と束縛と


- 第40話(3) -


 普段であれば、どこか粛然とした空気が漂い、騒々しさとは無縁である総和会本部が、和彦が足を運んだこの日は様子が違った。
 いつもとは違う駐車場へと回されたときから、おやっ、と思ったのだが、車から出た途端、空気を震わせるような重々しい音が聞こえてくる。
 一体何事かと周囲に視線を向けていると、わざわざ出迎えにきてくれた吾川が傍らに立った。
「申し訳ありません、佐伯先生。うるさくしていて」
「いえ。……何をやっているのか、聞いてもいいですか?」
 その問いかけに重なるように、敷地への人や車の出入りを厳重に監視している出入り口の門が、左右に大きく開け放たれる。入ってきたのは二台のダンプカーだった。意外な車両の登場に、和彦は目を丸くする。
「今、テニスコートを潰して、整地をしている最中なんです。けっこうな広さがあるので、何か有効利用できないものかと、この施設を買い取ったときから話は出ていたのですが、ようやく計画が進み始めまして」
「ああ、そういえば、前に会長がそんなことを話されてました。若い人たちが詰められる建物でも作ろうかと……」
「長嶺会長は、もっと早くに工事に取り掛かりたかったようですが、場所が場所ですから、慎重な準備が必要なのです。いきなり工事車両が出入りするようになると、周辺の住人の方が不安がりますし、警察も、ここをさらに要塞化するのではないかと勘繰って、あれこれ詮索してくる可能性が高いですから」
「……つまり、根回しをしていた、ということですか?」
「そういうことです」
 吾川が頷き、和彦も一応納得したものの、内心では口にするのもはばかられる疑問を抱いていた。
 普通の工事に取り掛かるときでも、周辺の住人に粗品などを持って挨拶回りをすることがあるが、では、世間に悪名を轟かせる総和会の場合はどうなのか。地域社会に溶け込んでいると謳ってはいるが、総和会の人間が粗品を持って挨拶に回っている姿は、容易には想像がつかない。まるで、性質の悪い冗談のようだ。
 そんなことを考えながら、いつもの裏口を通ってエレベーターに乗り込んだところで、和彦は短く声を洩らす。ボタンを押そうとしていた吾川がわずかに首を傾げた。
「どうかされましたか?」
「あっ、いえ……」
 口ごもった和彦だが、思いきって吾川に切り出した。
「あの、先に二階に寄ってもいいですか? ……第一遊撃隊の詰め所にちょっと用がありまして」
 いい顔をされないのではないかと危惧したが、さすがと言うべきか吾川はなんでもないことのように頷き、二階のボタンを押した。
「わたしは先に四階に上がって、夕食の準備を整えておきます。長嶺会長にも伝えておきますので、お気になさらず」
 和彦が礼を言う間に、エレベーターは二階に到着する。一人エレベーターを降りた和彦は、扉が閉まるのを見届けてから、くるりと回れ右をする。
 相変わらず曜日に関係なく、総和会本部は粛々と動いていると実感させる光景が目の前に広がっていた。前回同様、和彦に気づいた男が、透明の仕切りの向こうから飛び出してこようとしたが、和彦は大げさに手を振って断る。
 集まる視線に居心地の悪さを感じながら、第一遊撃隊の詰め所に向かった。
 大層な用事というわけではなく、ただ、火曜日の龍造との食事会の件で、御堂に礼を言いたかったのだ。一応、御堂の携帯電話の留守電に簡単に礼の言葉は吹き込んでおいたが、守光から食事を共にしようと誘われてこうして本部を訪れたため、やはり直接会って言いたかった。
 賢吾の親しい人物に対して礼を欠きたくないというのは、理由の一つだ。そしてもう一つ、火曜日の夜、別れ際に見た龍造と御堂の姿が脳裏を離れず、ひとまず御堂の姿を見て安心したかった。
 自分が知る御堂と変わっていないと確かめたいというのは、我ながら不思議な心理だった。
 気になってしまうのは、御堂の姿に、将来の自分の姿がわずかでも重なるかもしれないと考えているからだ。男たちの庇護の下を離れたとき、どうやって自力で生きていくか、と。
 和彦がこんなことを考えていると知れば、長嶺の男たち――賢吾はどんな顔をするだろうかと、あえて想像はしなかった。それは、賢吾の側から離れたくないという気持ちの裏返しともいえる。
