と束縛と


- 第41話(4) -


 和彦が小さく肩を震わせると、寒がっていると勘違いしたのか賢吾が暖房をつける。実際のところ和彦は、寒いどころか妙に体が熱く、特に頬が火照っていた。夢中で話し続けているうちに、興奮してしまったようだ。
 里見が、和彦を連れ戻すために行動を起こしたと聞いても、賢吾は特に言葉は発しなかった。胡坐をかき、腕組みをしながら、何か思案するように目を伏せていたのだ。
 相槌すらなく、一人話し続ける状況に、和彦の声はときおり不安で揺れ、そのときだけは賢吾がちらりとこちらを見る。その眼差しが軽蔑や怒りの色が浮かんでいたら、居たたまれなさに口を噤んでいたかもしれないが、賢吾の態度はあくまで淡々としていた。
「腹を括った堅気は、厄介だ」
 ようやく賢吾が言葉を発し、数瞬、和彦は反応が遅れる。
「……里見さんのことか?」
「誰が好きこのんで、ヤクザと関わりを持ちたがる。下手をすりゃ、自分の身も危ういっていうのに。かつて世話になった上司に頼まれたとしても、勘弁してくれという話だ。――よっぽど、お前が大事なんだろうな」
 口調は穏やかだが、賢吾の言葉には毒が含まれている。
「里見さんが見ているのは、昔のぼくだ。狭い世界で、甘えられる相手がたった一人しかいなくて、都合よく里見さんを利用していたんだ。あの人にとってぼくは、いつまで経っても放っておけない子供なんだと思う」
「その子供に手を出していたんだから、大したもんだ」
 咄嗟に覚えた反発心は、抑え込むまでもなく消えてしまう。賢吾に対して抱くには筋違いの感情だった。
「でもぼくは、救われていたんだ。……再会して実感した。お互い何もかも変わってしまって、昔のような関係にはなれないし、甘ったれた気持ちは抱けないって」
 こう告げた途端、本当にそうなのかと、和彦は自問していた。しかも自分の声ではなく、俊哉の声で。
 俊哉に、里見との関係を昔から知られていたことも衝撃的だが、同じぐらい、里見が英俊と関係を持っており、そのことすら俊哉は把握しているという事実が、和彦の胸をどす黒く染めていく。
 嫉妬という感情だけではなく、そこに嫌悪や屈辱、怒りという感情も入り混じっており、苦しさに身を捩りたくなる。いっそのことすべてを吐露してしまいたいが、ギリギリのところで踏み止まる。
 これは和彦だけではなく、英俊にとっても個人的な〈事情〉なのだ。そして、兄弟間の〈事情〉でもある。
 重要なのは、里見が俊哉の代理人となったという事実のみだ。
「――……会長は、里見さんのことをなんと言っていたんだ?」
「佐伯俊哉の代理人としてごり押しされて、やむをえず認めたから、一切手出しをするなと。里見という男は、おそらく監視役も任されているはずだとも言っていたな」
「監視役?」
「お前がどんな生活を送っているか、どんな人間に囲まれているか、自分の目で確認する役目ということだ。ある程度、鷹津から話は聞いているだろうが、それでも佐伯家側では、お前は檻に監禁されて、外出もままならないことになっていても不思議じゃない。そう思うのが、むしろ当然だろうしな」
 納得しかけた和彦だが、賢吾の無機質な眼差しに気づく。その眼差しの意味を、十秒ほどかかって察した。
「……今、鷹津って……」
 自覚もないまま鷹津の名を出していたのだろうかと、和彦は激しくうろたえる。すると賢吾がこちらに片手を伸ばしてきた。数時間前に頬を打たれたせいもあり本能的に身を竦める。
 賢吾に、さらりと髪を撫でられた。
「鷹津は、オヤジを脅迫していたそうだな。そのせいで、佐伯俊哉に連絡を取らざるをえなかったと言っていたが、さて、どうだろうな。俺は、総和会の誰よりも鷹津という男を知っている。少し前までなら、金欲しさに何をやらかしても不思議じゃなかったが、今は違う。あいつを動かすのは――」
 ぼくだ、と和彦は呟く。これが自惚れではなかった。賢吾も同じ意見らしく、微かに頷く。
「あいつは本気で、お前に取り憑いた厄病神どもを、どうにかしようとしているのかもな。だから佐伯家に、お前の情報を渡した」
「ぼくは……、鷹津が考えていることはわからない。あんたは、鷹津という男を知っているから、そんなに落ち着いているのか?」
「早いうちから、鷹津が佐伯家に接近する可能性は考えていた。それと、俺たちの把握していないところで、お前と鷹津が密会する可能性も。前々から言っているが、お前は色恋絡みの秘密を抱えると、艶が増す。もっとも最近は、心当たりが多すぎて、相手が誰なのかわかりにくくて仕方がねーんだがな」
 賢吾の読みは鋭く、正しい。
 和彦はやっと、鷹津が姿をくらます寸前に、ホテルの部屋で共に過ごしている最中、俊哉と電話で話したことを打ち明ける。
『お前の父親と手を組むことにした』という鷹津の台詞を口にすると、賢吾はわずかに眉をひそめた。
「……鷹津がオヤジを脅迫したのは、お前の父親の計画だろうな。ヤクザとつるんでいた鷹津なら金欲しさになんでもやりかねないと思わせる一方で、佐伯家側が鷹津を匿っているかもしれないと、オヤジ……というより総和会に少しでも思わせられるなら、儲けもんだ。鷹津は双方にとって厄介者なのか、それとも佐伯家と組んで、総和会を手玉に取ろうとしている使える駒なのか。そして当の佐伯家のほうは、鷹津にどれだけの信頼を寄せているのか――」
 大蛇の潜む両目で問われた気がして、和彦は首を横に振る。
「父さんから、鷹津が今どうしているかも教えられてないんだ。知っていたらぼくはきっと、あんたや会長から隠し通せないだろうって」
「さすがは、父親ということだな。お前のことをよくわかっている」
