と束縛と


- 第41話(2) -


 移動する車中で、和彦と南郷は一言も口を利かなかった。
 どこに連れて行かれるのかという不安に駆られながらも和彦は、同時に投げ遣りな気持ちにもなっていた。あまりに様々なことを知って、とにかく疲弊しきっていたのだ。心が擦り切れて、いまさら南郷に傷つけられたところで、どうでもいいという心境にすら陥っている。
 頭は痛み続け、吐き気は治まらない。シートに身を預けたまま、外の様子をうかがうために視線を動かすことすら、つらい。それでも心は葛藤し続けていた。コートのポケットに入れてある携帯電話を取り出し、せめて電源ぐらい入れるべきではないだろうかと。
 しかし、即座にかかってくるはずの電話に出て、事情を話す勇気はなかった。今の自分の言葉には、きっと毒が滲み出ていると和彦は思うのだ。誰にも触れさせたくない、物心ついたときから心の底に溜まり続けていた毒だ。それは、和彦の本性ともいえる。
 一人で抱え、苦しむべきなのだ――。
 和彦は知らず知らずのうちに、暗い眼差しを目の前の運転席へと向けていた。南郷になら、むしろ毒を叩き込んでやりたいと、ふっと考え、そんな自分にゾッとする。
 和彦が身じろぎをするたびに、南郷がこちらの様子をうかがう素振りを見せる。だが、やはり声はかけてこない。
 伏せ続けていた視線をようやく上げると、車はいつの間にかまったく見覚えのない場所を走っていた。郊外の住宅街といった景観で、どこか画一的な住宅が並んでいる。
 そこを抜けると、昔ながらの町並みが残っているようだが、ぽつぽつと灯った街灯だけでは、辺りの様子すべてを把握することはできない。
 向かっている先の見当がまったくつかず、押し潰されそうな不安に耐えかねた和彦は、とうとうコートのポケットに手を忍び込ませる。携帯電話に指先が触れた瞬間、唐突に南郷が話しかけてきた。
「――黄色っぽい建物が見えるか?」
 ビクリと体を震わせた和彦は、反射的に背筋を伸ばす。
「えっ……」
「暗くて見えにくいが、黄色くて四角い建物だ。あんたの今夜の宿泊場所だ」
 南郷が前方を指さした先には、確かに黄色っぽい角ばった二階建ての建物がある。住宅というより、小規模なアパート程度の大きさがあり、どういった場所なのだろうと和彦は目を凝らす。
 そこで、黄色い建物の壁に、可愛らしい動物の絵が描かれていることに気づいた。
 建物の前で一旦車を降りた南郷は、鉄門扉に巻きつけた鎖を解いて開ける。和彦は身を乗り出すようにして、ヘッドライトの明かりに照らし出される先を見つめる。そこにあるのは駐車場ではなく、いくらか雑草が伸びてはいるが、広々とした庭だった。しかも、ただの庭ではない。
 鉄棒や滑り台、ジャングルジムにシーソーといった遊具を一つ一つ確認して、和彦は目を丸くする。その間に南郷が戻ってきて、遊具がある庭へと堂々と車を進めた。
「降りていいぞ、先生」
 南郷に言われ、立てこもるわけにもいかず、おずおずと車を降りる。ヘッドライトに代わり、人の動きを感知したセンサーライトが庭を照らし、砂場らしきものの存在に気づく。
「南郷さん、ここ――」
「寒いから、早く中に入ってくれ」
 もう少し観察したい気持ちもあったが、確かに寒い。暖かい車内から外に出たこともあり、吹きつけてくる風の冷たさが一層身に染みて、和彦は首を竦める。
 南郷について暗い玄関に入ると、傍らには背の低い下駄箱が並んでいた。そこに、無骨なほど大きなサンダルや運動靴が突っ込まれている。
 さっさと靴を脱いだ南郷は、和彦の分のスリッパを出すと、慣れた様子で廊下の電気をつけ、玄関から一番近い部屋に入っていく。一人残された和彦は戸惑いながらもスリッパに履き替え、辺りの様子をうかがう。
 静かだった。それに、空気が冷え切っている。玄関の正面から伸びた廊下にはうっすらと足跡が残っており、しばらく掃除をしていないことをうかがわせる。庭に通じる窓にふらりと歩み寄ろうとしたが、すぐに南郷が戻ってきて、天井を指さした。二階に行くということらしい。
 仕方なく南郷のあとに続いて階段を上ろうとした和彦だが、よろめき、咄嗟に手すりに掴まっていた。足元に感じた違和感の正体にはすぐに気づいた。
 庭の遊具に、背の低い下駄箱、そして、子供の足に合わせたような段差の階段。
 一段ずつ飛ばして階段を上りながら、和彦は自分の中で結論を出す。南郷のほうも、和彦が察しているという前提で話し始めた。
「見てわかるだろうが、ここは元は保育所だった。無認可保育所っていうのか。……よくわからんが。――経営者が借金で首が回らなくなって、いろいろあって手放すことになったようだ。買い手がつきそうなら、とっとと更地にでもして売りに出すんだが、そうはいかない事情があって、何年もこのままだ」
 南郷はこちらの反応など求めていないだろうと判断して、和彦は返事をしなかった。それどころではなかったというのもある。
 踊り場で何げなく顔を上げて、ハッと息を詰める。正面の壁に大きな鏡があり、そこに和彦自身の姿が映っていたのだ。
 今は、自分の顔は見たくなかった。視線を逸らし、その拍子に、いつの間にか立ち止まっていた南郷の背にぶつかる。またよろめくことになった和彦に、振り返った南郷は表情も変えない。何事もなかったように二人はまた階段を上がる。
「倉庫代わりに使うだけなのももったいないから、一時期は、若い連中を住まわせるかという話も出たが、この辺りは、昔から住んでいる人間が多くて、新参者は目立ちすぎる。だから、荷物を運び込むのも気を使う」
 二階に着いたところで、さらに上に続く階段に気づく。屋上には何があるのだろうかと思いはしたが、わざわざ南郷に問うほどのことではない。
 和彦は、手招きされるまま、三部屋並んだうちの一部屋に足を踏み入れた。
 本当に保育所だったのだなと、室内を見回して改めて納得する。
