と束縛と


- 第42話(3) -


 ゴホゴホという咳の音を聞きながら、和彦は冷蔵庫の扉を開ける。土曜日に覗いたときは、手軽に食べられるか、日持ちする食品がぎっしり詰まっていたのだが、今日は内容が一変していた。
 スポーツ飲料とお茶や水だけではなく、ゼリー飲料が冷やされている。さらにレトルトの粥にプリンやカットフルーツまであり、なかなかの充実ぶりだ。さらに洗面所に行ってみると、洗濯物がまったくないどころか、心なしか洗面所全体がきれいになったように見える。
 いや、気のせいではないようだ。床に並べて置かれた空のペットボトルもなくなっており、ゴミを溜め込んでいる様子もない。病人が這ってゴミを捨てに行ったとも思えず、そうなると、考えられることは一つしかなかった。
 無意識に口元に手をやろうとしたところで和彦は、自分が今、マスクをしていることを思い出す。今日こそは、途中で外すようなまねはするまいと、心に誓ったのだ。つまり、冷静に、だ。
 ガラス戸の向こうに一声かけると、返事の代わりにさらに激しい咳が返ってきた。
 静かにガラス戸を開けると、電気のついた部屋も、やはり整然と片付いていた。テーブルの上には、食べたものの空の容器も、飲みかけのペットボトルもなく、風邪薬だけが置かれている。脱ぎ散らかされた服の山は見当たらず、クローゼットの扉がきちんと閉まっている。わざわざ開けて中を確認するまでもないだろう。
 どうやら、城東会の組員たちががんばったようだ。
 月曜日に、クリニックでの仕事を終えてから優也の部屋に寄ることは、事前に城東会には連絡しておいたのだが、それにしても、こうも環境が改善しているとは予想外だった。
 ここで和彦は、部屋が片付いている以外に、前回とは何か印象が違うなと感じ、ぐるりと辺りを見渡す。そして、あっ、と声を洩らした。カーテンが変わっているのだ。
「――……叔父さんの、組の連中が、好き勝手に、部屋を弄って、いきやがったんだ」
 咳の合間にくぐもった言葉が発せられる。優也が布団からわずかに顔を出し、こちらを見ていた。
「人間が住むにふさわしい部屋になった。感謝しないと」
 返ってきたのは舌打ちだった。和彦は破顔し、優也に睨まれる。
「何が、おかしいんだよ」
「悪態つきながら、部屋が掃除されるのをそうやって眺めていたのかなと思ったんだ。君の叔父さん――宮森さんも、ほっとしただろうな。少しでも住環境はよくしておかないと、病気もよくならない」
 優也の部屋に出入りしている組員たちも同じ気持ちのはずだ。ベッドの傍らには加湿器も置かれ、室内の湿度が程よく保たれている。
「……甥っ子が、部屋でミイラになってたら、体裁が悪いからな。まあ、ヤクザに、いまさら取り繕う体裁なんてあるのか、知らないけど」
「今度、聞いておいてあげるよ」
 和彦がまじめな顔で応じると、また優也に睨まれた。
 おしゃべりを早々に切り上げて、早速診察に入る。感心なことに優也は、和彦がバッグから体温計を取り出すと、布団から完全に頭を出したうえに、片耳をこちらに向けた。
「熱はまだあるか……。高くはないけど、油断はできないな」
 体温を確認してから、次に聴診器を装着する。渋々といった様子で、優也は自分からパジャマの前を開いた。
 前回から一変した協力的な姿勢に、医者としての自分を信頼してくれたのだろうと考えるほど、和彦は能天気ではない。これでも多少なりと世間の荒波に揉まれてきたのだ。
「咳、ひどいようだったら、今からでも胸のレントゲンを撮りに――」
「あんた、でかい組の組長の、イロなんだってな」
 和彦は目を丸くしたあと、にんまりとする。邪悪なものでも感じ取ったのか、優也がぎょっとしたように顔を強張らせた。
「……なんだよ」
「『イロ』なんて言葉、誰に教わったんだ。世話をしに来ている城東会の組員か?」
「それぐらい、人に聞かなくても、僕だって知ってる。ただ、あんたのことは、組員から聞き出した。……だって、変だろ。ヤクザとつるむ医者がいるなんて、どう考えても」
 久しぶりに聞いたかもしれない、〈堅気〉からの真っ当な指摘だ。
 和彦は床の上に座り込むと、近い目線となった優也にさらに問いかけた。
「ぼくに手荒な診察をされた仕返しに、皮肉でも言ってやろうと思って、待ちかまえていたのか?」
「まさか。……叔父さんが、あんたの診察を、受けろと、しつこく言ってくるから、仕方なくだ。どうせ玄関のチェーンは壊されたままだから、立てこもるのは不可能だし。お互い、顔を立てる相手がいる。だからこうして、僕はおとなしく患者をやって、あんたは医者らしく振る舞う。損はないだろ」
 一度にしゃべりすぎたとばかりに、優也が体をくの字に曲げて咳き込む。和彦は急いで冷蔵庫からペッボトルの水を取ってくると、優也を起こして飲ませる。ようやく咳が落ち着くと、優也は大きく息を吐き出し、再びぐったりとベッドに横になった。
「――僕も、あんたと似たようなものだ」
 充血した目を忙しく瞬かせながら、優也が呟く。
「ヤクザに飼われてる」
「そう、自分を卑下するような言い方しなくてもいいだろ。……少しだけ、君の事情を聞いたけど、やむをえないと思う。それに、飼われてるなんて言い方……。叔父が甥の面倒を見ているだけじゃないか」
