その傷口を一目見て、和彦はゾッとした。
長嶺組や総和会から依頼される仕事によって、通報事案に値する怪我の治療もこなし、経験を積んできているが、どうしても慣れないものがある。
消毒をする和彦の手が止まったことで不安を覚えたのか、ベッドに横たわった男が苦しげな息の下、言葉を発した。
「先生、どうかしましたか?」
「あっ、いや……、なんでもない、です」
四十代半ばに見える男は、苦痛に顔をしかめてはいるものの、非常に落ち着いていた。普通の人間なら、刃物で太腿を刺され、それなりに出血したとなったら、こうはいかない。そもそも、その場から動くこともできないだろう。
しかしこの男は、自分で足の付け根をネクタイで縛って止血をして、安全な場所へと移動してから、組に連絡して助けを求めた。
男への攻撃は、太腿への刃物による一刺しだけ。ためらいのない、美しいとすらいえる傷口が示すのは、明確な殺意だった。
「……あと少し刺される場所がズレていたら、動脈が傷ついていましたよ」
「マッサージを受けている最中で、ちょっとばかり無防備になっていたんです。咄嗟に身を捩ったおかげですね、助かったのは」
襲撃者を蹴りつけて逃げ出してきたと誇らしげに言われ、和彦としては返す言葉がない。
「朝まで待って、医者を寄越してもらうつもりだったんですが、『バカ野郎っ』と、うちの組長に一喝されまして……。まさか、佐伯先生みたいな、きちんとした医者を呼んでもらえるとは思っていませんでした」
この患者の中で医者のランク付けはどうなっているのだろうかと、気にならないわけではないが、今は治療が優先だ。和彦はさっそく局所麻酔をかける。
麻酔が効き始めるにつれ、男の苦痛の表情がわずかに和らぐ。治療に立ち合っている組員たちの様子をうかがいながら、和彦は気になったことを問いかけた。
「ぼくのことを、知っているんですか?」
「うちの組は、よく佐伯先生に世話になっていると、組長が話していました」
「組長……。あの、難波組長が、ですか?」
「そうです、あの難波組長が」
和彦としては苦笑を浮かべるしかなかった。初めて聞く名ではない。それどころか、今のような生活を送るようになってから、ある意味、馴染み深いともいえる名だ。
昭政組の組長である難波との初対面は、最悪というイメージで和彦の記憶に刻み込まれている。
難波の愛人である由香の治療のために呼ばれたとき、長嶺父子の〈オンナ〉という立場を侮辱されたのだ。和彦としては、味わった屈辱感を自分の胸に仕舞っておきたかったが、しっかりと賢吾の耳に入ってしまい、難波に何かしら釘を刺したらしい。
その後、由香が受けたいという美容整形の相談に乗ったり、難波の息子の治療をしたりと、あくまで医者としての立場で繋がりを持っていた。難波本人と顔を合わせることはなくなったが、どうやら使える医者として認識はされていたようだ。
「……ありがたいことです。それはともかく、しかし、物騒な傷ですね」
「病院に駆け込めなかった理由が、一目瞭然でしょう?」
普段、治療をしながら、こんなふうに会話を交わすことはあまりないのだが、緊張が解れたのか、気を紛らわせるためか、男は気安く話しかけてくる。
「こんな世界に長く身を置いていると、ときどき嫌な風を感じるときがあるんですよ。人心を掻き乱すザワザワするような、落ち着かない風です。最近、その風が吹いているような気がすると思ったら、この様です」
興味深い例えだった。総和会との関わりが深くなり、耳に入る情報はなるべく頭に留め、想像力を働かせるようにしている和彦だが、自ら積極的に情報収集をすることはまずない。人や組織にとって、どこに地雷が埋まっているかわからず、無用なトラブルを避けるためだ。
和彦は傷口の消毒をしながら、少しだけ好奇心に身を委ねることにした。
「何か心当たりがあるんですか?」
「この怪我は、新興の跳ね返りの組とのいざこざのせいですが、総和会の耳に入らないようにしたいんです。そこで今回、総和会を通してではなく、長嶺組長に直接、うちの組長が頼み込んだという事情があります」
だからかと、和彦は心の中で呟く。これまで昭政組からの依頼を請け負った場合、和彦の身は、長嶺組から総和会へと預けられる形を取っていた。それは、昭政組に限ったことではなく、総和会が仕事を仲介した場合、どの組織、個人でも同じ手順を踏んでいる。
しかし今回、和彦は長嶺組の車で直接、今いる雑居ビルの一室へと送り届けられたのだ。
「総和会を介さないで、人や物を組同士間で直接行き来させるのを、総本部は嫌がります。そういったことをよくご存知の長嶺組長ですが、〈心当たり〉のおかげで、今回は佐伯先生を寄越してくださったんでしょう」
和彦は黙って聞きながら、さっそく縫合に取りかかる。
「最近、総和会の中で密やかに、ある噂が流れているんです。長嶺会長が、総和会の中の組織改革を目論む……というのは表現が悪いですが、計画しているようだと」
「ぼくも、その噂なら聞いたことがあります」
「その組織改革の一つに、創設当初から名を連ねている十一の組の数を変更するのではないか、というものがありまして……。佐伯先生も薄々とながら感じているでしょうが、十一の組の力は同等じゃありません。昔より、構成員の数と資金力の格差が大きくなっています。正直、力のある組に、力のない組がぶら下がっているという部分が、ないとも言えません。不公平だと不満を抱えている組があるのも確かです」
さすがに自分の体が縫われている様は直視したくないのか、話しながら男は、振り返るようにしてブラインドを下ろした窓に顔を向ける。
空調が利いていない室内は、血と汗の匂いが入り混じっている。できることなら窓を開けて換気したいところだが、それはさきほど止められた。外はすでに夜の闇に覆われ、普段使っていない部屋に電気がついていると目立つのだそうだ。
「だからといって、総和会の今の枠組みを壊したいかというと……、どうでしょう。組を減らすにしても、増やすにしても、揉めることになるでしょう。あくまで噂レベルの話とはいっても、浮き足立つ組はあります。古き良き助け合いの精神なんてものは、締め付けの厳しいこの時代には足枷でしかないと、長嶺会長が言い出してもおかしくない。幹部会に提議するための下調べを、もう始めているとしたら――」
男がブルッと身を震わせる。その反応が、総和会会長としての守光の恐ろしさを物語っているようだった。