 オルガンやロッカー、子供サイズのテーブルやイスが壁際へとまとめて押しやられ、部屋の半分ほどを占めているが、それでも窮屈だとは感じない広さがあった。適当に片付けられた雑多さはあるが、同時に、なんともいえない物寂しさも感じる。
 精神的に弱っているせいか、やけに感傷的になる和彦とは対照的に、南郷は暖房を入れて効きを確かめると、すぐに部屋を出ていく。足音からして、どうやら隣の部屋に向かったらしい。
 和彦は所在なく立ち尽くしていたが、やはり外の様子が気になって、窓に近づく。分厚いカーテンの隙間から外を見ると、テラスに出られるようになっていた。南郷が出て行った扉のほうにちらりと目を向けてから、テラスへと出る。
 非常時の避難路なのか、二階から庭へと下りられるよう大きな滑り台が設置されていた。
 平時であったなら、さぞかし好奇心が刺激されていただろうなと、和彦は口元に淡い笑みを刻む。
「それに近づくな、先生。錆びてボロボロになっているんだ」
 背後から突然声をかけられ、危うく飛び上がりそうになる。振り返ると、南郷が開いた窓から顔だけ出していた。和彦は急いで部屋に戻る。
「すみませんっ……。せっかく部屋を暖めていたのに」
「別に、寒いのはあんただからな」
 そう応じながら南郷が、運んできた折り畳みベッドを壁際に置いて開く。
「ここが、あんたの今夜の寝床だ。不満なら、寝袋もあるが」
「……これで十分です」
「ベッドが狭いのは我慢してもらうしかないが、毛布は新しいのが何枚もあるから、必要なだけ使ってくれ。あとは、着替えか」
 意外な甲斐甲斐しさを見せて南郷は再び部屋を出て行ったが、また戻ってきたとき、今度はビニールで包装された新しいスウェットスーツと、毛布を数枚持っていた。
「スウェットは、自分の替え用で買っておいたものだから、あんたには多分――、いや、絶対大きいな。小さいよりはマシだろう」
 押し付けられたスウェットスーツと、ベッドの上に置かれた毛布を交互に見て、和彦は疑問を口にした。
「南郷さん、もしかして、ここで……」
「俺の隠れ家(ヤサ)の一つだ。とはいっても、総和会の息がかかった不動産屋が管理してる物件なんだが。人の気配がないところが気に入って、仕事で遠出した帰りに、ときどきホテル代わりに使っている。そのまま、数日ズルズルと泊まり込むことも、たまに。帰って寛げる場所ってものを俺は持ってないから、気ままなものだ」
 南郷がこちらを見て、皮肉っぽく唇を歪めた。
「俺は、ひとところに身を落ち着けて、寝起きができない性質だ。本部だけは別だが、あそこに住み込むわけにもいかない。いい部屋に住んで、羽振りがいいところを下の連中に見せるのも役目だと、オヤジさんには常々言われているんだが、俺みたいな男には、これがなかなか難しい」
「俺みたい、とは?」
 咄嗟に出た問いかけに対して、南郷がベッドを指さす。座ったらどうだと言われて、スウェットスーツを抱えたまま和彦はぎこちなく腰かけた。
「いつ寝首を掻かれてもおかしくないことを、さんざんしてきた――というより、している最中だからな。そんな自覚があるからこそ、他人に住み家を知られるのが嫌なんだ。もっとも、多かれ少なかれ、極道ってのは、そういうもんだが。慎重な分、長生きできる確率が上がる。臆病だと誹(そし)られようがな」
 いつだったか、賢吾も似たようなことを言っていたなと、ふと思い出した。
 賢吾の顔が脳裏に浮かんだ途端、ギシギシと音を立てて和彦の胸は軋む。罪悪感のせいだけではなく、痛切に今、賢吾に会いたいと思ってしまったためだ。そんな和彦に追い打ちをかけるように、南郷が言った。
「――長嶺組長も同じタイプだ。むしろ、俺よりも慎重なぐらいだ。……ああ、最近は少しばかり、様子が変わったみたいだな。前までなら、護衛をつけずに出歩く人じゃなかった。しかも、オンナのためという理由で」
 嘲りを含んだ言葉の響きに、和彦は伏せていた視線を上げる。南郷に、おそろしく冷やかな眼差しで見つめられていた。
 南郷がなんのことを言っているのか、すぐにわかった。一瞬うろたえた和彦だが、次の瞬間には、ゾッとした。護衛もつけずに賢吾と二人だけで出かけたことを、当然のように南郷が把握していたからだ。
 このときまで、自分のことばかりに気を取られていたが、鈍くなった頭でようやく和彦は思い出す。
 今晩起こった予定外の出来事に対して、南郷は怒っているのだ。秘密裏に行われるはずだった俊哉との対面に、里見という未知の存在が割り込み、一人になりたいと和彦がワガママを言い出し――。
 さらにどんな容赦ない言葉を投げつけられるのかと、身を硬くする。しかし南郷は、何事もなかったように話題を変えた。
「トイレは二階にもあるが、シャワーを浴びたかったら、一階に下りてくれ。さっき俺が入った部屋の隣が、狭いがシャワー室になっていて、バスタオルなんかも揃っている。それと、〈給食室〉という名札がかかった部屋があるから、腹が減っているなら、そこにあるポットで湯を沸かしてカップ麺でも食ってくれ。冷蔵庫に水が入っている。あとは何を言っておけばいいんだ――、ああ、懐中電灯は、そこのテーブルの上だ。必要なら使ってくれ」
「……わかり、ました」
「俺はこれから、すぐにまた出ないといけない。一応、外から施錠はさせてもらうが、抜け出すことは簡単だ。だが、間違っても出歩こうとは考えないでくれ」
 南郷が出かけると聞いて意外に感じたが、二人きりで過ごさなくて済むということで、和彦は内心ほっとする。
「暖房はつけたままにして休んでくれ。あんたに風邪を引かれでもしたら、あとが怖い。それと、どうしても耐え難い状況だというなら、誰に連絡を取ろうが、好きにしていい。携帯を取り上げるつもりはない」
 南郷の言葉から優しさや寛大さではなく、まるで自分が試されているような居心地の悪さを覚え、和彦はそっと眉をひそめる。そんな和彦を振り返ることなく、南郷はさっさと部屋を出て行った。
