と束縛と


- 第43話(3) -


 いくら両目を覆われているとはいえ、守光でないことはすぐにわかった。
 のしかかってくる重みや、がっしりとした腰つき。それに、燃えそうに熱い肌。何もかもが寸前まで繋がっていた守光とは違うのだ。
 膝を掴まれ、ごつごつとしたてのひらや、強い指の感触を意識した瞬間、和彦は相手の腕を押し退けようとする。だが無情にも、その手はあっさりと押さえつけられた。
「――あんたはただ、身を任せていればいい。ひどい目には遭わせない」
 傍らからそう声をかけてきたのは守光だった。
 自分の身に何が起きようとしているのか、動揺を上回る恐怖のため、和彦は問い返すこともできなかった。その間にも、のしかかってきた相手の腰が密着してくる。
「ううっ」
 蕩けたままひくつく内奥の入り口に、熱の塊が擦りつけられた。ぐちゅりと濡れた音を立てて押し広げられ、和彦がまず感じたのは圧迫感だった。そして鈍痛が。
 露骨な感想だが、やはり守光とは違うと、繋がりつつある部分で知る。
 ようやく喉を突いて出たのは苦痛の声だった。和彦は、押さえつけられていない手を振り上げ、相手の肩を殴りつける。しかし、分厚く逞しい感触は、やすやすと和彦の拳を跳ね返した。それどころか、手首を掴まれた。
 ゆっくりと布団の上に押さえつけられ、覆い被さられる。見えない相手を見上げながら和彦は、食われる、と心の中で呟いた。
 さらに内奥をこじ開けられながら、この日初めて唇を塞がれる。唇の隙間から苦痛の声を洩らしていたが、かまわず舌先が押し込まれ、歯を食いしばる間もなく口腔に侵入された。
 太い舌が蠢きながら、口腔の粘膜を舐め回してくる。唾液を流し込まれた和彦は、苦しさに耐えられず喉を鳴らして受け入れていた。舌を搦め捕られ、引き出されて、きつく吸われる。軽く歯を立てられたときは、このまま噛み千切られるのではないかと、和彦は本気で恐れていた。
 一方的に唇と舌を貪られながら、緩慢に腰を揺すられ、長大な欲望を内奥に埋め込まれていく。守光を受け入れ、蕩けるほど犯されたばかりだというのに、それでも痛みが押し寄せてくる。自分の体の中を、肉で埋め尽くされていく苦しさもあった。
「何も考えず、力を抜いて受け入れればいい。あんたの体は、もう慣れてるはずだ。この男の肉の形に――」
 また、守光から声がかけられる。どういう意味かと問いたかったが、口腔は男の舌でいっぱいだ。
「んっ、んんっ……」
 乱暴に一度だけ内奥を突き上げられ、男の欲望の逞しい部分を呑み込まされる。襞と粘膜を強く擦り上げられて、怯え続けていた和彦の体の中に、妖しい衝動が駆け抜けた。意識しないまま、きつく締め付けると、男の息遣いがわずかに変わった。
 上あごの裏を舌先でまさぐられ、ゾクゾクするような感覚に小さく身震いした和彦は、鼻にかかった声を洩らしていた。そんな自分の姿に気づき、戦く。この異常な状況に、急速に馴染んでいると思ったのだ。
 その間も、男は貪欲に和彦の反応を求めてくる。
 いつの間にか両手は解放されていた。もう和彦は逃れることができないと〈二人とも〉確信を得たのだろう。実際、その通りだ。
 ようやく唇が離れ、男が上体を起こす。今度はしっかりと両足を抱え上げられ、腰を突き上げられた。
「あうっ」
 自分の中に押し入ってくる圧倒的な存在に、和彦は浅い呼吸を繰り返す。下腹部を支配しつつある重苦しさに、弱音を吐きそうになり、寸前のところで堪える。もっともいくら弱音を吐き、嘆いたところで、解放はされないだろうが。
 知らず知らずのうちに目に涙が滲むが、すぐにスカーフに吸い取られてしまう。ただ、相手は察するものがあったのか、いきなり前髪を掻き上げられてから、頬を撫でられる。大きなてのひらが移動し、苦しさに震える喉元にかかったとき、縊り殺されるのではないかと和彦は息を詰めた。
 てのひらが胸元へと下りたかと思うと、いきなり荒々しく撫で回される。性急に反応することを求められて、二つの突起が硬く凝っていくのが自分でもわかった。
「んっ」
 突起を抓るように弄られる。痛みはあったが、それはすぐに疼きに変わる。口づけだけではなく、こうやって愛撫されるのも、今晩は初めてだった。和彦は漠然とながら、守光の考えが読めてくる。
