先に軽く歯を立てられて、慌てて従う。あとは、なし崩しだった。
「んっ、あぁ……」
南郷にきつく抱き締められながら、差し出した舌を浅ましく絡め合う。唾液を流し込まれ、反対に啜られて、ときおり舌を甘噛みされたときには背を震わせる。再び口腔に南郷の舌を受け入れて、まさぐられていた。息苦しさに和彦が喘ぐと、ようやく唇が離された。
名残り惜しげに南郷が唇を啄んでこようとしたが、寸前のところで顔を背けて手の甲で口元を拭う。
「もう……、気が済んだでしょう」
「そう思うか、先生?」
南郷がぐっと腰を押しつけてきて、高ぶりを感じる。和彦が愕然としながら見つめると、南郷は楽しげに喉を鳴らして笑った。
「もっとサービスしてくれてもいいだろう。俺があんたに触れられない間に、当のあんたはどんどん色艶が増してきている。鷹津がいなくなったことも、御堂のもとで新しい男と知り合ったことも、自分の父親と接触したことも、何もかもが、あんたをオンナとして磨き上げているってことだ。そんな美味そうなあんたの味見をしておかないと」
芝居がかった下卑た物言いが、たまらなく不快だった。和彦は眉をひそめ、必死に視線を逸らし続けたが、かまわず南郷は続けた。
「――ここで、鷹津と寝たことがあるだろ」
「あなたに、関係ないっ……」
「興奮したんじゃないか。人目を避けて会いに来てくれた男と、職場でするセックスは」
次の瞬間、腰を抱き寄せられ、半ば引きずるようにして歩かされる。南郷は、ドアを開けたままにしていた仮眠室を覗き込むと、そこに和彦を連れ込んだ。
足を引っ掛けられて、よろめいて上体をベッドに倒れ込ませる。南郷に乱暴に両足を抱え上げられた拍子に、履いていたスリッパが床の上に落ちた。
南郷も当然のようにベッドに乗り上がり、二人は言葉もなく視線を交わす。静かな室内に、雨音だけが響いた。
獰猛な獣と対峙したようなものだった。視線を逸らした瞬間に、相手が飛びかかってきて、急所に食らいついてくる。そんな恐れを抱きながら和彦は息を潜め、身じろぎすらできずに南郷の出方をうかがう。よりによって、ここ数日の残業続きで、クリニックから出る時間が遅くなっても不自然ではないのだ。外で待機している護衛の男たちが異変に気づく可能性は、限りなく低かった。
南郷の手が頬にかかり、和彦は嫌悪感を露わにする。手を振り払いたいが、そんなことをすれば、どんな痛い目に遭わされるのかと想像してしまう。南郷に対して、いつも和彦の反応は同じだった。普段は男たちによって守られているが、和彦自身は非力で、臆病なのだ。
「あんたは、捕えやすい獲物だ。ちょっと痛めつける必要も、大きな声を出す必要すらない。俺に射竦められると、ビクビクしながら体を差し出すしかない」
そう南郷に嘲弄された和彦は屈辱からカッとしたが、何も言えなかった。話しながら南郷の手が頬から首筋へと移動し、思わせぶりに撫でられる。着ているシャツのボタンを外されそうになり、短く声を上げ、南郷の手を押しのけようとしたが、低く凄みのある声で言われた。
「丁寧にされるのが嫌なら、シャツを引き裂いてもいいが。コートがあるなら、他人の目はなんとか誤魔化せるだろうし」
南郷なら本当にやりかねないと一瞬にして悟った和彦は、悔しさを噛み締めつつも手を下ろす。満足げに南郷は目を細めた。
言葉で嘲弄されながら、シャツのボタンを外されていく。しかし、屈辱感で打ちのめされる余裕すら、今の和彦にはなかった。胸元が露わにされ、さらに下肢にまで南郷の手が伸び、身につけているものを容赦なく奪い取られる。和彦の体を見下ろして、南郷は雨に濡れたジャケットをゆっくりと脱ぎ捨てた。
