と束縛と


- 第40話(1) -


 呼出し音が途切れてまず和彦の耳に届いたのは、非難がましいため息だった。そんなものを聞かされて平静でいられるほど、人間ができていない和彦は、反射的に電話を切りたくなった。
 もともと大してあるわけではない勇気を、これでも振り絞って電話をかけたのだ。自分の兄――英俊に。
「……都合が悪いなら、かけ直すけど」
 控えめに提案すると、再びため息が返ってくる。いつになく英俊の機嫌は悪いようだが、そもそも自分の前でよかったことなどなかったなと、自虐でもなんでもなく、淡々と和彦は思う。
「携帯に着信が残っていたから、気になったんだ。用がないなら、別に――」
『父さんから聞いた。……昨日』
 一瞬、意味がわからなかったが、英俊の声から滲み出る静かな怒りで察しがついた。
 今度は和彦がため息をつく番で、書斎のイスに深く腰掛けると、視線を天井に向ける。素早く計算したのは、俊哉と対面してから昨日までの日数だった。
「昨日……」
『そうだ。昨日まで、秘密にされていた』
 こう告げられた瞬間、和彦の脳裏を過ったものがある。英俊に対する、俊哉の冷ややかとすらいえる厳しい評価の言葉だった。もし仮に、あの場に英俊がいたとしても、俊哉は同じことを口にしていただろうかと、つい余計なことまで考える。
「……父さんなりに思うところがあったんだろう。行方不明になっていた不肖の息子と、ようやく会って話せたなんて、誰にでも打ち明けられるものじゃないし」
 電話の向こうで英俊が息を呑む気配がした。すぐに異変を察した和彦の胸が、不安にざわつく。
「兄さん……?」
『会ったのか、父さんに――』
 呆然としたように英俊が呟き、十秒近くの間を置いてから和彦はゆっくりと目を見開く。鎌をかけられた挙げ句に、あっさりと自分が引っかかったと気づいた。
 自宅マンションの書斎にこもって電話をかけているのだが、急に落ち着かなくなり、立ち上がる。英俊が黙り込んでしまったため、うろうろと書斎の中を歩き回る。
 昨夜、三田村もいる部屋で電話をかけなくてよかったと、心の底から和彦は思った。こんな姿を、あの優しい男には見せたくない。携帯電話に残された着信表示が英俊からのものだとすぐにわかったため、あえて時間を置いたのだ。日中、クリニックで仕事をしている間も、着信履歴がどんどん増えていき、一体何事なのかと気が気でなかった。
『――ここ最近、父さんのスケジュールが空白になっていることがあった。その空白の時間に何をやっているか、省内の誰も掴めない。もちろん、わたしも。帰宅時間も遅いときがあり、外で誰かと会っている節があった』
「別に……、それ自体は珍しいことじゃないだろう。ぼくが実家にいる頃も、そういうことは何度もあった」
 暗に、秘匿とすべき俊哉の女性関係を仄めかす。和彦も英俊ももう子供ではなく、露骨な言葉を使ってもよかったのだが、それは多分、潔癖症のきらいがある兄への嫌がらせになりかねないと、自重した。
 潔癖症だから、今の和彦の立場を嫌悪し、和彦が生まれた経緯も憎悪しているのだ。
『わたしもそうかと思ったが、すぐに違うと気づいた。……あの父さんが、機嫌がいいんだ。楽しそうというか』
「だったら、ぼくは関係ないだろう。父さんが、ぼくに関わることで機嫌がよくなるなんて、普通に考えてありえない」
 話しながら、妙なところで自分たち兄弟はある感覚を共有しているのだなと、実感していた。
 俊哉は、情の乏しい怪物なのだ。和彦はそんな俊哉を恐れ、英俊は尊敬している。
『今現在、父さんを煩わせている問題はお前のことだけで、その問題が片付くというなら、様子が変わっても不思議じゃない』
「……それを父さんに確かめた?」
 数秒の間を置いて、いや、と短い一言が返ってきた。
 奇妙な違和感を覚えて和彦は、正直戸惑っていた。英俊といえば、弟に対しては常に吐き捨てるような、傲慢とすらいえる物言いが特徴的で、それに和彦も慣れきっているのだが、今は様子が違う。まるで慎重に、和彦の反応をうかがっているようだ。
 和彦はおそるおそる問いかけた。
「もしかして兄さん、何かあったんじゃ……」
『何もないっ。お前はただ、わたしの質問にさっさと答えればいいんだ。父さんに会ったのか、何を話したのか。そもそもお前と父さんを引き合わせたのは誰なのか。知っていることを全部言えっ。わたしを、のけ者にするなっ……』
 英俊にまくし立てられ、子供の頃からの染み付いた習性として身が竦む。しかし、和彦はもう子供ではない。
 魔が差したように、電話に向かって囁きかけていた。
「――……本当に父さんから、何も教えられてないんだ?」
 ここでハッと我に返り、うろたえる。一方の英俊も動揺しているのが、はっきり伝わってくる。和彦は、心の奥底から滲み出てきたどす黒い感情を、必死に押し殺した。
 いまさら、俊哉から特別な関心を得られたことを、英俊に誇る気など毛頭なかった。そのつもりなのに――。
 和彦は慌ててこう続ける。
「ぼくの口からは何も言えない。父さんのことだから、きっと考えがあるはずだ。だから……、ごめん」
 通話を終えると、そのまま携帯電話の電源を切ってしまう。
 かつてのように、英俊と話したからといって激しく感情が揺さぶられることはない。今はそれよりも、自分の中に冷たい体温を持つ生き物が棲みつき、蠢いているようで、ただ和彦は愕然としていた。




 この日は、最後に予約が入っていた患者の施術を、予定よりいくぶん早く終えられたこともあり、終業時間ぴったりにクリニックを閉められた。
 おかげで和彦は、久しぶりにスポーツジムに立ち寄ることができた。ここのところ、体力的に問題がなくても、精神的にいまいち気分が乗らないことや、その逆もあったりで、なかなかタイミングが合わなかったのだ。
 今日はむしょうに体を動かしたかった。いや、率直な気持ちとしては、体力の限界まで体を追い込みたかった。
 和彦はランニングマシーンのスピードを上げて一心に走りながら、昨夜の英俊との電話でのやり取りを何度も思い返す。そのたびに、英俊が傷つくとわかって放った言葉の威力に、一人恐れ戦いていた。ただ不思議と、罪悪感という感情は湧かないのだ。
