と束縛と


- 第43話(2) -


 ひどい車酔いに苛まれながら和彦は、ウィンドーの外に目を向ける。とっくに日が落ちて辺りは闇に包まれてはいるものの、ぽつぽつと点在する街灯と、前後を走行する車のライトのおかげで、かろうじて周囲の景色を見ることはできる。
 とはいっても、目に入るのは木々の影ぐらいで、それが巨大な生き物に見えてくるぐらいには、和彦は不安感に支配されていた。
 どこに連れて行かれているのかは、すでにわかっている。ただ、なぜその場所なのかはわからない。
 後部座席に並んで座る守光は、雪が見たくなったからだと言っていたが、そんな説明を和彦が信じるとは、端から思っていないだろう。和彦の理解と納得など、必要としていないのだ。ただおとなしく運ばれればいいと、それだけを求めている。
 木の枝に積もった雪が風でハラハラと散る光景を、視界の隅に捉える。今は止んではいるが、この様子だと少し前までけっこうな勢いで降っていたのかもしれない。道全体が白く染まっている。ただ、運転は慎重ではあるが、移動が困難なほどの積雪にはまだなっていない。
 前方を走っていた車が停止し、人が降りる。何をしているのかと見るまでもない。道を塞いでいたガードフェンスを移動させているのだ。和彦も知っている手順だった。
 再び車は走り出したものの、それも長い時間ではなく、見覚えのある建物が見えてきた。先に到着している人間がいることを物語るように、駐車場だけではなく、玄関先も照明が灯っており、部屋の窓からも電気の明かりが見える。
 総和会が所有している別荘だった。
 かつて和彦は、この場所に二度訪れており、そのいずれも同行者は違っていた。前回は五月の連休中で、三田村と中嶋が。さらにその前は、年が明けたばかりの頃、賢吾と千尋が一緒だった。
 そして今は――と、和彦はそっと隣の守光を見遣る。駐車場の照明の明かりを受け、一瞬守光の横顔に濃い陰影が浮かぶ。それによってひどく凶悪な相に見えてしまい、和彦は内心震え上がっていた。
 ふっとこちらを見た守光が穏やかに微笑む。
「大丈夫かね。顔色が悪いようだが」
「……少し、車に酔って……」
「いきなり、長時間の移動につき合わせたせいだろう。腹も空いているんじゃないか」
 今夜の移動はまさに強行軍と呼べるものだったかもしれない。途中、休憩も取ることなく、ひたすら車は走り続けたのだ。一応、和彦や守光にうかがいを立てることはあったが、守光が大丈夫と答えれば、和彦も同調せざるをえない。結局、到着するまでの間、一度も外の空気は吸えなかった。
 車が玄関前に着けられ、外からドアが開けられる。守光に続いて車を降りた和彦は、あまりの寒さに肩を竦める。通勤で着ているコートは、防寒としてまるで役に立っていなかった。
 足元のコンクリートに積もった雪はすっかり踏み固められ、分厚い氷のようになっている。滑っては大変だとばかりに、守光の傍らに、スッと男たちが寄り添った。和彦にも手が差し出されそうになったが、首を横に振って断る。このとき思い切り息を吸い込んだ拍子に、肺に冷気が突き刺さる。
 激しく咳き込んでしまい、辺りを包む静謐ともいえる空気を切り裂いていた。自分がひどく不粋なことをしでかしたようで、和彦は必死に口元を手で覆って咳を抑えた。
「大丈夫ですか、先生」
 気遣わしげに声をかけられ、平気だと応じる。もう一度咳をしてから、はあっ、と白い息を吐き出した和彦は、ようやく周囲に目を向けることができた。
 辺りは威圧的ともいえる闇に包まれており、煌々と明かりの灯るこの別荘だけが、異質なもののように浮かび上がっている。ここはこんなに怖い場所だっただろうかと、和彦は自問していた。
 いや、怖いのはこの場所ではなく、一緒にいる人物だ――。
 肩越しに振り返っていた守光と目が合い、軽く頷かれる。
「早く中に入ろう、先生。風邪を引いては大変だ」
 すでに足元から凍りつきそうで、守光に言われるまま建物へと入る。その途端に、暖められた空気に肌を撫でられた。
 エントランスホールに立った和彦は軽い違和感を覚え、次の瞬間には、その理由がわかった。視界に入るリビングの絨毯やカーテンが替わっており、家具の位置も動かしたようだ。
 前回訪れてから半年以上経っているというのに、案外はっきりと覚えているものだと、ぼうっと眺めていた和彦だが、部屋に案内すると言われて我に返る。咄嗟に守光に目を向けていた。
「あのっ……」
「今夜はもう遅いから、部屋でゆっくり休みなさい。要望があれば遠慮せず、うちの者に言えばいい」
 そう言って守光が、男たちを引き連れるようにして一階の奥へと向かい、和彦は案内されるまま二階へと上がる。偶然なのか、通されたのは、これまで使ってきたのと同じ部屋だった。
 こちらもすでに暖められ、ベッドも整えられている。さらに、布団の上には畳まれたスウェットの上下と、デパートの袋が置いてあった。テーブルの上にはミネラルウォーターのボトルとグラス、菓子が盛られた器が。
 室内を確認していて、扉が開いたままのクローゼットが目に留まる。数着の服が吊るされており、どれも新品のようだ。部屋のものは自由に使ってくださいと言われており、つまりこれは和彦のために用意された着替えということだ。
 ダウンジャケットを手に取ったところで、ハッとして慌ててベッドに戻り、デパートの袋の中を覗く。思ったとおり、新品の下着が入っていた。
 全身の血が沸騰しそうだった。体を駆け巡る激情が一体なんなのか、和彦自身もよくわからないが、とにかく必死に押し殺し、荒く息を吐き出す。
 痒いところに手が届きそうな準備のよさは、今日思い立ってできるものではない。お前は罠にかかった獲物なのだと、暗に仄めかされているようだ。
 悄然と立ち尽くしていたが、ふいに貧血のような症状に襲われて、ベッドに腰掛ける。自分の置かれた状況に、いまだに脳の処理が追い付かない。頭の芯が熱を帯び、考えることを放棄したがっている。
 ふと、部屋まで案内してくれた男がまだ去っていないことに気づく。和彦が顔を上げると、待ち構えていたように、入浴を勧められた。簡単な食事もすぐに準備できると言われたが、さすがにそれは遠慮しておく。
 座り込んでいても仕方ないと、和彦は用意された着替えを抱えて立ち上がった。


 日付が変わってからも、ベッドに入る気にはなれなかった。
 仕事を終えたあとの長距離移動で、肉体的にはくたくたではあるのだが、気持ちは高ぶったままで、眠気はやってこない。
 意味もなく室内を歩き回ったあと、部屋の隅に置いたアタッシェケースの存在を思い出す。和彦が入浴に行っている間に部屋に運び込まれていたのだ。
 何げなく開けてみて、愕然とする。中に入れてあった携帯電話が二台ともなくなっていた。
 外部と連絡を取らせまいとする総和会の意図であることは、さすがにすぐに察した。
 動揺した和彦だが、取り乱すまでには至らない。ある程度、覚悟はしていたからだ。返してほしいと訴えたところで無駄だと悟ってしまうと、切り替えるしかない。
 和彦は、読みかけの文庫本を取り出す。部屋にテレビは備え付けられているが、つける気にはなれなかった。だからといって、のんびり読書をする気にも――。
 和彦はため息をつくと、結局、文庫本をアタッシェケースに戻していた。
 自分の行動がちぐはぐに感じ、それどころか、手足を動かすのもぎくしゃくしてしまう。まるで、自分の体ではないように。こんなことになるなら、アタッシェケースに安定剤も入れておけばよかったと後悔していた。
 カーテンの隙間から窓の外を一瞥して、寒そうだと思いながらも、バルコニーに出ていた。一気に吹き付けてくる冷たい風に息を詰めながら、目を凝らす。今夜は月はおろか、星すら見えない。建物の周囲を照らしていた照明もすでに落とされ、敷地の外の様子はまったく見えない。ただ、一階のダイニングやキッチンはまだ電気がついているらしく、そこから漏れた明かりが、ぼんやりと庭を照らしていた。