南郷の指先が胸元に這わされ、危うく悲鳴を上げそうになったが、寸前のところで押し殺す。
「――あんたは、汚れないな。何人もの男と寝ているくせに、汚くて触れたくないという気にならない。むしろ、俺が汚してやりたいという気持ちになる。長嶺の男たちに気に入られるということは、それだけ特別なんだろう。いや、これは俺の感じ方次第か……」
最後の言葉はほとんど独り言だ。和彦がうかがうように見上げると、興奮を抑えきれないような鋭い笑みを浮かべた南郷と目が合った。ゾッとして身じろごうとしたときには、大きな体が覆い被さってくる。
いきなり首筋をベロリと舐め上げられて息を詰める。硬い感触のてのひらに脇腹を撫でられ、まるで何かを確かめるように慎重に、這い上がってくる。自分ではどうしようもできない反応として、一気に鳥肌が立っていた。肌に触れている南郷が気づかないはずもなく、ふっと息遣いが笑った。
「いつまで経っても俺に慣れない。触れるたびに、律儀に嫌悪感を示す。そんなに俺が嫌いか、先生?」
和彦は顔を背けて返事をしなかったが、かまわず南郷は耳に唇を押し当て、熱い吐息を注ぎ込んできた。
「うっ……」
ねっとりと耳朶を舐められてから、柔らかく歯を立てられる。愛撫のようで、南郷のこの行為は静かな恫喝だと和彦は感じた。いつでも肌を食い破り、血を流させることは簡単なのだと示されているようなのだ。
いつの間にか南郷に顔を覗き込まれていた。力を持った男らしい傲慢な眼差しに、和彦は呆気なくねじ伏せられ、視線を逸らすこともできない。まばたきもできないまま、再び南郷に唇を塞がれていた。
粗野な動作で足を広げさせられ、南郷が腰を割り込ませてきながら、ベルトを緩めている気配を感じる。動揺した和彦が足掻くようにベッドを蹴りつけたが、抵抗にすらならず、南郷はスラックスの前を寛げて悠々と腰を密着させてきた。
燃えそうに熱くなった欲望を、怯える和彦の欲望にゆっくりと擦りつけながら、南郷は激しく濡れた音を立てて唇を吸い上げてくる。荒々しく胸元をまさぐられ、てのひらで転がすようにして刺激された突起がおずおずと凝り始めると、抓るように指で挟まれた。
知らず知らずのうちに和彦は呻き声を洩らしていた。南郷という嵐に呑み込まれながら、どうしようもなかった。
唇を離した南郷が上体を起こし、すでに力が抜けてしまった和彦を見下ろしてくる。
「あんたの体を見ると、長嶺組長にどう愛されたのか、よくわかる」
南郷の指先が這わされたのは、内腿や足の付け根の際どい部分だった。二日前、賢吾に念入りに愛撫されたばかりで、そのときの狂おしい情欲のうねりを和彦はまだはっきりと覚えている。
「あっ、嫌っ……だ」
図々しくも冷静な南郷の指は、和彦の秘められた場所すら容赦なく暴いていく。まだ怯えたままの欲望の形をなぞり、片足を抱え上げられてから秘裂をまさぐられる。
「ひっ……」
探り当てられた内奥の入り口を指の腹で擦られて、和彦は声を詰まらせる。南郷は舌舐めずりせんばかりの喜悦の表情を浮かべた。
「ああ、あんたの感触だな。一見貞淑そうだが、中はとんでもない淫乱ぶりで、どんな男でも喜々として咥え込む」
「痛っ」
濡らすことなく内奥に指が挿入され、引き攣れるような痛みが下肢に走る。和彦は苦痛に顔を歪めるが、かえって南郷の興奮を煽っただけらしく、一本とはいえ太い指を容赦なく蠢かし、付け根まで収めてしまう。そこでまた唇を塞がれて、口腔を舌で犯されながら、内奥も指で犯される。
繊細な襞と粘膜を擦られ、ときおり弱い部分を強く押し上げられて、腰が痺れる。南郷もまた、自分の体の扱いを心得ている一人なのだと、和彦は思い知らされていた。
