と束縛と


- 第42話(2) -


 パジャマに着替えた和彦が、タオルで髪を拭きながら部屋に入ると、イスに腰掛けた三田村が優しい声で問いかけてきた。
「しっかりと温まったか、先生?」
「気になるなら、一緒に入ればよかったんだ」
 和彦の返答に、三田村は少し照れた表情で応じた。
「……俺たちが一緒に入ると、慌ただしくなって、温まる間もないだろう」
 三田村の言わんとしていることを察し、思わず視線が泳ぐ。
「それに、先に報告の電話を済ませておきたかったんだ」
 テーブルに置かれた三田村の手元には、携帯電話がある。連絡した先はおそらく一件ではないだろう。さて、と洩らした三田村が立ち上がる。
「俺も入ってくる」
「しっかり温まってくるんだぞ」
 三田村は曖昧に笑うだけで返事をしなかった。
 部屋に一人となった和彦は、さっそく自分の携帯電話を取り出し、賢吾宛てに簡単な報告のメールを打つ。簡単とはいってもけっこうな文字数となったため、電話で済ませたほうが本当は楽なのだが、この部屋にいて、賢吾の声を聞くのは気が咎めた。賢吾と三田村に対して。
 自分は性質の悪いオンナだと、つい自嘲気味な気分になりながらも、文章を打ち込む指は止まらない。早く済ませてしまわないと、三田村が戻ってくる。
 メールを送信し終わって、ほっと安堵の息をついた和彦は、携帯電話の電源を切ることなく、ベッド側のイスの上に置いておく。今夜に限っては、優也の体調についていつ連絡が入るかわからないためだ。
 それなのに今夜、あえて三田村と共に過ごすことを選んだ。
 十二月に入ってから、どこにいても、誰の側にいても、ざわざわとして気持ちが落ち着かない。心のどこかで、年末年始を実家で過ごしたあと、自分はこの場所や人間関係を失ってしまうかもしれないと、危惧しているせいだ。そんなことにはならないと自分に言い聞かせては、次の瞬間には不安に襲われる。その繰り返しだ。
 この瞬間も、三田村との思い出を積み重ねようとしているだけではないかと考え、ゾッとした。
 慌ててキッチンで冷たい水を飲んでいると、バスルームの扉を開閉する音がする。和彦が目を丸くしている間に、上半身裸の三田村が戻ってきた。
「……早すぎだ。全然温まってないだろ」
 ぎこちなく笑いかけた和彦だが、タオルで乱雑に髪を拭った三田村が一瞬見せた鋭い表情に息を呑む。余裕のない男のものだった。
「三田村……」
 大股で歩み寄ってきた三田村に、まずグラスを取り上げられてから、きつく抱き締められた。和彦は条件反射のように広く逞しい背に両腕を回す。濡れた肌を――雄々しい虎の刺青を撫でていた。
「……ごめん」
 思わずこんな一言が口を突いて出た。
「どうして謝るんだ、先生」
「たった今、不吉なことを考えていた。この部屋で、あんたと二人きりなのに」
「疲れてるんだな……」
 三田村のハスキーな声が耳の奥で溶ける。和彦は甘えるように頬ずりをして、指先で三田村の背をなぞる。たったそれだけで、精悍な体がピクリと揺れた。
「不吉なことなら、俺も考える。先生が実家に帰ったら、もう二度と俺たちのところに戻ってこないんじゃないかと。さっきも、シャワーを浴びながらそんなことを考えて、急に不安になった。先生がまだ部屋にいるのか――」
「じゃあ、似た者同士だな。ぼくとあんたは」
 三田村の唇が頬に触れ、次に唇の端へと移動する。和彦は口づけを求めて小さく喘いだ。
「先生、戻ってきてくれるか?」
「戻ってくるなと言われても、戻ってくる。ぼくの人生をめちゃくちゃにした責任はしっかり取ってもらうからな。執念深いんだ、ぼくは」
 吐息を洩らすように三田村が笑い、和彦は自分から唇を寄せる。ゆっくりと唇を重ね、この日初めて、三田村との口づけを堪能することができる。
 最初は優しく互いの唇を吸いながら、軽く舌先を触れ合わせる。それだけで、ドロドロとした情欲が体の奥から溢れ出してきて、和彦の息遣いが乱れる。その変化に気づいた三田村に、肩を抱かれてベッドへと移動する。
 腰掛けた和彦は大きく息を吐き出し、一旦体を離した三田村が、キッチンの電気を消したり、サイドテーブルに水を準備する様子を目で追いかける。焦らされているようでもどかしくもあるが、抱き合っていては見ることのできない虎の刺青を眺められるので、不満は口にしないでおく。