 守光は、分け前を残しておいたのだ。もちろん、今まさに和彦と繋がりつつある男のために。
 そして男は意図を汲み取り、まさに今、自分の分け前を味わおうとしている。
 胸元に息遣いを感じ、ザワッと肌が粟立つ。濡れた感触が執拗に胸の突起をまさぐり、転がすように刺激してくる。次の瞬間には硬いものが触れた。見えなくても、歯を立てられたのだとわかった。和彦が息を詰めると、反応をおもしろがるように、舌先でくすぐられ、きつく吸われる。そしてまた、歯を立てられる。
 和彦が短くくぐもった声を上げると、思い出したように内奥を突かれ、熱い塊がぐうっと押し入ってきた。狭い場所を容赦なく押し広げられ、本来であれば激痛に悲鳴を上げても不思議ではないが、体は意外な順応性を見せる。守光との行為のあとだからだろうかと、ふと頭の片隅で考えた和彦だが、すぐにゾッとする感覚を味わう。
 今晩、和彦の体を最初に開いたのは、わざわざ守光がこしらえ直させたという、特別な〈おもちゃ〉だ。その形に、和彦の体は慣らされている。
 知らないはずなのに、知っている形。受け入れつつある男の欲望を、そう表現せざるを得なかった。
「うあっ」
 和彦の反応が鈍くなったと感じたのか、腰を揺すられ攻められる。すぐに嗚咽をこぼして、相手の肩を押し退けようとしていた。だが、忌々しいほど大きく頑丈な体は、びくともしない。
「嫌、だ……。もう、やめ――……」
 咄嗟に洩れた哀願が、相手を刺激したようだった。下肢に手が這わされ、力をなくしている欲望を掴まれる。大きくて硬い手の感触に、和彦は心の底から震え上がる。このまま握り潰されそうな無慈悲さを感じたからだ。見えないからこそ、恐怖は倍増する。
 息を詰まらせて体を捩ろうとするが、すでに体の中には太い肉の杭を打ち込まれている。傍らには守光がいる。和彦に逃げ場などないのだが、それでもじっとはしていられない。
「――なかなか往生際が悪い」
 わずかな苦さを含んだ声で言ったのは守光だった。この瞬間、和彦の中で首をもたげたのは、猛烈な怒りだった。それが伝わったのか、欲望を掴む指にわずかに力が込められる。爪の先で先端を弄られて、弱々しい声が洩れていた。
「あんたは受け入れるしかない。この男――南郷を」
 はっきりと名を出されても、当然驚きはなかった。ただ、今自分にのしかかっている重みが一気に現実味を帯び、瞼の裏で、南郷という男の姿が浮かび上がる。
 その南郷の脇腹を這う、おぞましい生き物の刺青も。
 身じろぐ和彦を追い詰めるように、〈南郷〉は腰を突き上げてくる。動きに合わせて、掴まれた欲望も扱かれていた。和彦は間欠的に声を上げ、下肢から押し寄せてくる重苦しい感覚を耐える。
「これは、わしのオンナである、あんたが背負った責務だ。あんたには、総和会の中での長嶺の血を守ってもらわねばならん。そのために、この状況がある」
 意味がわからないと、和彦は弱々しく首を横に振る。ふふっ、と守光は短く笑った。
「今はただ、南郷の肉を味わうといい。これは儀式だ。南郷が、あんたの特別な男の一人になるための」
 内奥深くを抉るように突かれ、全身を戦慄かせる。鈍痛も確かにあったが、それだけではない感覚が和彦の中を駆け抜けていた。欲望を扱く南郷の手の動きが速くなり、無反応ではいられなかった。和彦は懸命に手を押し退けようとして、反対に手首を掴まれる。
 引き寄せられた手が触れたのは、鎧のように硬い腹筋だった。てのひら全体で触れるように手を押し付けられ、わずかに右へとずらされる。南郷の行動の意味を、即座に和彦は理解した。
「うっ、あぁ……」
 南郷の〈そこ〉にあるものが、暗闇の中でおぞましく這い回っているようだった。それほど鮮明に、和彦の記憶に刻み付けられている。艶々とした黒い体と、毒々しい赤色の頭と無数の足を持つ巨大な百足の姿は、どう追い払おうとしても消えてはくれなかったのだ。
 和彦は嫌がるが、撫でることを強要される。
 刺青を撫でる行為は、和彦にとっては特別なものだ。惜しみない情を注いでくれる男たちに対して、自らの狂おしい情を知らしめる行為で、それは求め合ったうえで行われる。だが今は――。