 今この機会しかないというのに、一度だけ、夜の街中で鷹津の姿を見かけたことは話せなかった。
 あれは都合のいい幻だったのかもしれないし、仮に鷹津があの場にいたのだとしても、会ったわけではない。そう、賢しい言い訳を心の中でしてしまう。
 すがるように賢吾を見つめると、何かを察したのか苦い口調で言われた。
「お前は本当に、性質の悪いオンナだ。関わった男を骨抜きにして、狂わせる。里見も鷹津も、お前に人生を差し出したようなもんだ。三田村がそうしたように」
 責められていると感じて和彦は身を引こうとしたが、それを阻むように賢吾に腕を掴まれる。
「――だが俺は、そんなオンナが愛しくて堪らねーんだ。無茶をして手に入れたんだから、もちろん大事にはするつもりだったが、すぐに箍が弾けた。どうやってお前を、俺から逃げられなくするか、考えるのはそんな物騒なことばかりだ」
「いまさら、ぼくを口説いているのか……?」
「いまさらも何も、俺はいつだって、お前を熱心に口説き続けているだろ。お前が応えてくれないだけで」
 寸前まで、自分たちが何を話し合っていたのか、一瞬わからなくなる。深刻な話をしていたはずなのに、バリトンが艶を含んだ囁きを紡ぎ出し、妖しいうねりが和彦の胸の奥で生まれる。
「……応えて、いるつもりだ」
「ほお。一度でも、好きだ、愛している、と言ってくれたか? あんたに惚れているって言葉でもいいぞ」
 動揺と困惑で、和彦は忙しく視線をさまよわせ、何度も短く声を洩らす。突然、こんなことを言い出した賢吾の真意が掴めなかった。
 ある意味、無様とも言える和彦の姿を何十秒も眺めてから、賢吾はふっと息を吐き出した。
「無断外泊の仕置きは、今夜はこれぐらいにしておいてやる。お前の困る姿をたっぷり拝めたしな」
「今のが、仕置き……」
「なんだ、もっとひどいことを期待していたか?」
「違っ――。あんた、怒っているんじゃないのか」
 和彦がそう洩らした途端、賢吾の両目にスッと冷たい感情が宿る。凍りつくような苛烈な怒りだった。
「怒ってるぜ。お前を言いように振り回す連中にな。あんたもその一人だ、なんて悲しいことは言うなよ。……何より腹が立つのは、俺自身に対してだ。今までのところ、総和会とお前の父親に対して、全部後手に回っている。そのせいで、お前だけが、苦しんで踏ん張っている」
 掴まれたままの腕に、ぐっと指が食い込む。その感触にふいに胸が詰まり、同時に目頭が熱くなる。腕を掴む賢吾の手に、そっと自分の手をかけた。
「あんたに振り回されるのは、嫌じゃない。慣れたというのもあるけど、最近はけっこう、楽しんでいると思う」
「甘いなあ、お前は。そんなことだから、厄介な男たちに振り回されるんだ」
 あまりにしみじみとした賢吾の口調に、堪らず和彦は噴き出してしまう。自然に笑えた自分に驚いたが、一方の賢吾も目を瞠っていた。
「……ああ、よかった。きちんと笑えたな、和彦」
 腕を引っ張られ、促されるまま布団の上へと移動した和彦は、すぐに賢吾に肩を抱き寄せられる。素直に身を預けると、甘美ともいえる安堵感が全身に行き渡る。
 大蛇の化身のような怖い男の側が、今の自分がいるべき場所なのだと、強く痛感していた。この場所から引き離されたとき、一体自分はどうなるのだろうかと想像して、和彦は再び小さく肩を震わせる。
「まだ寒いか?」
 わざわざ耳元に唇を寄せ、賢吾が問いかけてくる。和彦は首を横に振ったが、大きなてのひらが首筋に押し当てられた。
「少し熱っぽいな。風邪でも引きかけてるんだろ。今夜はもう客間に戻って、ゆっくり休め。ああ、その前に、温かいものでも飲むか? 風邪薬も出してきてやる。……っと、先に熱を計るか」
 顔を上げた和彦がじっと見つめると、ふいに言葉を切って賢吾も見つめ返してくる。
 危惧するまでもなく、和彦の気持ちは賢吾に伝わっていた。
「――……熱が上がっても、俺のせいにするなよ」
 そんな言葉のあと、唇を塞がれる。和彦はうっとりと目を細め、口づけに応えていた。
 互いを味わうように唇を吸い、舌先を触れ合わせる。緩やかに舌を絡ませていく最中、和彦は鼻にかかった声を洩らし、そんな自分に気づいて密かに恥じ入る。
 ついさきほどまで、悲壮な覚悟を持って賢吾と相対し、話をしていたのだ。
 いや、話はまだ終わっていない。
「あっ、待って、くれ……。まだ、話すことがある――」
「もう蕩けそうな顔をしてるのに、まともに話せるのか?」
 賢吾の意地の悪い指摘に、ジンと体が疼く。なんとか身を捩ろうとするが、易々と胸元に抱き込まれ、するりと羽織を肩から落とされる。
「賢吾っ……」
「本気で嫌なら、そんな甘い声を出すな」
 賢吾の声が笑いを含む。間近で目が合い、そのまま離せなくなったかと思うと、また唇を塞がれていた。
 性急に唇を吸われ、さらに優しく歯を立てられる。強烈な疼きが背筋を駆け抜け、和彦は形ばかりの抵抗を放棄せざるをえなくなる。体と心が無条件に、この男を受け入れたいと訴えていた。
「……こんなつもりで、部屋に来たんじゃないんだ……」
 熱っぽく唇を吸い合う合間に言い訳のように呟く。
「いいじゃねーか。この間みたいに弱り切って、俺の顔を見て泣き出すより。――本当は、昨夜のうちにお前とこうしたかったがな」
 賢吾の言葉に怖い響きを感じ取り、反射的に体を強張らせた和彦だが、浴衣の合わせに片手を差し込まれ、荒々しく胸元をまさぐられているうちに、自ら賢吾にすり寄る。
 瞬く間に興奮で硬く凝った胸の突起を、抓るように刺激される。和彦は小さく声を洩らして賢吾を見上げ、眼差しに応えて、目元に熱い唇を押し当てられた。