 賢吾の誕生日を二人きりで過ごして、これまで知らなかった面を見てから、よりその気持ちは強くなっていた。
 このとき、破廉恥な行為の記憶が蘇り、カッと顔が熱くなる。
 第一遊撃隊の詰め所前まで来たところで、なんとか平常心を取り戻し、自分の頬を軽く撫でる。ドアをノックすると、少し間を置いて、御堂の護衛として見かけたことのある男が顔を出した。御堂に会いたい旨を伝えると、数瞬、困惑の表情を見せたあと、一旦中に引っ込み、すぐに今度は二神が出てきた。
「申し訳ありません、佐伯先生。隊長は今、総本部のほうに行ってまして。今日はもう、こちらには顔を出さないと思います」
 本部を訪れて短時間の間に、二人の男から謝罪されてしまったと、和彦は心の中で苦笑する。
「こちらこそ、申し訳ありませんでした。事前の約束もしていないのに、図々しいお願いをして」
「図々しいなんて、とんでもない。隊長がここにいたら、喜んでお会いになっていましたよ。よろしければ、今から連絡を取って――」
 それこそとんでもないと、和彦は首を横に振る。すると二神が、ふっと眼差しを和らげた。隙がなくて、どことなくとっつきにくい雰囲気が漂う二神だが、こうして相対してみると気さくな人柄をうかがわせる。実際、総和会の中では、数少ない話しやすい相手ではあるのだ。
「御堂さんと少しお話ができればと思っただけなので、わざわざ連絡を取ってもらうほどのことではないんです」
「伝言がありましたら、遠慮なくおっしゃってください。伝えておきますから」
 せっかくなので、御堂への礼を託けようとした和彦だが、ここであることに気づく。火曜日の龍造との食事会のとき、御堂の護衛の中に二神の姿はなかった。そこに御堂の配慮めいたものを感じるのは、あてにならないオンナの勘か、考えすぎなのか。
 ひとまず、自分から食事会の話題は出さないほうがいいと、和彦は判断した。
「大丈夫です。本当に大した用事があるわけではなかったので」
 ふと、奇妙な沈黙が二人の間を流れる。
 二神は室内を振り返ったあと、慎重な口ぶりでこう切り出してきた。
「佐伯先生、お時間があるなら、少し話せませんか」
「ぼくと、ですか……?」
 一体何を言われるのかと身構えつつも、微笑を浮かべる二神から厳しく叱責されるとも思えず、和彦は頷く。
 応接室に通されソファに腰掛けようとして、駐車場でも聞いた重々しい音が聞こえてくる。反射的に窓のほうに顔を向けると、正面に腰掛けた二神は苦々しげに洩らした。
「ここはテニスコートに近いですから、よく聞こえるんです」
「テニスコートを潰して、整地している最中だと聞きました。何か計画があるそうですが、二神さんはご存知ですか?」
「いえ……。長嶺会長直々に命じたということで、ごく限られた人間しか詳細はまだ把握していないと思います。ただ――」
 あくまで噂として二神が教えてくれたのは、南郷の住居を中心とした建物が計画されているのではないか、というなかなか衝撃的な内容だった。
「……第二遊撃隊ではなく、南郷さんの、ですか……」
「さきほども言った通り、噂です。おもしろがって誰かが立てた根も葉もないものかもしれません。だとしても、そんな噂が立つ程度には、第二遊撃隊隊長に存在感と影響力があるということです」
 事実だとしたら、守光の南郷に対する偏重ぶりは度を過ぎている――と総和会の中で批判が起きそうだが、それがわからない守光ではないだろう。
 和彦が口元に指を当て考えていると、二神はまた微笑を浮かべた。
「噂などを佐伯先生の耳に入れるべきではありませんでしたね。なんといっても、長嶺会長に直接問うことができるのに」
「いまだに、長嶺会長の側にいるだけでなく、総和会というテリトリーの中にいると、緊張してしまいます。それでも、できる限り、いろんなことを見聞きしたいと思っているんです。ぼくは非力で臆病ですから、知ることで、できる限りのトラブルを避けたいなと……」
「我々からすると、けっこう豪胆だと思いますよ、佐伯先生は」
 どの辺りがだろうと聞いてみたかったが、すぐに二神が表情を改めて、いくぶん思い詰めた様子を見せたので、つい和彦は姿勢を正す。
