と束縛と


- 第42話(4) -


 和彦の心療内科の担当医は、医大に入った頃からの長年の友人でもある。
 実家が病院を経営しており、跡を継ぐため医大に入学したと言っていたが、そういう使命を背負った学生は、さほど珍しくない。他の同期たちの中にも、同じようなことを語っている者は何人もいた。
 ただ、和彦の友人は少しだけ変わった経歴を持っていた。
 病院を継ぐ気などさらさらなく、理工学部を卒業したあと、一般企業の研究職に就いていたのだという。事情が変わったのは、長男である友人に代わって、婿を取って病院を継ぐ予定だった彼の妹が病に倒れたからだそうだ。
 親兄弟、さらには親戚総出で説得され、友人は医者を目指すことになり、二浪を経て、医大に入学した。
 同期ながら、和彦より九つ年上だが、それでなくてもさまざまな人間が学ぶ大学だ。多少の年齢差を気にする者はいなかった。
「ぼくの友人は、年上のうえに、社会人経験もあったから、けっこう同期たちから頼りにされてたんだ。気さくで大らかで、いつもがさつにガハハと笑って、でも気配りができて。それでも、心療内科の道に進むと言われたときは、さすがに驚いた」
「……ずいぶん買ってるんだ。その人を」
 一緒に車の後部座席に座っている千尋が、拗ねたような口調で言う。自分から聞きたがったくせに、どうして機嫌が悪くなるのだと、和彦は横目でじろりと見遣る。
 今話題に出ている友人の診察を受けるため、土曜日の午前中から出かけているのだが、なぜか千尋が、当然の顔をして車に乗り込んできたのだ。
「一体、どうしたんだ。いままでは、ぼくが病院に行くと言っても、ついてくることなんてなかったし、ぼくの友人のことなんて聞いてもこなかったのに。……そもそも、聞く必要もないだろ。どうせ、お前たち父子、とっくに調べてるんじゃないのか」
「まあ、和彦を診てる友人だというぐらいだし、気にはなったから。……心配なんだよ。〈あんなこと〉があったばかりだし、それでなくても最近、和彦の周りがバタバタしてるから。目を離すと、またトラブルに巻き込まれるんじゃないかって」
「ぼくより、お前が巻き込まれるほうが怖いだろ。組にとっては」
 和彦は視線を前列に向けるが、同乗している組員二人は、和彦の意見に賛同の意は示してくれなかった。
 長嶺組は現在、組同士の大きな揉め事は抱えてはいないそうだが、それでも万が一の事態に備えて、長嶺父子は護衛をつけている。それは、抗争においては有効かもしれないが、堅気――例えば、感情的になった官僚相手にはまったく役に立たない。長嶺の本宅前に立つ自分の兄を見て、和彦は心底肝が冷えたのだ。
「ぼくのことで、お前は無茶をするな。いいな?」
「んー、どうかな。俺、考えるより先に、体が動いちゃうほうだし」
 まったく悪びれずに言う千尋を軽く睨みつける。ヤバイ、という顔をした千尋が、わざとらしく話題を戻した。
「話を聞く限り、和彦と全然タイプが違うし、歳も違うのに、どうして仲良くなったの」
「医学部なんて、同期でもけっこう年齢の幅があるし、グループで課題を解いたり実習もあるから、いちいち気にしていられないんだ。ただ、ぼくはその頃は人見知りがひどかったから、なかなか周りと溶け込めなくて……」
「和彦もそんな頃があったんだ」
「……意外だ、みたいな言い方するな。――話すようになったきっかけは、他愛ないことだ」
「何?」
 遠慮がないなと思いながら、和彦はぼそりと答えた。
「昼ご飯を奢ってくれた。カップラーメンとおにぎりな」
 一拍置いて、千尋がくっくと声を洩らして笑う。和彦らしいとまで言われ、ささやかに抗議をしておこうとしたが、目的地である病院の駐車場に入ったため、ひとまず飲み込んでおく。
 和彦が車を降りようとすると、千尋までドアを開けようとしたので、慌てて制止する。
「お前はここで待ってろっ」
「付き添いなんだから、待合室まで――」
「どこで風邪のウイルスをもらうかわからないんだから、おとなしくしてろ」
 千尋が捨てられた子犬のような顔になったのを確認して、やっと和彦は車を降りることができる。このとき、しっかり見張っておいてくれと、組員に頼んでおくことを忘れない。
 受付に寄ってから、心療内科のある二階に向かう。どこの科の前も、座る場所を探すのも苦労するぐらい混雑しているが、そこを通り抜けてしまうと、驚くほど静かになる。
 やや奥まって、人目につきにくい場所にある心療内科まで来ると、窓口で診察券を出す。ソファに腰掛けて待っていると、予約の時間を十五分ほど過ぎて名を呼ばれた。
 中に入ると、白衣姿の男がデスクの傍らで屈伸をしていた。ぎょっとして一瞬立ち尽くすと、そんな和彦に気づいて男がこちらを見た。
「よお、来たな。佐伯」
 男の羽織った白衣の胸元には、〈橘(たちばな)〉と記された名札がついている。この男が、和彦の友人であり、心療内科の担当医だった。
 さあ座れと言うように、一人掛け用のソファを示される。和彦は一応、こう提案してみた。
「……処方箋だけ出してくれたらいいんだが……」
「お前は毎回、同じことを言うなあ。それで頷く心療内科医がいると思うか?」
「他の医者には言えないから、橘さんに言ってるんだ」
「――橘先生」
 すかさず訂正され、和彦は露骨に顔をしかめて見せる。千尋に説明したとおり、橘は遠慮なくがさつな笑い声を上げた。人によっては眉をひそめるかもしれないが、和彦は違う。聞き慣れた笑い声に覚えるのは、安心感だった。