 ベッドに腰掛けたままじっとしていると、庭のほうが急に明るくなり、車のエンジン音が聞こえてきたため、慌てて窓に歩み寄る。外の様子をうかがうと、ちょうど車が出ていくところで、少し間を置いてから鉄門扉を閉める重々しい音がした。
 やっと一人になれたのだと、和彦は肩から力を抜いた。
 最初は所在なく室内をうろうろと歩き回っていたが、気持ちが落ち着いてくるにしたがい、部屋の細かな様子が目に入るようになる。
 棚の一角を占める埃を被った絵本の表紙を眺め、その次に、少し開いた引き出しの中を覗き込み、すっかり色がくすんでしまった色紙を見つける。
 かつては子供たちが無邪気に過ごしていた場所を、今はヤクザたちが出入りし、大型の獣のような男が隠れ家にしているのかと、ほろ苦い感情が胸に広がっていた。
 部屋が暖まり始めてくると和彦は、自分がまだスーツ姿であることを思い出し、南郷から渡されたスウェットスーツに着替える。やはりサイズが大きくて、あちこちを折り曲げることになる。
 コートやスーツ一揃いを畳んでテーブルの上に置いてから、また窓に近づく。すでに庭は元の暗さを取り戻しており、窓からは人家の明かりや街灯すらも見当たらず、車も滅多に通りかからないようだ。まるで周囲の様子がわからない。そのせいで、狭い世界に自分だけが取り残されたように感じる。
 実際は、そうひどい状況ではないのだが、元は保育所だったという建物に一人取り残され、外から施錠された状態では、心細いのは確かだ。
 抜け出すことも、誰かに連絡を取ることすら可能だというのに。
 和彦は重苦しいため息を一つつくと、懐中電灯を手に部屋を出て、一階へと下りる。すでに廊下の電気は消されており、懐中電灯で辺りを照らす。さすがにシャワーを浴びる気分ではなく、ひとまず、南郷が言っていた〈給食室〉を探し当て、中に入ってみた。
 予想はついていたが、ようは炊事場で、ここで子供たちの食事を作っていたらしい。電気をつけると、広い作業台がまっさきに視界に入る。二階の部屋とは違い、こちらは片付いているようだった。小型冷蔵庫と電気ポットがあるぐらいで、調理器具や食器は見当たらない。
 作業台の上にスーパーの袋が置いてあり、カップラーメンの他に、割り箸や使い捨て容器が入っている。そこで和彦は、自分が俊哉との食事で、料理にほとんど箸をつけられなかったことを思い出す。もっとも、空腹感はなかった。
 足元から這い上がってくる寒さに、大きく体を震わせる。水を取ってくるだけのつもりだったが、気が変わった。ペットボトルの水を電気ポットに注ぐと、湯が沸くまでの間に、シャワー室で顔を洗ってくる。
 本当はカップがあればよかったのだが、いくら探しても見つけることはできず、仕方なく紙コップに白湯を注いで二階に戻る。子供用の小さなイスをベッドの傍らに置き、それをテーブル代わりにした。
 ベッドに腰掛けた途端、まるで鉛でも背負わされたように体が重くなる。同時に、部屋の明かりが急に眩しく感じられ、忘れかけていた頭痛がぶり返す。せめて頭上の明かりだけでも消そうと思ったが、立ち上がれなかった。
 肉体的にも精神的にも、とうに限界を迎えていたことを、ようやく和彦は悟る。そうなると、何もかもどうでもよくなってきた。自分を取り巻く環境への、尽きることのない憂慮も、男たちへの配慮も。何も、考えたくなかった。
 今は――、と声に出すことなく呟き、和彦は紙コップを取り上げる。息を吹きかけながら少しずつ白湯を口に含む。部屋は暖まってきたというのに、体の内側がひどく冷えているようだった。
 紙コップを空にすると、もそもそと毛布を広げてベッドに横になる。強い眩暈に襲われて、きつく目を閉じる。
 まったく眠気は感じていなかったが、現実から逃れるように意識が急速に遠退いた。


 幼かった和彦が一時期、口がきけなくなったことがあったと、父方の親戚から教えられたことがある。
 なぜ、そうなったのかは不明で、とにかく一言も声を発しなくなり、自分の意思でそうしているのか、それとも心因性のものなのか、それすらはっきりしなかったらしい。らしい、というのは、病院で検査を受けたかどうかを、俊哉が明らかにしなかったからだそうだ。
 再び親戚たちが集まったとき、和彦は何事もなかったように話しており、言葉に遅れも見られなかったため、それ以上の騒ぎになることはなく、笑い話とまではいかないまでも、他愛ない思い出話の一つになっていったのだ。
 和彦には、自分がそんな厄介な状態にあったという記憶はない。幼児期の乏しい記憶はほぼ、佐伯家の広い家の、持て余すほど広い自室で、何をするでもなくぼんやりとしていたことで占められている。
 両親は多忙で、和彦に構うことはなく、幼稚園の送り迎えをしてくれていた家政婦は、優しくはあったが、自分の仕事をこなすことが優先で、一人でおとなしくしている和彦の遊び相手までは手が回らなかったようだ。
 毎日、和彦はぼんやりとベッドに座り込んでいたが、そんな日々が一変する出来事があった。
 いつものように過ごしていた和彦に、本を突き出してきた人物がいた。英俊だ。小学校の図書室で借りてきたという、就学前の子供が読むには少々難しい本だった。何か言葉をかけるでもなく、本を突き出した兄の意図を、幼かった和彦には汲み取ることはできなかった。
 英俊は、不機嫌な表情を浮かべながら、強引に本を和彦に押し付けて、そのまま部屋を出ていった。かろうじて、ひらがなは読めていたため、ふりがなを振ってある本を、時間がかかりながらも読み終えることはできた。すると英俊はまた、新しい本を借りてきてくれた。相変わらず、言葉もなく押し付けてきたのだ。
 何度かそんなことを繰り返しているうちに、いつの間にか和彦の部屋には本棚が置かれ、そこにぎっしりと本が並ぶようになった。きっと英俊が、俊哉に何かしら提言をしてくれたのだろうと、子供ながらに察することはできた。