御堂と親しくなったことで和彦は、清道会という組織の一端に触れた。清道会組長補佐の綾瀬と知り合い、清道会会長に挨拶もした。それらの出会いの中で、総和会会長の交代劇に遺恨めいたものを残していると肌で感じ取ったし、断片的な情報も耳に入る。
守光は、和彦に対しては穏やかな物腰を崩さないが、総和会を取り仕切る立場にいて、大多数の者には苛烈な面を見せているのだ。
「噂だけでも、威力は絶大です。極道の身で、こんな言葉を使うのもおかしいですが、皆、品行方正に努めようとしています。総和会の目は、どこに光っているかわかりません。大きなトラブルになりかねない火種を抱えた組は、特に」
「ああ、それで、長嶺組長が……」
「つい何日か前、うちの組長が幹事となって、会食――というほど仰々しいものではなく、砕けた雰囲気の食事会を催したんです。そのとき、長嶺組長にいろいろと相談に乗っていただいたそうです」
和彦は、賢吾の口から『会食』という言葉が出たことを覚えていた。最近、何かと誘いが多いとも言っていたが、もしかすると男が抱いている危惧が関係あるのかもしれない。
総和会において、賢吾の立場は複雑だ。現会長の息子であり、総和会の中で最大の勢力を誇る組を率いてもいながら、その総和会に対してどこか忌避的である。だからこそ相談を持ちかけられたのだろうが。
手を動かしながらも和彦が思索に耽っていると、部屋のドアがノックされる。和彦が応じると、大仰に一礼して若者が部屋に入ってきた。男が手招きをすると、大股で側まで歩み寄ってくる。今度は和彦に目礼してから、若者は男に耳打ちした。
二人は小声で会話を交わし、聞き耳を立てるようなまねをしたくない和彦は、手元に意識を集中する。すぐに若者は出て行った。
「――うちの若い者ですが、このビルの周囲を見張らせているんです。妙な奴がうろついていないか。……不気味なんですよ。総和会の第二遊撃隊の動きが」
「南郷さんのところですよね。不気味というのは……?」
意識せずとも和彦の声は暗くなる。夜闇と雨に紛れるようにして南郷がクリニックにやってきたのは、ほんの二日前だ。二人の間にあったことは、誰にも――賢吾にも知らせていない。
和彦は腹の奥で静かで冷たい怒りを、ずっと抱き続けていた。
縫合を終えた傷口を保護するため、テープを貼ろうとすると、男が顔をしかめながら覗き込んでくる。和彦はちらりと男を見上げた。
「第二遊撃隊の何が不気味なんですか?」
「えっ、ああ……、あの隊は、長嶺会長のためならなんでもしますからね。どの組にも隠したいことはあるが、犬並みの嗅覚で探り当てる、と言われています。そういう連中に対しては、どうしたって慎重になります。うちの組だけじゃなく、今回は長嶺組長にお世話になっているわけですから、これ以上迷惑をかけるわけにもいきません。当然、佐伯先生にも」
「……第二遊撃隊全体のことはよくわかりませんが、南郷さんは鋭いですね。いろいろと」
和彦の口調に含まれる苦々しさを感じ取ったのか、怪我を負った男から気遣うような視線を向けられ、さらにこう言葉をかけられた。
「佐伯先生も苦労されているようですね」
はい、と頷くわけにもいかず、和彦は曖昧に首を動かした。
賢吾が持たせてくれたクリニックに、和彦は愛着を抱いている。開業に向けて改装工事に立ち合い、インテリアなどを自分で選び、長い時間を過ごしている場所だ。
その場所を、南郷の無法な訪問によって〈穢された〉と感じる自分に、和彦は驚いていた。
こんな形で、クリニックが職場以上の価値を持つものであると痛感したところで、和彦はまったく嬉しくなかった。気分転換という表現も変かもしれないが、せめてもの対処として、契約している清掃業者にいつもより早めに入ってもらおうかと、本気で検討していた。
ビルから出ようとして空を見上げた和彦は、ため息をついて傘を差す。また、雨が降っていた。頭がひどく重いが、おそらく天候の悪さは関係なく、睡眠不足が原因だろう。
昨夜――治療を終えたときにはもう日付が変わっていたが、殺されかけた昭政組の組員は、今朝はもう車イスに乗って元気に事務所に出ていると、賢吾からのメールで教えられた。少しばかりの睡眠時間と引き換えにした甲斐はあったと、和彦が微笑ましい気分になったのは一瞬で、数日は安静にするよう指示を出した身としては、眉をひそめずにはいられなかった。
この世界で生きる男たちに、無理はするなと忠告するだけ野暮なのだろうとわかっていても。
ふいに強い風が吹き、和彦は咄嗟に傘の柄を強く握る。普段であれば、こんな天気の日には外を出歩こうとは考えないのだが、近くのファミリーレストランに昼食をとりに行くという名目のもと、冷たい空気に当たって頭をすっきりさせたかった。それに昨夜男から聞いた話が、なんとなく気になってもいる。
第二遊撃隊の人間が、自分の周りをうろついているのではないか、と。
今のような生活を送るようになってから、護衛であったり尾行がつく状況を、和彦はとっくに受け入れている。非力な自分を守るためにと、男たちが尽力してくれているという意識があるためだ。しかし相手が第二遊撃隊――南郷だと思うと、どうしても不愉快さがつきまとう。
和彦はくるりと傘を回してから、さりげなく周囲に目を向ける。日中の大半はクリニックの中で過ごすということで、昼間は長嶺組・総和会双方からの護衛はついていない。かつては、長嶺組の組員に昼間もしっかり見守られていたが、里見と密会していた一件を経て、時間をかけてようやく今の状況に至ったのだ。
和彦の職場環境を〈なるべく〉乱さないという暗黙のルールが、ようやく行き渡った結果だと考えるようにしているが、長嶺組はともかく、日常の破壊者ともいえる南郷がいつまで守ってくれるか、甚だ疑問だった。
苦労して胸に押し込めている怒りが、ふとした拍子に湧き上がる。南郷の野蛮な笑みが脳裏をちらつき、一気に食欲が失せかけるが、だからといって、来た道を引き返すのも癪だった。
半ば意地でファミリーレストランに到着すると、本格的に混み合う前だったため、和彦は運よく窓際の席に座ることができた。雨の中を出歩くのはうんざりするが、雨が降る景色をぼんやりと眺めるのは気持ちが落ち着くのだ。
ランチを頼んで、頬杖をつく。窓の外の通りを歩く人たちの姿よりも、その人たちが差すさまざまな色合いの傘に目を奪われる。そんな中、ビニール傘を差した青年が足を止め、ファミリーレストランの店内の様子をうかがってきた。まるで誰かを探すように。