 子供の頃から英俊には肉体的に痛みを与えられてきたが、その対価のように和彦は、英俊の心の弱い部分をいつの間にか熟知するようになっていた。だからといって復讐したいなどと考えたことはなかったが、もしかすると自覚のない部分で、ずっと英俊にも痛みを与えたかったのかもしれない。
 首筋を伝う汗をタオルで拭い、時間を確認する。呼吸が乱れ、足の筋肉が悲鳴を上げかけている。体力というより、筋力が落ちているなと、苦々しく反省する。忙しいのを言い訳に、ジム通いをさぼりすぎた。
 明日は筋肉痛がひどいだろうなと今から覚悟しながら、マシーンを降りて呼吸を整える。足元はふらふらで、すぐに次のマシーンに向かうのは無理そうだ。うつむいた拍子に汗が滴り落ち、髪を掻き上げる。
 スッと、目の前にミネラルウォーターのペットボトルが差し出された。
「――考え事をしているとペースを上げすぎるのは、相変わらずですね、先生」
 はあっ、と大きくため息をついて、和彦はペットボトルを受け取って顔を上げる。いつから様子を見守っていたのか、傍らに立つ中嶋もそれなりに体を動かしたあとのように見えた。
「今日はあえて、無茶をしていたんだ」
「憂さ晴らしですか……。あっ、もしかして、うちが関係ありますか?」
 促されるまま休憩用のイスに腰掛けた和彦は、ひとまず水分を補給する。ほっと一息をついたところでやっと思考が切り替わり、英俊のことを一旦頭の片隅に追いやった。
「うち、って……、ああ、第二遊撃隊のことか」
 今気づいた、というふりをしたが、少々芝居がかっていたかもしれない。心なしか中嶋の口元が緩んだように見える。
 実のところ今日は、ジムに行くと事前に中嶋に連絡しており、このときすでに和彦は、第二遊撃隊や総和会の様子を探るつもりだったのだ。中嶋も心得たもので、さっそく話に乗ってくれた。
「南郷さんが、長嶺組長から大変な叱責を受けた――という噂が、総本部で流れているそうですよ」
「本当のところはどうなんだ」
「どうでしょうね。当人は平然としていつもと変わりませんから。ごく近しい人間には何か洩らしているかもしれませんが、俺はほら、長嶺組にも出入りしていますから、微妙に遠ざけられているんです。南郷さんたちが、長嶺組や長嶺組長の批判を言ってましたなんて、俺の口から外部に伝わると困るでしょう? 実際は言ってないにしても、火のないところに……、なんて事態を避けるために」
 まるでスパイ扱いではないかと思ったが、語っている中嶋本人は気に病んでいるふうもなく、むしろ自分の立ち位置を楽しんでいるようだ。
「先生のほうは、長嶺組長から何か聞かされました?」
「ぼくも詳しいことまでは……。ただ、クリニック周辺に、組の許可なく接近するなということになったらしい。いざとなれば、君は例外にしてもらうつもりだけど、いろいろと釈然としない」
「もっと厳しい処分にしろという意味で、釈然としないということだったら怖いな」
 中嶋が軽く声を洩らして笑うが、和彦は到底そんな気分にはなれない。今回の長嶺組の処置はあくまで、連絡ミスによって起きた第二遊撃隊の不手際に対するものだが、クリニックでの南郷との出来事が知られれば、こんなものでは済まないだろう。
 南郷は、それでもあえて危険を冒した。賢吾や長嶺組を刺激したいがために――という可能性に気づくと、和彦はひどく冷静な目で、南郷や第二遊撃隊を観察したくなるのだ。臆病な小動物のように、身を潜め、慎重に。
 自分の進言次第で、賢吾はいくらでも厳しい処分を第二遊撃隊に与えかねないが、そのことによって、長嶺組と総和会の不和を招きたくない。現に、中嶋の話ではすでにもう噂が立っているというのだ。
 和彦がタオルで口元を押さえてじっと考え込んでいると、中嶋が身を乗り出してきた。
「もしかして、気分が悪いんですか?」
「あっ、いや……。南郷さんに、ぼくにかまうのはやめるよう、君からもきつく言ってもらえないだろうかと思って」
 中嶋が真顔で首を横に振り、案の定な反応に、和彦としては笑うしかない。
「――本気で、どうにかしてほしいんだ。最近、ぼくのほうはいろいろあって、あまり余裕がない」
「先生はいつだって、『いろいろ』あるでしょう」
「だからこそ、限界がある。身を切る思いで、自分で対処しないといけないことがあって、南郷さんからちょっかいをかけられたくない」
 なぜか中嶋が、探るような視線を向けてくる。和彦が首を傾げると、今度は露骨に大きなため息をつかれた。
「南郷さんのことで、『ちょっかい』と表現できる先生は、本当に大物だと思いますよ」
「……言っておくけど、ぼくは今回の件は――今回の件も、本気で怒っているんだ。だけど、感情のままに組長に泣きついたら、どんな事態になるか……」
「怒り下手なんですよ、先生は。周囲の様子にあれこれと気を配りすぎて、自分の感情を後回しにするでしょう。最近、怒りを爆発させるとか、せめて声を荒らげるとか、したことあります?」
 どうだったかなー、と視線をさまよわせて和彦が呟くと、なぜか中嶋に背をさすられた。
 いくらか汗も引き、足のだるさも落ち着いたので、次のマシーンへと二人で向かう。ふと、自分の心情にぴったりの言葉が頭に浮かび、さらりと口を突いて出ていた。
「多分ぼくは、誰にも嫌われたくないんだ。この世界で、扱いにくいとか思われて、もういらないと言われるのを恐れてる」
「先生みたいな人でも、そんなこと思うんですね」
「放り出されたら、この先どうやって生きていこうか考えて、怖くなることがある。ぼくなんかを、みんながあまりにちやほやしてくれるから、前はどうやって生活していたか、忘れかけているんだ」
 俊哉や英俊に感じる恐れと、南郷に感じる不快さに共通するのは、心地いい環境を脅かす存在であるという点だろう。そして、近づいてはいけないのに近づかざるをえない。そんな自分への歯痒さと口惜しさ。
 並んで筋トレ用のマシーンのシートに座ると、ハンドルを握った和彦はゆっくりとバーを持ち上げる。少し負荷がきついなと思っていると、隣でしみじみといった口調で中嶋が洩らした。
「初めて、俺と先生が会ったときのことをはっきりと覚えているだけに、今の先生の言葉は感じ入るものがありますね。――あのときの先生は何もかもにおっかなびっくりという様子で、柄にもなく俺は、庇護欲めいたものを刺激されていたんですよ」
「長嶺組長の前で、そういうことは言わないでくれよ。シャレにならない部分があるから」
