と束縛と


- 第41話(3) -


 敷き直した毛布の上に仰臥した南郷は、傍らに座り込んでいる和彦に向けて手招きをしてくる。鷹揚な動作に反発する余裕もなく、毛布に包まった体を小刻みに震わせる。
 逃げ道を探すように、どうしても視線を扉に向けてしまいそうになるが、それだけで南郷の機嫌を損ね兼ねないと思い直し、渋々――嫌々、横たわる逞しい体に目を向ける。隠す必要はないとばかりに南郷は、脇腹から下腹部にかけて這う百足の刺青だけではなく、興奮が鎮まる気配のない欲望を見せつけてくる。
 そうやって、和彦の反応を楽しんでいるのだ。その証拠に、揶揄するように声をかけられた。
「いつまで、そうやっているつもりだ。俺の体が冷えちまう」
 南郷の肌を汗が伝い落ちている。それがひどく生々しく感じられ、和彦は咄嗟に顔を背けた。
「やっぱり――」
「嫌だというなら、さっき言ったが、あんたをこの場で犯すだけだ。暴れられて、思わず手を上げるなんて事態にはしたくないから、申し訳ないが縛らせてもらうが。尻さえ突き出してもらえば、用は済む」
 卑猥で下劣な言葉に、煽られているとわかっていながらも反応せざるをえない。屈辱感に唇を噛み、怯えを押し殺しながら南郷を睨みつける。どこまでも和彦を甘く見ているのだ。だからこそ無防備に、こうやって体を曝け出せるのだ。
 いくら非力とはいっても、爪で肌すら傷つけることができなくても、目を狙うことぐらいはできるというのに。
「――怖いことを考えている顔だな、先生。普段は優しげなんだが、あんたはときどき、ゾッとするほど冷たい顔をする。感情が一気に欠落して、人間から人形になったような感じに……」
 我に返った和彦が身構えようとしたときには、腕を掴まれ引っ張られる。抵抗する間もなく、分厚い胸元へと倒れ込み、間近から南郷と目が合っていた。さきほどまで皮肉げな色を湛えていたはずの両目に情欲の気配を感じ取り、和彦は息を呑む。
 身じろごうとして、自分が南郷の右脇腹に手を置いていることに気づいた。そこから毒に侵入されたように、なぜか体が動かなくなった。
 後頭部に南郷の手がかかり、ぐいっと引き寄せられる。
「んっ……うぅ」
 情熱的な口づけを与えられながら、体を包んだ毛布を剥ぎ取られる。頑丈な腕に掬い上げられるようにして、抱き締められた。無言の攻防はすぐに決着がつき、仰臥したままの南郷の腰を跨がされる。
 意味ありげに南郷の両手が尻にかかり、荒々しく肉を揉みしだかれたかと思うと、強く鷲掴まれる。和彦は思わず腰を揺らしたが、その拍子に、互いの高ぶった欲望が擦れ合い、うろたえる。南郷がそっと目を細めた。
「覚悟を決めろ、先生。近くで見たら、百足(こいつ)はけっこう可愛いだろ。自分から舐めるか、俺に無理やり頭を押さえつけられて舐めるか、違いはそれだけだ。だが、暴力が苦手なあんたにとっては、大きな違いのはずだ」
 話しながら南郷の指がゆるゆると秘裂を行き来し、濡れてわずかに綻んだ内奥の入り口をまさぐる。堪らず和彦が喉の奥から声を洩らすと、二本の指を押し込んできた。
「ひぁっ、はあっ、あっ……」
 誘い込み、逃すまいとするかのように、太い指をきつく締め付ける。気持ちはともかく、発情している体は見境がない。南郷は大胆に内奥を掻き回し、出し入れして、粘膜と襞を蹂躙する音を響かせる。そこに、和彦自身が発する呻き声が加わる。
「なあ、先生、早く舐めてくれ。さっきから疼いて堪らないんだ」
 和彦は、自分のてのひらの下で息づいているものを意識する。ただの刺青だと、頭ではわかっている。実際に動き出すはずもなく、目を閉じてしまえば、わずかな肌の違和感でしか訴えてくるもののない存在だ。
 しかし、錯覚だとわかっていながらも、不快なものが蠢いているのを感じる。気味の悪い百足の姿が脳裏に焼きついたからなのか、南郷という男の肌に彫られているからなのか。それとも、両方か。
 内奥から指が引き抜かれ、腰を撫で上げられる。
「ほら、先生、早くしてくれ」
 ゆっくりと上体を起こした和彦は、座った位置をわずかにずらしてから、改めて百足の刺青を見下ろす。和彦の視線に反応したように、南郷の胸が大きく上下した。
 ふっと疑問が口を突いて出た。
「……あの人が、怖くないんですか?」
「あの人――、長嶺組長か」
「自分が会長の側近だから、平気なんですか? こんなことをしても……」
「まさか。俺はいつだって、長嶺組長が怖い。それに、尊敬もしている。何より、憧れている。逆立ちしたって、俺がなれない存在だ」
 だが、と言葉を続けようとした南郷だが、和彦を見て口元を緩めた。
「もしかして、誰に手を出してるのかわかってるのかって、遠回しに俺を脅してるのか?」
「違い、ます……。ただ、あなたが何を考えているのか、気になって」
「頭のいい先生が考えるほどのもんじゃない。俺は、ただの欲深い男だ」
 会話はここまでだと言うように、腰から這い上がってきた手がとうとう肩にかかる。力を込められたわけではないが、手を振り払えない圧力のようなものを感じ、それに和彦は屈した。
 背を丸めて身を屈めると、南郷の脇腹におずおずと顔を寄せる。顔を背けるなという軽い脅しのつもりか、髪を梳かれた。
 独特の艶まで描かれた百足の体に、和彦はぎこちなく唇を押し当てる。二度、三度と唇を押し当て、そこで顔を上げる。途端に南郷から言われた。
「おいおい、あんたは長嶺組長に、いつもそんなおざなりなことをしてるのか?」
