と束縛と


- 第40話(4) -


 俊哉と再び対面することが決まったからといって、特別な変化が起こるでもなく、いつものようにクリニックで過ごす月曜日は始まった。
「……うーん」
 診察室のイスに深くもたれかかって、一声唸った和彦はこめかみを押さえる。前夜、中嶋の愚痴につき合ったあと、自宅マンションに帰宅した和彦だが、今度は一人で深酒をしてしまったのだ。おかげで、朝から頭痛がする。
 次の予約まで時間があるため、紅茶を飲みながらのんびりしているが、頭の中ではめまぐるしく懸念事項が駆け巡っていた。この辺りも頭痛と関係しているのだろう。
 和彦は深いため息をつくと、デスク上の卓上カレンダーを手に取る。週末まであっという間だと思ったあと、十一月ももうすぐ終わることに気づかされる。今年最後の月が巡ってくるということに、ささやかな感慨に耽っていた。
 そこでふと、去年の今頃、自分はどうしていたのだろうかと思い返す。男たちの事情に振り回されてはいたが、それでも比較的穏やかな日々を送っていた。守光とはまだ顔も合わせたことはなく、鷹津は相変わらず嫌な男ではあったが、なんとなく接し方がわかりかけていた頃で――。
「佐伯先生」
 突然呼びかけられて、和彦は姿勢を正す。メモを片手にスタッフが傍らに立っていた。
「どうかした?」
「十二月三日の午前中に予約を入れられている患者さんから、さきほど連絡があったのですが……」
 和彦はすぐにパソコンを操作し、言われた日付の予約状況を確認する。確かに予約が入っており、先日カウンセリングを行った患者の名が表示されている。
「まさか、キャンセル?」
「いえ、そうではないんです。予約の日は都合が悪くなったそうで、できればもう少し早い日に変更できないかとおっしゃられて。佐伯先生はまだ診察中だったので、折り返し連絡を差し上げるとお伝えしました」
「あー、そうだね。施術の予約だから、空いているところにポンッと入れるわけにもいかないし」
 和彦は、患者のカウンセリング表と予約状況を交互に眺めて検討し、メモにいくつかの日付と時間を書き込む。そのメモをスタッフに渡した。
「そこに書いた日付と時間を患者さんに伝えて、希望に合うものを選んでもらうようにして。難しいようなら、一度予約をキャンセルして、改めて予約を入れ直すことになるかなあ」
「そうですね。とにかく今から連絡して、確認してみます」
 スタッフが診察室を出て行き、その姿を見送った和彦はカップに口をつける。紅茶を一口飲んだところで、小さく声を洩らしていた。寸前の他愛ない業務上のやり取りが、まるで小骨のようにチクチクと和彦の中で刺さる。
 一体何が引っかかるのかと戸惑ったが、交わした会話を丹念に頭の中で辿っていくうちに、あることに気づく。拍子抜けするほど呆気なく、疑問は解けた。
 やられた、と和彦は呟く。まさに、そうとしか言いようがなかった。
 デスクの引き出しから携帯電話を掴み出すと、慌ただしく仮眠室へと駆け込む。腹立たしさすら覚えながらある人物へと電話をかけていた。
『――……珍しいですね。先生が、平日の午前中からわたしに連絡をくださるなんて』
 寝ているところを叩き起こしてしまったらしく、電話越しに聞こえる秦の声は低い。いつもであれば少しばかり罪悪感の疼きを感じるだろうが、今はそれどころではなかった。秦が寝ぼけているのをいいことに、前置きもなく要件を告げる。
「鷹津と連絡を取っているだろう」
 返ってきたのは、十秒以上の沈黙だった。秦が意識を覚醒させ、上手い対処法を考えるための時間だと、和彦は解釈する。
 ふっと息を吐き出してから、秦は慎重な口ぶりで問いかけてきた。
『どうして、そう思われるんですか?』
「昨夜店を出てから、……鷹津を――に、似た男を見かけた。あくまで、〈似た男〉だからな」
 和彦の言わんとすることを察したのか、秦が軽く相槌を打つ。
『〈似た男〉ですか』
「どこで飲んでいるか、知らせたんだろ。タイミングがよすぎたんだ。中嶋くんと夜遊びをするとき、ぼくに組の護衛はつかない。その中嶋くんといつ夜遊びに出かけるかなんて、ごく限られた人間しか知らないんだ。なのに……狙い澄ましたように、あの場所にいた」
 昨夜から違和感はあったが、今この瞬間になってようやく明確な言葉にできた。そうなのだ。あまりにタイミングがよすぎた。誰かがあらかじめお膳立てをしない限り、あんなことは起こらない。
「鷹津から連絡はないが、君から連絡は取っている、ということか」
『まあ、そんなところです。もちろん、あの人がどこにいるかは知りませんよ。ただ、新しい携帯電話の番号は知っています。少し前にうちの店のスタッフが、鷹津さんに似た男から手紙を預かって、そこに書かれてありました』
「……どういう意図があって、そのことをいままで黙っていたんだ」
『わたしはそこそこ野心は持っていますが、鷹津さんには多少なりと友情めいた感情を抱いているんですよ。さんざんタダ酒を集られましたが、その分の便宜は図ってもらいましたし。そして先生には、命を助けてもらった恩があります。――鷹津さんと先生は、お互いを気にかけていたでしょうから、わたしはささやかなお節介をしただけです。ときどき、先生の様子を知らせるというお節介を。鷹津さんは、聞きたくないとは一度も言いませんでした。ただ黙って聞き入って。そうですか……。あの人やっぱり、先生に会いに行かれたんですね』
 危険を冒して、と念を押すように言われ、和彦はゾクリと身を震わせる。長嶺組と総和会から追われている男が繁華街をうろつく危険性は、鷹津自身がよく承知しているだろう。
 それでもあえて、鷹津はやってきたのだ。胡散臭い秦からの情報を信じて。
 感情が高ぶり、心を揺さぶられるものがあったが、和彦は必死に押し殺す。そうしなければ、鷹津の連絡先を教えてほしいと秦に頼んでしまいそうだった。
 ゆっくりと深呼吸をしてから、なんとか平坦な声を作り出す。
「確認したかったことは、それだけだ。……鷹津の連絡先を君が知っていることを、他に誰が――」
『誰も。先生だけです。本当は、先生にも話すつもりはなかったんですよ。鷹津さんに口止められていましたから』
「……昨夜のやり取りは、ヒントのつもりだったのか」
『気づかれなければ、それはそれでよかったんです。知れば、先生は煩悶するでしょう?』
 しない、と言い張るのも大人げなく、和彦は唇を引き結ぶ。
『先生なら大丈夫だと思いますが、わたしと鷹津さんが繋がっていることは他言無用でお願いします。当然、長嶺組長にも。後ろ盾になっていただいている身でわたしも心苦しいですが、ここは一つ、先生も共犯になってください』