「俺、嫉妬の炎が延焼して、焼かれますか?」
 冗談めかした台詞に、和彦は短く噴き出す。その拍子に力が抜けてしまい、せっかく持ち上げたバーが下りてくる。今日は無理はせずウェイトを減らすことにした。
 やはり、中嶋に声をかけておいて正解だったようだ。気楽な会話が、昨日から強張っていた気持ちをいくらか解してくれる。
 自分の気分転換に、半ば無理矢理つき合わせているという気がしなくもないが――と、多少の申し訳なさを和彦は噛み締める。一方の中嶋も、こんなことを言った。
「――先生の力になりたいですけど、残念なことに俺は隊ではまだ、発言力なんてほとんどありませんから……」
「だとしても、今でも十分、君には世話になってるよ。君がいてくれるおかげで、ぼくは救われている部分があるんだ」
「そう言ってもらえると、こちらのほうが救われます。……先生をトラブルに巻き込んだ前科がある身なので」
 なんのことかと考えたのは一瞬で、すぐに和彦は微苦笑を洩らす。中嶋との間には、確かにトラブルめいたものがいくつかあった。
 ウェイトを調節して、今度こそまじめにバーを上げ下ろししながら、ほんの三日前に小野寺が言っていたことがふっと脳裏に蘇る。中嶋は、和彦のために隊に呼ばれたと言っていた。額面通りに受け止めるなら、和彦と親しいからこそ、世話役として相応しいと判断されたのだろう。
 組預かりという立場から、第二遊撃隊へと〈出世〉した中嶋の姿を、和彦は間近で見ている。本人が直接報告してくれたぐらいだ。中嶋は、そのあたりの事情を理解したうえで第二遊撃隊に入ったのか、気にならないわけではない。見た目はハンサムな普通の青年である中嶋だが、中身はけっこう計算高く、何より出世欲が強い。
 和彦の機嫌取りのために自分が必要とされたことは、むしろ目論見通りだったのかもしれない。どんな事情であれ足がかりにして、さらに上を目指す逞しさと、頭のよさが中嶋にはある。和彦も、自分がある程度利用されるのは気にならない。
 ただ、南郷という男を知るにつれ、その南郷の隊に中嶋がいるということが、どうしても気にかかる。自分のせいで、妙な立場に追い込まれなければいいがと願うのだ。
 中嶋は、和彦をトラブルに巻き込んだと言ったが、それは和彦も同じで、お互い様といえる。
 考え事をしながらもバーを動かす和彦とは対照的に、中嶋は集中力が途切れたのか、バーに手をかけたまま動かない。
「なんだ、ぼくより先にバテたのか?」
「……総和会の中で、長嶺会長の側近でもある南郷さんは、敵は多いですが、表立って意見できる人はそういないんですよ。ただこの頃は、少し様子が変わってきました。南郷さんが……というより、第二遊撃隊自体が牽制されるようになったんです」
「どういうことだ?」
「ここ数年、総和会の遊撃隊として実働できたのは、第二遊撃隊のみだったのに、対抗勢力が出てきたということです」
 なんとも湾曲な表現をした中嶋だが、それでも和彦には十分伝わった。あっ、と声を洩らし、バーから手を離す。
「――第一遊撃隊のことか」
「そんなに困っているなら、そこの隊長である御堂さんに相談されたらどうです。先生、御堂さんとも親しいんですよね」
「親しいというか、よくしてもらっているというか……」
 御堂の置かれている難しい状況や、御堂と南郷から漂う犬猿の仲めいた険悪さを知っているだけに、相談しようなどと思いもしなかった。
「御堂さんは今はまだ、隊の立て直しで忙しいだろうから、面倒事を持ち込むのは……。それに、ぼく個人が迷惑を被ったという話なのに、第一遊撃隊まで巻き込んで騒動になったら、申し訳が立たない」
 中嶋としても軽い提案のつもりだったのか、ため息をついて頷く。
「まあ、先生ならそう言いますよね。わかってはいたんですけど――」
 意味ありげに言葉を切られて、嫌でも和彦は気になる。問いかける視線を向けると、寸前まで親身になって相談に乗ってくれていた中嶋は、今は怜悧な表情でじっとこちらを見ていた。
「残念。先生の相談に託(かこつ)けて、御堂さんを紹介してもらおうと思ったのに」
「……紹介って、総本部では会わないのか?」
「見かけることはありますけど、声をかけるなんて、とても、とても。第二遊撃隊とは違って、第一遊撃隊はなんというかガードが堅いんです。当然、御堂さんも。俺ごときが、近づくことも許されません」
 隊が違えばそういうものなのだと言われれば、和彦としては納得するしかない。御堂を紹介するのはやぶさかではないが、今はとにかく時期が悪かった。
 あれもこれもと面倒な事案を抱えて手一杯の和彦には、他人のお節介を焼ける余裕はない。
 ただ、何かと世話になっている中嶋に対して、素っ気なく断ることもできず――。
「ぼく自身、御堂さんと頻繁に会えるわけじゃないから、いつまでにと確約することはできないけど、折を見て、君のことは話しておくよ。総和会の中での、唯一のぼくの相談相手で、友人だって」
 中嶋はちらりと笑みをこぼしたあと、軽い口調でこう言った。
「先生が、南郷さんから〈ちょっかい〉をかけられる理由が、よーくわかりますね」
 和彦は目を瞬かせたあと、思わず天を仰ぎ見る。はっきりと指摘しなかったのは、中嶋の優しさなのだろう。
 自分が押しに弱い八方美人であるということを、和彦自身、嫌になるほど痛感しているのだ。




 クリニックが休みの土曜日、いつもより一時間ほど遅い時間に起きた和彦は、パジャマの上からカーディガンを羽織った姿でキッチンに立っていた。
 コーヒーを淹れ、パンを焼くついでに、目玉焼きぐらい作ろうかと、冷蔵庫を開ける。ハムかベーコンでも残っていればと思ったが、どうやら甘かったようだ。せっかくなので、あとで食料を買いに出ることにした。
「今日は一人で、ゆっくり過ごすからな……」
 誰かに聞かせるわけでもないが、本日の目標めいたものを口にする。
 たまには、自分のペースで過ごせる休日があってもいいだろうと、いつになく強く願うのは、ここ最近の慌ただしさのせいだ。他人に振り回されるのは、今の環境にあっては仕方ないと半ば許容している和彦だが、中には不本意なことがある。
 現実逃避だとしても、一日、二日ぐらい、気が滅入るような悩み事を頭から追い払いたくもなるのだ。