 痛みを与え続けてきた英俊を恐れ、苦手としてきたが、それでも、いなくなってほしいと願ったことはない。複雑な関係にある〈弟〉に対して、英俊が不器用な優しさを示してくれたことがあると、知っているからだ。
 このまま、互いを理解することなく、距離が縮まらないまま、歪な兄弟関係がずっと続いていくはずだった。だが――。
 かつて自分が受けていた里見からの優しい囁きと、情熱的な愛撫を、今は英俊が受けている。それがどんな光景であるか、思い描くのは容易だった。
 大事なものを奪われた。
 そう、和彦自身が認めたとき、胸を切り裂かれ、血が噴き出したような痛みと喪失感を覚えた。その感触があまりにリアルなのは、意識が夢の中を漂っているからだ。悪い夢の中を。
 急に息苦しさに襲われて無我夢中でもがくが、もどかしいほどに手足は動かず、声すら上げられない。その間にも、和彦の中で競り上がってくる感情の塊があった。
 それは、憎悪や嫉妬という名を持つかもしれない。噴き出した血の代わりに体を満たし、開いた胸を塞いでいくそれらに、自分が支配されてしまいそうな予感があった。
「い、やだっ」
 叫びが、声となって口を突いて出る。それがきっかけとなって目が覚めていた。
 和彦は思い切り息を吸い込み、瞬きもせずに明るい天井を見上げる。じわじわと手足に感覚が戻っていき、全身から汗が噴き出す。初めての場所で、慣れない硬いベッドで横になっていたせいか、体が強張り、節々が痛い。眠りながらも、緊張が解けていなかったのかもしれない。
 明かりの眩しさに目を瞬かせながら、ぎこちなく息を吐き出す。今日起こった出来事の何もかもが夢であればよかったのにと、子供じみたことを願った次の瞬間、嗚咽が漏れた。夢の中で号泣した余韻を引きずっており、高ぶった感情を制御できなかった。
「ふっ……」
 ぐっと喉を締め付けられたようになり、行き場を失ったものが、一気に両目から溢れ出してきた。こめかみを伝い落ちる熱い液体の感触に、和彦はそっと指先を這わせる。泣いているという自覚はなかったが、確かに涙は出ていた。
 涙の理由は、いくつもあるだろう。悲しさと悔しさ、もどかしさと切なさ。怒りも含まれているかもしれない。感情の区別はつくが、それが誰に向けられているものか、考えたくはなかった。
 和彦は震えを帯びた息を吐き出し、その拍子に小さくしゃくり上げる。それがひどく子供っぽく感じられ、一人恥じ入る。
 そう、部屋には自分一人しかいないと思っていたのだ。
「――あんたは、泣かない人間なのかと思っていた」
 前触れもなく、傍らから話しかけられる。驚きのあまり体を硬直させた和彦は、わずかに視線を動かすことすらできなかった。すると、話しかけてきた人物のほうから、わざわざ顔を覗き込んでくる。出かけたはずの南郷だ。
 南郷は、興味深そうに和彦の泣き顔を眺め、唇を緩める。加虐的で、性質の悪い表情だった。
 なんの反応もできず、呆然として見上げる和彦に、南郷が片手を伸ばしてくる。口を塞がれるか、首でも絞められるのではないかと、一瞬ではあったが強烈な恐怖を覚えた。
 大きなてのひらが頬に押し当てられ、分厚く冷たい感触にますます体を硬直させる。南郷は、和彦の怯えを堪能するように、無造作に頬を撫で、前髪を掻き上げてから、濡れた目元を指で擦った。
「自分の順調な人生を奪われて、泣き暮らすわけでもなく、むしろこっちの世界に馴染んでいるぐらいだ。とんでもなく図太くて、ふてぶてしい人間なんだなと。なんでも持っていて、与えられてきたからこその、感性の鈍さなのかとも考えなくはなかった」
 淡々とした口調で語りながら、南郷は何度も目元からこめかみにかけて、指を行き来させる。
「そのあんたが、ポロポロと涙をこぼしていた。――品のいい見た目とは裏腹に、性悪女のように肝が据わってしたたかで、男を何人も翻弄しているあんたが、だ。その理由を、知りたいと思うのは当然だと思わないか?」
「……出かけたんじゃ、なかったんですか」
 ようやく和彦が言葉を発すると、南郷はわずかに眉をひそめた。
「また、俺の質問に対して、質問で返したな。隊の人間ならぶん殴るところだが、あんた相手だと、そうもいかない」
「だったら、答えなくていいので、出て行ってください」
「――コンビニでいろいろ買ってきたついでに、仕事の連絡を何本かしていた。あんたを連れ出すとなったら……、ああ、違うな。あんたのわがままに、俺がつき合っているんだ。とにかく、大事にならないよう連絡は必要だ」
 意趣返しのつもりか、南郷は出ていくどころか、折り畳みベッドの端へと腰掛けた。それでなくても狭いベッドだ。横になったままの和彦は、身の危険を感じざるをえない。ベッドの縁に手をかけ、いつでも行動を起こせるよう構える。
 一方の南郷は、暑いな、と小さく洩らし、着ているジャケットを脱いだ。ネクタイは、ここに来る途中、車の中で忌々しげに外していた。粗暴なヤクザ者を演じるためなのか、派手めなスーツを崩して着ていることの多い南郷だが、さすがに今日は普通のスーツ姿だ。
 白いワイシャツは、南郷の体つきを生々しいほど浮かび上がらせており、肩から腕にかけての逞しさや、背の筋肉の盛り上がりを目の当たりにする。この体を使って平気で暴力を振るうのだとしたら、この男は災厄そのものだ。もちろん、和彦にとって。
 次の瞬間、頭で考えるより先に体が動いていた。転がるようにしてベッドと壁の隙間に落ちると、慌てて立ち上がる。走り出そうとしたが、一緒に床に落ちた毛布に足を取られ、転んでしまった。
「大丈夫か、先生」
 和彦は床に倒れ込んだまま、ベッドを回り込んでこちらに近づいてくる南郷の足元を見ていた。こんなことが、確か前にもあったはずだと思ったとき、その答えを南郷が口にした。
「落ち着いているようで、妙なところで間が抜けてるな。前にも……、暑くなり始めの頃だったか。あんたが自分の兄貴と会ったあと、総和会の隠れ家に身を潜めていたときにも、こんなことがあった。散歩に連れ出した俺から逃げ出して、やっぱりそうやって転んで、動けなくなっていた。あのときはひどかったな、泥だらけで。だが、あの姿は正直、ゾクゾクするほどそそられた」