 エアコンの温度を調節した三田村がようやくベッドに戻ってきて、視線を交わし合ったあと、再び唇を重ねた。パジャマの上着の下に片手が差し込まれ、脇腹を撫でられる。それだけで鼻にかかった声が洩れてしまう。
 肌を掠める三田村の手の感触と体温が、違和感なく和彦の体に溶け込んでくる。信頼しているからこそ、もっと触れてほしい。もっと奥まで暴いてほしいと、浅ましく願うのだ。
 和彦が自分から三田村の唇に吸いつき、口腔に舌を差し込むと、三田村の目の色が変わる。背に彫られた虎のように、今にも咆哮しそうな激しさを孕み、激しく和彦を求め始めた。
 肩を押されてベッドに仰向けで倒れ込むと、余裕ない手つきでボタンを外されて胸元を開かれる。
「あっ……ん」
 興奮のためすでに硬く凝っていた胸の突起を、いきなり口腔に含まれる。熱い舌先で転がされたかと思うと、次の瞬間にはきつく吸われたうえに、軽く歯を立てられる。和彦の背筋にゾクゾクとした疼きが何度も走り、喉が鳴る。三田村の背にすがりつこうとして、脱げかけたパジャマの上着に動きを阻まれていた。
 癇癪を起こした子供のように呻き声を洩らすと、突起を吸い上げながら三田村が上目遣いにこちらを見る。こちらからせがむまでもなく、一度身を起こした三田村にすべて脱がしてもらった。
 ベッドに横たわった全裸の和彦を、三田村がじっと見下ろしてくる。眼差しの熱さに肌を焼かれてしまいそうだ。
「……いまさらそんなに見なくても、もう珍しくないだろ。それどころか、見飽きたんじゃないか?」
 軽口を叩いてみたが、三田村は乗ってこない。ひたすら見つめられ、体が愛撫を欲していると嫌でも自覚させられる。
 知らず知らずのうちに足が動き、ゆっくりと左右に開く。胸を反らし、熟した二つの突起を見せつける。唇を開き、濡れた舌を覗かせる。三田村が大きく息を吐き出した。
「見飽きるどころか、ずっと眺めて、目に焼き付けておきたいぐらいだ」
 媚態を示してはみたものの、三田村から返ってきた言葉に和彦のほうがうろたえてしまい、上体を捩って熱い眼差しから逃れようとする。そんな和彦の体を易々と押さえつけて、三田村が本格的な愛撫を施し始める。
 首筋を舐め上げられ、耳朶を甘噛みされる。和彦が声を上げて首を竦めると、耳の穴にぬるりと舌が入り込んできた。ピチャッと濡れた音に鼓膜が震え、気も遠くなるような高揚感に襲われる。
 三田村の片手が両足の間に入り込み、身を起こしかけた欲望を掴まれる。和彦は上擦った声を洩らすと、腰をもじつかせながら、自らも三田村の下肢に手を這わせていた。スウェットパンツの上からでも、三田村の熱が伝わってくる。
 制止されないのをいいことに、スウェットパンツと下着を一緒に引き下ろしていた。
 自分と同じく何も身につけていない姿となった三田村を座らせ、背後に回り込んだ和彦は、広い背に棲む虎と間近から見つめ合う。
「――ぼくも〈これ〉を、目に焼き付けておきたいんだ」
 そう呟いて唇を押し当て、舌先を這わせる。三田村は何も言わず、好きなようにさせてくれていたが、それも数分のことだった。振り返った三田村は、見たこともないような怖い顔をしていた。
「三田村……?」
 抱き寄せられたかと思ったときにはベッドの上に転がされ、うつ伏せの姿勢で腰を抱え上げられる。一体何事かと戸惑った和彦だが、すぐにそれどころではなくなる。尻の肉を鷲掴まれ、左右に割り開かれていた。
「あっ、あぁっ――」
 秘められた部分に荒い息遣いを感じた途端に、強烈な疼きに身を貫かれる。何をされるか察したうえで、少し待ってほしいと声を上げようとしたが、そのときには内奥の入り口に濡れた感触が触れていた。
 和彦はビクビクと腰を震わせ、掠れた声を上げる。普段物静かな男が、和彦に恥辱を与えようとするかのように、大胆に湿った音を立てながら内奥の入り口を舐め、頑なな窄まりを容赦なく解してくる。
「あうっ、うっ、うっ……」
 舌先を押し込まれながら、背後から柔らかな膨らみをてのひらに包み込まれ、丹念に揉みしだかれる。あっという間に腰が砕け、下肢に力が入らなくなっていた。
 唾液の滑りを借りて内奥にゆっくりと指が挿入され、優しく襞と粘膜を擦り上げられる。和彦は枕を握り締めて、三田村の指の動きに合わせて腰を振る。
 すっかり勃ち上がった欲望が、腰の蠢きに合わせて揺れる。堪らず和彦は自らの下肢に手を伸ばそうとしたが、背後から三田村に柔らかな声音で窘められた。渋々従うと、代わりに、とばかりに内奥に含まされる指の数を増やされ、中から強く刺激される。