「佐伯先生が今日見えられたのは、もしかして火曜日の夜のことが関係ありますか?」
「あっ……、はい、そうです。御堂さんが同席してくださって、ずいぶん助かりましたから、直接お礼を言いたくて」
「佐伯先生は義理堅いですね。先に携帯に留守電も入れられていたでしょう。隊長があとでそれを聞きながら、柔らかな表情をされていたので、気持ちは十分伝わっていますよ」
「そうですか。とにかく御堂さんに対して失礼がなかったのなら、ぼくはそれでいいんです」
 笑みをこぼしかけた和彦だが、二神がまだ本題を切り出していないことを思い出し、身を乗り出しつつ声を潜めた。
「二神さんは、何か気になることがあるのですか? ……火曜日の夜のことで」
 自分で口にして、なんとなく見当はついた。そして、外れてはいなかった。
「――伊勢崎組長との食事会では、わたしは隊長の護衛は外れていました。副隊長という立場上、四六時中、隊長についていることは不可能で、今日も別々の場所でこうして仕事をこなしているわけですが……。火曜日は、隊長に休みを申しつけられて、動けませんでした」
「ああ……、そういえば、姿が見えませんでしたね」
 我ながらぎこちない台詞回しに、和彦の視線は泳ぎそうになる。二神は何かを察したように、ふっと口元を緩めた。
「食事会の様子は、護衛についていた隊の者でもわかりません。佐伯先生と隊長と……伊勢崎組長の三人だけで楽しまれていたということですから。――そのあとのことも。せめて、食事会はどうだったか、一緒にいた佐伯先生からお聞きできないかと思ったんです」
「御堂さんは、なんと?」
「肉ばかり勧められて、佐伯先生が四苦八苦されていたとだけ。つまり、はぐらかされたわけです」
「御堂さんも苦労されていましたよ。伊勢崎さんは、ずいぶん御堂さんの体調を気にされていて。……和やかな雰囲気で食事をしていたと思います。会話も弾んでいましたし。ぼくは、お二人の詳しい事情は知らないので、能天気にそう感じただけかもしれませんが」
 慎重に言葉を選んで話す和彦に、二神はいきなり頭を下げた。驚いた和彦はソファから腰を浮かせる。
「二神さんっ?」
「申し訳ありません。佐伯先生に気を使わせてしまって。それに、つまらないことで引き止めてしまいました」
 気にしないでくださいと、もごもごと応じた和彦だが、ただ、これだけは言わずにはいられなかった。
「……御堂さんのこと、本当に大切にされているんですね。二神さんの気持ちも、しっかり十分伝わっていると思います。あくまで、ぼくの勘ですけど」
 頭を上げた二神が穏やかな表情で頷いてくれたので、和彦はほっとする。
 話題は変わり、今日はどうして本部を訪れたのかと問われたので、これから守光と夕食を一緒にとるのだと告げると、顔色を変えた二神に慌ただしくエレベーターホールまで連れて行かれる。
「本当に申し訳ありませんでしたっ。最初に予定を尋ねるべきでした」
 エレベーターが到着するまで二神に何度も頭を下げられ、ひたすら恐縮するしかない。そもそも、訪ねていったのは和彦のほうなのだ。
 扉が閉まると、御堂と二神の関係についてあれこれと考えを巡らせる。献身的に隊長を支える副隊長の胸の奥にあるのは、忠義や誠実さだけとも思えなかった。だからこそ御堂の間近に、力を持つ精力的で野心的な男が二人もいるとなると、二神のこの先の苦労を慮らずにはいられない。
 しかし今の和彦に、他人の関係を気遣う余裕はなく――。
 四階に到着してエレベーターを降りた途端、ぎょっとして足を止める。エレベーターホールの片隅に吾川が立っており、静かに頭を下げたのだ。
「ちょうどよろしかったです、佐伯先生。夕食の準備も整い、会長がお待ちしております」
 和彦は顔を強張らせると、はい、と返事をした。




 甘みの強いドライフルーツをつまみに、辛口の白ワインを味わっていた和彦だが、ふとした拍子に重苦しいため息が洩れる。
 どこもかしこも混み合いにぎわう日曜日の街中に出る心境ではなかったが、美味しいワインが飲めると誘い出されてしまった。一人鬱々と部屋に閉じこもっていても、痛む胃を庇いながらベッドに転がっているだけだ。どちらがより、マシな気分になるかといえば、考えるまでもなかった。
