と束縛と


- 第41話(1) -


 襖を閉めた和彦は、涙が出そうになるのを堪えながら里見に詰め寄った。
「どうして、里見さんがここにっ?」
 感情の高ぶりのままに声を荒らげたが、すぐに、襖一枚を隔てた俊哉の耳を気にする。
 突然の里見との再会に動揺する和彦とは対照的に、里見は落ち着き払っていた。こういう状況になることは織り込み済みだったのだろう。すべてを俊哉に打ち明けて、今晩のことも打ち合わせをしていたのだ。
 南郷の迎えの件も含めて、和彦だけが何も知らされていなかった。
 ふうっと深く息を吐き出した途端、足元が軽くふらつく。当然のように里見の手が肩にかかり、和彦の体を支えた。このとき互いの距離の近さを意識し、反射的に後ずさろうとしたが、里見にぐっと肩を掴まれた。
 包容力と知性を兼ね備えた、年齢を重ねた分だけ深みが増した容貌は、抗い難いほどに和彦の視線を奪ってしまう。一度目が合えば、もう逸らせなかった。記憶にある優しげな眼差しは、今は燃えるような熱情を湛えている。
 この男(ひと)は、こんな目をする人だっただろうかと違和感を覚え、どうしてだろうかと疑問に感じたが、それも一瞬だ。
 和彦はすでに、里見に甘やかされていた子供ではない。大人となり、里見以外の男たちと関係を持つという経験を経てきたのだ。昔と同じような目で見てほしいとは、口が裂けても言えない。
 里見は、かつての和彦との関係を話した対価として、俊哉から一体どれだけの事情を聞かされたのだろうかと、自虐的に和彦は想像する。
 軽蔑の眼差しを向け、罵ってもいいはずなのに、それでも里見は、会いたかったと言ってくれた。嬉しさよりも、ただ胸が苦しくなってくる。
「……父さんから、全部聞いたんだろう? 里見さんを、これ以上巻き込みたくないんだ。すぐ近くに、ぼくの見張りが……、ヤクザがいるんだ。目をつけられたら、厄介なことになる」
「気にしてないし、平気だ」
「気にしてよっ」
 再び声を荒らげてから、襖の向こうの俊哉を気にかける。
「覚悟は決めている。――君のお父さんから、協力してほしいと言われたときから」
 里見は慎重に言葉を選ぶように、眉をひそめて考える素振りを見せてから、和彦の耳元に顔を寄せてきた。髪と耳朶に触れる柔らかな息遣いに、条件反射のようにドキリとしてしまう。
「嬉しくもあったんだ。君と会える理由ができたことに」
「里見さん……」
「ひどい男だろう? 君が大変な目に遭っているというのに、こんなことを思うなんて」
 話すたびに触れる吐息に意識を奪われそうで、なんとか和彦は一歩だけ距離を取る。里見は、真剣な表情を浮かべていた。
「前に会ったとき、言ったことを覚えているかな。……大人になった君が、自分で幸福になる道を選べるようになったのなら、わたしがしゃしゃり出ることもないと思っていたと。君の行方がわからなくなったことで、少し様子が変ってきたことは感じていた。そして、君が今、どんな生活を送っているか教えられたことで、わたしは自分の正直な気持ちを認めたよ」
 これ以上聞いてはいけないと、和彦の本能が声を上げるが、その声は弱々しい。瞬きすら忘れて、里見の口元に見入っていた。次に放たれる言葉を待つために。
「――今の君の人生に、わたしは積極的に関わっていく。君を、〈こちら〉に連れ戻すために」
 ああ、と和彦は小さく声を洩らす。胸に一気に押し寄せてきた感情は、さまざまなものが入り乱れていた。それらを丹念に精査するまでもなく、口を突いて出たのは拒絶の言葉だった。
「そんなこと、しなくていい……。ううん。してもらいたくない」
「わたしに迷惑をかけたくないというなら――」
「違う。ぼく自身の希望なんだ。……ひどいというなら、ぼくのほうだ。みんなに迷惑をかけているのに、それでも帰りたいとは思わないんだから。できることなら、ずっと家族を避けていたかった」
 ここまで告げたとき、里見は悲しげな顔をした。そんな顔を見れば、里見が決して軽い気持ちでここまでやってきたわけではないとわかる。里見にとって和彦は、いまだに大事に守るべき存在として目に映っているのかもしれない。
 しかし、その和彦は、もう十代の子供ではない。三十歳を過ぎた大人の男で、自分の言動に責任が伴うことを知っている。今の生活が公になれば、社会的制裁を受けることになる現実も。
 それは和彦に限った話ではない。さきほどの俊哉の発言を思い出し、うかがうように里見を見つめる。
「……里見さん、父さんに全部話したんだね」
 里見はちらりと笑みをこぼすと、襖のほうを一瞥する。そして和彦の手首をそっと掴んできた。
「少し外の空気に当たろうか。ここは暖房が効きすぎていて、さっきから暑いんだ」