 和彦の気持ちを踏みにじるように、内奥を深々と貫いている欲望が力強く脈打ち始める。間違いなく、南郷は猛っていた。
「……俺はもう知ってる。あんたは、刺青に触れることで高ぶる性質だってな。見なくとも、そこにあると思っただけで、興奮する」
 ようやく発せられた声が南郷のものだと認識できるまで、和彦には数秒の間が必要だった。いつになく南郷の声は掠れていた。
「違っ……」
「違わない。現に、もう感じ始めてるだろ。――先生」
 思わせぶりな手つきで、掴まれた欲望の先端を撫でられる。内奥で南郷のものが動かされ、ぐちゅりと卑猥な音を立てた。
「もう、やめて、くださいっ」
「あんたの体はそう言ってない。さっきから締まりっぱなしで、俺のをしっかり咥え込んでいる。俺としても、ようやくあんたと結ばれたんだ。しっかりあんたの肉を味わっておかないとな」
 下卑た台詞にカッとした和彦は、硬い脇腹に爪を立てる。殴られることを覚悟しての暴挙だが、南郷は声を荒らげることすらせず、内奥深くに欲望を突き込んできた。
 両足を抱え直されて大きく左右に開かれる。羞恥に満ちた姿勢を取らされたうえで単調な律動を繰り返されると、和彦はもうまともに言葉を発することができなかった。押し寄せてくる衝撃にひたすら蹂躙される。
 室内に、卑猥な湿った音と、乱れた息遣いが響く。南郷に唇と舌を貪られ、口腔に唾液が流し込まれる。密着した肌は流れ落ちる汗で濡れていく。
 南郷に侵食されているのだと、いやが上にも実感する。
 その合間に、もう必要のなくなった目隠しを取られた。間近から顔を覗き込まれ、和彦は息を詰める。瞬きもせず見つめ返していると、南郷は真剣な表情のまま、目元に唇を押し当ててきた。ちろりと舌先を這わされてゾクリとする。滲んだ涙を舐め取られていた。
「……これが、〈俺〉のオンナの感触と味、か」
 そう言って南郷が唇を歪めるだけの笑みを浮かべる。違う、と和彦は否定したが、声にはならなかった。それでも、南郷は唇の動きで読み取り、首を横に振る。
 このとき、いつの間にか守光がいなくなっていることに気づいた。
「違わない。あんたは、俺のオンナになる――いや、なったんだ」
 上体を起こした南郷に乱暴に腰を突き上げられる。悲鳴を上げた和彦は仰け反り、太い腕に爪を立てるが、荒々しい動きが止まることはない。
 内奥から逞しいものが出し入れされ、襞と粘膜を強く擦り上げられる。狙い澄ましたようにひたすら奥深くを突かれ、掻き回されているうちに、体が慣れてきたのか痛みが薄れてくる。同時に、呼吸がいくぶん楽になってきた。
 南郷がじっと見下ろしてくる。暗い情念が潜む両目から視線を逸らした拍子に、南郷の脇腹に棲む百足が視界に飛び込んでくる。不気味さに怯みながらも和彦は、なぜか目が離せなかった。
 南郷が動くたびに、妖しく百足が蠢く。流れる汗を受けて生々しさが増し、まるで個体として生命を宿しているようだ。
 今にも南郷の肌から抜け出し、頑丈なあごで自分に噛みついてくるのではないか――。ふと、そんな想像が和彦の頭を駆け巡る。
「こいつが気になるか。先生」
 南郷が自らの脇腹に手を這わせて笑う。あさましい妄想を知られたような羞恥に、和彦は激しくうろたえていた。
「違いますっ……」
「隠さなくていい。俺とあんたは繋がっている最中だ。あんたが発情したことぐらい、わかる。ここが――」
 南郷の指先が、繋がっている部分に這わされる。限界まで押し広げられた和彦の内奥は、たったそれだけの刺激でヒクヒクと震えた。
「いやらしく痙攣した。奥を突かれるのが好きらしいな。それに、物騒な男の、物騒な刺青も」
 南郷の欲望がズルリと引き抜かれ、またすぐに根本まで挿入される。熱い感覚が体の奥深くから溢れ出していた。
 和彦が上擦った声を上げると、何かを確かめるように南郷が同じ行為を繰り返す。さらにもう一度。そこからはもう言葉はなかった。
 繋がりを解いた南郷にうつ伏せの姿勢を取らされ、背後から貫かれる。両足の間に無遠慮に差し込まれた手に、乱暴に柔らかな膨らみを揉みしだかれて、和彦は嗚咽を洩らす。まるで獣のように貪られ、犯されていた。
 南郷は、従順さを求めているのだと悟った。頭ではいくら拒否しようが、これまでの接触で和彦の扱いに慣れた男は、強い快感によって支配してくる。強引な攻めに、疲労感もあって抗うことはできなかった。