「ああ……」
 肩を震わせながら、じっと庭を見下ろしていた和彦は小さく声を洩らす。庭全体がうっすらと積もった雪で覆われて、ある種の風情を帯びている。植えられた樹木も白く薄いベールを被ったような姿となっており、和彦は手すりにもたれかかって見入ってしまう。
 賢吾や千尋とここに宿泊したとき、二人の相手で気忙しくて、冬の庭をじっくりと見る余裕はなかった。初夏の庭は目に眩しいほどの生気に溢れていたが、今の精神状態では、どうしてもこの物寂しげな光景に心惹かれる。
 雪が降ってから誰も庭に足を踏み入れていないのか、足跡一つ残されていない。
 あの中に入ってみたいなと、魔が差したように和彦は思う。気詰まりを感じる別荘内の空気から、少しだけ解放されたいという、都合のいい言い訳かもしれない。なんにしても、自発的に何かしたいという気持ちになれたことは確かだ。
 ふらりと部屋に戻ると、総和会の気遣いの証であるクローゼットの中のダウンジャケットを取り出す。抵抗はあったが、さすがに通勤用のコートは心もとない。
 しっかりダウンジャケットを着込んだ和彦は、静かに部屋のドアを開け、廊下の様子をうかがう。もともと騒々しさとは無縁の場所ではあるのだが、深夜ともなり、二階に人の気配は感じられなかった。足音を殺して廊下に出てしまうと、あとは開き直るだけだ。
 素早く一階に下りると、非常灯だけが点るエントランスホールを駆け抜けて、玄関から自分の靴を取ってくる。この別荘の造りはほぼ頭に入っており、最短距離で庭に出るためダイニングへと移動した。誰かが使っていた形跡がテーブルの上などに残っているが、人はいない。和彦はこの隙にと、キッチン脇にある裏口から庭へと出ていた。
 慎重な足取りで歩きながら、ダウンジャケットの前を掻き合わせる。雪を踏みしめるサクッ、サクッという微かな音すら聞こえるほど、静かだった。まだ起きている者もいるだろうが、別荘から聞こえてくる物音はなく、皆が息を潜めているようだ。
 この瞬間、強烈な孤独感に襲われた和彦は、臆病な小動物のような動きで庭を見回していた。ここから表の通りに出られないかと考えたのだ。
 いや、出ること自体は不可能ではない。ただし、何重もの鉄条網を潜り抜け、明かりもない暗く細い道を通っていかなければならない。しかも今は雪が積もっており、足を取られるのは必至だ。深夜にやるべき冒険ではないだろう。
 頭では理解しているが、未練がましく広い庭に足跡を残していく。そうしているうちに、また雪が落ち始める。立ち止まると、感覚を奪う寒さが爪先から這い上がってきた。かまわず和彦は空を仰ぎ、落ちてくる雪を顔で受ける。
「――こんな時間に雪遊びか、先生」
 前触れもなく揶揄するような声をかけられ、一瞬呼吸を止める。次の瞬間、弾かれたように声がしたほうを見ると、いつからそこにいたのか、マウンテンパーカーを着込んだ南郷が立っていた。
 なぜ、という言葉がまっさきに頭に浮かぶ。別荘に到着したとき、南郷の姿はなかった。移動の車列にも加わっていなかったため、少なくとも今夜は、南郷はここにはいないと思ったのだ。しかし現実は――。
 いつだって南郷は、いてほしくない場面で登場する。まるで、和彦の驚きを楽しむかのように。
 声もなく警戒する和彦に、南郷は大仰に肩を竦めて見せる。
「これから降りが強くなりそうだ。もう中に戻ってくれ。こんな天気でも、一応侵入者の警戒をしなきゃいけないんだ。センサーのスイッチを入れるから、うろうろしていると、アラームが鳴り響くぞ」
「……南郷さんが、どうしてここに……」
「オヤジさんがここに滞在するなら、警備も俺の仕事だからな。寝る前に最後の見回りだ」
「でも、さっきは――」
 激しくうろたえる和彦の反応に満足したのか、歯を剥き出すようにして南郷が笑う。寒さ以外のもので、和彦はゾッとした。
 粗野さや下劣さを仮面のように身につけるこの男の脇腹に、どれほどおぞましい生き物が棲みついているか、思い出す。その生き物こそが南郷の本質を表していると思うと、ひたすら不気味だった。南郷はとにかく得体が知れない。
「簡単な話だ。俺は先乗りして、別館に待機していた。あんたの世話を、他の奴に任せるわけにはいかない。知ってるだろ? 俺が見かけによらず、世話好きだと」
 空々しい台詞に対して、和彦は露骨に嫌悪感を示す。つれないな、と小さくぼやいた南郷が、ふと視線を地面に落とした。そして皮肉っぽく唇を歪める。
「雪に残るあんたの足跡……、まるで、追い立てられて逃げ惑うウサギの足跡だ」
「そんな光景、ぼくは見たことありません……」
「俺はある。前にあんたに、俺が田舎暮らしだったことは話しただろ。そこは、雪深い場所だったんだ。俺を引き取ったジジイが狩猟をやっていて、猟犬を飼ってた。獲物を追うためだけに育てられた可愛げのない犬で、俺には尻尾も振らなかった。そいつが、ウサギを見つけ出すのが上手かったんだ。追われたウサギは、こんな足跡を残してた」
 南郷が一歩を踏み出し、和彦の残した足跡の上に立つ。触れられたわけでもないのに、ひどく不快な感覚に襲われた。
 何がおもしろいのか南郷は、そうやって和彦の足跡を消しながら、代わりに己の大きな足跡を残していく。どこか児戯めいた行動から、和彦は目が離せなかった。
「冬になると、この庭に獣が入り込んでくる。餌がなくて、庭に残っている球根やら、落ちている木の実を狙っているんだ。いままでは鉄条網で防いでいたんだが、それも限界で、つい何日か前、あるものを設置した。獣が入れるなら、人間も入れるってことだからな。守りは厳重にしておかないと」
 南郷が、建物からの明かりも届かない庭の奥へと目を向ける。まさにたった今、抜け出せるのではないかと和彦が考えていた場所だ。
「――……何を設置したんですか?」
「電気柵。見たことなくても、言葉から想像はできるだろう。張った電線に電気が通ってる。本来は獣を驚かせて追い払うものだが、ちょっと弄って、人間が怪我するレベルの電圧にしてあるから、迂闊に近づくなよ、先生」
 脅しだと疑うには、目の前にいる男はあまりに物騒だ。ただ皮肉なことに、そんな男の話を聞いていくうちに、和彦が把握しているある一つの情報が、今のこの状況と結びついていく。
 情報とは、一週間ほど前に中嶋からもたらされたものだ。南郷が隊員たちに行き先も告げず、何日か姿を見せていないと聞かされたとき、和彦は必然的に、守光から指示を受けて動いているのだろうと思った。それがまさか、自分に関わるものだとまでは、思い至らなかったが。
「今はここに、余計なものは近づけたくないし、騒ぎを起こしたくない。そのための準備だ。……久しぶりに泥に塗れる仕事をして、なかなか楽しかった」
「そう、ですか……」
 応じた和彦の声は微かに震えを帯びていた。それを南郷に知られまいと、低く抑えた口調で続ける。
「寒いので、中に戻ります」
 足早に南郷の傍らを通り過ぎようとして、腕を掴まれた。和彦は咄嗟に怯えた表情を向け、南郷は意味ありげに目を眇める。
 数十秒もの間、どちらも身じろぎをせず、言葉すら発しなかった。異様な空気に和彦は瞬く間に呑まれてしまったのだが、南郷のほうは相変わらず何を考えているのかうかがわせない。
 寒さで歯が鳴る。それを恥ずかしいと思う余裕すら、もう和彦にはなかった。
「……南郷さん、離してください」
「あんたを追い立てている獣は、誰だ?」
「えっ」
「俺か、オヤジさんか。佐伯家の人間か、里見という男か。それとも、長嶺組長か」
「何を、言って……」
 和彦は腕を引こうとするが、ダウンジャケットの上からがっちりと南郷の指が食い込んでいる。
「追い立てられるあんたは、実にいい。弱々しく青ざめて、それでも精一杯に気丈に振る舞って、持って生まれた品性ってものがよく出てる。あんたの弱さは、なぜだか無様には映らない。それどころか――」