「でも……」
 里見の真意はわかっているつもりだ。生々しい話をするのに、俊哉の耳を気にしたくないということだ。和彦も同じ気持ちではあるが、逡巡する。
 今晩は俊哉と二人で話をするために場が設けられたはずなのに、里見がいて、さらに部屋を抜け出そうというのだ。俊哉の反応も気になるが、それ以上に、南郷に知られたときが怖い。
「佐伯さんには事前に相談して許可はもらったし、店にも協力を取り付けてある。ここは、いろんな立場の人間が密談で使っている店だ。抜け出してもバレないはずだ」
 里見にここまで言われて、結局和彦は頷いていた。
 取られた手を引かれるまま、里見が待機していた部屋から、来たときとは違う廊下へと出る。客同士が顔を合わせないよう、かなり配慮した造りになっているようだ。
 廊下を通っていくと、狭い玄関へと出る。隣には板場があるらしく、威勢のいい声がときおり聞こえ、仲居も出入りしているが、客である和彦と里見の姿を見ても、驚くでもなく会釈をして通り過ぎていく。こっそりと客がここから出入りすることに、どうやら慣れているらしい。
 並んで置かれたサンダルを履いて外に出ると、緩やかな勾配の坂があり、そこを下ると車がやっと通れるほどの道に出られる。辺りに人影はおろか、通りかかる車もなく、街中だというのに非常に静かだった。
「――今なら、怖い連中に悟られることなく、君を連れ去ることができる」
 坂の途中まで下りたところで、ふいに里見がそんなことを言い出す。和彦はピタリと足を止め、先を歩く里見の背を凝視した。
 体つきが変わったことを、よりはっきりと感じられる後ろ姿だった。会わないままに流れた十三年という年月に思いを巡らせたが、あまり時間がないことを思い出す。
 和彦は意を決して、同じ質問をもう一度里見にぶつけた。
「ぼくたちのことを、父さんに話したんだね……?」
 ゆっくりと振り返った里見は微苦笑を唇の端に刻み、首を縦に動かした。
「話した。だけど、君のお父さんは――、佐伯さんは、全部知っていたよ」
 思いがけない告白に、和彦は絶句する。そんな和彦の顔を、里見は気遣わしげに覗き込んでくる。
「驚いたよね。わたしは、ゾッとしたよ。君とのことをいつから気づいていたのか、思い切って尋ねたんだ。……返ってきた答えを聞いて、心底思ったんだ。この人だけは、敵に回してはいけないと」
「……父さんは、なんて言ったの」
「和彦が高校生のときに関係を持っただろう、と。あえて見逃していたのは、わたしが使い勝手のいい子守り役だったからだそうだ。君がわたしにだけ目を向けていれば、悪い遊びも覚えないし、悪い人間も近づけない。――ああ、確かに君は、いい子だった。佐伯さんの望む通りに」
 自虐気味にそう言った里見だが、次の瞬間には、感傷を振り払うように毅然とした表情となる。そこから感じ取れるのは、強い決意だった。
「すべてを知っていて、それでも佐伯さんはわたしに協力を依頼してきた。君を連れ戻したいから、手を貸してほしいと。わたしも、君の今の生活をすべて知ったうえで、引き受けた。君のためなら、わたしはなんでもやる」
 和彦を遠くへ行かすまいとするかのように、再び里見に肩を掴まれる。口調は穏やかだが、里見の内面に吹き荒れる感情は激しさを伴ったものなのだと、肩に食い込む指の感触で痛感していた。
 引き寄せられたわけでもないのに和彦の足元はふらつき、里見へとわずかに歩み寄っていた。
 これ以上近づいては、里見の求めに逆らえないという危機感が芽生えていたが、体が言うことを聞かない。まるで、十三年前までの自分に戻っていくようだった。
 一気に脳裏を駆け巡ったのは、佐伯家で感じていた寂しさを紛らわすどころか、溢れるほどの情愛を注いでくれた里見との思い出だった。あのとき里見がいなければ、自分はどんな人間になっていたか、和彦には想像もつかない。
「ぼくは、里見さんに十分よくしてもらった。だから、いまさら迷惑も負担もかけたくないよ。父さんの命令だからって、危険を冒してまで――」
「わたしは後悔している。こんなことになるぐらいなら、君が大学生になろうが、大人になろうが、身を引くべきじゃなかった。狭量な男が、持ってもいない寛容さと、物分かりのよさを君に見せたくて、愚かなことをした。……広い世界に出て、他人を惹きつける君の姿を見たくなかったんだ。きっとわたし――おれは、捨てられると思ったから」
 里見はそんなことを考えていたのかと、和彦は静かな衝撃を受ける。
 和彦の知る里見という人物は、性格は穏やかで優しく、恵まれた容貌を持つうえに、世間的にはエリートと呼ばれる職業にも就いていた。誰もが羨む存在で、そんな里見が常に自分を気にかけてくれていたことが、和彦の心の支えであり、自慢でもあった。