 優也は鼻で笑った。
「違う、違う。お人好しだって言われない? 佐伯先生」
「……『先生』と付けてくれるんだ」
 ごほんっ、と非難がましい咳をして、優也が続ける。
「この部屋に踏み込んで、僕を強引に医者に連れて行くこともできたのに、叔父さんは、あんたを呼んだ。それだったら、普通の医者に往診を頼んでもよかったんだ。そうしなかったのは、城東会の看板をくれた長嶺組の組長に、忠義を見せるためだ。自分の身内を、そのために利用した」
「熱でうなされながら、そんな難しいことを考えていたのか。よくなるものも、よくならないぞ」
 和彦の言葉から呆れたような響きを感じ取ったのか、優也が布団を頭の先まで引き上げようとしたので、慌てて引き止める。
「考えすぎだっ。……他人にあれこれ説明して、状況を取り繕う手間が惜しかったんだろう。宮森さんは」
「まあ、どうでもいいんだけど。叔父さんの、組での評価なんて。ただ、僕が、今みたいな生活を送れなくなるのは、困る」
 優也の憎まれ口が本心から出ているものなのか、和彦には判断がつかない。ただ、額面通り受け取る気にはなれなかった。粗野な言葉を使う優也から、悪意らしきものは感じないからだ。
「利用しているのかもしれないが、君のことを気にかけてやってくれと頼んでくる人間もいるんだ。そう卑下したもんじゃない」
「……その頼んできた人間ってのは、ヤクザなんだろ」
「今のところぼくと君の周りには、ヤクザしかいないんだから、まあ、そうだよね」
 優也は小声で何かブツブツと洩らしていたが、憎まれ口をはっきりと聞くことはできなかった。
 前回よりは遥かに友好的に会話ができ、診察に対して優也が協力的であったことにひとまず満足して、和彦は体温計と聴診器を仕舞う。そして、とにかくしっかり栄養をとって、体をよく休めるよう言い含めておく。
「とにかく咳が気になる。もう少し様子を見て、咳が治まらないようなら、布団で簀巻きにしてでも病院に連れて行く。……ぼくは正直、切ったり、縫ったり、ときどき骨を削ったりはしているけど、呼吸器系の病気はあまり扱ったことがないんだ。こういうことを聞いたら君だって、専門医に診てほしくなるだろ」
「謙遜するなよ。あんたは十分、名医だと思うよ。――佐伯先生」
 なんとも癇に障る言い方だ。勤務していた税理士事務所でもこの調子だったのだろうかと、聞いてみたくはなったが、好奇心は猫を殺すという、どこかの国のことわざが脳裏を過る。和彦はとりあえず、優也の皮肉にムッとしたふりをしておいた。
 これで帰ると告げて、いそいそと立ち上がったところで、優也が布団の下から片手を出し、自分の頭上を指さした。
「ベッドの下に、僕のスマホが落ちている」
 ベッドと壁の隙間を覗き込むと、確かにスマートフォンが落ちている。腕を伸ばしてなんとか拾い上げた和彦は、優也のてのひらに載せてやる。
「なあ、あんた、LINEやってないの? 僕、喉がこの調子だから、電話で話すより、文章でやり取りするほうが、楽なんだけど」
「……やり取り?」
「僕のかかりつけ医になったんなら、当然。病気のことだけじゃなく、いろいろと、相談したいことも出てくるかも、しれない。いちいち、叔父さんのところに話を通すの面倒だし」
 かかりつけ医が欲しいなら、それこそ病院に行けばいいだろうし、個人的な相談も、他にもっと適任がいるのではないか。
 何より気になるのが、組を通さずに優也と関わりを持つことが、果たして許されるのだろうかということだ。ある意味、身元はしっかりしているのだが――。
「スマホは持ってないんだ。だから、文章でやり取りしたいなら、メールだな」
「……組長のイロやってるなら、スマホぐらい、買ってもらえばいいだろ」
 さきほどの意趣返しのつもりなのか、呆れたように優也に言われる。実のところ周囲からはさりげなく、スマートフォンに切り替えたらどうかと勧められてはいるのだ。かつて、和彦と同じ機種の携帯電話を購入した千尋も、仕事ではスマートフォンを使用し始めたようだ。
 クリニックのスタッフたちも、休憩時間となると熱心にスマートフォンの画面を見つめているので、気にならないといえばうそになるが、だからといって自分が持ちたいかというと、それは別の話だ。
 和彦は一声唸ると、前髪に指を差し込む。
「買っても使いこなせないし、あまり手軽に、誰かとやり取りできるようになるのは、嫌なんだ。……息が詰まって、相手を遠ざけたいと思い始めそうだ」
 優也は一瞬、何か言いたそうな顔をしたが、次の瞬間には大きなくしゃみをする。和彦はマスクの下でため息をつき、もう一度忠告しておく。
「熱が少し下がったからって、油断しないように。いつぶり返しても不思議じゃないんだからな。何かあったら、ショートメールでSOSと送ってくるんだぞ」
 返事のつもりなのか、優也は鼻をすすり上げた。




 ビルを出た和彦は、白い息を吐き出して、空を見上げる。今日はクリニックの通常業務のあと、業者を入れてのワックスがけを行ったため、いつもより二時間ほど遅くなってクリニックを閉めた。