 和彦は尾を引く悦びの声を上げ、背をしならせる。時間をかけて指で内奥を蕩けさせられたあと、再び舌を這わされて念入りに濡らされた。
 背後から三田村が押し入ってこようとする。気配を感じた和彦はわずかに頭を動かし、訴えた。
「待って、くれ、三田村……。ぼくも――」
「先生の気持ちは嬉しいが、俺がもう、我慢できないんだ。……すまない」
 本当に申し訳なさそうな三田村の声に、和彦の中で狂おしい感情が吹き荒れる。強い情欲ももちろんあるが、何より三田村が愛しくて堪らなかった。
 和彦は身じろぎ、片腕を動かす。
「三田村、顔が見たい」
 この求めには応じてくれた三田村によって、姿勢を仰向けへと変えられる。和彦は嬉々として両足を大きく左右に開くと、三田村が腰を割り込ませてくる。自らの言葉が偽りではないと証明するように、三田村はすぐさま欲望の先端を、内奥の入り口に擦りつけてきた。
 熟れた肉を、凶暴な熱の塊で押し広げられる感覚は、何度味わっても強烈だ。苦痛と快美さが交互に押し寄せてきて、和彦を責め苛み、苦しさに呻き声を洩らしていたはずが、理性の揺らぎに合わせるように甘い嗚咽に変わる。
「うっ、くうっ、んうっ……、あぁっ」
 力強く内奥を擦り上げられながら、三田村と深く繋がっていく。
 両膝を抱えられ、一度だけ乱暴に突き上げられた瞬間、体の内側をゾロリと蠢く感覚があり、それがあっという間に全身へと広がる。和彦は快美さに小刻みに体を震わせながら、喉を鳴らす。内奥の襞と粘膜が、三田村の欲望に吸いつき、淫らに絡みつく。
「気持ちよさそうだ、先生……」
 感触を確かめるようにゆっくりと、ぐっ、ぐっ、と奥深くを突かれる。放埓に声を上げ、頭を左右に振る和彦に、三田村がそう声をかけてくる。この状態でウソはつけなかった。和彦は小さく何度も頷く。
 内奥からゆっくりと欲望が引き抜かれていき、和彦は浅ましく腰を揺らしながら、まだ奥を犯してほしいと無言で求める。和彦のわがままを、三田村が聞き入れないはずがなかった。
「あうっ……ん」
 再び乱暴に内奥深くを突き上げられて、堪える術はなかった。三田村が見ている前で、反り返ったまま揺れていた欲望が破裂し、自らの下腹部から胸元にかけて精が飛び散る。
「うあっ、あっ、やめっ――」
 絶頂の余韻で震える欲望を三田村に掴まれ、扱かれる。悲鳴を上げた和彦が身を捩った拍子に、内奥深くまで呑み込まされた熱い肉を強く意識させられた。
 息を乱しながら和彦は、下肢に手を伸ばす。しっかりと繋がっている部分に指先を這わせてから、三田村の逞しい欲望の根元をまさぐる。
「先生っ……」
 さすがの三田村もたじろいだ素振りを見せたが、和彦が涙の滲んだ目で見上げ続けると、意を決したように腰を動かし始めた。
 内奥を抉るように突かれるたびに恥知らずな嬌声を上げ、湧き出る肉の悦びを噛み締める。意識しないまま三田村の肩に強く爪を立て、我に返って手を離そうとすると、顔を覗き込んできた三田村が笑んだ。
「先生がくれる痛みは、俺にとっては気持ちいい」
「……つまり、ぼくが爪を立てるたびに、あんたは痛かったんだな」
 慌てて三田村が何か言いかけたが、和彦のほうから噛みつくような口づけをして、そのまま激しく舌を絡め合う。大きく腰を突き上げられ、抱えられた両足の爪先を突っ張らせる。気遣う余裕などあるはずもなく、和彦は三田村の背に両腕を回し、容赦なく爪を立てていた。
 痛みが、優しく誠実な男を駆り立て、さらに凶暴な獣へと変える。自分の体で、そのことを強く実感していた。
「うっ、あぁっ」
 内奥からズルリと欲望を引き抜かれ、唇を離して声を上げる。すぐにまた逞しい部分を内奥浅くに含まされ、擦られる。和彦は堪らず哀願していた。
「三田村っ、奥までっ……。もっと奥まで入れてくれっ」
 吐息のような声を洩らし、三田村が腰を進める。物欲しげに蠕動を繰り返す部分が、三田村の猛る欲望をきつく締め付ける。
 ひたすら繰り返される単調な律動が、信じられないような愉悦を生み出し、和彦は惑乱する。悦びの声を溢れさせていると、三田村が胸元に顔を埋めてきて、チクリと痛みが走る。胸の突起を強く吸われ、歯を立てられていた。和彦は呻きながら身悶える。三田村から与えられる痛みが、心地よかった。
