と束縛と


- 第42話(1) -


 クリニックに運び込まれたクリスマスツリーは昨日無事に飾り付けが終わり、業務中、ライトがまばゆく点滅していた。
 まだ気が早いのではないかと、内心思わなくもなかった和彦だが、余計なことを口にしなくてよかったようだ。
 クリニックだけではなく、十二月に入ってから街の景色は慌ただしく様変わりをしている。クリスマスカラーがあちこちの建物を彩り始めているのだ。
 本来なら心が浮き立つものがあるのだろうが、あいにくと和彦は、年末を憂いてため息をついている状況だ。それは、移動の車中から、土曜日の昼下がりの街を眺めていても変わらない。
 クリスマスなどやってこなければいいと、八つ当たりにも似た心境で思ったりもするのだが、通りを行き交う仲睦ましげな家族や若い男女の姿を見てしまうと、罪悪感に駆られる。
 今からこんな状態では、我ながら先が思いやられると眉をひそめた和彦だが、とにかく気分が晴れないのだから仕方ない。つい、重苦しいため息をついてしまい、助手席に座る組員から気遣うような視線を向けられる。
「……先生、気分が悪いようでしたら、引き返しましょうか?」
 大丈夫だと、和彦は首を横に振る。
「なんでもないんだ。……組長に、余計な報告はしないでくれよ」
「承知しています」
 どうだか、と心の中で呟きはしたものの、あえて念を押したりはしない。
 今日の和彦は、昼までごろごろと本宅で過ごしていたのだが、せっかくだから外の空気でも吸ってこいと、賢吾によって追い出された。もちろん、和彦を邪険に扱ってのことではなく、塞ぎ込みがちなのを慮ってのことだとよくわかっている。
 自分は同行しないくせに賢吾なりにどうやら計画を立てているようで、和彦は行き先も告げられないまま、ただ車に乗っている。組員が気にしているのは、和彦の体調よりも、機嫌のほうかもしれない。
 別に怒ってもいないし、ヘソも曲げてはいないのだと、和彦は今度はそっと息を吐き出す。賢吾に言われるまま着込んできたダウンジャケットが、車内の暖房がよく効いているせいもあり、少し暑い。マフラーを巻いた首元は汗ばみつつある。
「ああ、あそこです」
 組員に言われて前方に視線を向けた和彦は、到着したのが予想外な場所であったため、目を丸くする。
 車は広大な駐車場へと入り、何かを探すように少しの間走り回っていたが、ようやくあるスペースに駐車する。他にいくらでも空いたスペースがあるというのに、大きなワゴン車と、シルバーの高級車の間に。
 エンジンが切られると、それを待っていたかのように、シルバーの車の後部座席から人が降り立つ。その様子を何げなく見ていた和彦は次の瞬間、声を洩らした。
 車から降りたばかりの人物が身を屈めるようにして、こちらの車内を覗き込んでくる。色素の薄い瞳と目が合い、ハッとした和彦は慌ててシートベルトを外し、車を降りる。
「――悪いね。せっかく仕事が休みなのに、呼び出して」
 総和会第一遊撃隊隊長である御堂から穏やかな声で話しかけられ、反射的に首を横に振る。
「いえ、どうせ予定はなかったので……。えっ、ということは、これから御堂さんと……?」
「おや、その口ぶりだと、賢吾から何も聞かされてないようだね」
 冬の陽光を受けて、灰色がかった髪が淡く輝く。その髪が彩るのは、息を呑むほど秀麗な容貌だ。
 突如現れた御堂に、一体何事だろうかと身構えはしたものの、それもわずかな間だった。御堂の格好が、あまりに普段と違っているためだ。白のカットソーの上から、丈がやや長めのステンカラーコートを羽織っており、首元にはチェック柄のマフラーが巻かれている。この人でもカジュアルな格好をすることがあるのだと、和彦はそんなことを考えてしまう。
 カジュアルという点では御堂と一致している自分の格好を見下ろしてから、和彦は口元を緩める。それに気づいた御堂も表情を綻ばせた。
 歩きながら話そうと言われ、御堂と並んで歩き出す。当然、背後からは護衛の男たちもついてくる。和彦だけではなく、御堂にも第一遊撃隊の護衛がついているため、なかなか迫力のある一団だ。
 彼らはいつもと変わらずダークグレーのスーツなのだなと、和彦はちらちらと背後を振り返る。このとき、あることに気づき、思わず御堂に尋ねていた。
「二神さんはいないんですか?」
「ここのところ忙しいから、今日は休めと言ったんだ。そして、口うるさい男がいない間に、わたしは趣味の買い物というわけだ」
 御堂が指さした先には、ホームセンターの巨大な店舗がある。まさかと思っていたが、やはりここに用があるらしい。
 困惑する和彦にかまわず、御堂は慣れた様子で大きなカートを押してくると、こちらに手招きをして歩き始める。和彦としてはおとなしくついていくしかない。
「昨夜、賢吾にちょっと用があって電話したとき、ポロッと洩らしたんだよ。買い物に出かけると。そうしたら、うちの先生は買い物好きで、いい気晴らしになるかもしれないから同行させていいかと言われたんだ。……普段は抜け目ない男なのに、こっちが何を買いに行くかも聞かずにそんなこと言い出したものだから、おかしくてね。嫌とは言えないよ」