 怒りと屈辱と羞恥から、カッと全身が熱くなる。何より、賢吾に対するものと同じ行為を要求する南郷の驕りが、ひどく癇に障った。
 こんな不気味なものを、愛してやれるはずがないのだ――。
 百足を見下ろし、心の中で呟いた和彦だが、南郷の求めに応じないわけにはいかない。天井を見上げたまま、口元に笑みを湛えている南郷の様子を上目遣いにうかがってから、和彦は再び行為に及ぶ。
 震える舌先を、百足の長い体に這わせる。賢吾の大蛇の鱗を丹念に一枚一枚、愛撫したように。そうしていると賢吾は焦れたように背を震わせ、それを合図として、和彦は舌全体で大蛇の巨体を浅ましく舐め回し、高まった情欲のままに吸いつくのだ。行為の最中、導かれて触れる賢吾の欲望はいつも熱く高ぶっており、その反応に和彦は歓喜し、安堵していた。
 賢吾だけではない。三田村と千尋の背にある刺青を愛撫するのは好きだった。何より、素直な反応を示されると、愛しいのだ。
 微かに濡れた音を立てて、南郷の肌を吸い上げる。腹筋がぐっと硬くなり、傲岸でふてぶてしい男が決して無反応ではないのだと知らせてくる。
 実際、南郷の欲望は、萎えることなく勃ち上がったままだ。
 和彦の目には、下腹部に彫られた百足の赤い頭とともに、南郷の〈分身〉はなんともおぞましく映り、心の内で悪趣味ぶりを罵る。追い打ちをかけるように、こんな言葉がかけられた。
「気に入ったんなら、これも舐めてくれてかまわないんだぜ」
 これみよがしに南郷が己の欲望を軽く片手で扱く。和彦は慌てて体を離そうとしたが、腕を掴まれ、あっという間に毛布の上に転がされていた。
 のしかかってきた南郷が両足の間に腰を割り込ませ、ぴったりと下腹部を密着させてくる。正確には和彦の下腹部に、百足の刺青を擦りつけてきたのだ。
 ふう、と南郷が息を吐き出す。そして、当然のように和彦の首筋に顔を埋めてきた。
「うっ、あ……」
 荒々しく唇を這わされ、舌で舐め上げられる。さらに軽く歯を立てられると、ゾクゾクするような感覚が全身を駆け抜けた。
 恐怖のせいだと思った和彦だが、もう一度首筋に柔らかく噛み付かれて、上擦った声を上げる。無意識に腰を震わせていた。すると南郷が腰を緩やかに動かし、百足を――高ぶった欲望も擦りつけてくる。咄嗟に南郷の肩を押し上げようとしたが、両手首をしっかりと押さえつけられた。
「興奮してるな、先生。俺のを舐めて、よくなったか?」
「違っ……、何、言って――」
「俺は、よかった」
 目を見開く和彦に向けて、南郷は皮肉っぽく笑いかけてくる。これ以上なく興奮している下半身とは対照的に、理性的で怜悧な表情に見えた。
「やっぱり、あんたは特別なんだ。触られるだけで、全身の血が沸騰しそうになる。そのうえ舐めてもらって……、危うく射精しそうだった」
 どこまで本気で言っているのだろうかと思っているうちに、南郷に片手を取られ、高ぶったままの欲望を握らされる。和彦は、南郷の下腹部に視線を遣り、脇腹に潜んでいる百足の姿を確認する。今にも脇腹から這い出して、自分の手に食らいついてくるのではないかと、非現実的な危機感を抱いてしまう。
「先生、口を吸わせてくれ」
 いくらか荒くなった息を吐きながら南郷に求められ、ためらう間もなく唇を激しく吸われる。それでも和彦は手を動かし続け、口腔に熱い舌を受け入れる頃には、南郷が、和彦の欲望をまさぐってくる。
 互いの欲望を刺激し合いながら、濃厚に舌を絡め、唾液を交わす。
 おぞましい百足に触れて興奮しているわけではないと、和彦は自分に言い聞かせていた。そうしないと、荒々しく粗野な情欲に押し流されてしまいそうだったのだ。
 そんな和彦の胸の内を見透かしたように、南郷の目元が笑ったような気がした。
 和彦は、二度目の絶頂を迎える。それを待って南郷が、和彦の手を押し退けて、性急に自らの欲望を扱いた。
「……ドロドロだな」
 二人分の精で汚れた和彦の下腹部を見下ろし、ぽつりと南郷が洩らす。和彦のほうは呼吸を整えるのが精一杯で、自分の姿を気にかける余裕はない。
 南郷は、自分が脱ぎ捨てたワイシャツを掴み寄せると、惜しげもなく和彦の下腹部を拭き始めた。一瞬戸惑いはしたものの、少し前まで確かにあった屈辱や羞恥という感情は、虚脱感によって踏み潰されてしまった。
 傲慢に振る舞われた意趣返しというわけではないが、後始末は南郷に任せることにする。
「暑い……」
 いまさら暖房の効きが気になり、つい声が洩れる。眉を跳ね上げて反応した南郷が、くっくと喉を鳴らした。
「そりゃあ、あれだけ燃え上がればな」
 腕を伸ばした南郷がスウェットのトレーナーを取り上げ、和彦は漫然とその様子を目で追う。太い首から胸元にかけて幾筋もの汗が伝い落ち、身じろいだ拍子に、脇腹に差した影も視界に入ってドキリとする。
 汗が、百足も濡らしていた。ゾクリとするような生気を帯び、ますます艶が増している。総毛立つほど気味が悪いと感じる一方で、どこかで心惹かれるものがあると、この瞬間、和彦は認める。
 それと同時に、南郷の脇腹に向かって手を伸ばしていた。
 意識しないまま取った自分の行動に驚いた和彦だが、一方の南郷も、何事かと怪訝そうに眉をひそめる。だが、すぐに和彦の行動の意味を察したようだった。
 伸ばしかけていた手を取られ、また脇腹へと導かれる。和彦は自分から指先を這わせていた。そんな和彦を、南郷は興味深そうに見下ろす。