 和彦自身は作業に立ち会っていただけなのだが、それでもやはり、いつも以上の疲労感がある。そのせいか、歩く足取りは重い。
 夜遊びには寛容なくせに、仕事からの帰宅が遅くなることにはあまりいい顔をしない賢吾から、どんな小言をいわれるのだろうかと考えているうちに、いつものように傍らにスッと車が停まった。
「はー、疲れた……」
 車が走り出すと、シートにぐったりと身を預けて和彦はこぼす。前列に座る組員から、お疲れ様ですと声をかけられ、もぞりと身じろいで姿勢を正す。
「君らもだ。ぼくを待ってたせいで、仕事終わりが遅くなっただろ」
「わたしらはかまいませんよ。先生を待っている間は、交代でのんびりできますから」
 和彦に気をつかっての発言なのだろうが、ここは直に受け止めておく。
「ワックスがけは終わったから、あとはクリニックのスタッフたちとの食事会があって、大掃除――……。あっ、御堂さんたちとの忘年会もあるんだ」
 昨日御堂から、忘年会の日程が決まったと連絡が入ったのだ。店選びと予約は任せてほしいとのことで、甘えることにした。すでに中嶋にも伝達済みで、何事もなければ、秘密の忘年会はクリスマス前に開催されるだろう。
「少しぐらい、楽しいことがないとなあ……」
 和彦の呟きに、助手席の組員がちらりと振り返り、よくわかっていない顔をしながらも頷いてくれる。ふふっ、と笑った和彦は、ついでとばかりに尋ねてみた。
「組長は、もう戻っているのか?」
「夕方、一旦戻られて、またすぐに出かけられたそうですが……。本宅に電話して、確認してみます」
「いや、いいんだ」
 和彦もそれなりに忙しいが、賢吾には負ける。それはもう、比べるのもおこがましいレベルで。最近は特に忙しいようで、そこに、自分の抱えた厄介な事情も影響しているのではないかと、和彦は気が気でない。
 賢吾に尋ねたところで、うまく躱されるのがオチだろうが。
 物思いに耽っていた和彦の耳に、携帯電話の着信音が届く。組員のものだ。即座に電話に出た組員が抑えた声音でぼそぼそと話したあと、困惑した。そう、後ろから見ていてもわかるほど。
 そして、和彦を振り返った。
 この瞬間、ざわりと肌が粟立った。困惑を隠しもしない組員の様子から、嫌なものを感じ取ったからだ。
 組員から、本宅で何が起こった――起こっているのか、手短に告げられて、血の気が引く。和彦は激しく動揺し、無意識に自分の手の甲に爪を立てていた。
「組長に指示を仰ぎますから、先生は一旦、組事務所で待たれたほうが……。とにかく今は、本宅に戻らないでください」
「だけどっ……」
「組で対処します。先生は心配しないでください」
 そうではないと、身を乗り出そうとする。なんとか動揺を抑え込んだ和彦は、決然として告げる。
「構わないから、このまま本宅に向かってくれ」
 当然のように組員二人は反対したが、和彦は聞き入れない。組の事務所に連れて行かれたところで、自分一人で本宅に戻るだけだとまで言うと、ようやく賢吾に連絡を取ってくれる。すでに本宅からの報告を聞いていたという賢吾は、和彦を説得しようとはしなかった。
 大丈夫かと短く問われ、平気だとやはり短く応じる。その頃には本宅の建物が見えてきたため、和彦のほうから電話を切った。
 車がゆっくりと本宅の前に停まる。立派な門扉の前には、すでに数人の人影が立っており、それぞれが車のライトに一瞬眩しげに目を細めた。その中に一人、組員ではない人物の姿があった。
 和彦は息を吸い込むと、覚悟を決めて車を降りる。その人物は、周囲を取り囲む組員たちの鋭い空気に憶した様子もなく、スッと和彦に歩み寄ってきた。
 門扉前を照らす屋外灯の明かりを受け、銀縁の眼鏡が冷たく光を反射する。
 和彦は、ブルッと身震いをしてから、掠れた声を発した。
「――……兄さん、どうしてここに……」
 即座に頭に浮かんだのは、俊哉がこの場所を教えたのだろうかということだった。つい、俊哉もいるのではないかと探してしまったが、それはありえないことだと気づく。
 そう、長嶺組組長の本宅に、現役官僚が押しかけてくるなど、あってはならないことだ。だが、英俊はたった一人でここにいる。
 愕然としながら和彦は、目の前にいるのは本当に英俊なのだろうかと、自問する。こんな行動は、あまりに英俊らしくない。
 もっとも、自分は兄のことなど、実は何も知らなかったのだと、最近思い知らされたばかりだが――。
「本当に、囲われ者として生活しているんだな。ヤクザに大事に守られて、いいご身分だ」
 開口一番、吐き捨てるように英俊に言われ、和彦はそっと眉をひそめる。反論できる立場でもなく、またその気もなかったため、状況の説明を求めて、英俊とともに外にいた組員に視線を向けた。
「先生に会わせろと、突然訪ねてこられたんです。ここにはいないと告げて、お帰りいただこうとしたのですが、だったら警察を呼んで中を確認するとまでおっしゃられて……。ご覧のとおり、押し問答になっていました」
 和彦は微かに震えを帯びた息を吐き出すと、迷惑をかけたと組員たちに謝る。それが気に障ったのか、英俊が目を吊り上げた。
「謝る相手が違うだろっ」
 さほど大きな声ではないものの鋭い口調に、和彦はビクリと身を震わせる。