 それに、どれだけみっともない姿を見せても安心な同行者もいる。
 一人掛けのソファに埋もれるようにして身を預けながら、和彦はテーブルに片手を伸ばす。皿の上から摘まみ上げたドライフルーツをまじまじ見つめ、ラズベリーだと気づくと、また口に放り込む。さきほどから、盛り合わせのドライフルーツを齧り続けているが、そんな和彦の姿がおもしろいらしく、斜め前のソファに腰掛けた中嶋が口元を緩めていた。
「少しは機嫌がよくなりましたか、先生?」
 小皿にローストチキンのサラダを取り分けながら、中嶋に問われる。和彦は肘掛けにもたれかかり、髪を掻き上げる。個室という気楽さもあって、ワインを飲み進むにつれ、少々行儀が悪くなっていた。
「そう見えるか?」
「店に入る前までは、この世の終わりのような顔をしていましたけど、今は、不機嫌で堪らない、という顔をしています。少なくとも、表情筋が動くようになった分、いいんじゃないですか」
「……ぼくは、そんな顔をしていたのか」
「体調を崩されているようなら、すぐに長嶺組に連絡して、連れて帰ってもらおうかと思ったんですが、違いますよね。――何かありました……ね」
 返事は、沈鬱なため息だった。
 昨日、総和会本部で守光と夕食を共にとったあと、ある要求をされた。
 曰く、来週の金曜日に俊哉が和彦との対面を求めており、そのときは、人目のない場所で父子で時間を気にせず語り合いたいと希望が出されたそうだ。
 守光が切り出した時点で、それはもう決定事項で、和彦に否という権利はない。能天気に構えていたわけではないが、再び俊哉と顔を合わせるのはもう少し先ではないかと、切望にも似た気持ちで考えていたのだ。
 和彦を一層精神的に追い詰めるのは、俊哉との定期的な対面を考えているという、守光の言葉だった。
 間に総和会が入ることで、和彦は俊哉を避けられない。求められるまま、総和会の護衛に守られ――見張られて、俊哉の放つ毒気を浴びることになる。
 守光は、疎遠だった父子を結びつけて、ただ偽善的な喜びに浸るような人間ではない。総和会を率いている狡猾な化け狐は何かを計算しているだろうし、そこを十分理解したうえで、俊哉も接触しているはずだ。
 聞きたいことはいくつかあったが、何も聞けずじまいだった。聞いてしまえば、さらに厄介な事態に引きずり込まれると考えたからだ。とにかく和彦の立場は、聞けば、従わずにはいられないという弱いものなのだ。
 今回は守光から口止めされなかったため、本部をあとにしてすぐに、賢吾に連絡し、報告した。もちろん、二人の権力者による計画を止めてほしかったわけではない。そんなことをすれば、賢吾と守光、長嶺組と総和会との間に要らぬ不和を生み出しかねないと、冷静さを失った頭でもわかる。
 電話越しに賢吾に対して何度も、堪えてほしいと和彦は訴えた。賢吾は納得していない様子だったが、不承不承、諾と言ってくれた。守光が決めた以上、賢吾もまた、それ以外の返事を持っていないのだ。
 自分が苦々しい思いを味わうのは仕方ないといえるが、同じものを賢吾に味わわせるのは、和彦にはつらかった。
「――……君は、両親と連絡を取り合っているか?」
 唐突な和彦からの質問に、軽く目を瞠ったものの中嶋は笑って答える。
「たまに、ですけど。俺がホスト稼業から足を洗って、まともとは言い難いけど、それなりにマシな生活を送っていると思っているんですよ、二人共。迂闊に電話で長話なんてしたらボロが出ますから、元気にやっていると話すぐらいです」
「本当のことを知ったら、どうなると思う?」
「当然、足を洗えと言うでしょうね。そうなったら俺は……、連絡を絶つかな。いまさら退けないというのもあるし、だからといって親の嘆く声も聞きたくない。だったら、そうするしかないでしょう。心苦しいですけど。それを思えば、今の状態はいいほうでしょう。俺のウソと誤魔化しが、上手く噛み合っている」
 ふうん、と声を洩らした和彦は、またラズベリーを口に放り込む。
「きちんとした家で育ってきたんだな、君は。隠すということは、親がまともな反応を示すとわかっているということだろう」
