と束縛と


- 第43話(1) -


 顔を強張らせた和彦は、咄嗟に言葉が出なかった。
 総和会本部の守光のもとに、ただ顔を見せに行って終わりとは、絶対にならない。そう確信できるだけの経験を、和彦は積み重ねてきた。
 浮き立った気分は一瞬にして萎え、視線を伏せる。
「――和彦」
 こんなときでも魅力的なバリトンで呼ばれ、ハッとする。気遣うような賢吾の眼差しを、正面から受け止めた。
「不安そうな顔をするな。まるで俺が、お前を苛めているみたいだ」
「そんなことは……」
「知らせたくはなかったが、一応、な。年末のことを考えて神経をすり減らしているお前が、今日はいじらしくストレス解消をしていたと聞かされていたんだ。何事もなかった顔をしてやってもよかったが、結局は、お前に伝えなきゃいけねーことだ」
「……今日は病院に行ったあと、千尋と買い物をしてきたんだ。それに、秦と会って、早めのクリスマスプレゼントをもらった。ぼくもそろそろ、あんたたちへのプレゼントをしないとと思って、本人に何が欲しいか聞くのがいいか、それともぼくが選んだものでいいか迷ってるんだ」
 堰を切ったように取り留めなく話し始めた和彦だが、自分でも何を言っているのかわからなくなる。今あえて、賢吾に伝えるべきことではないのは確かだ。
「けっこう、いい日だったんだ……」
「すまねーな。水を差しちまって」
「別に、あんたが謝ることじゃない。――それで会長は、いつぼくに来いと?」
「いつ、とは言わなかった。そういうところが、オヤジはいやらしいんだ。こちら……というか、お前を試してるんだ。飛んでやってくるか、ギリギリまで粘るか。命令するのは容易いが、それじゃあおもしろくないんだろ」
 いつになく険を含んだ賢吾の物言いに、聞いている和彦のほうが不安になってくる。
 父子の間に何かあったのではないかと、尋ねていいものか逡巡していると、和彦の素振りから察したのか、賢吾が唇の端に微苦笑を刻む。
「オヤジは、年末からのことを考えているはずだ。お前を、長嶺組からじゃなく、総和会から送り出したいんだろう。相手方により強い圧力をかけて、ついでに、俺にも」
「あんたに?」
「父子とはいっても、オヤジと俺は別の組織を背負ってる。いざとなれば、力を見せつけ合う。オヤジはそうする必要を感じているということだ」
 ざわつく空気に頬を撫でられたようで、ますます和彦は顔を強張らせる。賢吾が身を乗り出してきて、おどけたように言う。
「今日の俺は、ついついお前を怖がらせちまうみたいだな。――何も特別なことじゃない。わざわざ言葉にしないだけで、オヤジと俺はいつだって張り合ってる。そういうもんだろ。息子にとっての男親ってのは」
「……ぼくにはわからない」
「千尋もそうだ。俺に張り合ってる。気を抜くと、お前を奪おうとしてくるだろうな。……違うな。奪い返そうとしてくる、って言うべきだな」
 今日の賢吾の話はどこか掴み所がないなと、和彦がはっきりと困惑して見せると、急に賢吾が表情を引き締める。
「行かなくていいぞ」
「えっ……」
「オヤジのところに顔を出さなくていい。話は俺がしておく」
 でも、と和彦が口ごもると、大きな手にやや乱暴に頬を撫でられる。
「ここにいろ。――和彦」
 声音の切実さと、何より眼差しの真剣もあって、和彦はそれ以上何も言えない。こちらの危惧をこんなふうに封じ込めてしまうのはずるくないかと思ったが、ただ、賢吾の気持ちは伝わってくるのだ。
「うん……」
「俺からの話はそれだけだ。さあ、風呂に入ってこい。その間に、晩メシを用意させておく。今日はたっぷり遊んで、腹も減っただろ?」
 ニヤリと、人を食らう笑みを賢吾から向けられる。
「……この家の主より先に入るのは気が引ける」
「気にするな。俺はメシを食ったら、またちょっと出かけないといけねーんだ」
「忙しいんだな」
「師走は何かとな……」
 賢吾がふっと遠い目をする。そこに疲労の色を見て取り、和彦は自分の今日一日を振り返ってから、いささか罪悪感を覚えた。
 賢吾の部屋をあとにした和彦は、一旦客間に寄って着替えを取ってくると、すぐに風呂場に向かおうとする。その途中で、スーツ姿の千尋に出くわした。目を丸くする和彦に、こちらに気づいた千尋がパッと顔を輝かせる。
 昼過ぎまでさんざん一緒に行動していたのに、いまさら何がそんなに嬉しいのだろうかと、心の中で和彦は呟く。悪い気はしないが、照れ臭くて仕方ない。
「今から風呂?」
 弾むような足取りでやってきた千尋に聞かれて頷く。
「お前は、今帰ってきたのか? その格好は……仕事か」
 一緒に過ごしている最中、千尋はこの後、仕事があるとは一言も言っていなかった。おそらく、のんびり過ごしている和彦に気を使ってくれたのだろう。
「まあね」
「長嶺の男は、土曜日でも忙しいな。悪かったな。今日は連れ回して」
「ううん。ついて回ったのは、俺だし。それに楽しかった」
 帰宅したのなら、千尋もこれから入浴か夕食をとるのだろうかと思ったが、まだ仕事は終わりではないようだ。賢吾の部屋がある方向を指さして、肩を竦めた。
「ボスに、報告がある」
 この呼び方は新鮮だ。和彦がくすっと笑い声を洩らすと、千尋が何かに驚いたように、顔を近づけてきた。
「千尋?」
「なんか、昼間別れたときと、和彦の雰囲気が違う。いや、顔つき、かな。キリッとしてるというか、ちょっとキツイ感じというか……」