 南郷の大きな体がずいっと迫ってくる。その勢いに圧されてよろめいた和彦だが、倒れ込んだりはしなかった。南郷のもう片方の手が、無造作に首の後ろにかかったからだ。動けなくなった和彦を、南郷はせせら笑った。
「あんたを捕まえるのは容易いな」
 ダメだと頭ではわかっていながら、屈辱に耐え切れず鋭い視線を向ける。南郷を刺激するのは、それで十分だった。
「――……あんたにその顔をさせたくて、俺は意地悪をしたくなるんだ。だから俺は悪くない」
 身勝手な自分の言い分がおもしろいのか、低く笑い声を洩らしながら南郷が顔を寄せてきた。
 獲物をいたぶる暗い愉悦を湛えた目を間近に見てしまい、射竦められた和彦は瞬きもできない。喰われる、と思ったとき、熱い舌にベロリと唇を舐められた。何が起こったか悟る前に総毛立ち、短く声を発する。それが悲鳴となる前に、南郷に強引に唇を塞がれた。
 いきなり痛いほどきつく唇を吸われながら、掴まれた首に太い指が食い込む。首の骨をへし折られるのではないかという怯えが、嫌悪感を上回った。
 熱っぽく何度も吸われているうちに、引き結んでいた唇が緩んでくる。強靭な歯で上唇と下唇を交互に甘噛みされ、さらに舌を口腔に押し込まれそうになる。ここで我に返った和彦が必死に身を捩ろうとすると、おもしろがるように南郷に言われた。
「いまさら嫌がることもないだろ、先生。もう慣れたんじゃないか。俺とのキスに」
「ふざけないでくださいっ……。あなたがここにいるんなら、ぼくは帰ります」
 ふん、と鼻を鳴らした南郷が、残酷な笑みを口元に湛える。
「なら、部屋で続きを――」
「違います。タクシーを呼んで、自宅に帰るんです」
「自分で無茶を言っているとわかっているだろ、先生。この道路状況でタクシーは来てくれないし、今何時だと思ってる。そもそも、どうやってタクシーを呼ぶ?」
「……歩いて、近くの人家まで……」
「だったら、タクシーを呼ぶより、長嶺組長に助けを求めたほうが早いな」
 それはできない、と即座に心の中で答える。長嶺組の護衛を出し抜く形で、総和会本部に出向く計画を立てたのは、賢吾が知る前に話をしたかったからだ。しかしその計画は大きく狂い、和彦はこうして別荘に連れてこられた。結果として、守光とゆっくり話せる状況にはなれたが、賢吾に多大な心配をかけるのは本意ではなかった。
 和彦は、自分が長嶺の男二人の間を取り成せるなどと、大それたことは考えていない。しかし、守光の腹の内は知っておきたいし、自分にできることがあるなら、可能な限りのことはしておきたかった。
 そう、考えたのだが――。
「健気なことだな、先生」
 和彦の葛藤を見透かしたように、皮肉っぽく南郷が洩らす。首の後ろを掴んでいた手は、今は和彦の頬を撫でてくる。
 再び唇を塞がれそうになったが、和彦は必死に顔を背けた。南郷はくっくと声を洩らして笑ったあと、前を開いたマウンテンパーカーの内側に和彦を抱き込んだ。煙草とコロンが混じり合った匂いと、南郷自身の体臭を嗅ぎ、ゾッとして体を離そうとするが、頑として南郷の腕は外れない。
「〈今〉は、もう何もしないから、そう体を硬くしないでくれ。さすがの俺でも傷つく」
 言葉とは裏腹に、どこか楽しげな南郷から、和彦は不穏なものを感じ取る。
 危険だとしても、やはり夜のうちに別荘を抜け出すべきなのだろうが、こちらが諦めるまで、南郷は体を離す気はないようだ。上目遣いにちらりと見た途端に、食い入るように自分を見つめている視線とぶつかる。やむなく和彦は、南郷との抱擁をおずおずと受け入れた。
 今は、そうするしかなかった。




 喉の痛みで目を覚ました和彦は、喉元に手をやって、自分が寝汗をかいていることに気づく。夢見が悪かったというのもあるが、何より暖房が効きすぎているのだ。
 暖房をつけて眠った記憶はないので、和彦が寝入ってから、誰かが部屋に入ってつけたのだろう。眠りが浅いと思っていただけに、気配を感じさせなかった侵入者にゾッとする。
 ベッドに入った時間は遅かったが、寝起きはいつもより早いぐらいで、もう一度寝直そうかとちらりと考えなくもなかったが、人が起こしに来る状況が嫌で、諦めた。
 クローゼットにあったチノパンツとタートルネックのセーターを着て部屋を出ると、微かに人の気配が伝わってくる。
 おそるおそる一階に下りると、朝食の準備が始まっているらしく、ダシのいい香りが漂っている。現金なもので、ここで自分が空腹なのを自覚した。神経をすり減らしても、食欲とは別物なのだなと、和彦は密かに苦笑いを浮かべる。そこに、たまたま通りかかった男に声をかけられた。
「あっ……」
 吾川だった。昨夜は見かけなかったが、南郷と同じく、別館に控えていたのかもしれない。
 総和会本部がそのまま移動してきたような顔ぶれに、和彦としては何か行事があるのだろうかと、訝しまずにはいられない。それとも、守光が滞在している場合、これが普通なのだろうか。
 階段の途中で立ち止まった和彦に、吾川が丁寧に頭を下げる。慌てて吾川の側まで行くと、挨拶を交わした。
「……吾川さんもいらしてたのですね」
「若い者に会長のお世話を任せるのも心配ですから。――というのは建前で、わたしもこの別荘で、自然に囲まれて少しのんびりしたかったのです。年末が近づいてくると、何かと慌ただしくなって、思うように休めませんから」
 何も知らなければ、そうですかと信じてしまいそうな説明だが、もちろん和彦は違う。数日前、意味ありげな電話をかけてきて和彦の心を掻き乱したのは、目の前にいる吾川だ。守光に必要とされて、この男はここにいる。
 目覚めてすぐだというのに、心がもうざわついている。唇を引き結ぶ和彦に向けて、吾川は続けた。
「もうすぐ朝食の準備ができますが、どうされますか? まだ部屋でゆっくりされていてもかまいませんよ」
「いただき、ます。……お腹が空いたので」
 吾川はいくらか安堵したような表情を浮かべる。和彦は、先に顔を洗ってくると言い置いて、急いで洗面所に向かう。このとき、さりげなくエントランスホールや玄関先の様子もうかがったが、南郷の姿は見えなかった。
 だからといって安心はできないと、強く自分に言い聞かせる。不意打ちのように現れて、どうせまた嫌がらせのようにこちらが驚く様を楽しむのだ。
 ただ、ダイニングにも南郷が現れなかったことに、和彦は心底ほっとした。あの男に見られながらでは、食事が喉を通らない。
 吾川の給仕を受けながらの朝食を終え、特に何も言われなかったため、困惑しながらダイニングをあとにする。これから自分は何をすればいいのか、何かしら指示を受けると思っていただけに、当てが外れた。
 身の置き場がないとは、まさに今のこの状況だなと、戸惑いつつ部屋に戻ろうとしたところで、ちょうど玄関に入ってきた南郷と出くわした。悔しいことに、また驚く姿を晒してしまう。
 一方の南郷は、何事もなかったように話しかけてきた。
「メシは食ったか、先生」
「……はい」
 外で何をしていたのか、南郷が履いたブーツは泥だらけのうえに、マウンテンパーカーも肩の辺りが濡れているように見える。和彦の視線に気づいて、南郷は軽く自分の肩を払った。
「別荘の周りを散歩してたら、枝から落ちた雪を被った」
 はあ、と気のない返事をして、和彦はさっさと立ち去ろうとしたが、南郷に呼び止められた。
「先生、すぐに暖かい格好をしてきてくれ。手袋は……、俺のでいいか。これから出かける」
「これからって――」
 和彦の言葉を遮り、急かすように南郷が手を打つ。何事かと、吾川がダイニングから出てきたが、南郷の姿を認めるなり、すぐに引っ込んでしまう。
 仕方なく二階の部屋に戻った和彦は、ダウンジャケットを掴んで引き返す。玄関には、新しい長靴が置いてあった。その傍らで南郷がニヤニヤと笑っている。