青年と目が合った和彦は、反射的に姿勢を正す。一方の青年のほうは軽く目を見開いたあと、傘を畳んで足早に店内に入ってくる。案の定、和彦がいるテーブルに近づいてきた。
シャツの上からジャケットを羽織り、チノパンツという格好で、美容室で手入れしているのだろうなと思わせる髪色とカットの仕上がりのよさを、和彦は素早く見て取る。少し前に南郷が、小野寺と紹介してくれた青年だ。その場には加藤もいたのだが、ずいぶんとタイプの違う二人だった。
無表情のまま小野寺が頭を下げる。このとき胸元でシルバーのネックレスが揺れた。
格好だけなら小野寺は、華のある甘い顔立ちもあって、苦労知らずの大学生に見えた。それが実は、世に悪名を轟かせる組織の中で、どんな仕事でもこなす隊に所属しているのだから、人の見た目は本当にあてにならない。
もっとも和彦の周囲には、そんな男がけっこういる。例えば――。
「中嶋くんは?」
唐突な和彦の問いかけに、動じた様子もなく小野寺は首を横に振る。
「俺だけです」
「……加藤くんの件を知らないのか」
和彦は露骨に不機嫌な表情を浮かべたが、それでも小野寺は動じない。
「それは、あいつがドジを踏んだから大事になったんです。俺は正式に、隊から……というより、南郷さんからの使いで来ました」
南郷と聞いて、和彦の口元はピクリと引き攣る。小野寺を睨め上げたが、その反応をどう受け止めたのか、和彦の承諾も得ないで向かいの席についた。
「おい――」
和彦は抗議しようとしたが、すかさず差し出された紙袋に気を取られる。紙袋に印刷された上品なデザインには見覚えがあった。いつだったか患者が差し入れとして持ってきた、有名な洋菓子店のものだ。
どういうつもりかと理由を問おうとして、今度は頼んでいたランチが運ばれてくる。小野寺は居座るつもりらしく、ちゃっかりメニュー表を開いている。
声を荒らげるのも大人げなくて、呆れて小野寺を見ていた和彦だが、すぐに目を丸くする。
ここまで、不貞腐れているのかと思うほど無表情だった小野寺が、ウェイトレスの女の子に思いのほか優しい笑顔を見せ、柔らかな声音で注文をしている。この場面だけ切り取れば、目の前にいるのは完璧な好青年だ。
ただ、それなりに人を見る目を養ってきたと自負している和彦が感じたのは、女の扱いに慣れているなということだった。
ウェイトレスが立ち去ると、小野寺は無表情に戻る。意地悪や皮肉のつもりはなかったが、和彦は率直にこう口にしていた。
「ぼくには愛想がないんだな」
さすがに虚をつかれたのか、小野寺は目を丸くする。その反応に、ささやかな満足感を覚えた和彦は、軽い口調で続けた。
「そういえば、加藤くんも愛想がなかった」
「……あいつと比べられるのは心外です」
「だが、彼のほうが可愛げがあった」
忌々しげに一瞬だけ、小野寺は唇を歪めた。その様子に和彦は、なるほど、と心の中で呟く。もともと感情表現は素直な性質なのだろう。それが、一人前の極道のように感情を押し殺せていたのは、おそらく近くに南郷がいたからだ。有能な隊員を印象づけたかったのか、単に南郷が恐ろしかっただけなのか。
自分相手だと気安いというのもあるんだろうなと、和彦はひっそりと苦笑を洩らす。そもそも年若い青年が、和彦のような立場にある男に好印象を抱く可能性は低い。それが普通なのだ。
「――……それで、この袋はなんなんだ」
和彦は、テーブルの上に置かれたままの袋に手をかける。
「南郷さんに頼まれました。佐伯先生に失礼なことをしたので、お詫びの品として受け取ってほしいと」
「その……、失礼なことについては、何か聞いているのか?」
「粗相をして、佐伯先生の大事なものを汚してしまったとだけ」
和彦にだけ通じる言い方をしているのが、なんともいやらしい。南郷の野蛮な笑みがまた脳裏を掠め、そっと眉をひそめる。和彦のわずかな変化に気づいたらしく、小野寺は無遠慮な眼差しを向けてきた。
「どうかしましたか、佐伯先生?」
「別に。南郷さんがどう感じたかは知らないけど、ぼくは気にしてないから、お詫びの品なんて受け取るつもりはない」
「そう言われるだろうから、これはクリニックの皆さんで食べてほしいとも、言付かりました」
小野寺が袋を傾け、中を見せてくれる。きれいに包装された箱が入っていた。
「適当にお菓子を詰め合わせてもらいました。とりあえず受け取ってください。あとは、捨てるなりご自由に。俺としては、南郷さんにきちんと報告できればそれでいいので」
物言いに可愛げと素直さがないなと思いながら、仕方なく受け取る。お菓子に罪はないので、スタッフたちで分けてもらうしかないだろう。
紙袋を傍らに置いて、ようやく箸を手にした和彦は、ちらりと小野寺を一瞥して告げた。
「用が済んだら、別のテーブルに移動してくれないか。職場の近くなんだ。一緒にいるところを見られたくない」
「――もう遅いと思いますよ」
小野寺が軽く指さしたほうを見ると、少し離れたテーブルに、クリニックのスタッフ二人がついていた。和彦と目が合うなり笑って手を振ってきた。小野寺と話し込んでいる間に入店したようだ。
和彦は大きくため息をつくと、小野寺をテーブルから追い払うのは諦める。南郷の指示なのだろうが、あえてクリニックの近くで接触してくるやり方に腹は立つが、寄越されたのが小野寺で、助かったとも思った。見た目だけなら、小野寺は無害そのものだ。あくまで見た目だけ。
「あの人たちに、俺と佐伯先生の関係って、どんなふうに見えているでしょうね」
「……さあ」
「まさか総和会の人間同士だとは、思いもしないだろうな……」
思わずきつい眼差しを向けると、小野寺は皮肉っぽく唇の端を動かした。
「今の佐伯先生の反応、もしかして、自分は総和会の人間ではないと思っているということですか?」
「君に言う必要はないだろう。……無遠慮で無神経なのは、南郷さん譲りなのか。第二遊撃隊の人間をそんなに知っているわけじゃないが、少なくとも中嶋くんや加藤くんとは、話をしていて不愉快になったことはない」
「加藤はよくわかりませんが、中嶋さんは――特別ですよ。あの人は、佐伯先生のために隊に呼ばれたような人ですから」
一瞬、小野寺の表情を過ったのは、嘲りの感情だった。第二遊撃隊の中の人間関係に興味がないわけではないが、それでなくても今は、自分のことでいっぱいだ。度を過ぎた好奇心は、今の和彦には単なる毒にしかならない。
「君の言葉が本当なら、中嶋くんのことだけは、南郷さんに感謝しないといけないな。それ以外では――」
