と束縛と


- 第44話(1) -


 クリニックを出て少し歩いたところで、走ってきた車が和彦の数メートル先でぴたりと停まる。この瞬間、少しだけ期待したのだが、すぐに失望する。迎えの車は、総和会のものだった。
 別荘から戻った日から、和彦は総和会本部に滞在している――正確には、滞在させられている。当然、クリニックでの勤務中、外で待機していたのは総和会からつけられた護衛だ。二つの組織の間でどんなやり取りが交わされたのか、今に至るまで、長嶺組の人間は影すら見せない。
 総和会が遠ざけているのか、長嶺組が身を引いたのか、和彦には知りようがなかった。それというのも、誰も教えてくれないからだ。
 知る限りの長嶺組の組員たちの携帯電話に連絡し、総和会とはどういう状態になっているのか尋ねてはいるが、言葉を濁される。本当に何も知らされていないのか、隠しているのか、問い詰める術を和彦は持たない。
 肝心の賢吾はというと――。
 つい立ち止まってしまうと、急かすように短くクラクションを鳴らされる。和彦は憂鬱なため息をつき、仕方なく車に乗り込んだ。
 ハンドルを握る人物に気づき、あっ、と声を洩らす。
「先生、ドアを閉めてください」
 中嶋から澄ました声をかけられ、機械的に従ったあとで、和彦は顔をしかめた。シートベルトを締めると同時に車が発進し、ひとまず座席に体を預ける。仕事で疲れているところに、不快な感触で神経を撫で上げられたようだ。
 そう、本部に滞在し始めてから、ずっと和彦は不快なのだ。
「……南郷さんに言われたのか?」
 低い声音で問いかけると、中嶋は軽く肩を竦める。
「違うと言ったところで、信用しないでしょう」
「ぼくが塞ぎ込んでいるから、手っ取り早く機嫌を取りたいと考えたんだろう」
「塞ぎ込んでいるんですか?」
 バックミラーに映る中嶋の目元が、柔らかな笑みを滲ませる。それを見た和彦は、八つ当たりしたいところを寸前で踏みとどまったものの、内心では怒りと苛立ちが込み上げてくる。
 クリニックで忙しく立ち働いている間は、余計なことを考えなくて済むのだ。しかし、こうして総和会の車に乗り込んで、自分にとってのもう一つの現実に身を置くと、あらゆる難事が何も片付いていないという事実に、窒息しそうになる。
「気分転換をしたいなら、言ってもらえればどこにでも向かいますよ。そういえば、もうしばらく、ジムにも行けてないでしょう。明日にでも――」
「いいんだ。外の空気に触れたい気分じゃない。……ありがとう。気をつかってくれたのに」
「礼なんていいんですよ。いつも言ってる気がしますが、先生にはお世話になっているんだし」
「……どちらかと言うと、ぼくが君に世話になりっぱなしだ」
 ここで思い出したことがあり、和彦は小さく声を洩らす。
「そういえば、御堂さんとの忘年会の件では、君に悪いことをしたな……」
 実は日曜日に、御堂や中嶋との忘年会は予定されていたのだ。しかし和彦は別荘から戻ったばかりで疲労困憊となっており、主催者となるはずだった御堂も、和彦に付き添ったあと急用ができたということで、結局、忘年会は中止となった。
 では日を改めて、とならなかったのは、和彦の立場を慮った御堂からの提案があったからだ。
 南郷の後見人宣言で、和彦はある意味、〈危険物〉になったと、御堂は苦々しい口調で語っていた。一方で、会話の合間に与えられる口づけは甘く、優しかった。
 無意識に自分の口元に手をやっていた和彦は、慌てて淫靡な光景を頭から振り払う。
 御堂とは、口づけを交わし、首筋に残った噛み跡を唇と舌で慰撫されただけだ。それだけなのに、まるで媚薬でも嗅がされたように和彦の意識は心地よく浮遊し続けた。自己嫌悪に潰れてもおかしくない状態だったが、かろうじて踏みとどまったのは、御堂のおかげだ。
 そんな御堂を――ひいては第一遊撃隊を、自分のせいでさらに微妙な立場に追い込む事態を、和彦は望んでいない。
「忘年会が中止になったことを君に知らせようとしたけど、電話に出なかったから、一応メールは送っておいたんだ。……そういえば、珍しく君から折り返しの連絡がこなかった。いや、君だけじゃないんだけど――」
 知らず知らず声が小さくなり、独り言のようになってしまう。
 賢吾とはいまだに、連絡が取れていない。そのうえ、千尋とも。
 いよいよ自分は、長嶺父子に見捨てられたのではないかと考えるたびに、和彦の胸は締め付けられたように苦しくなる。
 このまま中嶋に、長嶺の本宅に向かってもらえないかと提案しかけたとき、苦い口調で中嶋が言った。
「先生も大変だったでしょうが、俺も、多少なりと大変な思いをしていたんですよ」
 和彦は目を瞬かせてから身じろぐ。
「何かあったのか?」
「――秦さんの行方がわからなくなりました」
 驚きのあまり、声が出なかった。顔を強張らせる和彦に、信号待ちの車の列に加わった中嶋は、肩越しに笑いかけてくる。
「安心してください。今はわかってますから。……俺が部屋に行ったとき留守になっていたんですけど、どうにも不自然で。それで、階下で営業している人に話を聞いたら、いかつい男たちに囲まれて車に乗せられていったと言われたんです。秦さん、前に襲われたことがあるでしょう? 携帯に連絡しても電源は入っていないし、店にも顔を出していない。どうしたって最悪な状況が頭を過って、これは長嶺組に連絡をすべきかと思ったんですよ」
「それで、今はわかっているというのは……?」
「秦さん、長嶺の本宅にいたんです。長嶺組長の命令で」
「……どうして、そんなこと……」
「さあ、そこまでは。かなりきつく口止めされたらしくて、秦さんは教えてくれませんでした。ただ、暴行を受けたというわけではなかったので、そこは安心してください。――長嶺組長からは、俺もしっかり釘を刺されたんです。面倒に巻き込まれたくなければ、当分、うちの組には近づくなと。そう言われたら、ね?」
 和彦は、賢吾と連絡が取れないというのに、一方で、賢吾の指示を受けて動いている者たちがいる。
 自分がつま弾きにされていると感じ、和彦はきつく唇を噛み締めていた。賢吾から釘を刺されたという中嶋に、これから本宅に向かってくれとも言えず、胸苦しさだけが増していく。
 和彦の様子に気づいているのかいないのか、中嶋が話を続ける。
「長嶺組では何か起こっている……というより、起こそうとしているのかもしれませんね。御堂さんも、そんなことをちらりとこぼしていましたが」
 危うく聞き流しそうになったが、ハッと我に返る。
「御堂さんと話したのかっ?」
「ええ。忘年会が流れた代わりにと誘われて、会ってきました」
 そうか、と和彦はひどく納得する。護衛がついている自分とは違い、御堂と中嶋なら、所属する隊が違うといえど、やり方次第で会うのは容易い。
 こんなことも考えつかなかったのかと、和彦は落ち着きなく髪を掻き上げていた。
「――……だったら、よかったんだ。ぼくのせいで、予定が流れたから……」