 常に落ち着いた物腰の兄が、自分でも制御できない何かによって突き動かされているのだと悟るには、それで十分だった。不思議なもので、和彦のほうは一瞬にして冷静さを取り戻す。
「ここで立ち話をしていても、組の迷惑になる。場所を移動しよう」
「……中に入れてくれるのか」
「本気で、入りたい? 兄さんの目的は、長嶺組の組長宅の見学じゃなく、ぼくに話――面罵したいからじゃないのか。言っておくけど、組のテリトリーに入ったら、ぼくは〈敵〉から徹底的に守られることになる。兄さんはぼくを、髪の毛一本、傷つけることが許されないよ」
 露骨に挑発的な物言いをしてみると、予想通り、英俊もいくらか冷静さを取り戻したようで、冷ややかな笑みを唇の端に浮かべる。
「味方が多いと強気だな。まあ、いい。わたしは、お前と話せるなら、場所はどこでもいい」
 和彦は組員たちに、ここから離れておらず、腰を落ち着けて話ができる場所はないだろうかと尋ねる。彼らは顔を寄せ合って相談したあと、近所のファミリーレストランはどうかと提案してきた。差し迫った状況であることや、今の時間を考えると、悩む時間も惜しかった。
 和彦は組の車に、英俊は自分が運転してきた車にそれぞれ乗って、速やかにファミリーレストランへと移動した。
 正直、騒ぎを聞き付けて、いつパトカーが駆けつけるかと気が気でなかった。組にとってもよくないが、失うものが大きすぎる英俊は怖くなかったのだろうかと思う。
 大胆というより無謀。今夜の行動は、本当に英俊らしくない。だからこそ、英俊を駆り立てる何かがあったのだと考えざるをえない。
 和彦は後部座席で小さく嘆息すると、こめかみを指で押さえた。
 先に目的地に到着した和彦は、組員たちを車で待たせて一人で店内に入る。案内されたテーブルに着くと、さほど時間を置かずに英俊もやってきた。
 夕食時の混雑もすっかり落ち着いた様子の店内には、女の子のグループが顔を寄せ合って熱心に話し込んでいたり、一人で黙々と食事を掻き込んでいる男性の姿がちらほらとあるだけで、それぞれが自分たちの時間に没頭している。よく似た顔を強張らせた男が二人、ドリンクバーに立ったところで、一瞥すらくれない。
 カップにコーヒーを注いでテーブルに戻ったものの、急に引き絞られるように胃が痛くなり、とてもではないが口をつける気にはなれない。別の飲み物にすればよかったなと、ぼんやり考えているうちに、向かいの席に英俊が座った。
 ちらりと視線を上げると、英俊は眼鏡をずらし、疲れた様子で目尻を揉んでいた。和彦は思わず話しかける。
「……仕事、忙しいみたいだね」
「十二月だからな。この時期は、いつものことだ」
 英俊と他愛ない会話を交わせたことに、むず痒いような感慨を覚える。
 眼鏡をかけ直した英俊は、切りつけてくるような目で見据えてきた。
「――お前、年末年始に家に戻ってくるそうだな」
 やはり、と心の中で呟いて、和彦は頷く。
「父さんに言われて……。ぼくがいつまでも行方知れずのままだと、都合が悪いみたいだから。それに兄さんのほうも、何か事情があるんだろう? 兄弟で同席する場が設けられそうで、断れないって……」
「兄弟、か」
 毒を含んだ英俊の呟きに、和彦は反射的に身を竦めながら、ぼそぼそと応じる。
「兄さんが嫌なら、ぼくは別に――」
「いや、父さんが作ったせっかくの機会だ。利用させてもらおう。〈彼女〉が、お前に一度会ってみたいとせがんでくるんだ」
 たった一つの単語から、かつて鷹津から聞かされた話を思い出した。
 俊哉が、ある企業の創業者と頻繁に会っており、その人物には花嫁修業中の年頃の孫娘がいるということを。政界進出の準備を進めているらしい英俊にとって、家柄に申し分のない伴侶は必要だろうと、和彦は自然にそう考えたのだ。
 切り出すことにためらいを覚えたが、質問しないほうが不自然だろう。和彦はわずかに上擦った声で問いかける。
「兄さんが今、つき合っている人?」
「まあ、そんな感じだ。父親同士が親しいと、話も早い。来年の春か夏には婚約ということになるだろう。その前に、こちら側の家族全員と会っておきたいんだそうだ」
「……焦っただろう。そんな話になって」
「いっそのこと、お前の居場所がわからないままでいてくれたほうが、ありがたかった。状況は最悪だ。ヤクザが絡んでいるうえに、お前がどうやって生活しているかわかったら、腸が煮えくり返るなんてものじゃなかった。和彦は出奔したままだと、そう言い続けていればいいじゃないかと思ったんだ。だけど――」
 俊哉はそんな曖昧な状態を許さなかった。英俊の口ぶりから強い苛立ちを感じるが、和彦にはどうしようもできない。佐伯家のすべての事柄に決定権を持っているのは俊哉なのだ。
「父さんには、父さんの考えがあるんだろう。わたしの知らないことを、あの人は知っている。……そう、納得はしていた。お前の処理は、父さんに任せておけばいいと……」
 ひどい言われようだと、ひっそりと苦笑を洩らした和彦だが、神経を針で一刺しされたように、何かが気になった。