「――ほらな、あんたは刺青と相性がいい。それとも、俺と相性がいいのかな」
 そう言って南郷が顔を寄せ、ベロリと目元を舐めてくる。その拍子に、ムッとするような雄の匂いが強く漂い、眩暈に襲われる。
 心も体も疲れきっているというのに、それでもまだ胸の奥から湧き起こる淫らな衝動に、和彦は、南郷でも百足でもなく、自分自身を恐ろしいと感じた。




 ウトウトしていた和彦は、急に肩を揺すられて目を開く。南郷に見下ろされていると知り、慌てて起き上がろうとしたが、狭い折り畳みベッドの上だということを失念して、危うく転げ落ちそうになった。
 すかさず南郷の腕に受け止められ、身を竦める。南郷は、じっと和彦の顔を見つめてから、眉間に皺を寄せた。
「一眠りした人間の顔じゃないな、先生」
 眠ったという意識はなかった。心身ともに疲弊しきっていたので、眠気に負けて目を閉じはしたものの、取り留めなく思考は動き続けていた。ずっと緊張状態が続いていたせいだろう。
 和彦は声を発しようとして、喉に違和感を覚える。意思に反して声がなかなか出ず、咳き込んでしまう。途端に、南郷の眉間の皺が一層深くなった。
「……寒くないよう、一晩中暖房を切らなかったし、しっかり汗も拭いて服を着せておいたんだが……、もしかして風邪か?」
 二人きりだというのに、南郷からの問いかけが自分に向けられたものだと察するのに、少しの時間を必要とした。まだ頭がぼんやりしている。
 ふと窓のほうに目を向けると、外はまだ薄暗く、完全に夜が明けているわけではないようだ。
「もう少し寝させてやりたかったが、そういうわけにもいかなくなった」
「えっ」
 ようやく発した声は掠れており、和彦はもう一度咳き込む。南郷が物言いたげな顔をしたので、首を横に振る。
「風邪じゃないです。空気が乾燥して、ちょっと声が出にくくなっているだけです」
 すぐに治ると付け加えると、ようやく南郷は腕を引いた。
 和彦はベッドに座ったまま、自分の格好を見下ろす。手が隠れるほど長い袖を軽く引っ張りながら、自分が昨夜、俊哉との食事会のあとに、元は保育所だったという場所に連れて来られた経緯や、この部屋で南郷との間にあった出来事を一つ一つ思い出していく。
 突如、脳裏に鮮やかに蘇ったのは、気味の悪い百足の姿だった。その百足が、どこに潜んでいるのかも思い出し、パッと顔を上げる。
 ようやく警戒心が戻ってきた和彦は、南郷をうかがい見る。新しいワイシャツに包まれた広い背をこちら向け、南郷はテーブルの上で何かしていたが、ふいに振り返り、濡れたタオルを差し出してきた。
「これで少しはすっきりするだろ」
 おずおずと受け取ると、温かい。わざわざ湯を準備してくれていたらしい。昨夜も感じたが、見た目から受ける粗野な印象とは違い、気遣いができる男なのだ。
「……ありがとうございます」
「かまわんさ。今は、他人から世話を焼かれることが多い俺だが、たまには、オヤジさん以外の人間の世話を焼くのも新鮮だ。あんたはなんというか、ちやほやされるのが似合っているしな」
 ムキになって反論する間に冷めてしまいそうで、和彦は黙って、温かなタオルに顔を埋める。心地よさに小さく吐息が洩れていた。
「そのまま聞いてくれ、先生。――あんたをこれから、長嶺の本宅まで送り届けることになった」
 タオルからわずかに顔を上げると、南郷はあごに手を当て、やけに神妙な顔をしていた。
「本宅、ですか……」
「あんたをゆっくり休ませて、昼頃にでもマンションに送る予定だったんだが、どうやら本部のほうで騒動になっているらしくてな。早く戻ってこいと命令された」
「南郷さんに命令って、会長が――」
「総和会の組織体系がまだピンときてないだろうが、あそこで、俺に命令できる人間はいくらでもいる。普段は何かと大目に見てもらって好き勝手しているが、さすがに長嶺組を本気で怒らせるような事態となったら、話は別だ。ケジメをつけるために指を何本か落とせと言われても、逆らえない」
 南郷の話に、和彦は顔を強張らせる。騒動の原因が、自分の行動にあることを嫌というほど自覚しているからだ。大事になると薄々わかっていながら、長嶺組に連絡を入れることなく一晩所在をくらませ、しかも南郷と一緒だったと知り、長嶺組――というより賢吾の怒りは、和彦にも向くかもしれない。
「……総和会には、どこにいるか知らせてなかったんですか?」
「知らせたら、どこからか長嶺組にも伝わって、あんたは数時間とここにいられなかったはずだ。俺は案外、義理堅い男なんだ。まあ、誰にも邪魔されたくなかったというのもあるが」
 別に、南郷に感謝しようという気持ちは湧かなかった。ただ、自分のせいで南郷が、総和会で危うい立場に追いやられるかもしれないということに、わずかながら申し訳なさを覚える。
 そんな感情の揺れが顔に出たのか、南郷がニヤリと唇を歪めた。
「優しいな、先生。そんなことだから、悪い男たちに付け込まれるんだ。それともあえて、そういう隙を見せているのかな」
 返事の代わりに咳をすると、すぐに表情を引き締めた南郷は、和彦がテーブルの上に置いたスーツ一式を、無造作にゴミ袋に突っ込み始める。
「何してるんですかっ」
「バッグがないんだ。車に運び込むのに不便だから、我慢してくれ」
「でも、着て帰るものが……」
 和彦がぽつりと洩らした言葉に南郷が、何を言っているんだという顔をする。