「……すみません」
「わたしとしては、うちの隊員以外の同行者は嬉しいけど、むしろ、君にとっては退屈な時間になるかもしれない。まあ、覚悟しておいてくれ」
「それは大丈夫です。ホームセンターに来ることなんてないので、商品を眺めているだけでも楽しそうで」
「わたしは、最近は足が遠ざかっていたんだけど、部屋に一人でいるとなんだか手持ち無沙汰で。それで、また始めてみようと思ったんだ」
 軽やかにカートを走らせて向かった先は、出入り口横に設けられた園芸コーナーだった。変わった形のプランターに和彦が気を取られている間にも、御堂はどんどん先を歩いていき、慌てて追いかける。
 ようやく足が止まったのは、たくさんの花苗や鉢が並んだ一画だった。
「前に住んでいた家に庭がついていたから、暇つぶしと体力作りのつもりであれこれ花を育ててたんだ。今はマンション暮らしになったけど、ベランダが広くて殺風景なのが気になってね。それで――」
 そう説明しながら、御堂はじっくりと花苗を眺めている。和彦は、そんな御堂の横顔を眺めていたが、ふと気になって振り返ると、さすがにこんな場所では目立つと考えたらしく、少し離れた場所に護衛が二人だけ立っていた。
「ずいぶん物々しいと思ったかもしれないけど、護衛というより、荷物持ちのために連れてきたようなものだよ。苗だけじゃなく、土も肥料も、大きな鉢も買って帰るつもりだからね、今日は」
「……花を育てるための準備って大変なんですね。ぼくはせいぜい、人に世話してもらっている鉢に、水をやっているぐらいで」
「わたしも似たレベルだったよ、最初は。植えてすぐに枯らせていた。花が可哀想だからやめようと思ったんだけど、なんだかムキになってしまって」
「花が好きなんですね」
 まあね、と御堂が曖昧に頭を動かす。
「難しいと思いながらも、人間を相手にするよりは気楽だよ。花は、あれこれ企まない」
「御堂さんがそういうことを言うと、重みがあるというか……」
「そういう境地にまだ至ってないということは、君は本当に見かけによらず豪胆だ」
 二神にも同じことを言われたなと、笑みをこぼしかけた和彦だが、すぐに顔を強張らせる。今の自分が置かれた状況を思い出し、キリッと胃が痛んだ。意味ありげな視線を寄越してきた御堂が、ビオラとパンジーの苗をカートに載せる。これぐらいポピュラーな花なら、札を見なくても名は知っている。
 ガーベラを選びながら御堂が、さりげなく切り出してきた。
「賢吾が、君に気晴らしをさせたかった理由に、南郷は関係あるのかい?」
 ここにいると、外の寒さを忘れそうだと、ぼんやりと考えていた和彦は、御堂の問いかけに即座に反応できなかった。ゆっくりと目を瞬き、御堂を見つめる。寸前まで、瞳に柔和な光を湛えていた人は、今はゾクリとするほど怜悧な表情となっていた。
「わたしが、君に余計なことを吹き込むか、あるいはあれこれ聞き出すはずだと、賢吾ならわかっているはずだ。それでも、こうやって君を預けたんだ。わたしなら情報の取捨選択をしてくれると、信頼されていると思っておこうか」
「……余計なことを吹き込むって、何か、あるんですか?」
 無意識に喉を鳴らした和彦は、数瞬だけ躊躇してから、こう問わずにはいられなかった。御堂から注ぎ込まれる毒は、痺れるようによく効くと知りながら。
「総和会の中で、なかなか興味深い噂が流れ始めているんだ。曰く、長嶺会長と長嶺組長の間に、不穏な空気が流れつつある。長嶺会長の南郷の重用ぶりが、長嶺組長はおもしろくないんだろう、と」
「そんなっ……」
「賢吾が、総和会と一定の距離を置いているのは今に始まったことじゃないし、長嶺会長の南郷の重用ぶりも同じだ。それがどうして、いまさらこんな噂が流れるのかと思って探ってみたら――」
 新たにガーベラをカートに載せ、御堂が歩き出す。
「珍しく賢吾が、ここ数日、本部に毎日顔を出していると聞いた。そして、幹部会にある要求をしているとも」
「要求?」
「問題を起こした南郷に対して、処罰を求めているそうだ。幹部会がその求めに応じると、総和会の中だけじゃなく、総和会に名を連ねるすべての組に対して、回状という形で通知が出されるんだ。与えられる罰は軽くても構わない。ただそのことが、組織中に知らされるわけだ。誰が求め、誰に対して処罰が下されたかを。南郷の起こした〈問題〉が何かまでは知らないが、賢吾は内々の謝罪で済ませるつもりはないんだろう」
 賢吾が、総和会本部に顔を出していたことは知っていたが、その理由を聞かされて、和彦は動揺する。もちろん賢吾は、そんなことは一言も言っていなかった。
「賢吾がそこまでするとなったら、理由は限られてくると思わないかい?」
「……半分、正解です」
 残念、と呟いた御堂は、このときにはもう眼差しを和らげ、次の花苗を物色している。和彦は控えめに尋ねた。