 尻の肉を割り開かれ、繋がっている部分をじっくりと観察されていると感じ、和彦は全身を震わせる。加虐性を持つ南郷を煽ると知りながら、それでも前に逃れようとして、容赦なく背後から突き上げられた。
 さんざん柔らかな膨らみを弄んだ大きな手に、今度は欲望を握り締められる。和彦のそれはすっかり反り返り、先端から透明なしずくをはしたないほど垂らしていた。
「気持ちいいだろ。俺とのセックスは」
 耳元に唇が寄せられ、低い声で囁かれる。和彦は布団に顔を伏せようとしたが、次の瞬間、再び繋がりが解かれて仰向けにされる。南郷が、脇腹を擦りつけるようにして覆い被さってくる。錯覚だと知りながら、百足の蠢きを感じた気がして、和彦は声を洩らす。
 そしてまた南郷が中に押し入ってくる。突かれた場所から痺れるような法悦が生まれたことを、和彦は認めざるをえなかった。
 自分の体はこんなにも見境なく多淫なのかと、また目に涙が滲む。しかし体は、快感を貪り始める。
「あぁっ、はぅっ、うっ……、んうっ」
「その調子だ、先生。――もうすぐだ」
 反り返って揺れる欲望を扱かれて、性急に追い上げられる。南郷にも余裕がないのだと、息遣いから感じ取る。うかがうように見上げた先で、南郷はうっすらと笑みを浮かべていた。それは、達成感とも満足感とも言える、南郷が初めて見せた表情だった。
 堪える術もなく、和彦は南郷の手に促されるまま絶頂に達する。自らの精で下腹部を濡らし、内奥を激しく収縮させる。すると南郷が唸り声を洩らし、和彦の中に精を放った。
 内奥で、南郷の欲望がドクドクと脈打っている。和彦は激しい虚脱感に襲われ、両腕を投げ出したまま動けなかった。頭の中は真っ白で、何も考えることができない。いっそのことこのまま気を失ってしまえば、目を覚ましたとき、すべてなかったことになっているのではないかと、現実逃避をしかけていた。
 だがまだ、これで終わりではなかった。
 大きく息を吐き出した南郷が、和彦の下腹部に散った精を指で掬い取る。
「――俺はオヤジさんと、ずいぶん昔に親子盃を交わした。ドラマや映画で見たことがないか? 盃に酒を注いでもらって、飲み干すんだ。ただ、正式な世話人や立会人を立ててのものじゃない。俺は表向きは、オヤジさんとはなんの縁も持たない人間だ。長嶺組の人間じゃないし、長嶺組と結縁(けちえん)のある組織にいたわけでもないからな」
 俺は拾われただけの野良犬だと、傲然とすらした口調で南郷は言い放つ。
「今からあんたと、特別な盃を交わす」
 内奥から、まだ興奮の形を保ったままの欲望を引き抜いた南郷は、今度は和彦の精を掬った指を挿入してきた。意識しないまま内奥が蠢き、太い指を柔らかく締め付ける。
「今この瞬間、あんたの中で、オヤジさんと俺と、あんたの精が交じり合った」
「……何を、言って……」
「あんたは一度、経験があるはずだ。三世代の長嶺の男たちと、こうやって――」
 あっ、と和彦は小さく声を洩らす。確かに経験はあった。今年の夏、宿泊先で、長嶺の男三人の精を受け止めた和彦に、同じように和彦自身の精を内奥に塗り込めながら、守光が言ったのだ。裏切ることを許さない、血の契約だ、と。
 だがそれ以前に、南郷自身が同じような行為に及んできたことがある。賢吾の精が残る内奥に、南郷自身と和彦の精を塗り込んできた。
 あのときから南郷は、今のような状況になることが、わかっていたのかもしれない。そう思った途端、和彦はゾッとした。
 南郷はこれまで、主の許可が下りるのを待ちながら、ひたすら非力な獲物を嬲っていたのだ。いや、南郷だけではない。主である守光もまた、何かを目論見、ずっと準備をしていた。
「これから俺は、あんたによく尽くし、よく支え、よく愛す。これは、それを誓うための盃だ。そしてあんたは、俺の特別なオンナとなる」
 情愛の感じられない、ギラギラとした欲望だけを湛えた表情で、しかし厳かな声音で南郷が言う。和彦は迫力に圧されながら、それでも拒絶する。
「無理、です……。嫌だ……」
 あなたは嫌いだと絞り出すように告げたが、南郷は端から和彦の意見など求めていなかった。