 和彦がソファに腰掛けると、橘もファイルを手に、小さなテーブルを挟んで向かいに座る。橘の傍らには、にこやかな表情の看護師が立った。
「ぼくのことは、『先生』をつけて呼んでくれたことがないくせに」
「俺は、この男前の顔をどうこうしたいとは思わないからなあ。天地がひっくり返っても、お前が担当医になることはないな」
「脱毛もやっている」
 思わず、といった様子で橘が、あごを覆う強(こわ)いひげに手をやる。ひげだけではなく、癖のある髪もぼさぼさで、ついでに言うなら眉は太く濃い。
「俺の毛を、一本もお前に抜かせる気はないからな」
「わかってるよ……」
 こんなやり取りは、いつものことだった。おそらく橘は、他の患者相手にもこんな感じなのだろう。
 見た目は、はっきりいってむさ苦しい四十男だ。顔の輪郭はごつく、大きな口が特徴的で、間違っても美男子と呼べる容貌ではないのだが、驚くほど目元が柔和で、それが人の警戒心を解いてしまう。学生時代から、子供と老人受けは抜群だった。
 橘は、こちらに質問をしてくる前に、開いたファイルにさっそく何かを書き込み始める。互いに黙り込んだところで、音量をかなり抑えた音楽が流れていることに気づく。
 ずいぶん昔に流行ったクリスマスソングで、これは橘個人の好みなのか、とりあえず世間の流れに乗ってみたのか、どちらなのだろうかと、とりとめもなく和彦は考える。いくら友人とはいえ、心療内科医と向き合うのはやはりどうしても身構えてしまい、こんなことで気を紛らわせようとするのだ。
 なんとなくソファに座り直してから、室内に目を向ける。相変わらず、無駄や彩りというものがない部屋だった。壁も天井も真っ白で、申し訳程度に小さな観葉植物の鉢があるだけ。ずらりと並んだファイルの背表紙すら白い。
「――疲れた顔をしてるな」
 ふいに橘に指摘され、和彦は目を丸くする。医者としてというより、友人として心配していると感じさせる声音だった。
「まあ……、師走だから、いろいろと忙しいんだ」
「お前がここに通い始めてから、ずっと言ってるぞ。忙しい、って。疲れすぎて、眠れないことがあるとも」
「……本当に、忙しいんだ」
「疲労の蓄積で眠れないんなら、睡眠薬を処方するんだが、お前の場合、眠れなくなるほどの不安感のほうが気がかりだ。原因は、自分でわかっているんだろう?」
 このやり取りは何度目だろうかと、和彦はふっと苦笑を洩らす。橘は辛抱強く、同じ質問を投げかけてくるのだ。しかし、自分がヤクザの組長の囲われ者となっているなどと話せるはずもなく、曖昧に誤魔化してきた。だが、今日は違う。
 現在の生活環境以上に、和彦の不安感を掻き立てる存在が現れたため、ようやく橘の質問に答えられるのだ。決して喜ばしいことではないが。
「今の生活に、ここのところ家族が介入してくるんだ。その結果、年末年始の間、実家に滞在することになった。それが気が重くて……」
 橘が目を細める。学生時代の和彦が、家族の話題をあまり口にしたがらなかったことを、年上の友人はしっかり覚えていたようだ。ああ、と意味ありげなため息を洩らすと、ボールペンの尻で頭を掻いた。
「なんだったかな。絵に描いたようなエリート一家……と、同期の誰かが言ってたんだ」
「そう。その家族だ」
「気の重い里帰りになりそうだから、いつもより多めに薬を出してほしい、というところじゃないか? 十二月末までまだ間があるぞ」
「言っただろ。忙しいって。急に予定が入るときがあるから、いつ受診に来られるか、ぼくもわからないんだ」
 ふむ、と声を洩らした橘が、さらさらとファイルに書き込む。
「――食事はしっかりとれているか? もう少し太ってもいいぐらいだが、まあ痩せすぎというわけでもなさそうだ。……お前はなあ、食事に関しては本当に危なっかしい。学生の頃は、王子様みたいな見た目のくせして、いつもモソモソと菓子パンかじってただろ。同じ教室の女子たちが心配して、よく食い物を差し入れしてたよなあ」
 昔のことをよく覚えているなと呆れていると、橘の傍らに立つ看護師の口元がわずかに緩んでいる。さすがに恥ずかしくなった和彦は、慌てて弁明する。
「一年生の頃の話だっ。一人暮らしに慣れてからは、きちんと食事はしていた」
「いやいや。誰彼と、お前をメシに連れ回してたからだろ。……本当に、今はきちんとやってるのか?」
「ぼくよりしっかりした人間に、面倒を見てもらっているから、心配するな」
 橘が、おやっ、という顔を一瞬したが、和彦は気づかないふりをする。そんな和彦の態度を、橘も見逃すはずもない。あごひげを撫でると、橘は目元は柔和なまま医者の顔となる。
「眠れなくなる以外に、気になる症状はあるか?」
 友人同士としての語らいはここまでだと察し、和彦は姿勢を正すと、患者として質問に答え始めた。


 病院を出ると、すぐ側のバス停に並ぶ人たちの列が視界に入った。緩やかなスロープを下りながら、なんとなく眺めていた和彦だが、その列の向こうに立つ千尋に気づき、目を見開く。すぐに駆け寄った。
「何してるんだっ」
「病院には入ってないよ」
「……へ理屈を言うな」
 冷たい風が吹きつける屋外にいて寒くないはずもなく、千尋は両手をダウンジャケットのポケットに突っ込み、首をすくめている。道路を挟んで向かいにある薬局にまで当然のようについてこようとするので、好きにさせた。
「――病院から出てきた和彦が、いままで見たことないような顔してた」