 この痛みは、和彦にとっては厄介だ。自分を手酷く扱いながら、もっと強い痛みを与えてほしいという、妖しい衝動が湧き起こるからだ。
 三田村が険しかった表情をふっと緩め、微苦笑を浮かべた。
「怖いな、先生は」
「何が、だ……?」
「先生が痛がるとわかっているのに、もっとひどいことをしてみたい気持ちにさせる。今みたいに、気持ちよさそうに鳴かれると」
 鳴いてないと、ぼそぼそと反論した和彦だが、もう片方の突起に歯が立てられて、甘ったるい声を上げる。そんな自分がおかしくて、クスクスと笑っていた。三田村も肩を震わせていたが、次に顔を上げたとき、再び険しい表情で見つめられ、すぐにまた唇と舌を貪り合う。
 その最中、三田村の精を内奥に注ぎ込まれていた。


 しばらくベッドに転がっていた和彦は、キッチンからふんわりと漂ってくる匂いに鼻を鳴らしてから、もぞりと身じろぐ。ベッドの下に片手を伸ばしてパジャマの上着を掴み寄せると、苦労して起き上がり、なんとか着込む。
 さきほどまでの激しい行為で体力の大半を使い果たしたため、ボタンを留めるだけでも億劫だ。ズボンを穿くためベッドに座り直し、それだけでも息が切れる。
 和彦は、キッチンに立つ三田村の背に目を向ける。だいたいいつもの光景だった。動けない和彦のために、三田村がキッチンに立って甲斐甲斐しく何かを準備する。自分は大事にされていると実感できて、密かに気に入っている光景だ。
 振り返った三田村の表情を曇らせたくなくて、なんとか呼吸を落ち着け、手櫛で髪を整える。このとき、イスの上に置いた携帯電話が目に入った。
 まさか、行為に夢中になりすぎて、着信音に気づかなかったということはなかっただろうと思いつつも、腰を引きずるようにしてベッドの端に移動し、携帯電話を確認する。やはり、どこからも連絡は入っていなかった。
 朝になったら優也の様子を城東会に尋ねようと、しっかりと頭に叩き込んでおく。今日のように慌ただしい時間を過ごすと、大事なことをうっかり忘れてしまいそうで、だからこそ慎重であるよう自戒する。それでなくても、夕方から三田村と一緒に過ごせて浮かれ気味だ。
 そう、今日は本当に慌ただしかったのだ。午前中はのんびりと過ごしていたはずが、その後、賢吾に追い立てられるように外出してから、様々な出来事が起こった。
 あっ、と意識しないまま声を上げると、さすがに三田村は聞き逃さなかったようで、肩越しに振り返った。
「どうした、先生?」
「いや……、大事なことを思い出した」
 途端に三田村が眉をひそめる。
「急用なら、今からでも連れて行くが……」
「大丈夫。えーと、忘年会を兼ねた飲み会の約束を、人に伝えるのを忘れてたんだ」
「それは一大事だな」
 大仰な口ぶりで応じた三田村がおかしくて、和彦はくっくと笑い声を洩らす。どうしようかなと思ったが、まだ夜更けとも言えない時間で、〈彼〉が寝ている可能性は低いだろうと考え、端的に用件を打ち込んだメールを送信しておいた。
 食器棚から大きめのカップを取り出しながら、三田村がちらちらとこちらを見ている。和彦は携帯電話をイスの上に戻した。
「ぼくの飲み友達だ。飲み会の件を伝え忘れたら、恨まれそうだと思ったから」
「ヒントを出しすぎだな、先生。俺でも、メールの相手が誰かわかった」
「出しすぎって、『飲み友達』しか言ってないだろ。……どうせぼくは、友達が少ないからな」
 三田村は何も言わず、またこちらに背を向けてしまう。しかしすぐに、湯気が立ちのぼるカップ二つを手にベッドへとやってきた。
 差し出されたカップとスプーンを受け取り、中を見た和彦は顔を綻ばせる。さきほどからいい匂いがすると思っていたが、野菜たっぷりのミネストローネだ。
「そろそろ小腹が空いたんじゃないかと思ったんだ」
 たくさん体を動かしたからな、と危うく言いかけた和彦だが、さすがにそれははしたないと思い直す。三田村が隣に腰掛けるのを待ってから、さっそく一口食べてみる。
「美味しい……」
「それは俺の手柄じゃないな。缶詰のスープを温めただけだから」
「でも、ぼくのために買い置きしてくれてたんだろ?」
 三田村は優しく微笑むだけだが、返事としてはそれだけで十分だ。
 和彦はゆっくりとスープを味わいながら、今月の予定について三田村と話す。昨年は、ささやかながら長嶺組の年越しの手伝いをしたりして、なかなかの充実感を得ていたのだ。