 何かあったのかと、眼差しで問われる。和彦は視線を泳がせながら、つい自分の顔に触れる。〈雄〉になった影響だと、すぐにわかった。千尋に勘づかれるということは、賢吾に至っては確信すら持っているだろう。
「まあ、ちょっと……。何か嫌なことがあったとかじゃないから、気にしないでくれ」
 納得したのか、そうでないのか、ふうんと声を洩らした千尋は深く追及してはこなかった。あとで晩メシを一緒に食べようと言い置いて行こうとしたので、咄嗟に和彦は呼び止める。
 自分でもどうしてそうしたのかわからなかったが、首を傾けて待つ千尋に、この際だからと切り出してみた。
「お前、昨日は総和会の本部に顔を出したんだよな?」
「うん。年末に総本部である締会の打ち合わせ。今年は俺も顔を出せと言われてるから、ちょっと勉強をしてたんだ。実は今日も」
 それがどうかしたのかと返される。和彦は口ごもりかけたが、誤魔化したところで、千尋が余計に勘繰るだけだ。
「――……最近、総和会の様子はどうだ」
「どうって、ずいぶん抽象的な質問だね。何か気になることあるの?」
「えっと……、ちょこちょこと小耳に挟んだことがあるから、どうかなって」
 千尋は頭を掻いて考える素振りを見せたが、すぐに大きなため息をつくと、さりげなく窓の側へと寄る。和彦も倣い、庭園灯がぼんやりと灯る中庭に、二人揃って目を向けた。
「少し、ピリピリしてるかな。オヤジも、総和会の中も。じいちゃんは何も言わないけど、オヤジが何かやったか、言ったかしたんだろうなとは思う。総本部の中でやたら、オヤジの機嫌はどうだって声かけられるしさ」
「そうか……」
「でも、オヤジと総和会の間は、いつだって緊張感みたいなものがあるから、大げさに騒ぐほどのことでもないんだよね。見慣れた人間からしたら。もしかすると、上手く誤魔化されてるだけかもしれないけど。俺が」
 ガラスに反射した千尋の笑みは自嘲気味に見えたが、凝視するのははばかられた。若い千尋のプライドを、それとなく慮る。
「和彦が気にしてるのは、そういうこと?」
「う、ん。まあ……」
「おっ、まだ何か気になることあるんだ」
 やっぱりいいと、その場を立ち去りたかったが、いつの間にか千尋の手が肩にかかっている。さらに、強い光を放つ目で見据えられると、見えない力に押さえ込まれたように体が動かない。眼差しで人を従わせようとするところは、他の長嶺の男たちと同じだ。
「……あの人には、会ったか?」
 あの人、と小声で反芻した千尋は、言いにくそうな和彦の様子から、該当する人物に素早く見当をつけたらしい。キリッとまなじりを吊り上げ、両目が炎を孕んだ。
「それって、南郷のことだよね」
 和彦が一晩、南郷と過ごしたあと、千尋は事態を把握していながら、そのことを一切匂わせてこなかった。少なくとも和彦の前では。だからこそ和彦は、千尋の中にある南郷の存在感について測りかねていたのだが、今、鮮烈な変化を目の当りにして、息を呑む。
 千尋は千尋なりに、一人静かに怒りを溜め込んでいたのだ。
「オヤジの奴、俺が南郷を見た途端飛びかかるとでも思ったのか、どこに行くときよりも、本部に行く俺の護衛を厳重にするんだよ。襲われることを想定してじゃなく、人間の壁を作って、俺を閉じ込めるってわけ。……本部で暴れるほど、ガキじゃねーっての」
 そんなことになっていたのかと、和彦は密かに動揺する。
「うちの組に混乱をもたらしたってことで、南郷は謹慎扱いになってるみたいだけど、仕事じゃなくても、じいちゃんの側にいることが多い男だから。俺が本部に行くときは、じいちゃんが気を回して遠ざけてるようだけどさ。さすがのオヤジも、じいちゃんの私生活で、南郷を側に置くなとは口出しできない。そういうことだよ」
「お前、まさか……、総和会の人間の前で、今みたいにあの人を呼び捨てになんて――……」
「和彦が気になるの、そこっ?」
 千尋の目に宿っていた険がふっと和らぎ、不貞腐れたように唇をへの字に曲げる。しかし和彦がじっと見つめ続けると、ぼそぼそと教えてくれた。
「してないよ。さすがに呼び捨ては……。総和会の領分に入ったら、悔しいけど南郷とは天と地ほども立場が違う。俺は後ろ盾があるから、総和会の中でも堂々歩けて、南郷も恭しく接してくるけどさ」
 ここまで話したところで、組員が廊下を渡ってくる。どうやら和彦を探していたらしく、こちらの姿を認めると、ススッと側にやってきた。
「申し訳ありません。お話し中。――先生、お風呂の用意ができてますが」
 客間に着替えを取りに行く途中だったことを思い出し、すぐに向かうと応じる。
「じゃあ、千尋、あとでな」
 和彦が行こうとすると、背後から千尋がどこか投げ遣りな口調で言った。
「第二遊撃隊の若い奴から聞いたけど、南郷、ここ何日か隊員の前に姿を見せてないらしいよ。じいちゃんは何か知ってるかもね。電話で話してたから。……何企んでるんだか」
 最後の一言はどちらに向けてのものか、なんとなく聞けなかった。和彦が頷いて返すと、千尋はまた表情を一変させ、人懐こい笑顔を向けてきた。
「一人で風呂入るの寂しかったら、二階の風呂使ってもいいよ。俺がすぐにあとから飛び込んでいくから」
「……安心して、『ボス』とじっくり話してこい」
 千尋は大げさに肩を落とすと、賢吾の部屋へと向かった。




 守光が『会いたい』と言うのなら、何を差し置いても本部に顔を出すべきなのだろうが、賢吾がやや積極的に引き止めるせいもあり、それを言い訳にして和彦は行動に移せていない。