 いつもより数回分多めに処方された安定剤を受け取り、病院の駐車場に引き返していると、こんなことを千尋に言われた。
「どんな顔だ?」
「ちょっと怖い顔。もしかして、どこか悪いって言われたとか……」
 反射的に自分の顔を撫でた和彦は、苦笑いをして首を横に振る。
「いや。患者の立場であれこれ質問されて、自分の健康について考えてたんだ。年が明けたら、人間ドックの予約を入れないかと誘われたけど、正直、気が重い」
「怖いなら、オヤジと一緒に受けたら? 絶対、オヤジのほうがヤバそうだって」
 簡素な検査着姿の賢吾を想像して、噴き出してしまう。ようやく和彦が笑ったことに気をよくしたのか、千尋の足取りが弾むように軽くなる。
「ねえ、せっかく外に出たんだから、どこかで昼メシ食ってから、買い物しようよ。俺、ジャケット見て欲しいんだ」
「そうだなあ」
 ふと和彦を襲ったのは、既視感だった。なんのことはない。一年前の同じ時期にも、こうやって千尋と連れ立って歩いていたのだ。そのことに感慨深さを覚えると同時に、一年前と変わらず自分の隣にいる青年に、愛しさも感じる。
 和彦が向ける眼差しに気づき、千尋がにんまりとする。
「俺に見惚れてた?」
「……寒いのに、よく口が動くな。お前。――感心してたんだ。よくまあ、三十過ぎた男に飽きないもんだと思って」
「他の奴が言ったら、どれだけ自惚れが強いんだって呆れるけど、和彦が言うと、納得するしかないよね。実際俺、欠片ほども飽きてないし。それどころか、ますます好きになってる」
 父親譲りのタラシぶりだと、努めて無反応を装っていた和彦だが、確実に頬は熱くなってくる。さりげなく顔を背け、組の車に逃げるように乗り込む。一方の千尋は悠然としたもので、これからの予定を組員に伝えている。
 シートベルトを締めながら和彦は、ダウンジャケットを脱ぐ千尋にぼそぼそと伝えた。
「ジャケットを選んでやるし、ぼくが買う」
「えっ、なんで?」
「少し早いけど、クリスマスプレゼントだ。クリスマス当日に渡せるかどうかわからないからな」
「誰と一緒にいるかわからないからね、和彦は」
 千尋に限ってこの発言は皮肉でもなんでもなく、心の底からそう思っているのだろう。和彦としても否定はできない。
 嬉しそうに千尋が車を出すよう告げる。そんな姿を見ていると、診察を終え、安定剤も出してもらえた安堵感もあって、和彦の気持ちもいくらか浮き立ってくる。
 車が道路に出たところで、携帯電話の電源を切ったままなのを思い出した。さっそく電源を入れると留守電が残されていた。着信通知に表示された相手の名に、そういえば、と和彦は思い出す。
〈この男〉とも、一年前の今の時期に顔を合わせていた。
 電話がかかってきたのは、ほんの十分ほど前だ。和彦は、話しかけてくる千尋を片手で制しつつ、あとでかけ直すという短い留守電を聞いてから、こちらから電話をかけてみる。
 応じたのは、滴り落ちそうな艶を含んだ声だった。
『――ご機嫌いかがですか。先生』
 たった今、心療内科を受診したばかりだと言ったら、電話の相手である美貌の男はどんな顔をするのだろうかと、皮肉めいたことを考える。
「すこぶるいい。寒いけど、天気がいいからな」
『でしょうね。声を聞けばわかる』
 元ホストらしい調子のよさに、堪らず和彦はくすくすと笑ってしまう。一方の千尋はあからさまにムッとしながら、口の動きだけで問いかけてくる。誰、と。
「それで、何か用か?」
『今日の先生の予定をお聞きしたくて。実はお渡ししたいものがあります』
「はっきり言ってくれ。――秦」
 にじり寄ってくる千尋に聞かせるよう、はっきりと呼びかける。電話の向こうの敏い男は、和彦の状況を察したらしく、息遣いが弾んだ。
『お世話になっている先生に、今年もクリスマスプレゼントをお渡ししたいんです』
 少し気が早くないかと指摘したかったが、和彦も他人のことは言えないため、寸前のところで自重した。


 昼間、さんざん千尋とあちこちで買い物をしたのに、また心が浮き立ってしまう――。
 北欧の輸入雑貨を扱っている店内で、和彦は自分の目がキラキラと輝いているのを自覚していた。とにかく、魅力的な商品が多すぎる。特に今はクリスマスシーズンということもあり、この時期ならではのデザインのものが揃っていた。
 目の毒すぎると、つい顔を背けた先で、使い勝手のよさそうなクッションを見つけ、ふらふらと歩み寄る。その隣には、暖かそうなブランケットがある。ソファに掛けて使えそうだと、思わず手を伸ばしていた。
「――楽しそうですね、先生」
 傍らから声をかけられて我に返る。いつから和彦の様子を眺めていたのか、今いる店の紙袋を下げた秦が顔を綻ばせていた。
「ここなら、きっと先生は喜んでくれると思ったんです。まあ正直、待ち合わせ場所に現れた先生が、どことなくお疲れのように見えたので、連れ回していいものか迷ったのですが」
 色気をたっぷり含んだ流し目を秦から寄越されて、よく見ているなと、和彦はやや呆れた表情で返す。秦がブランケットの一枚を取り上げ、手渡してくる。思った通り、手触りがいい。
「さすがに商売で雑貨を扱っているだけあって、いい店を知っているな。君の店は、北欧雑貨は扱ってなかっただろ。もしかして――」
「あいにく、そこまで手を広げるつもりはありませんよ。本業は、水商売なので」
 胸に手を当て、秦は堂々と言い切る。もちろん和彦に異論はなく、そうだなと頷いてはみたが、少しだけ意地の悪い気持ちが湧き起こる。