「――せっかく去年、いろいろと教えてもらったのに、今年はなんの役にも立てないな。それに、おせちも食べられない」
「笠野が、先生が年越しそばを美味しそうに食べていたと言ってた」
「ああっ、そうだ……。それも今年は食べられないんだ」
「実家では?」
 そう口にした瞬間には、三田村はしまったというように顔をしかめた。和彦は軽く腕を小突く。
「そう気をつかわないでくれ。少しナーバスにはなっているけど、なんでもかんでも実家の話題を耳にするのが嫌というわけじゃないんだ。ぼくが十八年育ってきた場所だし」
 三田村を安心させるため、佐伯家での年末年始の様子を少し語って聞かせる。体面を重んじる家であったため、来客の多い年末年始は、普段以上にきちんとした家庭を演じていたのだ。近所のそば屋の年越しそばを食べ、料亭に頼んだおせち料理もあった。型どおりにお年玉ももらっていた。
 ただ、いつでも、温かみのある会話はなかった。それでも、いつだったか、三田村の家庭環境をちらりと教えてもらったことがあるが、そのことを思えば、和彦の生活は十分すぎるほど恵まれていたのだ。
「クリスマスは?」
 ふいに三田村に問われ、和彦は目を丸くする。
「ケーキを買ってもらったり、プレゼントを贈られたりはしなかったのか?」
 一瞬、脳裏に浮かんだのは、里見の顔だ。
「実家では……、なかったな。そういうものだと思っていたから、特に不満もなかった。一人暮らしを始めてから、こんなに気分が浮かれるものなんだと知ったんだ」
「俺は、家で祝うなんてもちろんなかったが、子供会ってやつで近所の子供を集めて、お菓子を配ったり、大人が催しをやってたんだ。あれは楽しかったな」
 話す三田村の横顔が穏やかなので、本当に楽しい思い出として残っているのだろう。その三田村がふいにこちらを見た。
「去年は、先生へのクリスマスプレゼントを探すのも、一緒に過ごせたのも、楽しかった」
「……あんたからもらった時計、壊すのが怖くて、なかなか外につけて歩けないんだ」
「壊したら、また俺が買う。それだけだ」
 三田村から傾けられる愛情がくすぐったくて、心地よくて、和彦はそっと微笑む。
 スープを飲み干してしまうと、汗が完全に引いて少し肌寒さを感じていたはずが、体の内側からぽかぽかと温まっている。
 満たされた、と心の底から思いながら和彦は、当然のように三田村にもたれかかる。
「眠くなってきたんだろう、先生。ベッドに入る前に、シャワーを浴びて、歯も磨いて、さっぱりしてくるといい。その間に、ベッドをきれいにしておくから」
「――……三田村、お母さんみたいだ」
 ごほっと咳き込んだ三田村に、空になったカップを取り上げられる。急かされた和彦はのろのろとバスルームに向かっていたが、ふと気になることがあって立ち止まった。
 先日、里見と接触したことによって、何か変わったことは起きなかった――。
 そう質問したかったが、自分でも、具体的にどんなことが起こりうるのか咄嗟に思い浮かばなかったため、声に出すことはできなかった。
 むしろ言葉にして発することで、不穏な事態を引き起こしてしまいそうだと思い直す。振り返ると、カップを手にした三田村がキッチンに向かっており、何げなくといった感じで和彦と目が合った。
 控えめに笑いかけられただけで、シャワーを浴びに行くほんの少しの時間すら、惜しくなる。
 三田村のことを言えないなとため息をつきながら、和彦はあくびを一つ洩らして、今度こそバスルームへと向かった。




 午前十時前に本宅に戻ってきた和彦は、一旦客間に入って着替えを済ませると、すぐに洗面所で手洗いとうがいをする。昨日優也を診たこともあり、自分の体調の変化には細心の注意を払っているが、今のところ気になる症状は出ていない。
 念のため、鏡の前で大きく口を開けて喉の状態を確認していると、洗面所のドアが軽くノックされた。和彦は慌ててタオルで口元を覆う。
「先生、何か飲み物を用意しましょうか?」
「あっ、うん。だったらお茶を……」
「わかりました。組長の部屋に運んでおきます」
「それは――」
 賢吾の部屋に行けということらしい。顔は出すつもりだったが、待ちかねていたといわんばかりの対応に、思わずため息が洩れる。昨日の一連の出来事の大半は、賢吾のお膳立てによるものなので、きっと和彦からの報告を楽しみにしているのだろう。
 タオルをカゴに放り込み、さっそく賢吾のもとへと行く。一声かけて部屋に入ると、賢吾はワイシャツ姿で寛いでいた。和彦は軽く首を傾げる。