 また、知らぬのは自分だけかと、子供じみた僻みのようなものが芽生える。ここのところ被害妄想が強くなったかもしれないと、なんだか哀しくなってきた。
 乱高下する気持ちを静めようと、和彦が大きく深呼吸を繰り返していると、車がコンビニの駐車場へと入った。
「急にコーヒーが飲みたくなったんですが、少し待ってもらっていいですか?」
 シートベルトを外しながら中嶋に言われ、一拍置いて和彦は苦笑いを浮かべる。ささやかな気分転換に誘われたのだと気づいたのだ。
 中嶋が店内に駆け込んでいき、和彦は一人車内に残される。普段、護衛についている男たちなら、和彦だけを残していくなどありえないだろうが、今は、中嶋の〈緩さ〉がありがたい。
 車内から、通りを走る車を眺める。ぼんやりと、中嶋と御堂が一緒にいる場面に立ち会ってみたかったなと思っていた。
 見た目はおよそ極道らしくない二人だが、腹にはしっかりと一物を抱えているのだ。単なる談笑で終わるはずがない。特に御堂が、第二遊撃隊の隊員である中嶋を、どう扱うつもりなのか気になる。見た目は優美な男も、一皮剥けば賢吾と同類なのだ。
 中嶋が両手に紙コップを持って戻ってきたので、ウィンドーを下ろしてありがたく一つを受け取る。コーヒーかと思えば、和彦の分だけホットミルクだ。
「ストレス過多なところにカフェインは、胃に悪いと思ったので」
 そんなことを言いながら中嶋が腰を屈める。そこで、和彦は今日初めて、中嶋の顔を正面から見た。
「……殴られた痕、もうほとんどわからなくなったな」
 和彦の指摘に、ちらりと笑みをこぼして中嶋は頷く。
「加藤がずっと萎れた犬みたいな状態で、顔の痛みよりも、そっちのほうが鬱陶しくて堪らなかったですよ。一方の小野寺のほうは、何事もなかったような顔をしていて。あれはあれでムカつきましたね。あいつら、一発ぐらいぶん殴ってやればよかった」
「ムカつく相手にそうできたら、本当にすっきりするだろうな……」
 ぽつりと和彦が洩らすと、運転席に乗り込んだ中嶋が振り返って目を丸くする。
「先生が誰を殴ってやりたいと思っているのか、気になりますね」
「……いろいろ、だ」
 へえ、と声を洩らした中嶋は、和彦がさらに何か言うのを待っていたが、タイミングよくというべきか、メールが届いた。賢吾か千尋からではないかと思い、すぐさま確認する。
 表示された名を見て、気が抜けたと同時に口元が緩む。送信主は、優也だった。
 優也の叔父である城東会組長の宮森は、和彦だけではなく、優也にも何か言ったのか、まるで日記のようなメールが送られてきたのだ。それがきっかけとなり、時間があるときは和彦も他愛ない内容の返信をしており、二、三日に一度程度のやり取りが続いている。
「どなたか、イイ人からですか?」
 揶揄するように中嶋に問われ、和彦は大仰に顔をしかめて見せる。
「元患者だ。今は……、友人になりかけ、だな」
「おやおや、そんなことを言うと、嫉妬する人がいるんじゃないですか。俺も最初は、先生の友人のつもりでしたから。つまり――」
「……君の今の物言い、秦にそっくりだ」
 率直な感想を述べたのだが、意外に中嶋には響いたのか、分が悪いと言いたげに正面を向く。和彦は笑いを噛み殺しながら、何げなくコンビニに目を向ける。この時期らしい派手な飾り付けにいまさら気づき、そういえば、と呟いた。
「ぼくのことなんて気にかけている場合じゃないだろ、明日は」
「そうです。クリスマスイブですよ。悲しいかな、俺は仕事がありまして。だから、先生のお供ってことにして、抜けられないかなと企んでいたんです。よければ、クリスマスケーキも買っておきますよ」
「ぼくは……、今年はそんな心境じゃないな。おとなしくして過ごすよ。君には悪いけど」
 去年のクリスマス時期は、クリニックの開業準備が大詰めであったり、英俊と思いがけない形で遭遇したりと、気持ちの浮沈が激しかった。それでも、充実したクリスマスだったと思い返せるのは、和彦を大事に扱ってくれる男たちが、絶えず傍らにいたからだ。
 それが今は――。
 傍らに置いた携帯電話に視線を落とし、和彦はため息をつく。すぐに、今は自分一人ではないことを思い出して、誤魔化すようにホットミルクを飲んだ。




 性質の悪い冗談なのだろうかと、総和会本部のエントランスホールに立ち尽くした和彦は、無表情のまま目の前のものを眺める。
 普段の和彦は、エントランスホールではなく、裏口から出入りしている。だから、〈こんなもの〉が設置されているなど、今日まで知らなかった。
 クリスマスイブ当日、仕事を終えてから、どこにも立ち寄ることなくまっすぐ本部に戻ってきたのだが、なぜか吾川に出迎えられた。一体何事かと身構える和彦に、吾川はまるで子供に対するような口調で言ったのだ。ぜひ見てもらいたいものがある、と。
「――今年初めてなんですよ。こういったものを準備したのは」
 吾川が手で示したのは、和彦の身長よりも高いクリスマスツリーだった。しっかりとオーナメントや電飾が取り付けられ、場所が場所でなければ、立派なものだと感心していたかもしれない。
「少し前から出していたのですが、先生はまだご覧になっていないのではないかと思いまして」
「……どうして、こんなもの……」
「ここで、浮ついたことをやるなと言われる方もいましたが、第二遊撃隊が運び込んで、飾り付けまでしたものですから、そうなると誰も止められません。会長も、行事やイベントには基本的に寛容な姿勢ですから」
 吾川の説明を聞いて、あの賢吾の父親だから当然かと、妙に納得してしまう。第二遊撃隊がこのクリスマスツリーを準備したということは、当然南郷の指示があってのことだろう。昨夜の様子からして、中嶋は知らなかったようだが。
「少しは先生の気持ちが晴れれば、と考えたのかもしれませんね」
「ぼくは……、クリスマスを楽しみにしている子供ではないのですけど……」
 他の人間からすれば、オンナが強請って設置させたと思われるのではないか――。
 そんな心配をしながら和彦は、エントランスホールを見回す。人が通りかかるたびに、奇異の目を向けられている気がする。
「ここ数日、本部は立て込んでいて、普段より人の出入りが多いのですが、好評のようですよ。このツリー。一部の方以外からは」
 返事のしようがなくて和彦は口ごもる。その間にも、何やら段ボールを抱えた男たちがエントランスホールにやってきて、片隅に積み上げていく。吾川はそれを、年越しの準備だと教えてくれた。
 総和会といえども、師走らしい慌ただしさとは無縁ではいられないようだ。そんな中、わざわざこんな立派なクリスマスツリーを準備した南郷の意図を、和彦は勘繰らずにはいられない。
 何より、あの男が、クリスマスというイベントを認識していたということに、和彦はざわざわとした感覚を覚えるのだ。
 別荘から戻ってきてから、南郷とはまだ一度も顔を合わせていない。思惑があってのことだと和彦は信じていたが、吾川の話を聞く限り、本当に仕事で忙しい可能性もある。一方で、クリスマスツリーを隊員に手配させたりしていたのだ。