 浴衣の帯を解かれ、腰を抱き寄せられて膝立ちとなる。賢吾に下着を引き下ろされて、じっくりと体を眺められる。その行為の意味を、和彦は痛いほど理解していた。
 抱えられるようにして布団に横たわると、裸に剥かれる。ライトの明かりが照らす中、改めて体を眺め、検分される。
 賢吾の眼差しが痛い。しかし和彦の中で確かに高まるものがあり、じっとりと肌が汗ばんでいく。
「賢吾……」
「そう、緊張するな。お前にひどいことなんてしねーよ」
 そんなことは心配していないが、まさか、という考えが脳裏を過ったのは、罪悪感ゆえだ。
 てのひらがゆっくりと肌に這わされて、和彦は大きく息を吸い込む。覆い被さってきた賢吾の唇が首筋に押し当てられると、熱く濡れた感触に体中の神経がざわついた。
「あっ、あっ」
 柔らかく首筋を吸い上げられ、微かな湿った音が鼓膜を撫でる。舌先に肌をくすぐられて震える吐息をこぼすと、次の瞬間にはきつく吸われたうえに、噛み付かれた。和彦は上擦った声を洩らしながら、賢吾の頭を抱き締める。
 所有される心地よさだった。少なくとも今は、この男から引き離されることはないのだと、強く実感できる。
 だからこれは〈ひどいこと〉ではないと、誰に対してか、和彦はそう心の中で主張していた。
「……少しずつ、痛いのがよくなってきただろ?」
 耳元でひそっと囁きかけてきた賢吾の片手が、下肢に這わされる。和彦の欲望は、緩く身を起こしかけていた。咄嗟に手を押し退けようとしたが、反対に強く握られて腰が震える。
「いやらしいオンナだ」
 ひそっと耳元で囁かれた瞬間、強烈な疼きが背筋を駆け抜けた。
 握られたものを、焦らすようにゆっくりと上下に擦られる。昨夜は別の男の手によって弄られ、精を振り撒いたというのに、また反応してしまう自分に惨めさを覚えるが、一方で安堵もする。賢吾の熱心な愛撫のおかげで、南郷との行為の記憶は急速にすり潰されていく。
 両足を押し広げられ、内腿にもてのひらが這わされる。検分が終わると、すぐに賢吾が顔を埋めて肌に吸いついてくる。
 所有の証のつもりなのか、丹念に鬱血の跡を散らされ、首筋にされたように噛み付かれた。ひっ、と声を上げた和彦だが、じわりと広がる痛みに反応して、掴まれたままの欲望の先端から、とろりと透明なしずくをこぼす。
「んっ……」
 熱い舌が先端にまとわりつき、滲み出るものを舐め取られる。そのまま括れまで口腔に含まれ、唇で締め付けられると、心地よさに鳥肌が立つ。和彦は布団の上で仰け反り、深い吐息をこぼしていた。
 欲望をすっぽりと口腔に呑み込まれると、湿った粘膜に包まれる。和彦は細い声を上げながら腰をくねらせ、賢吾の髪に指を差し込む。意外に手触りのいい髪を掻き乱すと、微かに賢吾の喉が震える。すっかり熟した欲望にそっと歯が当てられて、ゾクリとするような恐怖と快美さに襲われる。
 賢吾の愛撫はいつものように柔らかな膨らみにも及び、腰が砕けるほど執拗に揉みしだかれ、弱みも弄られたあと、口腔でさんざん嬲られた。
「――興奮しきってるな」
 唾液と汗で潤んだ内奥の入り口を指先でくすぐられ、和彦は甘ったるい声を洩らしてひくつかせる。
 昨夜、南郷にも触れられた部分だ。賢吾の目に晒すべきではないと頭ではわかっているのに、腰が痺れて動けない。それどころか、もっと刺激が欲しいとすら思ってしまう。
「賢、吾っ……」
「ああ、わかっている」
 やや強引に内奥に指が挿入されてくるが、痛みはなかった。賢吾は怜悧な表情を浮かべながら内奥で指を蠢かし、襞と粘膜を擦り上げてくる。
 愛撫というより、何かの痕跡を探っているようだと感じたとき、和彦は低く声を洩らし、反り返った欲望の先端から精を滴らせていた。わずかにこぼれた精から、ある程度察することはできたのだろう。賢吾は唇を歪めるようにして笑った。
「……南郷にたっぷり搾り取ってもらったようだな。尻は緩んでないようだが――、あいつの趣味か? お前をさんざんイかせておいて、この具合のいい場所に突っ込みもしないってのは」
 芝居がかった下卑た言葉を聞き、体の熱がわずかに下がった和彦だが、内奥で大胆に指が動かされ、再び熱が上がる。
「今までもそうだが、お前が犯されなかったことに、ほっとする以上に、心底胸糞が悪くなるんだ。妙な謎解きを仕掛けられてるようでな。単なる挑発なら、何様だとどやしつけて、詫びを入れさせりゃ済むことだ。だが南郷は、そんなわかりやすい反応を俺に求めてはいないだろう」
 賢吾の口調が熱を帯び、大蛇の潜む目が炎を孕む。話しながら欲情が高ぶったのか、指が引き抜かれて喘ぐ場所に押し当てられたものは、まさに熱の塊だった。
「ああ――……」
 内奥の入り口をこじ開けられて、和彦は喉を鳴らす。
「いい眺めだ。健気に尻をひくつかせて、イッたばかりだっていうのに、また涎を垂らして……。わかってるか? 俺は怒ってるんだからな」
 口ではそう言いながら、賢吾が慎重に腰を進めてくる。逞しく張り出した部分まで含まされ、異物感に苦しみながら、激しく内奥を収縮させる。
 上擦った声を洩らすと、緩やかな律動が始まり、和彦は上体をくねらせる。媚態を示したような格好となり、賢吾の怒りを煽ったのではないかとちらりと考えたが、与えられる感覚にすでに理性は溶けかけていた。
「あっ、あっ、違っ……。怒ら、ないで、くれ――」
「もう意識が飛んでるのか。俺のを咥え込んでこんなに悦んでるオンナに、怒れるわけがねーだろ。俺は、お前には甘いんだ。底なしにな」
 二度、三度と強く内奥を突き上げられて、賢吾と深く繋がった。
 不思議なもので、身の内に凶暴な熱を受け入れると、賢吾の怒りを恐れながらも、その怒りに振り回され、ズタズタに切り裂かれてもいいという気持ちが湧き起こるのだ。