「服なら着てるじゃないか、先生。どうせ、ここから長嶺の本宅まで、まっすぐ帰るんだ。そのスウェットで十分だ。あっ、朝メシは車の中で済ませてくれ。道中、自販機で熱いコーヒーを買えばいいだろう」
 一方的に告げた南郷が差し出してきたのは、コートだった。つまり、スウェットの上から羽織れというのだ。今は南郷に逆らえる状況ではないと、和彦はベッドを下りてコートを受け取る。
 南郷が、和彦の寝床を片付け始める。自分がやると声をかけようとしたが、新たなゴミ袋に、丸めた毛布を突っ込む光景を目にする。その毛布が昨夜何に使われたか気づいて、顔が熱くなる。
 毛布と折り畳みベッドを抱えて、南郷が隣の部屋へと向かう。その隙に和彦は、一階へと下りた。
 背の低い下駄箱の上にコートを置くと、寒さに身を強張らせながらシャワー室に入る。濡れタオルで拭ったとはいえ、湯できちんと顔を洗いたかった。何より、口をすすぎたい。
 ふいに、南郷の汗の味と、舐めた百足の感触が舌の上に蘇る。ザワッと全身に鳥肌が立ち、慌てて和彦はシャワーのコックを捻る。
 湯の温度を調節していて、背後に気配を感じた。驚いて振り返ると、南郷がタオルを手にシャワー室の前に立っていた。
「――ちょっと目を離すと、あんたはふらふらと勝手に動く。落ち着きのない子供みたいだって言われたことはないか?」
「ないです」
「だとしたら、俺以外の男にはお行儀よくしているってことか」
 癇に障る言い方に、眼差しを鋭くする。南郷が軽くあごをしゃくり、まるで見張られているような状況で和彦は口をすすぎ、顔を洗う。
 湯を止めて、南郷が差し出してきたタオルを受け取ろうとしたが、寸前で躱される。からかわれていると思った和彦は、南郷を無視してシャワー室を出たが、すぐに肩を掴まれて壁に押さえ付けられた。
「先生、俺が拭いてやるよ」
 濡れた頬にタオルが触れる。獲物をいたぶるような傲慢さは、昨日までと同じだ。だが和彦は、南郷という男に対して、昨日まではなかった感覚を抱いていた。それは決して、親近感などという穏やかなものではなく、だからといって嫌悪感というほど激しいものではない。
 丁寧に水気を拭われ、最後に前髪を掻き上げられたところで、和彦は肩にかかった手を押し退けようとしたが、反対に手を掴まれる。
「あっ……」
 ワイシャツの上から南郷の脇腹に触れさせられた。指先で感じるのは硬い腹筋の感触だが、姿が隠れている百足の蠢きが伝わってくるようで、和彦は顔を強張らせる。
 耳元に顔を寄せた南郷がひそっと囁きかけてきた。
「忘れるなよ、先生。あんたが可愛がった刺青の姿を」
 体が離れてほっと息をつく間もなく、玄関まで連れて行かれる。
 急いでいるというのは本当らしく、コートに袖を通す和彦をその場に置いて、南郷は慌ただしく二階へと駆け上がっていき、すぐに戻ってきた。片手には和彦のスーツが入ったゴミ袋を、もう一方の手には南郷自身のジャケットを掴んでいる。
 車を停めてある庭に出ると、早朝の冷たい空気に和彦は大きく身を震わせる。コートの前を掻き合わせながら、昨夜はよくわからなかった庭の光景を改めて目にする。どの遊具も塗装が剥げているだけではなく、壊れかけてボロボロだ。昨夜は気づかなかったがかつては花壇だったらしいものもあるが、もちろん荒れている。
「――経営者は、この庭でくたばったそうだ」
 車のロックを解除した南郷が、さらりと物騒なことを言う。軽く目を見開いた和彦に対して、南郷は皮肉っぽく唇の端を動かした。
「昨夜は、あんたが気味悪がるだろうから言わなかったんだ。ここで焼身自殺があったってことは。買い手がなかなか見つからないのは、そのせいだ。縁起が悪いからな」
 そんな場所を南郷は隠れ家として使っているのかと、和彦はうすら寒いものを感じた。
 南郷が車を庭の外へと移動させるのを待ってから、和彦は後部座席に乗り込む。入れ替わりに車を降りた南郷は鉄門扉を閉め、鎖を巻きつけていく。その様子を眺めていた和彦は、鉄門扉越しに庭へと視線を遣り、すぐに背ける。
 かつての経営者の話は、あえて和彦の耳に入れなくてもよかったものだ。それでもあえて話したのは――南郷の性癖だとしか思えなかった。和彦がどんな反応を示すか、観察したかったのだろう。
 急速に車内が暖房によって暖められていく中、居心地の悪さを覚えた和彦はシートの上で身じろぐ。その拍子に、ポケットに入れたままの携帯電話の存在を思い出した。
 ポケットに手を突っ込み、携帯電話をそっと指先でまさぐる。本宅に着く前に連絡を入れておくべきなのだろうが、昨夜から勇気は潰えたままで、正直今は、逃げ出したいほど怖かった。
 賢吾に話さなければならないことがありすぎて。
 どうしてこんなことになったのかと自問しながら、和彦はポケットから手を出した。


 昨夜のうちに南郷がコンビニで買っておいたというパンは、二、三口食べるだけで精一杯だった。事前に言われていた通り、道中にあった自販機で缶コーヒーを買ってもらったが、いつもなら甘すぎて持て余しそうな味が疲れ切った体には合っていたのか、あっという間に飲み干してしまった。
 和彦は、ウィンドーの外を流れる景色を眺める。車内は静かで、程よい暖かさもあってスウッと眠気が押し寄せてきて、そのたびに目を擦る。南郷に気を抜いた姿を悟られたくなかったのだが、無駄な足掻きだったらしい。
「先生、眠いなら遠慮なく寝てくれ」
 南郷からかけられた言葉に、パッと手を下ろす。
「いえ……」
「いくら俺でも、車の中であんたを襲ったりしない」