「やっぱり、雑貨屋経営は不本意なのか? 最初から乗り気で始めたわけじゃないんだろう」
「とんでもない。見識を広めるという意味では、いいきっかけをくださいましたよ、長嶺組長は。それに、先生も同じでしょう。最初は乗り気ではなかったというなら」
 痛いところを突かれた。和彦に事情があるように、貴公子のような容姿のこの男には、和彦の想像も及ばないような事情がある。そこに、物騒な男たちの代表格である賢吾が目をつけ、秦を庇護下に置いている。まさに、お互い様だ。
「……こんなところで、あの怖い男の話題を出すべきじゃないな。誰に聞かれているか、わかったものじゃない」
「でも先生は、大事にされている」
 ここで秦がふいに声を潜めた。
「もしかして、お疲れの様子なのは――」
 からかわれているとわかっていながら、瞬く間に和彦の頬が熱を帯びる。ムキになって説明していた。
「日中、千尋とあちこち買い物をして回ってたんだっ。時間があるうちに、クリスマスプレゼントを買っておきたくて」
「先生は、渡す相手が多くて大変ですね」
 笑いを含んだ声で言われても、気遣われている気がしない。和彦は大きく頷いた。
「そう、大変なんだ。ついつい、君の分まで買ってしまった。君がもらう山積みのプレゼントの一つに加えてくれ」
「……誤解されてますね」
「何言ってるんだか。元ホストで青年実業家の人脈の華やかさを考えたら、誰だってそう思う」
「もらうものが多いということは、その分、わたしが贈るものも多いということですよ。――そこで、これです」
 秦が紙袋を差し出してきたため、慌ててブランケットを棚に戻して受け取る。
「取り寄せてもらっていたものを、今、受け取ってきました」
「これが、ぼくへのクリスマスプレゼントか?」
「オーナメントです」
 やや胸を張って答えた秦には申し訳ないが、和彦はムッと顔をしかめる。去年と同じじゃないかと即座に言い返しそうになったが、さすがにそれは行儀が悪い。しかし、表情には出てしまう。秦は、ニヤリと笑った。クリスマスの飾り付けがきらびやかな店内にあって、それでも十分目を奪われる美貌が、一層華やかに彩られる。
「今回は、木製のオーナメントなんですよ」
「はあ……。ぼくのクリスマスツリーは今、長嶺の本宅にあるんだ。去年君からもらったものも合わせて、さぞかしきらびやかになるだろうな。ぼくだけじゃなく、組員もちょこちょこと小さなおもちゃを飾り付けているから」
「長嶺組長もおもしろがって、こっそり飾りを足しているそうですよ」
 それは初耳だ。和彦が片方の眉を跳ね上げると、わざとらしく秦が口元を手で覆う。ヤクザの組長と怪しげな青年実業家は、他人のクリスマスツリーの飾り付けについて話すことがあるらしい。
「ぼくが子供だったなら、そういう遊び心も無邪気に喜べるんだが――」
 自分で言った『子供』という単語に、和彦自身の記憶が刺激される。ふと脳裏を過ったのは、もしかして存在しているかもしれない、千尋の次の跡目のことだ。子供にとってクリスマスというイベントはきっと特別なもので、プレゼントをどれだけ楽しみにしているか想像に難くない。
 賢吾は、プレゼントどころか、クリスマスツリーも買ってやったのだろうかと考えたとき、和彦は自分がどんな表情を浮かべたのかわからなかったが、秦がやけに慌てた様子で付け加えた。
「もちろん、オーナメントだけじゃありませんよ。先生に似合いそうだと思ったストールも入っています」
「……ありがとう」
「よかったら、先生が手に取っていたブランケットもプレゼントしますよ」
「いいよ、これはぼくが買う。――気前がいいのはけっこうだが、もっと大事な人間のプレゼントは買ったのか? 抜け目ない君に、こんなことを聞くのは野暮かもしれないが」
 一瞬浮かんだ秦の微妙な表情に、和彦はあれこれと想像を巡らせながら、ひとまず自分の買い物を済ませてくる。
 戻ってみると、秦は場所を移動し、店内に展示された小さなクリスマスツリーを眺めていた。いつもより翳りを帯びた横顔を目の当たりにして、和彦は知らないふりはできなかった。
「中嶋くんとは、会っているのか?」
「まあ、会っているというか、電話で話はしていますよ」
 和彦は眉をひそめる。半同棲に近い生活を送っていた秦と中嶋が、電話でやり取りをしているということは、深刻な事態がいまだに続いているのだ。
「仲違いしたままなのか……」
「子供のケンカとは違いますからね。中嶋からは、折れませんよ。しかしわたしとしても、譲れない部分はある」
「君は……、見かけによらず頑固だな。もっと要領がよくて、柔軟な対応ができる男かと思っていた」
「そのつもりだったんですけどね」
 そういう状況だったなら、他人のクリスマスプレゼントを準備している場合ではなかったのではないか。外面のよさが商売道具でもある男としては、知らない顔もできなかったのかもしれないが、和彦は呆れて嘆息する。
 ここまで打ち明けて開き直ったのか、秦はさらに続けた。
「今日は、先生をダシにして、中嶋を誘い出そうと企んでいたんですよ。聞けば、仕事は休みだと言うので、だったら三人で食事でも、と切り出した途端、他に用があるからと振られました」
「……中嶋くんだって、一人で過ごしたいときもあるだろう」
「本当に一人だと思いますか?」