 その瞬間を想像して、身震いしたくなるような情欲の高まりを覚える。繋がっている賢吾にもそれが伝わったらしく、両目に冷たい光が一閃した。
「今、何を考えた? どの男のことを考えた?」
 ぐうっと内奥深くを抉られ、腰が揺れる。
「あんたの、ことを……」
「本当か?」
「それと――大蛇のことも」
「……お前は、俺よりも、俺の背中にいる奴のほうが、本当は好きなんじゃないか?」
 初心な年頃でもないのに、『好き』という単語に和彦はうろたえ、思いがけず賢吾を喜ばせてしまう。
 浴衣を脱ぎ捨ててのしかかってきた賢吾に唇を貪られ、果敢に内奥を攻め立てられる。堪らず和彦は呻き声を洩らしながら、逞しい腰に両足をしっかりと絡め、広い背にすがりつく。
 ようやく大蛇に触れることを許されたのだ。
「ああっ、賢吾っ、賢吾っ……」
 大蛇の刺青を撫で回しながら、快感の波に意識がさらわれそうになるたびに、きつく爪を立てる。そのたびに賢吾が荒い息を吐き出し、内奥で欲望が力強く脈打つ。
 襞と粘膜を激しく擦り上げられる淫靡な湿った音と、律動のたびに尻と下腹がぶつかる乾いた音が室内に大きく響く。
 余裕のない交わりだった。夢中で互いを貪り合っている、獣じみた行為の最中なのだと強く意識した途端、和彦は絶頂を迎える。
 熱い体の下でのたうっていると、賢吾が容赦なく律動を繰り返し、そして、精を注ぎ込んできた。
 内奥で感じる欲望の脈動と、冷静さをかなぐり捨てた獣じみた低い声に、和彦の意識は一気に舞い上がる。
「はあっ、あっ、あぁっ――」
 ビクッ、ビクッと体を震わせながら細い声を洩らし、熱い体にしがみつく。
 賢吾に欲望を掴まれ、乱暴に扱かれていた。鋭敏になりすぎた体には強い刺激は苦痛ですらあり、和彦は子供のように首を横に振ったが、賢吾は強引だ。和彦は、賢吾の腕に爪を立てたまま達していた。
 やはり今度も、わずかな精を吐き出しただけだった。ただ、体中の力はごっそりと失ったようだ。
「きつかったか?」
 荒い息を吐きながら賢吾に問われたが、和彦は満足に返事もできない。破裂する勢いで心臓が鼓動を打ち、全身の血が目まぐるしく駆け巡っている。息苦しさに目が眩み、浅い呼吸を繰り返す。そのくせ内奥は、離すまいとして賢吾の欲望をきつく締め付けていた。
「――中、まだ痙攣してるぞ」
 ひそっと囁きかけてきた賢吾が緩慢に腰を揺する。硬さと熱さを保っている欲望に濡れた肉を擦られ、掠れた声を上げた和彦は、大蛇の巨体の一部が彫られた肩に歯を立てる。内奥で、賢吾の欲望がビクンと震えた。
 呼吸を整えている間、汗で湿った髪を手荒く掻き乱され、こめかみや頬に何度も唇を押し当てられる。深い情愛が伝わってくる賢吾の行為に応えて、和彦も背の大蛇にてのひらを這わせる。
「そいつばかり可愛がるな。……本気で妬きたくなる」
 あながち冗談とも思えない口調でこぼした賢吾に、食い入るように見つめられる。和彦は純粋な疑問をぶつけた。
「〈これ〉は、あんた自身だろ」
「どうだろうな。ときどき、重いものを背負ってる気になるんだ。こいつを剥がしたら、俺は――善良な人間になるのかもしれねーな」
 その善良な人間は、好きだという美術を仕事にして、世界中を飛び回っていたかもしれない。だとしたら、和彦と出会うこともなかっただろう。
 つい眉をひそめ、賢吾の頬に指先を這わせる。
「あんたの背中にいるものは、あんたそのものだ。だから……、刺青がなかったとしても、今のあんたと違う人間にはならない気がする」
「つまり俺は、どう転んでも善良さとは無縁、と言いたいのか」
「ぼくは、悪い男のあんたしか知らないからな。それを承知で、可愛がってるんだ。この大蛇を」
「……ますます俺を骨抜きにして、どうするつもりだ。和彦」
 ちらりと笑みをこぼした和彦は、賢吾の肩にてのひらを這わせ、次いで唇を押し当てる。さらに大蛇の鱗に舌先を這わせていると、賢吾が微かに喉を鳴らし、内奥で欲望を蠢かした。
 賢吾の分身ともいえる大蛇の刺青に触れることに、まったく抵抗はない。それどころか、体の奥から尽きることなく情欲が溢れてくるぐらいだ。恐れながらも愛しい。怖いと思いながら、自分を庇護してくれる存在として信頼もしている。
 あの男と、あの男が入れている刺青に対して、微塵も抱かなかった感情だ。
 硬い筋肉に覆われた脇腹に張り付いた百足の姿が、ふいに和彦の脳裏に蘇る。
「――賢吾」
 助けを求めるように賢吾を呼んでいた。
 今この瞬間、和彦の中に自分以外の男の存在が居座っていると察したのか、賢吾が剣呑な目つきとなる。和彦は声を潜めて切り出した。
「あんたにもう一つ、言っておくことがある」
「南郷のことか」
 頷くと同時に、内奥に収まったままだった欲望がズルリと引き抜かれた。全身を戦慄かせながら和彦は、自分の右脇腹に片手を押し当てる。
「……大きな百足がいたんだ。この辺りに」
「それで」
「黒い体に、頭と足が赤くて、今にも動き出しそうだった。……ゾッとするほど気味が悪かった」
「惹かれたんじゃねーか?」
 すぐには和彦は、その問いかけの意味が理解できなかった。瞬きもせず見上げる先で、賢吾の顔から表情が消える。
「お前は、刺青に弱い。それを入れている男にも。絆されて体を許して、次に許すのは――」
「怖かったんだっ」
 和彦は悲鳴に近い声を上げる。
 昨夜、南郷が言っていた言葉がどれだけの不穏さを含んでいるのか、改めて実感していた。蛇だろうが油断すれば、百足は餌にすると、あの男は言っていた。賢吾に対して含むところがあると、露骨に仄めかしたのだ。