 一応、日曜日の午前中は出かける用があり、さらに午後からは、一息つく間もなく賢吾によって連れ出されてしまったため、多忙ではあったのだ。和彦は忙しい身なのだと、罪悪感を抱かなくて済むよう、賢吾は既成事実を作ってくれたのかもしれない。
 週が明けてしまえば、和彦にはクリニックの仕事があり、少なくとも日中から呼び出されることはない。もっとも、仕事終わりに有無を言わせず総和会本部に連れて行かれることは、これまで何度もあったが――。
 いつも通り、仕事終わりに迎えに来てくれた長嶺組の車の後部座席で、和彦は携帯電話の画面を眺める。
「うちのスタッフに聞いたら、人気のケーキ屋らしい。雑誌にも取り上げられてたって」
 和彦が話しかけると、助手席の組員が生まじめな口調で応じる。
「チョコレートケーキが人気らしいです。手土産用にと焼き菓子も評判がいいそうで」
「……それは組長情報か?」
 返事は、密やかな笑い声だった。和彦も小さく笑みをこぼすと、改めて携帯電話に視線を落とす。
 クリニックを出る間際に賢吾からメールが届き、お使いを頼まれたのだ。指定したケーキ屋で、まさに今話題に出たチョコレートケーキと焼き菓子を買ってきてほしいと。
 組長のためにと使い走りを買って出る組員はいくらでもいるはずなのに、なぜ自分なのかと思わなくもなかったが、何しろ賢吾からの珍しい頼まれ事だ。警戒よりも、好奇心が勝ってしまった。
 もちろんお前の分も買ってこい、というメールの一文に、現金なほど和彦の機嫌をよくしていた。
 夕食後のデザートが楽しみだと、のんびり考えているうちに、目的地に到着する。車は少し離れた場所に停めなければならないということで、ケーキ屋近くの車道脇で和彦は車を降りる。当然、護衛の組員もついてくるかと思ったが、そのまま車は行ってしまった。
 なんだか今日は変だなと首を傾げつつ、和彦はケーキ屋に足を踏み入れる。数人の女性たちが楽しそうにショーケース越しにケーキを選んでおり、その後ろに並ぶ。
 さりげなく周囲を見渡して、ゆったりとした広さのイートインコーナーが目に留まった。女性客がいるのは当然として、かっちりとしたスーツ姿の男性二人が、やけに背筋を伸ばした同じテーブルについている。
 独特の空気を放っており、特別なものを感じ取った和彦は目が離せなくなっていた。
 そのとき、ふいに背後から肩を叩かれる。護衛の組員だろうかと、特に警戒もせずに振り返った和彦は、次の瞬間、大きく目を見開いた。
「えっ、あっ……」
 よく見知っているとは言わない。ただ、会ったことのある人物が、目の前に立っていた。
「――久しぶりだ。佐伯先生」
 そう言って、長嶺組若頭の一人であり、城東会組長の肩書きを持つ男は頭を下げた。
 予想もしなかった人物の登場に和彦は軽く混乱し、動揺する。なんといっても、三田村が現在補佐として仕えている人物なのだ。自分に対する印象がどのようなものか、それをまっさきに心配せずにはいられなかった。
 和彦が口を開きかけたとき、宮森の手がそっと肘にかかって促される。前の女性客がいなくなり、和彦の番になっていた。しかし、賢吾から頼まれた通りの品を淀みなく注文したのは宮森だった。さらに、イートインコーナーの利用と、二人分の紅茶とチョコレートケーキも。
 てきぱきと支払いまで終えた宮森に言われるまま、和彦はふらふらと店の奥へと移動する。すると、待っていたようなタイミングで、スーツ姿の男二人が素早く立ち上がった。鷹揚に頷いた宮森が、空いたばかりのテーブルを示す。
 和彦は、テーブルの上の片付けが終わるまで、半ば呆然として宮森を見ていた。ここまでスムーズに物事が進むと、さすがに察しないわけにはいかない。
 つまり今の状況は、賢吾と宮森の間で打ち合わせ済みなのだ。だから、和彦の護衛を務める組員も、店までついてこなかった。
 これは安心していいのだろうと、和彦は詰めていた息をゆるゆると吐き出す。いくらか落ち着いて、正面の席についた宮森を見つめ返すことができた。
 寸前までこのテーブルについていた男たちとは対照的に、宮森の格好はラフだった。羽織っているステンカラーコートの下はハイネックのニット、チノパンツという装いで、散歩帰りにこのケーキ屋に立ち寄ったというふうに見える。堅気の中に上手く溶け込んでいるようだが、しかし、溶け込みすぎて不自然さを感じる。
 和彦の知る組関係者は、容貌を含めて際立った個性を持つ男たちが多い中、宮森は一見すべてにおいて凡庸だった。ごくごく普通の顔立ちに痩躯で中背。まっとうな勤め人のような険のない落ち着いた雰囲気。年齢は四十代前半から半ば。
 凡庸さの中に、鋭すぎる本性を隠しているようで、本能的に畏怖めいた感情を抱いてしまう。
 和彦が臆病だからこそ働く勘なのか、それとも、身構えすぎているだけなのか。これまで顔を合わせても二、三言、挨拶しか交わしてこなかったため、判断がつきかねた。しかし今――。
 宮森がイスに座り直した拍子に、きれいにセットされている髪が一筋、額に落ちる。スッと髪を掻き上げる一連の仕種をなんとなく目で追った和彦だが、このとき、宮森の左手に小指がないことに気づいた。心臓に冷たい針を打ち込まれたようで、一瞬息が止まる。
 見てはいけないものを見てしまった気まずさに、不自然に視線がさまよう。宮森が小さく笑い声を洩らした。
「不調法なものを見せてしまって申し訳ない。気にしないでほしい。ずいぶん昔の、いわゆる若気の至りの結果というやつなので」