続きを聞きたそうな素振りを見せた小野寺を無視して、和彦は食事を続ける。大人げないと自覚するほど邪険な態度を取っているつもりだが、小野寺は痛痒を感ぜずといったところか、こんなことを言い出した。
「中嶋さんだけじゃなく、俺にも慣れてください。南郷さんはどうやら、そのうち俺と加藤を――もしかするとどちらかを、佐伯先生の専属の護衛としてつけたいみたいなので」
「この間、確かにそんなことを言っていたな。……ぼくの意見も聞かずに」
胃の辺りが一気に重くなるのを感じて、和彦は顔をしかめる。意見を求められない自分の立場を甘受してはいるのだが、南郷から一方的に押し付けられるとなると、話は別だ。強い反発心が芽生えるが、目の前の小野寺にぶつけるわけにもいかない。
和彦はグラスの水を一口飲んでから、早口に告げた。
「どんな理由があるにしても、職場の周りをうろつかれると迷惑だ。南郷さんにも伝えておいてくれ」
「俺が、ですか?」
「他に誰がいる」
「俺を佐伯先生のお世話係として認めてくれるなら、引き受けます」
「……だったらぼくが、南郷さんに直接電話をして言う。大変、無礼な態度を取られたから、二度と小野寺くんをぼくに近づけないでくれと」
小野寺は返事をしなかったが、和彦はあえて無視して、エビフライを黙々と食べる。言おうと思えば自分だって、相手の嫌な部分を攻撃することだってできるのだ、と心の中で呟きながら。
多少なりと己の自惚れと傲慢さを噛み締めることができたのか、ランチを食べ終えて和彦がさりげなくうかがうと、小野寺は神妙な顔となっていた。小野寺の分のランチも運ばれているが、まったく手をつけていない。
ここで罪悪感が疼いてしまうのが、自分のダメなところだろうと、和彦は思わず洩れそうになったため息を誤魔化すように、紙ナプキンで口元を拭う。
「――……さっきのは冗談だ。ぼくのことで他人が叱られるなんて、気持ちがよくない。できることなら、南郷さんに連絡も取りたくないし」
「でも、加藤の件では、連絡したんですよね?」
顔つきは神妙なまま、小野寺は挑むような眼差しを向けてくる。和彦の頭に浮かんだのは、対抗心という言葉だった。加藤とは同年代で、同時期に第二遊撃隊に入ったらしいので、小野寺としてはどうしても張り合ってしまうのだろう。
「あのときは切羽詰まっていたからだ。……だいたい南郷さんには、君らを紹介されたとき、ぼくの生活には立ち入らないよう言っておいたんだ。それが、次から次に……」
和彦は控えめな抗議を口にしながら外の通りへと視線を向ける。そこで、こちらをうかがっている人影に気づいて目を瞬かせる。誰かと思えば、和彦の護衛をしている長嶺組の組員だ。ファミリーレストランで昼食をとる和彦の姿を確認しようとして、いつもとは様子が違うと感じ取ったようだ。
普通のビジネスマンらしい装いをしている男が、鋭い空気を放ちながら、物言いたげな表情を浮かべている。何かあれば、即座に店内に飛び込んでくるつもりだと察し、慌てて和彦は席を立つ。訝しむように小野寺が見上げてきた。
「佐伯先生?」
「もう行く。君はゆっくり食べていろ」
一瞬ためらいはしたものの、洋菓子店の紙袋を持ってテーブルを離れる。
店を出ても、さすがに組員はすぐに駆け寄ってきたりはしなかった。和彦は真っ直ぐクリニックに戻るわけにはいかず、とりあえずコンビニに立ち寄り、何げないふうを装って雑誌コーナーの前に立つ。
一分ほど遅れて、組員が静かに隣に立ち、雑誌を手にした。
「――あのガキ、総和会の第二遊撃隊の者ですね」
その通りなのだが、吐き捨てるような『ガキ』呼ばわりに、和彦は苦笑する。
「ああ。南郷さんから頼まれたと言って、これを持ってきた」
和彦は、紙袋を軽く掲げて見せる。当然のことながら組員は、なぜ、という顔をした。
「ぼくに無礼を働いたから、お詫びのつもりらしい。それと、さっき一緒にいた子を、そのうちぼくの世話係にしたいと考えているようだ」
「申し訳ないですが、その、先生に対する無礼というのをこちらは把握してないのですが。よろしければ、教えてもらっていいですか?」
不本意ながら和彦は、南郷が小野寺にした説明に倣う。さすがに、〈大事なもの〉についてまでは聞かれなかった。
「……まったく、あちらには困りますね。うちにはなんの連絡も入ってませんよ」
「ぼくを、あちら側の人間なんだから、わざわざ連絡する必要はないと思っているのかもしれない。もしくは、嫌がらせ――」
組員は不快そうに顔をしかめたあと、小さく舌打ちしたが、和彦の視線に気づいて慌てて謝罪してきた。
「すみません。一番困っているのは、先生なのに」
「困るというか、なんというか……。ぼくだって舌打ちの一つもしたいけど、振り回されすぎて、その元気もない」
力ない声でぼやいた和彦は栄養ドリンクを一本買うと、組員に見送られながらクリニックへと戻った。
今日は賢吾からよくメールが送られてきたと、クリニックを施錠した和彦はエレベーターホールに向かいながら思う。
午前中は、昨夜治療した昭政組組員の様子を知らせる内容だったが、午後からは、小野寺が接触してきたことに関する内容へと変わった。
護衛の組員から報告を受けたというメールに始まり、さっそく総和会、さらには第二遊撃隊にまで連絡を入れたらしい。診察の合間にメールをチェックしていた和彦だが、珍しく賢吾が逐一状況を知らせてくるため、次第に大事になっているようで、気が気でなかった。
何より気がかりだったのは、南郷の口から、クリニックでの出来事が賢吾に伝わるのではないかということだ。最後に届いたメールを読む限りでは、連絡の行き違いということで南郷が詫びる形で収まったようだが、実際のところ、どんなやり取りが交わされたのか、和彦には知りようがない。
下手に賢吾に確認を取ろうものなら、恐ろしい大蛇の尾を踏みかねなかった。
仕事の忙しさによる疲労に、精神的疲労と睡眠不足まで重なり、エレベーターに乗り込む和彦の足取りは覚束ない。エレベーターが一階に降りるまでのわずかな間にすら、立ったまま意識が飛んでいきそうになる。
なんとか迎えの車に乗り込むと、身を投げ出すようにしてシートにもたれかかっていた。目を閉じながら和彦は、手探りでシートベルトを締める。
「あー、疲れた……」
独り言のように呟くと、あとはもう口を動かすことすら億劫になる。今日の賢吾の様子を聞いておきたいと考えていたのだが、車が静かに走り始めたときには、和彦の意識は半ば眠気に搦め捕られていた。それでもなんとか、これだけは確認しておく。
「今日、本宅に寄らなくて、いいのかな……。組長に、面倒をかけたようだから――」