「――……考えておく」
 和彦としてできる返事は、これが精一杯だった。それでなくても賢吾には、俊哉のことで隠し事をしてしまい、結果としてさんざん迷惑と負担をかけたのだ。このうえ、鷹津を見かけたなどと打ち明けては、大騒ぎになる。
 ここで和彦は、無意識のうちに前髪に指を差し込んでいた。
 賢吾や長嶺組に負担をかけたくないというのは、気持ちの半分としてある。だが残りの半分を占めているのは、保身なのだ。自分自身と、鷹津のために。
「電話するんじゃなかった」
 つい率直な感想を洩らすと、電話越しに微かな物音が聞こえてくる。何かと思えば、秦の抑えた笑い声だった。
『でも、確かめずにはいられない。先生はよくも悪くも、几帳面ですからね』
 仮眠室の時計を一瞥して、次の予約までまだ少し時間があることを確かめる。こちらを翻弄してくるような物言いの秦に対して、ささやかな意趣返しをすることにした。
「他人の事情に首を突っ込むのもいいが、自分のことは大丈夫なのか? 昨夜のアレは、秦静馬らしくない醜態だった」
『ええ。そのせいで中嶋に、当分自分の部屋に戻ると言われました』
 口に出しては言えないが、自業自得だと思ってしまう。
「しっかり話し合ったらどうだ。二十歳そこそこの子を巻き込む前に」
『子、ではないでしょう。彼は立派な男ですよ。ケンカのやり方を知っている、ね。……ただ、中嶋のほうが性質が悪いかもしれません』
 ほろ苦さを感じさせる口調の秦に対して、さすがに和彦も追い打ちをかけることはできなかった。
 自業自得というなら、中嶋も同じだ。昨夜、帰りのタクシーの中で中嶋から話を聞いたが、なんとなくだが、秦が大人げない行動に出た原因がわかった気がしたのだ。
 海外出張から秦が帰国する日、出迎えに行くと自ら言い出した中嶋は、直前になってその発言を取り消すことになったそうだ。その理由が、加藤だった。
 第二遊撃隊の方針として部屋を借りることになり、中嶋が物件探しなどを手伝ったのだという。そして、秦の帰国と加藤の引っ越しが重なり、中嶋は合理的な理由から、加藤を優先したそうだ。妙なところで世間知らずな男なので、危なっかしくて放っておけなかったし、世話を任された自分の責任もあると、中嶋は話していたが――。
 秦がいる部屋でも、加藤と連絡を取り合っていたと聞かされた和彦は、寒気のようなものを感じた。中嶋としては、隠し事はないという証明のつもりもあったのだろうが、とにかく秦にとっては耐え難い状況となったはずだ。
 結果が、昨夜の出来事だ。
 恋愛の機微には聡いはずの元ホストにしては、迂闊すぎると言わざるをえない。あくまで、中嶋の話を聞いた限りでは。だが一方で、同じ元ホストである秦は、これまでの経験で培ったはずの手管を発揮できず、無邪気な悪女に翻弄されているようだ。
 中嶋と秦の二人は、享楽的でスマートな関係を築いているとばかり思っていただけに、和彦としては困惑するしかないのだが、第三者としてはこう言うしかなかった。
「問題は二人で解決してくれ。――他人に迷惑をかけない形で。どちらにしてもぼくは、しばらく個人的な問題でバタバタするから、愚痴も聞いてやれないからな」
 残念ですねと、本当にそう思っているのか疑わしい言葉を秦が洩らす。
 いよいよ時間が気になってきた和彦は、話を切り上げて電話を切ろうとする。すると秦が囁きかけてきた。
『――本当にいいんですか?』
 なんのことかと問うまでもない。ほんの一瞬の逡巡のあと、和彦は短く応じた。
「いい」
 電話を切ったあとで、一気に心臓の鼓動が速くなる。気がつけば、携帯電話を握った手も冷たくなっていた。秦の最後の囁きは、和彦の心の深い部分を抉ったのだ。
 遠い場所で潜伏していると思われた鷹津が、実は自分の動向を探り、さらには側にまでやってきたと知ったところで、喜びはなかった。いや、湧き起ころうとするその感情を、懸命に抑えつけていた。
 鷹津は、二つの組織から追われている身で、さらに俊哉とも通じている。危険極まりない存在だ。だから、鷹津と会ってはいけない。鷹津のことを誰にも言ってはいけない。
 そう心の中で繰り返していると、仮眠室のドアをノックされた。そろそろ予約の時間だと告げられ、平静を装って返事をする。
「今行くよ」
 和彦は携帯電話の電源を切ると、何事もなかった顔で仮眠室を出た。




 胸の奥がずっとモヤモヤしている。
 何度目かの寝返りを打った和彦は、とうとう目を閉じ続けていることを諦めた。寝室の暗い天井を見上げ、金曜日までの日数を数えてから、憂鬱なため息をつく。
 二日続けてなかなか寝付けず、だからといって安定剤を飲むのもためらわれ、今夜は早めにベッドに入ってはみたのだが、結局無駄に終わりそうだ。
 俊哉と会うことと、自分の周辺に及ぼす影響について取り留めなく考えては、自ら睡魔を遠くに押しやっている気がするが、何も考えないというのはまた恐ろしいのだ。考え続けることで、暗澹たる気持ちとなり、罰を受けているような錯覚に陥る。その状態が、一種の安楽さに繋がっている。
 秦から鷹津の連絡先を聞かなかったことに、どうしようもない後悔を感じている自分が、和彦には許せなかった。自分を大事にしてくれている男たちの顔が脳裏をちらつき、胸が痛む。それでも、後悔を消し去ることができない。
 和彦はふっと息を吐くと、思い切ってベッドから出る。寒さに体を震わせてから、イスにかけてあったカーディガンを羽織ると、キッチンへと向かった。寝付けないのなら、いっそ開き直って、ゆっくりと温かいものでも飲もうと考えたのだ。
 電気をつけたキッチンにふらふらと入り、カップを取り出しはしたものの、ハタと我に返る。さすがに夜、コーヒーは如何なものかと思い、結局、ホットミルクを作ることにした。
 さっそく手鍋に牛乳を注いで沸かし始める。その間にカップや蜂蜜を準備していると、廊下から少し荒い足音が聞こえてきた。賢吾の足音ではないことは、すぐにわかった。そうなると、訪問者は一人しかいない。
 一体何事かと、訝しみながら和彦がキッチンを出ると、ちょうどダイニングに入ってきた千尋と出くわした。
 一目見て、千尋の表情の険しさに気づいた。それに、全身を取り巻く空気がいつになく荒々しい。
「……どうしたんだ、お前。こんな時間に……」
「さっき、オヤジに聞かされたんだ。先生――和彦が、金曜日に……会いに行くんだろ?」