 もちろん和彦は、指が欠けている組員をこれまで何人か目にしてきた。長嶺組は、警察に付け入る隙を与えるだけだからと、ケジメの付け方について、体を傷つける処置は取りたがらない。しかし、他の組もそうかといえば、昔ながらの流儀を守り続けるところはいくらでもある。または、血気に逸って独断で、落とした指を持ってくる者もいるという。
 事情はさまざまだが、現実として指が欠けている組員はおり、その光景を目にするたびに和彦はぎょっとし、結果として、組員たちの指をなるべく注視しないという癖が身についてしまったのだが、今のは不可抗力だ。
 宮森は本当に極道なのだと、改めて実感させられる。それと同時に、三田村はよくぞ指を落とされなかったものだと、いまさらながら震え上がる。
 チョコレートケーキと紅茶が運ばれてきて、それぞれの前に置かれる。宮森が、どうぞと軽く手で示した。
「――あなたには、本来であれば頼み事をする前に、詫びにあがらなければいけなかった。ずいぶん礼を欠いてしまい、いまさらだが、許してもらいたい」
 和彦がチョコレートケーキをようやく一口食べたところで、宮森に言われる。なんのことかと首を傾げると、宮森がふっと目元を和らげた。
「館野顧問から、ずいぶんきついことを言われたと聞いた。あの人は、あれが仕事だ。今の組長に代替わりして、長嶺組の顔ぶれもいくらか若返った。だからこそ、古参の者は口うるさくなければならない、と」
「いえ……。何を言われても仕方ありませんから」
「とはいえ、今後は一切、佐伯先生と三田村のことに口出し無用と、わたしのほうからも言っておいた。長嶺組長から言われたほうが、あの人には堪えただろうが」
 宮森は、自身が和彦と三田村の関係をどう思っているか、一切表情からは読ませない。抑揚に乏しい声音からも、感情の揺れというものが感じられないのだ。凄まれるのとはまた違った怖さが、宮森にはある。
 これが、長嶺組の中で頭角を現して、看板を与えられた人物なのだ。
 チョコレートケーキの味がまったくわからないと、和彦はそっと息を吐く。紅茶も、砂糖を入れるのを忘れてしまった。
「実は今日は、肩書きや立場は関係なく、あなたに会いたかった」
 初めて、宮森の声音に感情が混じる。
「本宅にうかがうつもりだったが、堅苦しいことはやめておけと長嶺組長に言われて、こうしてお膳立てをしてもらうことになった」
 賢吾に対してずいぶん砕けた物言いをしているなと思っていると、宮森が手短に説明してくれた。
 年齢が近いこともあり、昔から側で仕事をさせてもらっていたこと。かつては賢吾の護衛も務めていたこと。宮森本人は口にしなかったが、つまり賢吾と親しい間柄なのだろう。
「昨日も、わたしの甥――優也を診てくれたと聞いた。ひどかった咳も完全に治まって、もう大丈夫だと……」
「ええ。一時はどうなるかと思いましたが、ぼくも安心しました。城東会の組員の方が、よくお世話をされていたようですね。初日以外は、部屋がきれいで、冷蔵庫の中にはいろいろ入ってて」
「うちの者が部屋に入っても、優也は何も言わなくなったんだ。格段の進歩だ。前は、怒鳴りまくって、部屋にも入れてもらえなかったから」
 玄関のドアのチェーンも、そろそろ直して大丈夫ではないかと、和彦は控えめに進言しておく。優也の部屋を訪ねるたびに、恨み節を聞かされていたのだ。
 宮森が口元を緩め、感心したように洩らした。
「長嶺組長から聞かされていた通りだ。人間嫌いの相手に、うちの先生はちょうどいいだろうと言っていた」
「そんな、ことを……」
「冷めている部分と、どうしようもなく甘い部分を持ち合わせているから、お前の甥っ子に何かしら刺さるはずだと」
 宮森は人さし指で、自分の心臓の真上辺りを指し示す。
「三田村にも刺さったんだろう。〈あれ〉は元は、執着というものを持たない男だった。ひどい言い方だが、だからこそ使い勝手がよかった」
 ヒヤリとするようなことを言った宮森が、ようやくチョコレートケーキを口に運ぶ。一方の和彦は急に口中の渇きを意識して、紅茶を一口飲んだ。
「正直、いままでの優也の扱いが正しいのかどうか、わたしはずっと悩んでいた。部屋に閉じ込めておくのは簡単だが、さて、こんな仕事をしている身で、わたしは一生、優也の面倒を見てやれるのか。いっそのこと、無理やりでも外に引きずり出すべきではないか。そうやって悩みながら、決断を先送りしていた。そこに、今回の大風邪だ。病院に放り込むこともできたが――」
「やっぱり……、そうですよね。人手はあるんだから、病院に連れて行くことはできましたよね」
「だが、そんなことをしたら、わたしは唯一の血縁からの信頼を失っていたかもしれない。……こう見えても、姉の忘れ形見は可愛いんだ。ひどい目に遭ってきた子だから、なおさらだ」
 和彦は、苦しげな息の下で優也が言っていたことを思い出す。宮森は、賢吾への義理立てのために、自分を病院に連れて行くことなく、和彦に診察を頼んだのだと。
 どうやら優也の叔父は、そこまで打算的ではなかったようだ。
 そう和彦が結論を出そうとしたとき、当の叔父がニヤリと笑った。凡庸な容貌の男は、たったそれだけで、鳥肌が立つほど物騒な空気をまとう。無意識に和彦は背筋を伸ばしていた。
「優也はずいぶんと、捻くれたことを言っていただろう?」
「……えっ、あの、まあ……」
「頭の回転は悪くない子だ。何より、数字に強い。今はまだ、積極的に外に出るというわけにはいかないが、リハビリがてら、部屋に人を招いたり、在宅仕事をしてみるのはどうかと、あれこれと考えている」
「そうなんですか」