「……四階はいつも通り静かでしたから、わかりませんでした。そんなこと」
「会長は、今夜は外泊となります。そこに、〈彼〉も同行しています。いつも以上に静かですよ、きっと」
 はっきりと名を出されなくても、存在を匂わされるだけでドキリとする。和彦は反射的に、吾川に鋭い視線を向けていた。
「部屋に、戻ります……」
 和彦がエレベーターホールに向かうと、当然のように吾川もついてくる。上がる階が一緒なので仕方ない。
「会長が不在ですから、夕食は先生の部屋にお運びします。クリスマスイブですから、特別なものを。おそらく、ケーキもあるはずですよ」
 吾川の不思議な言い回しに内心首を傾げつつも、和彦は頷いておく。一刻も早く、クリスマスイブなど関係ない、自分だけの空間で一人になりたかった。どうしようもない寂しさを抱えた姿を、誰にも見られたくない。
 寂しさは、人恋しいとも言い換えられる。誰でもいいわけではない。ただ、一人の男の顔が見たくて、せめて声が聞きたくて――。
 四階に着くと、エレベーターの前で吾川と別れて足早に部屋に戻る。和彦はエアコンを入れると、部屋が温まるのを待つ時間が惜しくて、着替えを抱えてバスルームに向かう。
 気を抜いた途端、ベッドに転がって動けなくなるのが目に見えていた。本当は食欲もない。今夜は早々にベッドに潜り込んでしまおうと考えながら、熱めの湯を頭から被った。
 シャワーを浴びて出たところで和彦は、ドアをノックする音に気づく。もう食事が運ばれてきたのかと、急いで体を拭き、スウェットの上下を着込む。
 バスタオルを肩からかけてドアを開けると、目の前に立っていたのは吾川――ではなかった。
 驚きのあまり、声すら出なかった。ただ目を見開いて立ち尽くしていると、大きな袋を両手に提げた賢吾が薄い笑みを向けてくる。
「髪も拭かずに出てきたのか。びしょびしょじゃねーか」
 官能的なバリトンが耳の奥に届いた途端、体中の細胞が一気に沸き立ったようだった。
「ど、して……」
「お前とクリスマスイブを一緒に過ごすために」
 冗談めかして言った賢吾だが、表情がスッと真剣なものに変わる。大蛇の潜む両目にじっと正面から見据えられ、和彦は息を詰める。心の内どころか、自分の身に起こったことすら読み取られているようで、怖い。しかし、抗えない力で、賢吾の目を覗き込みたくもなるのだ。
「――中にお運びしましょうか」
 ふいに声が割って入り、ドアの陰から吾川が姿を現す。食器などを載せたワゴンも一緒で、ようやく状況を理解した和彦が狭い玄関から退くと、靴を脱いだ賢吾がドカドカと上がり込み、吾川もあとに続く。
 賢吾は持ってきた袋の中身をテーブルの上に出し始める。吾川も食器とグラスを配しようとして、テーブルの上のスペースが狭いことが気になったのか、キッチン横に置いてある折り畳み式の小さなテーブルを持ってきた。
 唖然として立ち尽くす和彦は、何か手伝おうかと声もかけられなかった。
 そんな和彦を一瞥して、賢吾が唇を緩める。
「いい加減、髪を拭いたらどうだ。風邪を引くぞ」
「あ、あ……」
 賢吾に手で示され、素直にソファに腰掛ける。髪を拭き始めたものの和彦は、いまだにこの場に賢吾がいることが信じられず、バスタオルの合間から絶えず視線を向け続ける。目が合うと、意味ありげな流し目を寄越され、カッと顔が熱くなる。
 今晩の賢吾は、完全にプライベートで訪れているのか、ニットの上から黒のシアリングコートを無造作に羽織っている。いつもはない野性味のようなものを感じるのは、服装のせいなのか、まとっている空気のせいなのか。
 心の準備もないまま賢吾と顔を合わせて動揺していた和彦だが、次第に思考が正常さを取り戻し、避けようのない告白の瞬間が近づいていることを悟る。
 和彦が打ち明けるまでもなく、おそらく賢吾はすべてを知っている。自分の〈オンナ〉の身に、何が起こったのかを。だがこれは、和彦の口から直接告げなければならないことだ。
「――大丈夫か?」
 ふいに賢吾に問われる。戸惑う和彦に対して、こう続けた。
「瞬きもしないで、何か考え込んでただろ」
「いや、そんなこと……」
「なんだ。俺に髪を拭いてほしいのか?」
 和彦はムキになって勢いよく髪を拭く。
 賢吾が持ってきたのは、二人分にしては多すぎる立派なオードブルだった。さらにシャンパンとケーキまで買っており、本当にここでクリスマスイブを祝うつもりのようだ。
 吾川は二人分の食器をようやく満足のいく形に並べられたのか、一礼して部屋を出て行く。その姿を見送った和彦は、ここに賢吾がいていいものなのかと、急に不安になってくる。
 賢吾が隣に腰を下ろした途端、反射的に立ち上がっていた。濡れたバスタオルを部屋の隅のカゴに入れたあと、所在なく立ち尽くしていると、賢吾がこちらに手招きをしてくる。しかし、足が動かなかった。
「今日のお前は、怯えた小動物みたいだな。大蛇に丸呑みされるとでも心配してるのか?」
 いつもなら軽口で応じるところだが、和彦は顔を強張らせたまま答えられない。
「――和彦」
 名を呼ばれた途端、体の中を衝撃が駆け抜けた。賢吾がもう一度手招きをする。
「座れ」
「……話なら、ここからでもできる」
 賢吾は軽く息を吐き出して立ち上がる。思わず後退ってしまったが、その様子を見た賢吾が澄ました顔で言った。
「コートを脱ぐだけだ。ついでに手を洗わせてくれ」
 和彦は、一連の賢吾の行動を慎重に観察する。一方の賢吾はキッチンで手を洗ったあと、じっくりと室内を見回した。
「ここが、お前を〈飼う〉ために、オヤジが用意した部屋か」
 痛烈な言葉だった。心を切りつけられ、そこから血が流れ出していくようだ。
「そんな、言い方……」
「居心地はいいか?」
「いいわけないだろっ。でも、ここを飛び出して、ぼくはどこに行けばよかったっ? ……あんたや千尋に電話しても、繋がらなかった。三田村もだ。他の組員に聞いても、何も教えてくれない。言われるまま、ここで過ごすしかないだろ。この世界では、ぼくは誰かの庇護の下じゃないと生活できない」
 ケンカ腰に話をしたかったわけではないのだ。しかし、平然としている賢吾を見ていると、動揺していたのは自分だけだったのだと嫌でも思い知らされる。オンナの処遇すらも男たちの間では決定しており、長嶺組にはもう必要のない存在だと見限られたのかもしれないという想像が、現実感を伴い始める。
 和彦は、賢吾を前にしても、不安で怖くて堪らなかった。
「――お前には明かせない準備があったんだ。いろいろと。うちの組の連中は、お前に甘い。特に甘いのが、俺たち父子と、三田村だ。電話越しとはいえ、お前に哀願されたら……、無茶したくなるだろう。それこそ、本部に乗り込んで、オヤジや南郷相手に大立ち回りだってやりかねない。この俺が」
「そんな誤魔化しを言うなんて、あんたらしくない」