「先生がそれを言いますか。絵に描いたような上流家庭というやつでしょう、先生の家は」
「少なくともぼくの親は――、ぼくが心配で嘆いたりはしない。いい歳なんだから、親の反応にビクつくこともないんだろうけど、ぼくの場合、状況が状況だ」
 前回の、寒々とした空気が流れ続けた俊哉との対面を思い出し、身震いをする。その後、賢吾と千尋にさんざん気を使わせたことも併せて、また同じことを繰り返してしまうのかと恐怖すら覚える。
 せっかく飲みに誘ってくれた中嶋の前で、この世の終わりのような顔をまたするわけにもいかず、和彦は勢いよくグラスのワインを呷る。すかさず、ワインが注がれた。
「まあまあ、たった一時でも、嫌なことは飲んで忘れましょう」
「……君だけに盛り上げ役を押し付けるのは悪いな。〈彼〉はまだ来ないのか?」
 和彦の言葉に、中嶋は腕時計に視線を落とす。
「多分、もうすぐだと思います。一緒に部屋を出たんですけど、野暮用があるとかで、途中で別れたんです。すぐに終わる用だとは言っていたので――」
 そう話している最中に、個室と廊下を仕切るカーテンの向こうで、誰かが個室の前で立ち止まったのが透けて見えた。カーテンの下から、バックルが印象的なモンクシューズが覗いている。なんとなく二人は会話を止め、カーテンが開くのを待ち構えていた。
「遅れてすみません」
 明るい調子の言葉と共に、颯爽とカーテンを開けて入ってきたのは、秦だった。
 毛皮特有の上品な光沢を帯びたロングコートにセカンドバッグという出で立ちは、美貌の怪しい青年実業家という肩書きを実によく演出しており、似合ってはいるものの、いつも以上に胡散臭く見える。
 おやっ、と思ったのは和彦だけではなく、中嶋も軽く眉をひそめていた。
「部屋を出たとき、そんな格好はしてなかったでしょう。……なんだか、ホストをスカウトしていた頃のあなたに戻ったようですよ」
「人と待ち合わせをするのに、目立つ格好のほうが都合がよかったんだ。このコートは、うちの店のホストに借りた」
「……面倒くさいことを……。それで、野暮用は片付いたんですか?」
 呆れたように問いかける中嶋に対して、秦が一瞬ドキリとするような鋭い笑みを向けた。華やかだが、同時に胡散臭さもつきまとう男を、その笑みはまったくの別人のように見せた。
 和彦がよく知る、独占欲と執着心の強い、厄介な男たちのような――。
「まあ、片付いたと言えば、片付いたな。予定通り、連れて来ることができたから」
 和彦と中嶋は同じタイミングで首を傾げ、数秒後には驚きの声を上げていた。秦に続いて、遠慮がちにカーテンを開けて個室に入ってきたのが、まったく予想外の人物だったからだ。
「加藤……」
 ぽつりと中嶋が呟く。
 トレーナーの上からライダースジャケットを羽織った格好の加藤は、状況がよく呑み込めない様子ながら会釈をしたあと、その場にいる三人を見回す。一体なんの集まりかと問うように視線を向けたのは、中嶋だった。一方の中嶋のほうは、困惑したように秦を見た。
 和彦は不穏な空気を感じ取り、ソファの上で動けなくなっていた。秦の鋭い笑みを目にしたあとで、突然の加藤の登場だ。〈偶然〉によって作られた状況のはずがなかった。
 秦は悠然とロングコートを脱ぐと、空いているソファに腰掛け、居心地悪そうに立ち尽くしている加藤にも座るよう促す。我に返った中嶋が口を開こうとしたが、秦は片手をあげて制すると、二人を案内してきたスタッフに注文を頼む。
 スタッフが立ち去ったあと、今度こそ中嶋が秦に問いかけた。
「――どういうことか、説明してもらえますか? どうして加藤が、秦さんと一緒にいるんですか?」
「わたしがメールして、呼び出したんだ。お前の携帯から、お前のふりをして。待ち合わせ場所に来た彼を、ここまで連れてきたんだが……、よく躾けてあるな。警戒心が強くて、なかなか苦労した」
「どうして、そんなこと……」
「お前が紹介してくれないからだ。一度会って話をしたいと言っても、はぐらかすばかりだっただろ? 気になるじゃないか。お前が特に目をかけている『加藤くん』の存在は」