 よくも悪くも、父親のやり方を知っている英俊がなぜ、長嶺の本宅に押し掛けるようなまねをしたのか。無謀な行動に出た本当の理由があるはずだ。それを和彦は知りたかった。より正確に言うなら、確かめたかった。
「――この際だからはっきり言うけど、父さんはぼくの今の生活について、詳しいことを兄さんに話すつもりはないように思えた。大事なことは全部自分で仕切って、思う通りに進めるつもりだと。だから……、驚いたんだ。兄さんが、長嶺の本宅に来たことを。それ以前に、ぼくの事情を全部知っていることに」
 俊哉ではないとしたら、選択肢は非常に限られる。
「……ぼくのことを、兄さんは誰から聞いたんだ。本宅の住所も、その人から? それとも、わざわざ調べた?」
 和彦の問いかけが聞こえなかったのか、英俊はカップに視線を落としていた。兄さん、と呼びかけると、ハッとして顔を上げ、次の瞬間には憎々しげに睨まれた。
「ヤクザの組長の居宅なんて、わたしが調べるはずがないだろう。教えてきたのは、無礼で下品な刑事――いや、元刑事だな」
 鷹津だ。この瞬間、心臓をぎゅっと鷲掴みにされたような苦しさに襲われ、和彦は息を詰める。その苦しさが治まってすぐに、鷹津が今どうしているか、知りたいと思った。
 その気持ちが顔に出たらしい。英俊はレンズの奥の目を軽く見開いたあと、うっすらと笑みを浮かべた。
「あの元刑事、お前に懸想しているのか? たまに顔を合わせると、妙に熱っぽい目で、わたしの顔を見てくるんだ。嫌になるほど、わたしとお前はよく似てるからな」
「鷹津は、兄さんたちの近くにいるのか……」
 気になるか? と囁くように問われ、和彦は唇を引き結ぶ。
 鷹津という男がいまだに、自分の中に強烈な存在感を残していることを、身をもって知る。名が出るだけ、存在を匂わされるだけで、この有り様だ。そして、そんな和彦の様子を、英俊が見逃すはずもない。
「もしかしてお前、あの男とも寝ていたのか? ……聞くまでもないな。その様子だと。呆れたもんだ。――汚らわしい」
 屈辱感と怒りから、カッと顔が熱くなった。
 自分は、英俊に侮辱されるためだけに、こうして座っているのだろうかと自虐的な想いに囚われ、すぐに否定する。取り乱した様子で本宅にやってきたのは、英俊なのだ。そこまでしても、和彦に会う必要があった。
 胸の奥からドロリとどす黒い感情が湧き出る。冷たい兄を、言葉で傷つけてやりたいという衝動に抗えなかった。
「……いまさら、ぼくの破廉恥な私生活を知ったからって、兄さんは怒鳴り込んできたりはしないはずだ。それこそ、父さんに任せておけばいいんだから。でも、そうしなかった。〈誰か〉が、兄さんを刺激したんだ」
 カップにかかった英俊の長い指がピクリと動く。〈誰か〉の名を、あえて和彦が口にするまでもなかった。堪えきれなくなったように、英俊から切り出したからだ。
「――……里見さんは、お前の里帰りのことをとっくに知っていた。……父さんとお前が二度目の話し合いをした場に同席していたと、今日になって里見さん本人から教えられた。本当か?」
「そうだよ」
 そう答えた瞬間、驚いたように英俊が目を見開く。その反応を、ひどく冷めた目で和彦は観察していた。
「里見さんから聞かされて、居ても立ってもいられなくなったんだね。そんなに、気に食わなかった? 兄さんの知らないところで、ぼくらが大事なことを決めていたの」
 睨みつけてくる英俊の胸中には今、どんな感情が渦巻いているのだろうと、傲慢な想像を巡らせる。
 和彦は、かつて里見と体の関係を持っていた。英俊は現在、里見と体の関係を持っている。和彦と里見の間に特別な感情はあったが、果たして英俊と里見との間はどうなのか。
 少なくとも英俊からは、さきほどの様子からも、里見への強い執着めいたものを感じるが――。
 ほの暗い優越感はすぐに吐き気へと変わり、我に返った和彦は顔を強張らせた。
「ごめん、兄さん……」
 小さく謝罪すると、瞬く間に顔を紅潮させた英俊がカップを取り上げ、コーヒーを和彦にぶちまけてきた。咄嗟に顔を背けたが、まだ熱いコーヒーが首筋や手にかかる。突然のことに驚いた和彦は、呆然として英俊を見つめる。
 一方の英俊は、自分の行為に動揺した素振りを見せたが、すぐに気を取り直したように、低い声で言った。
「お前が、わたしを憐れむな」
 何事もなかったように立ち去る英俊の後ろ姿を、打ちのめされた気分で和彦は見送った。
 店内は静まり返っていたが、和彦が紙ナプキンでテーブルの上のコーヒーを拭き始めると、ぎこちなく会話が戻っていく。
 うかがうように向けられるいくつもの視線から逃れるように、テーブルの上を片付けた和彦も席を立つ。支払いを済ませて店を出ると、血相を変えて組員が駆け寄ってきた。
「先生っ……」
 どうやら歩道に面した窓から、店内の様子を見ていたらしい。大丈夫だと応じた拍子に、髪先からコーヒーが滴り落ちた。甲斐甲斐しく組員がハンカチで拭いてくれるのに任せながら、念のため尋ねてみる。
「兄さんは?」
「先に駐車場を出られました」
「そうか……」
 和彦は力なく応じて顔を伏せる。その拍子に、コーヒーがかかった首筋がピリッと痛んだ。


 文机に向かい、物憂げに携帯電話を眺めていた和彦は、肩から落ちそうになった羽織をかけ直す。