 和彦が弱々しく詰ると、賢吾が片方の眉を跳ね上げる。この瞬間確かに、彫像のように整った顔に激情が駆け抜けたのを見た。
「……あんたの携帯に電話をしても出ないことに焦っていた。だけど、同じぐらい安堵もしてたんだ。聞きたくない言葉を、あんたから言われなくて済んだって。もう、知ってるんだろ。ぼくに、何が起こったのか」
「ああ。お前の行方が知れなくなった時点で予測はついた」
「オンナごときのことで、あんたに惨めな思いはしてほしくないし、長嶺組を危うい立場に追いやりたくない――って、ぼくが言うまでもないな。自分でも、呆れているんだ。本当に、面倒で厄介な存在になったと……。前にあんたに言ったときより、まだ自分が、ひどい存在になるなんて」
 自分の口で話しているという意識もないのに、勝手に言葉が溢れ出てくる。賢吾から言われる前に、佐伯和彦という存在を貶(おとし)めておかないと、心が持たないと思った。
 パンッと乾いた音が室内に響く。賢吾が両手を打ち合わせた音だった。驚いた和彦が言葉を止めると、苦笑いを浮かべてこう言われた。
「――あまりそう、貶(けな)してくれるな。俺の、大事で可愛いオンナのことなんだから」
「まだ、そんなこと言うのか。……あんた、長嶺組の組長だろ。ぼくなんかのせいで、総和会との関係が悪くなったら、どうするんだ……」
「心配しなくても、もとから良好じゃなかった」
「でも、総和会での活動を休止する考えがあると言い出すほどじゃなかっただろ。それに――」
「総和会を分裂させるぞと、俺がオヤジを脅したことか。あの化け狐は、困りゃしねーよ。むしろ、俺がやっと甲斐性を見せ始めたかと、内心喜んでるんじゃないか。つまり、今の総和会の運営に自信があるんだ。俺の反乱程度では、せいぜいが大樹の枝を揺らす程度だってな」
 和彦がじっと見つめると、賢吾が乱暴に髪に指を差し込む。
「長嶺組には、積み上げてきた歴史の重みがある。たかがヤクザの集まりだろうと思うかもしれないが、それでも、長嶺の姓を持つ男たちが、脈々と組をここまで繋いできた。そのために、泥水だって啜ってきただろうし、権力者におもねることだってやってきたという話だ。今は、何かあれば組事務所だって取り上げられかねないご時世だ。総和会とやり合うより、盾にして組を守るほうが賢い」
「……ああ」
「オヤジは将来、俺に、その総和会のトップに立てと言う。もちろん、俺にその気は毛頭ない。ただオヤジのほうは、総和会を守ることが、長嶺組の将来に役立つと信じているようだ。頑固な息子にどうやって言うことを聞かせようかと、ずっと考えていたんだろうな……」
 賢吾がゆっくりとこちらに歩み寄ってくるので、和彦もじりじりと移動し、なんとか距離を取ろうとする。本気で追い詰められたら、当然、逃げられない。
「オヤジは、お前の存在が俺に火をつけると確信している。――残酷なことをしていると思わねーか? ガキの大事なオモチャを取り上げて、目の前で別のガキに与えようとしている。オヤジがやってるのは、つまりはそういうことだ。取り上げられたほうは、怒り狂うか、泣き暮れるしかないだろ」
「ぼくは……、オモチャじゃない」
「単なる例えだ。とにかくお前は、あまりに価値がある。オヤジと縁のある佐伯俊哉の息子で、医者で、淫奔で情が深い。そのうえ順応性が高くて、精神的にタフだ。オヤジにとっては使い勝手がよすぎる人間なんだ」
 ふいに賢吾が素早く動き、あっという間に腕を掴まれた。引き寄せられて足がよろめき、気がついたときには賢吾の両腕の中に閉じ込められる。慣れ親しんだ体温と匂いを感じた途端、和彦は一切の抵抗を放棄していた。
 込み上げてくる感情に、両目がじわりと湿っていく。今の自分に泣く権利はないと、必死に奥歯を噛み締める。
 賢吾の唇が半乾きの髪に触れた。
「……許してくれ、和彦」
「何を、だ……」
「俺は、南郷という男を見誤っていたらしい。あいつのことは昔から知っている――いや、視界に入っていただけだな。オヤジに上手く取り入って、気に入られて、総和会の中で好き勝手やっていることで満足している男だと思っていた」
 バカな男だと、賢吾が低く毒づく。しかしその声には嘲弄めいた響きはなく、どこかほろ苦さが入り混じっていた。
「オヤジの野心に踊らされて、あいつは何を夢見ているんだか」
「賢吾……」
「――年明けに、南郷に大層な肩書きが増えるらしいな。忠義に対する褒美にしても、大盤振る舞いすぎる」
 賢吾の声音が一変して、和彦の肌がざっと粟立つ。
「いや、肩書きのほうがオマケか。本命は、総和会の中で、堂々とお前の後ろ盾になることだ」
 抱き締めてくる賢吾の腕の力が強くなり、和彦は身を固くする。表面上は落ち着いて見える賢吾だが、滾り、高ぶるものが胸の内にあると伝わってくる。それは、怒りなのだろうか、屈辱感なのだろうかと、推し量らずにはいられない。
 和彦が控えめにうかがうと、それに気づいた賢吾がこめかみに唇を寄せてくる。熱い息遣いが肌に触れただけで、吐息がこぼれた。
「オヤジと南郷は、お前を人質に取るつもりだ。本格的にお前を軟禁する前に、まずは、名分という形で外堀を埋める。そうやって俺を動かす腹づもりだろう」
「名分?」
「お前が仲介する形で、総和会と、長嶺組……というより俺との深い友好関係が築かれて、お前の後見人となった南郷とも関係は良好。表向きはそう宣伝するだろう。そのうち、俺と南郷の間で、盃を交わせと言い出すんじゃねーか。オヤジの隠し子だという噂がつきまとう男と、〈義兄弟〉になるかもな」
 賢吾の推測に、静かに衝撃を受ける。もちろん戸籍上のものではないことぐらい、和彦にもわかる。しかし、この世界で重んじられる盃事が執り行われれば、賢吾と南郷の結びつきが固いものとなるのは確かだ。
 あの男が、賢吾と近い存在になりうる可能性に、形容しがたい感情が湧き起こる。和彦はもう、南郷が賢吾に向ける執着を知っている。そもそも和彦と体を繋いだのも、賢吾のオンナであるからだ。
 和彦はまだ、南郷が賢吾に成り代わりたがっているという考えは捨てていない。一方で、賢吾を害したがっているとも思えない。それというのも、守光の発言が頭にあるからだ。
『人生を賭けた献身』
 守光はあえて名を出さなかったが、それが南郷を指しているとしか思えなかったし、確信めいたものがあった。
「……珍しく、お前が怖い顔をしている」
 賢吾の魅力的な声に気を取られ、囁かれた言葉がすぐには理解できなかった。
「ぼく、が……?」
「さっきまで、小動物みたいに怯えていたのにな。今は、目が爛々として、気性の激しい女のような――」
 和彦はうろたえ、身を捩って賢吾の腕の中から逃れようとする。
「何か気になることがあるのか? あるなら全部言え。さっきは精神的にタフだと言ったが、だからこそ、塞ぎ込んだときのお前は怖い。衰弱するまで黙り込んじまうからな」
「何、も……。今は、あの人のことは話したくないし、聞きたくない」
 賢吾が手荒く後ろ髪を掻き乱してくる。