「それで、どうなるんでしょう?」
「どう? ……そうだね。多分、賢吾の要求は通らない。なんとなくだが、長嶺会長は南郷の名に傷をつけたくないんだと思う。回状を出されるぐらいなら、むしろ南郷に指を落とさせるほうを選ぶだろうね」
「それで、落とした指をぼくが縫合するんですか……」
 口にして、笑えない冗談だなと嘆息する。一方の御堂は、ニヤリと鋭い笑みを浮かべた。
「容易なことでは総和会という大樹は揺れない。わたしとしては、いろいろと波乱を期待しているんだが、忌々しいほど長嶺会長の下で組織は盤石だ。わたしというささやかな毒を平然と呑み込む程度には。それでも、足掻きたくなるんだ。わたしも、賢吾も。それ以外の一部の人間も」
 ほろ苦さを感じたような口調でそう言った御堂だが、すぐに何事もなかったように、十二月らしい植物ともいえるシクラメンの鉢へと歩み寄る。
「気分転換をしてもらうつもりだったのに、物騒な話をして暗い顔をさせてしまったね」
「いえ、いいんです。気になっていたことですし。南郷さんのこともですけど、それと同じぐらい憂鬱なことがあって……。これだけは、賢吾さんだけじゃなく、誰にも任せることができないんです。自分のことで、迷惑をかけたくない――」
 最後の言葉は心の中で呟いたつもりが、気がつけば声に出ていた。一人うろたえて口元に手をやっていると、御堂に、君も育ててみるかとシクラメンの鉢を示される。和彦は苦笑して首を横に振った。部屋に鉢を置いたとしても、年末年始は自分で水を与えることはできず、結局組員たちの手を煩わせることになる。
 御堂もそれ以上言ってくることはなく、シクラメンの鉢を選ぶ。
 他にいくつかの花苗をカートに載せたところで、御堂が言った。
「本格的な気分転換ということで、君とゆっくり飲みたいと思っているんだ。ささやかな忘年会みたいな感じで。今晩は用事があるから、日を改めて……と考えているけど、どうかな? さすがの賢吾も、買い物に連れ出すのはいいけど、夜遊びに連れ出すのはダメだなんて野暮は言わないだろうし」
 一瞬、賢吾の渋面を想像した和彦だが、すぐに承諾する。そこで、ある人物のことが頭を過った。
 一度精算をするという御堂についてレジに向かい、順番を待ちながら遠慮しつつ切り出した。
「――……実は、御堂さんのことを紹介してほしいという人物がいるんです」
「君の知り合いだよね?」
「友人、のようなものです。いろいろと相談にも乗ってもらっていて。その彼が、御堂さんと知り合うきっかけがほしいみたいなんです」
「ああ、つまり、さっき話した忘年会もどきに呼びたいんだね。わたしは構わないよ」
 御堂の返事に、いくらか緊張していた和彦は拍子抜けする。どういう人物なのか、当然のように質問されると思っていたのだ。目を丸くする和彦に、御堂が続ける。
「〈あの〉賢吾が、友人として君に近づくのを許している人物なら、身元はしっかりしているんだろう。あっ、こっちの世界で、という意味で」
「そういう意味でなら、確かにしっかりしています。その……、第二遊撃隊の隊員なんですけど」
 そう告げたとき御堂の反応は、はっきりいって見ものだった。噴き出したかと思うと、声を上げて笑い始めたのだ。なんとも華やかでよく通る笑い声で、そして少し芝居がかっており、和彦は圧倒されてしまう。
 御堂の目元がほんのりと赤く染まる様に、見てはいけないものを見た気がして、視線をさまよわせてもいた。
「いいね。わたしも会いたくなった。――密会するのに相応しい店を探さないと」
「そう言ってもらえると、ありがたいです」
 まだ笑いの余韻を引きずっている御堂が財布を取り出すと、これまで距離を取っていた第一遊撃隊の隊員がさりげなく近づいてきて、購入したものを受け取ろうと待ち構える。一方、和彦についている組員は、棚の陰で携帯電話を耳に当てていた。
 定時報告だろうかと眺めていた和彦を、電話を切った組員が見る。その様子から、何かあったと察した。案の定、素早く歩み寄ってきた組員にそっと耳打ちされる。
「先生、仕事が入りました」
 それを聞いた和彦は、まず御堂を見遣る。組員の声が聞こえたとも思えないが、財布を仕舞った御堂がちらりと笑みをこぼす。
「君は、わたしなんかよりよほど忙しいね」
「あのっ……」
「気にしなくていいから、行っておいで」
 そう言って御堂は軽く手を振った。


 慌ただしく和彦が連れて来られたのは、ごくありふれた四階建てのマンションだった。先に到着していた他の組員から、手術衣などを詰め込んだバッグを手渡され、促されるままエレベーターに乗り込む。
「……患者の様子は? さすがに、土曜のこんな明るいうちから、普通のマンションで切ったり縫ったりは無理だろ」
「それが、よくわからないんです」
 困惑気味に組員から返され、和彦も困惑の表情で返す。これまでも、状況が把握できないまま患者の元に連れて来られたことはあるが、それでも素人判断ではあっても容態ぐらいは告げられていた。組員にも緊迫感は漂っており、そこから何かしら感じ取ることはできていたのだ。しかし今は――。