 温めたフライパンに卵を落とし入れ、皿などを準備していると、玄関のほうから物音がする。耳を澄まし、落ち着いた足音が近づいてくるのを確認して、誰だろうと考えるまでもなかった。
「――いい匂いがしているな、先生」
 皮肉なのか本気なのか、忌々しいほど魅力的なバリトンによる開口一番の言葉に、和彦は背を向けたまま応じる。
「パンを焼いて、目玉焼きを作っているだけで、大げさな」
「残念だ。俺は朝メシは食ってきた」
「……誰も、あんたの分もあるとは言ってないだろう……」
 和彦は呆れながら振り返り、すぐに目を丸くする。スーツ姿だとばかり思っていた賢吾が、濃いグレーのタートルネックを着ており、その上からラフにチェスターコートを羽織っているのだ。革手袋をスマートに外す姿に、悔しいが少しだけ見惚れてしまった。
 すっかり、肩書き込みで長嶺賢吾という男を見てしまうことが自然になっていたが、何もなくても、そこに立っているだけで、極上の男なのだと思い知らされる。とんでもない状況で初めて賢吾と出会ったときも、外見と雰囲気に自分が圧倒されたことを和彦は思い出していた。
 ぼうっと突っ立っている和彦に、賢吾が薄い笑みを向けてくる。
「せっかくの目玉焼きが焦げるぞ」
 ハッと我に返り、慌ててフライパンの中を覗き込んだ。
 和彦が手軽な朝食を準備している間に、チェスターコートを脱いだ賢吾はダイニングのイスに腰掛ける。朝からやけに機嫌はよさそうで、少し焦げた目玉焼きを眺め、美味そうだなと、あからさまな世辞を口にしたぐらいだ。
 とりあえず賢吾にもコーヒーを淹れてやってから、和彦はやっとテーブルにつく。パンにバターを塗りつつ、疑問を口にした。
「で、朝から何をしに来たんだ。……オシャレして」
「オシャレか?」
 賢吾が露骨に目を輝かせる。やはり、機嫌はいいようだ。
「いいものをラフに着こなして、いかにも、金を持っている悪い中年男みたいだ。ヤクザの組長には見えない」
「それは好都合」
 パンをかじる和彦を、ニヤニヤしながら賢吾が見守っている。仕方なくこちらから水を向けた。
「……これから出かけるのか? だったら、早く行ったらどうだ。ぼくは元気だ――けど、昨日はジムでがんばりすぎたから、筋肉痛で全身が痛い。だから、部屋でゆっくり、したい……」
「早く食えよ、先生。これから一緒に出かけるんだから」
「人の話を少しは聞けっ」
「聞いたうえで、言ったんだ」
 いっそ清々しいほどきっぱり言われ、和彦は口ごもる。それをいいことに賢吾は滔々(とうとう)と続ける。
「今日は天気がいいから、外出日和だ。寒いのは仕方がねーな。しっかり着込んでおけよ、先生。今日はあちこち移動するつもりだから。それと、泊まりになるが、着替えはどうしても必要になったら買えばいいから、何も持っていかなくていい。――楽しい休日になるぞ」
 どうして今日、この男はこんなにも機嫌がいいのかと、和彦はそろそろ空恐ろしさすら感じ始める。
「ついこの間、紅葉を見に行っただろう……。ぼくもたまには、ゆっくりと一人の休日を過ごしたいんだが」
「今日は、俺と先生の二人きりだ。二人で、ゆっくりできる」
 人の話を聞けという再びの抗議は、口中で空しく消える。
 薄い笑みを浮かべたまま、大蛇の潜む賢吾の目は、ひたと和彦を見据えてくる。望み通りの返事を引き出すまで、この視線は逸らさないと言わんばかりに。
 こうなると、和彦に逆らう術はない。長嶺の男の強引さは今に始まったわけではなく、いつものことだと言われればそうなのだが、やはり気になるのは賢吾の機嫌のよさなのだ。
 目玉焼きの理想的な半熟とは程遠い、固くなった黄身を箸で突きながら、和彦はため息交じりで問う。
「あんたの行動の前触れのなさには慣れてきたつもりなんだが、今朝は少し様子が違うように思う。いつにも増して、ぼくの話を聞かないだろ。……何かあったのか?」
「――今日は、俺の誕生日だ」
 ふあっ、と声を上げた和彦は、反射的に立ち上がるとキッチンに駆け込む。冷蔵庫の横にカレンダーをかけてあるのだ。今日の日付を丹念に確認してから、冷蔵庫の陰からこそっと顔を出す。
「十一月十五日?」
「四十七になった」
 賢吾に手招きされてテーブルに戻ると、肩を落として再びテーブルにつく。和彦は箸を手に取る前に、呻き声を洩らして頭を抱えていた。
 誕生日ということで、もう一人の長嶺の男の存在を思い出したのだ。正確には、誕生日を。
「……千尋は、先月だった」
 申し訳ないが、すっかり頭から抜け落ちていた。賢吾は低く笑い声を洩らす。
「それどころじゃなかったからな、先生は。千尋もそれがわかっていたから黙っていたんだ」
「で、あんたはどうして急に、誕生日なんて言い出したんだ?」
 気を取り直して和彦は顔を上げる。
「本当のところ、理由はなんでもいい。二人きりで過ごせるなら。誕生日なら、理由としては打ってつけだ。……今年、先生の誕生日のために、男たちがあれこれ手を尽くしていただろう。お返しというわけじゃねーが、俺も祝ってもらいたくなった。この歳だと、どうせ誰も気にかけてくれないしな」
「だから自分でアピールか。……祝う気持ちはあるが、急すぎる。プレゼントも用意できない」
 いらねーよと、素っ気なく賢吾が答える。このとき一瞬だけ浮かべた照れ臭そうな表情を目の当たりにして、和彦の鼓動は大きく跳ねた。
「明日まで、俺につき合ってくれりゃいい。――どうだ?」
 誕生日だと聞かされて、行かないという選択肢は完全になくなった。
 じわじわと顔が熱くなっていくのを感じながら、仕方ないという表情を取り繕って和彦は頷いた。


 いつもと勝手が違うと、助手席に座った和彦はぎこちなく隣を見る。とてつもなく違和感があるが、ハンドルを握っているのは賢吾だった。
 シートにもたれかかろうとして、どうしても背後が気になって振り返る。さきほどから何度となく、見覚えのある車がついてきていないか確認していた。
「そんなに、護衛がついてないのが気になるか」
 揶揄するように賢吾に指摘され、慌ててシートに座り直して和彦は頷く。マンションの駐車場で、賢吾が運転席側に回り込んだときも驚いたが、今日は護衛をつけていないとさらりと告げられた驚きは、それ以上だった。
「……まずいんじゃないか、組長の立場としては」
「さっき部屋で言っただろう。今日は、俺と先生の二人きりだと。明日はさすがに迎えに来るが、それまでは、恋人同士らしく過ごせる」