「俺と〈あいつ〉が関わるのが、嫌か?」
「……あんたは平気なのか」
 質問に質問で返すなと、賢吾が大仰にしかめっ面を作る。
「お前が何を考えているか、全部浚(さら)えるものなら浚っちまいたいと、本気で考える。そうすりゃ、勝手に一人で行動しないだろ。……お前はもっと俺を信用して、頼れ。それとも、俺はとっくに、信用を失ってるか? お前の目には俺は、オヤジにいいように扱われながら、威張ってるだけの愚鈍な男に見えるか?」
「そんなこと――」
「どうなんだ。言ってみろ」
 畳みかけられ、凄まれ、和彦は怯む。信用していないわけではない。ただ賢吾と長嶺組が心配で、自分でなんとかできるならばと判断した結果だ。しかし、その行動を責められても仕方はなかった。結局、事態は悪化した。
 追い打ちをかけるように賢吾に言われる。
「――お前の荷物を詰めたバッグを持ってきている。里帰りに必要そうなものを、こちらで適当に見繕っておいた。どうせオヤジは、お前をもう、本宅やマンションに戻すつもりはないと思ったからな」
 自分でも、顔色が変わるのがわかった。呆然とする和彦の頭を過ったのは、やはり賢吾に切り捨てられたということだった。
 無意識のうちに賢吾の腕にかけた手が、ぶるぶると震え出す。
「どうしてそんな、ショックを受けたような顔をする」
「別に、そんな……」
「俺がお前を、厄介払いしたがっているとでも思ったか? 勘違いするな。もう日がないから、仕方なくだ。お前を連れ出そうにも、オヤジが承諾しない。だが、俺がここに来て、お前に会うのはかまわないそうだ。オンナが不安がらないように」
 賢吾の声にわずかな怒気が含まれたのは、きっと気のせいではない。和彦は、その怒りが自分に向けられているように感じ、委縮し、いっそのことこの場から消えてしまいたくなる。
 こんなことなら、いっそ連絡も取れないままなのほうが楽だったかもしれないとすら考えたとき、賢吾がふいに沈黙し、改めて和彦の顔を見つめてきた。強い眼差しに、おどおどと視線を泳がせてしまう。
 賢吾がため息をついた。
「また、小動物に戻ったな。和彦。――できることならお前には、朗らかとまではいかなくても、それなりに笑って過ごしてもらいたかったんだがな」
 促されてソファに座り直すと、片手を握り締められる。和彦も思い切って握り返した。
「……あんたに聞きたいことがたくさんある。何かしようとしてるんだろ? 秦も関係あるんじゃないのか、と思ってる。年明けからの、総和会と長嶺組の関係とか……。ぼくに教えてくれないか?」
「お前には教えない」
 パッと顔を上げると、賢吾は優しい目で和彦を見ていた。本当に、目の前の存在を心底慈しんでいるような――。
「お前はウソをつくのも、隠し事も下手だからな。迂闊なことは教えられない。とにかく、お前を取り上げられたままにはしておかねーよ。俺のオンナを好き勝手した報いは、きっちり受けてもらう」
「無茶、するんじゃ……、ないのか?」
「オンナのために無茶するのも、いいもんだろ。それが、お前の順風満帆な人生を奪った俺の、ささやかなケジメの取り方だ」
 ますます不安を煽られても仕方ないのに、あまりに賢吾の口ぶりが泰然としているため、和彦は口ごもったあと、小さな声で詰るしかなかった。
「そんなふうに言われたら、ぼくはもう何も言えないじゃないか……。悪かったな。ウソをつくのも、隠し事も下手で」
「お前みたいなのが平気でウソをつくようになったら、俺の手に負えない。多少要領が悪いぐらいでちょうどいいんだ」
 ニヤリと笑った賢吾に、不意打ちのように唇を塞がれる。それだけで、和彦は強烈な渇望感に襲われ、喉を鳴らす。もっと求めようとしたが、賢吾は素っ気なく唇を離した。
「……俺は、総和会に関わり始めた頃からのオヤジを間近で見てきた。何がオヤジに火をつけたのか知らねーが、おかげで今じゃ権力の化け物だ。そんなものに俺がなったら、もしかしたら次は、俺が千尋に同じことを求めるようになるかもしれない。そして千尋は、次の〈ヤマト〉に――」
 初めて聞く名にすぐには反応できなかったが、十秒ほどの間を置いてから和彦は大きく目を見開く。
「それっ……」
「年が明けて、お前の状況が落ち着いたら、会わせてやる――いや、会ってやってくれ、だな」
 前々からそれとなく匂わされてきた千尋の次の跡目の存在に、やっと名が与えられる。『ヤマト』と口中で反芻していた和彦だが、あることに思い至り、賢吾をうかがい見る。賢吾は短く笑い声を洩らした。
「何か言いたそうだな」
「……千尋の、弟なんてことは……」
「もしかして、俺の弟なんてこともあるかもな」
 完全におもしろがっている賢吾の口調に、かえって確信を深める。千尋には子供がいるのだ。
 年齢や、今はどこで暮らしているのかといったことから、母親はどんな人物なのかという質問を矢継ぎ早に浴びせかけると、賢吾が唇の前に人さし指を立てた。
「千尋には、まだ言うなよ。あいつ自身は、自分に子供がいるなんて、知らないからな」
 どんな理由があってそんな状況になっているのかと、さらに質問を口にしかけた和彦だが、次の瞬間には大きく息を吐き出す。苦情めいたものをこぼしていた。
「……たった今、ぼくはウソをつくのも、隠し事も下手だと言ったくせに、どうしてそんなことを教えてくれたんだ。これから千尋と、どんな顔をして会えばいいのか……。それでなくても、自分の身に起きたことをまだ整理できてないのに、さらに混乱させるようなことを言うなんて」
「俺は、お前が〈こちら〉に戻ってくるために、なんでも利用する。会ってみたくないか? お前の知らない長嶺の男に」
 バリトンの官能的な響きを際立たせるように、賢吾が囁きかけてくる。ゆっくりと目を瞬かせながら和彦は、賢吾の意図するところを懸命に汲み取る。賢吾の頬にてのひらを押し当てた。
「まさか、ぼくが里帰りしたまま、戻ってこないと思っているのか?」
「俺は用心深いし、執念深いんだ。蛇、だからな」
 たった一つの単語に反応して、官能に火がつく。堪えきれなくなった和彦は、自分から賢吾に身をすり寄せ、両腕を広い背に回す。そんな和彦を煽るように、賢吾が髪を手荒くまさぐってくる。
「気にはなるだろうが、千尋を無責任だと責めてくれるなよ。あいつは一見真っ当な男に見えるだろうが、あれで、オヤジからしっかり英才教育を施されてる。極道のいろはだけじゃなく、色事でもな。俺も、そうだった」
 この瞬間、チリチリと胸を焼いたのは、嫉妬の種火だ。
「……よく、モテただろ。千尋だけじゃなく、あんたも。今だって男盛りだから、さぞかし――」
「ほお。お前の目から見て、俺はそんなに魅力的か? いい言葉だな。男盛りとは」
 くっくと喉を鳴らした賢吾に、耳朶に軽く歯を立てられる。それだけでもう、腰が砕けそうだった。心を舐めるように燃え広がる前に、呆気なく嫉妬の種火は消えてしまう。そんな余裕がすでに和彦にはなかった。
「賢、吾……」
 切ない声で求めると、賢吾が目を細める。