「実は、そのことを長嶺組長に相談してみた」
 意味ありげに見つめられ、和彦は急にソワソワとしてくる。漠然とながら、これが今日の本題なのではないかと思った。
「甘えついでに、うちの先生に頼んでみたらどうだと言われた」
「何を、ですか……?」
「優也の話し相手になってもらうことを。その代わりといってはなんだが、あの子を、面倒な帳簿付けでもなんでも使ってもらってかまわない」
「あっ、いえ、そういう仕事は全部、ぼくも人にやってもらっているので――……」
 そうか、と残念そうに宮森が呟く。芝居がかっていると見えなくもなかったが、賢吾と長いつき合いがあり、信頼も得ている人物の頼みを断るのは良心が咎める。何より和彦自身、いくら優也の風邪が完治したとはいえ、それで縁が切れてしまうのも寂しいという思いが多少はあるのだ。
 勝手にこちらの気持ちを見透かさないでほしいと、心の中で控えめに賢吾を詰ってから、和彦はおずおずと切り出す。
「……今月は忙しいので、部屋を訪ねるのは難しいですが、電話やメールでやり取りをするぐらいなら、大丈夫です。その、優也くんさえよければ」
「それは大丈夫。優也も、楽しみにしていると言っていた」
 その優也から、昨日もさんざん憎まれ口を叩かれたのだが――。
 和彦は苦笑を洩らしつつ頷く。宮森としては、とにかく優也が他人と関わることに前向きだと捉えているのだろう。
 気を取り直してチョコレートケーキをまた一口食べて、ようやく和彦はこう呟くことができた。
 美味しい、と。




 午前中の患者の施術がすべて終わり、手を洗って仮眠室に入った和彦は、窓から外を眺める。灰色の雲で覆われた空は、今にも何かが降ってきそうで、どうせなら雪がいいなと、子供じみたことを考えた。
 和彦はダッフルコートを羽織り、財布をポケットに突っ込むと、待合室へと向かう。電話番のスタッフがにこにこしながらメモ用紙を出してきた。寒いとどうしても、昼食をとりに外へ出るのが億劫になるもので、それは和彦も例外ではない。ただ今日はジャンケンで負けてしまい、買い出し担当となったのだ。
 メモ用紙にざっと目を通していると、どこからかスタッフの咳き込む声が聞こえてくる。
「風邪かな……」
 思わず和彦は呟いていた。美容外科クリニックであるため、風邪を引いて駆け込んでくる患者はまずいないのだが、和彦やスタッフから風邪が移ってしまっては大変だ。全員、インフルエンザの予防接種を打ってはいるものの、だからといって完全に防げるものではない。
 職業柄、あれこれ心配して眉をひそめていると、スタッフが苦笑しながら教えてくれた。
「風邪じゃないんですよ。最近、乾燥がひどいから、喉を痛めたらしくて」
「なるほど……」
「でも、明日の〈あれ〉は絶対行くって、はりきってましたよ。多少の喉の痛みぐらい平気だって」
 クリニックのスタッフたちとの、ささやかな忘年会を兼ねた食事会のことを言っているのだ。
「でも確かに、乾燥は気になるな。日に何度も静電気の直撃を受けてるから……」
 待合室や診察室、施術室には加湿器を置いてあるのだが、効果は限定的だ。クリニックは部屋数も多いうえに、ドアや扉で仕切っており、空気の流れは期待できない。ときどき換気はしているのだが、肝心の外気が乾燥しきっているのだ。
 今年、年が明けてからクリニックを開業したときはどうだっただろうと、和彦は記憶を辿る。慣れない立場にあって、日々の仕事をこなすのに精一杯で、患者には気を配っても、スタッフの労働環境に対しては意識がおざなりだったかもしれないと、今になって反省する。
 和彦が深刻な顔で考え込んでいると、慌ててスタッフが付け加える。
「わたしたち、風邪気味だと思ったら、すぐ病院に行くようにしてますよ。患者さんや先生に移したりしないよう、十分注意して――」
「加湿器増やそうか」
 自ら提案して、それがいいと和彦は頷く。
「大きいのだけじゃなくて、カウンターのワークスペースに置ける、卓上用のも。これからの時期、あって困るものじゃないし」
 ここで和彦は自分の役目を思い出し、急いで昼食を買いに出る。途中、携帯電話で組員と連絡を取り、帰りに電器店に寄りたいと伝えておく。
 通販で頼み、クリニックに届けてもらえばいいのだが、和彦には加湿器以外に見ておきたいものがあった。できれば、一人でゆっくりと。


 幸いにもというべきか、この日、夕方近くに入っていた予約にキャンセルが出ていたため、終業時間前には日常業務を終わらせることができた。
 時間ぴったりにスタッフを帰らせ、十分ほど遅れて和彦もクリニックをあとにする。
 いつもの手順で迎えの車に乗り込むと、さっそく組員から、電器店で何を買うつもりなのか問われた。昼間のスタッフとのやり取りを手短に伝えると、感心したようにこう言われた。女性が多い職場は気を使いますね、と。
 性別は関係ないだろうと思ったが、あえて訂正するほどのことでもないので、和彦は素直に頷いておいた。
 大型の電器店に到着すると、当然のように組員もついてくる。大きい商品については店からクリニックへの配達を頼むので、荷物持ちは必要ないと言ってはみたが、混雑する店内の様子を一瞥して、ダメだと首を横に振られた。予想はしていたことなので、仕方ないかと肩を竦める。
 エスカレーターで目的の売り場に着くと、まっすぐ加湿器のコーナーに向かう。実は店内に足を一歩踏み入れ、明るい照明と、最新の家電類を目にしたときから、仕事を終えたあとの疲労感がどこかに消えていた。