 南郷は、賢吾を恐れていない。だからこそ和彦は、南郷を恐れる。百足の刺青が、見た目の不気味さだけではなく、不穏さを感じさせる存在として、心に刻み込まれてしまったのだ。そんなものに惹かれるはずがない。
 怖かったんだと、今度は消えそうな声で呟くと、優しく唇を啄ばまれる。和彦はおずおずと口づけに応え、すぐにそれは激しいものとなっていた。
 精を溢れさせる内奥の入り口に、再び硬く熱いものを押し当てられて小さく鳴く。開いたまま喘ぐ肉の洞は、従順に欲望を呑み込み、滑る粘膜と襞をまとわりつかせながら吸いつく。
「あっ……うぅ、はあっ、はっ……、んうっ」
 腰を揺すって攻め立てられ、内奥深くで暴れる熱を堪能する。我ながら浅ましいと思うが、寸前に『怖かった』と訴えた口から、悦びの声を溢れさせていた。
 賢吾の側から離れたくなかった。そのせいで大蛇に絞め殺される事態になっても、おそらく自分は恨みはしないだろうと、漠然とした想いが和彦にはあった。信頼という感情だけでは、こうはならない。
 この想いの根底にあるのは――。
 上体を捩って乱れ始めた和彦に対して、賢吾はもう何も言ってはこなかった。ただ、献身的といえるほど、快楽を与え続けてくれた。




 コートを着込み、首にマフラーを巻いた和彦の姿をじっくりと眺めて、賢吾はわずかに口元を緩める。
「手袋はどうした?」
 和彦は軽くため息をつくと、コートの両ポケットをポンッと叩いて見せる。ここ数日、出勤する和彦をわざわざ玄関まで見送りにきては、それこそ子供の身支度を気にする母親のように、持ち物を確認してくるのだ。
 気を利かせて、アタッシェケースを抱えた組員が先に玄関を出る。それを待って和彦は、気恥かしさを押し隠しつつ、ぼそぼそと告げる。
「……心配してくれているのはわかるけど、車での移動なんだから、あまり厚着する必要はないと思う」
「病み上がりのくせに、何を言ってる。それに、昼メシを食いにクリニックの外に出ることもあるだろ。俺としては、毛糸の帽子も被せたいところを、ぐっと我慢してるんだぞ」
 毛糸の帽子は勘弁してくれと、心の中で呟いておく。
 病み上がりと言っても、微熱よりやや高めの熱が出たぐらいで寝込むほどでもなく、週明けにはすっかり元気になったのだ。しかし、和彦を構いたくて堪らない長嶺父子には絶好の理由となってしまい、週の半ばになっても本宅に滞在している状況だ。
「十二月に入ったばかりなのに、さすがに大げさだ。寒くなるのは、これからなのに」
「いくらちやほやしても足りないんだから、仕方ねーな」
 朝からこんな台詞を聞かされて、どんな顔をすればいいのかと、和彦は唇を引き結び、自分の頬を手荒く撫でる。
 自惚れではなく長嶺の男が自分に対して過保護なのはいつものことだが、今回は少し様子が違う。
 賢吾は慎重に、和彦の様子を探っている。そこには、俊哉と会ったことで和彦が精神的に不安定になっているのではないかという、純粋な気遣いもあるだろう。しかし、それだけではない。
 百足の毒は、和彦を介して、大蛇の心をざわつかせているようだった。
 百足を身に宿らせている男に対して、賢吾がどう対応しているのか、和彦は一切何も聞かされていない。自分のオンナを無断で連れ去ってしまった行為への処罰を求めているのか、それ以前に、冷静に話し合う場を設けたのか、それすらも。
 唯一把握できているのは、賢吾が二日続けて総和会本部に足を運んだということだ。組員同士が、そんな会話を交わしていた。
 一体なんのために――。そう問いかける眼差しを何度も向け、聡い男が気づかないはずもないのだが、見事に躱されている。今もそうだ。
 賢吾は微苦笑を浮かべ、柔らかな声音で言った。
「俺と離れ難いのはわかるが、そろそろ出る時間じゃないのか」
「呼び止めたのはあんただろ。まったく、千尋といい……」
「そういやあいつ、今朝は静かだな」
「……まだゴロゴロしている。ぼくが寝ていた布団で」
 ほお、と声を洩らした賢吾が、意味ありげに片方の眉を動かす。和彦は慌てて付け加えた。
「千尋が夜、勝手に潜り込んできたから、湯たんぽ代わりにしただけだからなっ。――もう行く」
 逃げるように玄関を出ようとすると、背後から賢吾に言われた。
「笠野が、今晩は鍋にすると言っていたから、寄り道せずに帰ってこい」
「――……うどんが入っているのがいい」
「伝えておく」
 賢吾から何を言われるかと身構える一方で、こんな他愛ない会話で和彦の心は容易く浮き立つ。現金なものだとひっそりと失笑しつつ、和彦は今度こそ玄関を出た。


 十二月になるのを待ちかねていたように、クリニックのあちこちにはクリスマスに向けた準備が行われていた。十一月のうちにスタッフたちが自主的に企画していたもので、和彦は許可を出すと同時に、買い出し用の経費も渡しておいたのだ。
 受付カウンターやテーブルの上に置かれていた小物はクリスマス仕様のものに置き換えられ、今朝はとうとう、クリスマスツリーが待合室に設置された。スタッフが、実家に仕舞い込まれていたというものを持ってきてくれたのだ。
 遅めの昼食から戻ってきた和彦は、手袋をコートのポケットに入れながら待合室を通り抜けようとして、ふと気が変わった。
 パーツを組み立てただけのまだ味気ないクリスマスツリーの前に立つ。きらびやかなオーナメントや電飾はまだないが、それでもなかなかの存在感だ。これから数日ほどかけて飾り付けを行うということで、自分でも意外なほど楽しみにしていた。
「あっ」
 和彦は思わず声を洩らす。自宅マンションに仕舞ってある、昨年購入したクリスマスツリーを思い出した。