 皮肉っぽく問いかけられ、和彦は唇を歪める。妙に芝居がかった口調であるからこそ、秦の本心は掴みかねる。この男なら、嫉妬する自分の姿すら楽しんでいても不思議ではない。だからといって、自分が巻き込まれる謂れはない。
「君相手にだけ、機嫌が悪いんじゃないか。少なくとも、何日か前にぼくが予定を尋ねたときは、乗り気でメールを返してくれた」
「へえ。何かあるんですか?」
「大した予定じゃない。ちょっとした忘年会のような――」
 口にして即座に、後悔した。慌てて口元に手をやったが、すでにもう秦は艶然と微笑んでいる。和彦は怖い顔で首を横に振る。
「ダメっ。ダメだからな、ダメっ」
「そんな、犬を躾けるような言い方……。それに、何も言ってないですよ、わたしは」
「言わなくても、その顔を見たら、今何を考えたかわかるっ。だいたい、ぼくと中嶋くん以外に人がいるんだ。見るからに胡散臭い男を連れて行くわけにはいかないだろ」
「……おや、胡散臭い男というのは、もしかしてわたしのことですか?」
 和彦はにっこりと秦に笑いかけてから、慇懃に礼を言って店をあとにする。
 自分たちがいると不審がられるからと、寒いのに店の外で待っていた組員たちと合流し、駐車場へと向かう。
 途中、頬にぽつりと冷たい粒が落ち、反射的に空を見上げる。ここに来るまで雨が降りそうだと思っていたが、そろそろ危なそうだ。
 車に戻った和彦は、もう寄るところはないからと組員に声をかけ、マフラーを外す。秦から受け取った紙袋にちらりと視線を向けてから、余計なことを聞くのではなかったと後悔していた。
 秦と中嶋の仲がこじれたままだとしても、二人で解決してくれなどと言ってしまった手前、首を突っ込むべきではない。そう、頭では理解しているのだが、こじれる瞬間を目の当たりにした身としては、まったく知らん顔をするのは道義にもとる気もする。
 秦はともかく中嶋は、裏の世界での数少ない友人なのだ。
 コートのポケットから携帯電話を取り出し、少しの間見つめていた和彦だが、低く一声唸ってから電話をかけた。


 ドアを開けた中嶋の顔を一目見て、和彦は目を見開く。口を開こうとしたところで、素早く腕を掴まれて玄関に引き込まれた。ドアが閉まる寸前、部屋までついて来てくれた組員に、車で待っていてくれと早口で告げた。
 中嶋が不自然に顔を背けようとしたので、容赦なくあごを掴んで阻む。それからじっくりと、顔を覗き込んだ。
「――……これは確かに、人前には出られないな」
 左頬が赤紫色になって腫れており、只事ではない事態が中嶋の身に起こったとわかる。ハンサムな顔が台無しだ。
 秦と別れたあと、車中から中嶋に電話をかけて話したとき、和彦は漠然とした違和感を感じた。その違和感を無視できなくて、結局、本宅に戻るのをやめ、こうして中嶋のマンションに押し掛けてきたが、その判断は間違っていなかったようだ。
 中嶋のほうは、隠し通そうとしたものがバレてしまい、甚だ不本意そうではあるが。
「先生、勘がよすぎですよ……」
「医者を舐めるな。電話越しに、君の話し方がいつもと違うと思ったんだ。それだけ腫れてたら、口も開けにくいだろ」
 中嶋は否定せず、部屋に上がるよう言ってくれた。
 こうして中嶋の部屋を訪れるのはいつ以来だろうかと、ざっと計算する。初めて訪れたとき、この部屋のベッドには傷だらけの秦が横たわり、中嶋が献身的に面倒を見ていた。
 あのときから、和彦だけではなく、中嶋や秦が身を置く環境も状況も変わった。
「秦さん、俺のことを何か言ってましたか?」
「ぽろぽろと弱音をこぼしていた。あの、色男がだ」
 少しだけ誇張したが、決してウソは言ってない。中嶋は小声で何事か呟くと、腫れた頬をそっと撫でた。
 ここで和彦は、ここに来る途中のスーパーで買ってきた弁当と飲み物が入った袋を、押し付けるようにして中嶋に渡す。お節介かと思いつつも、さすがに手ぶらでは押し掛けられなかったのだ。
 中嶋は袋を覗き込み、はにかんだような笑みをこぼした。
「実は買い物に行ってないんで、何食おうかって悩んでたんです。あっ、座ってください。コーヒー淹れてきますね」
「いいよ。怪我人が気を使わなくて。――ほら、こっち座って」
 ソファに腰掛けた和彦が自分の隣をポンポンと叩くと、観念したのか中嶋は素直に従う。ここぞとばかりに、もう一度中嶋のあごを掴んだ。口を開けるよう言うと、困惑の表情で返される。
「変なことはしないよ。ただ、これだけ腫れてるとなったら、口の中を切ってるんじゃないかと思って。歯は折れてないのか?」
「さすがに、そこまでは……」
 口の中を見てみたが、内頬に裂傷ができてはいるものの、縫わなければならないほどのものではない。血も止まっている。
 荒事と無縁のヤクザなどいるはずもなく、中嶋はその荒事の現場を駆け回る立場にいる。こういう姿を目の当たりにすると、そんな現実を実感させられる。
「……ぼくは他人が傷を作っていても、けっこう平気なほうなんだ。それが医者の性質だと思うし、ぼくは特に、自分が痛い思いさえしなければ、他人はどうでも、というところがあるし」
「はっきり言いますね、先生」
「でも、この世界に入ってわかったが、親しい人間の傷ついた姿は、やっぱり見ていて苦しい。……ホストまでやってた色男が、こんな顔になってどうするんだ」
 話しながら和彦は、中嶋の腫れた頬にそっとてのひらを押し当てる。まだしっかりと熱を持っており、痛みまで伝わってきそうだ。なぜか中嶋は、ふふっ、と笑った。
「心配してくれる先生に、正直に話すのも心苦しいですが、俺が怪我した理由、けっこうくだらないですよ」