「あんたがどう思おうが関係ないんだ。――長嶺守光の隠し子なんて噂される俺だが、当然、そんな大層なもんじゃない。悲しいが、俺には長嶺の血は一滴も流れてない。それが、抗いようのない事実だ。だが、長嶺の男たちに愛されているオンナを介して、繋がることはできる」
「どうして、そこまで……」
「長嶺の男たちは、俺のすべてだ。何もない俺に、生きる意味をくれた。まあ、ちょっと青臭い表現だが、ガキだった俺には、それほど強烈だったんだ。オヤジさんも、その息子である長嶺賢吾という男も。恵まれた家で生まれ育ったあんたにはわからないだろうが、俺にとってはたった一つの出会いが、地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸になった。その糸にすがりついて這い上がった結果、今の俺がいる」
 ようやく体を離した南郷は手早く浴衣を羽織ると、ティッシュペーパーを数枚手に取り、いきなり和彦の片足を抱え上げた。反射的に起き上がろうとした和彦だが、足を掴む指に力が込められ、動けなくなる。
「じっとしてろ、先生。もう何もしない。――今夜は、な」
 自分を〈汚した〉当人によって後始末をされるのは、屈辱以外の何ものでもなかった。しかし、疲れ果てた和彦には、抵抗する気力も体力も残っていない。南郷自身も、これ以上和彦の神経を逆撫でる気はないのか、淡々と手を動かしている。優しさは微塵も感じないが、少なくとも丁寧ではあった。
 さきほど口にした、『尽くす』という言葉を実行しているかのように。
 ふっと、疑問が口を突いて出ていた。
「……あなたは、賢吾さんに成り代わりたいと思っているんですか?」
 視線を伏せたまま南郷は笑った。
「先生はどう思う?」
「ぼくは……、権力争いや内部抗争とか、よくわかりません。ただ、長嶺組は、長嶺の血を引く男だけが跡を継げるんですよね」
「毒されてるな、あんたも。さっきも言ったが、俺には長嶺の血は一滴も流れてない。俺ごときが、長嶺組をどうこうしたいとも思っていないしな。心配しなくていい。それについては」
「心配なんて……」
「総和会の中にいて、くだらん噂を耳にしたんだろう。例えば――第一の御堂あたりか」
 和彦はムキになって否定したが、聞いているのかいないのか、南郷はいきなり内奥に指を挿入し、掻き出すような動きをする。ますます屈辱に身を強張らせ、和彦はきつく唇を噛んだ。
「あの男は、見た目はほっそりとした優男で、いかにも荒事に向かない姿をしてるが、代わりに、毒を使う。流言飛語に真実を混ぜて、他人を翻弄する。そうやってどこかの組織を瓦解させた。と、俺は聞いたことがある。あまり御堂を信用するな、先生。あんたもうっかり利用されて、どう身を滅ぼされるか、わかったもんじゃないぞ」
「……今、あなたがそれを言うんですか」
 違いない、と至極まじめな顔で南郷は頷く。
 下肢の汚れを簡単に始末されたところで、ようやく和彦は解放された。起き上がった途端に頭がふらつき、額に手を当てる。すると、肩から新しい浴衣をかけられた。
「このまま浴場に行くといい。自分で体を洗いたいだろ。――別に、俺が手伝ってもいいが」
 和彦が頷くはずがないとわかっていながらの、南郷の提案だった。萎えかけた気力を振り絞って浴衣に袖を通し、雑に帯を締める。
 半ば逃げるように部屋を出た和彦は、次の瞬間ぎょっとする。廊下に吾川が立っており、和彦の姿を見ても表情一つ変えることなく、軽く頭を下げた。
「浴場に向かわれるのでしたら、あとでバスタオルなどをお持ちします」
 そんな言葉に送られて、和彦は浴場に向かう。
 守光との行為のあと、部屋に入ってきて片付けを行ったのは、南郷と吾川だったはずだ。あの場で、目隠しをして横たわっていた和彦が、さらに南郷を受け入れることになると知っていたのだろう。もしかすると、守光と一緒に立ち会っていた可能性すらある。
 そう考えた途端、和彦は惨めさから涙が出そうだった。壁にもたれかかりたくなったが、背に吾川の視線を感じ、意地でもそれはできなかった。


 長い一日だった――。
 ソファに沈み込むように腰掛けた和彦は、今日という日を振り返りながら、苦々しさを噛み締める。疲労が蓄積された体は鉛のように重く、正直座っているだけでもつらい。それに、下肢にはしっかりと違和感と鈍痛が残っている。