 一人いそいそと飾り付けをしている最中に賢吾がやってきて、その後、自分たちがどんな行為に耽ったのか、艶めかしい記憶も蘇り、わずかに頬が熱くなる。
 今年は、クリスマスで浮かれている場合ではないだろう。年末が近づくにつれ、ひどい憂鬱に苛まれる自身の姿が想像できた。いや、そもそも昨年も、今ぐらいの時期に和彦は塞ぎ込んでいた。しかも理由は、やはり実家絡みだった。
 仮眠室に入ると、コートをハンガーに掛けてからベッドに腰掛ける。週末の数々の出来事があまりに強烈すぎて、かえって現実感を奪っていく。本当に、夢でも見ていたような感覚なのだ。
 いつものように長嶺の本宅で、長嶺の男たちに過保護にされていることだけが現実で、それ以外のことは〈悪い〉夢で――。
 和彦はハッとして、慌てて立ち上がる。アタッシェケースに入れたままの携帯電話を取り出した。本来は、里見との連絡用として渡されたものだが、今では実家との連絡用となっている携帯電話だ。
 本宅で過ごしている今は、長嶺父子に対する遠慮のような気持ちがあり、電源を切ったままにしていた。
 決して里見の存在を忘れていたわけではない。ただ心のどこかで、今の生活を掻き乱す者として、考えることを避けていたかもしれない。
 携帯電話の電源を入れると、案の定、里見から何通ものメールが届いていた。和彦を気遣う文面からは、昔からよく知る里見の優しさが滲み出ている。
 その優しさが、怖くもあった。和彦に優しい情愛を注ぎ続けてくれる男(ひと)は、一方で、ひどく残酷な行為にも及んでいるのだ。よりにもよって、和彦とよく似た面立ちの、兄の英俊に対して。
 最新のメールは、今朝届いたものだった。目を通した和彦は激しく動揺し、後先考えないまま里見に電話をかける。すぐに呼出し音が途切れ、柔らかな声が応じた。
『――やっと連絡をくれた』
 咄嗟に言葉が出なかった。自分でも信じがたかったが、一瞬和彦の鼓膜を撫でたのは、紛うことなき嫌悪感だった。反射的に携帯電話を自分の耳から引き剥がすと、電話の向こうから和彦を呼ぶ微かな声がする。慌てて携帯電話を耳に当て直した。
「ごめん、里見さん……。今、仕事中だよね」
『かまわないよ。だけどちょっと待って。場所を移動するから』
 数十秒の間を置いてから、会話を再開する。
『今朝のメールを見て、連絡をくれたんだよね』
「ごめん……。金曜日からずっとバタバタしていて、今やっと携帯の電源を入れたんだ。そうしたら……。本気、なの?」
『本気だよ。今晩、君のクリニックまで迎えに行くから、一緒に夕食をとろう』
「ダメだよっ。ここに近づくなんて、何考えてるんだっ」
 反射的に声を荒らげた和彦に対して、ゾッとするほど穏やかな口調で里見が問いかけてくる。
『君がそんなに怒るのは、〈おれ〉の身を心配してくれているからかな。それとも、自分の生活を掻き乱されることを恐れているから?』
 自分の中でそのどちらに比重が傾いているか、見透かされた気がした。
「……里見さん、怖い人になったみたいだ」
『先週、おれが言ったことは本気だ。君をこちら側に連れ戻すために、おれはできることをする。必要とあれば君の今の生活にも介入していくよ。なんといってもおれは、君のお父さんの代理人だ。職場を見てみたいという希望を、そちら側は否とは言えないだろう』
 クリニックが終わった頃に迎えに行くと里見に念を押され、電話を終える。呆然としたのはわずかな間だった。今の自分にはそんな余裕すらないことに気づき、動揺しつつ懸命に思考を巡らせる。
 夕方、もしこのクリニックに里見が訪れ、和彦を食事に誘い出したとして、外には長嶺組の組員が待機している。賢吾の命令を忠実に守り、和彦の護衛を務めている男たちが、里見を見逃すはずがなかった。里見は、和彦が囚われの身だと認識しており、衝突しないはずがない。
 今日だけは、護衛を外してもらうべきかと考え、次の瞬間には打ち消す。
 和彦の中に、里見と二人きりで会うという選択肢はまったくなかった。
 もう一度里見に連絡を取るのは無駄だと即座に判断を下し、和彦は迷うことなく賢吾の携帯電話を鳴らす。しかし、こんなときに限って繋がらない。そこで今度は、本宅の電話にかけてみる。電話番の組員に賢吾への取り次ぎを頼むが、今は出かけており、電話にも出られないのだという。
 もどかしげな和彦の空気を感じたのか、組員がある提案をしてくる。それを聞いて自分が安堵感を抱いたことに、和彦は率直に驚いた。
 頼む、と返事をすると、すぐに内線を回された。
『どうかした? せんせ――和彦から電話してくるなんて珍しいね。しかも、こんな時間に』
 律儀に名を呼び直す千尋に、つい唇を緩めそうになった和彦だが、すぐに用件を切り出す。
「たった今、里見さんと電話で話したんだ」
 へえ、と洩れた千尋の声は、すでに怖い響きを帯びていた。和彦は努めて冷静に、そして簡潔に、電話の内容を伝える。
「もちろん、行くつもりはないけど、組員と鉢合わせになったら大変じゃないかと思って。ぼくだけならなんとかなるけど、もし、騒ぎになって警察でも呼ばれたら……」
『本当に、和彦だけでなんとかなると思う?』
「それは……、なんとかするつもりだ」
 千尋から返ってきたのはため息だった。
『里見は厄介な存在かもしれないとオヤジが言ってたけど、クリニックにまで乗り込んでくるつもりなんだったら、俺も同意見だね。和彦が押しに弱いのをいいことに、連れ出すつもりだよ。わざわざ事前に連絡してきたということは、長嶺組や総和会が出てきても引くつもりはない、って言いたいのかも』
「……お前、落ち着いてるな」
