寝起きの気分は最悪だった。
和彦は布団の中で、体の節々が痛んでいることを確かめると、慎重に体を起こす。部屋の暖房が効きすぎており、額や首筋がじっとりと汗ばんでいた。
頭はぼうっとしており、すぐには思考が働かない。そもそも昨夜、自分はどうやって部屋のベッドに入ったのかすら、記憶は曖昧だ。
和彦は、カーテンの隙間から差し込む弱々しい陽射しを漫然と眺める。そうしているうちにやっと、自分の身に起こった出来事が蘇ってきた。
慌ててベッドから出ると、はっきりと筋肉痛を自覚する。もちろん、それだけではなく――。
和彦は唇を噛むと、落ち着きなく室内を歩き回る。そうしているうちに、ようやく思考が正常さを取り戻す。大きく息を吐き出したあと、ひとまずカーテンを開けた。
厚い雲の合間から、陽が差している。どこか神秘的ですらある光の帯がうっすらと伸びていたが、雲が流れたことによってあっという間に消えてしまう。そこで和彦も我に返った。
時計を見れば、午前九時を少し過ぎている。いつもより遅めの起床となったが、あまり眠った気はしない。
また横になりたい誘惑に駆られた和彦だが、ゆっくりしている場合ではないとすぐに思い直す。とにかくここを出たかった。こんなところに閉じ込められたままでは何もできないことは、昨夜痛感した。
ため息をついて再び窓の外を見ようとしたとき、突然、ドアをノックされる。和彦はビクリと体を震わせ、声も出せずにその場に立ち尽くす。
再びのノックはなく、いきなりドアが開いた。
「――起きてたか、先生」
のっそりと部屋に入ってきた南郷が、和彦の姿を認めるなりニッと笑いかけてくる。その表情に馴れ馴れしさを感じたのは、ある種の被害妄想かもしれない。和彦は直視できず、反射的に顔を背ける。
「下りてきて、朝メシを食ってくれ」
昨夜のことなど一切匂わせない南郷の言葉に、一瞬激高しかける。しかし、怯えが上回ってしまう。
「食欲はないです……」
「まあそう言わず、一口、二口でいいから、口をつけてくれ」
「いりませんっ。放っておいてくださいっ――」
急に肩を掴まれて和彦はハッとする。思わず南郷を見上げていた。南郷はもう笑っておらず、無感情な目で見つめてくる。
「言い直したほうがいいか? メシを食え。あんたに弱られると困る」
返事もしないうちに南郷に腕を掴まれ、半ば引きずられるようにして部屋を連れ出される。腕に食い込む指の力の強さに、抵抗する気力も芽生えなかった。
一階に下りると、人の姿はなかった。早々に守光と顔を合わせても困るため、和彦は内心ほっとする。すると南郷が言った。
「オヤジさんなら、今朝早くにここを発った。……用はもう済んだからな」
どういう意味なのか、数秒の間を置いて理解する。次の瞬間、和彦は屈辱から、全身の血が沸騰しそうになった。
すぐにでも部屋に引き返したくなったが、南郷がそれを許すはずもなく、ひとまず顔を洗いたいと言って、なんとか一人で洗面所に駆け込む。
わかってはいたが、鏡に映った和彦の顔はひどいものだった。血の気が失せているうえに、くっきりとした隈ができている。当然か、と呟いて、勢いよく顔を洗ってからダイニングに向かう。
テーブルには一人分の朝食だけが準備されていた。皿に盛られたサンドイッチをじっと見下ろしていた和彦は、ふと視線を感じて顔を上げる。キッチンから、南郷がこちらを見ていた。
仕方なくイスに腰掛けると、皿にかかったラップを外す。
「先生、コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
モソモソと食べ始めた和彦に、南郷が尋ねてくる。紅茶を、と答えると、南郷はカップにさっとティーバッグを放り込み、湯を注いだ。
予想はついていたが、食事はひどく味気なく、何より緊張した。もともと和彦は、南郷に対してずっと恐れを抱き、警戒もしていたが、昨夜の出来事は決定的だった。側にいられると、まるで首筋に刃を当てられているような危機感を覚える。結果、鼓動が不自然に早打ち、指先が痺れるほど冷たくなってくる。
ふいにカタッと物音がして、身を竦める。見ると、南郷がカウンターの上にグラスを置いたところだった。グラスに牛乳を注ごうとしていた南郷が視線を上げた。
「先生も飲むか?」
この男はなぜ、何もなかったような顔をして、平然と話してくるのだろうか。和彦の中でふっとそんな疑問が湧き起こる。
昨夜、あんなことをしておいて――。
ここで和彦は突然吐き気に襲われ、ダイニングを飛び出す。背後から南郷に声をかけられたが、答える余裕もなく、急いでトイレに駆け込んだ。
食べたばかりのものを吐き出し、逆流してきた胃液に刺激され、激しく咳き込む。
それでも、吐いてしまえば、驚くほど楽になった。体調が悪いというより、過度な緊張に胃が耐えられなかったのかもしれない。
和彦はトイレットペーパーで口元を拭って流したあと、ドアに目を向ける。気配を感じたわけではないが、この向こうに南郷がいると確信があった。このまま閉じこもっていると、こんなドアなど簡単に蹴破って押し入ってくるだろう。
おそるおそるドアを開けると、タオルを手にした南郷が立っていた。和彦は何も言わず洗面台で口をすすぐと、差し出されたタオルを受け取る。
「レトルトだが、お粥がある。温めようか?」
ダイニングに戻る途中で南郷から提案されたが、和彦は首を横に振る。
「サンドイッチ、もう少し食べます。……体調が悪いわけじゃないんで」
「まあ無理はしないでくれ」
改めてテーブルにつくと、南郷は紅茶を淹れ直し始める。
見た目からは想像もつかないような南郷の甲斐甲斐しさには、覚えがあった。隠れ家だというもとは保育所だった建物に連れて行かれたときのことだ。皮肉を言われながらも世話を焼かれたが、あのときも、そして今も、もちろん心は動かない。
ただ和彦がどう受け止めようが、南郷には関係ないだろう。重要なのは、〈佐伯和彦〉という存在に利用価値があるという一点のみのはずだ。
和彦は、苦い事実をサンドイッチと共にじっくりと噛み締める。自身の勝手な行動のせいで、総和会に付け込まれたのだ。
情けなくて泣きたくなったが、そんな権利すら今の自分にはないだろう。和彦はぐっと奥歯を噛み締めたあと、無理やりサンドイッチの残りを胃に収めた。
朝食のあと和彦は、部屋に戻る気にもなれず、別荘の敷地内を歩き回る。守光についている総和会の人間も大半が引き揚げたのか、離れの様子をうかがっても、人の気配は乏しい。当然、吾川の姿も見かけない。
一刻も早くここを出たい和彦としては、このまま軟禁状態が続くのではないかと、気が気でなかった。
庭に出て、南郷が設置したという電気柵の前でしばらく立ち尽くしていたが、ワイヤーに触れてみる勇気もなく、結局、ため息をついて引き返す。
すると、いつから見ていたのか、裏口の前に南郷が腕組みをして立っていた。ニヤニヤとした表情に対して、険を含んだ眼差しを向けた和彦は、距離を取りつつ南郷の前に立つ。
「そこ……、退いてください」
「ずいぶん退屈しているようだな、先生。朝メシを食ったあとから、ずっとうろうろと動き回ってる。こっちとしては、寝込まれたらどうしようかと思っていたが、そういやあんたは、タフな人間だった。どうしても見た目に騙される」
「……ぼくは、ひ弱に見られたことはありません」
「周囲をいかつい男たちに囲まれて、ちやほやされている自分の姿を想像してみたらいい。俺の言いたいこともわかるはずだ」