 部屋のベッドで休むべきなのだろうが、今の和彦は、閉ざされた空間に一人でいることができなかった。いつ、荒々しい獣のような男が忍び込んでくるかと考えると、怖くて仕方なかったからだ。これまでも南郷はそうやって、休んでいる和彦を嬲ってきた。
 そんな和彦が避難場所に選んだのは、一階のリビングだった。広々とした空間は、寒々しくもあるのだが、少なくとも閉ざされた空間の息苦しさを味わわなくて済む。それに、何かあれば外に逃げ出すのもたやすい。
 実はソファの下に、片手で持てるサイズの置き物を隠してある。何かあったときは、武器として振り回すつもりだ。暴力は苦手だが、この建物にいる男たちに対してそんな配慮をする余裕は、すでに和彦にはなかった。
 今夜はここで休むと和彦が告げたとき、吾川は物言いたげな顔はしたものの制止はせず、それどころか毛布とクッションを用意してくれたうえに、ガスストーブに火を入れてくれた。
 オレンジ色の火を見つめていると、一年前のことを思い出す。夜、今のようにガスストーブの火を見つめていたが、そのとき和彦の隣には賢吾や千尋がいた。穏やかな気持ちで会話を交わしていた。
 胸が締め付けられて苦しくなり、きつく唇を噛む。もう、あんな時間は持てないかもしれないと、ふいに思ってしまったのだ。
 和彦は自分の淫奔ぶりをよく知っている。賢吾は、そんな和彦を認め、受け入れてくれており、それどころか複数の男と関係を持たせることで、裏の世界から逃げ出さないよう鎖としている。
 だが、今回は――。賢吾は、南郷を認めないだろうと、確信していた。
 二人が顔を合わせた場面に数度居合わせたことがあるが、賢吾は南郷に対しては横柄で、傲慢だった。まるで、互いの立場の違いを知らしめるように。
 大蛇が棲む肌の下に満ち満ちていたのは敵意だと、和彦は感じ取っていた。
 それは、根拠のない噂によるものかと、浅薄に判断していた自分がいまさらながら口惜しい。賢吾はずっと、南郷を危険な存在として警戒していたのだ。それは和彦も同じだったが、まったく足りなかった。
 もっとも、和彦のような存在がいくら警戒したところで、結果は見えていたが。
「――眠れんのかね」
 前触れもなく声をかけられ、危うく悲鳴を上げそうになる。振り返ると、丹前姿の守光が立っていた。口ごもる和彦にかまわず、守光がソファに歩み寄ってくる。仕方なく毛布を端によけた。
「何か酒でも準備させようか」
 隣に腰掛けた守光の言葉に、和彦は首を横に振る。
「けっこうです……」
「少しぐらい酔ったほうが、口も軽くなる。その勢いでわしを罵ってくれてもかまわんのだが」
 この瞬間、和彦はカッとした。
「あなたはそんなっ――」
 腰を浮かせかけたところで、さんざん押し広げられた部分がズキリと痛んだ。狼狽した和彦はすぐに勢いをなくし、ソファに座り直す。そんな和彦を、守光は静かな目で見つめていた。
「休む前に、鎮痛剤を持ってこさせよう。そうなると、酒はやめておいたほうがいいな」
 守光は話をしたがっているらしく、和彦がどれだけ黙り込んでも立ち上がろうとはしなかった。
 一方の和彦も、聞きたいことはいくらでもあるが、まだ頭は混乱しており、動揺もしている。しかし、今を逃せば、何も聞き出せない気がした。
 傷ついた〈オンナ〉に、守光が多少なりと憐憫の情を抱いているなら、利用しない手はない。そう打算的に考える自分に、自己嫌悪に陥りそうになりながら、ようやく和彦は口を開いた。
「……どうして、ぼくなんですか」
 吐息を洩らすようにして守光は笑った。
「夕方、あんたは、わかったような気がすると言っていたんじゃないかね」
「それは……、あなたが、ぼくに興味を持った理由です。でも南郷さんは……」
「同じだよ。賢吾が、あんたに興味を持ったから――というのは表現として軽いな。あんたに執着しているからだ」
 行為の最中、南郷は、長嶺の男たちは自分のすべてだと言った。守光の話は、それを裏付けているようだった。