「……笑わないから、話してみたらどうだ」
「加藤と小野寺の殴り合いの、とばっちりです」
「どっちも……、第二遊撃隊の隊員だろ」
 精悍な体つきと不遜な眼差しが印象的な加藤と、見た目はまるで苦労知らずの大学生のようだった小野寺の顔が、同時に蘇る。中嶋は、加藤と体の関係を持っており――。
 和彦が向けた胡乱な視線に気づいたらしく、中嶋はわずかに目を逸らした。
「若い奴らは、本当に血の気だけは多くて、嫌になりますよ。殴り合いの原因も、どうやら小野寺が、俺のことで加藤にちょっかいをかけたらしくて。でも二人とも、はっきりとは原因を言わないんですよ。周囲にいたのが、俺より下の連中ばかりだったから、大ごとにならなくて済みましたけど。上にバレたら、二人とも隊からつまみ出されても不思議じゃなかった」
「どっちが、君を殴ったんだ」
「加藤です。正確には、加藤が小野寺を本気でぶちのめそうとして、俺が割って入ったんです。あいつ、格闘技やってるから、下手すりゃ、小野寺を殺しかねない。それで俺がこの様です」
「よく、それで済んだな……」
「寸前のところで、加藤が手を止めようとした結果です」
 二人は同じタイミングでソファの背もたれに体を預け、息を吐き出す。
 中嶋が、今日の秦からの誘いを断った理由は、これで納得できた。殴られた顔を見られたくなかったというのもあるだろうが、事故にせよ加藤から殴られたという事実を、秦の眼前に突き出すわけにはいかなかったのだろう。
「――……こういうお節介は性に合わないんだが、秦と別れるつもりなのか?」
「あの人から言い出すならともかく、俺からは、そのつもりはまったくありませんよ」
「だったらどうして……」
「秦さんらしくない行動を目の当りにしてから、今さらながら、合わせる顔がなくて。……自慢じゃないですけど、俺、前は二股、三股なんて当たり前だったんですよ。仕事みたいなものでしたから。だから、自信があった。上手くやれる。割り切れる。本気ではあるけど、溺れるような関係にはならない、って」
「どちらとも?」
 中嶋は自分の頬を撫で、頷いた。
「どちらとも」
「それで結局、どちらとの関係に溺れたんだ」
「……意地が悪いですね、先生」
 拗ねたように中嶋が唇を尖らせ、和彦は表情を和らげる。
「先生にはわからないですよ。俺は、策士を気取って、自分の策に早々にハマったマヌケです」
「その口ぶりだと、加藤くんのことも避けてたのか。……ああ、だから彼は、挑発されて殴り合いなんて――」
「しっぺ返しを食らったんです。だからなおさら、今のこの状態で秦さんの前には出られない。加藤のほうも、俺を殴ったときに、今にも死にそうな顔していて、それを見たら、偉そうな説教なんてできませんでした」
 見た目とは裏腹に腹の据わった野心家である中嶋が、歯止めを失ったように弱音をこぼす。関係を持っている男のことで心が揺れている様は、嫌になるほど身に覚えがあり、和彦は労わってやりたくなるような、目を背けたくなるような、そんな複雑な心理に陥る。
「……言っておくが、ぼくだって上手くやっているなんて、思ったことはないからな。情に身を任せている結果、がっちりと雁字搦めになっている。でもそうなるよう、自分で選んだということだろうな。選んだ以上、他人のせいにはできないし、したくない」
「先生のそういう腹の括り方、下手なヤクザより凄味があるんですよ。怖いなあ」
「本職のヤクザに言われたくないよ」
 中嶋が笑みを浮かべたことに内心ほっとする。和彦は数瞬ためらったあと、中嶋の頭を撫でてやる。こんなときぐらい、年上ぶってみたかったのだ。
「落ち着いたら、秦に連絡したらどうだ。ぼくが押し掛けてきたことは内緒で。あれは、実はけっこう君に溺れてるだろ。もしかすると加藤くんも」
「それはそれで……、困るな」
「どうしたいかは、君が考えろ。ぼくのようになれとは言わない。ぼくは、弱いからな。弱いなりの処世術があるが、君は違う」
 中嶋がゆっくりと目を伏せて、再びこちらを見たとき、和彦は慌てて手を引いた。寸前まで弱音をこぼしていた青年が、今はもう、食えない筋者の顔つきとなっていたからだ。こういう顔をした男に、和彦は勝てない。
「じゃあ、ぼくは帰るからな。頬は冷やして、腫れを取れよ」
 立ち上がろうとした和彦だが、すかさず中嶋に腕を取られる。たったそれだけの動作に、ゾクリとした艶めかしさを感じ、うろたえる。
「ぼくは、君らの三角関係に巻き込まれる気はないからなっ」
「ひどいなあ。親身に相談に乗ってくれてたのに」
「今日は、君の様子が気になっただけだ。御堂さんとの食事会もあるから――」
「優しい佐伯先生なら、もう少しつき合ってくれるでしょう?」
「日を改めてな」
 中嶋の顔を見ないまま告げて、なんとか腕を抜き取ろうとしたが、どんどん体重をかけられる。立ち上がるどころか、和彦の体は半ばソファに沈み込もうとしていた。冗談めかしているが、中嶋は本気だ。
 相手が相手ということもあり、ムキになって抵抗もできない。逡巡した挙げ句、和彦は深々とため息をつくと、中嶋の腫れていないほうの頬にそっと触れた。
「人恋しいのか?」
 中嶋は目を丸くしたあと、ニヤリと笑った。
「いいえ。欲求不満です」
 呆れた、と洩らした和彦の唇に、中嶋が吸い付いてくる。少し体温が高いことに気づき、こうして中嶋と触れ合うのはいつ以来だろうかと考える。確か、まだ暑い盛りだった頃で――。