 肩を震わせて笑い南郷の後ろ姿を睨みつけた和彦だが、あることがふと気になり、問いかけずにはいられなかった。
「――……これから長嶺の本宅に行くのに、怖くないんですか?」
「昨夜も似たようなことを聞いてきたな。そういう質問は、あんた自身の臆病さの表れの気がする」
 和彦は一度口ごもったあと、小声で応じる。
「誰だってわかるでしょう。ぼくが臆病なんてことは」
「その臆病さが、愛しくて堪らないんだろうな、長嶺組長は」
「……ぼくは、怖いです。今度こそ、あの人に切り捨てられるかもしれないと思ったら」
「それは杞憂ってものだな。長嶺組長は、何があってもあんたを手放したりはしない。そんなことをするぐらいなら、多分、自分の手であんたを縊り殺すことを選ぶだろう。俺の知っている長嶺の男は、執着の鬼そのものだ。目的のためなら、手段を選ばない。欲しいものは必ず手に入れる。そうやって手に入れたものは、なんとしても他人に奪われまいとする」
 南郷が語る『長嶺の男』とは、賢吾と守光のどちらなのだろうかと思った。どちらだとしても、和彦にとって怖い存在であることに違いはないのだが。
「そう自分を卑下しなくても、あんたは臆病なだけじゃなく、十分したたかで性悪だ。怖い男たちと渡り合える程度には。それもまた、長嶺組長――いや、長嶺の男たちには堪らなく魅力なんだろう。それ以外の男にとっても」
 最後に付け加えられた言葉に、ザワザワと心が波立つ。
「……南郷さんは、違いますよね」
「聞きようによっては、なかなか自惚れの強い言葉だな、先生。身近にいる男たちのほとんどが、自分に骨抜きになっていると自覚していないと出ない言葉だ」
「どうせぼくは、したたかで性悪ですから」
 一瞬の間を置いて、南郷が快活な笑い声を上げる。こんな笑い方もできる男なのかと、和彦は驚嘆する。ずっと張り詰めていた空気がふっと緩むが、それもわずかな間だった。
 なんの説明もないまま、車がコンビニの駐車場へと入る。
 和彦は小さく声を洩らす。昨夜も立ち寄った場所だった。車を停めた南郷は肩越しにこちらを一瞥したあと、一人車を降りる。すると、待機していたらしい男たちが駆け寄ってきて、南郷に向けて深々と頭を下げた。第二遊撃隊の隊員だ。
 和彦はウィンドーに顔を寄せて外の様子をうかがいながら、やっと状況を理解する。昨夜は、ここで隊員たちと別れて南郷と二人きりとなったが、今度は合流するのだ。
 案の定、南郷は隊員の一人を伴って車に戻ってくる。ただし、南郷が乗り込んだのは助手席だった。
 その理由を、車が再び走り出してから南郷が口にする。
「これから長嶺の本宅に向かうのに、俺が堂々と、あんたの隣に座っているわけにはいかないだろう。さすがに、自分の立場はわきまえている」
 皮肉っぽい南郷の言葉を聞いて、和彦はそっと背後を振り返る。やはり護衛の車がついてきていた。しかも、二台。護衛にしては仰々しすぎると感じた次の瞬間、和彦は慌てて正面に向き直り、南郷の後ろ姿を凝視する。
 まさかと思いつつも、己の持つ力を賢吾に対して誇示しようとしているのではないかと、ふと気になった。
 和彦は、自分の格好を見下ろす。羽織ったコートの下は、南郷が着るために買っていたスウェットの上下だ。明らかにサイズの合っていない服を着た和彦を見て、賢吾が何も感じないはずはない。
 自分の迂闊さをひたすら心の内で罵っているうちに、車は見慣れた住宅街へと入って行く。
 心臓の鼓動が少しずつ速くなってくる。和彦は無意識のうちに詰めていた息をそっと吐き出し、おそるおそる前方をうかがう。本宅の建物が見えてきたところで、ふいに南郷が声を洩らした。
「驚いたな……」
 本宅の前には数人の人影が立っていた。事前に連絡を受けた長嶺組の組員が、和彦を出迎えるために待っているのだろうと思ったが、すぐに、南郷が洩らした言葉の意味を理解する。
 車が静かに停まる。南郷は素早く車を降りると、後部座席のドアを開けた。一斉に自分に向けられる男たちの視線を意識しながら、和彦はぎこちなくシートベルトを外す。車を降りると、目の前に賢吾が立っていた。
 彫像のように整った顔に浮かぶ冷淡な感情を見て取り、身が竦む。憤怒の表情を向けられたほうがよほど気が楽だった。
 このとき咄嗟に和彦が危惧したのは、賢吾が自分に対して呆れ、一切の関心を失ったのではないかということだ。何も言えず、ただ賢吾の顔を見つめてしまう。
 スッと賢吾の手が肩にかかり、反射的に後ずさりそうになる。すると、痛いほど強く肩を掴まれ、引き寄せられた。
「おい、先生と荷物を頼む」
 賢吾が声をかけると、背後に控えていた組員が一斉に動く。
 車から和彦の荷物が運び出され、和彦は組員に促されて賢吾から離れる。早く門扉の中に入るよう言われたが、賢吾の様子が気になって振り返る。
 賢吾が、南郷に歩み寄っていた。不穏なものを感じた和彦は足を止め、二人の男の行動を見守る。とてもではないが、声をかけられる雰囲気ではなかった。
 賢吾と向き合った途端、直立不動で立っていた南郷が深々と頭を下げる。賢吾が頭を上げるよう声をかけると、従った南郷は今度は、両足の間をわずかに開き、腰の後ろに両手を回す。
 次の瞬間、賢吾が拳を振り上げ、南郷の顔を殴りつけた。
 肉を打つ鈍い音が和彦の耳にも届く。南郷はよろめきはしたものの、倒れ込むことはなく、賢吾の重い拳を顔で受け止めた。賢吾が力加減をしなかったことは、南郷の鼻から滴り落ちる血が証明している。