 突然の英俊の来訪によって浮足立っていた本宅内の空気は、ようやく落ち着きを取り戻しつつあるようだった。いつになく大きく響いていた足音や話し声も、耳を澄ませてようやく聞き取れるほどとなっている。
 和彦のほうは、何事もなかったようにというわけにもいかず、申し訳なさと憂鬱さから、遅めの夕食もほとんど喉を通らなかった。あとから帰宅した千尋は、事情を聞きたそうに客間の前を行き来していたが、和彦の顔を一目見て、おとなしく自分の部屋に戻ったようだ。
 本当は早く説明して安心させたほうがいいのだろうが、今夜はもう何をするのも億劫だ。
 だから里見に、どうして英俊に余計なことを言ったのか、説明を求めるメールを打つことすらできない。仮に打てたとしても、里見のことなので、折り返し電話をかけてくるだろう。そこで、自分が冷静に話せる自信がなかった。どうして英俊と関係を持っているのかと、何かの拍子に里見に詰問してしまいそうだ。
 秘密を抱えているのなら、ずっと胸の奥に抱えておけばいいのに――。
 英俊と会ったことで湧き出た黒い感情が、まだ和彦の中でのたうち回っている。英俊に対してだけではない。里見にも、事実という毒を吹き込んできた俊哉にも怒りを覚えるのは、そのせいだろう。一方で、自分に怒る権利はないのだともわかっているのだ。
 重苦しいため息をついて、携帯電話をやっと手元から離す。気が高ぶって眠れそうもなく、仕方なく安定剤の力を借りようとしたが、小物入れを覗いて、失望の声を洩らす。一錠も残っていなかった。
 組に頼めば、処方箋もなく安定剤を入手してもらえるが、手軽さから常用する事態を恐れた和彦は、友人の心療内科医に毎回処方してもらっている。ただ、ここのところの多忙さもあって、安定剤が少なくなってきていることに気づいてはいたが、受診を後回しにしていた。
 今夜のような出来事があると、暇なときに、などと悠長なことは言っていられない。明日にでも予約を入れておこうと、たぐり寄せたメモに書き留めておく。
 ふと、客間の前に誰かやってきた気配を感じた。
 障子越しにぼんやりとした影が動き、一瞬、また千尋がやってきたのかと思ったが、そうではない。そもそも足音からして違う。
「――和彦」
 夜気を震わせるバリトンの響きに、和彦は小さく肩を揺らす。ざわりと全身の感覚がざわついた。
 部屋に入ってきた賢吾は一目見て湯上がりだとわかる姿で、濡れ髪のうえに、浴衣の合わせから覗く肌には汗が伝い落ちている。和彦は苦い顔をする。
「そんな姿でうろうろしてたら、風邪をひくぞ」
 賢吾は、剣呑とした空気を隠そうともしない。いきなり畳の上に胡坐をかくと、短く切り出した。
「何があった」
 やはり、和彦の家族が本宅に押し掛けてきた事態に怒っているらしい。当然かと、反射的に顔を伏せた和彦だが、これ以上賢吾に不愉快な思いをさせられないと、なんとか口を開く。
「……兄さんは感情的になってた。抑え切れないものがあって、本宅に押し掛けてくるなんて行動に出たみたいだ」
「エリート官僚が、ヤクザの組長の家に押し掛けてくるなんざ、子供でも危険だとわかる。そこまでするぐらい感情的になるなら、やっぱり相応の理由があるだろう」
 里見が関係あるとは、さすがに言えなかった。上手い言い訳も思いつかず口ごもる和彦を、賢吾はまっすぐ見つめてくる。大蛇が潜む物騒な目を、どうしても見つめ返すことはできなかった。
「すまなかった……。兄さんだけじゃなく、あんたにとって――組にとっても危険なことなのに。ぼくのせいで……」
「行動を起こしたのは、お前の兄貴だ。離れた場所にいる人間の行動にまで、お前が責任を負う必要はないだろ」
「でも、ぼくのせいだ。ぼくの存在が、兄さんを苛立たせて、怒らせる」
「だから何をされても仕方ないと?」
 賢吾の声音が凄みを帯びる。
「向こうにとってお前がどんな存在だろうが関係ない。俺にとってお前は、大事で可愛いオンナだ。それをキズモノにされたら、腹も立つ」
 そう言って賢吾が片手を差し出してくる。意味がわからず戸惑う和彦に向けて、今度は軽く手招きをしてきた。おずおずと這い寄ると、腕を掴まれ引っ張られた。
 あごを掴み上げられ、賢吾が顔を近づけてくる。このとき本気で、首筋に喰らいつかれるのではないかと危惧したが、もちろんそんなことをされるはずもなく、首筋を食い入るように見つめられた。
「――……赤くなってるな」
 賢吾は、英俊の取った行動について、しっかり報告を受けているようだ。和彦はつい賢吾から視線を逸らしていた。
「手当てはしたのか」
「大したことはない。一応冷やしたけど、水膨れはできてないし……」
「ひでーことをしやがる。コーヒーをぶっかけるなんざ」
 荒事に慣れているはずの男の口から出た言葉に、つい微苦笑を浮かべる。
「熱かっただけで、痛くはなかった。……引っぱたかれたりするより、マシだ」
「お前に痛みを与え続けてきた人間が、な。そこまで取り乱していたということか」
 ここで首筋に熱が触れ、和彦は身を震わせる。一瞬、さきほどかけられたコーヒーの熱さが蘇ったが、さほど高温ではなく、じわりと肌に溶け込み、心地よさを生む。賢吾の指先の熱だった。和彦は小さく喘ぐ。