 ここ最近、何かと理由をつけては買い物ばかりしている気がすると、和彦は我が身を振り返る。ストレスも関係あるのだろうかと、そんなことを考えながら、加湿器を選ぶ。
 早々に支払いと配達の手続きを済ませてから、他の家電も見てまわる。必要なものはすべて賢吾によって揃えられ、差し迫ってどうしても欲しいものがあるわけではないが、見ていると、物欲が疼いてくるから始末が悪い。
 結局、和彦が個人で使うために買ったのは、目覚まし時計だった。これぐらいなら、本宅の客間に置いていても何も言われないだろう。
 買い物を済ませてフロアを移動していた和彦は、途中で、我ながら恥ずかしくなるような芝居がかった声を上げた。
「あー、そうだ」
 エスカレーターの先に立つ組員が振り返る。
「どうしました、先生?」
「えっと……、もうちょっと見ておきたいものがあるんだ。だから、一階で待っていてくれないかな。そこの休憩コーナーで」
「気にしないでください。おつき合いしますから」
「いやっ、ついてきてもらうほどのものじゃ、ない、んだ。ただ見るだけで、買うつもりはないから、荷物持ちはいらないし……」
 話しながら次第に声が小さくなる和彦の様子から、察するものがあったらしい。組員は、自分の職務を忠実に果たすべきか、和彦の希望を叶えるべきかと悩むように、頭を掻く。和彦はすかさず畳みかけた。
「ウロウロするわけじゃないから。地下の売り場に用があるんだ」
「……必死ですね。先生」
 仕方ないと組員が納得してくれたのと、エスカレーターで一階に着いたのは同時だった。その場で再び別れた和彦は、さっそく地下一階の売り場へと向かう。
 実は、宮森とケーキを一緒に食べた月曜日の夜から、毎日優也とメールをやり取りしている。前触れもなく、本当はあんたと話すことなんてないけど――と、優也が憎まれ口をメールで送ってきたのだ。
 和彦との連絡を楽しみにしていると宮森は言っていたが、とてもそんなふうには読み取れないと苦笑しつつ、和彦は返信したのだが、そこから、なんとなくメールが続いている。
 ただ、毎回優也から言われるのは、メールのやり取りは面倒くさいということだ。つまり、チャットアプリでやり取りしたいらしい。
 和彦としては意地を張っているつもりはなく、何かと多忙なこの時期、たかが連絡ツールのために、新しい電子機器の使い方を覚える余裕はない。
 しかし、気になっているのは確かなのだ。このあたりの心情を、優也や千尋という青年たちに見透かされている気がする。
 心の中でぼやきながら和彦は、階段を下りて正面の位置に展開されているコーナーに足を踏み入れる。会社帰りの男女や、学生と思しき若者たちが多く、なかなかにぎわっていた。彼らが熱心に見ているのは、スマートフォンだ。
 和彦は、どの機種がいいとか、どんな機能があるとか、そんな予備知識は持ち合わせていない。いままでまったく興味がなかったものを、これを機に、自分が使うことを念頭に見ておこうというだけだ。
 そう考えて売り場をウロウロしていたが、すぐに居心地の悪さを覚える。目移りするというレベルにすら達せず、何を見ていいかわからず、視線が泳いでしまう。買い物好きの和彦の性分を持ってしても、理解が追い付かない。
 今度、千尋についてきてもらおうと思った一瞬あとに、どうしてスマートフォンに興味を持ったのか聞かれると、なかなか面倒なことになるのではないかと危惧する。
 長嶺の男たちの嫉妬深さを甘く見てはいけない。自戒するように心の中で呟いた和彦は、ぶるっと身震いをした。
「……なんか、嫌な予感が……」
 まさか風邪ではないだろうかと戦きながら、早々に売り場から退散する。
 エスカレーターを上がってきた和彦を見ると、イスがあるのに立ったまま待機していた組員が近づいてきた。
「早かったですね、先生」
「う……ん、よくわからなくて」
「欲しいスマホの品定めはできましたか?」
 売り場から見当をつけたのか、それともあとをつけていたのか。あえて問い詰めるようなことでもなく、曖昧な返事をして店をあとにする。
 帰りの車中で和彦は、優也にメールを送る。まだしばらくスマホは買わないと。驚く速さで返信があり、一読して苦笑する。あんたのダンナに買わせろよ、とは優也でなければ出ない言葉だ。
 本当に口が減らないなと、呆れる一方で感心もしていると、突然携帯電話が鳴った。表示された番号は、今まさにメールをやり取りをした優也のものではない。見覚えのない番号なのだ。
 さきほど感じた嫌な予感は、この電話が関係あるのかもしれない――。
 和彦は本能的な忌避感に襲われ、反射的に電話に出たくないと思ったが、助手席の組員がこちらをうかがってくるため、不自然に電源を切るわけにもいかない。おそるおそる電話に出てみた。
「――……もしもし」
『お疲れのところ申し訳ありません。総和会の吾川です』
 思いがけない相手からの電話に、和彦は激しく動揺する。声も出せないまま固まっていたが、吾川は辛抱強く和彦からの返事を待っている。そこでようやく我に返り、電話にではなく、ハンドルを握る組員にこう頼んだ。
「外で話したいから、どこでもいいから車を停めてくれないか」
 顔を強張らせている和彦に対して何か言うでもなく、車は速やかに目に入ったコンビニの駐車場へと滑り込む。すかさずシートベルトを外すと、携帯電話を耳に当てたまま車を降りた。吾川との会話を、長嶺組の組員たちに聞かせたくなかったのだ。