内奥を掻き回すように巧みな愛撫を与えられているうちに、淫らな肉が否応なく解れていき、見境なく南郷の指を締め付け始める。貪られていた唇が離れると同時に、切ない声が洩れていた。
「――わかるか、先生? あんたのいやらしい尻が、美味そうに俺の指をしゃぶり始めた。やっぱり、一本じゃ足りないよな」
内奥から一度指が引き抜かれたが、南郷の言葉通りにすぐに、今度は二本の指を揃えて挿入された。異物感も苦しさもあったが、悔しいことに痛みはほとんど感じなかった。
「ううっ、うっ、うっ……」
内奥で大胆に指を動かされながら、胸元に南郷の愛撫を受ける。じっくりと胸の中央を舐め上げられてから、いつの間にか敏感に熟した二つの突起の一方を口腔に含まれていた。きつく吸われて、尖った先を舌でヌルヌルとくすぐられると、上擦った声を洩らした和彦は背を反らす。もう片方の突起を歯列で擦られてから甘噛みされたときは、抱えられた片足を揺らしていた。
「んあ、ぁ……、い、や――。もう、やめ……」
内奥から出し入れされていた指が、思わず出た和彦の言葉を受けたように、ふいに抜き取られる。南郷は、愛撫に蕩けかけた和彦の体を眺め、機嫌よさそうに喉を鳴らして笑った。
「俺が嫌いなくせに、よく感じる。前々から思っていたが、あんたはマゾヒストの資質があるな。痛めつけられるのを極端に嫌うのは、もしかして反対に、痛めつけてほしい願望があるんじゃないかと勘繰りたくなる」
和彦の脳裏にふっと浮かんだのは、賢吾と千尋を同時に受け入れた行為だった。愛着とも呼べる感情を抱ける痛みがあるのだと二人は教えてくれたが、それ以前に、守光にはこう言われていた。本当に痛みに弱いんだろうか、と。
痛みは苦手だ。痛みを与えようとする素振りを見せられただけで、心が折れそうになる。和彦は無意識のうちに、すがるように南郷を見上げていた。その南郷が真剣な顔となり、いきなり和彦の欲望を握り締めてきた。少し前まで怯えていたものは、内奥への執拗な愛撫によって熱くなり、緩く身を起こしていた。
「ふっ……、んんっ」
括れを強く擦り上げられて、鼻にかかった声を洩らす。濡れた先端を爪の先で弄られると、浅ましく腰が揺れていた。
再び南郷が腰を密着させ、ますます嵩を増した欲望の存在を誇示する。和彦は片手を取られ、その欲望を握らされた。南郷の求めはわかった。顔を背け、息を喘がせながら、握らされたものをぎこちなく扱く。南郷もまた、和彦のものを手荒く扱き始める。
しばらく言葉はなく、二人の荒い息遣いと、外から聞こえる雨音がすべての音となる。
否応なく快感を引きずり出されて和彦は上体を捩り、なんとか抗おうとしたが、南郷はそんな和彦を容赦なく追い詰め、攻め立てる。結局、深い吐息を洩らして、大きなてのひらの中で果てていた。
和彦が吐き出した精をわざわざじっくりと眺めてから、南郷が皮肉げな口調で言う。
「溜まっていたわけじゃないんだな、先生。あんまり愛想がいいから、欲求不満なのかと思ったが……、あの長嶺組長に限ってそれはないか」
和彦を射精させたからといってそれで満足する南郷ではなく、今度は自らの欲望を握り、まるで見せつけるように手早く扱いたあと、和彦の腹の上に精を迸らせた。
まるで儀式のように、南郷は自分の精を指で掬い取り、和彦の内奥の入り口をまさぐってきた。南郷はなぜか、和彦の中に己の証を残したがる。それとも、単に汚したいだけなのか。
嫌悪と困惑と怯えを含んだ目で見上げていると、薄い笑みを口元に湛えたまま南郷は内奥に指を挿入した。また指の数を増やされたが、苦しくはなかった。それどころか自ら迎え入れるように淫らな蠕動を始め、和彦はヒクリと下腹部を震わせた。