 里見を捨てるなどと考えたことはない。大学入学を機に、距離を置こうと里見から言われたとき、和彦の心にあったのは、送り出してくれようとしている里見の気持ちを無碍にしたくないという想いだった。
 それと、順風満帆な里見の人生の、足枷だけにはなりたくないとも。今もその気持ちは変わらない。
 しかし、今日までの和彦に情愛を注いでくれたのは、もう里見一人ではないのだ。
 和彦は感情の高ぶりを懸命に堪え、ぎこちなく深呼吸をする。どう思われようが、言っておかなければいけないことがあった。
「――……里見さんが大人でよかった。ぼくの中で、いい思い出になっているんだ。里見さんと一緒にいられたことは。だから、父さんに協力なんてしないでほしい。……綺麗事ばかり言うつもりはない。ぼくは今の生活で、大事にしてもらってるんだ。利用されているだけだと言う指摘もよくわかっている。それでも……、そうされてもいいと思うだけのものは、もらっている」
 里見は、すぐには何も言わなかった。ただ、納得したように小さく数度頷き、瞬きもせず和彦を見つめている。いや、観察していると言ったほうがいいかもしれない。
 足元を這い上がってくるのは、怯えだった。自分が知っている里見ではなくなったのかもしれないと、このとき初めての感覚に和彦は襲われる。それを悟られまいと、肩を竦めて笑いかける。
「ここ、寒いね。コートを置いてきたから……。中に戻ろうか」
 和彦は坂の途中で引き返そうとしたが、肩を掴む力は緩まない。おそるおそる見つめ返した先で、ため息交じりで里見が呟いた。
「ああ、佐伯さんが、おれに協力を求めた理由がよくわかったよ」
「……何、里見さん?」
「君に今必要なものを、おれなら引き出せると思ってくれたのかもしれない」
「ぼくに、今必要なものって……」
「今の生活から抜け出そうとする意志だ。誰かに求められて、大事にされる生活が心地いいというなら、その『誰か』は、おれじゃダメかな?」
 咄嗟に声が出なかった。俊哉との対面の場に里見が現れただけでも、思いがけない出来事だったのだ。さらに、里見とのかつての関係を、実は俊哉が知っていたと告げられたうえで、今の発言だ。
 素直に受け止められない程度には、和彦は世間を知り、人を知っていた。
「何……、言ってるんだよ。里見さんはもう、父さんの部下じゃない。どこまでも従う義理なんてないだろ。里見さんにも生活があって、とっくにいい歳なんだから、つき合っている人だって――」
「佐伯さんは、おれを利用したいと言った。だったらおれも、佐伯さんを利用したいと答えた。和彦くんを連れ戻せたら、おれたちの仲を認めてほしいと、要望を伝えたんだ。佐伯さんは、悪いようにはしないと言ってくれたよ」
 一体里見に何があったのだろうかと、和彦は空恐ろしさすら覚えていた。十三年前の別れはとても穏やかで、切なくはあったが悲愴感はなかった。二月に再会したときも、里見の人柄は変わっていないように感じた。
 だが、今目の前にいる人物は――。
 和彦の反応から察するものがあったのか、里見は安心させるように表情を和らげる。
「まだ子供だった君を怖がらせないよう、おれは自分を装っている部分があった。おれは本来、こんな人間だ。利己的で、欲深くて、計算高くて……。君にだけは、そんなおれを見られたくなかった。だけど今は違う。君はいろんなことを経験して、強くなった。そんな君に、改めておれを知ってほしいんだ。すぐ側で」
「でも、だからって――。ぼくこそ、里見さんの知っている、昔のぼくとは違う。利己的で、欲深くて、計算高いというなら、それはぼくのほうだっ……」
 初めて触れる里見の激しさに和彦の心は揺さぶられ、気がついたときには、自らを卑下する言葉が口を突いて出ていた。それは自己防衛のようなものだった。里見に引きずられようとする気持ちを抑えるために、必死だった。
「ぼくがどんな生活を送っているか、どうせ簡単にしか父さんから聞かされてないんだろ? 詳しく知ったら、きっとこんなふうにぼくに触れたいなんて、思わなくなるよ」
 和彦は、肩を掴む里見の手を押し退けようとする。
「……でも、今一緒にいる人……、男たちは、そうじゃない。独占欲も執着心も剥き出しにして、こんなぼくを求めてくれる。ぼくが欲しいのは、そんな浅ましさなんだ。ぼくも、浅ましい人間だから」
「今さっき言ったばかりなのに、君はまだ、おれを高潔な男だと思っているんだね」
 ようやく肩から手が離れたかと思うと、スッと頬を撫でられる。和彦が顔を上げると、里見は、今度は頬を包み込むようにてのひらを押し当ててきた。冷たくなった頬に、じんわりと里見の体温が伝わってくる。