「先生が気に病む必要はありません。すでにもう、南郷隊長と組長の間で話はつきましたから。クリニックとその周辺に、長嶺組の許可なく接近することを一切禁じる、と書面を交わすことになったそうです」
案の定、大事になっている。これまでは暗黙のルールであったものが、とうとう明文化されるのだ。
苦々しい気持ちになった和彦だが、一方で、南郷に対してわずかながら溜飲が下がる思いもあった。非力な自分に対して傍若無人に振る舞う男が、より強い力を持つ男には頭を下げざるをえないのだ。その光景を想像すると、暗い愉悦を覚えそうになるが、すぐに和彦は我に返る。
南郷は愚鈍ではない。むしろ、粗野で暴力的な印象を与える見た目とは裏腹に、頭が切れ、繊細な気遣いができる。和彦に対しては違う面を見せているが、それでもこの世界での礼儀と常識を備えている男だ。そんな男が、目立てと言わんばかりに、長嶺組が管理しているクリニックの側で、自分の隊の隊員を和彦に接触させてきた。
二日前の南郷の行動と、昨夜、昭政組の組員を治療しながら聞かされた話が、チクチクと神経を刺激してくる。
そうなのだ。まるで南郷は、わざと長嶺組を――賢吾を刺激しているようだ。
「嫌な、感じだ……」
南郷に体に触れられるのも嫌だったが、その南郷に賢吾が煩わされていると思うと、強い苛立ちを覚える。同時に、対処を他人任せにするしかない自分がもどかしい。
大事に扱ってくれる男たちに、せめて自分は何ができるだろうかと考える。佐伯家の事情に巻き込みたくないとは思っているが、和彦を取り巻く問題はそれだけではない。総和会と長嶺組の関係に、長嶺の男同士の関係も深く関わってくるのだ。
帰宅したら、せめて賢吾に電話しておこうと思っているうちに、車の心地よい振動に促されるように眠気が強くなり、抗えなかった。ほうっと吐息を洩らして目を閉じる。
軽い居眠りのつもりだったがしっかり寝入ってしまったらしく、軽く肩を揺すられる感触に、和彦の意識は少しだけ浮上する。
先生、と控えめに呼ばれて、夢を見ているのだと思ったが、冷たい空気に頬を撫でられて、眠気は一気に霧散した。パッと目を開けると、なぜか三田村の顔が近くにあった。状況がわからず硬直する和彦に、三田村は優しい眼差しを向けてくる。
「もう少しだけがんばってくれ」
耳に馴染むハスキーな声で言われ、意味がわからないまま頷いた和彦はシートベルトを外し、差し出された手を反射的に掴む。車を降りてすぐに、小さく声を洩らす。自宅マンションに帰り着いたとばかり思っていたが、そうではなかった。三田村が、和彦との逢瀬のために借りているマンションの前に、車が停まっていたのだ。
いまだに状況が掴めず戸惑う和彦の傍らで、三田村は護衛の組員たちと手短に会話を交わし、荷物を受け取っている。
「行こうか、先生」
三田村に促され、我に返った和彦はぎこちなく歩き出しながら、その場に留まっている組員たちを振り返る。心配ないと言いたげに、頷いて返された。
組員たちの姿が見えなくなり、車が走り去る音がしてから、ようやく口を開く。
「――……こんな予定だなんて、聞かされてなかった」
言ったあとで、なんだか非難がましくなってしまったと、和彦は慌てて言い募る。
「嫌というわけじゃなくてっ……、今晩は部屋に戻ったら、さっさと寝るだけだと思っていたから、びっくりしたんだ。誰も何も言ってくれなかったし、何かあるなんて素振りも見せなかったし」
「昼過ぎに、組長から連絡があったんだ。今日の先生は一人にしておきたくないが、本宅のほうはちょっとピリピリしているから、俺に任せたいと」
「ピリピリって……、何かあったのか?」
「先生が昼間、クリニックの近くで第二遊撃隊の隊員と接触した件で、組長の機嫌が悪い。先生の護衛を担当している組員たちも、少なからず気分を害している。まあ、本宅の空気が悪いから、先生に触れさせたくないということだ」
部屋のドアを開けた三田村の手が肩にかかり、和彦は玄関に足を踏み入れる。先に訪れた三田村がいろいろと準備していたらしく、部屋は暖められ、いい匂いもしている。何かと思えば、テーブルの上にはすでに夕食が準備されていた。
和彦が物言いたげな視線を向けると、三田村は苦笑いを浮かべる。
「安心してくれ。笠野が、本宅で作ったものを持たせてくれたんだ」
「……ずいぶん、気をつかってくれたんだな。ぼくは別に、今日の昼間のことで落ち込んだり、荒れたりはしてないのに」
「今日のことだけじゃない。昨夜は遅くまで患者の治療をしていたそうだし、それ以前は……、自分の父親と会って塞ぎ込んでいただろう。やっと先生が落ち着いてくれたと、本宅の者はほっとしていたんだ。それなのに――」
何も言えず和彦は立ち尽くす。十分わかっていたつもりだが、改めて自分は、男たちに見守られながら生活しているのだと思い知らされていた。
まずは着替えるよう勧められた和彦は、思わず破顔する。
「だったら、あんたもだな」
三田村は自分の格好を見下ろし、納得したように頷く。相変わらずの地味な色のスーツ姿なのだ。
ベッドの上に置かれた着替えのスウェットの上下に手を伸ばそうとした和彦だが、背後で気配を感じて振り返る。こちらに背を向けた三田村が、さっそくジャケットを脱いでワイシャツのボタンを外そうとしていた。和彦は羽織っていたコートを足元に落とすと、忍び足で三田村に近づき、思いきって背に抱きつく。
何日ぶりかに感じる三田村の体温と匂いに、ほっと吐息が洩れた。長く会えなかったというわけではないし、電話で連絡を取り合ってはいたのだが、突然の俊哉との対面以降、精神的に浮沈の激しい日々を過ごしていた身には、物静かで誠実な男の存在がじんわりと心に染み入る。
本宅で過ごす間は、濃厚な情を賢吾と千尋から注がれ、満たされていたというのに――。
底知れない和彦の貪欲さと浅ましさも、すべて承知で三田村は受け止めてくれる。その証拠に、一度腕を解かれて体を離したあと、正面から向き合ってきつく抱き締めてくれた。
「――……そのつもりはなかったのに、あんたにベタベタに甘えたくなった」
訴える和彦の声は、意識せずとも媚びを含んだものとなる。
「存分に甘えてくれ。そのために俺はいる」
掠れた囁きに鼓膜を震わされ、背筋にゾクリと疼きが駆け抜けた。和彦は恥知らずな言葉で応じようとしたが、それより先に腹が鳴る。一拍置いてから三田村が低く笑い声を洩らし、ゆっくりと抱擁を解いた。