 賢吾が他人に暴力を振るう光景を、和彦は初めて目にした。狡猾で残忍な大蛇の化身のような男として恐れてはいたが、暴力的な男だと思ったことは一度もない。和彦にそう思われることを忌避していたようですらあるぐらいだ。
 その賢吾が、和彦が見ている前で南郷を殴った意味とは――。
「先生っ」
 ふらりと二人のほうに歩み寄ろうとして、組員に低い声で制止される。半ば強引に門扉の内側に連れ込まれていた。
 閉じた門扉の向こうで一体何が起こっているか気になるが、組員の手を振りほどくほどの力はない。和彦はおとなしく建物の中に入り、客間へと通される。
 障子が閉められ一人となっても、すぐにはその場から動けなかった。少しの間ぼんやりと立ち尽くしていたが、改めて自分の格好に思い至り、うろたえる。慌ててコートを脱ぐと、押入れからネルシャツとパンツを引っ張り出した。
 着替えを済ませたところで和彦は、文机の上に置かれた紙袋に目を留める。この客間に置いてあるということは、自分に関係があるものだろうが、勝手に中を見ていいのだろうかと逡巡しているうちに、廊下から足音が近づいてくる。
 いきなり障子が開き、賢吾が姿を見せた。数秒ほど、言葉もなく見つめ合う。
 スッと賢吾の視線が動き、文机に向けられる。
「袋の中は見てみたか?」
「えっ……」
 賢吾が軽くあごをしゃくったので、紙袋の中を覗き込む。
「第二遊撃隊の人間が、昨夜のうちに持ってきたんだ。佐伯俊哉から託ったということで。お前の忘れ物だそうだ」
 紙袋に入っていたのは、昨夜和彦が首に巻いていたマフラーだった。慌ただしく料亭を出たため、今この瞬間まですっかり失念していた。
「マフラーだけ持ってきて、肝心のお前の居場所は知らないと言われたときは、性質の悪い冗談かと思った」
 マフラーを文机の上に置いてから、和彦はおずおずと賢吾に向き直る。
「……さっき、南郷さんは、大丈夫だった、のか……?」
「お前がまっさきに言うことはそれか」
 冷然とした声と眼差しに、胸の奥まで貫かれる。和彦は吐き出した息を震わせた。
「違う。そうじゃ、なくて……、あの人にあんなことして――」
「それはお前が気にすることじゃない。今、お前が何より気にしなきゃいけないことはなんだ」
 あくまで賢吾の表情は静かだった。さきほど南郷を殴ったというのに、激した様子は微塵もない。だからこそ和彦は、賢吾が身の内に抱えた、冷たい、凍りつくような怒りを感じずにはいられない。
 口を動かそうとするが、言葉が出ない。何から言うべきかと、頭が混乱していたのだ。気持ちと体が委縮して、意識しないまままた後ずさりそうになり、そんな自分の態度を言い訳したくなる。そしてさらに言葉が出なくなる。
 痛いほどの沈黙が訪れようとしたとき、ふいに賢吾に呼ばれた。
「――和彦」
 無意識のうちに視線を伏せていた和彦は、反射的に顔を上げる。その瞬間、左頬に衝撃が走り、足元がふらついた。
 何が起こったのかわからないうちに顔半分が熱くなり、痺れる。呆然として賢吾を見上げると、左頬に大きなてのひらが押し当てられた。ここでようやく、頬を平手で打たれたのだと知る。
「お前を殴るのは、これが最初で最後だ。だが、この一回で俺の気持ちは伝わるはずだ」
 殴ったとはいっても南郷に対してのものとはまったく違い、ずいぶん力加減をしてくれたのは明らかだ。それでも十分痛い。
 賢吾から与えられた痛みだと認識した途端、たった一つの言葉が口を突いて出た。
「ごめん……」
 痛む頬を優しく指でくすぐられる。
「……極道が何を言ってるんだと思うかもしれねーが、一晩お前の行方が知れなくて、心配で堪らなかった。俺の大事で可愛いオンナは、あんまりにも危なっかしい。誰かに連れ去られて、もう二度と会えないんじゃないかって、嫌でも考える」
 和彦はもう一度、今度は消え入りそうな声で謝罪する。
 労わるように頬を撫でられ、賢吾の手の感触だとやっと実感していた。その途端、一晩の間に自分に起こった出来事が一気に蘇り、食い入るように賢吾を見つめる。
「あの……」
「おおよそのことは、オヤジから聞いている。昨夜のうちに佐伯俊哉が連絡してきたそうだ。手前勝手な交渉事はこちら側の専売特許だと思ったが、お前の父親もなかなかのもんだ。いや、手前勝手ではないか。ヤクザに捕らわれた息子を、連れ戻そうとしているんだとしたら」
 ため息をついた賢吾が、和彦の表情に気づいたのか、ふっと眼差しを和らげる。
「込み入った話は後回しだ。今はとにかく、風呂に入ってから体を休めろ。朝メシはきちんと食ったのか? 今なら笠野が準備している最中だから、食いたいものがあったらなんでも言え。喜んで作ってくれるぞ」
 現金なもので、賢吾に言われて初めて空腹を自覚する。同時に和彦は、自分はようやく〈帰ってきた〉のだと思った。だからといって、賢吾の優しさに無条件にすがるわけにはいかない。
「……昨夜はいろいろあったんだ。あんたに本気で殴られても仕方のないことも……」
 賢吾は、和彦の左頬の状態が気になるのか、再び撫でてくる。もしかすると赤くなっているのかもしれない。優しい手つきとは裏腹に、どこか突き放したような冷たい口調で賢吾が言う。
「これまでの経緯はあるが、総和会を信頼していると示すために、俺はお前の身を預けた。だが、結果はどうだ? 総和会の代紋を背負っている南郷は、お前が泣こうが叫ぼうが本宅に連れて来るべきだったし、そうできたはずだった。そうしなかったのは、憔悴したお前の姿に絆されたからじゃない。南郷は――」