 和彦は自分から、ふらりと里見に身を寄せていた。
「おれは十三年前に君と離れてからも、一度だって君を想わない日はなかった。君の姿が、記憶から薄れていくのが嫌で、最低なこともした。いや、している」
「何? 最低なことって……」
 それは、と洩らして唇を引き結んだ里見だが、和彦が向ける眼差しに決意を促されたように、再び口を開いた。
「おれは、君の――」
 次の瞬間、里見の言葉を遮るものがあった。まるで獣が唸ったような、獰猛な声が割って入ったのだ。
「これから駆け落ちでもしようかって雰囲気だな、お二人さん」
 和彦と里見は、声がしたほうを同時に見る。いつからいたのか、坂を下った先に南郷が立っていた。威嚇するように荒々しい空気を振り撒いており、明らかに気が立っている。
 里見がさりげなく片腕で、和彦を庇う。南郷がどういう人種の男なのか、一目で見抜いたようだ。一方の南郷は、身を寄せ合う和彦と里見の姿に、不快げに顔を歪めた。初めて見せる表情だ。
「まさか、ここからこっそり抜け出そうと、事前に決めていたのか?」
 そう問いかけてきながら、南郷がゆっくりと坂を上がってくる。睨め付けるような視線が里見に向けられ、ざわりと総毛立った和彦は、慌てて里見と南郷の間に立った。
「そんなことしてませんっ。ただ、ここで立ち話をしていただけです」
「総和会には、こんな男が同席するなんて連絡は入っていなかった。意図的に隠していたということだ。――で、そんなあんたらの話を信じろと?」
 目の前に立ちはだかった南郷だが、和彦ではなく、里見を見据えている。獲物として狙いを定めたのだ。対する里見は落ち着き払っており、どこか挑発するような、冷めた目で南郷を見つめ返した。
「わたしは、佐伯さんに言われて来ただけです。そんな話は聞いていないというなら、それは、あなたと佐伯さんの間の話でしょう。わたしに言われても困ります」
「だが、この先生を連れ出しちゃいけないことぐらいは、把握しているんだろう? うちの者から報告を受けなかったら、とんでもない大失態を犯すところだった。父親と食事をしていたはずの先生が、いつの間にかいなくなっていたなんてな。しかも、こんな男前と駆け落ちしたなんてことになったら……。オヤジさんと長嶺組長に詫び入れるために、俺の手足の指を全部切り落としても、足りないだろうな」
 南郷が、指が全部揃っている右手を、これみよがしに突き出してくる。里見が何か言いかけたが、言葉を発したのは和彦が先だった。
「――……もしかして店の周囲を、第二遊撃隊の人に見張らせていたんですか?」
「店内にいたのは俺一人だが、当然周囲は、隊の人間をがっちり張り込ませていた。ただそのことを、あんたにバカ正直に話す必要はなかったというわけだ。あんたの父親に伝わったら、どんな手を打たれるか、わかったもんじゃない、現にこうして、男前を忍び込ませていたしな」
「でしたら、あなた方に『バカ正直』に話す必要がなかったのは、こちらも同じということですね。和彦くんを連れ去ったわけでもなく、ちょっと外で話していただけですし」
 里見の皮肉交じりの反論に、傍らで聞いている和彦のほうがハラハラしてしまう。南郷が、さきほど車内で見せたように、また激高するのではないかと危惧したのだ。南郷は、短く笑って呟いた。
「和彦くん、か……」
 激高したのは、里見のほうだった。突然、らしくない乱暴な動作で和彦の肩を抱き寄せ、店に戻ろうとしたのだ。
「やっぱり君を、こんな輩の側には置いておけない。靴を履き替えたら、わたしと一緒に帰ろう。佐伯さんには、あとで事情を説明することにして、今はとにかくこの場を離れるんだ」
「おいおい、勝手なことをされると困るんだが」
 そう言って南郷に腕を掴まれ、和彦は驚いて声を上げる。南郷はすぐに手を放したが、なぜか里見が顔色を変えた。射殺さんばかりに南郷を睨みつけ、さらに詰め寄ろうとする。
「彼に手荒なまねをするなっ……」
 辺りはひっそりと静まり返っている中、抑え気味とはいえ里見の怒声が響く。異変を察した第二遊撃隊の者が駆けつけてくるのではないかと、和彦は慌てて二人の間に割って入った。一見して筋者とわかる南郷にも怯まない里見の態度は、今は蛮勇でしかない。
「落ち着いてっ。ここで騒ぎを起こしたら、父さんとぼくが困るっ」
 ハッとしたように里見は目を見開いたあと、苦しげに、すまない、と洩らした。一方の南郷は、皮肉たっぷりにこう言った。
「元刑事といい、先生は厄介な犬を躾ける才能があるな。あっという間におとなしくなった」