「……兄さんに、ぼくのことをいろいろと吹き込んだ人がいるみたいだ。それで動揺して――」
「その、吹き込んだ人間ってのは、俺が知っている奴か?」
 耳に直接注ぎ込まれる低い声に、和彦は甘い眩暈を覚える。聞かれるままなんでも答えてしまいたくなる誘惑に、なんとか抗ったが、その代わり返事ができない。ふうっ、と賢吾が息を吐き出した。
「お前の父親と兄貴の間で、情報共有が完璧には行われてないということか。そうでなかったら、今夜みたいなことにはならなかったはずだ。そして、お前の実家を引っ掻き回そうとしている奴がいる。気のせいか。俺の昔からの知り合いに、そんな悪趣味なことが好きそうな奴がいる。今はどこで何をしているのか知らねーが」
 とうとう首筋に賢吾の唇が押し当てられる。和彦は声を上げると、咄嗟に身を引こうとしたが、力強い腕にしっかりと抱き込まれて動けなくなる。
「賢吾っ……」
「じっとしてろ。ひどいことはしない」
 熱く濡れた舌にじっとりと首筋を舐め上げられて、鳥肌が立つ。不快さからではなく、快感を予期しての反応だが、肌に触れる息遣いに、どうしても和彦は物騒なものを感じずにはいられない。
「お前を狙ってる奴が、俺からお前を引き離そうとして、あれこれ画策してるんじゃないかって、つい心配しちまう。なんたって俺は、嫉妬深くて慎重な男だからな。もっともお前が、愛情深くて淫奔すぎるからというのもあるが」
「人のせいにっ――」
「違うか?」
 覇気に満ちた鋭い笑みを向けられ、言いかけた言葉は口中で消える。和彦は間近から、男らしく端整な顔を見つめていたが、ようやくあることを察した。ぎこちなく賢吾の頬にてのひらを押し当てる。
「……怒って、くれてるんだな」
「ああ。かなり、機嫌が悪いぞ」
 それは本当だろう。臆した和彦はまた顔を背けようとしたが、途端に命令された。
「こっちを見ろ。和彦」
 言う通りにすると、賢吾の顔が近づいてくる。ゆっくりと唇が重ねられ、最初は緊張から身を固くしていたが、柔らかく何度も唇を啄まれているうちに力が抜けていく。それを待っていたように、ちろりとした先で唇を舐められた。
 求められるままに唇を開くと、傲慢に舌が入り込んでくる。口腔の粘膜を舐め回されてから、戸惑う和彦の舌はあっさりと搦め捕られる。淫らに絡め合っているうちに引き出され、甘やかすように吸われたあと、甘噛みされる。この時点ですでにもう、腰が砕けそうになっていた。
 和彦は震える手で、賢吾の浴衣の胸元を掴む。一方の賢吾は余裕たっぷりで、和彦の舌と唾液を味わいながら、肩にかけた羽織を滑り落してしまう。浴衣の合わせを大きく広げられ、露わになった胸元に大きなてのひらが這わされる。ふいに唇が離れたかと思うと、賢吾に上半身を検分された。
「首以外は、赤くなってないようだな」
「だから言っただろう。大したことないって……」
「大したことになってたら、タダじゃ済ませなかった。お前の兄貴でもな」
 このとき見せた賢吾の氷のように冷たい表情に、本気で和彦は震え上がる。そんな和彦の機嫌を取るように唇を吸いながら、賢吾が片腕できつく抱き締めてくる。和彦もおずおずと広い背に両腕を回した。浴衣を通しても体の熱さが伝わってきて、じわりと和彦の体温が上がる。
 再び見つめ合うと、今度は和彦から求めて、賢吾と唇を重ね、濃厚な口づけを交わした。賢吾の匂いと体温に包まれながら、すっかり覚えてしまった唾液の味を感じていると、怖いはずの男の側が一番安心できるのだ。
 もちろん、得るのは安堵感だけではなく――。
 賢吾の手に、当然の成り行きのように浴衣の裾を割り開かれ、両足の間深くに差し込まれる。下着の上から、興奮の兆しを見せているものを軽く撫でられた。和彦はうろたえ、賢吾の手を柔らかく押し戻そうとしたが、芝居がかった口調で恫喝される。
「勝手な行動を取って、俺をヒヤヒヤさせたことに対する仕置きが必要だろ」
 次の瞬間、突き飛ばされて畳の上に倒れ込むと、獣のように賢吾がのしかかってきた。
 強引に下着を引き下ろされ、下肢を剥き出しにした状態で両足を大きく広げられる。この時点で和彦は、大きな肉食獣に押さえつけられた獲物のように、弱々しく抵抗することもできなかった。
「うっ……」
 燃えそうに熱くなった手に欲望を掴まれ、容赦なく擦り上げられる。突然始まった荒々しい愛撫に、反射的に畳に両足を突っ張らせ、腰を浮かせる。さらに敏感な先端を爪の先で弄られ、堪らず上擦った声を上げていた。
 それでも、賢吾から与えられる刺激を無条件で受け入れてしまう体は、瞬く間に反応してしまう。先端からじわりと透明なしずくが滲み出てくると、賢吾が両足の間に顔を埋め、間近から欲望を見つめてくる。熱っぽい眼差しを受けて、ふるっと和彦の欲望が揺れた。
「興奮してるのか、和彦」
「仕方、ないだろっ……」
「そのほうがお前らしい。嫌なことは、とっとと忘れちまえ」
 半ば身を起こした欲望を舐め上げられて、腰が震える。我ながら度し難いが、賢吾の口腔に含まれたとき、和彦は上体をのたうたせて吐息をこぼしていた。欲望の根本を強く擦られながら、唇で括れを締め付けられ、先端に丹念に舌を這わされる。ときおり賢吾が軽く歯を当ててくるが、それがゾクゾクするような被虐的な悦びを生むのだ。