「これを履いてくれ。通勤用の靴じゃ、滑って危ない」
 一体なんなんだと怒鳴りたい気分だったが、南郷が先に外に出てしまったため、あとを追いかけるしかない。
 履いた長靴は、防寒用で暖かくはあるのだが、爪先の部分が余っている。おかげで歩くたびに、間の抜けた音がする。用意してもらった手前、文句を言うつもりはないが。
 南郷が、見たこともない4WDに乗り込み、手招きをしてくる。すかさず和彦は背を向け、建物の中に戻ろうとしたが、クラクションを鳴らされて諦めた。
「……どこに行くんですか」
 4WDの窓から見る風景は、車高が高いこともあって少しだけ新鮮だ。だからといって、ハンドルを握る南郷との間に和やかな空気が流れるはずもなく、和彦だけがピリピリとしている。
「晩メシの材料を仕入れに」
 つまり少なくとも夕方までは、あの別荘に滞在するということだ。あからさまに失望するわけにもいかず、かろうじて無表情は保ったが、そんな和彦を横目で見て、南郷は唇の端に笑みを刻む。
「先生、ジビエは食ったことあるか?」
「……ジビエ肉とか言われるものですよね」
「夜、あんたに昔話をしていて、ふと思いついたんだ。今朝、知り合いに連絡を取ったら、肉を譲ってやると言われた。俺はガキの頃、じいさんが獲ってきた獣の肉をよく食っていたが、全然太れなかった。食わせ甲斐がないとよく詰られたもんだ。ただまあ、今はこうして人並み以上にでかくなったんだから、何かしら恩恵はあったんだろうな」
 恵まれた子供時代ではなかったらしい南郷だが、なんの抵抗もないようにその頃の話をする。吹っ切れたというのもあるのだろうが、口ぶりからして、完全に今の自分と切り離して捉えているのかもしれない。とてもではないが、和彦にはできないことだ。
「ぼくがついて行く必要はないと思うのですが……」
「どうせ何もやることがなくて暇だろ。オヤジさんは午前中いっぱいは、仕事の電話で忙しいしな」
 勝手に暇だと決めつけないでくれと、ぼそぼそと抗議した和彦だが、聞いていないのか南郷はラジオをつけてしまう。
 電波状況がよくないのか、よく聴き取れないニュース番組が流れ始めたが、和彦は必死に意識を傾ける。南郷がさらに話しかけてきたが、聞こえなかったふりをして返事をしなかった。


 夜の間に降った雪がしっかりと残る山道を、車は走り続けた。それでもさほど心細さを覚えなくて済んだのは、外が明るく、人家もちらほらと建っているからだ。
 ようやくある一軒家の敷地内に入ったのだが、家人だけのものとも思えない複数の車がすでに停まっていた。
 ぬかるんだ地面に足を取られそうになりながら、南郷について倉庫らしき建物に入ると、やはり何人もの人の姿があった。その中心にあるのは作業台で、そこに横たわっているのは――。
 何かの塊だと思い、和彦は人の合間から顔を覗かせ、目を凝らす。危うく素っ頓狂な声を上げそうになり、寸前のところで口元を手で覆う。イノシシだった。すでに絶命しているのは明らかで、内臓が取り除かれている。
 ここで、車中で南郷に言われた言葉を思い返す。『晩メシの材料』と『ジビエ』に、目の前の光景がしっかりと合致した。
 和彦は倉庫内を見回す。業務用らしき大きな冷蔵庫が設置されており、さらに、壁に掛けられたノコギリなどの道具に目をとめる。用途は一目瞭然だ。
 作業台の周囲には、さまざまな年齢層の男女が集まり、談笑している。その中に、当然のような顔をして南郷も加わっていた。
 漏れ聞こえてくる会話から察するに、これからこのイノシシの皮を剥いで、肉を解体していくようだ。そしてその肉を、今集まっている人たちに分配するらしい。
 その仕組みはわかるのだが、そこになぜ南郷も加わっているのか。この場に集まっているのはどう見ても、イノシシ肉を楽しみにしている一般人ばかりだ。
 粗野で暴力的な空気をまき散らす南郷の存在は、明らかに浮いている――はずなのだが、数人のグループと話している南郷を見て、和彦は困惑する。大柄で強面ではあるが、人のよさそうな笑みを浮かべた男が、そこにいたからだ。
 見た目は南郷なのだが、中身は別人と入れ替わったかのように雰囲気が違っている。
 誰よりも大きな笑い声を立てた南郷は、今度は別のグループに声をかける。自分が後ろ暗い存在であることをおくびにも出さない、朗らかな声と表情で。
 擬態だ、と咄嗟にそんな単語が頭に浮かんだ。演じているという表現より、相応しい。
 結局、イノシシの解体を最後まで見たうえに、振る舞われたイノシシ汁まで味わうことになり、和彦は倉庫の外に置かれたベンチに腰掛けて、椀に口をつける。
「美味しい……」
 ぽつりと一人感想を洩らしたところに、椀を手にした南郷がのっそりとやってくる。やはり、と言うべきか、他に空いているスペースはあるのに、和彦の隣に腰掛けた。
「さすが医者だな、先生。イノシシが解体されるところなんて初めて見ただろ。それで、平気な顔して肉が食えるんだ。やっぱり連れてきてよかった」
「……イノシシの肉って、もっとクセが強いのかと思ってました」
「獲ったらすぐに血抜きする。それが臭みのない肉にする秘訣だ。猟について行ったことがあるが、ここの主人の手際は見事なものだった。――参考にしたくなるほど」
 最後の言葉は、南郷なりの性質の悪い冗談だろうと判断して、和彦は無視した。すると南郷が短く笑って汁を啜った。
「イノシシ肉は、体が温まる」
 独り言のように南郷が洩らし、さすがにそれについては異論はなく、和彦は小さく頷く。
 沈黙したまま、ただイノシシ汁を味わっていても間が持たず、なんとなく息苦しさを覚える。いまさら席を立つ度胸が和彦にあるはずもなく、とうとう南郷に話しかけていた。
「――……南郷さんも、猟をするんですか?」
「俺は、しないというより、できない。わかるだろ。ヤクザが猟銃を持てないって理屈が。何より俺には〈前〉がある。ただし、ここの主人たちには、目が悪くて試験を受けられないと言ってある。俺はあくまで、猟に興味がある一般人だ。オヤジさんについて別荘に来るたびに、暇を見つけては顔を出しているうちに、猟の現場を見せてもらえるようになった。おかげで、獣肉が手に入る」
 南郷に前科があるのは知っている。暴力団組織に所属しているとはいえ、逮捕されたことがある者ばかりではないだろうが、やはり多いのは確かだ。だからこそ和彦は、よほど気心が知れない限り詮索したりはしない。知ってしまえば、意識せざるをえないし、自分が平然とした顔をしていられるとも思えないからだ。
 一方で、知らないでいることは、無防備であるともいえるのだ。例えば、南郷に前科があると知ってはいても、一体どんな犯罪を犯したのかまでは把握していない。もしかすると、他人を傷つけた男の隣に、自分は今座っているかもしれないのだ。
 和彦はほんのわずかだけ、座った位置をずらす。途端に南郷から、ゾッとするような眼差しを向けられた。
「先生は、猟のことより、俺の〈前〉のことが気になるか?」
「……いえ。そんなことは……」
「そう、長い勤めはしていない。少年院にも刑務所にも入ったことはあるが、今の時代、それで箔がつくもんでもないから、自慢にはならない。もっとも、田舎の山奥から出てきた俺なんて、手を汚すしか術はなかったんだがな。目端の利く者は、荒事抜きで組織の上に行ける。もしくは、強力な後ろ盾を持つ者か……」
「それは――」
 この瞬間、和彦の脳裏にある男の顔が浮かぶ。すると南郷から、皮肉に満ちた鋭い笑みを向けられた。
「考えてみれば俺は、長嶺組長がしていない経験をして、ここにいる。あちらは大学まで出て、経歴になんら傷のないピカピカのお坊ちゃんで、対する俺は、薄汚い野良犬のようなものだった。それが今では、同じような高さの場所にいるんだ。人生ってのはおもしろいと思わないか」