「わしが初めて南郷に会ったとき、あれは何も持たない、痩せた粗野な子供だった。背ばかり高くて、視線が落ち着きなく動いていたな。自分を害しようとするものを見逃さない、と言わんばかりの余裕のなさは、生来のものなのか、育った環境ゆえなのか……。わしが声をかけたのは、ほんの気まぐれだ。だが、南郷にとっては大きな出来事だったんだろう。落ち着きのなかった目が一心に、わしを見つめてくるようになった」
 苛立ちが和彦の中で生まれる。もう南郷の生い立ちなど聞きたくなかった。自分には関係ないと吐き捨ててしまいたかった。
「――……何を言われようが、ぼくは、あの人と関わるつもりはありません。本当は、あなたとも」
「それは許さん」
 唐突に決然とした口調で守光が言い切る。数秒の間を置いて和彦は目を見開いた。
「ぼくはあんなっ……、あんな、騙し討ちみたいなことをされて、許すことはできませんっ」
 傷ついたのだと、震えを帯びた声で訴えるが、守光の気持ちを揺らすことはできなかった。何事もなかったようにまた続けたのだ。
「南郷を外の組に預けて、どう成長するか様子を見ていた。小さな組の中で潰れるなら、その程度の存在。わしに人を見る目がなかったというだけ。結果は、あのとおりだ。地頭のいい男だ。自分を引き上げていくために何が必要か考えて、足掻いていた。――わしはときどき、南郷に小遣いを与えたり、食事を共にしていた。そういった機会の中で、見かける機会があったそうだ」
「……賢吾さんを、ですか」
「若かった二人を直接引き合わせたことはない。ただ離れた場所から、南郷は賢吾を見ていたそうだ。あまりに何もかも違いすぎて、近寄りがたい存在だったと言っていた」
 和彦は漠然と、賢吾を離れた場所から見つめる南郷の姿を想像していた。百足というおぞましい生き物を肌に刻んでいる男に似つかわしいのは、暗く澱みながら、その奥にギラギラと強い感情を滾らせた目だ。
 絶望と嫉妬と卑屈さと。あとは――。
「わしに火をつけたのはあんたの父親だが、南郷に火をつけたのは、賢吾だ。賢吾の視界には、南郷なんぞ影すらも入っていなかっただろうがな。それも、過去の話だ。総和会と関わるようになり、賢吾は嫌でも、わしの側近である南郷を意識せざるをえなくなった。あんたが総和会と関わりを持ち始めてからは、さらに」
 ここでようやく和彦は、自分が守光に何を聞きたかったのか思い出す。
「ぼくに、長嶺の男たちの側にいてほしいと言いながら、どうして、南郷さんと……」
「あんたが、その長嶺の男たちにとって、大事で可愛いかけがえのないオンナだからだ」
 会話が堂々巡りに陥りそうになっているのを察し、和彦は強い苛立ちを表に出す。守光は肝心なことを誤魔化そうとしているのではないかとすら考え始めていた。
「――賢吾の大事なものが欲しかったそうだ」
 和彦は数秒息を詰めたあと、ゆっくりと目を見開く。ぽんっと投げて寄越された守光の言葉を、すぐには受け止めきれなかった。
「自分とは何もかもが違う特別な男と、同じものを手にしてみたいと……、そう、南郷は言っていた。わしが、何か欲しいものはないかと聞いたときに」
「それが、ぼくだと……?」
「ああ。あんたをわしのオンナにした時点で、南郷の希望を叶えることはできたが、それではあまりに情緒がない。だから少し無茶もしたが、あんたを南郷という男に慣らしていった。あんたの持つ性質なら、情を抱いて南郷を受け入れてくれるかもしれないと期待をしていたが、南郷のほうがよくわかっていたよ。あんたはそうはならないだろうと。ただ、だからこそ、互いに溺れることはないだろうと言われて、なるほどと納得した」
 穏やかな口調で、この人は一体何を言っているのだろうかと、和彦は瞬きも忘れて守光を凝視する。自覚はなかったが、足が小刻みに震えていた。もちろん、寒さからではない。
 自分の隣に座っているのは人の皮を被った怪物だと実感していた。
「できることならもっと時間をかけて様子を見たかったが、あんたが佐伯家に里帰りすることになって、予定が変わった。あんたには、何があっても年明けにはこちらに戻ってきてもらわねばならん」
 和彦は自分の膝をぐっと押さえつけてから、頭に浮かんだ疑問を口にした。
「あんなことをされて……、ぼくが戻ってくると考えているんですか?」