 数分の間があったにもかかわらず、ようやく応じた和彦に、吾川は気を悪くした様子もなかった。淡々とも穏やかとも言える語り口で、何事もなかったように続けた。
『お疲れのところ申し訳ありません。すでにもう帰宅されているとばかり思っていましたが、もしかして、今は外に?』
「え、ええ……。でも大丈夫です。何かご用ですか?」
 問いかけて、自分の迂闊さを罵りそうになった。守光の側に仕えている吾川からの電話となれば、用件は限られているようなものだ。
「本部に来るよう言われている件でしたら――」
『本日、本部に長嶺組長が……いえ、賢吾さんが見えられました』
 どうしてそんなことをわざわざ電話で、と戸惑ったのは一瞬だった。
「ぼくのことで、賢吾さんが何か?」
『最初は冷静に話をされていましたが、途中からずいぶん激昂なさっているようでした。それに……長嶺会長だけでなく、総和会全体が憂慮すべき発言もされていたそうです』
「あの人が、激昂、ですか? それに、憂慮すべき発言というのは……」
 車内からこちらを見ている組員の視線を意識して、和彦は体の向きを変える。
『ここのところ続く総和会の傍若無人ぶりが、腹に据えかねていらっしゃるとのことです。対応を改めないのであれば、長嶺組は、総和会での活動を当面休止する考えがあると――……」
 それが具体的にどのような行動となるのか、和彦には想像がつかない。一つはっきりしているのは、賢吾の発言が事実だとすれば、一大事になるだろうということだ。
 しかし、吾川の言葉はそれだけでは終わらなかった。
『長嶺会長の代で、総和会が分裂する事態も念頭に置いていると、そう賢吾さんは仄めかされたようです。いつもの口論とは様子が違うと、わたしは感じました』
「本当に、賢吾さんがそんなことを……」
 吹きつけてくる風の冷たさ以外のもので、和彦は大きく身を震わせる。とんでもないことを聞いてしまったと、率直に感じた。
「……どうして吾川さんは、ぼくに電話をくださったのですか?」
『大事なことだからです』
「ぼくが、原因だから、ですか」
『きっかけ、と言ったほうがいいでしょう。佐伯先生も感じていたでしょうが、もともと賢吾さんは、総和会という組織に対して距離を置きたがっていました。敵対的というわけではないが、好意的というわけでもない。それでもバランスは取られていました。これまでは』
 和彦が守光と関わり、オンナとなったことで、そのバランスは傾いた。言外に吾川はそう言っている。責めるでもなく、失望するでもなく。どこか俯瞰して、事態を見ているような落ち着きぶりだ。
『わたしは今日のことを、あなたにはお知らせしたほうがいいと判断しました。賢吾さんは、本部に立ち寄ることを、運転手と護衛の者以外には秘しておられるようでした。会長も、あくまで父と子の問題として、大ごとにするつもりはないとおっしゃっています。ただ、総和会の動向次第で、賢吾さんがどう判断をされるか』
 賢吾は、守光を牽制した――というのは穏やかな表現だろう。要は、脅したのだ。それを守光はどう受け止めたのか、和彦は考えることすら恐ろしい。何より恐ろしいのは、賢吾の行動力だ。
 臆病で慎重だと、そう己の性分を語ったのは賢吾だ。巨体をくねらせながら大蛇が暗い場所から這い出て、化け狐を威嚇する光景が、やけにリアルに脳裏に浮かぶ。和彦は詰めていた息を吐き出した。
『長嶺会長は、いずれは会長という立場を降りられる身です。そのときあの方に残るのは長嶺の姓と、その姓を受け継ぐ身内の方々だけです。組織の分裂が、すなわち身内の縁を切ることに繋がるとは思いたくありません。しかし、長嶺会長も賢吾さんも、ああ見えて気性は激しい。そんなお二人の間を取り成す方が必要です。――佐伯先生』
 淡々と語り続けた吾川の口調が、和彦を呼ぶときにだけ熱を帯びる。
 自分には荷が重いと、弱々しい口調で応じながら和彦は、吾川が電話をかけてきた意図を推測する。普段、影のように黙然と守光に仕えている男が、独断でこんな行動に出るとは到底思えなかった。もしかすると今、吾川の傍らには、守光がいるのかもしれない。
 これ以上を話を聞き続けるのは危険で、一刻も早く電話を切ってしまわなければと焦るが、体が動かない。
 その間も吾川は語りかけてきて、和彦にはそれが、自分を縛り付けてくる呪詛に思えて仕方なかった。


 今日買ってきた目覚まし時計を箱から取り出したものの、ついぼんやりとしてしまう。
 ふと和彦は、自分の頬が火照っていることに気づき、てのひらを押し当てた。入浴してからもうしばらく経っているし、体調が悪いというわけでもない。
 体の内で得体の知れない感情がのたうち回り、興奮に近い状態なのかもしれない。そう無理やり、自分を納得させておく。
 起床時間をセットしておこうと、もたつきながら操作をしていると、こちらに近づいてくる足音が耳に入る。大きな歩幅で、荒々しい足取りだ。初めて聞く足音ではあったが、誰であるかはすぐにわかった。
「――入るぞ」
 和彦が応じる間もなく障子が開き、賢吾が姿を現す。帰宅したばかりらしく、ワイシャツ姿だ。
 忙しいのだなと思ったあと、なぜ忙しいのかと考えて、ゾクリとした。吾川から言われた言葉が耳元に蘇る。
 後ろ手に障子を閉めた賢吾はじっとこちらを見つめたあと、和彦の手元に視線を向けた。
「今日買ってきたのか」
「……ああ」
「スマホも興味津々で眺めていたと聞いたぞ」
 やはり、しっかり観察されていたらしい。和彦は苦笑いで返すと、目覚まし時計を置く。