襞と粘膜を擦り上げるようにして、南郷の精を何度も塗り込められていく。必死に声を堪えようとしていると、それに気づいた南郷に、内奥の浅い部分を強く刺激された。
「あっ、ああっ……、あっ、んあっ」
「――俺は簡単に、あんたを押さえつけられるし、こうして体を開くこともできる」
南郷が唐突に話し始めるが、執拗な愛撫は止まらない。
「いままで何回もあんたに触れてきて、寝込みも襲った。さて、そんな俺の行動に疑問を感じなかったか?」
疑問なら、今この瞬間も感じている。どうして南郷は、危険を冒してまで自分に――長嶺の男たちのオンナに触れてくるのかということだ。しかし南郷が口にしたのは、違う答えだった。
「俺がどうして、あんたを犯さないか」
物騒な言葉を言い切った南郷が、内奥から指を引き抜く。和彦が顔を強張らせると、南郷はニヤリと笑った。
「先生、あんたを〈まだ〉犯せない。今はこうして触れて、互いに慣れておくだけだ」
「……慣れる、って……」
「あんたにとって大事なのは、長嶺の男にとって可愛く従順なオンナであることだけだ。そして――末永く長嶺組長に可愛がってもらってくれ。それこそ、他の男にはもう触れさせたくないと、お前は俺の半身だと言わしめるぐらいに。そうなったら、寛容な長嶺組長もさすがに、淫奔なあんたを檻にでも閉じ込めるかもな。……ああ、そうなると、うちのほうで進めているクリニックの話に支障が出るな。まあ、とにかく、長嶺組長と仲良くやってくれたらいい」
あの人はそれを望んでいる、と南郷は続けた。
『あの人』とは誰か、まっさきに頭に浮かんだ人物の名を口にしようとした和彦だが、覆い被さってきた南郷に唇を塞がれて言葉を奪われる。一方的に唇と舌を激しく吸われ、呼吸すらも止められかねない深い口づけに、厚みのある大きな体の下でもがいたあと、四肢を投げ出していた。力では、絶対に南郷には敵わない。
長い口づけのあと、ようやく満足したように体を起こした南郷は、一人さっさと身支度を整えてベッドを下りる。シェルフの上に置いたティッシュボックスを掴むと、枕元に置いた。
「俺がきれいにしてやろうか?」
「……けっこうです」
和彦は、だるい体をなんとか起こしたものの、頭がふらついてすぐには動けなかった。そんな和彦を、南郷は立ち去るでもなくじっと見下ろしてくる。寸前までの淫らな行為の余韻など一欠片もない、ひどく冴えた表情をしていた。
「南郷さん、さっきの――」
「今晩は、しゃべりすぎた。久しぶりにあんたに触れて、らしくなく浮かれていたようだ」
また、はぐらかされた。つまり、しゃべりすぎたというのは、本当なのか――。
和彦はなんとか思考を働かせようとするが、それをさせまいとするかのように、畳みかけるように南郷が切り出した。
「忘れてもらっちゃ困るが、あんたが最優先に考えないといけないのは、自分の父親と上手く渡り合うことだ。オヤジさんが、佐伯俊哉というエリート相手にどういう絵図を描いているのか、さすがの俺もそれはわからない。ひどく警戒している一方で、懐かしんでいることだけは、傍で見ていて感じるんだがな」
「――……ぼくは、守りますよ。長嶺の男たちを、父から」
南郷は一拍置いてから、わずかに唇の端を動かした。もしかして、笑ったのかもしれない。仮眠室を出ていきながら、南郷はこう言い置いた。
「俺は今晩、ここには来なかった。あんたも、ここで男と逢引きなんてしたことはなかった。……いい取引だろ?」
和彦の返事を聞くことなく、南郷の姿はドアの向こうに消えた。
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