「甘えるにしても、甘やかすにしても、とにかく腹を満たすのが先だな。先生」
異存はなく、和彦は顔を熱くしながら頷いた。
夕食後、キッチンに立った和彦は、三田村が洗った食器を拭きながら、改めて今日の出来事を詳細に語る。できるだけ深刻な口調にならないようにと気をつけていたつもりだが、次第に三田村の横顔は険しさが増していく。食事中は和らいでいたというのに、これでは台なしだ。
「三田村、あまり怖い顔をしないでくれ。自分の迂闊さに、今になって落ち込みそうになる」
ハッとしたようにこちらを見た三田村が、淡く笑む。
「先生は何も悪くないだろう。悪いのは――」
最後の言葉を三田村は呑み込んだが、和彦は察することができた。
「ところで先生、今日接触してきた小野寺とは、これまでにも会ったことがあるのか?」
「……会ったというか、少し前に紹介されてはいたんだ。新しく隊に入ったと言って。もう一人、小野寺くんと同時期ぐらいに隊に入った子も一緒に。その子が、やっぱりぼく絡みでちょっとした騒動を起こしたことがあって……」
「そっちの奴は直接知っている。加藤だろう。以前は、第二遊撃隊が雑用を任せているチームにいた。そこに小野寺もいたが、お互いの相性は悪かったそうだ。……まったくタイプが違うと加藤自身も話していたぐらいだから、なんとなく、小野寺がどんな奴なのか想像はできるな」
加藤と小野寺を紹介されたとき、チームについても南郷から説明を受けて知っている。和彦にとって意外だったのは、三田村と加藤の繋がりだ。
目を丸くすると、三田村はもったいぶることなく、加藤と知り合った経緯を話してくれた。中嶋が連れていた加藤を紹介されたことをきっかけに、ときどき二人で会っては、食事や酒を奢っているのだという。和彦は、自分の周囲の人間関係を何もかも把握しておきたいと傲慢な主張をするつもりはなく、ただ純粋に驚いた。
感情を表に出さず、口数も多くない三田村と加藤が、一体どんな顔で飲み食いしながら会話をしていたのだろうか――。
想像して和彦は、ふふっ、と声を洩らして笑っていた。
「若頭補佐は面倒見がいいな。自分がいる組の若い子たちだけじゃなく、他の組織の、それこそ言葉は悪いけど、下っ端になったばかりのような子まで目をかけているなんて」
「俺が面倒を見るのは、打算があるからだ。中嶋が紹介してくれたということは、それなりに使えて信頼がおける奴だと判断してのことだろう。だから俺も、その信頼に乗ることにした。些細なことでも、第二遊撃隊の情報は欲しい」
「でも、あんた自身の感覚でも、見どころがあると思っているんだろ。加藤くんのことは」
最後に洗い終わったグラスを受け取って水滴を拭き取る。三田村は思案げな様子でタオルで手を拭っていたが、ふっと息を吐いた。
「――……どことなく、ガキの頃の俺に似ていると感じたからかもしれない。……愛想笑いの一つもできないところとか、冷めているようで頭に血が上りやすそうなところとか」
「愛想笑いができないのは、今のあんたを見てもなんとなく想像ができるけど、頭に血が、っていうのは……、若い頃はそうだったのか?」
「今でも上りやすいだろう、俺は。……いや、逆上(のぼ)せやすいと言ったほうがいいのか」
意味ありげに三田村から横目で一瞥され、和彦の鼓動は大きく跳ねる。自惚れかもしれないが、三田村が言外に込めた意味がわかったような気がした。
ただでさえ近かった三田村との距離をさらに詰めると、腕が触れ合う。和彦が視線を上げると、優しいだけではない、狂おしいほどの熱情を湛えた三田村の眼差しとぶつかり、そのまま目が離せなくなった。
二人は自然な流れで顔を近づけ、そっと唇を重ねる。たったそれだけで和彦は、眩暈がするような心地よさに襲われた。
激しい情欲の高まりを感じながらも、もどかしさを楽しむように、唇を触れ合わせるだけの口づけを何度も交わす。その間にも三田村の両腕が体に回され、逞しい胸元に抱き寄せられる。もう、二人きりの空間と時間を堪能できるのだと、やっと実感できた。
半ば条件反射のように、三田村の背にてのひらを這わせようとしたが、柔らかな仕種で止められた。
「シャワーを浴びよう、先生」
「一緒に?」
「……俺はそのつもりだが、嫌なら――」
返事の代わりに和彦は、三田村が着ているトレーナーを一気に脱がせ、同じ行為を自らにも求める。裸になると、もつれるようにしてバスルームに向かった。
三田村が勢いよくシャワーの湯を出し、バスルーム内にはあっという間に熱気が立ち込める。時間が惜しいとばかりに三田村がボディソープをてのひらに取ると、和彦の体を洗い始めた。じっと突っ立っているのも間が持たず、和彦もボディソープを軽く泡立ててから、三田村の背に両てのひらを這わせた。
引き締まった筋肉の感触を確かめるように手を動かしながら、広い背に棲んでいる虎を撫でる。ほとんどしがみつくような体勢になってしまうと、口元を緩めた三田村に言われた。
「先生、そんなにしがみつかれると、体を洗ってやれない」
「言っただろ。あんたにベタベタに甘えたいって。今、その最中なんだ」
「だったら俺も、甘やかしていいか?」
耳元で囁かれ、危うく足元から崩れ込みそうになった。ますます強くしがみつくと、シャワーヘッドを取り上げた三田村が、和彦の肩から背にかけて湯を当て始める。さらに髪を優しく指で梳かれると、心地よさに目を細める。
結局、三田村に負けたことになるのかもしれない。和彦は体を離し、おとなしくされるがままとなる。
丁寧に手の指の一本一本まで洗ってくれる三田村を、照れと喜びの入り混じった気持ちで見つめていた和彦だが、ふと、思い出したことがあり、つい声を洩らしていた。その声は水音に掻き消されて、三田村の耳には届かなかったようだ。
三田村は知っているのだろうかと思った。中嶋と加藤が体を重ねているということを。また、その理由を。
何か察しているのかもしれないが、どちらにしても、三田村が目的を持って加藤に目をかけているのだから、和彦の口から伝える必要はないだろう。
三田村の頬を撫で、あごにうっすらと残る細い傷痕を指先でなぞる。湯を止めた三田村が、ふっとこちらに向けた眼差しは、心を射抜かれそうなほど鋭かった。三田村の剥き出しの欲情をぶつけられたようで、いまさらながら和彦は羞恥する。その羞恥は、官能を高めるための媚薬だ。
有無を言わせず、洗われたばかりの体をきつく抱き締められる。その拍子に、自分だけではなく、三田村の欲望も高ぶっていることを知る。