 賢吾の口から出た『恋人同士』という言葉に、全身を熱風で嬲られたような錯覚を覚え、一気に汗が出てきた。着込んだダッフルコートが急に熱く感じられ、もぞもぞと身じろいだ和彦は、ポケットからハンカチを取り出す。
 楽な服装でいいという賢吾の言葉に従い、ダッフルコートの下はトレーナーで、それにジーンズを合わせてきたが、少し手抜きすぎただろうかと、今になって後悔していた。あまりに、隣にいる賢吾と雰囲気が違いすぎて、なんだか気遅れしてしまう。
 そうなる理由が、今日はあった。
 普段はまったくそんなことはないのだが、誕生日ということで、賢吾の年齢を強く意識する。そして、自分との年齢差を。
 移動する車中で二人きりという、いままでにない空間のせいか、取り留めもなく賢吾とのこれまでの出来事を思い返し、おかげでますます全身が――特に顔が熱くなってくる。
「暑いなら、暖房を切るぞ」
 額にハンカチを押し当てていると、さすがに気になったのか賢吾に問われる。和彦は首を横に振り、ふっと短く息を吐き出す。
「もしかして、緊張しているか、先生?」
「……あんた、運転できたんだな」
「自分で運転するのは、久しぶりだ。――なんだ、それで緊張しているのか。だったら安心しろ。勘は鈍ってない」
「いくら誕生日でも、張り切りすぎだろ。もし二人で行動していて、何かあったらと思うと、そのほうが緊張する」
「心配症だな」
 組員たちに恨まれたくないだけだと、ぼそぼそと和彦は答える。
「言うまでもないけど、あんたが襲われたとしても、ぼくは助けられないからな」
「端からあてにしてねーよ」
 こうきっぱり言われると、男としてのプライドがささやかに傷つくが、賢吾の意見は正しい。
「まあ、物騒なことを考えて不安がっても仕方ない。これから楽しむことだけに集中しろ、先生。しっかりデートプランを考えてやったから」
「……聞いてるほうが恥ずかしくなってくる……」
 久しぶりだという賢吾の運転は、まったく問題がなかった。最初のうちは、見守っている和彦のほうが肩に力が入っていたのだが、安全運転だとわかると一気に緊張が解けてしまった。そうなると現金なもので、護衛がついていない状況にいまだに違和感がありつつも、これからの時間を楽しむことにした。
 賢吾のことなので、とんでもない場所に連れて行かれるのではないかと少しだけ心配をしていたのだが、いい意味で予想は裏切られた。
 駐車場に入ったときから、おやっ、と思ってはいたのだが、噴水の上がる広場を通り抜けて、ある建物に入ったところで、静かな驚きが和彦の中に広がる。賢吾がチケットを買う間、掲示されたポスターをまじまじと眺めていた。
「なんだ、ヤクザの組長とのデートで、まっさきに違法賭博場にでも連れて行かれるとでも思ったか?」
 チケットを差し出しながら賢吾に意地の悪い口調で言われ、思わず和彦は苦笑を洩らす。
「連れて行ってくれるのなら、どこだってついて行くつもりだったけど、ここは……、少し意外だった」
 和彦はもう一度、展示されているポスターに視線を投げかける。
 賢吾に連れて来られたのは、美術館だった。現在は、海外の有名美術館のコレクションを展示中らしく、ポスターを見る限り、美術に疎い和彦ですら知っている名品や名画もあるようだ。
 どうりで客が多いはずだと、展示室へと移動しながらさりげなく周囲を見回す。
「――若い頃、俺なりにささやかな夢があったんだ」
 いつもよりさらに柔らかな賢吾の声音に、今日は特別なのだなと改めて実感させられる。護衛もついていないため、長嶺組組長という体面を取り繕う必要がないのだろう。
「美術品を扱う仕事がしてみたいってな。海外の美術館に実際に足を運んで、目を肥やしたいとか考えてた。まあ、自分でもわかっていた、叶うことのない夢だ。組を継ぐ未来しかないとわかっていたし、海外に出ることもままならない身だしな。青臭い夢に未練はないが、たまにこうやって、美術館に足を運ぶんだ。護衛は外で待たせて」
「なら、いつもは一人で?」
「今日は二人だ」
「……初めて知った。あんたにそういう一面があるなんて。部屋に、美術書の一冊も置いてないだろ」
「自分の頭に留めておくだけでいい。あくまで、気分転換だしな」
 展示室に入ると、場の空気に圧倒された和彦は大きく息を吐き出す。美術館を訪れるなど、高校生のとき以来なのだ。浮き足立ってしまいそうになるが、さりげなく賢吾の手が背にかかり、ゆっくりと歩き出す。
「興味がないと退屈かもしれないが、少し我慢してくれ」
「我慢なんて……。ちょっと、ワクワクしている」
 ふっと賢吾が吐息で笑う。顔を上げた和彦は、つられて微笑み返していた。


 賢吾との〈デート〉は概ね順調だった。
 美術館を出たあとは、敷地内に設置された案内板で確認してから、せっかくの機会なので近隣にある別の美術館にも足を延ばした。
 新鮮な経験ができて和彦個人としては楽しんでいるのだが、一方の賢吾は駐車場に戻りながら、まじめな学生のようなデートコースだと苦笑交じりで洩らす。
 そして次に連れて行かれたのは、競馬場だった。こちらもまた、予想外の場所だ。
「本当にいかがわしい場所には、先生を連れて行くわけにはいかねーしな」
 大きなレースが開催されるということで、人出が多くにぎわっている。馬券は買わないため、レースを観戦する必要もない二人は、ひとまず早めの昼食を施設内のフードコートで簡単に取ったあと、出走前の馬がいるというパドックに移動し、馬たちを間近から見ることができた。
「ぼくに遠慮せず、馬券を買えばよかったのに」
 パドックから引き返しながら和彦が言うと、賢吾が様になる仕種で肩を竦める。
「賭け事は、ずいぶん昔にやめた。千尋はその点、感心だな。そういうものにまったく手を出さない。……まあ、数字を見るのも嫌な性質ってのもあるんだろうが。ときどき突拍子もない行動を取るが、あれでなかなか品行方正だ、あいつは」
「だったら――、あんたの若い頃はどうだった? 誕生日でいい機会なんだから、半生を振り返ってみたらどうだ。ぼくが隣で聞いてやるから」
 わざと偉ぶった口調で和彦が応じると、賢吾はハッとするほど鮮烈な笑みを浮かべた。
「俺のことが知りたくて堪らなくなったか、先生?」