こういう言い方しかできない男だとわかっていても、神経を逆撫でされる。和彦は、露骨に南郷を避けて裏口を通ろうとしたが、腕を広げて阻まれた。
「あのっ――」
「散歩に行こうか、先生」
絶句する和彦に、歯を剥き出すようにして南郷が笑いかけてくる。
「ちょうど着込んでいるようだし、都合がいい。このまま表に回ってくれ」
二人きりでなんて冗談ではないと、和彦は懸命に拒否し、建物の中に逃げ込もうとしたが、南郷は頑として前に立ち塞がって動かない。
いくら抗議しようが南郷は動じず、それどころか芝居がかった恭しい動作で、まるでエスコートするかのように手を差し出してくる。和彦は、その手をじっと見つめたあと、建物に入ることを諦めた。
南郷と共に別荘の前の道に出ると、雪が解けてぬかるんだ地面に視線を落とす。まだ新しい轍(わだち)がいくつも残っていた。
和彦は、歩き出した南郷のあとを渋々ついて行く。筋肉痛と体に残る倦怠感のせいだけではなく、道の状態の悪さもあって、一歩一歩が重い。普段以上にゆっくりとした歩調となり、すぐに南郷との間に距離ができる。それに気づいた南郷が振り返り、一旦立ち止まる。
「……先に行ってもらってかまいませんよ」
追いついた和彦がぼそぼそと告げると、南郷は軽く鼻を鳴らした。
「いつかみたいに、転んだあんたに泥だらけになられると困る。遠慮せず、俺に掴まってくれ」
身を竦めるような寒さの中、和彦の肌に蘇ったのは、陽射しの強さと、伝う汗の感触。そして、体をまさぐってきた南郷の手の動きだった。
再び歩き出したとき、南郷はいくらか歩調を緩め、こちらのペースに合わせ始める。この男の見た目に似合わぬ気遣いがもともと苦手だったが、今はさらに拍車がかかっていた。和彦自身のことなどどうでもよく、守光と賢吾のために、〈オンナ〉を丁寧に扱ってやっていると、そんな南郷の心の声が聞こえてきそうなのだ。
自意識過剰だと、あるいは被害妄想だと嗤われるかもしれないが――。
ふと南郷が振り返り、何もかも見透かしたような一瞥を寄越してくる。和彦は身構えた。
「何か……?」
「いや……。あんたは、この先にある場所に行ったことがあるか?」
南郷が指さしたのは、車も通れないほどの細い道だった。一瞬、和彦が表情を緩めると、それで南郷は察した。
「あるようだな。この先は、いい散歩コースになってる。暖かい時期は釣りや水遊びが楽しめるんだが、さすがに今はな」
知っていると、心の中で頷く。和彦にとっては、微笑ましい思い出を作った場所でもあるのだ。千尋とは雪に塗れてはしゃいだし、三田村や中嶋とはのんびりと釣りを楽しんだ。
そんな場所に南郷と行きたくないなと思ったが、あまりに子供じみた感傷かと、表に出さないよう努める。
「――俺はもう、何者にもなれない男だ」
数歩先を歩く南郷が唐突に切り出す。それが自分にかけられた言葉だとわかり、和彦は軽く目を見開いた。
「えっ……?」
「薄汚い野良犬が、ここまで成り上がれたんだ。望外の出世というやつだ。それもこれも、オヤジさん……長嶺の男たちのおかげだ」
「ぼくは……、あなた個人に興味はありません」
「だが、俺が、長嶺の男たちに与える影響には、興味があるだろ?」
南郷は前を向いたままで、どんな表情で言ったのか知ることはできない。ただ、和彦を挑発するために言っているわけではないと、不思議な確信はあった。
「俺は、オヤジさんが築いてきたもの、築こうとしているものを守りたい。要はそれだけだ。結果としてそれが、あとに続く長嶺の男たちのためになる」
「……忠義に厚いんですね」
和彦は小声で皮肉を洩らしたが、しっかりと南郷の耳に届いていた。
「そう思うか、先生?」
「わかりません。でも、あなたがぼくにやってきたことは、賢吾さんを挑発している……と思います。でも会長は、それを許しているんですよね」
「長嶺組長が、一時の気まぐれであんたを囲っているのかどうか、判断したかった。他の奴の手垢がついたら、それでポイッと放り出すのかも知りたかったしな。それと、佐伯和彦自身に興味もあった。おもしろいと思ったよ。〈オンナ〉としてのあんたは。ふてぶてしくてしたたかで、そのくせ妙に繊細で。本人に自覚はないだろうが、力のある男たちから尽くされているという傲慢さが、俺の神経をチクチクと刺激してくるんだ」
「ぼくは別に、尽くされてなんて――」
「いまさら否定しなくていい。世の中には、そうされるべき人間ってのは確かに存在していて、あんたがそれだというだけだ。もちろん、長嶺の男たちも。それに、俺はもともと、そういう人間が持つ傲慢さを好ましいと感じる性質だ。むしろ、普通の人間なら美点と受け止めるだろう、あんたの持つ甘さと優しさのほうが、肌に合わない」
裏の世界に身を置く男たちは、どこかしら感覚がおかしいし、屈折している。すっかり麻痺していたが、南郷と話しているとそんな事実を突きつけられる。しかし和彦もまた、同類なのだろう。深く囚われる前に逃げ出す機会はいくらでもあったが、それでも留まり続けたのは、和彦自身だ。
賢吾が作った檻は、あまりに居心地がよかった。逃げ出したいという気力すら甘く溶かしてしまい、ついには、ここが自分の居場所だと願うほどに。
南郷や守光に、それは見透かされている。そのうえで、昨夜のあの出来事なのだ。
望まない行為に和彦がどこまで打ちひしがれるか、南郷は観察しているのかもしれない。だからこうして、自分の側に残ったのだとしたら――。
ぬかるんだ地面を踏みしめるように歩きながら和彦は、体の内側が冷えていくのを感じた。
湿った足音だけが少し続いたあと、南郷がぽつりと洩らした。
「――……率直に話しすぎたな」
笑いを含んだような声だが、もちろん表情はわからない。
「あんた相手には、どうしても雄弁になる。俺は本当は、無口な男なんだが」
「そのわりには……、自分のことを話すのが好きですね」
「俺に興味のないあんたに話すと、嫌がらせになる。嫌いな相手に関する知識が増えるのは、なかなかの気分だろ?」
南郷の屈折ぶりは筋金入りだと、内心苦々しく感じた和彦だが、これだけは認めなくてはならなかった。
粗野で暴力的な空気をまとっている南郷だが、ときには人を煙に巻くような、皮肉めいていたり、迂遠な物言いには知性が感じられるということを。
和彦がつい聞き入ってしまうのは、そのせいだ。〈言葉〉をよく知っている男なのだ。
南郷が読書家だというのは、世間話程度に賢吾から聞かされてはいるし、総和会の中でも口の端に上ることがあった。書厨(しょちゅう)と言われるような、ただ本を読むだけでなんの知識も得ない人間ではないのだと、南郷の話を聞いていれば察することができる。
いかにも筋者らしい見た目は他人を威圧する武器になるだろうが、南郷は身の内に、狂暴性とは別の、切れ味鋭い武器を持っているのかもしれない。
「……会長と、何を企んでいるんですか」
坂道の勾配は大したことはないが、水たまりを避け、泥に足を取られまいと踏ん張るうちに、息が上がる。それでも和彦は問いかけずにはいられなかった。
「ひどい言いようだ。この世界、何も企んでいない奴なんていないだろう。長嶺組長だって例外じゃない」
「答える気はないということですか……」
「まだ、な。別の質問なら、答えられるかもしれない」