「その格好は……、外から戻ってきたばかりなのか? それとも、これから出かけるのか?」
「ちょっと顔を出すところがあるんだ。日曜ぐらいゆっくりしたいところだが、お前もいなかったことだしな。――もっとゆっくりしてくるかと思った」
 責められているのではないとわかっているが、和彦は賢吾に対して言い訳めいたことを口にする。憎たらしいことに賢吾は、ニヤニヤと笑いながら片手を耳に当て、よく聞こえないという仕種をした。
「準備があるんなら、ぼくと顔を合わせるのはあとでもよかっただろ」
「あまり愉快じゃない用で出かけるから、多少なりと気分をよくしておきたかったんだ」
 あながち冗談とも思えない賢吾の口ぶりだった。和彦はようやく座卓につき、そこに笠野がお茶を運んでくる。
 笠野が出て行くのを待ってから、抑えた声で切り出す。
「……昨日、御堂さんから聞いた。あんたが総和会の幹部会に、南郷さんの処罰を求めていると」
「当然だ。自分のオンナを、一晩誘拐されたんだからな。これまでも大目に見てきたわけじゃねーが、俺に対する嫌がらせなのかどうか、まず見極めたかったんだ。……南郷は、腹の内が読めない男だ。妬み嫉みの類でバカをやるはずもない。オヤジの命令で、俺とお前を引き離そうとしているのか、と考えたこともあったが……」
「わかったのか?」
 賢吾がズイッと身を乗り出してくる。
「お前はどうだ。一晩近くにいて、あの男が何を考えてるかわかったか?」
「わかったら、あんたに話している」
「俺は、お前から南郷の刺青について聞いたとき、昔のことを思い出した。ゾッとする、嫌な記憶だ。それで考えたんだ。俺は総和会の中で、そろそろ自分の立ち位置を示すべきじゃないかと」
「どういう意味だ?」
 賢吾は不敵な笑みを浮かべた。
「誰と敵対するか、はっきりさせるってことだ」
 その言葉に頼もしさよりも、まず不安を覚えた和彦は顔を強張らせる。自分のせいで、何かとてつもないことが起きようとしているのではないかと、空恐ろしくもなる。
 そんな和彦をじっくりと眺めてから、賢吾が立ち上がり、傍らへとやってくる。どかっと隣に腰を下ろした。和彦はやや強引にあごを掴まれ、顔を上向かされる。
「そんな不安そうな顔をするな。別に、ドンパチを始めようという話じゃねーんだ。いままで、長嶺組として総和会に物申したことはあるが、俺個人としての要求をしたことはない。それをやめるだけだ。その一つが、幹部会への申し立てというわけだ」
「でも御堂さんは、多分、要求は通らないだろうって――」
「俺の行動がいろんな人間の耳に入ればいい。結果はわかっているとしてもな。御堂の奴は、正確に情報を集めているようだな。そしてそれを、どこかに煙が立たないだろうかと期待して、あちこちにばら撒く。あいつと親しくなるのはいいが、なんでも言われたことを真に受けるなよ。優しげな顔をしてるが、あいつの本性は鬼だ」
 もっとも、と続けた賢吾が、指先で頬をなぞってくる。三田村とは違う指の感触に、背筋にゾクリと甘い悪寒が走った。
「自分と同じオンナであるお前には、甘いようだが」
 賢吾が浮かべた酷薄な笑みに引き込まれそうになり、和彦は慌てて手を押しのける。そしてようやく、笠野が運んできてくれたお茶に口をつけることができた。
 ふと部屋の外に人の気配を感じて視線を向ける。賢吾はとっくに気づいていたのか、すでに立ち上がっていた。
 出かける時間となったらしく、外からの組員の声に応じた賢吾は、座椅子の背もたれにかけていたジャケットを取り上げる。主が出かけるのに自分が留まるのは気が引けて、和彦も湯呑み茶碗を手に立ち上がる。賢吾が片方の眉を動かした。
「遠慮せず、ここで過ごせばいいだろ」
「ぼくもやることがあるんだ。昨日診た患者の診察内容を、清書して組に提出しないといけないし」
「……宮森の甥っ子か。ひどい風邪だが、今のところ入院するほどじゃないということだったが」
「今朝の様子を聞いたら、熱は少しずつ下がってきているみたいだ」
 昨日の大人げないやり取りを思い出し、苦い顔となる。そんな和彦を一瞥して、ジャケットに袖を通しながら賢吾が短く笑い声を洩らした。
「なかなか気難しい性格らしいな。宮森の甥っ子は」
「何があったのか教えてもらったけど、仕方ないのかなと思う。……誰だって、きっかけ次第で自分の殻に閉じこもりたくなる」