「わたしらも、何も教えられてないんです。とにかく先生を連れて行けばいいとだけ」
「誰から?」
「組長です」
 信用できる筋からの依頼ということは間違いないようで、頭の中に疑問符が飛び交いながらも、一応和彦は納得しておく。
 エレベーターが最上階である四階に到着し、先に降りた組員が慎重に辺りを見回して頷くのを確認してから、和彦も降りる。エレベーターホールを出て、部屋はどこだろうかと探すまでもなかった。一番奥の部屋の前に、いかつい風貌の男二人が所在なさげに立っていたからだ。
 こちらに気づいた途端、大げさなほど背筋を伸ばしたあと、深々と頭を下げてきた。どこかで見かけたことがある男たちだと気づき、和彦は首を傾げたが、その間にも、組員が男たちと言葉を交わす。声を潜めて何度かやり取りをしたあと、和彦は男たちを紹介された。やはり声を潜めたまま。
「城東会の組員たちです」
 城東会といえば、三田村が補佐を務めている若頭が組長として仕切っている組だ。ああ、と声を洩らしたものの和彦は、微妙な表情を浮かべてしまう。城東会顧問である館野から、前に言われた言葉が蘇っていた。
 正直、城東会から自分はよく思われておらず、何か行事ごとでもない限り関わることはないだろうと考えていたので、この遭遇は予想外もいいところだ。
「――……もしかして、この部屋に患者が?」
 和彦の問いかけに、城東会の組員が頷く。
「多分、患者だと思います」
「……多分?」
「部屋に入って確認したわけではないのですが、うちの組長に状況を報告したら、すぐに佐伯先生に来てもらうことにするとおっしゃられて……」
 わけがわからない。思いきり疑問が顔に出ていたらしく、城東会の組員が真剣な表情で言った。
「ドア越しに聞こえたんです。ひどく咳き込む声が」
「だったら、どうしてまず部屋に入らなかったんだ? ドアは開くんだろ」
 見れば組員の足元には、ワイヤーカッターがある。前に、一人暮らしをしていた千尋の部屋に押し入ってきた賢吾たちのことを思い出し、ヤクザのやり方は共通なのだなと、妙な感心をしていた和彦だが、それどころではないとすぐに思い直す。
「本当に、大丈夫、なのか? もしかして、中にいるのが堅気の人間なんてこと――」
「堅気です」
 わけがわからないと、今度こそ和彦は声に出して呟く。慌てて城東会の組員が言い募った。
「堅気ですが、組の……というか、組長の身内です。その組長が、荒っぽい手段もやむなしとおっしゃったんです」
「……それなら、まあ、言われた仕事はやるけど……」
 ぼやき混じりの言葉を承諾の返事と受け取ったのか、素早く組員が動き、合鍵を使ってドアを開けると、隙間からワイヤーカッターを突っ込んでドアチェーンを千切る。和彦は、恭しく差し出されたマスクをして玄関に入った。
 単身者用の部屋らしい広いとは言い難いリビングダイニングには、満杯のゴミ袋が三つほど置かれており、一方のキッチンは使っている様子もなく、日頃の生活ぶりがうかがえる。床に並べて置かれた空のペットボトルを横目に、和彦は奥の部屋に続くガラス戸を開ける。
 暖房が入った部屋はムッとするほど暑く、空気が乾燥しきっていた。ここで違和感を感じて振り返ると、あとからついてきていると思った組員たちが、開けたままのドアの向こうから、こちらを覗き込んでいる。
 早く入ってこいと手招きをしようとした瞬間、部屋の中からくぐもった苦しげな息遣いが聞こえてきた。いや、咳だ。
 視線を向けた先にベッドがあり、布団が盛り上がっている。和彦はこの時点でためらいというものをかなぐり捨て、ベッドに近づくと、そっと布団を捲った。
 不揃いに伸びた髪を頬に張り付かせて、横向きで男が寝ていた。顔がよく見えないなと、和彦は髪を掻き上げてやろうとする。すると、かろうじて見えていた男の目がうっすらと開く。唸るような声が上がった。
「しつこいぞ、てめーらっ……。僕のことは放っておけと、言っただろ。勝手に部屋に入ってきやがって、警察、呼ぶぞ」
 組員たちが迂闊に部屋に踏み込めなかったのは、今の台詞のせいなのだろうかと思いながら、和彦はかまわず男の髪を掻き上げる。ずいぶん痩せており、頬がこけているように見えた。さらに目の下にはひどい隈があり、唇は今にもひび割れそうなほど乾いていた。
 顔は紅潮しており、睨みつけてくるように見上げてくる目は潤んでいる。息遣いも荒いことから、熱があるなと見当をつけると、床に置いたバッグの中から体温計を取り出し、有無を言わせず男の耳に当てる。
「やめ、ろ……」
 男が緩く頭を振ったときには測り終え、表示された数字を見た和彦は眉をひそめる。熱が四十度近くあった。
「ぼくは医者だ。頼まれてここに来た。――いつから熱が出ているんだ」
「……知らない。いいから、早く出て行け」
 男が手を振り払った勢いで、体温計が床に落ちる。和彦はため息をつきながら体温計を拾い上げた。
「だったら、病院に行こう」