「……そこまでは言ってないだろ。ただ、今日のあんたはいつにも増して口が滑らかなようだから、どうだろうかと……」
「大しておもしろくねーぞ。極道の世界で自力で成り上がったわけでもなく、代々続く組を継いで、それなりに上手く回しているだけ。特に大きな挫折があるわけでもなく、人によっては、つまらん半生だと言うかもな。まだ先生のほうが、波乱万丈だ」
「ヤクザと比べられてもな……」
 聞こえよがしにぼやくと、肩に賢吾の手がかかってドキリとする。そのまま抱き寄せられるのではないかと身構えたが、軽くポンポンと叩かれただけで、すぐに手は離れた。さすがに、周囲に人がいる状況で、賢吾もそこまで大胆ではなかったようだ。
 自分だけが動揺させられたようで悔しくて、恨みがましい視線を向ける。一方の賢吾も、意味ありげな流し目を寄越してきた。
「――そんな顔をするぐらい、俺のことが聞きたいなら、失敗した結婚の話をしてやろうか? 聞いて気持ちのいいものじゃないぞ。俺の人生において数少ない修羅場の一つだ」
「絶対、ウソだ」
「何がウソだ」
「あんたみたいな男が、モテないはずがないだろう。それこそ、修羅場なんていくらでもあるはずだ。……いちいち覚えられていられないぐらい」
「……先生が言うと重みがあるな」
 賢吾のとぼけた口ぶりに、なんと返そうかと考えているうちに、再び肩に手がかかり、ぐいっと引き寄せられた。半ば強引に方向転換させられて立ち止まったのは、グッズが売っているショップの前だった。
 ショップの前に置かれたワゴン台には、大小の可愛い馬のぬいぐるみや、こまごまとしたグッズが積まれており、子供たちが歓声を上げて眺めている。
「千尋に、キーホルダーの一つでも土産で買って帰ってやるか……」
 賢吾の呟きを耳にして、和彦は顔をしかめる。
「嫌がらせになるんじゃないか、それは」
「先生には、でかい馬のぬいぐるみを買ってやろう」
「嫌がらせだなっ」
 楽しそうに笑った賢吾だが、ふいに何か思案するようにあごに手をやり、まじまじとワゴン台を眺める。和彦は、そんな賢吾の横顔を眺める。
 ふっと我に返ったようにこちらを見た賢吾に促され、競馬場をあとにする。
 次にどこに向かうのか、現場に到着するまで一切知らされない和彦は、車に乗り込むと、黙ってシートを倒す。歩き回っているうちに気にならなくなっていたのだが、一息ついた途端、筋肉痛であることを思い出した。
 カーナビを操作していた賢吾が、そんな和彦をちらりと見て口元を綻ばせる。
「今度から、デートに出かける前日は、ジムで体を動かすのはほどほどにしてくれと言っておかねーとな」
「ということは、また誘ってくれるのか」
「次は先生から誘うってのはどうだ?」
「――……考えておく」
 それは楽しみだと言って、賢吾が車を出す。最初はぼんやりと外を流れる景色を眺めていた和彦だが、すぐにウトウトし始める。賢吾が話しかけてきたが、もう口を動かすことも億劫だった。
 頬に軽く触れる感触があった。それが暖房の風なのか、革手袋越しの賢吾の手の感触だったのか、確認できなかった。


 ホテルの部屋に入った和彦は、ダッフルコートをソファに置いてから、広々としたベッドにうつ伏せで横になる。
 思いきり手足を伸ばすと、気持ちよくて吐息が洩れる。ホテル内のレストランでとった夕食も美味しくて、このまま充実感に浸りながら眠ってしまいたいところだ。
 とにかくよく動いた一日だった。それに、よくしゃべったと思う。
 和彦はパッと目を開くと、意識しないまま自分が笑みを浮かべていることに気づき、一人恥じ入る。今日一日楽しかったという気持ちが、全身から漏れ出ているようだった。
 そもそも今日は、賢吾の誕生日を祝うために、行動を共にしたのだが。
 ベッドの上をもそもそと動いて体の向きを変えると、携帯電話を耳に当てた賢吾が部屋に戻ってくる。
「ああ、無事にホテルに入った。報告するようなトラブルもないな。――先生の機嫌も上々だ」
 電話に向かって報告しながら、賢吾の目線はしっかりと和彦へと向いている。
「……ぼくの機嫌がよくても仕方ないだろ。あんたの誕生日なんだから」
 今日はもう誰の電話も出ないつもりか、携帯電話の電源を切った賢吾に話しかける。
「先生が隣でにこにこして、いつになく饒舌でいてくれたことが、俺には何よりの誕生日プレゼントだが?」
「そういう……、恥ずかしい台詞を堂々と言えるということは、あんたも機嫌がいいんだな」
「もちろんだ」
 賢吾は、自分のチェスターコートだけではなく、和彦のダッフルコートもハンガーにかけてクローゼットに仕舞うと、静かにベッドに歩み寄ってくる。レストランで飲んだワインのせいばかりではなく、和彦の全身がじわじわと熱くなってきた。
「風呂は今、湯を溜めているから、一緒に入るぞ。時間がもったいない」
 どういう意味だと問うのもあざといので、黙って頷いておく。ふっと目元を和らげた賢吾がベッドに乗り上がり、和彦の肩を掴んでくる。真上から見下ろされ、搦め捕られたように目を逸らせなくなっていた。
 賢吾の大きなてのひらに髪を撫でられ、頬を包み込むように触れられる。それだけで、ゾクゾクするような心地よさが生まれていた。
「ふっ……」
 指先で耳朶をくすぐられると、堪らず和彦は声を洩らす。誘われるように賢吾が顔を寄せてきた。間近で見つめ合いながら、ゆっくりと唇を重ね、すぐに舌先を触れ合わせる。
 口づけはすぐに熱を帯び、呼吸すらも貪る勢いで互いの感触と味を堪能する。
 賢吾にきつく唇を吸われて、喉の奥から呻き声を洩らす。仕返しというわけではないが、今度は和彦のほうから賢吾の唇に軽く噛みつく。すると、熱く太い舌に歯列を割り開かれ、口腔をまさぐられていた。感じやすい粘膜を丹念に舐め回されて、上あごの裏を舌先でなぞられて、和彦は喉を鳴らす。
 このまま濃厚な口づけにいつまでも耽ってしまいたい誘惑に駆られるが、そんな和彦の意識を留めたのは、好奇心だった。
「――なあ、あのオモチャ、本当は誰にプレゼントするんだ?」
 唇が離れた瞬間を逃さず、抑えた声音で和彦が尋ねると、賢吾はゆっくりと目を細めた。
「言っただろ。知り合いの子に渡すものだと」
 競馬場を出たあと、二人は家具や靴を見て回り、優雅に買い物を楽しんでいたのだが、ホテルに入る前に最後に立ち寄ったのは、オモチャ屋だった。