 ピリピリしている中嶋とは対照的に、秦はどこまでも悠然とした態度を崩さない。和彦が知る限り、長嶺組の本宅に出入りしているときですら、こんな態度の秦だが、今はどこか芝居がかったものを感じる。
 おそらく秦は、挑発しようとしているのだ。中嶋か、加藤か、それとも両方か――。
 目の前にいる三人の関係をある程度把握しているだけに、和彦は気が気でない。知らず知らずのうちに腰を浮かせていた。乱闘が始まったところで止められる自信はまったくなく、一人うろたえていると、硬い表情で黙り込んでいる加藤と目が合った。困惑も動揺も面に出していないが、かえって加藤の立場を慮らずにはいられない。
 いくらか険悪さを帯び始めている中嶋と秦のやり取りに、控えめに和彦は割って入った。
「……加藤くんに会いたかったのなら、何も、こんなときでなくてもいいだろ。ぼくは今夜は、自棄酒に中嶋くんをつき合わせるつもりだったんだ。そこに、君が加わることになって、まあいいかと思っていたのに……。せめて、ぼくが帰るまで待ってくれ」
 和彦の苦言に対して、秦はヌケヌケと返してきた。
「先生がいると、抑止力という意味で大変心強いので、今夜は最適だったんです。先生の前で荒事を働こうという愚か者は、この場にはいませんから」
 普段であればそうだろうが、今夜に限っては言い切れない。和彦は心の中でそう呟く。
「面倒なことに巻き込むなと言って、ぼくが酔って暴れるとは考えないのか?」
「ぜひ、そんなふうに乱れる先生を見てみたいですね」
 和彦と軽い口調で会話を交わしながらも、秦の視線は油断なく中嶋と加藤に向けられている。
 少し前に秦は、自らを嫉妬深いと語っていたが、あれは大げさな表現ではなかったのだと、今になって実感していた。感嘆するような美貌と艶やかな雰囲気を持ち、扱うものはともかく商才にも恵まれている男は、二十歳をやっと過ぎたばかりの青年に大人げない嫉妬をしているのだ。
 秦に厄介な火を灯した元凶ともいうべき中嶋は、加藤と寝ていると打ち明けたことをどう感じているのだろうか。加藤だけではなく秦まで、自分の思惑から外れた行動を取ったことに、戸惑っているのか、苛立っているのか。
 和彦は、瞬く間に頬が上気した中嶋を、そっと盗み見る。自分だけ先に帰ってしまおうかと考えなくもなかったが、三人それぞれと関わりを持っているだけに放っておけない。善人ぶるつもりはなく、自分が去ったあとの事態を危惧したのだ。
「――加藤くん、仕事は大丈夫なのか?」
 声をかけると、伏せがちだった切れ長の目がまっすぐ和彦を捉える。腹が決まったような顔つきになっていた。
「はい……。夕方から明日の午前中いっぱい、休みをもらっていますから」
「貴重な休みなら、こんなところで胡散臭い男……たちにつき合ってないで、早く帰ったらどうだ」
 加藤は毅然とした表情で、首を横に振った。
「いえ。俺も……、この人――秦さんと話をしてみたいので」
 次の瞬間、バンッと大きな音が個室内に響く。中嶋が乱暴にテーブルを叩いたのだ。
 中嶋は立ち上がると、憎々しげに秦を睨みつけた。
「……怒って、いるんですか?」
「どうして、〈おれ〉が怒るんだ。お前が先生と寝ていても、嫌だと思ったことはない。むしろ、羨ましい――」
「とぼけないでください。俺と加藤のことです。こんな、あなたらしくないことまでして……」
「お前の言いたい秦静馬らしさとは、お前が打算含みで誰と寝ようが、他人事のように涼しげに笑っていることか?」
「俺相手には、どんなふうに振る舞ってもいいです。だけど、こいつを……加藤を巻き込むのは違う」
「どう違う? お前は先生を利用して、足場を固めようとしている。加藤くんのことも、手駒にしようとしているんだろ。おれは先生と親しくしているんだ。加藤くんとも親しくしたいと思っても、おかしくはないはずだ」
 中嶋が返事に詰まったのは、傍らで見ていてもわかった。咄嗟に和彦が秦を窘めようとしたとき、カーテンの向こうから声をかけられる。秦が注文したものをスタッフが運んできたのだが、入れ違いで中嶋が個室を出ていく。戻ってくる気はないのか、ジャケットを掴んでいた。