 なぜかここで、賢吾に手荒く頭を撫でられた。
「うちの組の大事な若頭の血縁だ。甲斐甲斐しく世話を焼けとまでは言わないが、気にかけてやってくれ」
「それは……、もちろん。ぼくが診た患者だし」
 和彦の答えに満足げに頷いて、賢吾はまるで風のように部屋を出て行った。


 書類作成という一仕事を終えた和彦は、詰め所でもらった封筒にその書類を入れて、長嶺組の事務所に届けてほしいと頼んでおく。最終的には賢吾のもとに届く書類だが、組とはいっても会社組織のようなものなので、事務担当者にまず目を通してもらわないといけない。
 客間に戻り、さてこれから何をしようかと思案し、読みかけの本に手を伸ばしかけたが、何か違うなと思い直す。なんとなく手帳を開き、今月の予定を確認していた。師走らしく、クリニックのほうでも実は和彦は忙しい。
 クリニックで使用している機器のメンテナンスに、消耗品の棚卸し、業者を入れてのワックス掛けが控えており、加えて、スタッフたちとの慰労と忘年会を兼ねた食事会も予定している。年明けには開業一周年を迎えることもあり、顧客へのささやかなプレゼント選びなど、組に手伝ってもらいつつ進めてもいた。
 賢吾には一通り説明してあるが、人手はあるのだから一人で張り切りすぎるなと釘を刺されてしまった。
 そのときのやり取りを思い出した和彦は、何かしなければと気が急いている自分の姿を自覚する。
「……のんびりするか……」
 畳の上に転がって天井を見上げていたが、一分も経たないうちに起き上がり、耳を澄ますことになる。廊下を歩く足音がこちらに近づいてくるからだ。
 まさか、と思って身を起こしかけたところで、障子の向こうから声をかけられた。
「先生、ちょっとよろしいですか」
 若い組員の声に和彦は慌てて立ち上がると、障子を開ける。目の前に二人の組員が立っており、それぞれ見覚えのある箱を抱えていた。
「それ――」
「組長に言われて、先生のマンションから運んできました」
「運んできたって……」
 組員が抱えているのは、およそ一年前、和彦が購入した組み立て式のクリスマスツリーを収めた箱だ。そして、一回りほど小さい箱には、自分で揃えた以外に、秦からプレゼントされたオーナメントが。
 何をどこに仕舞ってあるのかすら組員たちに把握されているのかと、いまさらながら思うところはあるが、それよりも気になるのは、『組長に言われて』という点だ。
「……そんなもの、どうするんだ。ここに持ってきて」
「先生は年末まで本宅に滞在するから、せっかく買ったクリスマスツリーを飾らないのはもったいない、と」
「そう、組長が言ったのか。もったいないも何も、買ったのはぼくだし、わざわざ持ってこなくてもいいだろう……」
 ぼやいたところで、クリスマスツリーはもう目の前にある。持って帰ってくれとムキになって言うのも大人げないように思え、和彦は大きく息を吐き出した。今年は出番がないだろうと諦めていたのだが、こうなっては仕方なかった。
「それで……、どこに置くんだ。みんなの目につくよう、ダイニング辺りに置くのがいいのか」
「先生のものですから、やはりこの部屋ではないかと」
 この部屋、と口中で反芻した和彦は、ほぼ自室と化している客間を振り返る。広さは十分あるので、大きめのクリスマスツリーを設置すること自体に問題はないが、重要なのは、客間は和室だということだ。
 和彦の困惑を、長嶺組の有能な組員は読み取ったようだ。妙に自信ありげな口調で言った。
「大丈夫です、先生。畳を傷めないよう、小さめのカーペットも準備してありますから」
「あー、うん……」
 組員二人は張り切っている。和室には絶対にクリスマスツリーは置かないと、頑なに言い張るつもりもない和彦は、手招きして組員を客間に入れた。


 賢吾の帰宅は遅くなると、入浴後にダイニングを覗いたところで教えられ、ふうん、と応じた和彦は顔を引っ込める。廊下を歩きながら、水を飲むつもりでダイニングに立ち寄ったことを思い出したが、引き返す気にはならなかった。
 別に、賢吾の帰りを待ちわびているわけではないのだ。誰に対してか、そんな言い訳じみたことを心の中で呟く。
 客間の障子を開けると、圧倒的存在感を放っているクリスマスツリーが視界に飛び込んでくる。人手があったおかげで、あっという間に組み立てられただけではなく、ついでだからと飾り付けまで終えてしまったのだ。