 自虐ではなく、本当にそう感じているような口調で語る南郷に、一瞬和彦は、共感めいた気持ちを抱いていた。なぜと自問したあと、賢吾と南郷の境遇と立場が、自分たち兄弟に当てはまるのではないかと気づいた。
 長嶺組の跡目として若い頃から自覚を求められ、自らの夢を諦めてまで研鑽を積み、今は組長という務めを完璧に果たしている賢吾の姿は、佐伯家に生まれた長男として、当然のように官僚の道に進むことを定められ、家族と親族たちの期待に応えた英俊に重なる。
 一方の南郷は、生まれは本人が語っている通りだとして、居場所を求めて這い上がり、今は総和会内で守光の隠し子ではないかと噂されるほどの側近となった。そして和彦は、英俊とは違う道を歩むよう言われ、医者としての人生を送ると同時に、佐伯家の異物として在り続けるはずだった。それがなぜか長嶺の男たちのオンナとなり、佐伯家の脅威となった。
 南郷にどんな思惑があって、こんな話をしたのかは不明だが、和彦は警戒を強くする。
 もし自分と南郷に重ねる部分があったとしても、親しみは感じない。そう心の中で誓って、椀を手に和彦は席を立った。南郷は、さすがにあとを追いかけてはこなかった。


 別荘に戻った和彦を出迎えた吾川が、おやっ、という顔する。
「どうかされましたか、佐伯先生。顔が赤いですが」
 長靴を脱いだ和彦は、反射的に自分の顔に触れる。実は車中でずっと、顔どころか体も熱くなって気になっていたのだ。暖房が効きすぎていたのだろうかとも思ったが、そうではない。和彦のあとから玄関に入ってきた南郷が、答えを口にした。
「イノシシの肉を食ったせいだろうな。滋養が高いから、身が燃えてるんだろ」
「……体が温まるって、そういう意味ですか」
「たっぷり分けてもらってきたから、晩メシは肉パーティーだな。シカの肉もあるぞ、先生」
 ちらりと笑みを浮かべた吾川がすぐに表情を隠し、こう切り出してきた。
「少し早いですが、昼食を召し上がりませんか? そのあと、会長がお話があるそうですから」
 いよいよかと、反射的に和彦は背筋を伸ばす。
「いえ……、お腹は空いていないので。今からでも、会長のお部屋にうかがっても大丈夫ですか?」
「では、少々お待ちください。お茶を淹れてきますから、一緒に参りましょう」
 吾川がキッチンに向かい、和彦はその後ろ姿を見送ったあと、急に手持ち無沙汰となる。ダウンジャケットを部屋に持って行こうかと逡巡していると、南郷が片手を突き出してきた。
「ジャケットを部屋に持って上がっておく」
 ここは素直にお願いし、茶器とおしぼりの載った盆を手に戻ってきた吾川と共に、守光の部屋へと向かう。
 廊下の一番奥の部屋だが、和彦はまだ入ったことはなかった。過去にこの別荘を訪れたときには、鍵がかかっていたからだ。
 総和会が所有する別荘ということで、説明がなくとも漠然と事情は察し、さぞかし特別な設えの部屋なのだろうと想像はしていたが――。
 吾川に言われるまま先に部屋に入ると、まるで旅館の客間のような小さな玄関があり、そこでスリッパを脱ぐ。こんなところからすでに、二階の客間とは造りが違うのだなと、緊張とは裏腹に、和彦は妙に冷静に観察していた。
 襖を開けると、八畳ほどの広さの和室があり、コタツに入った守光といきなり目が合った。
「――外は寒かっただろう、先生。さあ、早くコタツに入りなさい」
 ゆったりとした笑みを浮かべた守光に手招きされ、和彦はおずおずと向かいに座る。すぐに吾川がお茶を淹れ始めた。
 おしぼりで手を拭きながら、不躾でない程度に室内を見回す。質の良さそうな調度品がさりげなく置かれた光景は、総和会本部の守光の居室とまったく同じだ。ただこの部屋には大きな窓があり、柵に囲まれてはいるがテラスにも出られるようになっていて、いくぶん開放感があった。
 二人の前にお茶を出し、静かに頭を下げて吾川が部屋を辞す。間を置かず、守光が本題に入った。
「あんたが心配しているのは、賢吾が言い出した、長嶺組が総和会での活動を休止するという件だろう」
 本来は、総和会本部に出向いて、和彦から切り出すつもりだった。守光は予想していたからこそ、わざわざこの場所を選んだことになる。側近の南郷に事前に準備をさせてまで。
 なぜ、と、昨夜から何度繰り返したかわからない疑問が、また脳裏を過った。
「……あえて、吾川さんから、ぼくの耳に入るようにしたのですか?」
「わしはよほど、あんたから謀略家だと思われているようだ」
 守光が珍しく苦笑を浮かべたが、和彦は顔を強張らせたまま、じっと見つめる。
「――早急に、あんたと二人で会う必要があった。だが、わしから直接連絡し、賢吾のことを話したとして、あんたは本部に足を運ぶ気になったかね? 賢吾に冷静になるよう諭しながらも、もう決めたことだと言われれば、それ以上の行動は取らなかっただろう。あんたは、賢吾に甘い。何より、力を持つ男に逆らえない。だから吾川を通した。わしに話を聞きに行くという口実を、あんたに与えたんだ。そして長嶺組からの横槍を避けるため、こうして別荘に移動してきた」
 今度は和彦が苦笑する番だった。
「失礼ですが、やっぱりあなたは、謀略家だと思います」
「わしにとっては今でも、長嶺組は大事だ。代々引き継いできたとはいえ、わしが育てて大きくした組織でもある。できる限りのことをして、息子に残してやれた。それなのに、あいつは……」
 子供の悪戯を窘めるような、柔らかな声音だった。だが和彦は、ゾクリとするような寒気を覚える。
「長嶺組をそうしたように、今度は総和会を盤石な組織にするために、あれこれ策を講じている最中だ。そこに、和を乱すような身勝手は許せん。今の長嶺組が、総和会の力なくして、これまで通りの活動ができると思っているとすれば、思い上がりも甚だしい。わしがどれだけ手を尽くして、長嶺組を守るために、総和会での影響力を強めてきたか――」
 守光の口調が熱を帯びたのは、ほんのわずかな間だった。我に返ったのか、平素の穏やかなものに戻る。
 和彦は静かに息を呑んだあと、あることに思い至る。切り出していいものか逡巡したが、正面に座っている守光の目が見逃すはずもなく、水を向けられる。
「何か言いたそうだな、先生」
「――……賢吾さんの身勝手というなら、そもそもの原因はぼくです。ぼくがいなければ、あの人は……、大それたことを考えもしなかったはずです」
「どうだろうな。あんたも知っての通り、賢吾は総和会と距離を置きたがっている。本心としては、長嶺組から総和会に人をやることすらしたくないだろうな」
 守光の目に冷徹な光が宿る。
「言い方を変えるなら、あんたがいるからこそ、賢吾は総和会と関わりを断てない。もしかすると、あんたが現れなければ、もっと早くに言い出したかもしれんのだ。長嶺組として、総和会で活動する気はないと。……わしが会長に就いたとき、長嶺組の影響力の大きさは約束されたものだったが、賢吾は戸惑っていた。そのときすでに、兆候は出ていたのかもしれん。そして今は、さらに大きな力を自分が得るかもしれないという可能性を、厭うている。わしにとっての危惧は、総和会が抱えたままの不穏分子より、自分の息子だ」
 守光の口ぶりから、やはり、と思わざるをえなかった。
 守光は、いずれは総和会会長の座に、賢吾を就かせるつもりなのだ。しかし当の賢吾は、総和会を忌避している。
 和彦はふうっと息を吐き出し、渇いた唇をお茶で湿らせる。
「やっと、わかった気がします。どうしてあなたが、ぼくなんかに興味を持ったのか」
「なんか、という表現は承服しかねるが、概ねあんたが考える通りだろうな。最初は千尋が、あんたに執着した。そこで賢吾もあんたに興味を持ち、結果として自分のオンナにした。一連の動きを、わしは全部報告を受け、観察していた。まだ、権力の深みと闇に疎い千尋は、あんたのことをなんでも教えてくれたよ。わしが、あんたとのつき合いを反対しかねないと、あの子なりに慮っていたんだろう。だから、事前に知っておいてほしいと。健気なことだ」