『一瞬、頭に血がのぼったけど、和彦の不安そうな声を聞いたら、俺がしっかりしないと。――大丈夫。夕方までにはオヤジと連絡が取れるだろうし、もし話せなかったとしても、こっちで最善の手を考えるよ。和彦は、自分の心配だけしてて。騒ぎになるようなことにはしないから』
 まるで賢吾と話しているようで、このときばかりは千尋との十歳の年の差を忘れてしまう。だからこそ甘えたわけではないが、和彦は吐露する必要のないことまで口にしていた。
「こんなことを言えた義理じゃないけど、大事にはしないでくれ。その……、里見さんが危ない目に遭うような……」
『今言っただろ。自分の心配だけして、って。大丈夫。うちには、わかりやすい挑発に乗るような奴はいないから。とにかく和彦は、いつも通り仕事をしていればいいから』
 無神経なことを言ってしまったと後悔を噛み締めながら、うん、と応じる。
 和彦は電話を切ると、その場にうずくまりたい衝動に駆られたが、残念ながらもう昼休みは終わりだ。携帯電話をアタッシェケースに放り込むと、足を引きずるようにして仮眠室を出た。


 スタッフたちが帰ったあと、いつも以上に念入りにクリニックを見て回ってから、のろのろと帰り仕度をしていると、インターフォンが鳴った。
 和彦は応対せず、マフラーを首に巻く。すると、廊下を歩く足音が近づいてきて、待合室に里見が姿を見せた。何事もなかったような穏やかな微笑みを向けられ、なぜかゾッとしてしまう。里見が、見知らぬ男のように感じられた。
「――ここが、君の職場か」
 里見がゆっくりと辺りを見回す。和彦は、ソファに置いたアタッシェケースを取り上げると、里見を待合室から押し出そうとする。
「里見さん、もう閉めるから、外に出よう」
「君以外誰もいないなら、少し中を見てみたいな」
「困るっ」
「困る? どうして、きれいなクリニックじゃないか」
「ここは……、ぼくのものじゃないから、勝手なことはできない。それに、見たこと全部父さんに報告するんだろう。里見さん」
 里見は返事をせず、少し困ったような顔をした。和彦の頑なさに気づいたのかもしれない。
「……じゃあ、食事に行こうか。何か食べたいものが――」
「食事には行けない。これから帰るんだ。待ってる人がいるし」
「帰したくないな。君を〈オンナ〉にしている連中のところになんて」
 さりげなく里見の手が肩にかかり、和彦は咄嗟に払い退ける。本当は告げるつもりはなかったのだが、一瞬見せた里見の傷ついたような表情に、むしょうに腹が立った。
「関わってほしくないとぼくが何回言っても、里見さんは聞いてくれないだろうね。ぼくが、悪い男たちに騙されて、脅されて、身動きが取れなくなっていると思って……、そう信じたいんだろうから」
「実際、そうだろう」
「――……ぼくはもう、里見さんと会いたくないんだ。あなたは、昔のあなたじゃない。ぼくを特別扱いして、優しく守ってくれた、あの頃の里見さんじゃ……」
 和彦の物言いから察するものがあったのか、里見がため息交じりに呟いた。
「君に関することだけは、おれは昔から変わってないよ。君だけが特別で、大事だ」
「だから、ぼくと似ている兄さんと、寝ている?」
「君は嫌がる言い方かもしれないが、割り切った関係だ。……お互い、利用し合っている。おれは、物分かりのいい大人を続けるために、君の面影にすがりつきたかった。英俊くんは、リスクの少ない相手と息抜きをしたかったというのもあるだろうが、多分、君に対する優越感を得たかったんだろう」
「優越感……?」
「自惚れを承知で言うなら、弟の大事なものを奪った、と英俊くんは思っているはずだ」
 足元がふらついた和彦は、壁にもたれかかる。里見はさりげなく腕を差し出してきたが、すがりつくようなことはしなかった。
 思い返すのは、実家で暮らしていた頃、たびたび訪れていた里見に対する英俊の態度だ。いつも一定の距離を取り、特に関心を示すわけでもなく、素っ気ないとすら言える態度だった。あの頃すでに、英俊の中では特別な感情――里見と体を重ねてもいいと思えるものが芽生えていたのかもしれない。それとも、衝動的な感情の結果なのか。
 あれこれと思案するには、和彦はあまりに英俊という人間を知らない。一緒に暮らしながら和彦と英俊は、互いを理解しようとする以前に、知ろうとはしなかった。
「……ぼくには、わからない。里見さんの気持ちも、兄さんの気持ちも……」
「だったらおれは、君の気持ちがわからない。救いの手が差し伸べられているのに、どうして危険な環境から逃げ出そうとしないのか。君は頭がいい。いくら大事に扱われたところで、それは君を利用するためだと冷静に判断できているはずだ。こんなクリニック惜しさに、今の生活が手放せないなんて思ってもいないだろう」
 里見の言葉に、ここで積み上げてきた生活や苦労を否定されたようで、不快さがじわりと胸に広がる。この感覚がさらに強くなった先にあるのは、おそらく敵意だ。
 里見にそんな感情を抱きたくなくて、和彦はなんとか表情を取り繕う。
「もうここを閉めるから、とにかく外に出よう。……食事はできない。迎えの車を待たせてあるんだ」
「それらしい車は停まってなかったけど。おれが警察を引き連れてくるとでも思って、警戒されたかな」
 里見は、自分が堅気であるという強みをよく理解している。もちろん、こちら側の弱みも。
「……今日は、タクシーで帰る。遅くなると、心配させるから……」
「食事が無理なら、せめてお茶でも飲もう。もう少し君と話したい。英俊くんとのことも説明したい」
「説明されたところで、困る。ぼくには関係ないし」
「本当にそう思っている?」