 再び俊哉と会うことを、賢吾には報告したものの、誰にも知らせないよう頼んでおいた。前回の和彦の憔悴ぶりを知る男たちに、心配をかけたくなかったのだ。当然、その中に千尋は入っていた。しかし――。
 和彦が顔をしかめると、苛立ったように千尋が唇を歪める。
「厄介な奴にバレたって顔してる」
「当たり前だ。……お前の父親には口止めしておいたのに」
「俺は、和彦の口から聞きたかったよっ」
 千尋ならそう言うだろうと容易に想像がついた。だから、知られたくなかったのだ。
「この間はお前にもずいぶん心配をかけて、気を使わせたから、また父さんに会うと言ったら大騒ぎするんじゃないかと思ったんだ」
「なんだよ、それ……。俺が心配するのも、気を使うのも、当然だろ? もしかして、迷惑って――」
「違うっ。……これは、佐伯家の問題だから、巻き込みたくないんだ。お前たち父子と、長嶺組を」
「俺たちなんて、長嶺家の問題に和彦を巻き込みまくっているけど。気になるなら、お互い様って考えたらいいじゃん。それに、今回はオヤジには言ったんだろ。……オヤジだけは巻き込んでも大丈夫って判断したんなら、悔しい。いつも俺だけガキ扱いされて、問題が起きたら報告は後回しにされることも」
 この場合、なんと声をかけるのが正しいのか。逡巡した挙げ句に和彦は、すまない、と小さく謝罪する。
 今にも泣き出しそうな顔をして千尋が抱きついてこようとしたが、寸前で動きを止め、急に犬のように鼻を鳴らした。
「……千尋?」
「なんか、変な匂いしない? 焦げ臭いような――」
 ハッとした和彦は、千尋を置き去りにしてキッチンに駆け込む。案の定、鍋の中で牛乳が煮え立ってひどいことになっていた。呻き声を洩らして火を止める。
 がっくりと肩を落としていると、まだ鼻を鳴らしながら千尋もキッチンに入ってきて、和彦の背後から鍋を覗き込む。
「これ、何しようとしてたの?」
「……眠れないから、ホットミルクを作ってたんだ」
「レンジで温めたら……」
「膜ができるから嫌だ」
「だったら鍋で作るにしても、弱火でゆっくり掻き混ぜ続けないと、結局同じでしょう。いや、焦がした分、もっと悪いのか」
 そこまで言って千尋が、ニヤニヤしながら和彦を見た。
「飲みたいなら、俺が作ってあげようか?」
 寸前までの緊迫した空気が一変した瞬間だった。和彦が目を丸くしたまま何も言えないでいると、千尋はさっさとダウンジャケットを脱ぎ、シャツの袖を捲って鍋を洗い始める。和彦はおずおずと声をかけた。
「お前、作れるのか?」
「俺がどこでバイトしてたと思ってるんだよ。ホットミルクなんて簡単、簡単。カフェのキッチンだったら、もう少し凝ったものが作れるんだけどね」
 だったら頼むと言い置いて、ダウンジャケットを抱えた和彦はキッチンを出る。ダイニングでイスに腰掛けると、キッチンに立つ千尋の後ろ姿を眺めるしかなかった。
「――お前、こんな時間にやってきて、会うのはやめろとぼくを説得するつもりだったのか?」
 沈黙が居心地悪くて、つい和彦は話しかける。背を向けたまま千尋が応じた。
「考えてなかった。……オヤジが、お前も聞く権利はあるからって教えてくれたんだ」
「別に、お前を邪魔者扱いしたわけじゃないからな。考えたうえで、あえて言わなかった。ただ励ましてほしいとか、支えてほしいと思うなら、みんなに言って回ってた」
「三田村にも?」
 千尋に見えるはずもないのに、曖昧に笑いかける。
「そうだな」
「気にかける男が多くて大変だ」
 千尋の口調から、皮肉ではなく本気でそう思っているのは伝わってくる。肯定するわけにもいかず、和彦は曖昧な言葉を洩らしていた。
 ただ牛乳を温めているだけとはいえ、なかなか様になる後ろ姿を見せている千尋に、和彦は口元を緩める。荒々しい空気を振り撒きながら訪ねてきたが、どうやら落ち着いたようだ。
 自分のために何かを作ってくれる人間の後ろ姿を眺めるのは、気恥かしさに胸の奥がくすぐったくなるが、つまりそれは、嬉しいということだ。
「蜂蜜はどれぐらい入れる?」
「ほんのり甘め」
「……つまり、けっこう甘めということか……」
 さほど待つことなく和彦の前に、ホットミルクが注がれたカップが置かれる。ちらりと見上げた先で、千尋が得意げな顔をしている。
「どうぞ、飲んでください」
 和彦はぼそぼそと礼を言うと、カップの中に息を吹きかけ、ホットミルクを一口飲む。舌の先が痺れるほど熱いが、ちょうどいい甘さに思わず笑みをこぼす。つられたように千尋も破顔し、イスに腰掛けた。
「勢い込んでやってきたけど、鍋を焦がして肩を落としている和彦を見たら、なんか力が抜けた」
「悪かったな。牛乳を温めることすらできなくて」
「それでいいよ。俺でも、役に立てるんなら」
 聞きようによって卑屈とも取れる千尋の言葉に、和彦は眉をひそめる。すると千尋がやけに大人びた微笑を浮かべた。
「俺、カッとしやすいけど、自分にできることと、できないことの区別はつけているつもりだよ。和彦に何かあったとき、一番動けるのはオヤジ。そのオヤジが止めないんなら、多分俺にできることはない。……長嶺で一番力を持っているのはオヤジじゃなく、じいちゃんだからね。単なる父子ゲンカなら逆らうことも、殴り合うこともできるけど、二人とも、それぞれ組織を背負ってる。そこに面子が乗っかってるんだ。父子でも、絶対的な不可侵ってやつはある。いや、父子だから、かな」
 千尋なりに、組織の力学というものをきちんと理解しているのだ。むしろ、裏の世界に引きずり込まれて二年も経っていない和彦より、生まれた瞬間からその世界で育まれてきた千尋のほうが、骨身に叩き込まれているはずだ。
 そのうえで尚、千尋は成長している。以前に、和彦が兄である英俊と対面することになったとき、火のような激情を露わにして悔しさをぶつけてきた千尋だが、今は少し様子が違う。感情的になりながらも、経験と知識が歯止めとして働いている。
 優しく甘いホットミルクの味が、そう知らせてくるのだ。
「――移動の車の中で、俺なりにオヤジの真意ってやつを考えてたんだ」
「うん?」
「和彦に関することでは、じいちゃんを……、長嶺守光を全面的には信用するな、って言いたいんじゃないかって。だからオヤジは、和彦がまた自分の父親と会うことになった経緯を教えてくれた」
 どうだろう、と和彦は心の中で呟き、またホットミルクを啜る。賢吾が何を考えているのか推測することは難しいし、さらに父子間の機微となると、それはもう想像が及ばなかった。
 それでなくても賢吾と千尋は一般的な父子とは言い難く、常識が当てはまらない。