ここでようやく道が開け、見覚えのある景色が目の前に広がる。千尋と訪れたとき同様、湖に氷が張っており、岸にはうっすらと雪が残っている。人が歩いた痕跡はなく、さすがにこの寒さでは、水辺で散歩をしようなどという酔狂な人間は、和彦たち以外にいなかったようだ。
湖を渡ってくる風は突き刺さるように冷たく、和彦は首を竦める。すると、肩に南郷の腕が回された。反射的に体を硬くし、睨みつける。
「触らないでください」
「誰も見てやしない。恥ずかしがらなくてもいいだろ、先生」
とぼける南郷は腕を離すどころか力を入れたため、やや強引に歩かされる。
突然のことに動揺していた和彦だが、寸前まで自分たちが何を話していたか思い出した。
「――……ぼくの役目は、なんですか」
「従順なオンナであること。俺たちの求めに逆らわず、協力してくれればいい」
「長嶺組長――賢吾さんへの嫌がらせのためですか?」
南郷は低く笑い声を洩らした。
「可愛らしい言い方だな、先生。『嫌がらせ』か……」
カッとした和彦は、南郷の腕をなんとか振り払い、数歩分距離を取る。その瞬間、ひときわ強い風が吹き、目も開けていられなかった。次に目を開けたとき、南郷が目の前に立ちはだかり、無感情な目で見下ろされていた。
無意識に後退ろうとして、腕を掴まれる。
「あんたは昨夜、俺のオンナになった」
「ぼくはっ……、そんなこと絶対に――」
「これからは、俺にも懐いてくれ」
嫌だと繰り返したところで、南郷は痛痒を感じないだろう。むしろ、ムキになる和彦の反応を楽しんでいるのだ。
和彦はギリッと奥歯を噛み締めたあと、ゆっくりと深呼吸をする。南郷に何か一撃を与えたいなどと、大それたことを考えたわけではない。ただ、わずかながらでも南郷に不愉快さを味わわせてやりたかった。
「――さっきからずっと、ぼくを口説いているつもりなんですか?」
さすがの南郷も虚をつかれたのか、驚いたように目を丸くしたあと、破顔した。
これは素の表情だなと、和彦は思った。
「あんたも大概、おもしろい人間だな。俺に対して怯えて、露骨に警戒して見せながら、そんなことを思ってたのか」
「ありえないからこそ……、聞いてみただけです。あなたが執着しているのは、賢吾さんですよね。だからぼくが気に食わない」
口にして、素手で百足に触れたようなおぞましさが全身を駆け巡る。次の瞬間には、肉食だという強靭なあごに噛まれる想像すらしていた。
和彦の肩に回していた腕を離し、南郷はマウンテンパーカーのポケットに両手を突っ込む。
「――……執着にもいろいろある。憎んでいるのか、妬んでいるのか、思慕しているのか。それとも、ただ相手に、自分の存在を認めてほしいだけなのか。先生、あんたの目からは、俺はどれに見える?」
湖を見つめる南郷の横顔は、静かな表情を湛えながらも、気圧されるほどの鋭さがあった。ここで和彦は直感する。
賢吾の存在は、南郷の精神の柔らかな部分に入り込んでいる。その柔らかな部分にあるのは、底なしの闇だ。触れてみろと示しながら、触れた途端に呑み込み、引きずり込んでくる。
南郷は今、和彦を試しているのだ。
「何も……。ぼくには、南郷さんのことは何もわかりません。知りたくも、ないですし」
「つれないな。俺のオンナになったというのに。――俺の機嫌を取っておいて損はない。総和会の中で、確かに長嶺組は発言力も存在感もあるが、個人では、長嶺組長より、俺のほうが上だ」
今のところは、と慎重に南郷は付け加える。
「……何が言いたいんですか?」
ようやくこちらを一瞥した南郷が、唇の端を動かす。
「そう怖い顔をするな、先生。きれいな顔立ちの人間がそういう表情をすると、なかなか凄みがある」
「もしかして賢吾さんを――」
「恩義ある〈親〉の一人息子を食らおうと思うほど、俺は外道じゃないし、思い上がってない。――この機会だ、あんたに提案がある」
南郷がいくぶん声を潜めたところで、再び強い風が吹き付けてくる。ふらりと和彦の体が揺れ、素早くポケットから手を出した南郷が支えてくる。間近で目が合うと、こう言われた。
「長嶺の本宅を出て、俺の家で暮らさないか、先生」
体を洗っていた手をふと止めていた。髪先から垂れた水滴が肩に落ち、その冷たさに和彦は我に返る。
さきほどの出来事にまだ動揺しているのだと、嫌でも認めざるをえなかった。
湖で、南郷から思いがけない提案をされたとき、まず頭に浮かんだのは、この男は何を企んでいるのだろうかということだった。ただ、意外すぎる提案だったことは確かで、慌てて南郷から離れようとした拍子に、和彦は凍った雪に足を取られ、その場で転んでしまった。
泥と雪に塗れ、すぐには動けなかったところを、南郷に腕を掴まれて引っ張り起こされたのだ。おかげで話を続けるどころではなくなり、足を引きずるようにして別荘に引き返し、風呂場に放り込まれたというわけだ。
なぜ南郷が、長嶺の本宅を出て、自分の家で暮らさないかと言い出したのか、和彦には目的が見当もつかなかった。甘い理由などではないことは、はっきりしている。そもそも、和彦が承諾するはずがないと、南郷自身よくわかっているはずだ。
和彦を動揺させるための冗談か、もしくは、和彦の口から賢吾に伝わることを前提にした、露骨な挑発か――。
和彦はブルッと身を震わせる。さっさと体を洗って出るつもりだったが、水辺での立ち話のせいもあって、すっかり冷え切っている。風邪を引いては堪らないと、手早く泡を洗い流してから湯舟に入る。
「疲れた……」
じんわりと体が温まってきたところでそう呟いた和彦は、頭の先まで湯に浸かる。再び湯から顔を出したとき、自分は別の場所にいないだろうかと、子供じみた妄想をする。もちろん、そんなことが起こるはずもなかった。
和彦は濡れた髪を掻き上げて、石造りの浴槽の縁に腕をかける。こうしていると、長嶺の男たち――賢吾と千尋とここで〈戯れた〉光景が蘇る。
楽しかった思い出にすがりつくのは、心細いからに他ならない。
早く帰りたいと、顔を伏せかけたそのとき、風呂場の戸が開く音がした。和彦は反射的に大きな水音を立てて立ち上がる。今、ここに入ってくる人物は、たった一人しか思い浮かばなかった。
案の定、全裸の南郷が悠然と浴場に入ってくる。
筋骨隆々とした浅黒い体を目の当りにするのは初めてではないが、それでも圧倒されるのは、迸らんばかりに漲る生気と凶暴性のせいだ。しかし、一糸まとわぬ姿で南郷が見せつけてくるのは、己の体というより、引き締まった右脇腹から下腹部にかけて影のよう張り付いている、生々しい百足だろう。
すぐには言葉が出てこず、立ち尽くしていた和彦だが、南郷が風呂桶を取り上げたところでハッとする。
「……どうして、入ってきたんですか」
呟くように洩らすと、南郷は大仰に眉を動かす。
「これだけ広い風呂だ。いくら俺がでかいとは言っても、二人で入れる余裕はある」
「そういうことじゃなくて――……」
「泥だらけになったあんたを引っ張って帰ってくるのに、俺も少々汚れたんだ。午後になったらこの別荘から引き揚げるから、身ぎれいにしておきたい」
話しながら屈んだ南郷が、勢いよく浴槽の湯を頭から被る。転んだ和彦とは違い、南郷はただ着替えればいいだけではないかと思ったが、指摘すべきはそんなことではない。
「引き揚げるって……、帰る、ということですよね」
濡れた顔で南郷がニヤリと笑いかけてくる。
「軟禁されるわけじゃないと知って、ほっとしたか、先生?」
和彦は少しずつ南郷から距離を取りつつ、浴槽から出るタイミングを計る。その間も南郷はかけ湯をしている。こちらを見てはいないが、和彦は努めて自然に振る舞おうとする。