「そしてぼくが、佐伯俊哉の息子であることも知ったんですね」
「彼は、わしの――〈運命〉そのものだ」
 守光が放った一言は、鮮烈だった。
 湯呑の縁を指先で撫でながら、昔を懐かしむように守光が表情を和らげる。
「わしに火をつけたのは、あんたの父親だよ。人畜無害な極道でいたいという、ひどい矛盾に苛まれていたわしを、蔑むという形で救ってくれた。それに、野心というものがいかに大事で、生きる糧と成り得るかを、教えてくれた」
「父が、ですか……」
「そういえば、わしがあんたと初めて会ったとき、こう話してくれた。受け継いだものを、ただそのまま、あとに残すのはつまらない。そのためだけに自分が存在して、道具になったようだ、と。……似たようなことを、あんたの父親も言っていた。ただし、もっと手酷い言葉を投げつけられ、嘲笑もされたが」
 俊哉とのその思い出は、守光にとって不快なものではないのだろうと、口調から察することができた。
 二人の間にあった出来事をもっと詳しく聞こうと和彦が身を乗り出しかけたとき、制するように守光が緩く首を横に振る。
「聞きたければ、自分の父親に聞けばいい。さて、あの曲者が素直に教えてくれるかはわからんが。――話を戻そう」
 もどかしさに、てのひらに爪を立てた和彦だが、守光の口を割らせるなどできるはずもなく、不承不承ながら頷く。
「あんたも察したと思うが、将来的には賢吾を総和会のトップに据えたい。長嶺組という組織の規模も、組織を率いる賢吾自身の才覚も、もうすでに申し分はないだろう。ただ、いまだ五十に届かないという年齢が問題となる。総和会の不文律を盾に反対する者は出るはずだ。現に幹部会の口さがない連中など、賢吾を若輩扱いしておる。無理もないがな。わしを除いて、長嶺の男たちは実際若い」
「『男たち』……。千尋、ですか?」
 そうだ、と守光が大きく頷く。
「賢吾の将来を見据えるとき、同時に千尋の将来も考えなければならない。あれにはもっと経験を積ませ、知恵をつけさせ、自分の力で人望も得なければならない。賢吾がやってきたように。権力の移譲とは驕った言い方かもしれんが、わしからうまく賢吾に引き継げられれば、あとは千尋へと続くはずだ。そうやってあれこれ考えると、どうしても突きつけられる現実がある。何かわかるかね?」
 口に出すのははばかられ、和彦は控えめに守光を見つめ返す。守光は、笑みを深くした。
「優しいな、先生。今、わしに気をつかってくれたんだろう」
「優しいなんて……」
「――時間が足りない。正確には、わしの時間が。息子や孫のことを思い、総和会会長の地位に恋々とした感情を抱くが、一方で、耄碌したわしは、かつてわしがそうしたように、誰かに追い落とされるだろうとも思う。そういう惨めな姿は、身内の者に見せたくはない。自分の引き際は自分で決める」
 一度唇を引き結んだ守光は、思い出したようにお茶を啜る。
「そういうことをずっと考えていたわしにとって、あんたとの出会いは僥倖(ぎょうこう)としか言いようがない。あんたもまた、わしの〈運命〉となるんだと確信している」
「……ぼくを、どうしたいのですか?」
「ただ、長嶺の男の側にいて、よく尽くし、よく支え、よく愛してほしい。あんたは喜んで、わしらの血を受け入れてくれるだろう。そうやって互いに生かし合う」
 この言葉を聞くのは二度目だった。最初に守光から言われたとき、和彦は惑乱の中にあって真意を問うことはできなかったが、ただその重みだけは感じることができた。
「不安がらずともいい。あんたならできる。これまでわしらから逃れる機会は幾度もあった。きつい選択もさせた。それでもあんたはここにいる。ただ強い力に身を委ねてきただけだと言うかもしれんが、そうできるのもまた、あんたの強さだ」
 底知れぬ力を持った化け物に、拒否権のない選択を迫られていると思った。守光が和彦に突き付けてくるのは常にそういったものであったが、今は、秘密を共有し合っているような後ろ暗さも伴っている。
 守光は、慈愛に満ちた微笑を向けてきた。
「あんたは賢吾が大事。わしも息子が大事。将来に何を見ているかはともかく、そこは一致しているだろう。わしらは」
「将来……」
「かつてわしは、賢吾から鬼だと言われたことがある。権力に血迷った鬼だと。理解も納得も得られずとも、その鬼が、これがお前に用意した道だと示せば、賢吾も歩まざるを得なくなる。組を背負って立つ者の、逃れることのできない責任だ。そのために、すでに総和会という組織は改編されつつある。――そして賢吾は知るだろう。ある男の、人生を賭けた献身をな」
「……ある男?」
 守光がスッと目を細める。酷薄で、青白い炎のような苛烈な熱を感じさせる表情に、無意識に和彦は体を強張らせる。仄めかされた『男』とは一体誰を指しているのかと考え、ふと、ある人物の顔が脳裏を過る。
 献身という言葉とは程遠い、傲岸不遜な存在。だが、隠し子ではないかと噂されるほど守光が側に置き、目をかけている存在。
「それは――」
 和彦が名を口にしようとした瞬間、部屋の外から吾川が呼びかけてきた。守光宛てに仕事の電話がかかってきたようだ。やれやれと守光がぼやく。
「居場所をくらませても、連絡だけは断つことはできん。総和会会長と連絡がつかんというだけで、どこで何を企む奴が出るかわからんからな」
 それは、話はここで終わりだという合図でもあった。
 和彦は夢から覚めたような感覚に戸惑いながら、熱くなったままの自分の頬を撫でる。立ち上がろうとしたところで、さりげなく守光に言われた。
「――今夜また、この部屋に来なさい。誰にも邪魔されず、じっくりと話をしよう」
 ドクンと鼓動が大きく跳ねる。言外に含まれた意味を汲み取り、和彦は小さく頷いた。


 夕食と入浴を済ませてから部屋で少し休んだ和彦は、スウェット姿で一階に下りて、異変に気づいて動揺する。まだ宵の口ともいえる時間だが、人の気配がなかった。
 浴場に向かうときにはまだ一階では男たちが行き来しており、夕食の後片付けなどをしていたのだ。ハッとして窓の外を見てみると、やはり人の姿はないが、車は複数台停まっている。
 皆、一斉に別館に引き揚げたのだと知り、次の瞬間には全身が熱くなった。これから何が行われるか、当然のように伝達されているのだと思うと、激しい羞恥から逃げ出したくなる。
 いまさらではないかと皮肉っぽく自分に言い聞かせ、なんとか気持ちを奮い立たせた和彦は、一階の奥の部屋へと向かう。
 守光は、浴衣に着替えてはいるものの、相変わらずの端然とした佇まいで待っていた。部屋に入った和彦を見るなり、頬を緩める。
「髪がまだ濡れているな。慌てなくてもかまわないから、脱衣所で乾かしてくればいい」
「……いえ」
 入浴後すぐに部屋に来いと言われたわけではないのだが、ゆっくりと髪を乾かそうなどと思いつきもしなかった。
 ふいに沈黙が訪れ、立ったままの和彦と、コタツに入ったままの守光との視線が交わる。柔らかな微笑を浮かべていた守光の表情が瞬きする間に変化した。
 静かにコタツから出た守光が襖を開ける。奥は思ったとおり寝室となっており、すでに床が延べられていた。
 振り返った守光に軽く手招きをされ、反射的に半歩だけ後退った和彦だが、自分がこの部屋に来た覚悟を思い出し、すぐに従う。
 枕元には、見覚えのある文箱と折り畳まれたスカーフがあった。体を強張らせた和彦の背後で襖が閉まり、手を取られて布団の傍らに立つ。穏やかな声音で守光に言われた。
「服を脱いで見せてくれないか。先生」
 いまさら裸を見られたところで、という気持ちはある。しかし、脱がされるのと、自ら脱ぐのとでは心構えはまったく違う。和彦はすがるように守光を見たが、意に介した様子もなく守光は畳に正座する。
 さあ、とでも言うように見上げられ、ぐっと喉が詰まる。できませんとは、口が裂けても言えなかった。