 目の前に手を差し出され、仕方なく和彦は顔を上げる。逃げ道を塞がれて、どうしようもなかった。おずおずと片手を伸ばそうとすると、強い力で手首を掴まれ、引っ張られる。
 なんとか立ち上がりはしたものの、南郷との距離が近い。和彦は視線を逸らしただけでは足りず、顔を背けようとしたが、すかさずあごを掴み上げられた。南郷の顔が近づいてきて、獣じみた荒い息遣いが頬に触れる。
 喰われる、という本能的な恐怖から、呻き声を洩らしていた。
 南郷は、和彦に喰らいついたりはしなかった。代わりに、涙の滲んだ目元を、ベロリと舐めてきた。
「なあ、先生、泣いている姿を、誰に見せたことがある? これまで寝てきた男全員に見せてきたのか? それとも、特別な男だけ――、長嶺組長は? 可愛らしい跡目もいるな。あんたがご執心の三田村さんに……、クソ忌々しい刑事とか。気になるといえば、さっきあんたが泣いていた理由だ。実家が恋しくなって泣いていたんだとしたら、今後はあんたが逃げ出さないよう、いろいろ策を講じないといけないしな」
 和彦は返事をしないまま、尚も目元に唇を寄せてくる南郷の顔を押し退ける。今にも暴れ出しそうな野獣を相手にしている気分で、機嫌を損ねないよう控えめな抵抗に留めていたが、南郷が薄い笑みを浮かべたのを見て、頭に血が上った。
「……っち」
 浅黒い頬に爪を立てると、南郷が舌打ちをする。すかさず和彦は厚みのある胸を突き飛ばし、南郷がよろめいた隙に這うようにして、ベッドを乗り越え反対側へと逃れる。
 まっすぐ扉へ向かおうとしたが、数歩も行かないうちに白い物体が目の前に現れ、首にがっちりと食い込んだ。それが、ワイシャツに包まれた南郷の腕だと気づいた瞬間、和彦は足元から崩れ込みそうになった。
「あんたの爪は、少しも痛くない。患者のためにいつも短く切って、磨いているんだろう。それに俺は、面の皮が分厚いからな」
 耳元でそう囁かれ、芝居がかった下卑た笑い声が注ぎ込まれる。
「夜はまだ長い。あんたが泣いていた理由を、じっくりと聞かせてくれ。その代わり、俺のとっておきを見てみないか? もっとも、それを見たあんたが、また泣き出すかもしれないが――」
 やっと我に返った和彦は、苦しさに息を詰まらせる。南郷はわずかに腕を緩めてくれたが、逃がすつもりはないようで、腰にもう片方の腕が回され、引きずられる。スリッパが両足とも脱げてしまい、床の冷たさを素足で感じた。
「寒い……」
 思わず呟くと、南郷の耳にも届いたのか、ふいに動きが止まる。背後から、困惑気味な声が応じた。
「暖房がよく効いてるだろ、この部屋は。俺なんか、暑くて堪らないんだが」
 和彦はようやく体勢を立て直し、軽く身を捩る。その拍子にあごにかかっていた手が外れ、ほっと息を吐く。すると、すぐにまたあごを掴まれ、強引に振り向かされた。
 眼前に南郷の顔が迫り、和彦が目を見開いたときには、唇を塞がれる。
 いきなり貪るように唇を吸われ、その激しさに圧倒された和彦は抵抗はおろか、呼吸すら忘れてしまう。ただ、眩暈がするほど間近にある、獣の目を凝視していた。
 肩を引き寄せられて、逞しい両腕の中にしっかりと閉じ込められる。一気に全身を駆け巡ったのは、嫌悪感だった。和彦は咄嗟に頭を後ろに引いたが、後頭部に手がかかって引き戻される。
「や、めっ――」
 声を上げようとして再び唇を塞がれた挙げ句、引き結んだ歯列を舌先でこじ開けられる。恐慌状態に陥った和彦は、本気で南郷の舌に歯を立てようとしたが、その気配を察したように後ろ髪を乱暴に掴まれ、さらに両目を覗き込まれる。
 凄んではいない。それどころか、和彦の反応を楽しんでいるような、余裕すら湛えた南郷の眼差しに、心底震え上がる。
「寒いなら、まずはキスで暖めてやるよ、先生。嫌いじゃないだろ。俺とのキスは」
 強張った唇を柔らかく啄みながら、南郷が囁きかけてくる。顔を背けたい和彦だが、後ろ髪を掴まれたままのうえに、腰に回された鋼のような腕の感触に怖気づく。無意識のうちに南郷の肩に手をかけていたが、押し退けるどころか、小刻みに震えていた。
「そう、怯えなくてもいいだろ、先生。俺はこれまで、手荒なことはしていないつもりだ。長嶺の男たちにとって宝物みたいな存在を、俺ごときが傷つけるはずがない。……少しばかり、意地の悪いことはしたが」
 ここでまた、南郷にしっかりと唇を塞がれる。口腔に舌を押し込まれ、堪らず和彦は、南郷の顔を押し退けようとしたが、上唇に軽く噛みつかれる。頑丈そうな歯は、いつでも自分の唇を食い千切る凶器となりうる。和彦に一度も手荒なことはしていないという南郷の発言はウソではないが、今この瞬間もそうだとは限らない。そう思わせるものが、この男にはあるのだ。
 ふいに唇を離した南郷が苦笑めいた表情を浮かべ、呟く。
「……今思い出した。今晩、俺の前に、あんたにキスした男がいたんだったな」
 和彦は激しく動揺し、そして強い怒りに支配される。自分でも意外な力を発揮して南郷に体当たりをすると、後ろ髪を掴んでいた手が離れる。しかし、腰に回された腕の力が緩むことはなく、南郷は、和彦の反撃をおもしろがるように目を細めた。
「艶やかだな。あんたの怒りの表情は。どうして今怒ったのか理由はわからないが、聞いたところで教えてはくれないだろうな」
 残念だ、と洩らした南郷がベッドに片手を伸ばし、枕代わりに使っていた毛布を掴む。一体何をするのかと思って見ていると、乱雑に床の上に広げた。
 あっという間だった。前触れもなく足元を払われて、和彦の体は大きく傾(かし)ぐ。南郷の腕を掴もうとしたが間に合わず、そのまま敷かれた毛布の上に倒れ込む。衝撃に一瞬息が詰まった。
「痛っ……」
 顔を伏せたまま動けないでいると、乱れた髪を掻き上げられる。ビクリと肩を震わせた和彦はぎこちなく顔を上げ、南郷が自分の上に覆い被さっていることを知る。