「お前にクリスマスプレゼントを用意してある。俺と千尋からな。あとで渡す」
「あとで……?」
「もう取りに行ける余裕がない。俺の認めてない男に体を奪われたお前に、早く仕置きをしないといけねーからな。手酷く苛めてやるから、覚悟しておけよ」
 賢吾の恫喝は甘く、和彦は小さく喘ぐ。
「――……あんたの、好きなようにしてくれ」
 鱗に覆われた大蛇の巨体が、ギリギリと自分を締め付ける光景を想像して、恍惚とする。そんな和彦の唇を柔らかく吸い上げて、賢吾が言った。
「物欲しげなオンナの顔になったな。俺のお気に入りの一つだ」
 強引に引き立たされてベッドに連れて行かれる。そこで素っ気なく腕が離れ、和彦はふらついて床の上に座り込む。賢吾は悠然とベッドに腰掛け、両足を開いた。
「来い、和彦」
 和彦は賢吾の足元に這い寄ると、もどかしい手つきでパンツの前を寛げる。その間に賢吾はニットを脱ぎ捨て、上半身を露わにする。
 外に引き出した賢吾のものは、すでに重量を持って熱くなっていた。和彦は跪いた姿勢のまま、頭を下ろす。
「顔が見えるようにしゃぶってくれ」
 頭上からそう指示をされ、従順に従う。ますます身を屈めて、賢吾から見えるように顔だけを上げると、差し出した舌で高ぶった欲望に触れる。
 射抜かれそうなほど強い眼差しを向けられて、今度は羞恥によって身の内を焼かれそうだった。せめて視線を逸らしたいのに、賢吾の目に自分が映っていることを確認したくもなる。そうやって、自分の存在価値を推し量る。
 自分はまだ、この男に求められていると――。
 握った欲望を根本から扱きながら、括れまでを口腔に含む。唇で締め付け、丹念に舌を這わせ、舐め、吸い付く。すると、微かに目を細めた賢吾の片手が頭にかかった。数回髪を撫でられたあと、後頭部を押さえ付けられ、和彦はゆっくりと口腔深くに欲望を呑み込んでいく。
「――南郷には、してやったのか?」
 突然の問いかけに動揺した和彦は、首を横に振ることができず、表情で否定する。この瞬間だけは、賢吾の目はゾッとするほど冷たい光を湛えた。
 賢吾のものが口腔で一層逞しく育っていく。息苦しさにぐっと喉が締まると、後頭部にかかった手の力がいくらか緩められた。和彦は頭を動かし、口腔から欲望を出し入れしながら、賢吾から言われるまま、唾液をたっぷり絡めるようにして、大きく湿った音を立てるようにする。
 ときには根本に舌を這わせ、そのまま先端まで舐め上げると、また口腔深くまで呑み込み、しっとりと粘膜で包み込む。その頃には、賢吾の両手で髪を掻き乱されていた。それはまるで愛撫のようで、髪の付け根を指でまさぐられるたびに、和彦の体には肉の疼きが駆け抜ける。
 賢吾の爪先に両足の間を押さえつけられる。自覚もないまま、和彦の欲望も高ぶっていた。
「いやらしいな、和彦……」
 愉悦を含んだ声で賢吾が呟き、口元に笑みを刻む。
 口淫の途中で腕を掴まれて、ベッドに引き上げられていた。のしかかられながら余裕なく服を剥ぎ取られ、裸の体をベッドに横たえる。
「賢吾……」
 細い声で呼びかけた和彦は、向けられる冴えた眼差しに耐える。当然のように賢吾は、和彦の体を検分し始めていた。
 別荘での守光と南郷との情交の跡は、かろうじて消えている。この部屋に滞在するようになってからは、二人とも指一本和彦に触れていない。だからといって、見られて平気なわけではなかった。
 賢吾の指先が胸元から鳩尾を滑り落ち、さらに移動して下腹部へとたどり着く。緩く勃ち上がった欲望の形をまさぐられて、和彦は小さく声を上げたが、頓着した様子もなく賢吾に膝を掴まれた。足を大きく左右に広げると、秘められた部分もすべて晒す。
「大事に扱われているみたいだな。よかったな。自分のものだと思った途端、横暴になる男じゃなくて」
「……違う。長嶺賢吾のオンナだから、大事に扱ってくれているんだ……」
「それは、どうだろうな」
 意味ありげにそう言った賢吾が、内奥の入り口を指でまさぐってくる。和彦は反射的に腰を震わせていた。
「関わった男を骨抜きにしてきたお前相手に、あるいは――」
「変なことを言わないでくれっ。ぼくは……、利用されているんだ。あの人が興味あるのは、あんただけだ」
 自分でも驚くほど鋭い声を発していた。和彦の反応に驚く素振りもなく、賢吾は機嫌を取るように膝に唇を押し当てる。
「悪かった。今は、あいつのことは話したくないし、聞きたくないんだったな」
 大蛇の潜む目でこちらを見つめてきながら、賢吾の手が柔らかな膨らみに触れる。強い刺激を予期して身を震わせた和彦だが、賢吾から視線を逸らせなかった。
 賢吾が、和彦の反応が本心のものからなのか、探ってきていると感じた。自分のオンナが南郷を求め始めているのではないかという嫉妬心が、賢吾の視線から読み取れる。
「うっ、あぁっ……」
 柔らかな膨らみを性急に揉みしだかれて腰が揺れる。賢吾が内腿に唇を寄せ、強く肌を吸い上げてから、じわりと歯を立ててきた。明らかに、所有の証を刻み付ける行為だった。
 痛みよりも、快美さに身を貫かれ、和彦は煩悶する。賢吾が示す強い独占欲や執着心は、まるで媚薬だ。理性の箍を外し、浅ましい獣になれと唆される。
 痛切に、賢吾の側にいたいと願っていた。誰にも奪われず、大蛇の化身のような男のものでいたいと――。
「今、何を考えた?」
 ふいに賢吾に問われて、和彦は瞬時には意味が理解できなかった。賢吾が上目遣いに見上げてきながら、無遠慮な手つきで欲望を掴む。先端に唇を寄せられ、吐息が触れただけで感じてしまう。
「言ってみろ。お前が今、ひどく興奮しているのはわかっている。――何を考えたんだ」
 欲しい返事をもぎ取ろうとする男の性質に、和彦はゾクゾクするほど興奮する。賢吾が何を求めているのか、もちろんわかっている。
「……あんたが、早く欲しいと……」
「だからもう、こんなに濡れているのか?」
 透明なしずくが浮かんだ先端をちろりと舌先で舐められ、息が詰まる。
「ここも、触れる前からこんなに真っ赤に充血して、物欲しげにヒクヒクさせやがって……。可愛いオンナだ。俺が、こんなふうにした。そうだな?」
 内奥の入り口をくすぐるように指の腹で撫でられ、和彦は羞恥で全身を熱くしながら、それでも夢中で頷く。
「そうだ。あんたの、せいだっ……」
 次の瞬間、勢いよく体をひっくり返されると、足を開き、腰を突き出した恥辱に満ちた姿勢を取らされた。
 尻の肉を乱暴に掴まれながら、賢吾の視線を痛いほど感じる。刺激を欲して無意識に腰が揺れると、ぴしゃりと腿を叩かれたが、鋭い痛みが心地いい。
「どんなふうに、手酷く責めてやろうかと思っていたんだがな」
 自嘲気味な呟きが耳に届く。内奥の入り口を唾液と思しきもので湿らされ、指を出し入れされる。感じる異物感は、内奥の襞と粘膜を擦り上げられているうちに砂糖菓子のように溶け、もどかしい疼きだけが残る。