 止める間もなかった。和彦が呆気に取られて動けないでいると、腰を浮かせた加藤がこちらを見る。それがまるで、こちらの判断を仰いでいるように思え、和彦は小さく頷いて返す。加藤は弾かれたように個室を飛び出していた。
「逃げられた――、というか、絶妙のタイミングで彼を逃がしましたね、先生」
 個室に二人きりとなってから、秦が苦笑交じりで洩らす。一瞬の嵐に巻き込まれたような気分で、ぐったりとソファにもたれかかっていた和彦だが、秦のその言葉で体を起こす。じろりと睨みつけた。
「あれはなんだ。何がしたかったんだ」
「さっきも言いましたが、本当に会いたかったんですよ。加藤くんに」
「牽制したかったのか。自分は、中嶋くんにとって特別な存在だと。……自負と自信が揺らいだか?」
 秦がスッと目を細める。一瞬浮かべた冴えた表情は、この男が酔狂だけで突飛な行動に出たのではないとわかる。嫉妬に狂うようなことがあったのだ。
 和彦は大きく息を吐き出すと、グラスに注いだワインを一気に飲み干す。寸前までのやり取りの興奮のせいか、いつの間にか顔が熱くなっていた。特に熱を持っている頬にてのひらを押し当てたところで、和彦の記憶が刺激される。つい口元が緩んだのは、苦笑のせいだ。
「先生?」
「嫉妬で暴走したのは、君だけじゃなかったことを思い出した。前に中嶋くんに、君との仲を咎められた挙げ句に、殴られたことがあるんだ」
「結果として、先生がいてくれたおかげで、〈わたし〉は中嶋と結ばれたわけですが」
 感情的になるのは中嶋の前だけかと、和彦は少しだけ意地の悪いことを思う。
「――でも、さっきので嫌われたかもな」
 さらりと切り返してくるかと思われた秦だが、黙り込んでビールを飲む。掴み所のない言動で、何を考えているか読ませない男だが、今だけは、目くらましのような心の覆いがわずかに外れている気がした。
「一つ聞いていいか?」
 どうぞ、と声に出さずに秦が応じる。
「この間ぼくに、中嶋くんと加藤くんのことを教えてくれたとき、君はまだ余裕があるように見えたんだ。なのに今は違う。……何か変化があったのか?」
「それを正直に言うのは、勘弁してください。自分がこんなに狭量な人間だったのかと、驚いています。今夜のところは、これ以上、先生にみっともない姿は見られたくないんです」
「……見栄っ張りだな」
「わたしの立派な武器ですよ、見栄は」
 秦と中嶋の関係にこれ以上立ち入っては、単なるお節介だなと見切りをつけ、和彦は帰り仕度を始める。まだ飲み足りないし、弱音も吐き足りないのだが、秦をつき合わせるのも気が咎めた。
 秦なりに今夜は傷心のようで、いつものように甘ったるい台詞は期待できないだろう。――別に聞きたいわけではないが。
 立ち上がり、コートに袖を通す和彦を、驚いたように秦が見つめてくる。
「もうお帰りですか?」
「ぼくは、中嶋くんと飲みたかったんだ。せっかくの機会を潰した罰として、ここの支払いは君が持ってくれ」
「それはもちろんです。でも、もう少しわたしにつき合ってもらえると嬉しいのですが……」
「今夜は、他人の愚痴を聞ける精神状態じゃない。それに、中嶋くんの同行があって、護衛なしでの夜遊びを許可されているのに、肝心の彼がいなくなったんだ。それが組にバレると面倒だ」
 引き止めようとする秦の声を振り切って、個室を出ようとした和彦だが、ふとあることが気になって足を止める。思い切って秦を振り返った。
「――……あの男から、連絡はないのか」
「聞きたいことは、一つでは?」
 和彦が唇を引き結ぶと、秦は気障な仕種で肩を竦める。そして、緩く首を横に振った。それを見届けてから、今度こそ和彦は個室をあとにした。
 きちんと四人分の飲み代を支払って店を出ると、エレベーターホールに向かいながらマフラーを首に巻く。
 期待したわけではないので、失望はなかった。ただ気まぐれに、行方をくらました男――鷹津のことを尋ねただけで、それ以上の意味はない。和彦はそう自分に言い聞かせながらエレベーターに乗り込んだ。
 ビルのエントランスまで降り、外の通りを眺める。寒そうに肩を竦めて歩く人たちの姿を見て、帰りはどうしようかと考えていた。この時間帯、すぐにタクシーが捕まるとも思えないが、だからといって長嶺組から迎えを寄越してもらうわけにもいかない。