「宮森さんの甥っ子から、買ったらどうだと勧められているんだ」
「欲しいなら、いつでも準備してやる」
 和彦は首を横に振ってから、賢吾に問いかけた。
「ぼくに何か用か?」
「もう寝ているかと思ってな」
「それなのに、あんな、あんたらしくない足音を立ててやって来たのか」
 賢吾は一瞬、決まり悪そうな顔をしたあと、すでに延べられている布団に目を遣る。
「まだ寝ないのか?」
「もう、布団に入るつもりだった。目覚ましをセットしたら……」
「そうか。暖かくして寝ろ」
 ここで不自然な沈黙が訪れる。珍しく、賢吾が何か言い淀んでいるのだ。その理由には、薄々見当がついていた。
 和彦は、吾川から電話があったことを、誰にも知らせていない。帰りの車で一緒だった組員たちは、電話をきっかけに和彦の様子が一変したことを、当然賢吾に報告はしているだろう。おそらく賢吾は、電話の相手を知りたがっているはずだ。
 いつもであれば、余裕たっぷりの笑みを浮かべ、言葉で和彦を翻弄しながら、たやすく聞き出すのだろうが、今夜の賢吾は違う。
 二人はしばらく、欲しい答えを探り合うように見つめ合っていたが、先に目を逸らしたのは賢吾だった。
「……悪かったな。押し掛けて」
 賢吾が部屋を出て行こうとする気配を感じ、和彦は反射的に立ち上がる。勢いのまま、賢吾の腕にすがりついていた。
「賢吾っ……」
 すぐに後ろ髪を強く掴まれ、顔を上げさせられる。間近で見て、今の賢吾の目に潜むのは大蛇ではなく、ただの激情だと知る。
「どうした、和彦?」
 官能的なバリトンの響きに胸が疼く。
「……なんでも、ない……」
「だったら、俺が恋しくなったか」
 喉を鳴らして笑った賢吾の息遣いが、唇に触れる。それだけで和彦は小さく喘いでいた。賢吾は軽く目を瞠ってから、囁くように言った。
「可愛いオンナだ。――……大事で可愛い、俺のオンナ」
 後ろ髪を掴んでいた手が離れる。両腕でしっかりと抱き締められると、和彦もおずおずと賢吾の背に腕を回す。煙草を吸ったばかりなのか、いつもより強く匂いがする。そんなことを頭の片隅で思いながら、ゆっくりと唇を重ねた。
「キスだけ、な」
 優しく唇を啄まれながら賢吾に言われ、和彦は頷く。自ら求めて賢吾の唇に舌先を這わせると、あっさりと口腔に招き入れられた。きつく舌を吸われて足元が震える。賢吾にしがみついて体をすり寄せると、痛いほどに抱き締められた。
 唇と舌を貪り合いながら、賢吾の髪に指を差し込む。するとうなじを撫で上げられ、後ろ髪を今度は丁寧に梳かれる。和彦が洩らした声はすべて唇で吸い取られた。
 蛇のように残酷で執念深いが、一方で、溺れそうになるほどの情愛を注いでくれる、優しい男(ひと)。
 和彦は、賢吾との濃厚な口づけを堪能しながら、ある覚悟をしっかりと胸に刻み付ける。
 自分のせいで、賢吾には何も失ってほしくはなかった。かつての満たされた生活を賢吾に奪われはしたが、そのことはもう、和彦にはどうでもいい。
 今、大事なのは――。




 クリニックのスタッフとの忘年会を兼ねた食事会は、ホテルのレストランでのディナービュッフェだった。
 早いうちからスタッフの一人が、評判のいいプランが今ならまだ予約が取れると話していたため、一任していたのだが、間違いなかったようだ。
 皿の上のローストビーフを眺めながら、素直に和彦は感心する。女性の多い職場なので、美味しい食事とデザートが食べ放題というのは何より魅力的だったのだろう。もちろん、中にはすでに、アルコールを飲んでほんのりと頬を上気させているスタッフもいる。
 ここはカクテルも女性好みのものが揃っているらしい。明日は土曜日でクリニックが休みということもあり、多少ハメを外しても心配ないようだ。
 一方の和彦は、ノンアルコールビールで口を湿らせていた。あまり食欲がないと思いながらも、スタッフたちの手前、何も手につけないわけにはいかない。
 ローストビーフを一口食べると、なんとなく食欲が湧いてきた気がして、せっかくだからとラム肉も味わう。魚料理や自家製パンも美味しくて、結局、ノンアルコールビールでは物足りなくなり、シャンパンを頼んでしまう。
 イチゴの小さなショートケーキも一つ食べたところで、時間切れだった。二次会はどこに行くかと皆が盛り上がっている中、和彦は現金を入れた封筒を隣のスタッフにそっと差し出す。
「申し訳ないけど、ぼくはこれから用があるから、あとはスタッフだけで楽しんで。これは、二次会の支払いに使って」
 和彦は慌ただしくレストランを出ると、クロークに預けていたコートとアタッシエケースを受け取る。その足で、別館へと繋がる連絡口へと向かった。
 別館の正面玄関から外に出たとき、寒さも感じないほど緊張していた。
 少し歩道を歩いたところで、車のクラクションが短く鳴らされる。
 一台の車がスッと車道脇に停まり、それを視認した和彦は小走りで近づく。ドアを開け、車に乗り込もうとしたところで、硬直した。
 誰も乗っていないと思っていた後部座席に、すでに人の姿があったからだ。しかも――。
「……どうして……」
 ようやく和彦が声を絞り出すと、悠然とシートに身を預けたまま、守光が薄く笑んだ。









Copyright(C) 2019 Tomo Kitagawa All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。



第42話[04]  titosokubakuto  第43話[02]