「俺が、これまでのように紳士的でいられるかどうかは、あんた次第だ。暴れて泣き叫んで俺を苛立たせるか、従順に身を任せて俺の機嫌を取るか、どっちかを選ぶといい。もっとも、あんたは――」
 肩を掴まれて、簡単に体をひっくり返される。仰向けとなった和彦は無遠慮な視線に晒され、身が竦んでしまう。南郷にとっては予想通りの反応らしく、満足げに息を吐き出した。
「あんたは弱い。押さえ込まれると、抵抗らしい抵抗をしない。強い力に身を委ねるというより、身を差し出すという感じだ。……一度ぐらい、死に物狂いの抵抗というものを味わってみたい気もするが、俺の前では感情を露わにしたがらず、小動物みたいに臆病なあんたにそれを求めるのは、酷なのかな」
 好き勝手なことを言いながら、南郷の手がトレーナーの下に入り込み、素肌を撫で回してくる。触れられた部分から鳥肌が立っていった。これ以上ない嫌悪の反応を示されて気づかないほど、南郷は愚鈍ではない。
 それを知っているからこそ、南郷が見せた変化に和彦は震え上がった。
 口元に愉悦の笑みが浮かび、両目には爛々とした光を湛えている。その光は強い欲情と表現できる。南郷は興奮しているのだ。
「弱いあんたが、さらに弱っている姿は、俺みたいな人間には毒だな。もっと痛めつけて、弱らせたくなる反面、慰めて、優しくしてみたくもなる。そう、妙な気持ちになるんだ。あんたの側にいると」
 南郷が顔を寄せてきて、匂いを嗅ぐように耳元で鼻を鳴らす。粗野な仕種のあと、唇をベロリと舐められた。それを数回繰り返され、ようやく無言の求めを察した和彦は、引き結んだ唇をおずおずと開き、口腔に南郷を迎え入れた。
 今度の口づけは無反応ではいられなかった。いきなり唾液を流し込まれ、拒むことも許されず嚥下する。すると、搦め捕られた舌を激しく吸われる。外に引き出された舌に軽く歯を立てられ、痛みがあったわけではないが喉の奥から声を洩らす。恫喝としてはこれ以上ないほど効果的で、南郷の口づけに、和彦は応えざるをえなかった。
 もっとも、それで南郷が満足するはずもなく、脇腹を思わせぶりに撫でられながら、トレーナーを押し上げられる。素肌に触れるぬるい空気に、反射的に和彦は首を竦める。子供の機嫌をうかがうように、やけに甘い声で南郷が問いかけてきた。
「寒いか、先生?」
 暖房が効いて暑いというのは、大げさな表現ではなかったのだろう。いつの間にか南郷の額にはうっすら汗が浮いている。極度の緊張から、体が冷え切っている和彦とは対照的だ。そんな和彦を暖めようとするかのように、腹部に大きなてのひらが押し当てられる。
 さきほどまで冷たかった南郷の手は、今はもう戦くほど熱くなり、和彦の肌すら温めていく。何かよからぬものに自分が侵食されていくような不気味さを感じ、和彦は身を捩ろうとしたが、その反応が南郷を刺激したらしい。いきなり胸元までトレーナーを捲り上げられた。
「うっ……」
 露わになった胸元に、両てのひらが這わされる。
 覚えのある状況だった。明かりの下、南郷に押さえつけられて体をまさぐられ、和彦は震える。
「いい加減、俺の感触にも慣れてきただろう。そうなってもらわないと、困るんだが。なんといっても、長いつき合いになる。慣れないと、あんたがつらいだけだ」
 どういう意味かと、眼差しで問いかける。南郷は、今のは失言だというように、おどけた仕種で肩を竦める。和彦は食い下がろうとしたが、強引にトレーナーを脱がされ、それどころではなくなる。
 覆い被さってきた南郷の体の重みに声を洩らしたときには、また唇を塞がれていた。
「んっ、んんっ」
 スウェットパンツのウェストに手がかかり、引き下ろされる。口腔に押し込まれた舌に粘膜を舐め回され、逞しい体の下でもがくが、南郷に下着ごとスウェットパンツを腿の半ばまで下ろされていた。
 足をばたつかせた拍子に、誤って床に踵をぶつけてしまう。痛みに呻き声を洩らし、身を強張らせると、さすがに南郷が唇を離した。
「今ので足を痛めたか?」
「……なんでも、ないです」
「気をつけてくれよ。風邪を引かせるのはもちろん、あんたの体に青痣を残すなんてしたくないからな。――あんたの体は、愛でるためにある」
 そう言って南郷が、剥き出しとなった欲望を掴んでくる。和彦は目を見開き、悲鳴を上げる。
 怯えきっている欲望を数回扱いてから、軽く鼻を鳴らした南郷は、本格的に和彦を嬲りにかかる。必死に身を捩ったにもかかわらず、あっさりスウェットパンツと下着を両足から抜き取られた。
「南郷さんっ――」
「今夜は、あんただけを裸にひん剥いたりしない。さっき言っただろう。俺のとっておきを見てみないかと。見たくないなんて、寂しいことは言わないでくれよ。俺とあんたの仲だ」
 広げた毛布の上で裸体を晒し、和彦は視線による辱めを受ける。自分の格好の無防備さを自覚してしまうと、逃げ出そうという気持ちは潰え、視線を避ける術もないと諦めざるをえないのだ。
 両足を立てて広げさせられ、秘められた部分までじっくりと観察されながら、羞恥と屈辱から全身が燃えそうに熱くなる。そのせいで肌が汗でじっとりと濡れてくると、揶揄するように南郷が言った。
「ようやく体が温まってきたみたいだな」
 ここで、何度目かとなる口づけを与えられる。上唇と下唇を荒々しく交互に吸われたあと、半ば脅されるように舌を差し出すことを求められ、濃厚に絡め合う。口づけの合間に南郷が身じろぎ、開いた両足の間に腰が割り込まされていた。スラックスの前が寛げられ、外に引き出された南郷の欲望が内腿に擦り付けられる。
 勃ち上がりかけた〈それ〉は、生々しい熱を持ち、ゆっくりと力を溜め込んでいる最中だった。今の状況で、和彦に対してどこまでも傲慢に振る舞える存在となった南郷は、明け透けな行為をさっそく求めてくる。言葉もなく。