 ひとまず中嶋に、一人で帰るとメールだけでもしておこうと、携帯電話を取り出す。簡単な文章を打ち込んでから和彦は顔を上げ、再び通りに目を向ける。何げない一連の動作だが、数瞬遅れて強烈な違和感に襲われた。
 今確かに、自分は〈何か〉を視界に捉えた――。
 それが何であるか理解したとき、和彦はエントランスから通りへと飛び出していた。ちょうど、若者たちのグループが通りいっぱいに広がって、楽しげに声を上げて歩いている。その間から、見覚えのある後ろ姿がちらりと見えた。
 ジーンズにブルゾンというよくある組み合わせの格好ながら、引き締まった体つきと、癖のある長めの髪の男。
 その男が肩越しに振り返り、鋭い目元が確認できた。和彦を一瞥したことも。
 男の姿をもっと近くで確認しようとするが、男は巧みに人ごみに紛れながら、あっという間に姿を隠してしまう。それでも背の高い男のため、ときおり頭の先が覗く。和彦は必死に追いすがろうとして、とうとう声を上げた。
「鷹津――……、秀っ」
 なかなか道を開けようとしない若者たちに苛立つ。なんとか追い抜こうとしながら、思い出していた。
 前にもこんなことがあったのだ。賢吾と街中を歩いていて、人ごみに紛れるようにして立っていた鷹津を見かけた。あのときは、単なる見間違いかと気にも留めなかったが、今にして断言できる。
 鷹津はあの場にいて、和彦を見張っていた。いや、見守っていたのだ。そして今夜も。
 ようやく人が散(ばら)け、和彦が駆け出そうとしたとき、背後から腕を掴まれて引き止められた。
「先生っ」
 ハッとして振り返ると、中嶋が立っていた。
「どこに行くんですか。一人で」
「あっ、いや……」
 和彦は気もそぞろに応じながら、鷹津が歩いて行った方角を見つめる。完全に姿を見失ってしまった。肩を落とし、ため息をつくと、中嶋に顔を覗き込まれる。
「何かあったんですか?」
「……知り合いがいたような気がしたんだ。けど、見間違いだったようだ」
 中嶋から探るような眼差しを向けられ、それが嫌で強引に話題を変える。
「加藤くんは? 一緒に帰ったかと思ったんだ」
「まさか。先生を放って、そんなことしませんよ。あいつは電車で帰ったようです。俺は、タクシーを捕まえようと思ったんですけど、こんな場所ですから、なかなか。一旦先生のところに戻って、店から連れ出そうとしたら――……」
 中嶋は露骨に、和彦が誰を追おうとしていたのか気にしている。もし、鷹津がいたと知ったら、和彦が懇願したところで黙ってはいないだろう。まっさきに南郷に報告するか、それとも賢吾か。なんにせよ、自分のために最大限利用するはずだ。
「気になりますね。先生が必死で追いかけようとしていた相手……」
「医大時代の知り合いだ。聞いたところでおもしろくはないぞ」
「先生の話は、なんだっておもしろいですけどね」
 ニヤリと笑いかけてきた中嶋だが、心なしかいつもよりぎこちない。今から別の店に移動するという心境ではないだろう。和彦も、すぐにでも体からアルコール分を抜いて、ついさきほど見た光景を冷静に思い返したかった。
 気にかけるべきことは他にあると頭の冷静な部分ではわかっているが、気持ちが、鷹津の存在に引きずられている。引きずられすぎて、誰かにそれを悟られる事態だけは、避けたかった。
「今夜はもうお開きということでいいですか?」
 案の定、中嶋のほうから切り出してくる。和彦は頷き、二人並んで通りを歩き始める。
「タクシーが捕まりそうなところまで、少し歩きましょう。その間、俺の愚痴につき合ってください」
 本当に愚痴をこぼしたくて堪らないといった中嶋の口ぶりに、苦笑しながら和彦は頷く。
「愚痴は聞くけど、アドバイスはできないからな」
「……先生の普段の生活を知っていると、恐れ多くて、そんなもの求められません」
 どういう意味だろうかと思ったが、とりあえず今は黙って中嶋の愚痴を聞くことにする。
 ただ、もう一度だけと思いながら、鷹津が消えた方向を和彦はそっと見遣った。









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