「……思惑はどうあれ、ぼくは、父さんと会わざるをえない。父さんと会長の間に何かしら密約があって、履行のためにぼくは欠かせない駒なんだ。お前や組長には申し訳ないけど」
「そんなこと思わなくていいけどさ……。それより、俺の前でも遠慮なく、オヤジのことを名前で呼んだら? 賢吾さん、って」
 思いがけない提案に、噎(む)せて咳き込んだ和彦はじろりと千尋を睨む。ニヤニヤと笑って返された。
「いいじゃん。俺だって、まだ慣れないなりに、和彦って呼んでるんだから。一緒にがんばろうよ」
「何をがんばるんだっ。――……話が済んだんなら、もう帰ったらどうだ」
「残念。車は帰らせたよ。今夜はここに泊まるって言っておいたから」
 一方的に動揺させられたお返しというわけではないが、露骨に迷惑そうな顔をすると、途端に捨てられた子犬のような眼差しを向けられた。
 こいつは本当に性質が悪い。和彦はそう心の中で呟く。
 演技だとわかっていながら、こんな千尋を追い返すことは和彦にはできなかった。
「お前には、ホットミルクを作ってもらったしな……」
「和彦のためなら、何杯でも作ってあげるよ」
「別の機会にな。……眠れないからって、すぐに安定剤を飲まなくてよかったよ。おかげで、お前の珍しい姿を見ることができた」
 ホットミルクを飲み干して立ち上がった和彦は、千尋の傍らを通るとき、茶色の髪をくしゃくしゃと掻き乱す。
「様になってたぞ、キッチンに立つ姿。お前がけっこうマメだってこと、すっかり忘れてたな」
 千尋はくすぐったそうに首を竦めたが、急に立ち上がって和彦の手首を掴んできた。このときにはもう、千尋の表情は一変していた。
 食い入るように和彦を見つめてくる両目にあるのは、紛うことなく強い情欲の色だった。
「あっ、バカっ――……」
 強引に抱き締められそうになり和彦は反射的に身を捩ったが、体に絡みついてくる両腕の力は強い。すぐに抵抗の無益さを悟り、空のカップをテーブルの上に置く。待ちかねていたように掻き抱かれ、和彦もそっと千尋の背に両腕を回した。


 この夜の千尋は、いつにも増して甘ったれで、ワガママだった。困ったことに和彦は、千尋のそんなところが嫌いではない。むしろ、好ましく、愛しいと思っている。
 瑞々しく滑らかな肌をじっくりと舐め上げ、ときおりきつく吸い上げては愛撫の痕跡を残していく。そのたびにベッドに仰臥した千尋が切なげな吐息をこぼし、和彦が上目遣いにうかがうと、心地よさそうな蕩けた表情をしていた。
 自分からせがんできただけあって、反応がいい。和彦は小さく笑みをこぼしていた。
 呼吸に合わせてゆっくりと上下する胸元にてのひらを這わせる。出会ったばかりの頃は少年っぽさも残していた体つきは、成熟した男のものへと確実に変化している。わずかに肩が逞しくなり、胸板は厚みを増し、腹筋の線はよりはっきりと現れている。それに、雄の匂いが強くなった。
 身近にいすぎて見過ごしてしまうが、千尋は外見も中身もまだ成長過程にある。犬っころのような青年が、背に彫った恐ろしくも献身的な獣を身の内に宿す日は、近いかもしれない。それとも、すでに棲みついて、息を潜めているのか。
 それはとても怖いことだが、一方で、抗い難い魅力も感じてしまうのだ。
 ふいに千尋の片手が伸びてきて、髪を掻き上げられる。
「何か、考え事してる?」
 少し怒ったような声で問われ、和彦はふっと我に返る。
「お前も成長してるなと思って。体、鍛えてるだろ?」
「最近、人に勧められてさ、ジムに通い出したんだ。スーツ着る機会も増えたし、ちょっとでも映える体つきになりたくて。何より、体力つけないと。この世界、化け物みたいな体力持ったオッサンたちが多すぎるんだよ」
「……ほどほどでいいからな」
 和彦の言葉に、千尋が意味ありげな笑みを浮かべる。
「なんの心配してるの? いやらしいなー、和彦は」
 ここでムキになっては相手の思うツボだと、和彦は自分を戒める。反論は、言葉ではなく行動で示した。
 興奮して身を起こした千尋の欲望を優しく片手で握り込むと、ビクリと腰を震わせた千尋が短く声を洩らす。
「お前もいやらしい。――もう、こんなにして」
 握り込んだものを緩く上下に扱いてやると、素直に悦びを表し、硬さも重量も増していく。甘ったれの本領発揮とばかりに、掠れた声で千尋に求められ、ゾクゾクするような興奮を覚えて和彦は応じる。
 頭の位置を下ろし、千尋の反応をうかがいながら、欲望の根元から丹念に舐め上げてやる。ときおり唇を這わせ、優しく吸いついてやると、それだけで千尋は切羽詰まった声を上げ、体を波打たせる。
 先端から滲み出た透明なしずくを舐め取り、まず括れまでを口腔に含むと、指の輪で欲望を扱きつつ、唇で締め付ける。
 たっぷりの唾液を絡ませた舌で、口腔に含んだ先端を舐める。千尋がうわ言のように『先生』と呼びながら、和彦の後頭部に手をかけてきた。望み通り、口腔深くまで欲望を呑み込み、熱く濡れた粘膜をまとわりつかせ、吸引する。
 瞬く間に逞しく成長した熱い塊が、和彦の喉を圧迫する。苦しさを上回って、これ以上ない歓喜を示す存在が愛しくて、このまま最後の瞬間を受け止めるつもりだったが、途中、慌てたように千尋に顔を上げさせられた。このとき、自分がどんな顔をしていたのか和彦にはわからなかったが、千尋が惚けたように見つめてくる。
 何も言わないまま体を引っ張り上げられ、今度は和彦がベッドに横たえられ、千尋が覆い被さってきた。
 すっかり汗ばんだしなやかで熱い体の感触に、眩暈にも似た恍惚感を覚える。自分が熱くした体だという、独占欲にも似た感情が芽生えていた。
 千尋は、餓えた獣そのものだった。和彦の肌に貪りつき、舐めて吸いつくだけではなく、ときには噛みついてもくる。
「あっ、千尋っ……」
 腕を持ち上げられ、腋にすら舌を這わされてさすがに羞恥するが、身を捩る和彦にますます千尋は煽られたようだった。やや強引に両足の間に手が差し込んできたかと思うと、いきなり柔らかな膨らみをまさぐり始める。
「ううっ」
 手荒く揉みしだかれて、和彦は呻き声を洩らして腰を跳ねさせる。千尋の手を押し退けようとしたが、掠れた声で窘められた。
「ダメだよ。俺の好きなようにさせて。気持ちよくしてあげるから」
 弱みを指で刺激され、思わず甲高い声を洩らす。執拗に柔らかな膨らみを苛められ、次第に両足から力が抜けていく。千尋の片手が膝にかかり、促されるまま和彦は自ら足を開いていた。