ようやくじっくりと唇を重ねることができ、和彦は喉の奥から声を洩らす。余裕なく互いの唇と舌を吸い合い、口腔に熱い舌を招き入れる。和彦を味わうように、三田村は丹念に口腔に舌を這わせてきたが、和彦のほうが我慢できなくなり、三田村の舌に吸いつく。濃厚に舌を絡ませながら、唾液を交わすようになるのは、あっという間だった。
下肢を密着させ、互いの高ぶりをもどかしく擦りつけ合う。体の奥からドロドロとした欲情が湧き起こり、和彦を内から溶かそうとしている。
三田村が欲しくて溜まらなかった。快感を与えられたいのと同じぐらい、快感を与えたい。
和彦は狂おしい衝動のままに、三田村の肩をぐっと掴む。絡めていた舌を解いた三田村が、じっと和彦の顔を見つめてきた。
「……今みたいな先生の顔を見ていると、俺は自惚れそうになる」
「ぼくは、どんな顔をしている……?」
「言わない。俺だけのものだ」
三田村が持つ独占欲の片鱗がちらりと覗き、和彦は静かに歓喜する。だから、三田村の要求に従順に従う。
バスルームの壁にすがりつきながら、足を開いて腰を突き出した姿勢を取り、三田村の愛撫を誘う。濡れた背をスウッと指先でなぞられただけで、和彦は切ない声を上げて腰を揺らしていた。その指が秘裂に入り込み、触れられる前からひくついている内奥の入り口をまさぐられた。
ほんの三日前に南郷に、さらにその前には賢吾にさんざん嬲られた部分だ。淫らに刺激を欲しており、軽く擦られただけで身を捩りたくなるような疼きを発した。
「んっ、ん……」
一本の指を挿入され、たったそれだけのことで鳥肌が立つほど感じてしまう。三田村は慎重に指を出し入れしたあと、内奥が物欲しげに蠢いているのを確認してから、すぐに指の数を増やしてきた。
発情しきった襞と粘膜を丹念に擦られ、ときおり円を描くように大胆に指を動かされてから、内奥を広げられる。無意識に揺れる腰をてのひらで撫で上げられて、和彦は鼻にかかった声を洩らす。
開いた足の間に入り込んだてのひらに、勃ち上がった欲望を包み込まれると、内奥に呑み込んだ三田村の指をきつく締め付けていた。
「はあっ、あっ、あっ、ああっ――」
前後から快感を送り込まれて、ガクガクと足が震えてくる。緩く欲望を扱かれて、悦びのしずくを滲ませている先端を指の腹で撫でられると、もう耐えられなかった。咄嗟に三田村の腕に手をかけ、子供のように首を横に振ってしまう。
「三田村、それ、嫌だ……」
「これか、先生?」
問いかけてくる三田村の声が笑いを含んでいる。先端を爪の先で弄られて、堪らず和彦は甲高い声を上げていた。欲望の括れを強く擦られ、内奥のある部分を指の腹で押し上げられると、快感の高みへと性急に追いやられていく。
嫌、嫌と何度か口走っていたが、声に含まれた甘さを三田村が聞き逃すはずもなく、愛撫の手は止まらない。
和彦は一声鳴いて、精を迸らせていた。内奥から指が引き抜かれ、絶頂の余韻にビクビクと震える体を、背後からきつく抱きすくめられる。
息を喘がせながら和彦は、ぽつりと呟く。
「熱い……。湯あたりしたみたいだ……」
首筋に三田村の息遣いを感じ、そっと首を巡らせる。欲情しきった目がすぐそこにあり、思わず見入ってしまう。吸い寄せられるように唇を重ね、和彦のほうから誘う。
「――三田村、ベッドに行こう」
移動の車中では眠くて堪らなかったというのに、現金なもので今は、一睡もしないまま三田村と求め合いたいと願っていた。三田村の激しさを受け止めるためなら、一晩の睡眠などまったく惜しくはなかった。
入ったとき同様、やはりもつれるようにバスルームを出たものの、和彦に風邪を引かせられないという義務感に駆られているのか、もどかしいほど丁寧に三田村に体と頭を拭かれる。焦れた和彦がしがみつくと、ようやくベッドに移動した。
ベッドに乗り上がった途端、三田村は荒々しい男へと変わる。上気した和彦の肌に噛みつくような激しい愛撫を施し、鮮やかな鬱血の跡を散らしていく。
和彦は息を弾ませ、嬉々として三田村の背に両腕を回す。まだ水滴を残している肌を撫で回し、そこにいる虎の姿を思い描いてうっとりとしていると、ふいに三田村に顔を覗き込まれた。真っ直ぐな眼差しに、気恥ずかしさに襲われた和彦は視線を逸らす。
「今、ぼくのことを、だらしない顔をしているとか思ってるだろ」
「まさか。俺に触れて、こんな顔をしてくれたのは、先生だけだなと思っていたんだ」
「……そんなこと言って、いままで何人に触らせたんだ、こうやって――」
どこか甘さを伴った嫉妬心に身を委ね、三田村の背にそっと爪を立てる。ほとんど痛みはなかっただろうが、猛々しい虎をさらに煽るには十分だったらしく、貪るような口づけを与えられる。
和彦は自ら大きく足を開き、当然のように三田村が腰を割り込ませてくる。擦りつけられる欲望は戦くほど熱く大きくなり、欲しい、と率直に思った。
明け透けな願いが通じたのか、それとも三田村も同じ気持ちなのか、唇を離した次の瞬間には、和彦は獣のように這わされていた。
バスルームで愛撫を受けたばかりの内奥がひくついている。綻んだ入り口を再び三田村の指でこじ開けられ、和彦は腰を揺らして呻き声を洩らす。
「んっ、ううっ、んうっ……」
すぐに指が引き抜かれ、和彦が本当に欲していたものが押し当てられる。
三田村に背を軽く押さえつけられて、腰だけを高々と突き出した姿勢を取ると、内奥の入り口をゆっくりと押し広げられながら、欲望を呑み込まされる。和彦は浅い呼吸を繰り返し、なるべく下腹部に力が入らないよう気をつかう。ふいに、繋がっている部分を指でなぞられていた。
「あっ……」
緩やかに欲望を出し入れされながら、逞しい括れに内奥の入り口を刺激される。苦しいと感じたのはわずかな間で、肉を擦り上げられて生まれる快感に、和彦は間欠的に声を上げていた。
少しずつ侵入が深くなり、三田村に腰を掴まれる。背後に覆い被さってくる気配がしたかと思うと、一気に奥深くまで欲望を捩じ込まれた。
「うああっ、あっ、あうぅっ――」
背に三田村の体温と重みを感じる。内奥深くには、脈打つ欲望の熱さを。
「――先生」
ふいに耳元で三田村に囁かれ、それだけで和彦の全身に甘美な感覚が駆け抜ける。繋がっている三田村にも伝わったらしく、荒い息遣いが耳朶に触れた。
汗ばんだ三田村のてのひらに、愛しげに胸元を撫でられる。興奮と期待によって、触れられないまま敏感に尖った突起を捏ねるようにてのひらで転がされたあと、抓られ、引っ張られる。和彦は上擦った声を上げながら、呑み込んだ欲望を締め付けていた。