 その言い方は卑怯だと、激した和彦は里見に食ってかかろうとしたが、言葉が出てこない。里見の発言によって、いいように感情を掻き乱され、そんな自分に何より腹が立つ。
 里見の胸に抱き込まれそうになったが、寸前のところで拒み、軽く揉み合っていた。その拍子にアタッシェケースが足元に落ちる。
「里見さんっ」
 和彦が鋭い声を発しても、里見の腕の力は緩むどころか、ますます強くなる。本能的な怯えから、身が竦みそうだった。
 里見を拒んだ瞬間、過去の思い出すらも壊れてなくなってしまいそうで、それが和彦に本気の抵抗をためらわせる。しかし、昔のように抱き締められたくないという気持ちもある。
 この腕は、もう自分のものではないのだ。
「里見さん、離してっ――」
 前触れもなく、待合室に黒い影が飛び込んできた。
 何事かと思ったときには、絡み付いていた里見の腕が引き剥がされ、黒い影が壁となって目の前に立ちはだかる。
 地味な色のスーツに包まれた広い背は、見覚えがあるどころではなく、和彦にとって馴染み深いものだった。
「三田村……」
 どうしてここにいるのかと、まず和彦は困惑する。しかし疑問を口にする間もなく、三田村と里見は対峙する格好となっていた。
「――君は?」
 短い問いかけが里見から発せられたものだと、すぐには和彦はわからなかった。それほど冷淡な声だったからだ。応じたのは、ハスキーな声だった。
「誰でもいい。……先生を迎えに来た」
「ということは、長嶺組の組員かな」
「そうだと言ったら」
 三田村の口調は落ち着いてはいるが、突き刺すような殺気に満ちている。里見は怯むどころか、口元に皮肉げな笑みを浮かべた。
「君の人生をめちゃくちゃにした組織の人間に、会ってみたかった。どんなふうに悪びれていないのか、自分の目で確認したかったんだ。……ああ、なるほど。本当に、悪いことをしていると思っていないんだな」
 三田村は反論しない。和彦も、ある部分で里見の発言の正しさを認める。
「……やめて、里見さん。そのことはもういいんだ」
「よくないよ」
「いいんだっ。めちゃくちゃにされたのは、ぼくの人生だ。でも、新しい人生を見つけた」
「囲われ者の人生かい?」
 全身の血が沸騰したようだった。顔色を変えた和彦を見て、里見はハッとしたように唇を引き結ぶ。すまない、と小さな声が言った。
「だけどこれが、君の今の生活ぶりを聞いて、大半の人が抱く感想だと知ってほしい。おれは君に、胸を張って生きてほしいだけだ」
「父さんや兄さんみたいに?」
 和彦は、自分を守る壁と化している三田村の隣に立ち、そっと視線を向ける。誠実で優しい男は無表情ではあるものの、わずかな苦悩の翳りがあった。里見の言葉に動揺したのは、和彦よりも三田村なのかもしれない。
 そこで、この場で里見に告げておくべきことを思い出した。
「――この人は、ぼくのたった一人の〈オトコ〉だ。悪びれる必要なんてない。ぼくがそう望んで、この人は叶えてくれている」
 和彦は自分の胸にてのひらを当て、じっと里見の目を見据える。
「里見さんは、十代の頃のぼくじゃなく、今のぼくを見るべきだ。見たくないなら――もうぼくに関わるべきじゃないよ」
 里見は何か言いかけて、結局口を閉じた。そして、厳しい表情で待合室を出て行く。
 少しの間を置いて和彦は肩から力を抜くと、隣の三田村にもたれかかる。力強い腕に体を支えられた。
「先生、大丈夫か?」
 気遣いの言葉に応じるより先に、三田村を睨み付けていた。
「どうして、あんたが来たんだ。もしかすると警察と接触していたかもしれないのに……。迎えの車が停まってなかったみたいだと聞いて、少しほっとしてたんだ。それなのに――。組長から、行くように言われたのか?」
「先生を一人にしておけるはずがないだろう。車は、このビルから少し離れた場所に停めさせている。俺が来たのは、千尋さんに言われたからだ」
「千尋?」
「面倒な事態になっている先生を迎えに行ってほしいと。千尋さんは千尋さんで、組長から何か言われていたのかもしれないが」
 迎えに寄越すなら、三田村でなくてもよかったはずだ。それなのに千尋があえて、三田村に言ったということは、目的があったはずだ。三田村でなければならない〈何か〉が。
 ここで三田村に肩を抱かれて、和彦は我に返る。
「先生、帰ろう。俺の携帯に連絡が入らないということは、この辺りに怪しい人も車も見当たらないみたいだ」
「うん……」
 アタッシェケースを拾い上げた三田村に促され、クリニックを出る。
 エレベーターを待っていると、三田村が口元に微笑を浮かべた。和彦の視線に気づいて、三田村が慌てて表情を取り繕う。
「すまない。笑える状況じゃないのに」
「それはいいけど……、何がおかしかったんだ」
「おかしかったんじゃない。ただ、嬉しいんだ。先生が俺を、オトコと言ってくれたことが。里見という男は、先生にとって特別な存在なんだろう? そんな男に向けて、言ってくれた」
 和彦は漠然とながら、迎えに来るのが三田村でなければならなかった理由が、わかった気がした。
 三田村は、和彦を裏の世界に留めておくための鎖だ。表の世界に連れ戻そうとする里見と対峙させ、和彦にはっきりと選ばせたかったのだろう。千尋は――というより、長嶺の男は。
 もし三田村の身に何かあったらどうするつもりだったのかと、エレベーターに乗り込みながら怒りが込み上げてきたが、一方で、冷静な判断だったのだと納得もしている。
 千尋は、賢吾に相談したのかもしれないが、もし独断だったとしたら、末恐ろしい、という一言が和彦の頭に浮かんだ。









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