 強い視線に晒されながら、身を起こしかけた欲望の形を、思わせぶりに指先でなぞられる。このときの千尋の表情は、まさに舌舐めずりする獣のそれだ。身震いしたくなるような興奮が和彦の中を駆け抜け、吐息を洩らしていた。
 眠れなくてホットミルクを作っていたはずが、ここに至るまでの展開が早すぎる。おかげで、胸の中に巣食っていた憂鬱を、一時とはいえ紛らわせることができる。それほど、千尋の存在は強烈で、魅力的だ。
 誘われるように千尋が、開いた両足の間に顔を埋めてくる。柔らかな声音で和彦は制止していたが、それは千尋を煽るとわかったうえでのことだ。
 当然千尋は、やめるどころか、勢いを得たように欲望にしゃぶりついてきた。
「あうぅっ、うっ、うっ……ん」
 技巧など知らないとばかりに激しく吸い立てられ、舌が絡みついてくる。和彦は荒い呼吸を繰り返しながら、性急な愛撫を受け入れようとしていたが、ふいに上擦った声を上げて腰を震わせる。和彦のその反応に、千尋も気づいたようだった。
 上目遣いに見上げてきながら、欲望の先端に唇を這わせ、慎重に和彦の反応を観察してくる。
「千尋、もういいから……」
 なんとか千尋の頭を上げさせようと、茶色の髪を梳いてやる。しかし千尋は確信を得たように、硬くした舌先で先端をくすぐってくる。ときおり歯が掠め、そのたびにヒヤリとする恐怖に襲われるが、同時に、先日の賢吾との淫靡な行為が蘇る。
「あっ、それ、嫌だ、千尋。怖い……」
「ウソ。いっぱい、濡れてきた」
 わざと和彦に聞かせるように、千尋がピチャピチャと濡れた音を立てて、欲望の先端を舐めてくる。さらには爪の先でも弄られて、和彦は鼻にかかった甘い呻き声を洩らしていた。
 まさか賢吾は千尋に話したのだろうかと、つい脳裏を過りはするものの、本人に確かめるわけにもいかない。
「ああっ――」
 先端から尽きることなく滲み出る透明なしずくを吸われ、さらに出せといわんばかりに舌先でくすぐられる。和彦は甲高い声を上げ、身悶えていた。
 汗と、それ以外のものによって湿りを帯びた内奥の入り口を、千尋の指先が掠める。押さえつけるようにして刺激され、ときおり舐められて濡らされながら、ゆっくりと指を挿入されていた。和彦は小さく喘ぎながら、内奥を妖しくひくつかせる。
 全身から熱気のようなものを立ち昇らせ、顔を上げた千尋が荒い息を吐く。内奥から指を出し入れしながら、思い出したように呟いた。
「……行かせたくないなー。すごく心配だよ。誰かに連れ去られて、戻って来ないんじゃないかって考えると、気が狂いそうになる」
 すぐには思考が追い付かなかった。肉を開かれ、擦られる感触に意識を集中していた和彦は、ぼんやりと千尋を見上げる。千尋は愉悦を覚えたように目を細め、もう片方の手を和彦の胸元に這わせてきた。触れられないまま硬く凝った突起を、てのひらで捏ねるように刺激され、意識しないまま内奥をきつく収縮させる。
「こんないやらしい和彦を、一人で送り出すなんて、嫌だよ。……どんな男が食いつくか、わかったものじゃない」
「人を、魚の餌みたいに言うな……。それに、実の父親と会うだけなんだから、余計な心配だ」
「本当にそうなると思う? 状況なんて、いつだって変わるよ。じいちゃんにどんな約束をしたのか知らないけど、和彦の父親が、よし連れて帰ろう、ってなるかもしれない」
「それを言い出したら、キリがない。もう決まったんだから、そんなこと言うな」
 唇を尖らせた千尋が、捨てられた子犬のような眼差しを向けてくる。
「……変な話だよね。見知らぬ他人じゃなくて家族に会うのに、毎回、俺――だけじゃなくて、オヤジも心配してる気がする」
 和彦は片手を伸ばすと、千尋の頬を手荒く撫でてやる。首を竦める千尋の仕種が可愛くて、ちらりと笑みをこぼしていた。
「お前たち父子に心配をかけて悪いとは思うけど、心のどこかでほっともしているんだ。ぼくは必要とされているんだと実感できて……」
「前々から思ってたけど、和彦って自己評価低いよね。見た目は文句なしのイイ男で、医者なんかやってるぐらい頭がよくて、まじめで働き者で、優しくて、俺のこと甘やかすのが上手くて……」
 三本に増やされた指が内奥で好き勝手に動き、襞と粘膜を擦り立てられる。愛撫に悦んだ体が勝手に動き、シーツの上に爪先を突っ張らせ、浅ましく腰を揺らす。和彦の示した媚態に喉を鳴らした千尋が、内奥から指を引き抜き、囁きかけてきた。
「――どこにも、行かないよね?」
「どこかに行けと言われても、行く場所がない。ぼくの人生を奪った分、お前たち父子にはしっかり背負ってもらうつもりだからな」
 こう答えた次の瞬間、しなやかで熱い体を持つ獣がのしかかってくる。和彦はさっそく背に両腕を回し、そこに息づく生き物をてのひらで撫で回す。千尋はもどかしげに下肢を密着させてくると、高ぶった欲望をさっそく内奥に挿入してこようとする。和彦は慌てて肩を押し上げた。
「今夜はもう寝るつもりだったし、明日は仕事があるから、ゴムをつけろっ」
「中に出さないから」
「……信用できない」
「あっ、ひどい……」
 ショックを受けた、という顔をしながらも、めげることなく千尋は実力行使に出る。
 片膝を掴み上げられ、内奥の入り口に欲望の先端を擦りつけられたところで、和彦は上体を捩ろうとしたが、そのときには潤んだ肉をこじ開けるようにして、千尋に犯されていた。
「ああっ」
 和彦は腰を震わせ、抵抗をやめる。本気で嫌がっているわけではないと、千尋はわかっているのだ。
 両足を折り曲げるようにして抱えられて、じっくりと観察されながら、欲望が根元まで内奥に埋め込まれていた。
 熱いだけではなく、歓喜を知らせるように力強く脈打つ感触を身の内に感じ、和彦は声を震わせる。自分ではどうしようもない反応として、食い千切らんばかりに締め付けると、短く息を吐き出した千尋に、繋がった部分を指でなぞられた。
「ねえ、俺の美味い? すげー、締まってる」
 緩く腰を揺らされて、内奥の発情しきった襞と粘膜に刺激を与えられる。異物を咥え込んだ苦しさは、あっという間に肉の愉悦へと姿を変えていた。その証拠に、反り返ったまま震える和彦の欲望は、先端からとめどなく透明なしずくを垂らしている。
 千尋のてのひらが、微かに震える下腹部へと押し当てられる。慰撫するように優しく撫でられたあと、濡れそぼった欲望を握られ、軽く扱かれる。
「あっ……ん、千、尋っ――」
「いいよ。先生、イッて」
 ふとした拍子に呼び方が元に戻ってしまうが、今の和彦に指摘する余裕があるはずもなく、千尋の手の動きに翻弄され、内奥深くを突かれながら絶頂を迎えていた。迸り出た精で自らの下腹部が濡れるのを感じ、頭上の枕を握り締めてのたうつ。