しかし、浴槽内の階段に足をかけようとしたところで、絶妙のタイミングで南郷が切り出した。
「――あんたがひっくり返ったおかげで話すどころじゃなくなったが、さっき俺が言ったこと、真剣に考えてくれ」
なんのことかと問い返す度胸はなかった。和彦は眉をひそめて、吐き出すように告げる。
「あなたと暮らすなんて、ぼくが受け入れるはずがないでしょうっ……」
「総和会と長嶺組の融和のためだとしたら?」
「……そういう話は、ぼくじゃなく、長嶺組組長と総和会会長がするべきです」
突然、カランと音がして、和彦は身を竦める。屈んでいた南郷が風呂桶を放り投げ、ゆらりと立ち上がった。素早く動けば逃げられたかもしれないが、百足を見せつけるようにして浴槽に入ってくる南郷に対して、無防備な姿を晒したまま和彦は何もできなかった。
「言い方を変えよう。あんたと協力関係を結びたいんだ。俺は、総和会の中での長嶺組の立場を守りたい。あんたは、長嶺組長の立場を守りたい。結果としてそれが、総和会と長嶺組のためになる。そう思わないか? いがみ合ったところで益はない」
「だから、あなたのオンナになれと?」
「いいや。あんたは昨夜、俺のオンナになった。そう言っただろ」
和彦は急いで湯から出ようとしたが、派手な水音を立てながら南郷が歩み寄り、手首を掴まれた。顔を強張らせる和彦に、南郷は獰猛な笑みを向けてくる。
「まだ自覚がないようだな、先生。かつては長嶺組長も、あんたをオンナとして躾けてきたんだろ。だったら俺も、そうしないと」
協力関係を結びたいと言いながら、南郷は平然と恫喝じみたことを口にする。
和彦は手を振り払おうとしたが、反対に引っ張られてバランスを崩す。しかも南郷に足元を払われて、湯の中に倒れ込んでいた。溺れかけ、慌てて体勢を立て直したものの、湯が気管に入って咳き込む。そんな和彦を、南郷はじっと見下ろしていた。
「――俺の前でよく転ぶな、先生」
苦しい息の下、和彦は南郷を非難しようとする。
「それはあなたがっ……」
「危なっかしい。俺が側にいて、しっかりとあんたを守ってやらないと」
こう言われたとき、和彦の視界に嫌でも入ったのは、南郷の脇腹にいる百足だった。次に、南郷の体の変化に気づく。
和彦は短く悲鳴を上げると、湯の中を這うようにして逃げようとしたが、あっという間に首の後ろを南郷に掴まれて動けなくなる。首にがっちりと指が食い込み、顔を湯に押し付けられそうな危機感を持った。
和彦の体の強張りがわかったらしく、南郷は芝居がかった優しげな声で語りかけてくる。
「まだ俺という男を誤解しているな、先生。俺は、手荒なまねはしない。昨夜言ったとおり、あんたによく尽くし、よく支え、よく愛す。だからあんたは、俺に笑った顔を見せてくれ」
南郷が傍らに屈み込み、和彦は顔を上げさせられる。何をされるかわかっていたが、また湯に沈められるのではないかと思うと、後退ることもできなかった。
「んうっ」
唇を塞がれ、噛みつくように貪られる。広く逞しい胸に抱き込まれると、濡れた肌同士が密着し、嫌でも昨夜の出来事が蘇る。和彦が小刻みに体を震わせていると、唇を離した南郷に軽く肩先を撫でられた。
「そんなに俺が嫌か? 鳥肌が立ってる」
答えられず目を逸らしたが、次の瞬間、和彦は抱えられるようにして浴槽の端に追いやられ、南郷が迫ってきた。もう逃げようがなく、なんとか腰を浮かせようとするが、足が滑って力が入らない。
南郷が、舐めるような視線を和彦に向けてくる。濡れて張り付いた髪を掻き上げてきて、さらには硬いてのひらで首筋を撫でられる。知らず知らずのうちに和彦の呼吸は速くなり、耐え切れなくなって顔を背ける。それが、獣に弱点を晒す行為だと気づいたのは、首筋に熱い息遣いを感じたからだった。
「うっ、うぅ……」
首筋を舐め上げられてから、じわりと歯を立てられる。食い千切られそうだという危機感の一方で、なぜか胸の奥でゾロリと蠢く感覚があった。
南郷の片手が無遠慮に足の間に差し込まれ、欲望を掴まれる。和彦は上擦った声を上げ、手を押し退けようとしたが、容赦なく扱かれる。もちろん快感など湧き起こるはずもなく、すがるように南郷を見つめていた。ゾッとしたのは、和彦を見下ろして、南郷が舌なめずりをしたからだ。
「――……今、何を考えてる? 嫌いな男に対してそんな顔を見せて、屈辱感でいっぱいなのか、ただ媚びてやろうというしたたかさの表れなのか。なあ、教えてくれ、先生」
南郷の片手が柔らかな膨らみへとかかり、優しく撫でられる。和彦が間欠的に声を洩らすと、南郷に片手を取られて、脇腹へと導かれる。おそるおそる目を向けると、湯の中で黒々とした影が揺らめいている。
「愛情深いあんたのことだ。撫でているうちに、可愛く思えてくるんじゃないか、こいつのことが」
揶揄するように南郷が言い、和彦は手を引こうとするが、骨が砕けんばかりに力を込められる。何より怖いのは、南郷が弄んでいる弱みを痛めつけられることだった。
開いた足の間に南郷がぐいっと腰を割り込ませ、密着させてくる。さきほどから高ぶりを見せつけてきていた南郷の欲望は、戦くほど熱く脈打っていた。
「しっかり撫でろ」
傲慢に命じた南郷に再び唇を塞がれる。嫌悪感から呻き声を洩らした和彦だが、それだけでは逃れることはできない。苦しさから息を喘がせたときには、口腔に南郷の舌が入り込んでいた。
感じやすい粘膜を舐め回されながら、唾液を流し込まれる。和彦が小さく喉を鳴らすと、柔らかな膨らみをまさぐる南郷の指の動きが変わった。脅すためではなく、和彦の官能を刺激するために、巧みに弱みを攻め始めたのだ。堪らず爪先を突っ張らせる。
「うっ、うっ……、そこ、やめ――……」
「なら、ここか、先生?」
次に南郷が興味を示したのは、昨夜守光に犯された欲望の先端だった。指の腹で強く擦られたあと、じわりと爪を立てられる。和彦は短く悲鳴を上げ、反射的に百足を引っ掻いていた。次の瞬間、南郷が激高するのではないかと、和彦は心底震え上がる。
相手は、自分に情を注いでくれる男たちとは違うのだ。
和彦の反応に、南郷は目を眇める。
「俺の言葉は信用できないか? 何度でも言うが、あんたに手を上げたり、声を荒らげることは絶対にしない。――約束する」
「だったら、やめてください。放して、ください……」
「それはできない。俺の誠意を受け取る代わりに、あんたにはオンナとしての役割を果たしてもらわないとな」
和彦は返事の代わりに、今度はしっかりと百足に爪を立てる。それこそ食い込むほど。痛痒も感じていない様子で南郷は続けた。
「俺の誠意なんていらない、というのはなしだ。あんたももう、この世界の男たちのやり口はわかってるだろ。俺たちは恩着せがましくて、悪辣だ。目的のためなら、善悪なんて糞くらえという人種なんだ。それでもあんた相手には、ずいぶん優しくしている」
この瞬間、南郷に対して抱いた強烈な畏怖や嫌悪感には、覚えがあった。かつて、和彦の堅気としての生活を奪った賢吾に対して、抱いたものと同じだ。横暴で傲慢で理不尽で、しかし和彦には抗う力もなく――。
かつての賢吾のやり方を踏襲しているようではないかと、和彦は瞬きも忘れて南郷の顔を凝視する。
唇を啄みながら南郷が言った。
「かまわないから、俺の百足にもっと爪を立ててくれ。あんたの爪は痛くない」