 和彦は機械的にトレーナーを脱ぎ捨ててから、数秒のためらいのあと、パンツと下着を一気に下ろす。このときすでに、それでなくても熱くなっていた全身は、うっすらと汗ばんでいた。
 脱いだものを畳もうとして、手首を掴まれる。引っ張られるまま膝をつくと、守光に顔を覗き込まれた。
「そのままで」
 そう言って守光がスカーフを取り上げる。薄い布をどう使うか、もちろん和彦は知っている。今の守光との関係では、もう必要としていない小道具であることも。
 今晩は、いつもと何かが違う――。
 本能的な怯えから、ざわりと肌が粟立った。頬にスカーフの滑らかな感触が触れ、和彦は顔を背けようとしたが、かまわず両目を覆われ、きつく後頭部で結ばれた。
「怯えなくても大丈夫だ。久しぶりにこうやって、あんたを嬲ってみたくなっただけだ……」
 本当にそうなのか、問いかけようとしたときには、肩を押されて布団の上に仰向けで倒れる。だからといって素直に身を任せられるはずもなく、体を強張らせる。
 和彦の緊張が見て取れたらしく、笑いを含んだ声で守光が言った。
「わしが怖いかね、先生」
 枕元で微かな物音がする。文箱を開けている音だと、これまでの経験でわかった和彦は、堪らず体を起こそうとする。すると片方の手首を掴まれた。強い力を込められたわけでないが、必要とあれば多少の痛みを与えるという意志のようなものを感じる。
「落ち着きなさい」
 短く諭され、動きを止める。結局和彦は、自分から布団の上に仰臥し、覆われた両目で天井を見上げた。
 和彦の体の強張りを解こうとしているのか、守光のひんやりとしたてのひらが肌に這わされる。肩や腕をさすられたかと思うと、膝から足の甲にかけて撫でられ、軽く片足を持ち上げられてから、今度はふくらはぎから腿へとてのひらが移動してくる。そして、腹部にてのひらが押し当てられた。
 何も見えない状況で黙々と行為は行われ、和彦はされるがままになりながら、少し速くなった自分の呼吸音を聞いていた。
 今晩に限っては、快感が訪れる予感すらなかった。このまま守光が興ざめして、自分を解放するのではないかと、ささやかな期待を抱いてしまう。
 守光を甘く見ているのではなく、そんな希望にすがりたくなるほど、不安に押し潰されそうだったのだ。
 和彦の体温を受けて、守光の手がほんのりと暖まってきた頃、両足を立てて大きく開かされる。
「はうっ……」
 いきなり欲望を掴まれて声を洩らす。緩く扱かれて無意識に腰が逃げそうになる。当然のことながら、和彦のものはまったく反応していなかった。守光がどんな顔をしているのか、目隠しを取って確認したい衝動に駆られたが、すぐに和彦はそれどころではなくなる。
 感じやすい先端を指の腹で擦られたあと、爪の先で弄られる。慌てて手を押しのけようとしたが、括れを指の輪で締め付けられて再び声を洩らした。
「――あんたの性質は把握したつもりだ。痛いのも、苦しいのも苦手だが、その実、肉の悦びを覚えている。本当は、ひどくされるのが好きなんだろう」
「そんなこと……」
「ただし、愛情を持って」
 賢吾によく似た太く艶のある声に囁かれ、和彦は返事ができなかった。それは、肯定したも同然だった。和彦自身に自覚はなかったが、そうなのかもしれないと、認めざるをえなかったのだ。
 守光が一度布団を離れる気配がする。すぐに戻ってきたのは何かを取ってきただけらしく、物音が続いたあと、再び和彦に触れてきた。
「あんたの〈ここ〉を苛めてみたくて、新しいおもちゃを前から準備しておいたんだ。なかなか使う機会がなかったが、ようやく――」
 そんな言葉のあと、掴まれた和彦の欲望にひんやりとした液体が垂らされる。滑る感触から潤滑剤だとわかった。
 先端をヌルヌルと撫でられ、異様な感覚にさすがに無反応ではいられない。和彦がわずかに腰を揺らしたとき、冷たい金属の感触が先端に触れた。
「ひっ」
 細く滑らかなものが、先端の小さな口を押し開くようにして、くっと押し込まれる。一気に腰が重くなったような感覚と鋭い痛みに襲われて、和彦は息を詰める。反射的に腰を動かしたくなったが、今の状況ではそれは危険だと理解できる程度には、まだ意識が保てていられた。
 一度は賢吾に開かれた場所だ。どういう痛みがあるかは知っている。それでも、やはりつらかった。
「うっ、うぅっ……」
 おそらく金属製の細長い棒なのだろう。それがゆっくりと慎重に、欲望の先端から押し込まれてくる。痛みに喉が引き攣り、体が小刻みに震えてくる。
「うあっ、あっ、い、や――」
 自分でも驚くほど弱々しい声が出ていた。それでも挿入は少しずつだが続き、両目を覆われて不安なせいもあって和彦は片手を下肢に向けて伸ばす。すかさず優しく握り締められた。そこでゾッとするようなことを言われた。
「思った通り、今のあんたの姿は大きな子供のようだ。とても嗜虐的なものを刺激される」
 挿入された金属の棒を蠢かされ、むず痒いような感覚が生まれる。それはすぐに痛みを上回り、仰け反った和彦は布団の端を掴んでいた。
 守光は時間をかけて、たった一度しか暴かれたことのない和彦の秘密の場所を犯していく。棒がどれほど深く挿入されたのか知る術はないが、強烈な感覚――快感にも似たものが腰から背筋へと何度も駆け抜け、和彦は箍が外れたように放埓に声を上げていた。
 鋭敏な神経を擦られ、捏ね回されているようだった。守光は、和彦がどこで感じているかわかっているらしく、執拗に残酷な刺激を与えてくる。気がつけば、棒の動きに合わせて、緩く腰を揺らしていた。
「呑み込みがいい……。この様子だと、すでにもう誰かに可愛がられた経験があるようだな」
 賢吾の名を出され、和彦は夢中で頷く。ふふっ、と守光が笑った。
「血の繋がりだな。あんたを相手に、考えることが父子で同じとは」
 ここでようやく棒がゆっくりと引き抜かれ、このとき生まれた痺れるような法悦に和彦は腰をもじつかせ、息を喘がせる。
 守光の手が柔らかな膨らみにかかり、いつになく手荒く揉みしだかれたが、痛みもおそれもなく、ただ狂おしい肉の愉悦に喉を鳴らす。
 指先で巧みに弱みを弄られ、完全に下肢から力が抜けたところで、潤滑剤が流れ込んで潤った内奥の入り口をまさぐられ、二本の指をいきなり挿入された。
「あっ、あぁっ――。ふっ……、んっ、んくうっ」
「ここが寂しいだろうが、もう少しわしにつき合ってくれ、先生」
 あっさりと内奥から指が引き抜かれる。再び欲望を掴まれて、ああ、と和彦は吐息を洩らした。
 守光は、容赦なかった。賢吾に犯されたときよりもさらに深い場所まで金属の棒が挿入され、和彦は鳴かされる。抜いてほしいと哀願するが、和彦のそんな姿すら、守光は愉しんでいるようだった。
 化け狐の本性か――。
 頭の芯がドロドロに溶けそうになりながら、ぼんやりと和彦は考える。
 ここで、金属の棒が円を描くような動きをする。初めて味わう痛みに近い疼きに、体が生理現象を催していた。自分の身に何が起きようとしているか察した和彦は、悲鳴に近い声を上げる。
「お願、い、ですっ……。もう、やめて、くださいっ」
 ヌルッと金属の棒が引き抜かれていく。願いは聞き入れられたのだが、そうではないと、和彦は懸命に首を横に振る。自分でも、どうすることが正しいのかわからなくなっていた。
 ただ守光は、和彦の状態を正確に見抜いていた。
「――かまわないから、漏らしなさい」
 それは許しというより、命令だった。しかも、逆らえない。
 強烈な快感と羞恥が和彦の身を貫き、快美と表現できる瞬間を迎える。
 瞬く間に下腹部から腰にかけて濡らしながら、和彦はビクビクと体を戦慄かせる。
 まるで絶頂に達したあとのように、一気に脱力する。とてつもない痴態を晒したのだが、頭の中が真っ白となり何も考えられない。両目を覆ったスカーフに無意識に手をかけようとして、守光に穏やかな口調で窘められた。