「外に、出たくない。出るぐらいなら、このまま死ぬ。舌噛んで、死ぬ……」
 男の戯言を聞いてから、ベッドの端に腰掛け、室内を見回す。八畳ほどの室内は、キッチンとは対照的に生活感で溢れ返っていた。溢れすぎて、窒息してしまいそうだ。テーブルの上には菓子やインスタント食品の空の容器がそのままで、ペットボトルは飲みかけのものが何本もある。脱ぎ散らかした服は部屋のあちこちで山となっている。本棚には専門書らしきものが無造作に突っ込まれ、扉が開いたままのクロゼットの中には、ハンガーだけがぶら下がっている。
 スーツが一着もないことに気づいた和彦は、改めて男を見る。いつの間にかモソモソと布団の中に潜り込もうとしていたので、すかさずまた布団を捲り上げた。
 物言いから推測はできたが、男は若かった。せいぜい二十代半ばぐらいで、青年と表現すべきだろう。神経質そうな細面で、一重の小さな目を落ち着きなく瞬かせている。華奢なあごのラインはなんとなく小動物を連想させるが、だからといって可愛いなどとは微塵も思わない。
「病院に行きたくないなら、胸の音を聴かせてくれ」
「嫌だ……。僕に触るな。ゲロをぶちまけるぞ」
 力ない口調でそう言ったあと、青年が激しく咳き込む。和彦は聴診器を装着すると、パジャマの胸元を開けようとしたが、弱々しく罵倒され、さらに身を捩って抵抗される。普段診ている、いかにもふてぶてしい面構えをした男たち相手とは勝手が違い、どうしたものかと戸惑ったが、心を鬼にした。
「――ぐだぐだ言ってると、直腸から体温測り直すぞ」
 低い声で囁きかけた途端、青年の動きが止まる。
「医者が、患者を脅していいのか……」
「おや、大変だ。熱で、耳に異常が出ているみたいだな。誰が誰を脅してるって?」
 青年が何か言いかけて、結局やめる。和彦は早速、聴診器を胸元に押し当てて肺からの異音の有無を確かめる。ころりと細い体を転がして、背にも聴診器を当てたあと、和彦はあごに手を当て唸る。
「もう一度聞くが、いつから熱が出たんだ?」
「……一週間ぐらい前から、風邪気味だった。熱っぽくなってきても、大したことないと思って放っておいたら、昨日から頭がぼうっとしてきて、咳もひどくなって……」
 念入りに問診を行ってから、口を開けさせて喉の腫れを見て、念のためもう一度問いかけた。
「本当に病院に行かないのか? レントゲンを撮らないと――」
「絶対嫌だ。外には出ない」
 ここまで拒絶されると、無理やり引きずって行くわけにもいかない。それこそ、拉致している最中と思われて、警察を呼ばれる。
 仕方ないなあと独りごちた和彦は、パジャマの前を留め直すと、青年の体に布団をかける。すぐに頭から布団を被ってしまったので、これ幸いと遠慮なく部屋中を見て回り、ついでに冷蔵庫の中も覗く。食料がぎっしりと詰まっているが、部屋の惨状からして、組員たちが差し入れをしているのかもしれない。
 タオル、タオルと声に出しながら、洗面所まで行ってみる。洗濯物が山のように溜まっている光景を目の当たりにして、和彦はがっくりと肩を落とす。
 部屋に戻ると、咳き込みながら青年が、布団の隙間からこちらをうかがっていた。
「咳で苦しいから、やっぱり病院で診てもらおうかなー、という気には?」
「しつ、こい……」
 和彦はメモ用紙に必要なことを書き込んでから、外で待機している組員に渡す。
「買い物リストだ。ここに書いてあるものを今すぐ買ってきてくれ。ドラッグストアとスーパーで揃うはずだ」
 城東会の組員の一人がすぐに走っていき、残った男にも、うんざりしながら指示を出した。
「今から、ゴミ袋に洗濯物を詰めてくるから、コインランドリーでまとめて洗ってきてほしい。汗をかくから、いくらでも着替えが必要なんだ」
 そう告げて、部屋に引っ込もうとした和彦を、城東会の組員が呼び止める。
「あのっ……、ユウヤさんはどういう状態ですか? 診察が終わったら、すぐに報告するよう言われているもので……」
「『ユウヤ』が、彼の名前なのか」
 そういえば、こちらも自己紹介がまだだったなと、和彦は心の中で反省しておく。患者からいままでにない反応を示されて、やはり少し冷静ではなかったようだ。
「彼は、四十度近い熱が出ているし、咳もひどい。喉もかなり腫れている。インフルエンザかもしれないと思ったけど、話を聞いてみると、風邪をこじらせた可能性が高い。まだ肺炎にはなってないみたいだが、正直、すぐに病院に連れて行ったほうがいい」
 組員からすがりつくような眼差しを向けられ、和彦は一拍遅れて付け加える。
「……外に連れ出すなら、舌を噛んで死ぬと脅された。それが可能かどうかはともかく、行きたくない人間を引きずり出すよりは、安静にさせておくほうがいいだろう……」
 和彦は大きく息を吐き出すと、ドアの陰に立っている長嶺組の組員に、しばらくかかりそうなので車で待っていてくれと声をかける。寒風吹きすさぶ場所にいられると、風邪の患者が増えるだけだ。