 奇妙な顔をする和彦に賢吾は、まさに今言った通り、『知り合いの子に渡すもの』と説明し、一応納得もしたのだが――。
 慣れた様子で賢吾は、最近流行りのヒーローもののロボットや、乗り物のオモチャ、幼児向け番組のキャラクター人形といったものをどんどんカゴに入れていた。和彦はあとからついていくだけだったが、それでも、それらをプレゼントする相手が、就学前の男の子だろうと見当をつけることはできた。
「その知り合いの子のこと、詳しく聞いてもいいか……?」
「なんでもかんでも知りたがると、頭がパンクするぞ。そうだな、先生が長嶺の姓を名乗ることを承諾してくれるなら、教えてもいい。無関係ではなくなるからな」
 和彦が漠然と推測したことを、賢吾の言葉はさりげなく裏付けているようだった。唇を引き結ぶと、ちらりと笑みをこぼした賢吾が額に唇を押し当ててくる。
「俺がせっせとオモチャを買っていたなんて、誰にも言うなよ。組長の威厳ってものを保ちたいからな」
「……オンナにこんなにベタ甘で、いまさら威厳も何もないと思うが」
「俺が本気を出すと、こんなもんじゃないぞ。――風呂に入ってから、もっと甘やかしてやる。先生の腰が抜けるほどな」
 賢吾の囁きを受けて、和彦の背筋を強烈な疼きが駆け抜けた。


 両足を自ら抱えた羞恥に満ちた姿勢を取りながら、和彦は必死に顔を背けたうえ、きつく目を閉じる。一心に見つめてくる賢吾の眼差しに耐えられなくなっての行動だが、大蛇の化身のような男は気に食わないようだ。
「寂しいな。俺を見てくれないのか、――和彦」
 そう囁きかけてきた声は笑いを含んでいる。湯上がりのうえに、興奮のため燃えそうに熱くなっている和彦の体は、賢吾の眼差しを意識しただけで、もう蒸発してしまいそうだ。
 和彦は小さく首を横に振ると、楽しげな笑い声が耳に届く。
「いやらしい部分を曝け出しておいて、恥ずかしがる表情を見られるのは嫌がるというのは……、オンナ心は複雑だな」
「うる、さい……。ぼくは、怒ってるんだからな。何が、風呂に入ってから、だ。風呂に入りながら、さんざん人の体を弄り回しておいて。おかげで、のぼせかけた」
「素直に身を任せてくるお前が悪い。そのせいで我慢できなかった。俺は本来、我慢強い男なんだぜ」
 ふざけたことを言いながら、賢吾の指がゆっくりと内奥に挿入されてくる。すでに一度、入浴しながら欲望を受け入れた内奥は緩んでおり、苦もなく指を呑み込み、貪欲に締め付けた。
 和彦は息を弾ませ、切なく腰を揺らす。すぐに賢吾は指の数を増やし、ひくつく内奥を押し広げながら、愛でるように襞と粘膜を撫で回してくる。
「うあっ、あっ、はっ……、あぁっ――」
 両足の中心に賢吾の強い視線を感じる。見なくても、自分の欲望が熱くなって身を起こし、先端を濡らしているのがわかった。
「いい加減、目を開けてくれ。いつもみたいに、すがりつくような目で俺を見てくれ」
「……そんな目、してないっ……」
「だったら今、確かめてやる」
 和彦とのやり取りが楽しくて堪らないといった様子で、とうとう賢吾がくっくと笑い声を洩らす。それでもまだ和彦は意地を張ろうとしたが、内奥から指が出し入れされ、的確に弱い部分を刺激されると脆かった。深く息を吐き出して目を開け、仕方なく賢吾を見る。
 褒美のつもりか、さらに羞恥を与えてやろうという意地悪のつもりか、開いた両足の間に賢吾が顔を埋め、いきなり柔らかな膨らみに熱烈な愛撫を開始する。
「ひっ、うあぁっ」
 引き絞るように内奥を収縮させると、その感触を楽しむように大胆に指が蠢かされ、掻き回される。さんざん柔らかな膨らみを口腔で嬲った賢吾は、上目遣いに和彦の反応をうかがいながら、すっかり反り返った欲望を舐め上げ、愛しげに先端に吸いついた。
 和彦は放埓に悦びの声を上げ、抱えた両足の爪先をピンと突っ張らせる。硬くした舌先に執拗に先端を弄られ、括れをきつく唇で締め付けられると、あっという間に絶頂の波が押し寄せてくる。反射的に賢吾の頭を抱き寄せようとしたが、その瞬間を待っていたように、ふいに愛撫が止まった。
 上体を起こした賢吾が腰を密着させてきて、ひくつく内奥の入り口に高ぶった欲望を擦りつけてくる。濃厚な愛撫の余韻を引きずっている和彦は、素直に期待を込めた目で見つめる。
「いい目だ。和彦」
 感嘆したように賢吾が呟く。同時に、熱く逞しいものが内奥に挿入され、和彦は息を詰めた。
 愉悦を覚えたように賢吾が目を細める。愉悦によって色づいたオンナの体が、自分の思う通りに反応して満足なのだろう。そう推測できるほど、傲慢だが、凄絶な色気を漂わせた表情を浮かべたのだ。
 和彦は、賢吾の強い眼差しを受けながら法悦に鳴く。鳴きながら、欲望の先端から白濁とした精を噴き上げる。内奥の浅ましい蠢動に誘われるように賢吾が一度、二度と腰を突き上げ、そのたびに和彦は欲望を震わせ、トロリ、トロリと精をこぼす。
「――お前のこの姿が見たかったんだ。俺のものを突っ込まれながらイク瞬間は、何回見てもゾクゾクする。この姿を他の男にも見せているんだなと嫉妬するが、性質が悪いことに、だったら俺が、この淫奔なオンナをもっと感じさせてやろうって気にもなるんだ」
「うっ……」
 まだしなっている欲望を掴まれ、和彦は声を洩らす。賢吾の独占欲と執着心の強さを、肉欲と共に体に刻み込まれる。すっかり慣れ親しんだものだが、ときおり鳥肌が立つほど怖いと感じる。今がまさにその瞬間だ。
 このまま縊り殺されるのではないかと危惧する一方で、賢吾のそんな激しさも見てみたいという誘惑にも駆られる。
 重々しく内奥を突き上げられ、逞しいものをすべて受け入れる。下腹部に広がる重苦しさに息を喘がせていると、賢吾の両てのひらが腹部から胸元へと這わされる。和彦の体には、数日前の三田村との行為の痕跡がまだうっすらと残っていたのだが、ほぼすべて、賢吾が新たにつけた愛撫の跡によって隠されてしまった。
 自分が残した鮮やかな赤い跡を確認するように、賢吾が指先で辿っていく。そして、思い出したように腰を動かし、内奥を突き上げる。
 和彦は大きく息を吸い込んでから背を反らし、押し寄せてくる肉の愉悦に翻弄される。そこに追い打ちをかけるように、硬く凝った二つの突起をてのひらで転がされる。さきほど入浴しながら、さんざん弄られて敏感になっているため、思わず甘い声を洩らしてしまう。