「仮にあんたが戻らないとして、どんな事態が起こり得るか、想像を働かせてみるといい。佐伯俊哉という男が、わざわざわしと連絡を取り合っていたのは、相応の理由がある。わし相手なら、穏当に取引ができると理解しているからだ。互いに、情に流されることのない生き物だと踏まえたうえでな」
 逃げることはできないと暗に仄めかされ、そこが和彦の気持ちの限界だった。すべてを知らなければならないという義務感すらも上回る、怪物に対する恐れから、反射的に立ち上がる。このとき、手元にあった毛布を掴んでいた。
「ここにはもう、居たくありませんっ……」
「では、どうするのかね」
 穏やかに問われ、和彦は言葉に詰まる。だが、行動には移した。毛布を小脇に抱えたまま足早に玄関に向かうと、たまたま置いてあったサンダルを履いて外に飛び出す。
 切りつけてくるような寒風に一瞬息が詰まった。スウェットの上下だけを着た体は無防備で、あっという間に手足の先まで凍りそうになる。和彦は歩きながら、抱えた毛布を体に巻き付ける。
 無謀なことをしているとわかってはいるが、あの場を逃げ出さずにはいられなかった。このままでは守光の野心に食らい尽くされてしまうと、本能的に悟ったからだ。
 せめて、抵抗の意思だけでも示さなければ――。
 そんな和彦の想いは、しかしすぐに揺らぐことになる。
 午前中、南郷の運転する車で通った道は、今は真っ暗だった。遠くにぽつんと街灯の明かりが見えるが、だからこそ別荘周囲の暗さが際立つ。足元さえよく見えないのだ。
 慎重に歩き出しはしたものの、まだ残っている雪に足を取られそうになる。こんな状態で人家がある場所まで行けるはずもないが、前に進むしか和彦にはなかった。
 サンダル履きで剥き出しとなっている爪先はすでに感覚がなくなっている。息をするたびに冷気が肺に突き刺さり、もうすでに息苦しい。ふらついた拍子に、道の脇に転がり落ちそうになり、咄嗟に木にすがりつく。地面に落ちた毛布を拾い上げる気力もなくなっていた。
 このままではすぐに凍死するのではないかと、ふとそんなことが脳裏を掠める。思考まで凍り付きそうになっており、それもいいではないかと和彦が投げ遣りになった瞬間、まるで戒めるように、賢吾の顔が思い浮かんだ。
 賢吾だけではない。自分に情を注いでくれた男たちの顔が次々と。
「ふっ……」
 嗚咽を一つこぼし、和彦はその場に立ち尽くす。もう、前にも進めなくなっていた。
 耳元で聞こえる風の音に交じって、背後から近づいてくる音があった。半ば確信して振り返ると、懐中電灯らしき明かりがちらちらと揺れながら、こちらに近づいていた。しかも複数。
 明かりに目を射抜かれて顔を背けていると、足音が側までやってくる。
「そんな格好でいると、風邪をひきますよ」
 声をかけてきたのは吾川だった。その後ろに二人の男たちがついているが、南郷はいない。
 男の一人からダウンジャケットを受け取った吾川が、和彦の肩にかけてくれる。
「さあ、別荘に戻りましょう。すぐに、温かい飲み物を準備しますね。落ち着いたら、部屋で休みましょう。やはりリビングだと、ストーブをつけていても寒いですから。ああ、飲み物と一緒に、鎮痛剤も出しておきますから、飲んでください」
 子供に対するような優しい声音で話しかけてきながら、吾川が肩を抱いてくる。促されるまま和彦は来た道を引き返していた。この状況で逃げ出すことは不可能で、気持ちも折れてしまった。
「……会長は、怒っていましたか……?」
 ゆっくりと歩きながら和彦が尋ねると、吾川は首を横に振る。
「まさか。あなたが怪我でもするのではないかと、心配されてました。だからわたしたちに、追いかけるよう言われたんです」
 その言葉はきっとウソではないだろう。和彦は、守光にとって必要な存在であり、目的のために失うわけにはいかないのだ。
「目的……」
 和彦は小さな声で呟くと、さきほどの守光との会話を頭の中で反芻する。
 もう一度、守光に話を聞かなくては――。
 そう思いはするのだが、足を引きずるようにして別荘まで戻ってきたときには、和彦の意識は朦朧としていた。
 男たちに抱えられてリビングを通ったとき、うっすらと開いた目で確認したが、そこにはすでに守光の姿はなかった、









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