 のんびりと土曜日を過ごす予定だったのにと、ちらりと思わなくもなかったが、何かしていたほうが今の自分の精神状態にとってはいいのだろうと納得しておくことにした。


 乱雑なテーブルの上に、ダイレクトメールが開封されないまま置いてあったので、宛て名を確認させてもらうと、〈滝口(たきぐち)優也(ゆうや)〉と記されていた。
 当の本人は、額に冷却シートを貼り、真っ赤な顔をして目を閉じている。少し前まで、冷却シートを貼ろうとする和彦とベッドの上で掴み合いを繰り広げ、さすがに疲れ果てたようだ。パジャマを着替えさせるのも一苦労で、和彦が何かするたびに、とりあえず憎まれ口を叩き、抵抗していたのだ。
 喉が痛くて堪らないというので、市販薬を口に放り込んでやると、やっとおとなしくなった。
 床の上に座り込んでぐったりとしていた和彦だが、ここで、いつの間にか自分がマスクを外していることに気づく。優也と格闘しているうちに、邪魔になって自分で剥ぎ取ったようだ。
 風邪が移って、いっそのこと自分もしばらく寝込んでしまったらどうかと、医者にあるまじき想像をしてから、のっそりと立ち上がる。優也の世話をしつつ、合間に部屋を片付けていたら、こちらもすっかり疲れ果てた。
 カーテンの隙間から外の様子をうかがうと、いつの間にか日が暮れている。放り出していたメモ帳に這い寄ると、自分の携帯電話の番号を書き記し、優也の枕の下に突っ込む。
「ぼくはこれで帰るから。冷却シートをきちんと交換して、しっかり水分を取って、汗をかいたらこまめに着替えるんだぞ。苦しくて堪らなくなったら、我慢なんてせずに、ぼくの携帯に電話をかけてこい。……諦めて、病院に行ってもらってもいいけど」
「……絶対、嫌だ」
 咳き込みながらの返答に、呆れるよりも感心して、和彦はちらりと笑みをこぼす。
 帰る前にこれだけはと、水で濡らしたタオルをハンガーにかけてから、優也が寝ているベッドの側に吊るしておく。ささやかながら、乾燥対策だ。
 バッグを手に外に出ると、城東会の組員が一人だけ立っていた。外から鍵をかけると、共にエレベーターホールへと向かう。
「無事にドアチェーンを切ったことだし、数時間置きに部屋に入って彼の様子を見てやってほしい。憎まれ口を叩けないぐらい弱ったら、こちらに連絡を」
「わかりました」
「あと、着替えもさせてやってほしい。多分、自分ではやらないはずだから。警察を呼ぶとか威勢のいいこと言ってたけど、今は大声は出せないし、床に転がってたスマホは充電されてなかったから大丈夫だ」
 細かい指示を出しながらエレベーターに乗り込み、一階へと降りる。
 ふっと緊張が解けた途端、空腹を感じた。それもそのはずで、昼食をとっていなかった。きっと賢吾の予定では、買い物のあとに御堂と食事をさせるつもりだったのだろう。
 味付けの濃いものが食べたいなと、あれこれメニューに思いを巡らせているうちに、エレベーターの扉が開く。降りた和彦の視界にまっさきに飛び込んできたのは、穏やかな眼差しをこちらに向ける三田村だった。
「三田村っ」
「せっかくの休みだったのに、すまなかった、先生」
 三田村から発せられた謝罪の言葉に、和彦は戸惑う。すると三田村が、背後に立つ組員に軽く目配せをする。組員はこちらに頭を下げたあと、小走りでマンションを出て行った。
 その後ろ姿を見送って、三田村が表情を一層和らげる。
「不思議そうな顔をしている」
「……突然目の前に現れたあんたから、すまなかったって言われたら、びっくりもするだろう」
「城東会の人間として言ったんだ。今日は土曜日だ。先生はゆっくり過ごしていたところだったんだろう?」
「それは――」
 気にしていないと、ぼそぼそと答えた和彦だが、すぐにあることが気になって、三田村に詰め寄る。
「ぼくがさっき診た患者、組長の身内だと言われたんだ。組長っていうのは、城東会の、でいいんだよな?」
「そう。俺が補佐を務めている若頭のことだ」
 エレベーターの前で立ち話を続けるわけにもいかず、三田村に促されるまま和彦もマンションを出る。駐車場には、城東会の組員たちだけが残っていた。
「あれっ?」
「今から俺が、先生の護衛を引き継いだ。長嶺組長に言われてのことだから、心配しなくていい」
 土曜日の午後を潰してしまったことへの、賢吾なりの気遣いなのだろう。そう受け止めた和彦だが、素直には喜べない。神妙な顔で隣をうかがい見ると、三田村はまた穏やかな眼差しを向けてくる。
「俺も今日、仕事が休みだったんだが、正直時間を持て余していた。先生には悪いが、ちょうどよかった」
「そんなこと言って――……」
「先日のことも気になっていた」
『先日のこと』とは、クリニックに突然、里見が現れたことだ。三田村が駆けつけなければ自分はどうなって――いや、どうしていたか考えると、いまだに鼓動が速くなる。
 あのあと和彦は、三田村によって本宅へと送り届けられた。結局、何事もなかったわけだが、素直に安堵するわけにはいかない。表と裏の世界の境界線が曖昧になったことで、自分の今の生活は容易く掻き乱されてしまうと身をもって実感したからだ。