 唾液をさらに垂らされ、指の本数を増やされながら、和彦の内奥は綻んでいく。三本の指をしっかりと挿入され、掻き回すように蠢かされていた。
「んうっ……、は、あぁっ。んっ、んっ」
「ほら、しっかり腰を上げて、俺によく見せろ。お前のいやらしい――」
 魅力的な声が紡ぐ卑猥な言葉は、まるで愛撫そのものだ。和彦は涙ぐみながら、懸命に指示に従う。
 開いた足の間に片手が差し込まれ、反り返った欲望を掴まれる。その間も、内奥を指で押し広げられ、潤う蜜がない代わりに、たっぷりの唾液を施された。
「ひぁっ」
 欲望の先端を擦り上げられて、腰が揺れる。
「この部屋に、綿棒はあるか?」
「……な、に……」
「あとでここも、じっくり可愛がってやる。漏らすほどな」
 和彦の肌がざっと粟立つ。苦痛と紙一重の狂おしい刺激――快感を思い出したからだ。男たちによって目覚めさせられた感覚に、自分はすでに虜になりつつあるのではないかと、ふいに怖さを覚える。だが、嫌だとは言えなかった。それが賢吾の手によってもたらされるものなら、なおさらだ。
 内奥から指が引き抜かれ、背後で賢吾が身じろぐ気配がする。
 戦くほど熱いものが、喘ぐようにひくつく内奥の入り口に擦り付けられる。それだけで和彦は鼻にかかった呻き声を洩らしていた。
「――入れるぞ。和彦」
 低い囁きとともに、圧倒的な力によって内奥を押し広げられる。重苦しい痛みが下肢に広がり、和彦は慎重に息を吐き出す。すかさず、欲望の太い部分を呑み込まされていた。
「はっ……、あっ、あっ、あぅっ……」
「相変わらず、美味そうに咥えるな。そんなに、〈これ〉が好きか?」
 含まされたばかりのものがあっさりと引き抜かれ、尻の肉を割り開かれる。また検分されているのだとわかり、全身から汗が噴き出す。
 このとき賢吾は何を考えたのか、肉を掴む指に力が入った。
 そして再び侵入が始まる。
「ふっ、うっ……、んあぁっ」
 無意識に前へと逃れそうになる和彦だが、そのたびに引き戻される。まるで刺し貫くように欲望を捩じ込まれ、衝撃に息が詰まる。襞と粘膜を擦り上げられながら、まだ頑なな肉を押し広げられるのだ。姿勢のせいもあり、圧迫感と痛みをよりはっきりと味わうこととなる。
 賢吾の形を強く感じる。それに熱さと硬さも。これが、自分に向けられる執着と独占欲だと思うと、苦痛すら、不思議と愛しく思えてくるのだ。
 体の中を賢吾の肉で埋め尽くされたと感じ始めたところで、一際大きく腰を突き上げられる。これ以上なく深くしっかりと賢吾と繋がった瞬間だった。
 和彦が大きく息を喘がせていると、尻から腰にかけて撫でられる。賢吾がどんな顔をしているのか見てみたかったが、それは叶わない。
 緩やかな律動が始まり、内奥深くを丹念に突かれる。堪えきれず上げた声は愉悦を滲ませていた。蠢く逞しいものを、和彦は本能のままに締め付け、淫らな襞と粘膜をまとわりつかせる。気がついたときには、律動に合わせて腰を前後に揺らしていた。
 体の奥から狂おしい情欲が溢れ出し、もっとひどくしてほしいと願ってしまう。賢吾が与えてくれる痛みなら、いくらでも甘受できる。
「賢、吾――」
 哀願が口を突いて出ようとしたとき、前触れもなく内奥から欲望が引き抜かれる。何が起こったのか、和彦はすぐには理解できなかった。再び体をひっくり返され、力の入らない両足を大きく左右に開かれる。中から刺激によって和彦の欲望は、先端をしとどに濡らしながら、今にもはち切れんばかりの状態となっていた。
「苛めてやる前に、ここを空っぽにしておかないとな」
 和彦の欲望の形を指先でなぞってから、賢吾が両足の間に顔を埋める。熱い口腔にいきなり欲望を呑み込まれ、きつく吸引される。和彦は甘い呻き声を洩らすと、上体をのたうたせていた。
 先端を硬くした舌先で擦られ、突かれながら、括れを唇で締め付けられる。同時に、柔らかな膨らみを容赦なく揉み込まれていた。指先で弱みを弄られて、腰が跳ねる。
「暴れるな。痛い思いをするのはお前だぞ」
 そんな恫喝をしてきた賢吾が欲望にそっと歯を当ててきて、ゾッとするより、疼きを覚えた。大蛇の牙が突き立てられる様を想像したのだ。和彦の興奮が伝わったのか、賢吾が荒々しく欲望を貪ってくる。
「あうっ、うっ、賢吾……、賢吾っ……」
 根本から欲望を舐め上げられ、さらには柔らかな膨らみすらも激しい口淫を受ける。いつの間にか内奥には深々と指を含まされていた。
 嵐のような快感は、惜しむ余裕もなく終わりを迎える。和彦は、口腔で精を放っていた。当然のようにすべてを飲み干した。
 顔を上げた賢吾が指先で自分の唇を軽く拭い、それを目にした和彦は、初めての行為というわけでもないのに、ひどくうろたえてしまう。
 目が合うと、さらりと問われた。
「また飲んでやろうか?」
「……バカ」
「おう、誰に向かってそんな口を利いてる」
 明らかに本気ではない凄みを見せながら、賢吾が緩んだ内奥の入り口を指でまさぐってくる。和彦が小さく声を上げると、強引に腰を進めてきた。奥深くを抉るように突かれて、体中が歓喜する。
 膝を掴まれて両足をしっかりと持ち上げられていた。賢吾が力強い律動を刻み、送り込まれる快感に和彦はすぐに我を失う。悦びの声を上げていると、精を放ったばかりの欲望を賢吾に掴まれる。
「あっ、待っ……。まだ、そこ――」
「言っただろ。空っぽにしてやると」
 律動に合わせて欲望をてのひらで扱かれ、和彦はその手を押し退けることができない。前後から押し寄せる強い刺激に惑乱しながらも、懸命に賢吾の快楽のために仕え、その分身となるものを締め付け、襞と粘膜で舐める。内奥の淫らな蠕動を、ことさら賢吾は喜んでくれた。
「可愛いオンナだ。お前は本当に……」
 そう囁かれた途端、和彦の頭の先から爪先にまで、心地いい感覚が駆け巡る。それは、幸福感と表現できるかもしれない。
 すがるように見上げた先で賢吾が険しい表情となり、次の瞬間、内奥深くにたっぷりの精を注ぎ込まれる。全身を震わせ、和彦はその感触に酔った。
「まだ、仕置きは終わりじゃねーぞ。和彦」
 顔を覗き込んできた賢吾が、荒い息をつきながらニヤリと笑いかけてくる。彫像のような男らしい顔に生気を漲らせ、汗を滴らせている。こんな男が、こうも必死に自分を貪っているのだと思ったとき、心の表面に張り付いていた最後の殻が、やっと剥がれ落ちた気がした。
 和彦はのろのろと手を伸ばし、賢吾の頬に触れる。その手を掴んだ賢吾は、当然のようにてのひらに唇を押し当てた。
「どうした?」
「――……あんたのことを、愛してると思って……」
 驚いたように賢吾が目を見開く。
「何?」
「愛してる。あんたの側に、いたい。これからも」
 数秒の間を置いたあと、賢吾にきつく抱き締められた。
「初めてだな。お前がそんなことを言ってくれたのは。……とっくに知ってはいたけどな。俺はお前に愛されてるって」
 視線を伏せた和彦は、賢吾の肩にのしかかるように彫られた大蛇の刺青に気づく。そう言えば、今日はまだ一度も触れていなかった。