「あっ……、んっ、んっ、んうっ……、ううっ」
 気まぐれに柔らかな膨らみを揉みしだかれ、和彦は上体をくねらせて乱れる。すがるように見つめると、賢吾が口元に薄い笑みを浮かべた。
「俺の背中を撫でたくなったな、その顔は。おねだりしてみろ」
「……あんたこそ、撫でてもらいたいんだろ」
 賢吾は驚いたように目を丸くしたあと、破顔した。
 覆い被さってきた賢吾に荒々しく唇を塞がれながら、和彦は両腕を広い背に回し、夢中で撫で回す。賢吾が腰を揺すって内奥を攻め立てながら、熱く濡れた和彦の体をきつく抱き締めてくる。
 これ以上ないほど賢吾と繋がっているのに、もっと繋がりたいと強く願ってしまう。力強く脈打つ欲望を締め付けながら和彦は、深い陶酔感を味わっていた。意識しないまま両足を逞しい腰に絡めながら、自ら腰を揺らす。賢吾の刻む律動とリズムが重なり、湿った音を生み出していた。
「はあっ、あっ、あっ、うあっ、賢、吾っ――」
 唇が離れると同時に、和彦は切羽詰まった声を上げる。そのまま卑猥な言葉を口走ってしまいそうで、咄嗟に賢吾の肩に歯を立てていた。大蛇の巨体の一部に食らいついたのだと、奇妙な満足感が快感へと直結する。和彦は、賢吾の腕の中でまた絶頂を迎えていた。
 一方の賢吾も、和彦が噛みついたことでどんな感覚を得たのか、内奥で欲望が震え、たっぷりの精を吐き出す。
 二人はベッドの上できつく抱き合ったまま、しばらく動けなかった。
 和彦は息を乱しながら、汗が滴り落ちる賢吾の男らしく端整な顔をてのひらで撫でてやる。微苦笑のようなものを浮かべた賢吾が、悔しそうに呟いた。
「……悪い、オンナだ、お前は」
「あんたは、悪い男だ」
「でも、惚れてるだろ。こんなに漏らしてくれるほど」
 賢吾の手が、濡れた下腹部をまさぐる。すべて、悦びの証として和彦の欲望が迸らせたものだ。
「あっ、嫌だ……」
 力を失ってはいるものの敏感なままの欲望を緩く扱かれる。和彦が上体を捩るようにして愛撫から逃れようとすると、意外なほどあっさりと繋がりが解かれ、賢吾が隣に横になる。そして、当然のように片腕で抱き寄せられた。
 触れた賢吾の欲望はまだ猛っており、ほんの一休憩のつもりらしい。最後までもつだろうかと、すでに体力の大半を消耗している和彦は少々心配になる。今夜は賢吾が望む限り、気持ちとしてはつき合いたかった。
 和彦のほうから顔を寄せ、そっと賢吾の唇を吸い上げる。すると濡れた後ろ髪を手荒く撫でられ、我ながら度し難いが、また体が疼いた。
「――いやらしいな。まだ発情した顔をしてるぞ」
 賢吾の指摘を否定せず、和彦はこう問いかけた。
「ぼくとのセックスは、よかったか?」
「誕生日だからサービスしてくれたのか」
「違っ……」
「お前とのセックスはいつだって最高だ。だから、ハマる。――お前も、そうだろう?」
 行為の最中、賢吾に言われた言葉を思い出す。和彦がなんと答えようが、深読みした賢吾は嫉妬して、さらに和彦に執着してくれるだろう。
「答えろよ、和彦。俺の誕生日だぞ」
「都合よく利用するな」
 和彦はクスクスと声を洩らして笑い、つられたように賢吾も表情を和らげる。その一方で、油断ならない手が和彦の下肢に伸ばされてきた。
「あっ」
 再び欲望を握られ、慌てて和彦は手を押し退けようとする。
「もう無理だっ……」
「気にするな。手持ち無沙汰で触っているだけだ」
「……オモチャじゃないんだぞ」
 そう言いはしたものの、熱心に刺激を与えられているうちに、和彦は足をもじつかせるようになる。賢吾に触れられて、無反応でいられるはずがなかった。
 賢吾の指の腹に先端を撫で擦られ、爪の先で弄られる。意味ありげな動きに、和彦がうかがうように賢吾を見つめると、優しく唇を吸われた。
「和彦、他の男に、ここはまだ弄られてないか?」
「ここ、って……」
「いつだったか俺が、ヘアピンでいじめてやろうとした場所だ」
 先端に軽く爪を立てられ、和彦はビクビクと腰を震わせる。その反応が、返事としては十分だったらしい。なんとも物騒な笑みを浮かべた賢吾が、こんなことを囁きかけてきた。
「お前の〈初めて〉が欲しいな。誕生日プレゼントとして」
 和彦は横になったまま後退ろうとしたが、賢吾から逃れるのは容易なことではない。特にベッドの上だと。欲望を握られただけで、動けなくなった。
 悔しくて、賢吾を睨みつける。
「……自分の誕生日を有効活用しているな、あんた」
「はしゃいでるんだ。大事で可愛いオンナが一緒に祝ってくれて、俺のわがままを聞き入れてくれて」
「まだ聞き入れてないだろっ」
「でも、聞き入れてくれるだろ?」
 強い力で引き寄せられ、仰臥した賢吾の上へと乗り上がる。尻の肉を揉まれながら、高ぶったままの欲望をこれ見よがしに下腹部に擦りつけられ、和彦は熱っぽい吐息を洩らした。
 自ら腰を跨いだ格好となると、賢吾の顔を見下ろしながら、潤んだ内奥に欲望を呑み込んでいく。賢吾に腰を掴まれ、ゆっくりと前後に揺さぶられ、逞しい胸元に手を突いて和彦は悦びの声を上げる。
「精液がもう一滴も出ないと言うまで搾り取ってから、じっくりと時間をかけて、〈初めて〉を堪能させてやる」
 賢吾の宣言に、擦り上げられる内奥が激しく蠢き、欲望を締め付ける。さらに賢吾は続ける。
「洗面台の綿棒を見るまでは、考えもしなかったんだがな。……見て、思いつくと、我慢できなくなった。お前の――は、全部俺のものにしちまいたい」
 いいだろう? と甘い声で問われ、否とは言えなかった。大蛇の束縛に全身を締め上げられ、それが例えようもなく心地よく、その状態でわがままを言われると、一層心地よさに拍車がかかる。
「……きっと、痛いんだろうな……」
「最初はな」
「本当に悪い男だな、あんたは。ぼくの性質を知ってて、それでも痛みに耐えろと言うんだから」
「でも、耐えてくれるんだろう?」
 賢吾の声に喜びが滲み出ている。これから和彦が見せる痴態を期待しているような、和彦の覚悟を愛でるような――。
 返事を促すように賢吾に欲望を掴まれて擦られながら、内奥を突き上げられる。呆気なく和彦の理性は陥落した。









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