「……里見さんにああいうことをやめさせるよう、父さんには言っておいた。組を刺激するようなまねをするなら、年末に実家に帰ることは考えさせてもらうと言っておいたから、多分、大丈夫」
「先生は?」
 助手席のドアをわざわざ開けてくれながら、三田村に問われる。いつも通りのハスキーな声だが、和彦には胸が詰まるほど優しく聞こえた。
「先生は、大丈夫か?」
 三田村の顔を見つめ、和彦はできるだけ自然な笑みで返す。
「ぼくは大丈夫だ。なるようにしかならないと思ったら、腹も決まった。とはいっても、気持ちが揺れるときもあるんだけど。仕事でバタバタしているほうが、ありがたいかもな。あれこれ考えなくていい」
 ここでわざとらしく大きなため息をつき、顔をしかめて見せる。案の定、三田村が心配そうに顔を覗き込んできた。
「疲れたのか?」
「それより大変なことだ。……実は今、ものすごくお腹が空いているんだ」
 軽く目を見開いた三田村が、冗談めかして応じた。
「それは一大事だ」
「だろ? だから――」
 和彦が食べたいものをリクエストすると、三田村は車に乗り込んだあと、急いで携帯電話でどこかにかけ始める。深刻な口調で切り出した内容に、助手席で聞いていた和彦は必死に噴き出したくなるのを堪える。
 まじめで優しい男は、和彦のリクエストに応えるため、他の組員にお勧めの店を聞いていたのだ。


 三田村が連れてきてくれたラーメン店は、どうやら人気店らしい。和彦が水の入ったコップに口をつけながら、壁に貼られたメニューを眺めているわずかな間に、テーブル席はほぼ埋まっていた。
 ただ、いいタイミングで飛び込んだらしく、注文したものはさほど待つことなく運ばれてきた。
 テーブルに並んだラーメンとチャーハンに、和彦は目を輝かせる。
「炭水化物と炭水化物だ……」
「笠野が知ったら、目を剥きそうだな」
 向かいの席についた三田村は、長嶺の本宅の台所を切り盛りする男の名を出しながら、追加で運ばれてきた肉野菜炒めの皿を受け取り、テーブルの中央に置いた。しっかり野菜も食べたと言い訳できると、三田村の提案で頼んだのだ。
 店に入る前に笠野に連絡をして、今日の夕飯は外で食べてくると告げておいた。何を食べるのかと聞かれ、露骨に誤魔化してしまったが、どうせ他の組員から耳に入るだろう。よりにもよって三田村が、美味いラーメン店を教えてくれと電話をかけた相手は、笠野の下で働いている組員だったのだ。
 若頭補佐は妙なところで要領が悪いなと、小皿に肉野菜炒めを取り分けながら、和彦はこっそりと笑みをこぼす。
 さっそくラーメンにのったチャーシューを噛み締めていると、三田村が自分の分のチャーシューを、和彦のどんぶりに入れてくる。
「先生は、労働のあとだからな」
「……そうやって甘やかすと、ぼくは太っていくからな。それでなくてもジムをさぼり気味なんだ」
「もう少し太ってもいいな、先生は」
 なんでもない会話だが、急に照れ臭さを覚えた和彦は、聞こえなかったふりをして麺を啜る。慎重に煮玉子を箸で割っていて、ふと思い出したことがあって顔を上げる。三田村は、箸を持ってはいるものの、まだラーメンにも口をつけず、じっとこちらを見ていた。
「ラーメンが冷めるぞ、三田村」
 ああ、と声を洩らした三田村が、勢いよく麺を啜る。なんだか様子がおかしいなと思いつつ、和彦は切り出した。
「なあ、さっきの患者のこと、聞いていいか?」
「俺が知っている範囲でなら。……珍しいな。先生が患者のことを聞きたがるなんて」
「いや、いかにもな相手なら、ぼくも事情を察するけど、今日の患者はなんというか――」
「堅気に見えた」
「そう。でも、城東会組長……、えっと、宮森(みやもり)さん、だったよな? その宮森さんの身内なんだろ」
 和彦は、三田村が補佐として仕えている男、宮森とは顔を合わせたことがあるし、短くではあるが言葉を交わしたこともある。三田村を複雑な立場に追いやった元凶である和彦と相対しても、腹に抱えた感情を読ませない淡々とした物腰の持ち主だった。
 外見だけなら、およそヤクザらしくないように見えたが、長嶺組を支える若頭の一人だ。愚鈍な人間であるはずがなく、そんな人物が、自らの身内と和彦を接触させたということに、何かしら理由を求めたくなる。
 和彦がチャーハンを二度口に運ぶ間、三田村は少し眉をひそめて考える素振りを見せていたが、ふっと息を吐き出した。
「優也さんは、若頭の甥なんだ」
「甥……」
「若頭のお姉さんが、優也さんの母親だ。ただ、何年も前に亡くなって、以来、若頭が面倒を見ている。とはいっても、援助が主で、積極的に関わるようなことはしてこなかった。気にはなっても、若頭の仕事が仕事だ。まっとうな家庭で育って、まっとうな道を歩んでいる優也さんの迷惑になってはいけないと考えていたみたいだ」
「でも今は違うんだな?」
 頷いた三田村が説明を続ける。