 二人の男が放つ殺気に当てられて、神経がざわつく。これ以上、毒気を含んだ南郷の言葉を、〈堅気〉である里見に聞かせては危険だと判断して、和彦は里見の腕を取る。
「一旦中に戻ろう。――構いませんよね?」
 敵意を込めた和彦の問いかけに対し、南郷は肩を竦める。
「このままおとなしくしてくれるなら、あんたたちが店の外に出ていたことについては、見なかったことにしよう。ただし、その男前の身元について、あとで先生から教えてもらえると、こちらがあれこれ調べる手間が省けていい」
「それは……」
 言い淀んだ和彦に代わり、返事をしたのは里見だった。
「――なんなら、名刺を渡しておきましょうか?」
 挑発的に応じた里見は、さっそくスーツの内ポケットから名刺入れを取り出す。南郷はニヤリと笑って、里見から名刺を受け取ろうとしたが、それは和彦がさせなかった。南郷の手に渡りかけた名刺を素早く奪い取り、里見に押し返す。
「やめて。この人は、すごく怖い人なんだ。関わらないほうがいい。……わざわざ、この場にいた証拠を残す必要はないよ」
「まあ……、怖い人というのは、一目瞭然だが」
 まだ何か言いたげな様子の里見にかまわず、和彦は腕を引っ張る。南郷の言動はいつものことだが、里見が冷静さを失っている。
 南郷がさらに煽ってこないうちにと思ったところで、二人の背にこんな言葉が投げつけられた。
「〈オンナ〉に守ってもらうとは、なかなかの紳士だな。俺たちのような輩がうろついているとわかっていながら、それでもあえてこの場に来たということは、よっぽどそこの先生に会いたかったんだろう? あの佐伯俊哉が同行を許したぐらいだ。本当のところ、あんたの正体がかなり気になっている。それに、その先生との関係も」
 和彦は、里見の腕をぐっと掴む。足を止めた里見が、次の瞬間には南郷に飛びかかると思ったのだ。しかし予想は外れた。それも悪いほうに。
 前触れもなく首の後ろに手がかかり、強引に里見の胸元へと引き寄せられる。何事かと和彦が目を見開いたときには、眼前に里見の顔が迫っていた。何をされるか即座に理解して、声を上げようとしたときには、唇を塞がれる。
 一度だけきつく唇を吸われて、すぐに離れたが、和彦は呆然として立ち尽くす。
 里見は、片腕で庇うように和彦を抱き寄せたまま、南郷に向けて言い放った。
「――今ので、わたしと和彦くんの関係がどんなものなのか、言わなくてもわかったでしょう。何者かについては、和彦くんか佐伯さんにでも、聞けばいい。わたしは、逃げも隠れもしません」
 里見に伴われて和彦は店へと戻ったが、玄関に入る寸前、ちらりと背後を振り返る。坂の途中に立つ南郷の表情は、野外灯の明かりによるぼんやりとした影に覆われて、確認することはできなかった。
 獰猛な表情を想像して肩を震わせると、里見の腕にわずかに力が込められる。人目を気にして、和彦は慌てて体を離してから、口元をてのひらで覆う。
 十三年ぶりの里見との口づけなのだと、ようやく実感が湧いてきたが、そこに喜びの感情はなかった。
「和彦くん?」
 サンダルを脱いでから、ようやく里見が声をかけてくる。和彦は視線を伏せていた。
「さっきの――」
「悪かった。君に断りもせずに」
「そうじゃなくてっ……。どうして、南郷さんを刺激するようなことをしたんだ。大げさじゃなく、あの人は本当に、怖い人なんだ」
「わかるよ。説明されなくても、立っている姿を見ただけで、とんでもなく危険な男だと感じた。表情も、話し方も、仕種も、君の隣に立っている〈おれ〉を威嚇していた。だけど、怯むわけにはいかない。あれは、宣戦布告だ」
 これだけ説明してもわかってくれないのかと、咎めるように里見を睨みつけていた。そんな和彦に対して、里見はどこか冷徹にも感じる静かな顔つきとなる。
「おれは、君に守ってもらう価値なんてない。下衆で、獣じみた最低な男なんだ。その本性を知られて君に嫌われたくないが、知ってもらわなければ、今の里見真也という存在を見てもらえないだろう。――佐伯さんから聞いたが、今の君の周囲には、アクが強くて執念深い男たちがたくさんいるそうだから」
 知らず知らずのうちに和彦の頬が熱くなってくる。俊哉が把握している、和彦の今の生活に関する情報は、守光と鷹津からもたらされたはずだ。守光は含んだように、鷹津は明け透けに、さまざまなことを語ったのだろうと、なんの根拠もないが想像してしまう。
 その情報の何分の一かでも里見に耳に入っているのかと思うと、今になって強い羞恥に苛まれる。そこに、里見から向けられる強い眼差しも加わり、居たたまれない。
 重苦しいが、どこか甘さも含んだ独特の空気が二人の間を流れる。それをなんとかしたくて、ふと思い出したことを問いかけた。