 そんな和彦の姿に誘われるように、千尋の刻む律動が力強さを増していく。射精の余韻で淫らな蠕動を繰り返す内奥を、抉るように突き上げ始めた。
 若々しくも逞しいものが体の奥深くまで押し入ってくるたびに、意識が舞い上がる。和彦は恥知らずな嬌声を上げ、頭を左右に振る。千尋は息を乱しながら、小さく笑った。
「そうしてると、俺より十歳も年上の男(ひと)だってこと、忘れそうになる。……可愛い」
 和彦は涙が滲んだ目で睨みつけたが、千尋が一瞬切なげな表情となったのを見て、片手を差し伸べる。千尋は素直にしがみついてきた。
「……ほら、お前のほうが十歳下だ。……可愛いな、千尋」
 最後の一言が決定的だったらしく、律動が激しくなる。和彦は体を揺さぶられながら、千尋の荒い息遣いを聞いていた。たった今、可愛いなどと言いはしたものの、獣じみたそれは粗野で、何かに追い立てられているかのように切迫感に満ちている。
 和彦は茶色の髪に指を絡めようとしたが、唐突に千尋が上体を起こし、同時に内奥からズルリと欲望を引き抜いた。
「あっ……」
 次の瞬間、下腹部から胸元にかけて液体を散らされた。千尋が精を迸らせたのだ。
 咄嗟に反応できなかった和彦だが、胸元に指先を這わせてから、ふうっと大きく息を吐き出す。あとでシャワーを浴びなければならないようだ。
 脱力したように隣に横になった千尋が、呼吸が落ち着いてから、こそっと囁きかけてくる。
「褒めて。中に出さなかったから」
「――……バカ」
 まだ体を離しがたいようで、千尋が肩先に唇を押し当ててくる。怒ったふりをして最初は無視していた和彦だが、結局根負けして、手荒く千尋の髪を撫でてやる。すると、汗と精に塗れた和彦の体に抱きついてきた。この瞬間、ふわりと鼻先を掠めたのは、自分のものではない雄の匂いだった。
 ズキリと胸の奥が疼き、密かに和彦はうろたえる。一方の千尋は、和彦の耳の裏辺りに鼻を擦りつけるようにして、容赦なく匂いを嗅いでくる。
 千尋の匂いを嗅ぐのは平気だが、反対に自分の匂いを嗅がれるのは多少抵抗がある。和彦は身じろごうとしたが、それ以上の力でしがみつかれ、体を離すのは諦めた。
「……お前、犬みたいだ」
「そりゃもう、背中に飼ってるから。――はあっ、いい匂い」
 千尋の吐息が耳朶や首筋にかかり、一度は鎮まった情欲がゆっくりと和彦の中で高まっていく。そろそろバスルームに逃げ込もうかなどと考えていると、ふいに千尋に顔を覗き込まれた。
「戻ってくるよね?」
 甘えるような口調で問われるが、千尋の表情は真剣そのものだった。和彦はしっかりと頷く。
「当たり前だ」
「和彦はそう言うけどさ、はあっ、心配だから、こっそりあとをつけようかなー」
「怖いことを言うな。仲介役として総和会……というより、お前の祖父が入っているんだ。こじれるようなことにはならない、はずだ」
「……さっきも言ったけど、和彦に関することでは、じいちゃんは――」
「でも、ぼくをあっさり実家に返そうとは思わないだろう。父さんと何かを取引するにしても、ぼくはこちら側にいないといけないんだから」
 まだ何か言いたげな様子の千尋だったが、和彦は言わせなかった。
 千尋が危惧を口にするたびに、不穏なものを呼び寄せてしまいそうで、和彦自身が怖かったからだ。




 金曜日、いつものようにクリニックを閉めた和彦は、いくぶん緊張しながらエレベーターで一階へと降りる。勤務を終えてしまうと、頭を占めるのは、今日は一体、俊哉から何を言われるのだろうかということだけだ。
 いくら心の準備をしても足りない気がして、強烈な不安に襲われる。無意識に手は、ジャケットのポケットをまさぐっていた。すでに電源を切ってある携帯電話を入れてあるのだが、クリニックを出る寸前まで、賢吾と話していた。その行為が、今の和彦にとってのお守りのようなものだった。
 エントランスを抜けてビルを一歩出たところで、ぎょっとして立ち尽くす。後部座席にスモークフィルムが貼られた高級外車が停まっていた。
 唖然として立ち尽くしてしまった和彦だが、我に返ったあと、猛烈な怒りに駆られる。
 総和会から、送迎のための車を待機させておくと事前に連絡はあったが、まさかビルの目の前に停まっているとは思いもしなかったのだ。意図があるにせよ、総和会は、和彦が大事にしている領域に対して、些(いささ)か配慮に欠けている節がある。
 先日の、クリニック近くまでやってきた小野寺がそうだった。その小野寺に指示したのは、第二遊撃隊を率いる南郷だ。
 和彦は荒く息を吐き出して軽く周囲を見回し、誰もこちらを注視していないのを確認してから、足早に車に歩み寄る。すかさず後部座席のドアが中から開いた。
「どうして……」
 大柄な体を、悠然と後部座席のシートに収めている男の姿を見て、声を洩らす。
「――早く乗ったらどうだ、先生」
 空気を震わせる獰猛な声に、ビクリと肩を揺らしてから和彦は車に乗り込んだ。
 車内は程よく暖められているが、寒気を覚えて仕方ない。首に巻いたマフラーを心許ない盾に見立て、口元まで引っ張り上げる。話したくないという意思表示のつもりだが、当然のように、男――南郷には通じなかった。
「今日のあんたのお守りは、俺が任された。オヤジさんいわく、互いに最初に無難な手札を切ったあと、あんたの父親なら次は物騒な手札を切ってくるんじゃないかと言われてな。そういうことをやりそうな人物なのか?」
「……どうして、ビルの前に車を停めていたんですか? もし誰かに見られたら、困ります」
「それは悪かった」
 まったく悪いと思っていないとわかる口調で謝罪され、和彦は二の句が継げない。露骨に顔を背け、ウィンドーの向こうを流れる景色に目を向けた。
 会話する気はないという拒絶を明確に態度に示したが、かまわず南郷は話しかけてくる。
「俺が近くにいると、あんたはいつだって毛を逆立てた猫みたいな感じだが、今日は特にピリピリしているな。そんなに、自分の父親に会うのが怖いか?」
 努めて冷やかな視線を向けると、南郷は唇の端に笑みを浮かべていた。まるで嘲笑されているようだと感じ、それでなくても憂鬱な気分に拍車がかかる。
「教えてくれ、先生。前に話したが、俺は〈父親〉という存在を知らない。それが高級官僚の肩書きを持つ父親ともなると、想像も及ばないんだ」
「――……少し、黙っていてください」