和彦はその言葉に促されるように、ギリギリと百足に爪を立てる。悠然としてふてぶてしい南郷の顔に、わずかでも苦痛の表情を浮かべさせたかった。
南郷の腹筋が硬く締まる。何も感じないはずがないのだ。しかし南郷は――笑っていた。
触れている百足がふいに蠢いた気がして、和彦は爪を立てるのをやめる。掴まれたままの手が導かれたのは、南郷の欲望だった。さきほど目にしたときよりさらに猛っており、興奮しているとわかる。
「――わかるか、先生?」
和彦は力を振り絞り、這ってでも湯から出ようとしたが、南郷にとっては緩慢な動作でしかなかったのだろう。やすやすと肩を掴まれた挙げ句に、強引に体の向きを変えられる。抗おうとして湯舟の縁に手をかけたが滑ってしまい、そのまま前のめりとなる。背後に南郷に回り込まれ、完全に抵抗を封じられていた。
腰を突き出した姿勢を取らされてから、硬いてのひらが背に這わされる。和彦は震えを帯びた息を吐き出したが、それだけだ。南郷の手は背から腰、そして尻へと移動していく。
「うっ……」
いきなり尻の肉を鷲掴まれて、ビクリと腰が揺れる。
「じっとしてろよ、先生」
背に重みがかかり、思いがけず間近から南郷が話しかけてくる。次に水音が。総毛立ったのは、南郷の唇に耳朶を啄まれているとわかったからだ。同時に、昨夜さんざん犯された内奥の入り口を、太い指にまさぐられる。
「まだ柔らかいな……。これなら――」
わずかな異物感を内奥に感じ、和彦は目を見開いた。南郷が無遠慮に指を挿入し、肉を捏ねるように蠢かす。まだ熱と疼痛を帯びているその場所は、驚くほどすんなりと南郷の指を呑み込み、緩く締め付ける。
「あっ、あっ……」
「熱いな。あんたの中。もうすっかり、その気になってるのか?」
執拗に内奥の浅い部分を、指の腹で擦られ、押し上げられる。和彦はビクビクと腰を震わせ、懸命に前に逃れようと手を伸ばすが、床の硬いタイルは滑り、爪を立てることもできない。
内奥から指が引き抜かれ、今度は、熱く重量のあるものが押し当てられる。
「うあっ」
衝撃が生まれ、和彦は大きな声を発する。昨夜味わったばかりの感覚だった。
圧倒的な存在が肉を押し広げながら、強引に挿入されてくる。重苦しい鈍痛が下肢に生まれ、じわじわと範囲を広げていく。南郷の欲望は容赦なく侵入を続け、和彦は何度も呻き声を洩らしていた。
もっとも太い部分を呑み込まされたとき、浅い呼吸を繰り返しながら、なんとか下腹部に力を入れまいとする。求め合ったうえでの行為なら、相手への身の委ね方は知っている。しかし、今は違う。体が緊張で強張り、和彦自身を苦しめようとするのだ。
南郷も何かを察したようだった。
「初めてみたいな反応だな、先生。昨夜はこんなんじゃなかっただろ。もっと俺に身を任せてくれ」
「い、や、です……」
背後で南郷が笑った気配がした。繋がり、ひくつく部分に指が這わされ、擦られる。和彦はビクッと腰を震わせた。
「あんたはいい加減、理解するべきだな。あんたが反抗したり、強がりを言うたびに、俺が興奮するってことを。それとも、わざとなのか? それがオンナの手管だとしたら、俺は見事に引っかかったというわけだが」
腰を掴んだ南郷が、一層深く欲望を押し込んできた。一旦動くのを止めると、和彦の緊張している下腹部にてのひらを這わせてくる。
「この辺りに、昨夜あんたの中に出したものがまだ残ってるかもな。オヤジさんと、俺の分」
ゾクッと寒気とも疼きとも取れる感覚が、背筋を駆け抜ける。このとき意識しないまま、内奥でふてぶてしく息づく南郷の欲望を締め付けていた。
「あんたをオンナにしてる男たちは、そうやって自分の存在を馴染ませてきたんだろ。強引な長嶺組長に最初は反発心を抱いていたはずのあんたも、今じゃすっかり従順だ。俺の場合は、あと何回――」
露骨な言葉を聞かされながら、両足の間に手が差し込まれ、欲望を掴まれる。いつの間にか和彦のものは熱くなり、身を起こしていた。
「嫌、だ……」
「そうか? あんたの体は違うみたいだ。俺のものに吸い付いて、締まり始めてる」
内奥を突き上げられると同時に、湯が大きく波打つ。和彦は背をしならせ、必死に湯舟の縁にすがりついていた。なんとか耐えようとしたが、膝は震え、爪先に力が入らない。そんな状態が南郷にも伝わったようだった。
「もうのぼせたか、先生?」
内奥から欲望を引き抜いて、揶揄するように南郷が問いかけてくる。和彦はズルズルと座り込み、俯いた顔をそのまま湯につけそうになったが、寸前のところで南郷にあごを掬い上げられる。
貪るように激しい口づけを与えられながら、胡坐をかいた南郷の膝の上に引き寄せられ、向き合う格好で座らされる。もちろん和彦は抵抗しようとしたが、南郷が言うとおりのぼせかけているのか、手足に力が入らず、まとわりつく湯が重く感じられる。
内奥にまた太い指を挿入されたとき、はっきりと肉の疼きを自覚した。うろたえた和彦が目を見開いたとき、間近から食い入るように南郷が見つめていた。引き出された舌を執拗に吸われながら、腰を抱き寄せられ、下腹部が密着する。南郷の目的はわかっている。おぞましい百足を和彦に意識させようとしているのだ。
「――……触れよ、先生。あんたの大好きな、刺青だろ」
口づけの合間に南郷が熱っぽく囁いてくる。
「嫌、です……」
「今さっき言っただろ。あんたの強がりに、俺は興奮するって」
腰を上げろと命じられ、和彦は動けなかった。すると急かすように南郷に尻の肉を強く掴まれる。ヒヤリとするような凶暴性を感じた。
おずおずと腰を浮かせると、再び内奥の入り口に逞しい形を押し当てられた。
「うあっ……」
逃げようとする腰を掴まれ、内奥に欲望を捩じ込まれる。支えを欲した和彦は咄嗟に南郷の肩に手をかけ、下腹部に広がる衝撃から、つい爪を立てていた。
下からゆっくりと突き上げられるたびに、否応なく繋がりを深くしていく。苦しさから忙しなく呼吸を繰り返していた和彦だが、次第に意識がぼうっとしてくる。湯にのぼせたのか、過呼吸に近い状態なのか、自分でも判断がつかなくなっていた。あるいは、それ以外の理由なのか――。
南郷が獣の唸り声のようなものを発したあと、両腕でしっかりと和彦を抱き締めてきた。
「――俺の、オンナだ」
確認するように、南郷が呟く。内奥深くでドクドクと欲望が脈打ち、内から和彦を圧倒してくる。
「あっ……」
微かに声を洩らした和彦は、南郷の肩に自分の爪が食い込んだままなのに気づいた。強張った指からぎこちなく力を抜こうとして、南郷が皮肉っぽく唇を歪める。
「俺は爪を立てられたままでもかまわないが」
次の瞬間には、傍若無人な舌に口腔を犯されていた。
「んっ……、んっ、ふうっ……」
体を揺さぶられながら、内奥は逞しい欲望で犯される。
頭の芯がドロドロと溶けていくようだった。それだけではなく、体の奥も熱いものでこじ開けられ、掻き回されて、容赦なく解されていく。南郷の欲望を深々と根本まで呑み込まされたとき、和彦はぐったりとして、厚い胸板にもたれかかるしかなかった。
「……あんたの中が、悦んでる。ヒクヒクと震えながら、俺のものにしゃぶりついてる」
南郷に耳元で囁かれながら、背筋に沿っててのひらを這わされる。身震いしたくなるような被虐的な愉悦に、和彦は上擦った声を洩らしていた。
「求めてくる男に弱いな、先生。組長も、面倒な檻を作ってでも、あんたを逃すまいとするはずだ。……あんたみたいなのは、外に出しちゃいけない。〈俺たち〉で大事にしてやらないと」