「俺は言葉で相手を縛りたくない。口から出た瞬間に消えちまうものは、信用できない。だが……、そうだな。胸の奥には残る。現に今は、お前に言われた言葉で、一生縛られるつもりになっているし、縛るつもりでもいる」
 耳に唇が押し当てられ、忌々しいほど魅力的なバリトンが注ぎ込まれた。
「忘れるなよ。俺も、お前を愛してるってことを。用が済んだら、俺のところに戻ってこい」
 愛してると、念を押すようにもう一度囁かれる。
 和彦は、賢吾の腕の中で、もっとドロドロになるまで溶かしてほしくなった。


 和彦の中に二度目の精を放ったあと、賢吾は呼吸が落ち着くのを待ってからベッドを下りた。
 ぐったりと横たわったまま、和彦はその姿を目で追う。下半身の感覚が鈍くなるほど賢吾に愛し抜かれたせいで、あとを追ってベッドを下りることは不可能だった。
 賢吾は裸のままユニットバスに入っていく。行為の最中に和彦から保管場所を聞き出した、綿棒を取りに行ったのだろう。
 水音が聞こえてきて、つい目を閉じる。この部屋にいて、警戒しなくていい人の気配を感じるのは、初めてだった。このまま眠ってしまいそうだと思っていると、いつの間にか水音は止まり、代わりに足音が近づいてくる。
 目を開けると、賢吾はバスタオル数枚を手に傍らに立っていた。さらに、綿棒も。
「待ちかねているだろうが、少し待ってくれ。腹に何か入れたい」
「……待っ……ちかねては、ない」
 短い笑い声で応じた賢吾は腰にバスタオルを巻くと、オードブルを皿に取り分け始める。そして、こちらに向けて皿を掲げた。
「お前も食うか? ローストビーフが美味そうだぞ」
「今は……、何も……」
「キャビアは? スモークサーモンもある。おっ、フォアグラのテリーヌはどうだ?」
「急にそんなもの胃に入れたら、驚いてひっくり返る。ぼくのことはいいから、好きなだけ食べてくれ」
「つれないことを言うな。愛し合う者同士で過ごすクリスマスイブだぞ」
 いまさらながら、急に気恥ずかしさが込み上げてきた和彦は、もそもそと寝返りを打って賢吾に背を向ける。
「――和彦」
 名を呼ばれてから、目の前にグラスがつき出される。結局起き上がった和彦は、そのグラスを受け取り、シャンパンを注いでもらう。さすがにぬるくなっていたが、喉が渇いているため気にならない。あっという間にグラスを空にすると、また注いでもらう。
 賢吾は、オードブルやケーキを取り分けた皿をベッドの上に置くと、自らも慎重にベッドに腰掛けた。こんな不安定な場所ではなく、テーブルで食べればいいのにと思っていると、ローストビーフをぺろりと食べた賢吾がいきなり切り出した。
「俺からのプレゼントは香水だ。千尋は名刺入れ。三田村からは……中身は見てないが、可愛い袋に入ってたな。申し合わせたわけでもないのに、かさばらないプレゼント揃いだ。愛されてるな、和彦」
 意味ありげに笑いかけられ、顔を背けた和彦は二杯目のシャンパンも飲み干す。
「〈向こう〉に持って行っても不自然じゃないものだ。まあ、お守り代わりにしてくれと言うことだ」
「……ささやかでもいいから、ぼくも何か買っておけばよかった。あんたたちにクリスマスプレゼントを。今年は特に慌ただしくて――」
「年が明けて、また元気な顔を見せてくれたらいい。それが何よりだ」
 ふいに胸が詰まって、返事ができなかった。うつむくと、乱れたままの髪を優しく撫でられる。
「ケーキはどうだ?」
「食べる」
 賢吾が、フォークで掬い取ったケーキを口元に持ってくる。
「サービスがいいな」
「俺のオンナが初めて愛を囁いてくれたからな。機嫌は悪いままだが、良くもある」
「……意味がわからない」
 食べさせてやるということなので、仕方なく口を開ける。クリームが舌の上で溶け、甘酸っぱい味が広がる。
「――美味しい」
「お前が好きそうだと、千尋がアドバイスをくれたんだ」
 やはり仲がいい父子だなと思いながら、ありがたくもう一口食べさせてもらう。しかし、賢吾がじっと口元を見つめてくるため、嫌でも視線を意識してしまい、仕方なく賢吾から皿とフォークを受け取り、自分で食べ始める。
 賢吾はよほど空腹だったのか、チキンにもかぶりついている。あまりに美味しそうに食べるので、なんとなく眺めていると、お前も食うかとチキンを突き出される。和彦は苦笑いを浮かべて首を横に振った。
「今はケーキだけでいい」
 ふうん、と返事をした賢吾は黙々とチキンを食べ続けていたが、思い出したように問いかけてきた。
「里帰りしたら、何か予定はあるのか?」
「予定……」
「久しぶりに実家で過ごすんだ。どこかに出かけるとか、親戚がやってくるとか。なんかあるだろ。うちみたいなヤクザの一家ですら、人並みな年末年始を過ごすんだ。お前の実家ともなれば、いろいろあるんじゃないか」
「まあ、今回は、出奔していた次男がようやく顔を出したということで、あちこち連れ回される可能性は……、あるかな。兄さんも、ぼくを同席させたい用事があるようだし」
 フォークの先を舐めながら和彦は、俊哉と会ったときに言われた言葉を思い返す。周囲に不安を抱かせるだけだと思い、誰にも話すつもりはなかったが、こうして賢吾と一緒にいると、むしろ黙っていることで自身の不安が増していく。
 賢吾は察しがよかった。
「気になることがあるなら、言っておけ。俺は、口が堅い男だぞ」
 チキンをきれいに骨だけにした賢吾は、紙ナプキンで指先と口元を拭う。和彦はケーキをフォークで小さくしながら逡巡していたが、最後は、黙っておくという選択肢を消した。
「……父さんは、里帰り中にぼくに、行ってもらいたい場所があるみたいなんだ」
 ほう、と賢吾が洩らす。
「はっきりとは口にしなかった。総和会や長嶺組どころか、母さんや兄さんにも知られたくないらしい。ある人物と約束した、と言っていた。絶対にぼくを行かせると」
「見当はつくか?」
 和彦は首を横に振る。
「ぼくの里帰りを望んだのは、それが一番の理由なんじゃないかと思う。父さんが、面倒を承知で約束を守ろうとする人物……。仕事上つき合いがある人とも思えないし、誰なのか――」
「オヤジからは、佐伯家の周囲に組の者を配するなと厳命されている。当のオヤジは、お前の父親から釘を刺されているようだ。久しぶりの家族団らんなのだから、不粋なまねはするなと」
 お前の父親は恐ろしいと、冗談とも本気ともつかないことを呟いた賢吾は、和彦が使ったグラスでシャンパンを飲む。ふっと息を吐き出すと、和彦の手から皿を取り上げた。
「気もそぞろなようだから、あとで食べるか?」
「ああ、そうする……」
「――だったら、始めるか」
 声音を変えた賢吾に、ゾクリと甘い悪寒が走る。怖いのに、賢吾の手が膝にかかっただけで和彦は、ベッドに横になり、自ら足を開いてしまう。
 賢吾は満足げな笑みを浮かべた。









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