 口づけを続けながら和彦は片手を取られ、南郷の両足の間へと導かれる。否応なく握らされた欲望を扱き始めると、本物の獣のように南郷が唸り声を洩らし、熱い息遣いが唇にかかる。
 握り締めた欲望が逞しく育ち、燃えそうに熱くなるまでに、さほど時間を必要としなかった。
「やっぱり上手いな、先生」
 意地悪くそんなことを囁きかけてきた南郷が、いまだ怯えたままの和彦の欲望に、自分の高ぶりを擦りつけてくる。露骨に腰を揺らしながら、和彦の胸元にてのひらを這わせ、ふいに顔を伏せたかと思うと、微かに濡れた音を立てて胸の突起を吸い上げてきた。
「ああっ」
 思いがけない快美さが胸元に広がり、恥知らずな声を上げてしまう。上目遣いで見上げてきた南郷が、わが意を得たりとばかりに口元を緩めた。
 胸の突起を吸われ、舌先で弄られながら、不意打ちで軽く歯を立てられる。そのたびに和彦は声を上げ、身を震わせる。怯えと、背筋を駆け抜けるゾクゾクするような感覚のせいだ。
 執拗に胸元への愛撫を続けながら、南郷の片手が当然のように和彦の欲望を握り締めてくる。腰を跳ねさせて暴れようとしたが、先端を爪の先で弄られて、機先を制された。
「暴れるなよ、先生。いつもみたいに、よくしてやるから」
 感じやすい敏感な部分を、爪の先でくすぐるようにして苛められ、我知らず和彦は間欠的に声を上げていた。
 賢吾によってささやかに〈開かれて〉から、感じ方が変わってきていると自覚はあった。疼痛とも快感ともいえる感覚の波はあまりに強烈で、もう一度味わってみたいと心のどこかで思っている。
 だがそれは、相手が賢吾であるからだ。
「――濡れてきたな」
 和彦の動揺を誘うようなことを南郷が口にする。先端に少し強めに爪が立てられて、ジンと腰が痺れた。和彦は無意識に、南郷の手を押し退けようともがく。
「あっ、嫌……。そこ、怖い、です」
「心外だな。こんなに優しく、苛めてやっているのに」
 南郷らしくない、こちらの機嫌を取るような真摯な声音で囁きかけてきながら、爪の先で掻くように刺激される。声を詰まらせて和彦は腰を引こうとするが、南郷にしっかりと片足を抱え込まれていた。
 ひどいことをされるのではないかと、咄嗟に顔を強張らせる。そんな和彦を一瞥して、南郷は楽しげに喉を鳴らした。
「よほど俺は信用されてないんだな。――まあ、まだ先生は、こっちを弄られるほうが好きということか」
 南郷の指が柔らかな膨らみへと伸び、ゾッとするほど丁寧な手つきで撫でられる。新たな刺激に和彦は、爪先を毛布の上で滑らせた。
「うあっ、あっ、あっ、ああぁっ――」
 弱みを指先で探り当てられ、まさぐられる。いくら嫌だと思っても、触れられた時点で体は言うことを聞かなくなる。
 南郷に見つめられながら体を波打たせ、無防備に両足を開いて腰を揺らす。じっくりと嬲るように柔らかな膨らみを揉みしだかれているうちに、いつ痛みを与えられるのかという恐れだけではなく、官能の波がひたひたと押し寄せてくる。すっかり勃ち上がった欲望の先端から透明なしずくが垂れていた。
「ゾクゾクするほど、あんたは脆い。だが、そこがいいんだ。快感に弱いオンナは、とにかく可愛い」
 南郷の指先による攻めが淫らさと激しさを増し、和彦は呆気なく翻弄され、さらに奥へと進んできた指が内奥をこじ開けることも許していた。
「ひっ……、んっ、んんっ、あっ……ん」
 唾液で濡らすこともなく、強引に内奥に収まった一本の指が妖しく蠢く。しかし、引き攣れるような痛みはなかった。付け根まで押し込まれた指がゆっくりと抜かれていく。意識しないまま内奥を引き絞るように締め付けると、すぐにまた指が押し込まれていた。
 上体を起こした南郷が、和彦の欲望を片手で包み込むようにして扱きながら、内奥から指を出し入れし始める。和彦はなすすべもなく息を喘がせ、自分の下で乱れた毛布を握り締めていた。
「――気分が乗ってきたな、先生。あんたは、今にも死にそうな辛気臭い顔をしているより、そうやって、だらしなく喘いでいるほうがいい。あんた自身も、あんたを見ている男にとっても、幸せな気分になれる」
「何も、知らないくせにっ……」
 乱れた息の下、吐き出すように洩らした和彦の言葉を、南郷は聞き逃しはしなかった。
「教えてくれるのか、俺に? あんたは誰にでも優しいが、なぜか俺にだけは素っ気ないからな。そろそろ、もっと突っ込んだ仲になるいい機会だ。今夜の出来事をきっかけに」
 二本の指で内奥の入り口を広げられ、含まされる。さきほどから発情を促されていた襞と粘膜は強く擦り上げられ、歓喜に震える。ぐっ、ぐっと突き込まれる指にまとわりつくように吸い付き、きつく収縮する。追い打ちをかけるように、ゆっくりと内奥を掻き回されていた。
 反り返ったまま震える欲望の括れをくすぐられ、和彦は上擦った声を上げる。南郷が見ている前で絶頂に達していた。
 下腹部に白濁とした精を撒き散らし、ビクビクと腰を跳ねさせる。このときの内奥の蠕動の感触を堪能するように、南郷が容赦なく指を出し入れする。
「んあっ、あっ、んくぅっ」
 指の動きに合わせて、欲望の先端からさらに精をこぼす。南郷は、まるで自身も達したように大きく息を吐き出すと、内奥から指を引き抜いた。
「今度は、俺の番だ。先生、たっぷり可愛がってくれよ。俺の――」
 南郷が思わせぶりな手つきで、着ているワイシャツのボタンを上から外し始める。浅黒い肌が露わになっていくにしたがい、強い匂いが和彦の鼻先を掠めた。南郷自身の体臭に、汗だけではなくコロンや煙草の匂いも混じっている。
 不快なほど強烈な雄の匂いだと思い、反射的に顔を背けようとしたが、南郷がワイシャツを一気に脱ぎ捨てる。
 そこで姿を現したものを目にして、和彦は動けなくなった。
 まさに筋骨隆々という言葉がふさわしい体つきに圧倒されたからではない。そんな南郷の引き締まった右脇腹から下腹部にかけて、不気味な影が這っていたからだ。
 影の正体を知った途端、総毛立つ。本能的な忌避感と嫌悪感が、全身を駆け巡っていた。