和彦の中で脈打つものが、痛みと肉欲のうねりを交互に生み出し、緩やかに一つに混ざり合っていく。気がつけば、南郷の肩に手をかけるだけとなっていた。待ちかねていたようにまた、百足が身を潜める脇腹へと手を導かれた。
引っ掻こうとして、寸前で躊躇する。結局、てのひらを押し当てていた。内奥で、南郷のもう一つの分身が蠢く。
「うあぁっ――……」
和彦が上げた声は、自分でもわかるほど切ない響きを帯びていた。南郷が気づかないはずもなく、会心の笑みを浮かべる。和彦がよく知る、攻撃的に歯を剥き出しにするいつもの笑みとは、まったく違っていた。
南郷が腰を揺すりながら、和彦の首筋を舐め上げてくる。その最中、さきほどより強く歯を立てられた。噛みつくというほど激しいものではなく、痛みはない。ただ、肌に食い込む歯の硬さはしっかりと認識できた。この瞬間、内奥がきつく収縮する。
「こうされるのが好きなのか?」
そう言って南郷が、もう一度首筋に歯を立てた。肩先にも。
南郷は、自分という存在を和彦に刻み付けているようだった。もしかすると、所有の印のつもりなのかもしれない。
わずかに反発心が芽生えたが、震える欲望を握り締められると、呆気なく砕け散る。和彦は、はあはあと荒い呼吸を繰り返しながら、天井を仰ぎ見た。目の前で光が点滅しており、ときおり意識が遠のきかける。仰け反り、このまま湯に沈み込んでしまいそうだと思ったが、背にしっかりと南郷の手がかかり、引き戻された。
胸元に顔を伏せた南郷に、凝った突起を舌先で弄られる。和彦は身じろぎ、このとき自分の内に収まっている肉の塊を強く意識する。南郷が上目遣いに鋭い眼差しを向けてきながら、見せつけるように突起を舐り、歯を立てる。とうとう和彦は、熱い吐息をこぼしていた。
「……先生、しっかり掴まってろよ。あんたが湯に沈んでも、今度は引き揚げてやれる自信がない」
南郷にこう言われた次の瞬間、繋がったまま体の位置が入れ替わった。
和彦の後頭部に浴槽の縁が触れる。すかさず南郷の分厚い手が差し込まれて庇われるが、それだけでは不安定で、何かの拍子に湯に沈んでしまいそうだ。南郷が内奥を突き上げてくるたびに湯が波打ち、顔にかかりそうにもなる。
律動はすぐに大きくなり、和彦の危機感はますます強くなる。口元に湯がかかったところで、取れる手段は一つしかないと諦めるしかなかった。
南郷の太い首に両腕を回してしがみつく。それを待っていたのか、内奥深くを狙い澄ましたように突かれ、丹念に掻き回される。和彦は声を抑えられなかった。
「あっ、あっ、ああっ――」
背筋を駆け抜けた感覚に、少しの間陶然とする。南郷の欲望をきつく締め付けたまま、絶頂に達していた。内奥の激しい収縮を堪能するように南郷が動きを止めたが、またすぐに再開し、乱暴に腰を突き上げてくる。
「……覚えておけよ、先生。これからは、あんたの穴という穴は、全部俺の好きにできるってことを」
賢吾から同じような台詞を言われたとき、傲慢なほどの独占欲と執着心を感じたが、南郷からは、強烈な支配欲を感じた。
「そんな、こと……、ぼくは、許さない……」
「いいや。あんたは許すしかない。なんと言ってもあんたは、求めてくる男を拒めない、現に今――」
南郷の舌がヌルリと耳の穴に入り込んでくる。感じたのはおぞましさではなく、異常なほどの官能の高ぶりだった。それを証明するように、南郷の欲望に、多淫な内奥の襞と粘膜がまとわりつく。
最高に具合がいいと、耳元で南郷が洩らした。
余裕のない荒々しい動きに、もう強がりを言うことも叶わなかった。
「うっ、うっ……」
和彦は間欠的に声を洩らし、南郷の腕の中で肉欲に狂い、沈んだ。
車中から総和会本部の建物が見えてきても、和彦に驚きはなく、また動揺すらしなかった。別荘を出発して、まっすぐ長嶺の本宅に送り届けてもらえるとは、最初から期待していなかったのだ。
体にかけていた毛布を畳み始めると、助手席に座っている南郷が振り返る。
「起きたのか、先生。よく眠っていた。さすがに疲れたんだろう」
こちらを気遣う言葉に、和彦の体はカッと熱くなる。二人きりであったなら、誰のせいだと声を荒らげていたかもしれない。しかしハンドルを握る人間がおり、何より今の和彦には、南郷相手に会話ができるほどの体力も気力もなかった。すべて、その南郷に奪い尽くされた。
和彦の精が搾り取られた一方で、南郷の精を注ぎ込まれたのは、ほんの数時間前だ。いよいよ和彦が湯にのぼせて気を失いかけると、南郷に抱えられて浴場を連れ出されてから、脱衣場で獣のように這わされ、欲望を受け入れさせられた。
南郷は執拗で、念入りだった。
麻痺していた屈辱感が蘇り、いまさらながら涙が滲み出そうになる。和彦は手の甲で目を擦ると、乱暴に息を吐き出す。悄然としている余裕はなかった。ようやく返してもらった携帯電話は不在着信で埋め尽くされており、メールも届いていた。移動中に一件ずつ確認しようと思っていながら、結局、疲労感から眠ってしまったのだ。
本部で与えられている部屋に入ったら、何を置いても賢吾に連絡を取らなければならない。冷静に話せる自信はまったくないが、無事であることは知らせておきたかった。それは、オンナとしての義務だ。
なんと切り出せばいいのだろうかと考えるだけで、指先が冷たくなっていく。さらに南郷が話しかけてきたが、耳に入らなかった。
車が駐車場に入って停まると、すぐに南郷が降りて、後部座席のドアを開ける。片手が差し出され、その手と南郷を交互に見た和彦は、邪険に押し退けようとしたが、あっさり手首を掴まれる。半ば引きずり出されるようにして車を降りた。
時間はすでに夕刻に近く、空が赤く染まり始めている。寒さにブルッと身震いすると、別荘から持ってきたダウンジャケットを肩からかけられた。
「さっさと中に入ろう。あんたには早く休んでもらいたいが、その前に話しておくことがある」
「……まだぼくに、話してないことがあるんですか?」
顔を伏せがちにして和彦は不機嫌に応じる。南郷は何か言いかけてから、前方を見て小さく舌打ちした。反射的に和彦も倣う。
足早にこちらに近づいてくる人影があった。すらりとした長身をスリーピースで包んでいる、息を呑むほど秀麗な顔立ちをした人物――。
「御堂さん……」
足音を立てずに歩く印象がある御堂だが、感情の高ぶりを物語るように靴音を響かせている。カツンと一際大きな音を立て、南郷の前で立ち止まった。色素の薄い瞳が怒気を込めて南郷を睨みつけた。見るものを凍り付かせるような冷たさに、和彦は息を詰める。
一方の南郷は、不快そうに眉をひそめた。
「どうかしたのか。第一遊撃隊の隊長ともあろう男が、俺たちの出迎えというわけでもないだろう」
「ふざけるなっ」
鋭い一声を発した御堂が、南郷に詰め寄る。状況が呑み込めず立ち尽くす和彦の視界に、御堂の数メートルほど後方に控える二神の姿が入った。何かあればすぐに飛び込むため、臨戦態勢に入っているようにも見える。不穏な空気を感じ取ったのか、運転手を務めていた第二遊撃隊の隊員が車から降りようとしたが、南郷が手で制した。
「珍しく、えらい剣幕だな。御堂。お前でもそんな顔をすることがあるのか」
「佐伯くんをどこに連れ出していたっ。昨日の臨時総会で、総和会と長嶺組が一触即発だったことは、耳に入っているんだろ」