 賢吾が視線を向けた先には、和彦が畳んで置いたスウェットの上下がある。突き刺すように冷たい賢吾の一瞥は、不快さに満ちていた。
「薄汚い捨て犬のようだった男が、ずいぶん偉くなったもんだ……」
 凄みを帯びたバリトンの呟きに、ざわりと肌が粟立つ。賢吾の怒りは本物だと、理屈ではなく理解させられる。
 自分がまだ知らない賢吾の一面を見たくないと思いつつも、怒りの原因が自分にあるということに、和彦は困惑と戸惑いだけではなく、胸の奥からせり上がってくるむず痒いような感覚を覚える。
 つい、賢吾の腕にそっと手をかけていた。賢吾にその手を掴まれそうになったが、寸前のところで躱す。反対に、賢吾の手を掴み寄せ、手の甲をまじまじと見つめる。指の付け根が真っ赤になって腫れていた。
「――……手、痛そうだ」
「痛いぜ。なんたって育ちがいいからな。他人を殴り慣れてないんだ」
 本気で言っているのだろうかと、和彦は上目遣いで賢吾の表情をうかがう。すると、苦笑いで返された。
「やっぱり本調子じゃねーな、和彦。いつもなら澄ました顔で、そうだな、と返すところだ」
「そんな……。そうかも、しれない。頭の中がいっぱいで、上手く動いてない感じがする。でも、あんたに話したいことがあって……」
「言ったろう。込み入った話は後回しだと。どちらにしろ、俺はこれから出ないといけねーんだ。夕方までしっかり休んでおけ。話はそれからじっくり聞いてやる」
 そこまで言われると、頷くしかなかった。賢吾は、もう一度和彦の頬を撫でると、部屋を出て行こうとする。この瞬間、さきほど賢吾に言われた言葉が唐突に蘇り、つい声を洩らしていた。賢吾が振り返り、わずかに首を傾げる。
「どうした?」
「えっ、あ……、思い出したんだ。前に、あんたに言われたことを」
 他愛ないことだから気にしないでくれと言ったが、かえって賢吾の気を惹いてしまったようだ。薄笑いを浮かべて促される。
「いいから、言ってみろ」
「……前に一度だけ、ぼくがあんたを殴ったことがあっただろ。そのとき、あんたに言われた。自分を殴らせるのは、これが最初で最後だって……。今になって、あのとき殴った分が返ってきた」
「そういえば、そんなことがあったな。俺としては、仕返ししてやろうなんて微塵も思ってなかったんだが……。そうか、あのときはお前に嫌われていたはずだが、しっかり俺の言葉を覚えてくれていたんだな」
 賢吾はわずかに表情を和らげたが、すぐに険しい顔つきとなる。しっかり休めと言い置いて客間を出て行ったが、入れ替わるように笠野がやってくる。どうやら廊下で控えていたらしい。
 いかつい顔に穏やかな笑みを湛えて、風呂の準備ができたと言われ、ようやく和彦は肩から力を抜いた。


 賢吾に言われたからではないが、あれこれと考えることを後回しにした和彦は、まさに泥のように眠った。入浴と軽い食事を済ませて客間に戻ると、しっかり布団が延べられており、強烈な眠気に抗えなかったのだ。
 ようやく目を覚ましたときには夕方近くとなっており、とりあえず布団は畳んでおいたほうがいいのだろうかと、些細なことを真剣に考え込んでいる最中、障子の向こうから声をかけられた。
「――起きてる?」
 千尋の声だった。応じようとして和彦は、自分の格好を見下ろす。脱衣所に用意されていた浴衣をそのまま着て休んでいたのだが、まだ日が落ちてもいないのにこの格好はだらしないように思えた。
「ああ、ちょっと待ってくれっ……。今、着替えるから」
 枕元に置いてあったネルシャツとパンツを再び着込んでから、障子を開ける前に部屋の隅に視線を向ける。布団に入る前にはあった南郷のスウェットの上下が、いつの間にかなくなっていた。そのことに和彦はさほど驚いてはいない。賢吾の様子を目の当たりにすると、どう処分されたのかなんとなく想像がついた。
 外出から戻ってきたばかりなのかスーツ姿の千尋が、和彦の顔を見るなり安堵したように息を吐き出す。
「ごめんね、ゆっくりしてたのに。でも、俺もオヤジも、少しでも早く話が聞きたくて」
「平気だ。もう十分休めたから」
 客間を出てまずは、洗面所で顔を洗う。鏡で見た限り、起き抜けのわりにはまともな顔つきだったように見えた。それほど、数時間前はひどい状態だったのだ。
 千尋とともに賢吾の部屋に向かうと、ちょうど賢吾は電話をかけている最中だった。二人の姿を見るなり、少し待てというように賢吾が軽く片手を上げる。
 千尋はいそいそと自分の分の座布団を用意して、和彦には座椅子を勧める。自分はかまわないと首を横に振ったが、肩を掴まれ、半ば強引に座卓につかされた。
 並んで座った和彦と千尋を見て、電話を切った賢吾が微苦笑を浮かべる。話を聞くのなら、この席順はおかしくないかと思った和彦だが、賢吾も同様らしい。だが、些細なことだと言わんばかりに、いきなり本題を切り出した。
「メシの前に、胸が悪くなる話は済ませておこうと思ってな。――年末年始の間、お前を佐伯家に戻すよう、佐伯俊哉が要求してきたというのは、本当か?」
 隣で、千尋がわずかに身じろぐ。しかし声は発しなかった。
 和彦は視線を伏せたまま頷き、俊哉の言葉を伝える。ただし、説明してかまわないと言われたところまで。