「……里見さん、さっき何か言いかけていたよね。おれは、君の――、って。それに、どんな最低なことをしているのかも、気になる」
 伸ばされた里見の手に、指先を掴まれそうになったが、ちょうど仲居が通りかかったこともあり、和彦はさりげなく距離を取った。
「ねえ、里見さん、教えて」
 それは、と言いかけて、里見は苦しげに顔を歪めた。いつもの和彦なら、無理をしてまで言わなくていいと制止していたかもしれないが、この瞬間、とにかく聞き出さなければいけないという義務感に駆られていた。
 しかし、里見と会話が交わせたのは、ここまでだった。
 落ち着いた雰囲気の料亭に似つかわしくない、慌ただしい足音がこちらに近づいてくる。誰かと思えば、第二遊撃隊の隊員二人だった。どうやら、南郷から指示を受けて、店の中に踏み込んできたらしい。
 まさか里見を連れて行く気なのかと警戒したが、男たちは里見に目もくれず、和彦に声をかけてきた。
「佐伯先生、外で車を待たせています。すぐに我々と一緒に来てください」
「どういうことですか? 今晩は、時間は決められてなかったはずです」
「不測の事態が起きた場合は、すぐに佐伯先生を連れて戻るよう言われています」
 隊員の一人が敵意のこもった鋭い視線を里見に向けた。すべてを理解した和彦は、反論はしなかった。その代わり、控えめに尋ねる。
「父がいる部屋に、コートを取りに行っていいですか?」
 隊員の一人がついていくことを条件に許され、挨拶もできないまま里見と別れる。
 部屋に戻ると、さすがに隊員は中にまでは入ってはこなかった。引き戸を閉め、顔を強張らせたまま振り返ると、俊哉は悠然と食事を続けていた。
 その姿に一瞬だけ忌々しさを覚えたが、すぐに和彦の心を占めたのは、焦燥だった。
「里見さんのことが、総和会の護衛たちにバレたんだ。あの人に手を出さないよう、父さんから総和会に頼んでほしい」
 俊哉が、テーブルナプキンで口元を丁寧に拭く。優雅な一連の動作は、和彦の言葉にまったく緊迫感を覚えていないことを物語っている。
 普段と変わらず、俊哉は落ち着いていた。いや、落ち着きすぎている。
 自分と里見の過去の関係を当時から知っていながら、そのことを一切匂わせなかったぐらいだ。この世に、俊哉を驚愕させ、動揺させる出来事などあるのだろうかと思った途端、和彦の記憶を鋭く刺激するものがあった。
 すぐに我に返ったものの、まるで夢を見ていたような感覚に襲われ、気味の悪い浮遊感に足元がふらついた。
 和彦の様子から何を感じ取ったのか、俊哉が、内緒話をするように声を潜めた。
「彼は、覚悟を決めている。事情も危険も承知のうえで、わたしに協力すると言ってくれた。それが、お前に対する誠意と愛情であり、わたしへの謝罪なんだそうだ」
「そんな……。里見さんは悪くないのに……」
「悪いさ。あれは、悪い男だ」
 断定する俊哉の口ぶりから、和彦はさきほどの里見とのやり取りが蘇る。
「……里見さん、最低なことをしていると言っていた」
「冷静沈着な男だが、お前が関係すると一変して狂う。いや、感情的になると言ったほうがいいか。里見を悪し様に言えば、その言葉は、わたし自身に返ってくる。あの男が悪い男なら、わたしもまた、悪い男だ。とてつもなく」
 俊哉は、人当たりのいい仮面のような笑みではなく、酷薄な嘲笑を浮かべた。誰に向けてのものか、もしかすると俊哉自身に対するものなのか。
「里見は、お前恋しさに、お前によく似た人間と関係を持った。……ああ、持っている、だな」
「ぼくと、よく似た――?」
「いるだろう。わたしたちの近くに」
 じわじわと全身から血の気が引いていく。和彦は口元に手をやり、小さく声を洩らす。その声は、微かに震えを帯びていた。
「それ、兄さんのこと……」
 認めたくない一方で、やはり、と思う自分がいる。思い返してみれば、英俊と里見が近しい関係にあると、ここまで感じる部分はあったのだ。
 里見の職場近くで、二人が歩く姿を見かけたときは、仕事で関わりがあるためだと里見から説明され、そのこと自体に不自然さは感じなかった。さらに、英俊が和彦に連絡をしてきたことがあったが、携帯番号は、里見の携帯電話に登録されていたものを盗み見たと言っていた。いつ、どんな状況でそれが可能なのか、脳裏を過った疑問はあまりに些細で、すぐに消えてしまった。
 そしてもう一つ、夜更けにもかかわらず、里見の部屋に誰かが訪れた気配を、和彦は電話越しに感じ取ったことがあったが、おそらく英俊だったのだろう。
 それぞれの出来事は他愛なく、気にかけるほどでもなかったが、積み重ねていくことで、和彦から否定の言葉を奪ってしまう。