 口腔に舌が入り込んできて、余裕ない動きに誘われるようについ応えてしまう。秦に恨まれるかもしれないと、そんなことがちらりと頭の隅を掠める。知らず知らず目元を和らげた和彦に、中嶋が拗ねた口調で言う。
「子供の駄々につき合っている、みたいな顔をしないでください。元ホストとしては、けっこうプライドが傷つくんですが」
「現役ヤクザとしては平気なのか?」
「ヤクザを手玉に取るのは慣れてるでしょう、先生」
「……人をなんだと思ってるんだ」
 答えはなく、再び唇を塞がれる。熱い舌に感じやすい粘膜を舐め回され、合間に激しく唇を吸われる。その頃には和彦の体は、完全に中嶋に押さえ込まれていた。ただ、切迫したものは感じない。
 自分は今、中嶋に甘えられているのだと察したとき、平気なつもりだった和彦の体に仄かな熱が生まれる。我ながら度し難いと言うべきか、見境がないと言うべきか。
 中嶋にシャツのボタンを外され始めたところで、和彦はコートのポケットをまさぐり、なんとか携帯電話を取り出す。車で待っている組員に電話をかけ、申し訳ないがまだ時間がかかりそうだと言っておく。中嶋はこの状況をおもしろがっているのか、いきなり下肢に触れてきたため、危うく和彦は素っ頓狂な声を上げそうになる。
「な、に、してるんだっ……」
「時間、かかるんですよね?」
 挑発的な眼差しで見つめられ、返す言葉が見つからない。
 今日はあちこち歩いて疲れているのだとか、そもそも今の自分は、お手軽な性欲解消につき合える心理状態ではないとか、言い訳めいたものは浮かぶが、一方で、欲情を煽られているのは確かだ。
 綺麗事など、中嶋との間に必要ないのだ。
「――本宅の夕飯の時間には間に合いたいんだ」
「余裕ですよ」
 悪びれない中嶋の返答に、和彦は声を上げて笑った。


 もつれ合うようにベッドに移動して、互いの服を脱がせ合うと、時間が惜しいとばかりに中嶋はローションを取り出し、和彦に押し付けてきた。〈男〉が欲しいのだと、その行動で理解する。
 不思議なものでそれだけで、スイッチが切り替わったように、猛々しい衝動が湧き起こってくる。時間的な余裕がないというのも、その衝動に拍車をかけてくるようだ。
 和彦は、中嶋の両足の間に腰を割り込ませると、熱を帯び始めた欲望同士を擦り付けながら、いきなりローションを垂らす。互いの欲望を掴んで扱き、性急に高め合う。露骨な湿った音に、普段であれば羞恥を覚えるところだが、獣じみた欲情を煽るには効果的だった。
〈男〉というより、〈雄〉かもしれない――。
 自分が数分前とは違う生き物に変化していくようで、それが和彦にはゾクゾクするほど楽しい。抱え込んだ鬱々としたものが、ほんの一時でも晴れそうな期待感もあった。
「……難しいこと考えてますか?」
 息を弾ませた中嶋に問われ、和彦は肯定する。
「ぼくと君は明け透けで、軽薄だなと思ってたんだ。でも、そうしたいほど、いろんな事情に雁字搦めになっているんだなって」
「俺は、先生ほど、大変じゃないですけどね」
 中嶋の欲望の先端を、指の腹でヌルヌルと撫でてやる。引き締まった腿が緊張し、下腹部がヒクリと震えた。さらにローションを垂らしてから、自分がいつも男たちにされているように、柔らかな膨らみをたっぷりと揉み込んでやる。あっという間に中嶋の肌が紅潮し、汗ばんでいく。
 片足を抱え上げて、ローションが流れ込んでいる秘裂をまさぐる。何かを期待するようにすでにひくついている内奥の入り口を探り当てると、それだけで切なげな声が上がった。
 こじ開けるようにして、指を挿入する。途端にきつく締め付けられたが、構わず指を出し入れし、粘膜と襞にローションをすり込む。瞬く間に肉が妖しく色づいていく。この様子を、秦や加藤も目にしているのだと思ったとき、和彦の中を駆け抜けたのは、嫉妬に似た感情だった。いや、子供めいた独占欲かもしれない。
 ふっと笑みをこぼした和彦は、中嶋に肩を引き寄せられて、再び唇を重ねる。差し出し合った舌を絡め、唾液を交わしながら胸元をまさぐられる。興奮しきって尖った胸の突起を、指で挟むようにして愛撫される。鼻から吐息を洩らすと、中嶋が小さく笑った。
「ダメですよ。そんなふうにされると、俺が先生の中に入りたくなる」
「よく言う。今は、そんな気分じゃないんだろ」
 あえて挑発的な物言いをしてみると、中嶋の目の色が変わった。
 焦れたように中嶋が身じろいだため、内奥から指を引き抜く。
「先生、後ろから……」
 そう言って中嶋がうつ伏せとなり、腰を上げる。和彦はためらうことなく、滑りを帯びてひくつく内奥の入り口に、自らの欲望の先端を押し当てようとする。そこで、大事なことを思い出す。
「あっ、ゴム……」
「俺は、構いませんよ?」
 頭を上げた中嶋に婀娜っぽく笑いかけられて、和彦はそれ以上は何も言わず、濡れた肉を自らの肉で押し広げた。
「あううっ」
 声を洩らしたのは二人同時だ。自分が男になる瞬間の感覚はやはり強烈で、〈オンナ〉として得る快感に慣れ切った身には、怖さすら覚える。だが、抗い難い魅力がある。
 中嶋の引き締まった腰を掴み、緩やかに突き上げる。内奥が複雑に蠢きながら、和彦の欲望をきつく締め付けてくる。律動に合わせてしなる背は、確かに男のものなのにひどく艶めかしく、和彦は目を奪われる。男たちの目に映る自分の姿も想像してしまうのだ。