「あっ、はあっ、はあっ、もう、やめて、くれ――」
「言っただろう。仕置きだって。いつもに比べたら、優しいほうだ。こうやって、甘やかして、感じさせているんだからな」
 いやらしく蠢く賢吾の舌が、柔らかな膨らみに這わされる。汗ばんだ内奥の入り口を指の腹で擦られて、和彦は媚びを含んだ声を洩らす。
「ひっ、うぅっ」
 腰が甘く痺れてくる。意識しないまま賢吾の頭に手をかけ、濡れた髪を掻き乱す。責め苦のような快感から逃れたいのに、一瞬でも愛撫が止まると、苛立ちの声を上げたくなるのだ。
 いつもであれば、とっくに内奥を解すため、指を挿入されるところだが、今夜の賢吾はただ入り口をくすぐってくるだけだ。もどかしくて腰を揺すると、和彦の求めがわかったように賢吾が顔を上げ、意地の悪い表情を浮かべる。
「もう時間が時間だからな。今夜は、〈こっち〉はなしだ。だから――煩悶して苦しめ」
 和彦は、賢吾の髪を鷲掴んではみたものの、引っ張るなどという命知らずなまねはできない。涙目で睨みつけると、賢吾は悠然と再び欲望を口腔に含んだ。柔らかな膨らみを巧みにてのひらで揉みしだかれ、張る意地もなくなった和彦は嬌声を上げる。
 あっという間に上り詰め、賢吾の口腔に精を放っていた。
 畳の上で体を投げ出して息を乱していると、賢吾が傍らにやってきた気配がする。何事かと、緩慢に顔を向けたところで、すぐに賢吾の意図を察した。
「……それも、仕置きの一つか」
「嫌か?」
 胡坐をかいている賢吾は、己の欲望を露わにしている。和彦はのろのろと起き上がると、乱れた浴衣を直す。賢吾から揶揄するように言われた。
「几帳面だな」
 和彦は答えず、賢吾の両足の間に顔を伏せる。後頭部に手がかかり、髪を撫でられて腰が疼いた。
 すでに十分な大きさと硬さを誇る欲望を、和彦はまずそっと舐め上げた。括れに唇を押し当て、逞しい根本へと滑らせる。舌を絡ませ、ときには吸い付き、指の輪で優しく扱いているうちに、圧倒されるような力強さを漲らせていく。
 はあっ、と深く息を吐き出した和彦は、先端に唇で触れると、軽く吸い上げる。それからゆっくりと口腔深くに呑み込んでいくと、後頭部にかかった賢吾の手にぐっと力が入った。
 口腔の粘膜でしっとりと包み込む。すぐには動かず、ただ口腔に含んで熱と脈動を感じていると、賢吾の手にあごの下をくすぐられ、その感触に喉を鳴らす。頭上で、賢吾が笑う気配がした。
「なかなかいいもんだな。和室にクリスマスツリーってのも」
 今言うことかと、上目遣いで睨みつけようとして、さらに喉元を撫でられて息が詰まる。同時に、賢吾の欲望を締め付けていた。
 口淫を続ける和彦に対して、さりげなく賢吾が切り出してきた。
「お前が今いるマンションも知られているだろうし、今度はそっちに誰が押し掛けてくるかわかったもんじゃねーから、引っ越すか?」
 欲望を含んだままの和彦は答えることができない。それを承知のうえで、賢吾は続ける。
「新しい部屋を借りてやってもいいし、なんなら、ここに移ってきてもいい。荷物が入りきらないと言うなら、隣の部屋も使え。お前が暮らしやすいようにしてやる」
 喉元を撫でていた手がじわじわと移動し、胸元をまさぐり始める。和彦は鼻にかかった声を洩らすと、頭を上下させて淫靡な湿った音を立てながら、口腔から欲望を出し入れする。賢吾の息遣いが荒くなった。
「……できることなら、誰も知らない場所にお前を閉じ込めちまえば、いいんだろうがな。誰にも会わせず、どこにも行かせず。そういう想像をするのは、楽しいもんだ」
 賢吾の手が深く差し込まれ、興奮に凝った胸の突起を指先で弄られる。その刺激のせいだけではなく、賢吾の言葉に和彦は感じていた。
「どうだ、本気で考えてみるか。そんな生活を。俺はかまわないが、さて、お前を大事にしている他の男たちが納得しないだろうな」
 あごが疲れ、唾液が滴り落ちる。限界がきて頭を上げようとした和彦だが、すかさず賢吾に押さえ付けられた。これ以上なく充溢した欲望がドクンと脈打ち、精が迸り出る。和彦は舌を添えて受け止めると、賢吾に言われるまでもなくすべて嚥下する。
 まだ硬さを失っていないものに舌を這わせ、丁寧に先端を吸ってから、賢吾の腹部に顔を寄せる。まるで幼子にするように、賢吾は優しく頭を撫でてくれた。
「年が明けてから、よさそうな物件を探させる。どこがいいかは、お前が実際に見て決めたらいい」
 口元を浴衣の端で拭ってもらい、呼吸を整えてから和彦は応じる。
「……ぼくは、どこだっていい。あんたが選んでくれたところなら……」
 あまり可愛いことを言うなと、賢吾が低く笑い声を洩らす。なんとなく、和彦もひっそりと笑みをこぼしていた。









Copyright(C) 2018 Tomo Kitagawa All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。



第42話[02]  titosokubakuto  第42話[04]