 無条件に俊哉の言葉に従ってしまう自分に口惜しさを覚えつつ、一方で、俊哉の目的がわからない以上、長嶺の男たちの疑心をさらに煽るのは危険だと、理性的な部分で判断もしている。
「オヤジは、お前に判断を任せると言っていた。もっともらしい渋面を浮かべていたが、腹の中はわかったもんじゃない。すでにもう、お前の父親との間で話がついているのかもしれないしな。お前はけっこうな値段がつきそうだ」
 芝居がかった辛辣な言葉を放ったあと、そんな自分にうんざりしたように賢吾は荒く息を吐き出す。
「下世話な話をするなら、長嶺組は佐伯和彦に対してけっこうな金を投資している。じっくりと先を見越しての投資だ。総和会が無理を通そうとしても、長嶺組としては承服しかねると突っぱねる理由にはなる」
 長嶺組として、俊哉からの要求を断ることができると仄めかされ、和彦の胸に広がったのは安堵の感情だった。ただしその感情は、繊細な砂糖菓子のようにあっという間に溶けてしまう。
 賢吾や千尋を、こちらの事情で危険に晒すわけにはいかないのだ。
「……父さんは今回の要求で、総和会や長嶺組と揉めるつもりはないと思う。放蕩者の次男が行方不明のままで通すわけにはいかないから、年末年始の間だけ実家に滞在して、周囲の人間に対して言い訳が立つようにしたいんだ。それで済む話だ」
「その口ぶりだと、戻る決心はついているということか」
 その指摘に和彦はハッとして、ああ、と吐息を洩らす。
「子供の頃からだ。父さんの言うことには、なんでも従うのが当たり前になってるんだ」
「だったら、逆らってみるか?」
 賢吾に問われて、口ごもる。長嶺の男二人から向けられる視線が痛かった。
「……行くよ。不義理をしていたのは確かだから、せめて、父さんや兄さんの顔を立てるぐらいはしておきたい」
「俺は反対だ」
 ここまで黙って話を聞いていた千尋がようやく口を開く。激情を堪えているのか、まるで呻き声のような一言だった。
「俺はずっと見てきたんだ。和彦が自分の家族に会うたびに、ものすごく不安定になって、落ち込んで、人を寄せつけなくなるところを。それが、何日も一緒にいて平気なのかよっ……。年末年始の間だけって言うけど、信用できねーよ。もしかして和彦を閉じ込めて、俺たちのところに帰さないつもりかもしれないし」
「ぼくはここに戻ってくる。――……戻ってきたいと思っている」
 これは偽らざる本心だった。ただひたすらに静かな賢吾の目と、不安に揺れる千尋の目を交互に見つめ、和彦はもう一度、戻ってくる、と告げる。
 昨夜から混乱し続けていた思考が、こうして声に出すことでまとまっていく。俊哉によって逃げ道を塞がれてしまうのなら、数少ない選択肢の中からとにかく選択するしかないのだ。
「お前の意思はともかく、佐伯家がそれを許すか?」
「いざとなれば、ぼくの出生について、佐伯家を脅す」
 ずいっと座卓に身を乗り出してきた賢吾が、鋭い笑みを浮かべる。
「お前が自分の生まれについて告白してくれたとき、こうも言ってたな。自分の父親が、組や俺たち父子に何かしようとするなら、取引の材料にしてくれと。お前が示してくれた誠意だから、当然、オヤジには話していない。知っているのは、俺と千尋だけだ」
「それは、信用している」
「俺は躊躇しないぞ。お前を逃がさないためなら。こう見えて、汚い仕事は得意なんだぜ」
 本気とも冗談とも取れる言葉に、ふっと唇を緩めてから、和彦は首を横に振る。
「――違う。ぼくが、ぼくの実家を脅すんだ。……自分の生活を守るために」


 昼間眠ったせいか、夜になって布団に入っても目が冴えたままだった。和彦は客間の天井を見上げ、何度も自問を繰り返していた。
 今の自分は冷静なのだろうか。自分の選択は間違っていないのだろうかと。
 一か月後に自分が置かれているであろう状況を想像すると、心臓を締め上げられるような不安が押し寄せてくるが、数瞬後にはふっと気が緩む。それはここが、怖い男たちに守られた場所だからだろう。
 これではいけない――。
 和彦はようやく覚悟を決めると、起き上がる。羽織に袖を通してから客間を出ると、足音を抑えて廊下を歩く。もっとも夜更けとはいえ、誰かしら起きているのがこの本宅だ。ちらりと見えたダイニングには電気がついており、人影が動いている。
 詰め所の前を素知らぬ顔をして通り過ぎると、組員たちも心得たもので、和彦に気づかないふりをして声すらかけてこない。夜、和彦が賢吾の部屋を訪ねる意味を、よく理解しているのだ。
 すでに電気が消えている賢吾の部屋の前で軽く呼吸を整えてから、静かに障子を開ける。さらに奥の寝室へと入ると、暗い中、ゾクリとするほど官能的なバリトンが響いた。
「夜這いに来てくれたのか」
 数秒の間を置いて枕元のライトが灯り、室内をぼんやりと照らす。賢吾がのそりと起き上がり、布団の上に座った。手招きされ、和彦も布団の傍らに座る。
「眠れないのか?」
 賢吾の柔らかな声音に胸が詰まった。同時に、確信もしていた。
 賢吾は、和彦があることを切り出すのを待っていたのだ。試されていたとは思わない。自分は信頼されているのだと思うことにする。
「――……夕方、千尋の前では言えなかったことがあるんだ」
「なんだ、夜這いじゃねーのか」
 和彦は小さく笑みをこぼしたが、すぐに表情を引き締める。
 そして、俊哉の手引きによって、里見と会ったことを話し始めた。









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