御堂の発言に、和彦は愕然としたあと、ゆっくりと目を見開く。賢吾が必死に自分を探していたであろうことは、予想していたが、現実はそれ以上の様相を呈していたのだ。
「〈あんな〉決定をしておきながら、肝心の長嶺会長と君がいない。さらに、佐伯くんの行方がわからないとなったら、只事ではないと思うだろう。阿呆でもない限り」
「阿呆ではないが、よからぬことを考える人間は総和会内部にいる。嘆かわしいことに。俺は、オヤジさんと先生を、一時的に安全な場所にお連れしていただけだ。それは、幹部会にも事前に報告していた」
「ならどうして、長嶺組長に言わなかった。彼は、佐伯くんの――」
「この先生をオンナにしているのは、長嶺組長だけじゃない。総和会の中では、オヤジさんと、俺が」
ハッとしたように御堂がこちらを見る。和彦は、南郷の暴露に、血の気が引く思いがした。
「南郷、お前はっ……」
顔色をなくした御堂に対して、南郷が鋭い笑みを唇に浮かべる。
「お上品な第一遊撃隊隊長らしくない言葉遣いだな、御堂。『オンナ』という言葉は、やっぱり気に障るか?」
「……わたしのことはいい。総和会から一方的に、佐伯くんを預かると連絡があって、長嶺組長――賢吾がおとなしく引き下がるとは思わなかったんだろう。だから、総本部から離れられないようにしたんだな。突然、臨時総会の開催を通知して呼び出しておいて、数回の予定変更。幹部の誰に探りを入れても、長嶺会長の居場所を把握していなかった。個人的な所用のため、現在地は教えられないという伝言のみで。今の総和会で、長嶺会長のその言葉を受けて、あえて居場所を探ろうとする者は、佐伯くんが、長嶺会長と一緒にいると確信を持っている賢吾ぐらいだ」
「そして、その長嶺組長から相談を受けたお前と、か?」
「わたしは……、今朝まで動けなかった」
「隊の態勢が整うまでは、何かと雑事に煩わされるだろう。なんなら、うちから人手を貸してやってもいいが」
御堂は返事の代わりに、切りつけるような眼差しを南郷に向けた。
「――何を企んでいる。南郷」
南郷は緩く首を動かす。
「臨時総会の内容は耳に入っているんだろ?」
「年明け、お前に新しい肩書きがつくと……。統括参謀とは、大層な役職を作ったものだな。ただ、わざわざ臨時総会として人を招集する必要はなかった。長嶺会長個人の裁量で行った人事なら、用紙一枚の告知で済んだはずだ」
「うるさ型が多いからな、手順を踏むのは必要だ。何事も。肩書きについては……、地面を這いずり回って泥臭い仕事をし続けた俺に報いたいと、オヤジさんから言ってくださった。そして――」
南郷が意味ありげに和彦を見つめてくる。
守光は、南郷の働きに報いるために、自分のオンナである和彦を与えた。そういう形を取った。
いまさらながら、その事実が重く肩にのしかかる。和彦が微かに唇を震わせると、南郷がぞっとするほど優しい声をかけてきた。
「顔色が悪いな、先生。寒いのか?」
肩を抱かれそうになり、短く声を上げた和彦はダウンジャケットごと南郷の手を払いのけ、御堂のもとに駆け寄っていた。すかさず庇うように引き寄せられる。自分でも理解できない本能的な行動に、心臓が壊れたように鼓動が速くなっている。
おそるおそる南郷に目を遣ると、感情を一切排した顔をしていた。南郷を拒絶したことに対して、はっきりとした罪悪感はなかった。ただ、わずかな胸の苦しさはある。
「……すみ、ません……」
消え入りそうな声で和彦は謝罪したが、聞こえなかったのか、突然、南郷が話し始めた。
「――俺に新しい肩書きが増えるのは、先生のためでもある。長嶺の男たちにとって大事なオンナが、今後、総和会はおろか、こっちの世界で存在感と発言力が増していくのは、自明の理だ。よからぬことを考える奴が、この先生に近づいてくるだろう」
南郷がここで視線を向けたのは、御堂だった。
「年が明けたら俺は、総和会での佐伯和彦の後見人になることが決まっている。そのために、俺にはわかりやすい威光が必要で、立派な肩書きがつくというわけだ。お前が第一遊撃隊の隊長だから言うが、内々の決定だ。まだ他言はするなよ」
思いがけない言葉に、和彦の頭の中は真っ白になった。だが動揺しているのは確かで、自分の足で立っているという感覚がなくなってくる。
「俺が、先生を守り、補佐する役目を担うということだ。お前でも、長嶺組長でもなく」
「わたしはともかく、賢吾は納得しないだろう」
「――……御堂、総和会の敷地内で、長嶺組長を気安く名で呼ぶな。公私の区別をつけろ」
獣の不穏な唸り声が聞こえたようだった。しかし和彦はそれどころではなく、緊張が張り詰めていたところにさまざまなことがあり、そしてたった今、南郷の衝撃的な発言があった。
自分の関知していないところで、大事なことが決定していく。そこにもどかしさよりも、底知れぬ不安と恐怖を感じる。
そして和彦にとって何より衝撃的だったのは、すぐにでも賢吾に会いたいと思えない、自分自身に対してだった。会えば、賢吾の反応を目の当りにすることになる。南郷のオンナにされてしまった自分を。
大蛇の潜む賢吾の目に見つめられるぐらいなら、消えてしまったほうがいい――。
前触れもなく目の前が真っ暗になり、体が宙に投げ出されたような感覚に襲われる。傍らで御堂の鋭い声がした。
「佐伯くんっ」
強い力で体を引っ張り上げられ、ハッと我に返る。その場に座り込みそうになったところを、御堂と二神に支えられていた。
ああ、と吐息を洩らした和彦は、慎重に体勢を戻す。
「すみません……。急に気分が悪くなって……」
部屋で休んだほうがいいと言われて頷く。和彦の身を二神に委ねた御堂が、南郷と向き合う――というより対峙した。
「もう佐伯くんへの用が済んだんなら、かまわないな?」
「お前の手を煩わせる必要はない。俺が連れて行く」
南郷がこちらに向けて手を差し伸べてきたが、皮肉交じりの冷たい声で御堂が応じる。
「オンナの扱いを一番わかっているのは、わたしだ。お前に、今の彼を傷つけずに側にいることができるのか?」
「……今日はもう、敷地から出ないでくれ、先生。明日からは、うちの車でクリニックに送迎する。本当は休んでもらうのが一番いいんだがな」
和彦は俯いたまま返事をしないでいると、御堂に促されて建物に向かう。
南郷がどんな顔をしているか、振り返って確認する気にはなれなかった。
ベッドに腰掛けた和彦は、ふうっと息を吐き出す。守光がオンナである自分のために用意した部屋ではあるが、それでもなんとかひと心地はつける。
一緒に部屋に入った御堂は、軽く室内を見回したあと、冷蔵庫を指さした。
「何か飲むかい?」
「えっ、ああ、すみませんっ……。御堂さんはそこのソファに座ってください。お茶ぐらい入れますから――」
「いいよ。押し掛けてきたのはこちらだから」
二神とは二階で別れて、御堂だけで和彦を部屋に連れてきてくれたのだ。正直、この部屋を他人に見られるのは抵抗があったため、この配慮はありがたかった。御堂も他人ではあるが、和彦と感覚を共有できる唯一の人物でもあるのだ。
勝手に使わせてもらうよと言いながら、御堂は冷蔵庫からオレンジジュースの瓶を取り出し、グラスに注ぐ。さらにエアコンをつけてくれた。
グラスを手渡された和彦は、一気にオレンジジュースを飲み干す。やけに甘みが強く感じられ、こんな味だったかなとぼんやりしていると、手からグラスが滑り落ちそうになる。すかさず御堂が受け止めた。
「心底疲れ切ってるね」