 瞬きもしない和彦に見せつけるように、南郷がわずかに体の向きを変える。
「――こいつが俺のとっておきだ。立派なもんだろう?」
 南郷が身じろぐたびに、浅黒い肌に彫られた刺青が、まるで生きているように蠢く。和彦はおぞましさに顔を強張らせながら、詰めていた息をわずかに吐き出す。
 南郷の肌に棲んでいるのは、大きな百足(むかで)だった。
 艶々とした黒く長い体にはいくつもの節があり、そこから左右対となる無数の足が生えている。触覚を伸ばす頭と足は毒々しい赤色が使われ、それが気味の悪さに拍車をかけている。
 ただ、彫った人間の腕は確かなものだろう。精緻に彫られた百足はあまりに生々しく、身をくねらせている姿に卑猥さすら感じる。
「見惚れてくれてるのか、先生?」
 南郷がのしかかってきて、己の高ぶりを和彦の下腹部に擦りつけてくる。いや、刺青を擦りつけているのだ。意図を察した和彦は全身を使って南郷を押し退けようとするが、びくともしない。
 覆い被さってきた南郷と、汗で濡れた素肌同士が重なり合う。南郷から立ち昇る雄の匂いがますます強くなり、和彦は眩暈にも似た感覚に襲われる。そこに、まるで甘い毒でも注ぎ込むように、南郷が囁きかけてきた。
「あんたなら、俺の刺青とも仲良くなれると思っていた。長嶺の男たちですら甘やかしているあんただ。俺の百足(こいつ)も、同じように甘やかしてくれ」
「な、に、言って……」
「俺の刺青を見せた途端、あんたの目の色が変わった。熱っぽい、物欲しそうな目つきになったんだ。――気づいているか? あんたまた、勃ってる」
 南郷の指摘に、刺青を目にして下がった体温が、一気にまた上がる。屈辱感に唇を噛むと、そんな和彦の姿に嗜虐的なものを刺激されたのか、南郷は荒い息を吐き出して一度体を離し、前を寛げていたスラックスと下着も脱ぎ捨てた。
 もちろん和彦はただ見ていたわけではなく、下肢を引きずり逃げようとしたが、あっさり足首を掴まれて引き戻される。
 もう言葉は必要ないとばかりに、南郷が猛々しく求めてくる。余裕なく和彦の両足の間に腰を割り込ませ、ひくつく内奥の入り口に凶暴な熱の塊を押し当ててきた。
「南郷さんっ」
「あんたに興奮してるんだ。刺青を見慣れた女でも、この百足を見ると顔を歪めるか、ひどいときには悲鳴を上げる。だが、あんたは違う。惹かれるものがあったんだろ? あんたは特別なんだ。どんな男だろうが、刺青だろうが、求められると甘やかさずにはいられない。情が深くて淫奔なオンナだ」
 和彦は最後の抵抗とばかりに、抱えられた両足を振り上げ、なんとか南郷の顔か肩を蹴りつけようとする。南郷は煩わしそうに顔をしかめると、柔らかな膨らみに手を伸ばした。
「暴れると痛い目をみるぞ、先生」
 手荒く揉みしだかれて甲高い声を上げる。的確に弱みを弄られて、ささやかな抵抗は完全に封じられてしまった。
 南郷が、指にたっぷり垂らした唾液を内奥の入り口に施してから、再び欲望を押し当ててくる。濡れた肉をわずかにこじ開けられたところで、堪らず和彦は細い声を上げる。無意識に片手を伸ばしてさまよわせると、その手を掴まれ、南郷の脇腹へと導かれていた。
 ごつごつとして硬い腹筋を指先でまさぐると、逞しい体がブルッと震える。
 気味の悪い百足の刺青になんとか触れまいとしたが、それを南郷は許さなかった。しっかりとてのひらを押し当てることを求められ、今にも内奥を犯されそうになりながら和彦は、百足を撫でた。
 ああ、と南郷が吐息を洩らす。この瞬間、和彦の中で湧き起こる感情があった。
 ある意味、馴染み深い感情ではあるが、南郷に対して持つべきものではない。和彦は必死に自分の中で否定しようとするが、その間にも南郷の行動は淫らさを増していく。
「んんっ――」
 欲望の先端で内奥のごく浅い部分をこじ開けられはするものの、深く押し入ってくることはなく、ただ擦られ、突かれ、浅ましい肉が自ら蕩けていくのを待つように刺激される。
「美味そうな肉だ。真っ赤に充血して、濡れて、蠢いて……。先生は、百足が肉食だってことぐらいは知ってるだろ。昆虫だけじゃなく、小さな動物にだって喰らいつく。そんな百足だが、喰われることもある。天敵ってやつだな。例えば――蛇だ」
 再び反り返った和彦の欲望の先端から、透明なしずくが垂れ落ちる。内奥に先端を浅く含ませたまま、南郷が片手で欲望を扱き始める。堪え切れず和彦は喘ぎ声を上げながら、腰を揺らしていた。
「が、一方的に喰われるだけじゃない。蛇だろうが油断すれば、百足は容赦なく餌にする。獰猛でふてぶてしいんだよ。地面を這いずり回るどころか、湿った暗い場所に身を潜めているような嫌われ者の生き物だが、だからこそ俺にぴったりだ。極道の世界に足を踏み入れたときに思ったんだ。どんなに嫌われて蔑まれようが、ふてぶてしく生き残ってやろうってな」
 南郷から与えられる感覚の波に意識をさらわれそうになりながらも、和彦の脳裏にふっと賢吾の顔が浮かぶ。南郷の話が、まるで賢吾を当て擦っているように思えた。
 つい非難の眼差しを向けると、南郷は欲望を扱く手を止めた。
「……あんたは骨の髄まで、長嶺賢吾という極道のオンナなんだな。そんなオンナ、恐ろしくて関わりたくないと思うのが人情だが、俺はむしろ、燃える。このままあんたを犯してみたいと思うぐらいには」
 内奥の入り口に擦りつけられていた欲望が離れ、安堵する間もなく南郷に口づけを求められる。押さえつけられながら和彦は、南郷を受け入れ、激しく舌を絡め合う。下腹部が密着し、刺青を押し付けられる。
 口づけの合間に、ゾッとするようなことを掠れた声で囁かれた。
「今はあんたを犯さない。その代わり、舐めてくれ。――俺の分身を」
 否とは言わせない、と付け加えられた時点で、和彦の取るべき行動は一つしかなかった。









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