 繋がりを深くしてから、中嶋の尻から腰、背にてのひらを這わせる。小さく呻き声が上がり、卑猥に中嶋の腰が揺れた。和彦はゆっくり目を細めると、中嶋の両足の間に片手を差し込み、反り返って震えている欲望を掴む。内奥を丹念に突きながら、じっくりとてのひらで擦り上げてやる。
 先端から、悦びの証であるしずくがトロトロと垂れ落ちていく。和彦は爪の先で優しく先端を苛めてやり、間欠的に上がる嬌声を心地よい響きとして聞く。引き絞るように内奥が収縮し始めたので、やや乱暴に欲望を抜き差しし、はしたない湿った音と、肉を打つ音を立てる。そこに、二人の弾んだ息遣いが重なる。
 即物的とも言える交わりに、和彦は酔い痴れていた。おそらく中嶋も。駆け引きも、甘い囁きも必要ではなく、肉欲の衝動にただ突き動かされていればいいのだ。
「はあっ、あっ、あっ……、先生、い、ぃ――」
「あ、あ。ぼくも……」
 もっと中嶋を悦ばせてやりたいが、すでに和彦に余裕はない。寸前のところで内奥からズルリと欲望を引き抜き、中嶋の尻から背にかけて精を飛び散らせていた。長嶺の男たちなら、征服欲や支配欲を満たされる光景かもしれないが、あいにく和彦が感じたのは、罪悪感だけだった。
「すまないっ」
 慌ててサイドテーブルの上のティッシュペーパーに手を伸ばそうとしたが、中嶋に腕を取られて、ベッドに倒れ込む。
「いいですよ、気にしなくて。どうせシャワーを浴びますから。先生は――」
「ぼくはいい。濡れ髪で帰ったら、いかにも情事を楽しんできました、と言ってるようなものだ。見つかったら、何を言われるか」
「……長嶺組長に怒られますか?」
「いや。ニヤニヤしながら、からかわれるな。きっと」
 仲がいいですねと、本当にそう思っているのか、笑いながら中嶋が言う。和彦は曖昧に応じながら、まだ達していない中嶋の欲望に触れ、優しく扱いてやる。中嶋は素直に身を任せてくれた。
 行為の余韻と脱力感にしばらく浸っていたいところだが、そんな時間はない。
 引きずるようにして体を起こすと、今度こそティッシュペーパーを取って後始末をする。背後にぴたりと中嶋が身を寄せてきて手を伸ばしたので、ティッシュペーパーの箱ごと渡してやった。
 ほんの数分前まで、獣じみた欲情に駆り立てられていたなどと信じられないほど、淡々としていた。その代わり、気恥ずかしさもない。それは中嶋も同じなのか、ちらりと背後をうかがうと、気だるげではあるが落ち着いた横顔を見せている。ふと目が合ったとき、するりと言葉が出ていた。
「今日、クリスマスプレゼントを買いに、あちこち駆け回ってたんだ」
 中嶋は目を丸くしてから、へえ、と洩らす。
「先生は渡す相手が多くて大変でしょう」
「……秦と同じことを言うんだな」
「先生を知っている人間なら、十人が十人、同じことを言うでしょうね」
 和彦は軽く咳払いをすると、シャツを取り上げる。
「君へのプレゼントも手配したんだ。秦のあの部屋に届くようにしてある。クリスマスにでも取りに行ってくれ」
 一瞬の沈黙のあと、抑えた笑い声が聞こえてくる。
「今のこの状況で、それを言いますか、先生」
「顔を合わせるにも、きっかけが必要だろ。あっ、できればプレゼントは、二人が揃って開けてくれ」
「――……そんなふうに言われたら、気になるじゃないですか。プレゼント、なんですか?」
 和彦は聞こえなかったふりをして、手早く身支度を整え、ジャケットとコートを抱えて立ち上がる。ベッドを離れる前に、中嶋の腫れた頬に触れて諭した。
「切れ者のようで、たまに秦はポンコツなところがあるから、君が気を回してやれ。君は、総和会の中での数少ない、ぼくが信頼できる人間だ。その君に不安定になられると、ぼくが困る。加藤くんとの関係も含めて」
「先生は甘くて優しい人かと思えば、妙に食えない面がありますよね。そこがまあ、気に入っているんですが」
 部屋を出ようとした和彦に、最後に中嶋が気になることを教えてくれた。それは、他愛ないともいえる報告ではあったのだが、なぜだかやけに引っかかり、和彦は髪を手櫛で整えることも忘れて、待機していた車に乗り込んだぐらいだ。
 南郷がここ数日、隊員たちに行き先も告げず、姿を見せていない。そう、中嶋は言った。
 ときどきあることらしいが、そのときはまず間違いなく、守光からの指示を受けて何かしら動いているそうだ。年末年始が近いこともあり、その準備のために奔走しているのだろうと、思えなくもないが――。
 そんなことを考えながら、行為の熱も完全に冷め切らないうちに、本宅へと到着する。玄関に入ったところで、漂う空気で賢吾が先に帰宅していると知る。
 顔を合わせる前に入浴を済ませたかったが、出迎えてくれた組員に、賢吾の部屋に行ってほしいと言われては無視できない。
 着替えも後回しにして賢吾の部屋に出向くと、当の賢吾も帰宅したばかりなのか、まだワイシャツ姿でネクタイも解いていない。和彦を一目見るなり、意味ありげに目を眇めた。
 手招きされた和彦は障子を閉め、賢吾の傍らに座る。
「今日は忙しかったみたいだな」
 柔らかな口調から、機嫌がいいのだろうかと一瞬錯覚しそうになる。しかし賢吾の顔を覗き込むと、どこか物憂げだ。嫌な予感はしたが、問いかけずにはいられなかった。
「何か、あったのか?」
「――オヤジが、お前に会いたいと言っている」
 そう言って賢吾が苦々しい表情を浮かべた。









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