 大学を卒業後、優也は大手の税理士事務所に勤め始めた。必要な資格のいくつかを大学在学中に取得していたということで、優秀でまじめな学生だったのだろう。順調な日々を送っていた優也だが、勤務していた税理士事務所で理不尽なパワハラとイジメに遭ったという。
「ギリギリまで耐えていたらしいが、とうとう倒れて病院に運び込まれたところで、若頭の知ることとなった。結局、優也さんは税理士事務所を辞めたんだが、踏ん張りすぎた反動なんだろうな。……部屋に引きこもったまま、誰とも会おうとしなくなった。放っておくと生活もままならないから、優也さんの体面を気にかけていられないと、組員たちが交代であれこれ差し入れを持って行ってたんだ。部屋には絶対に入れてもらえなかったが」
 優也のこけた頬や、痩せた体を思い返し、和彦は申し訳ない気持ちになる。もっと優しく接すればよかったと後悔したが、一方で、あの憎まれ口は引きこもった故のものなのか、あるいはそれ以前からのものなのか、気にもなってしまう。
「……だから、でかい男たちがクマみたいに、部屋の外でうろうろしていたのか」
「俺たちみたいな無骨なヤクザは、繊細な人間との接し方なんてわからないからな」
 煮玉子を半分頬張った和彦だが、食べ終えてからニヤニヤと三田村に笑いかける。
「つまり、ぼくは繊細じゃないんだな」
 三田村のうろたえる姿を期待したのだが、意外にタラシの素養がある男は、きわめてまじめな顔でこう応じた。
「誰よりも繊細だから、組長や俺たちは先生を大事にしようとしているんだ。でも、それだけじゃ足りないと思うことばかりだ。先生の繊細さは、こちらの想像も及ばないときがあるからな」
「――……冗談だ。悪かった、試すようなことを言って。ぼくは繊細どころか、図太い人間だと自覚してる」
「先生はタフだが、繊細だ。俺にはそう見えている」
 どんどん顔が火照ってくるのは、熱いラーメンを食べているせいだと、和彦は自分に言い聞かせた。
 食事を終えてラーメン店を出たとき、辺りはすでに薄闇が落ちていた。この瞬間、ふっと寂しさが胸を駆け抜ける。三田村との別れの時間がすぐそこまでやってきているのだ。
 物言いたげな和彦の視線に気づいていないのか、三田村が足早に車へと向かい、助手席のドアを開ける。黙って乗り込むしかなかった。
 ラーメン店に向かっていたときとは違い、帰りの車中は沈黙に支配されていた。膝に置いたダウンジャケットを撫でながら、和彦は何度か話しかけようとして、そのたびにためらう。
 仕事が休みの日に、わざわざ自分の送り迎えのためだけに来てくれた三田村を困らせたくないと思う一方で、もう少し甘えてみたいという衝動が湧き起こるのだ。
 そもそも賢吾は、どこまで許してくれるつもりだったのか――。
 大蛇の化身のような男の気遣いとは、甘くて優しい反面、残酷だ。和彦が煩悶することを見越していたのかもしれない。
 そう思った途端、和彦はようやく言葉を発した。
「三田村、コンビニで停めてくれ。お茶を買ってくる」
 頷いた三田村は、コンビニの駐車場へと車を滑り込ませる。和彦がシートベルトを外そうとすると、当然のように三田村が提案してくる。
「先生、俺が行ってくる」
「いいから。すぐに戻る」
 三田村の顔を見ることなく言い置いて、和彦は車を出る。すぐに寒さに震え上がり、慌ててコンビニに駆け込んだ。
 お茶を二本手に取り、一度はレジに向かいかけたが、少し考えてからカゴを持ってきて、お茶以外にミネラルウォーターのボトルや菓子なども入れる。
 精算を終えて駐車場に戻ると、三田村はわざわざ車の外に出て待っていた。
「車の中にいればよかったのに」
 駆け寄って和彦が言うと、三田村が小さく笑う。
「近くにいて先生の姿が見えないと、落ち着かないんだ」
 そんな言葉を聞いてしまうと、もうダメだった。衝動に歯止めが利かなくなる。御堂から聞かされた賢吾の話も気になるが、今は目の前の男との事情を優先させたい。
 和彦はさりげなく三田村に身を寄せ、通りから見えないよう自分の体で隠して、三田村の手をそっと握る。
「――……今夜は、一緒にいたい。組長への説明なら、ぼくがするから」
 三田村は、和彦の手からコンビニの袋を取り上げる。重みから、お茶以外にも入っていると気づいたのだろう。吐息を洩らすように三田村は呟いた。
「俺はずるいな。先生から言ってくれるのを待っていた」
 言われるまま再び車に乗り込むと、今度は三田村のほうから強く手を握ってくる。
「組長からは、先生を連れて帰るよう言われていたわけじゃないんだ。先生の好きなようにしてやれとだけ……。だったら俺から、先生を引き止めるわけにはいかない。だけど――」
「引き止めたくなったか?」
 ああ、と答える声は掠れて聞き取りづらかったが、それが三田村の静かな激情を物語っているようで、和彦は興奮のため小さく身を震わせた。









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