 寝るときも一緒かと、改めてクリスマスツリーを眺めていた和彦だが、なんだかおかしくなってきて、無意識のうちに唇を緩めていた。事情を知らない人間が見たら、一人ではしゃいでいると思われそうだ。
 畳の上に座り込み、ぼんやりとクリスマスツリーを見上げる。せめてクリスマスまでは、心穏やかに過ごしていたいと考えていると、廊下を歩いてくる足音が聞こえてきた。
「――和彦、今何してる?」
 誰かと思えば、千尋だ。入っていいぞと応じると、すぐに障子が開き、ジーンズに長袖シャツ姿の千尋が姿を見せた。手には缶ビールが二本。
 クリスマスツリーを見て、千尋の目がキラリと輝く。どうやら、わざわざ見物をしに来たらしい。
「うわっ、本当にある。和室にあると、違和感すげー」
 千尋がいそいそと隣に座ったが、外から帰ってきたばかりなのか、ふわりと煙草とコロンの香りが漂ってきた。和彦は千尋の肩先に顔を寄せ、鼻を鳴らす。
「あっ、煙草臭い? 俺は吸ってないんだけど、おっさんたちが容赦なく吸うもんだから、全身に染み付いたんだよ。着替えただけじゃダメだな。先に風呂入って――」
「いいよ。帰ってきたばかりで疲れてるんだろ。ここで一息ついていけばいい」
 ニッと笑った千尋が缶ビールを差し出してくる。飲みたい気分ではなかったが、せっかくなので受け取っておく。
 缶ビールに口をつけようとしたところで、邪気のない子供のような顔で千尋が提案してきた。
「ねえ、ツリーの電飾、点けていい?」
「どうしようかな……」
 案の定、千尋が捨てられた子犬のような眼差しを向けてくる。ふふっ、と笑い声を洩らした和彦は、クリスマスツリーに這い寄って電飾の電源を入れてから、部屋の電気を消す。途端に、何色もの光がクリスマスツリーを浮かび上がらせた。
 感嘆の声を上げる千尋に、和彦は尋ねる。
「本宅に、クリスマスツリーはないのか? 行事ごとを几帳面に祝っているから、なんでも揃っていそうなんだが」
「俺がガキの頃は、せがんで買ってもらったものがあったけど、いつの間にか出さなくなったなー。捨てたのかも。組としては、クリスマスよりも、年末年始の行事のほうがよっぽど大事だし」
「……別にぼくは、クリスマスを大事な行事だと思っているわけじゃないからな。なんとなく勢いで買っただけで」
「はいはい。――だけど、らしくないことするよなあ。オヤジも」
「えっ?」
 千尋が意味ありげな笑みを口元に浮かべる。
「和彦の気分が少しでも晴れるようにって、気遣った結果だよ。クリスマスツリーを運び込ませたの」
「やっぱり、そう思うか?」
「それ以外ないでしょ」
 和彦は、じっとクリスマスツリーを見つめる。胸を駆け抜けるのは甘苦しい感情で、自分でもどんな顔をすればいいのかよくわからない。
 抱えた膝にあごを乗せ、思わず心情を吐露していた。
「あんまり優しくされると、実家に帰るのが嫌……というか、怖くなってくるんだ」
「だったら、もっと優しくしようかな。和彦がはっきりと、帰りたくないって言い出すまで」
「冗談で言ってるんじゃないからな。……ぼくは実家に帰ったあと、何も変わらないでいられるんだろうか。〈元〉の生活に戻れるんだろうか――」
 ぴったりと身を寄せてきた千尋が、そっと肩を抱いてくる。
「待ってるから。和彦の家族が、こっちには戻さないって言うなら、俺が乗り込んでいくよ」
「……それは勘弁してくれ。長嶺組の大事な跡目に何かあったら、ぼくが恨まれる」
「だったら戻ってくるしかないよね」
 そう簡単な話ではないのだと、いつもなら呆れた口調で返すところだが、和彦は小さく頷いて千尋にもたれかかる。
 千尋もよくわかったうえで、言っているのだ。和彦の前でだけ子供っぽく振る舞っている青年は、末恐ろしいどころか、今でも十分食えない気質の持ち主で、もしかすると和彦よりも内面は成熟しているかもしれない。
 なんといっても、長嶺の男の一人なのだから――。
 和彦は丸まっていた背をスッと伸ばすと、缶ビールを一気に呷った。
「はーっ、自分が嫌になるっ。お前にまで弱音をこぼすなんて……」
「そういうところも可愛いけど」
 千尋がニヤニヤと笑っている。そんな顔をすると父親そっくりだなと心の中で呟いて、和彦は千尋の脇腹を小突いた。









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