 堪らず和彦が窘めると、一気に車内の空気が凍りつく。そのことに気づかないふりをして、再び外の景色に目を向けようとしたとき、聞き覚えのない携帯電話の着信音が車内に鳴り響いた。次の瞬間、和彦の隣で荒々しい気配が動いた。
 いきなり南郷が片足を上げ、助手席のシートを後ろから蹴りつけると同時に、怒鳴った。
「今回の任務についたら、終わるまで携帯の電源は切っておけと言っただろうがっ」
 まるで、獣の咆哮だった。シートの上で飛び上がらんばかりに驚いた和彦だが、すぐに今度は身を竦めて怯えていた。
 自分の前では、皮肉屋ではあるものの、慇懃なほど紳士的に振る舞っていた南郷が突然〈キレた〉ことに、衝撃を受ける。隣で聞いた怒声の凄まじい迫力は、まさに雷で打たれたようだと錯覚するほどだ。暴力にも大声にもあまり免疫がないだけに、体が極端な反応を示す。
 反射的にシートベルトを強く掴んでいた。心臓は痛いほど早打ち、呼吸が止まりそうになる。和彦は目を見開いたまま、南郷の横顔から視線を離せなくなっていた。目を合わせたくないと、本能が訴えているにもかかわらず。
 和彦の様子に気づいたのか、姿勢を直した南郷が何事もなかったように、また唇の端に笑みを浮かべた。
「すまなかった、先生。今みたいな姿は見せたくなかったんだが、ふとした拍子に、地金ってもんが出ちまう」
 返事もできず、顔を強張らせていると、途端に南郷の目に残酷な喜悦の色が浮かぶ。本人いわく、地金が出たということだろう。大仰に感心したように言われた。
「わかっているつもりだったが、やっぱり大事にされてるんだな。その様子だと、長嶺組の人間はあんたの前では荒事はなしだし、大声を出したりもしないんだろう。そう、長嶺組長が言いつけてあるってことだ。繊細で臆病なオンナを怖がらせるなと」
「……さあ、どうでしょう」
「今ので、俺はますますあんたに怖がられたな。最初から嫌われてはいたが」
 当て擦りのようなことを言いながら南郷は、明らかに和彦の反応を楽しんでいた。お守りどころか、南郷自身が、和彦の脅威となっているのだ。だからといって、車から降りるわけにもいかない。
 早く目的地に着かないだろうかと一瞬願い、そんな自分に気づいてゾッとする。一方の南郷は、和彦を言葉で嬲って満足したのか、前列に座る男たちに短く指示を出したあと、ふうっと息を吐いてシートに身を預けた。
 前回同様、車がどこに向かっているのか、和彦は知らない。南郷は何も言わないし、また聞こうとも思わない。
 俊哉に関わることでは、どうしようもない無力感と諦観が、和彦を支配する。それでもなんとか自分を保ち、ささやかな抵抗ができるのは、情愛を注いでくれる男たちの存在のおかげだ。その熱さと甘さと狂おしさを知ってしまったら、失うことなど考えられなかった。
 だから、今晩も抗うのだ――。
 和彦は、膝の上に置いた手を、硬く握り締めた。


 人目のない場所で、二人きりで語り合いたいと伝えられた時点で、会える場所は限られてくる。互いに仕事を終えてからという時間も考えれば、喉を通るかはともかく食事をしないわけにもいかない。
 あれこれと想定はしていたため、南郷の案内によって、裏路地にひっそりと佇む料亭に連れて来られても、驚きはなかった。
 玄関へと続く露地を歩いていると、きれいに剪定された南天の木が目に入る。樹木に詳しくない和彦だが、印象的な実ぐらいは知っている。すっかり日が落ち、屋外灯の明かりがぼんやりと辺りを照らす中、南天の実の赤さはハッとするほど鮮やかだった。つい目を奪われ、歩調を緩めかけると、気配を察したように南郷が振り返った。
「――先生」
 南郷は、建物の外で待っているのかと思ったが、和彦と一緒に暖簾をくぐって玄関に入り、しかも靴まで脱ぎ始めた。物言いたげ――というより非難の眼差しを向ける和彦に対し、南郷はふざけたように軽く肩を竦める。
「あいにくだが、部屋の近くで待機していろと、オヤジさんから言われている。どんな輩が駆け込んでくるかわからないからな。いざとなれば俺が身を挺して、あんたたち父子を守る」
 どこまで本気で言っているのかと、和彦は暗然とした気分で思う。怒りも湧かなかった。総和会が恐れているのは、和彦が俊哉によって連れ戻される事態で、『駆け込んでくる輩』がいるとすれば、それは南郷を排除しようとする人間だ。
 暗に、余計なことはするなと釘を刺しているのかもしれない。和彦ではなく、俊哉に対して。
 入り組んだ廊下を通り、部屋へと案内される。引き戸が開けられて室内を目にした和彦は、胃がキリキリと痛むのを感じた。
 まさに、密談のためのこじんまりとした部屋だった。さほど大きくない座卓が部屋の中央に置かれ、向き合って座った相手と顔を寄せ合い、声を潜めて話したとしても、十分聞こえるだろう。
 設けられた座椅子の一つには、すでに俊哉がついていた。まるで上等な置き物のような端然とした姿で、背筋を伸ばし、グラスを手にしている。
 仲居がコートを掛けている間に、ぎこちなく向かいの席につく。南郷は引き戸の傍らに立ち、興味深そうに俊哉を眺めていた。俊哉は一瞬だけ、煩わしげに眉をひそめてから、これ以上なく冷やかな一瞥を南郷に投げかけた。
「父子の語らいの時間だ。別室を用意してあるから、そこで待機していてくれないか」
 南郷は余計なことは言わず、頭を下げた。ただ頭を上げたとき、何が気になったのか、部屋の奥を見遣り、スッと目を細めた。そこにあるのは襖で、その向こうにはもう一部屋あるのかもしれない。
 南郷が身を引き、姿が見えなくなる。すぐに料理を運ばせるという仲居の言葉に、俊哉は眼差しすら和らげ、にこやかな表情で応じた。
 料理が並ぶ間、俊哉は当たり障りのない世間話をしていた。省庁の若い部下の優秀さを褒め、佐伯家の遠戚の結婚話を喜ばしいと語り――。
 俊哉自身にとって欠片ほどの関心もないからこそ、耳当たりのいい言葉を惜しまないのは、昔からだった。
 仲居が部屋を出て、静かに引き戸が閉まると、前置きもなく俊哉が切り出した。
「――英俊が、何か感じているようだ」
「何か、って?」
「わたしとお前が、すでに接触しているんじゃないかと勘繰っている」
 グラスに口をつけようとしていた和彦は思わず動きを止める。俊哉から言われたことを頭の中で反芻したおかげで、驚くまでに十秒ほど要してしまった。
「兄さんに、言ってなかったのか……」
「あれに言う必要がどこにある。――鷹津くんとの連絡役をさせたことがあるが、あとから、ずいぶん露骨に探りを入れられて、辟易したんだ。総和会と接触を持って、お前と会ったなどと知ったら、もっと面倒なことになる」