 どうしてそんなことを自分に告げるのかと、すがるように俊哉を見る。すでに、いつもの穏やかな笑みを口元に湛えた俊哉だが、口にしたのは苛烈きわまる内容だった。
「――わたしは、里見がお前に向ける恋着と執着を買った。お前をこちらに連れ戻すには、相応の〈情〉が必要だろう。それを持っているのが、里見だ。子供だったお前を大事に守りながら、大人にもした特別な男だ。お前も、彼には特別な想いがあるだろう」
「だからって、里見さんを巻き込むなんて、危険すぎるっ」
「綺麗事を言う前に、考えてみたらどうだ。大事な男を、さんざんお前を痛めつけてきた英俊に奪われていいのか?」
 俊哉の囁きには、異様な力強さと熱がこもっていた。和彦の中から、どす黒い感情を引きずり出そうとしているかのように。
 頭と心が掻き乱される。ふいに吐き気を覚えた和彦は咄嗟に顔を背け、きつく目を閉じる。考えたくもないのに、一緒にいる英俊と里見の姿が次々と瞼の裏に映し出され、胸が痛くなった。
「里見のことは、総和会に連絡しておこう。わたしの代理人として接し、手出しはするなと。あの化け狐も、否とは言うまい。なんといっても、わたしが誠心誠意、頼むんだ。ふふっ、〈そういうこと〉が好きな男だ、あれは」
 ここで、引き戸の向こうから急かす声がする。のろのろと首を巡らせた和彦は、俊哉を見ることなくコートを取り上げる。自分の中で処理しきれる情報と感情の容量を超えてしまい、言葉が出てこなかった。
 そのまま部屋を出て行こうとすると、背後から俊哉に言われた。
「年末年始に、お前とまた会えることを楽しみにしているぞ。みんな、な」
 和彦は振り返ることなく、黙って部屋をあとにした。


 表と裏の世界の境界が曖昧になっていく――。
 俊哉の垂らした毒液がじわじわと、今、和彦が生きている世界を侵食しているのだ。息苦しくなってもがき苦しみながら和彦が逃げ出してくるのを、待ち構えているのかもしれない。
 走行する車の外に目を向けたまま、さきほどまでの俊哉と里見とのやり取りを思い返す。
 気が重くなるばかりで、この憂鬱から逃れられるならいっそ消えてしまいたいと、ふっと考えてしまう。
 もしそうなったら、自分を大事にしてくれている男たちにもう会えなくなるのだと、当然のことに気づき、数瞬あとに罪悪感に襲われる。それと、喪失感も。
 そんな和彦の目に、人工の光に溢れた夜の街はきらびやかで、毒々しいほど華やかに映る。ときおりウィンドーに反射して、蒼白な顔色となった男と目が合う。
 そのたびにドキリとしてしまうのは、自分の顔ではなく、兄である英俊に見えるからだ。
 これまで、鋭い刃のように心に突き立てられてきた英俊の容赦ない言葉と眼差し、体に与えられた痛みの記憶が蘇り、大きく身震いをする。すると、隣で身じろぐ気配がした。
「寒いのか、先生」
 隊員に伴われて店を出た和彦を一目見るなり、露骨に不機嫌そうな顔となった南郷は、車に乗り込んでから今まで、黙り込んだままだった。
 叱責か嘲弄を覚悟していたため、いつ何を言われるのかと身を硬くしていた和彦だが、すぐに憂鬱な思索に耽ってしまい、正直、この瞬間まで、南郷の存在を意識の外に追い払っていた。
「……いえ、平気です」
 会話のきっかけが掴めたといわんばかりに、南郷が問いかけてくる。
「あの男前のことだが――、里見真也、だったか、長嶺組長は知っているのか?」
 南郷の前で里見の名を出さなかったのに、どうしてフルネームを知っているのかと、和彦は目を見開く。ニヤリと笑って南郷は教えてくれた。
「あの男が出した名刺が、一瞬だけ見えた。さすがに会社名までは無理だったがな」
「そうですか。……長嶺組長が知っているかどうか、それを確認して、どうするんです」
「質問しているのは、俺なんだが。――いや、長嶺組長は、なんとも思わないのかと気になってな。明らかに堅気の男が、あんたに接触したんだ。しかも、色恋も絡んでいる。俺を牽制するために、あんなことをしたんだ。何もないなんて白々しいウソはつかないでくれよ」
「……南郷さんには、関係ないと思います」
「俺も、あんたの男関係をいまさら詮索はしたくないが、そうもいかない。あんたの父親が、わざわざうちの監視をかい潜ってまで、店に連れ込んだぐらいだ。さて、何を企んでいる?」
 ここまで頑なに南郷のほうを見ないようにしていたが、静かな車内に響く南郷の息遣いがわずかに荒くなったように感じ、首筋の辺りがざわつく。巧みに殺気を操る南郷に、普段の和彦なら簡単に怯え、委縮するところだが、今夜は違う。心身ともに疲れ果て、怯える気力すら残っていなかった。
 投げ遣りな一瞥をくれると、南郷が初めて、おやっ、という表情を浮かべる。
「先生、大丈夫か? 血の気が失せて、顔が真っ白だ。調子が悪いんじゃないか」