「まだそのままで。……あんたは気にしなくていい。今から片付けをさせるから」
 えっ、と思ったときには、守光が誰かに呼びかけるように声を上げ、数拍の間を置いて襖が開き、人が部屋に入ってきた気配がした。抑え気味の足音ではあるが、一人ではない。
 あられもない自分の姿を見られると、半ば恐慌状態に陥りながら和彦は体を起こそうとして、肩に大きな手がかかる。
「落ち着きなさい。あんたの体をきれいにして、布団を入れ替えるだけだ」
 守光にそう声をかけられはしたものの、だからといってすぐに身構えを解けるはずもない。和彦は居たたまれなさに泣き出しそうになる。
 濡れたタオルを腰に当てられ、体を捻って逃げようとしたが、抵抗はあっさり封じられる。
「あの……、自分でやり、ます……」
 震えを帯びた和彦の言葉に応じる声はない。
 一体何人が部屋に入ってきたのか懸命に気配を探ろうとするが、下肢の汚れを他人に後始末してもらうという状況に意識はすぐに散漫となる。
 そもそも、一階に人の気配はなかったはずなのに、いつの間にか部屋の外に待機されていたのだ。自分が鈍いのか、もしくは、息を潜めて身を隠していた男たちが手練れなのか。いまさらながら、守光の手回しのよさが和彦には不気味だ。
 あらかた下肢を拭われると、前触れもなく背と両膝の裏に腕が回される。何事かと思ったときには、強い力で抱え上げられていた。
 咄嗟にしがみついて感じたのは、相手の分厚く逞しい胸板の感触だ。その瞬間、強烈な雄の匂いを嗅ぎ取った。
 ハッとして相手を見上げる。もちろん、両目は覆われたままなので顔を見ることはできない。それでも感じるものがあった。
 抱え上げられていた時間はわずかで、すぐに和彦は布団の上に下ろされる。新しいシーツの感触を指先で確かめていると、入ってきたとき同様、抑え気味の足音が部屋を出て行く気配がした。そして、襖が閉まる音が。
 次の瞬間、和彦の体はうつ伏せに転がされ、やや乱暴に腰を抱え上げられた。
「さあ、続きを始めようか、先生」
 潤滑剤が残る内奥の入り口に、硬く滑らかな感触が押し当てられた。見なくとも和彦は、それがなんであるか知っている。
 男の性器を模した卑猥な道具の形を思い出し、全身から汗が噴き出してくる。守光が和彦のために作らせたという道具の形は特におぞましく、だからこそ、確実に官能を引きずり出すのだ。
 じっくりと肉を押し広げられ、その逞しい感触に呻き声が洩れる。さきほど指で簡単に開かれた内奥へと、道具は躊躇なく突き進んでくる。
 敏感な襞と粘膜を擦り上げられながら、下腹部に広がる重苦しい感覚を味わう。
 一度道具が引き抜かれたあと、再び押し込まれるが、たっぷりの潤滑剤を施したのか、淫靡な濡れた音が下肢から洩れ聞こえてくる。静かな室内では、その音は異様に大きく響き、和彦の羞恥心は激しく揺さぶられる。
「ううっ、うっ、うっ……、んうっ――」
 緩やかに道具が内奥から出し入れされ、きれいに拭われたばかりの内腿を、溢れ出た潤滑剤が濡らしていく。
 内奥をわずかに角度をつけて道具で突き上げられる。その瞬間、小さな瘤のような突起物の存在も思い知らされ、ゾクリとするような肉の愉悦が体の奥でうねる。意識しないまま内奥をきつく収縮させていた。
「……美味そうに咥え込んで、よく蠢いているようだな、あんたの中が。見えなくても、手に取るようにわかる。――嫌ではなかったんだろう。苛められて、漏らしたのが。それがあんたの性質だ」
 ぐうっと奥深くまで道具が押し込まれ、堪らず和彦は甲高い声を上げる。そのうえ、さらに和彦を追い詰めるように、守光の片手が開いた足の間に差し込まれ、欲望を掴まれた。
「ひぁっ……」
「ふふ、思った通りだ。あんたは、素直で可愛いな」
 すでに和彦の欲望は勃ち上がり、熱くなり始めている。苛められて嫌ではなかったどころではなく、感じてしまったのだ。
「あっ、あっ」
 慣れた手つきで欲望をてのひらで擦り上げられ、内奥で道具を蠢かされる。和彦は背をしならせ、はしたなく腰を前後に揺らしていた。
「やはりまだ、このおもちゃのほうがお気に入りかね?」
 揶揄するように問われたが、もちろん答えられるはずもない。和彦は喉を鳴らし、頬をシーツに擦りつける。このまま目隠しがズレそうだと思ったが、すぐにそれどころではなくなる。
 わずかに疼痛が残る欲望の先端を、爪の先で弄られる。そこは、潤滑剤ではないもので濡れていた。
 内奥から道具が引き抜かれ、代わって指が挿入される。解れ具合を確かめるように、すっかり発情した襞と粘膜を撫で回されたあと、守光が小声で何事か呟く。和彦に話しかけたようでもあり、独り言のようでもあったが、ふと感じた違和感は、砂糖菓子のように淡く溶けていた。
 言われるまま和彦は仰向けとなり、両足を自ら広げて守光を迎え入れる。
 内奥に押し入ってくる熱や、全身で感じる重みに、ようやく肉で繋がっているのだと実感する。明け透けではあるが、そうとしか表現できなかった。
 一息に内奥深くまで刺し貫かれて、一度、二度と突き上げられる。和彦は体をくねらせながら、抱えられた両足を揺らす。反り返った欲望をてのひらに包み込まれ、穏やかな律動に合わせて扱かれると、悦びの声が溢れ出すのはあっという間だった。
「気持ちいいかね、先生?」
 耳元で守光に囁かれ、こくりと頷く。そのまま耳朶に唇が這わされ、舌で舐られたあと、じわりと歯が立てられる。甘い痛みに無反応ではいられず、道具によって広げられた内奥が淫らな蠕動を始めていた。
 乱れる一方の和彦とは対照的に、守光はいつものように浴衣を脱いではいなかった。見なくとも、端然とした佇まいが容易に瞼の裏に浮かぶ。前を寛げただけの格好で思う様、和彦を犯しているのだ。
「あんたは本当にいやらしい」
 笑いを含んだ言葉に対して感じたのは羞恥ではなく、疼きだった。守光の欲望をきつく締め付けると、乱暴に内奥を突き上げられる。
 守光が上体を起こし、片手が胸元に這わされる。今日に限って意図したように触れられなかった突起を、不意打ちのように抓り上げられた。一瞬走った痛みは、やはり甘さを伴っており、快感との区別がつかなくなる。
 まるで何かを確認するように、守光の手が体中に這わされる。その最中、和彦はこの日初めて精を放ち、自らの下腹部を濡らしていた。
「また漏らしたかね」
 息を喘がせる和彦にそう声をかけた守光は、下腹部に触れたあと、和彦の唇に指先を這わせてくる。口腔に指が押し込まれて、独特の味と風味を舌の上に感じる。それが自分の精だとわかったとき、また体が反応していた。
「……思った通りだ。よく締まっている」
 両足を抱え直されて、打って変わって単調な律動で攻められるが、絶頂を迎えたばかりの和彦は簡単に快感に翻弄される。守光の浴衣の袖を握り締め、声を上げながら首を左右に振っていた。
「あっ、あうっ、あっ……」
 守光が強く腰を突き上げ、動きを止める。この瞬間、何が起こるか予期した和彦は息を詰めた。
 守光が達し、内奥に精を注ぎ込まれた。深く息を吐き出したのは守光で、和彦は少し遅れて思い切り息を吸い込む。下肢に力が入らなかった。守光がゆっくりと繋がりを解いても、両足を閉じることもできない。
 体が溶けてしまいそうだ、と心の中で呟いた和彦は激しくうろたえる。妖しくひくつく肉の洞から、注ぎ込まれたばかりの精がドロッと溢れ出してきたのだ。
「まだ、そのままで」
 慌てて体を起こそうとした和彦に対して、いつになく厳しい口調で守光が言い、体を強張らせる。
 守光が布団から離れる気配がしたあと、重々しく〈何か〉が動いたのか、空気の揺れを感じた。さらに衣擦れの音が続いてから、突然、和彦の両足の間に、誰かが腰を割り込ませてきた。









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