 鷹津と英俊が接触していたと知り、不可解な感情が和彦の中で芽生えたが、それがなんであるか分析するには至らなかった。ただ、英俊は鷹津のような男は苦手だろうなと考え、ふっと苦笑が洩れる。かつての自分がまさに、鷹津を毛嫌いしていたことを思い出したのだ。
 ここで和彦は、こちらをじっと見つめている俊哉と目が合った。途端に、怜悧な眼差しを意識することになる。
 食欲はなかったが、自然に視線を逸らすために料理に手を伸ばす。胡麻豆腐に箸を入れようとして、隠し切れないほど手が震えた。
「――何をそんなに緊張することがある。久しぶりの、父親との食事だろう。この間会ったときは、自分が囲われ者になっていることに対する後ろめたさ故かと思っていたが、それだけではないな」
 俊哉はさらに声を潜め、探るように言った。
「怖い夢でも見たか?」
「……夢?」
「お前がずいぶん小さい頃、よく夢を見てはうなされて、飛び起きてもいた。小学校に入ってしばらく経った頃には、忘れたようにそんなこともなくなったが。一度、どんな夢を見ているのか、お前に聞いたことがある。そのときお前は――」
 父親と向き合って話していた実家の書斎の光景が蘇り、忌避感が和彦の口を動かす。
「聞きたくない。……というより、思い出したくない。ううん。覚えてないんだ、ぼくは。父さんが言おうとしていることを」
「そういうことにしたい、ということか。現状、それが最善の手だろう。もし、お前が何か重大な秘密を隠していると知ったら、お前の周囲にいる男たちは、鬼に変わるかもしれない。それこそ、お前に痛みを与えて、強引に口を割らせるかもな」
 どうしてこんなことを言い出すのか、ひどく和彦は気になった。同時に、胸騒ぎを覚える。俊哉は何か、とんでもないことを言い出すのではないだろうか、と。
 急に席を立ちたくなったが、実行に移す前に俊哉がこう続けた。
「今、長嶺守光と交渉している。年末年始の間、お前の身を佐伯家のほうで引き取りたいと。……こういう言い方もおかしいな。お前はわたしの息子で、実家で一緒に年越しを迎えるのに、ヤクザどもの事情を斟酌してやる理由なんてないはずだ。その理屈が通じないから、連中は面倒臭い」
 思いがけないことを言われて、頭が混乱した。和彦は箸を置くと、わずかに身を乗り出す。
「年末年始に、ぼくが、家に……?」
「こちらも事情がある。お前の行方がわからなくなっていたことは、けっこうあちこちに知られているからな。自分探しに出ていた次男が戻ってきたということにして、さっさと片付けたい。英俊のほうも、〈仲のいい〉弟と同席する場が設けられそうで、断れないと言っていた。――化け狐にあれこれ聞かれたら、わたしが今言ったことまでは説明してかまわない」
 えっ、と声を洩らし、和彦は目を見開く。
 俊哉は珍しく、唇に淡い苦笑めいたものを刻んでいた。
「お前に行ってもらう場所がある。どこに、とはまだ言えない。誰にも……、総和会や長嶺組だけでなく、家の者にも悟られたくない」
「……家の者というのは、母さんや兄さんのことだよね」
「そうだ。ある人物と約束した。絶対に和彦を行かせると。その約束を守るために、お前もなんとしても、長嶺の人間たちを説得しろ。もっとも、お前が逃げ出さないという保証のために、何を欲しがるやらわかったもんじゃないが。さすがに、体の一部を置いていけとまでは言わないだろう」
 仮に言ったとしたら、それでも俊哉は、従えと命令するのだろうか。
 我ながら悪辣ともいえる想像に、和彦はゾッとする。ゾッとするといえば、いまさら実家にどんな顔をして出向けばいいのかということだ。
 和彦は、英俊や母親から投げつけられるであろう蔑みの眼差しを想像して、吐き気を催しそうになる。いや、どんな眼差しにしろ向けられるだけ、マシなのかもしれない。いないものとして扱われる可能性の高さを思えば。
「――……父さん、数日だけでも、ぼくは家に帰るつもりはないよ……」
「わたしが、帰って来いと言っている。拒否することは許さん」
 予期した通りの答えに、震えを帯びた息を吐き出す。俊哉に対する、和彦なりの控えめな怒りの発露だった。
「説得する気もなく、一方的に言って済ませるなら、電話でもよかったはずだ。こんな……、手のかかることをして」
「お前が無事なのか、この目で確かめる必要がある。それに今回は――」
 意味ありげに俊哉が視線を向けたのは、さきほど南郷も気にしていた部屋の奥にある襖だった。
「どうしても、お前に会いたいという人間を連れてきた」
「……誰?」
「お前もきっと、また会いたかったはずの人間だ」
 咄嗟に頭に浮かんだ男の名を、俊哉にぶつけることはできなかった。困惑する和彦に対して、俊哉は軽くあごをしゃくる。
「どうせ、食欲はないんだろう。久しぶりの〈逢瀬〉を楽しんできたらどうだ」
 にこやかな俊哉の表情からは、どんな感情も読み取れない。嘲りも嫌悪も怒りも。まるで、今言った言葉に裏などないとでもいうように。
 そんなはずはないのに――。
 まるで操られるように和彦はぎこちなく席を立つ。俊哉がそうしろと言うなら、逆らう術はなかった。
 ゆっくりと襖を開けると、思ったとおりもう一部屋あった。電気はついていなかったが、庭を照らす屋外灯の明かりが窓から差し込んでおり、室内の様子を見て取ることは容易だった。
 庭を眺めていたのか、窓の側にスーツ姿の男が立っていた。和彦はふらりと部屋に一歩足を踏み入れる。すると男が振り返り、こちらから呼びかけるより先に声を発した。
「――和彦くん」
 電話越しではない、穏やかな声と懐かしいイントネーションを耳にして、和彦は息を詰めた。
 甘く苦しい感傷を覚えたのは一瞬で、すぐに激しく動揺する。
「里見さん……」
 里見は、痛みを堪えているような表情を浮かべた。
 さきほど、俊哉は何を言った。この部屋で待つ男と和彦の関係を、すべて知っているような口ぶりだった。知っているとすれば、誰かから聞いたことになる。
 一体誰なのかと、めまぐるしく思考を動かしている間に、里見が目の前までやってきて、肩に手がかかった。
「会いたかった、君にっ……」
 切実な口調で言われて、和彦はようやく理解した。
 今年の二月に再会したとき、里見は育ちのいい青年のような屈託ない笑顔を浮かべていた。昔と同じように。
 その笑顔が今は影を潜め、こんなにも苦しげな表情を浮かべている理由が、残念ながら和彦はたった一つしか思い浮かばなかった。









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