 南郷に指摘されて、吐き気がぶり返してきた。心なしか、頭も痛い。和彦が弱っていると知った途端、南郷の目に浮かんだのは残酷な喜悦の色だった。
「さっきからずっと、動揺しているな、先生。自分の父親から苛められでもしたか? それとも、熱烈なキスシーンを俺に見られて、マズイと焦っているか?」
「――……さっきも言いましたが、南郷さんには関係ないでしょう」
「俺が見たことを、ありのまま長嶺組長に話してみようか……、なんてことを、ふと考えた。あんたに強く執着して、自由にさせているようで、がっちりと束縛している人だ。堅気の男があんたに手を出したと知ったら、どういう反応をするのか見てみたい」
 和彦が里見と連絡を取り合っていたと知ったとき、賢吾がどんな行動を取ったのかを思い出し、震え上がる。
 暴力は振るわれなかったし、怒鳴られることすらなかった。ただ、肌を針で一刺しされ、淡々と諭されただけだ。それでも、賢吾の恐ろしさを骨身に叩き込まれるには十分だった。
 同時に、自分に向けられる賢吾の情の激しさと深さも知ったのだ。
 今回、里見との間に起こった出来事は、そんな賢吾を裏切ったことになるのだろうか――。
 吐き気が強くなる。和彦が口元を手で覆うと、さすがに南郷も眉をひそめて身を乗り出してきた。
「気分が悪いなら、車を停めさせようか?」
 和彦は返事をせず、車内から周囲を見回す。決断するのは早かった。
 ゆっくりと口元から手を離して、大きく深呼吸をする。
「この辺りで車を停めて、ぼくを降ろしてください」
「それで?」
 どこかおもしろがるような口調で南郷が応じる。
「今夜は一人で過ごしたいので、ホテルに部屋を取ります。……護衛はいりません」
「一人になりたいなら、マンションに戻ってもいいんじゃないのか」
「……誰とも話したくないんです。部屋にいたら、きっと連絡が入ると思うので……」
「電話に出なきゃ出ないで、心配した長嶺の誰かがやって来る、か。過保護にされるのも、こういうときは考えものだ。とはいっても、俺はあんたのお守りをしなきゃいかん。途中で放り出したなんて知られたら、長嶺組の怖い男たちに縊り殺されかねない。さて、どうしようか?」
 興が乗ったように話す南郷を無視して、ハンドルを握る男に和彦は声をかける。
「すみません。車を停めてもらえますか。どこか店の駐車場にでも――」
「俺を無視しないでもらえるか、先生」
「だったら、ぼくの言う通りにしてください」
「いいや、聞けないな」
 和彦が睨みつけると、満足げに唇を緩めた南郷が、隊員に向かって短く指示を出した。それは意外なもので、和彦は目を丸くして南郷の横顔を凝視する。
 車は、コンビニの駐車場に入ると、あとをついてきていた護衛の車も続く。困惑していた和彦だが、車のエンジンが切られると、おずおずとシートベルトを外そうとする。すかさず、南郷に止められた。
「おっと、先生はそのままじっとしていてくれ。動くのは、俺たちだ」
「えっ?」
 南郷はのっそりと車から降りると、もう一台の車に歩み寄り、助手席のウィンドーを下ろさせる。一方的に何か命じている様子だったが、すぐに戻ってきて、今度は運転席のドアを開けさせた。ここまで運転してきた隊員に今度は耳打ちをして、意味ありげに和彦を見た。
 ひどく嫌な予感がした和彦は、ついシートベルトのバックルに手をかける。ただ、小声で打ち合わせをしながらも、南郷がこちらから視線を外さないため、それ以上動けなかった。
 その間に、前列に座る隊員たちが車を降り、入れ替わりに南郷が運転席に座る。
「ど、して……」
 再び車のエンジンがかかったところで、ようやく和彦は声を発する。
「居場所を知られず、一人で過ごしたいんだろう。だからといってあんたを、ホテルに置き去りにするわけにもいかない。ということで、いい場所がある。あんたは今夜、そこに泊まればいい。長嶺組には、上手いこと説明しておく」
「いえ、でも――」
「どうしても車を降りたいなら、今すぐ長嶺組長に連絡を取って、迎えに来てもらえばいいだけだ。そして俺は、あんたがどうしてこんなに動揺しているか、丁寧に話すことになる。第二遊撃隊の責任にされても堪らないからな」
 この男の傍らで弱音など吐くべきではなかったと後悔するが、もう遅かった。
 南郷の運転する車が道路へと出たが、背後から護衛の車がついてくる様子はない。
 和彦は何も言うことができず、降ろしてほしいと暴れる体力もなく、シートにぐったりともたれかかるしかなかった。









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