御堂の言葉に曖昧に微笑み返す。隣に腰掛けた御堂が、改めて室内を見回し、苦々しい口調で洩らした。
「業者が入っていたのは把握していたけど、四階の一角がこんなふうになっていたとはね。まさに破格の扱いだ。本格的に君を囲い込む気なんだな。長嶺会長は」
「……ぼくの把握していないところで、どんどん物事が決まっていて、怖いです。さっきの南郷さんの話は――」
胸を押し潰されるような圧迫感は、心理的なものからきているとわかっている。それでも苦しいことに変わりはなく、和彦は胸に手を当てていた。
「賢吾さんの様子はどうでしたか……?」
ようやく思い切って尋ねると、御堂は目に滲むような柔らかな笑みを浮かべた。
「かまわないから、今から電話してみたらどうだい」
和彦は、チノパンツのポケットに入れた携帯電話を取り出しはしたものの、かけることはできなかった。気をつかった御堂が立ち上がろうとしたが、和彦は腕に手をかけ引き止める。
「――……自分の口から、あんなこと言えません……。ぼくが嫌だと言ったところで、もう無駄なんです。会長と南郷さんは――」
しゃくり上げるように息を吸い込むと、御堂に肩を優しくさすられる。情けない姿を見てほしかったわけではないし、慰めを期待していたわけでもない。しかしもう和彦には、意地を張る理由が見当たらなかった。
ここにいるのは、オンナと、元オンナだ。
「御堂さんは、ぼくみたいな立場にいたとき、理不尽だと思うことはなかったんですか?」
こんなときだからこそ、繊細な部分に踏み込む質問をしてしまう。御堂は、そんな和彦を拒絶しなかった。
「理不尽だらけだったよ。ぼくをオンナにした男二人は、それぞれ組での地位があったし、おかげでわたしは十分に庇護してもらえたと思う。だけど……、だからこそ、理不尽なことはつきまとう。惨めさに潰されそうになったわたしが選んだのは、伊勢崎さんや綾瀬さんと同じ世界に入ることだった。開き直った部分もあるけど、純粋にわたしは、力が欲しかった」
「力、ですか……」
「ご覧のとおり、わたしは荒事には向かない。それでも、この世界では生きていけるし、南郷みたいな男と渡り合える。まあ、体調を崩したのは想定外だったが。それでも、わたしはまだ負けていないし、押し潰されてはいない。何より、賢吾が、わたしをまだ利用できると考えて、復帰を唆したんだ。それはわたしの自信になっている。選んだことに間違いはなかったってね」
「オンナに、なったことも、ですか?」
秀麗な顔に優しげな表情を浮かべながら、御堂の両目に一瞬駆け抜けたのは覇気だ。
この人は、賢吾たちと同じ次元を見ている人なのだと、和彦は痛感していた。感嘆するのと同じぐらい、嫉妬もする。
「……ぼくは、そこまで思い切れません。長嶺の男たちに庇護されて、賢吾さんの作った檻の中で、いろんな男たちと情を交わしていただけで……。御堂さんに軽蔑されるかもしれませんが、ぼくには大層な覚悟なんてなかった。ただ、力のある男たちに身を委ねて、自分が必要とされる感覚に満足できていたんです」
「軽蔑なんてしない。まっとうな人生を奪われても、君はしたたかに生きている。流されているだけだと言うかもしれないが、まったく無縁だった物騒な世界に放り込まれても、自分を保っているんだ。誇れとは言わないが、少なくとも卑下はしないでくれ」
御堂が腰を浮かせ、空になったグラスをナイトテーブルに置く。このとき、灰色がかった髪がさらりと揺れ、視線が吸い寄せられる。触れてみたいなと、ふと和彦は思い、そんな自分に戸惑った。
座り直した御堂がこちらを見て、首を傾げる。その姿は、総和会という巨大な組織の中にいて、屈強な男たちの一団を率いているようには見えない。痩せてはいるが決してひ弱そうではないし、触れるのをためらわせる冷たさをときおり覗かせる。こんな御堂を守りたいと思う男は、きっと一人や二人ではないだろう。
驕っているわけではないが、和彦にも、自分を守ろうとしてくれる男たちがいる。和彦が打ちのめされるのは、そんな男たちの足手まといになりかねない己という存在に対してだ。
なんとかしたいのに、足掻くことすらできない――。
御堂が驚いたように目を丸くする。
「頼むから、泣かないでくれ。あとで、賢吾がこのことを知ったら、わたしが責められる」
「いえ……、泣いてないです。悔しいのか悲しいのか、よくわからなくなっただけで……。本当に、いろいろ、あって――」
感情の高ぶりで熱くなった自分の頬を軽く叩くと、御堂にその手を取られる。間近に顔を寄せられ、和彦は目が逸らせなくなった。
「あの……?」
「前にわたしは、君は自分に執着していないと言ったが、少し変わったかもしれないね。男たちが大事にしてくれる自分自身を惜しむ気持ちが出てきたというか……。南郷とのことをつらいと感じているのは、それも関係あるんじゃないか」
「よく、わかりません……」
すみませんと謝ると、御堂はふっと笑みを消し、和彦の頬に触れてきた。
「隈がひどいし、やつれたように見える。可哀想に。よほど気を張っていたんだね」
胸の内まで探られそうな眼差しを受けながら、南郷が、御堂は毒を使うと言っていたのを思い返す。その威力は、和彦も身を持って知っている。御堂の言葉がなければ、和彦はもう少しだけ、守光に対して警戒心を抱くのが遅くなっていたかもしれない。
あのとき御堂は、無防備すぎる和彦を案じて、毒と称して警告したのだと思っていたが――。
御堂のこの優しさも、自分を毒に浸すための手段なのだろうかと、魔が差したように和彦は考えてしまう。それとも今度は、南郷に毒を注がれたのだろうか。
揺れる心が支えとして欲するのは、やはり賢吾の存在だった。
「――……あの、賢吾さんは本部には?」
「昼前に長嶺会長が本部に戻られたあと、すぐに飛んでやってきたよ。わたしはそのとき出かけていたから、部下から報告を受けたんだが、長嶺会長の部屋でしばらく話し込んでいたみたいだ。何があったのか、あとで賢吾に電話してみたが、繋がらなかった。だから、せめて君からの電話なら出るんじゃないかと思ったんだ」
「出て、くれるでしょうか……」
「かけてみる?」
「……あとで、かけてみます」
そう答えて俯くと、ふいに御堂の指先が頬から首筋へと滑り落ちる。指先が止まったのは、今日、南郷に歯を立てられた場所だった。
おずおずと視線を上げると、御堂が心底不快そうに眉をひそめていた。
「とことん、野蛮な男だ」
着ているセーターの襟元を軽く引っ張って、御堂が顔を寄せてくる。
「オンナを、自分が狩る獲物だとでも思っているんだろうか……」
次の瞬間、和彦は小さく悲鳴を上げる。首筋に柔らかく湿った感触が触れた。
それが御堂の舌先の感触だとわかっても、嫌悪感は湧かなかった。それどころか――。
心地よい感覚が緩やかに背筋を這い上がっていく。南郷が残した痕を消すように、丁寧に御堂の舌が肌を這い、唇で柔らかく吸われる。甘い毒が沁み込んでいくようでもあるが、不思議と怯えはなかった。
傷ついたオンナを癒してくれているのだろうと、漠然とながら御堂の気持ちが伝わってくる。
「――これは、わたしと君だけの秘密だ。賢吾にも言ってはいけないよ」
御堂がそう囁き、和彦は吐息を洩らして応じる。
自然な流れで、そっと唇同士を重ねていた。
Copyright(C) 2019 Tomo Kitagawa All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。