「あっ、あっ、三田、村っ……。いい……、気持ち、いい」
腰を擦りつけるように動かすと、内奥を一度だけ突き上げられる。三田村の手は貪欲に和彦の体をまさぐり、快感の種火をさらに灯していく。それでなくても感じやすくなっている和彦は、指先の動き一つで簡単に身悶え、悦びの声を上げる。三田村は、快感に弱く淫らな和彦の体を堪能していた。
愛撫によってこれ以上なく和彦の心と体が蕩けてしまうと、満を持したように律動を開始される。
大きくゆったりとした動きで内奥を突かれ、その動きに合わせて和彦も腰を動かす。反り返った欲望が腹を打ち、透明なしずくをシーツの上に散らしていた。
単調な動きによって和彦の理性は突き崩され、尽きることなく悦びの声を溢れさせる。対照的に三田村は、何も言わない。それでも欲望の力強い脈動から、三田村の悦びを知ることはできる。
ゾクゾクと腰から這い上がってくる感覚があり、和彦は惑乱して首を左右に振る。その仕種に感じるものがあったらしく、三田村が内奥深くを抉るように突いてくる。和彦は声も出せずに絶頂へと上り詰めていた。
食い千切らんばかりに三田村の欲望を締め付けたまま、背をしならせる。和彦自身の震える欲望の先端からは、ドロドロと白濁とした精が噴き上がっていた。和彦は喘ぎながら自らの欲望に片手を伸ばし、軽く扱く。その最中、前触れもなく繋がりが解かれ、仰向けにされた。
羞恥もあったが、それよりも三田村を誘うために身を捩ろうとして、簡単に押さえつけられて片足を抱え上げられる。三田村の強い眼差しに促され、和彦は見せつけるように己の欲望を上下に扱き、自ら精を搾り出す。
その光景に満足したように三田村は、肉をひくつかせる内奥に再び欲望を挿入してきた。
「あっ……ん」
精を放ったばかりだというのに、体の奥では新たな情欲が湧き起こる。和彦はすがるように三田村を見上げ、こう口にしていた。
「三田村、まだ、奥に欲しいっ……。もっと突いて、抉ってくれ――」
「……ああ。先生の望み通りに」
愛撫はなく、ひたすら内奥を擦られ、突かれ、抉られる。
「ひあっ……」
和彦は背をしならせ、頭上に伸ばした腕をさまよわせながら、深い悦びに浸る。三田村の熱い肉を心ゆくまで貪り、三田村もまた、淫らな蠕動を繰り返す熱い肉の感触に溺れているはずだ。そうであってほしいと、願う。
浅い呼吸を繰り返しながら和彦が恍惚としていると、低い唸り声を洩らした三田村が律動を止めた。内奥深くで欲望が脈打ち、たっぷりの精が注ぎ込まれてくる。
汗を滴らせる精悍で男らしい顔が、険しい表情を浮かべている。和彦はぼうっと見入っていたが、視線に気づいた三田村が表情を和らげた。常に気を張り詰めている三田村が無防備になる、貴重な瞬間だった。
和彦は胸を突き破りそうな愛しさを感じ、熱い体を包み込むように両腕を回す。
「三田村、三田村――……」
「どうした、先生?」
問いかけてくる三田村の声は優しい。その声に促されるように和彦は甘えてこう口走っていた。
「何があっても、ずっとぼくの側にいてくれ。ぼくの……、オトコでいてほしい」
三田村が息を呑み、ゆっくりと目を見開く。どんな答えが返ってくるのか、一瞬、和彦は本気で恐れた。
まだ硬さを保った三田村の欲望が、内奥で蠢く。小さく声を洩らすと唇を塞がれ、そのまま舌を搦め捕られていた。すぐに和彦は、三田村の腕の中でまた乱れ始める。
淫靡な交わりに耽ろうとしたとき、三田村が怖いほど真剣な口調で言った。
「俺は、先生と離れられない。誰かに引き離されそうになっても、そんなことは受け入れないし、抗う。俺には、先生だけなんだ」
三田村の脳裏にどんな状況が、そして誰の顔が浮かんでいるのか、聞きたくて仕方なかった。しかし声に出してしまうと、よくないものを呼び寄せてしまいそうで、ぐっと我慢する。
自分も同じ気持ちだと伝えるために、三田村の背の虎にてのひらを押し当てた。
「ぼくだけが、この物騒な生き物を可愛がって――愛してやれる」
ほっとしたように三田村が顔を綻ばせた。
「そうだ。先生だけだ」
切実な口調で囁かれた瞬間、堪らなくなった。もっと欲しい、と和彦は小声で三田村の耳元に囁きかける。誠実で優しい男は、即座に行動で応えてくれた。
事後の心地よい疲労感に身を委ね、和彦はうつ伏せとなって小さくあくびをする。さきほどまで隣にいた三田村は、今はキッチンに立って湯を沸かしている。
一度は寝入ろうとしたのだが、思う存分体力を使ったせいか二人揃ってなんとなく小腹が空き、夜中になって結局、部屋の電気をつけていた。
夜食の準備をすると言って三田村だけがキッチンに立ち、和彦は優雅にベッドに横になって待っている状態だ。枕に片頬をすり寄せて目を閉じていると、キッチンからは水音や冷蔵庫を開け閉めする音が聞こえてくる。さらには食器を準備する音が続き、一体何を作っているのかと次第に気になってくる。
もそもそとベッドの上を這って、キッチンが見える位置へと移動する。
三田村は、包丁を使って何か切っているようだった。スウェットパンツを穿いただけの姿であるため、上半身は裸だ。向けられた広く逞しい背に、意識しないまま和彦の視線は吸い寄せられ、そのまま離せなくなっていた。
少し離れた位置から、背の刺青を眺めるのは新鮮だ。あの雄々しい虎を、ついさっきまで自分は思うさま撫で回し、爪を立てていたのかと思うと、胸の内でゾロリと蠢くものがあった。
熱っぽい和彦の視線を感じ取ったわけではないだろうが、三田村が肩越しに振り返る。穏やかな声で言われた。
「先生、そんなに期待した目で見ないでくれ。大したものは作れないから」
「……ぼくはよほど、食い意地が張ってると思われてるな……」
和彦は小さな声でぼやいてから、体を起こす。三田村を手伝うため――ではなく、今になって、賢吾に連絡を入れていないことが気になったのだ。
この状況で電話をかけるわけにもいかず、せめてメールだけでも入れておこうと、スウェットの上下を着込んでから部屋の隅へと行く。
アタッシェケースから携帯電話を取り出そうとして、あることに気づく。里見との連絡に使っている携帯電話に、着信表示が残っていた。
さりげなくキッチンの気配をうかがってから、携帯電話を手に取る。表示された携帯電話の番号は里見のものではないが、見覚えはあった。
何かあったのだ―――。
確信めいたものがあり、和彦は顔を強張らせた。
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