中途半端な疲労感に浸りながら和彦は、シートに体を預けてウィンドーの向こうに目をむける。昨日まではクリスマス一色だった街並みは景色を一変させ、駆け足で年越しへと向かい始めたようだ。それでなくても慌ただしかった日常の空気に、一層の気忙しさが加わったと感じる。
土曜日である今日、本来であればクリニックは休みなのだが、実はさきほどまで和彦は、そのクリニックにいた。組関係の者を診ていたというのっぴきならない理由からではなく、一人、大掃除をしていたのだ。
「いや、それは言い過ぎか……」
つい独りごちてしまうと、ハンドルを握る護衛の男が一瞬、背後をうかがう素振りを見せる。和彦は軽く咳払いをして誤魔化した。
クリニックは、月曜日が年内最後の診察日となっている。
連休に入る前にということか、予約がほぼ隙間なく入っており、スタッフたちと年末の大掃除をやる余裕はない。年明けに業者が清掃に入る予定のため、あえてやる必要もないのだが、プライバシーに関わるものを置いてある空間ぐらいは自分たちの手で、ということになった。
そこで、クリニックの管理者である和彦としては、一人で心行くまで作業をしたくて、休日出勤をしたわけだ。
手が必要ならうちの若い者を遣わせると、朝方、出かける準備をしていると吾川が申し出てくれたが、もたもたと言い訳をしながら断った。主目的は、息が詰まる本部を出たかったからだ。そんな和彦の思惑など、おそらく吾川はお見通しのはずだ。わかりましたと、あっさり引き下がってくれた。
一応クリニックでは、出したままとなっていたクリスマスツリーや、飾り付けを片付けたあと、約一年の間に溜め込んだ資料を整理したり、自分のデスク周辺も掃除したのだ。
それが終わったあとは、のんびりとコーヒーを飲んだりしていたが――。
外で遅めの昼食をとったあと、ついでに買い物も済ませて、こうして帰途についている。
和彦が何げなく髪を掻き上げた拍子に、鼻先を柔らかな香りが掠めた。自身がつけているものなので、香ったところで不思議ではないのだが、反射的に背筋を伸ばしたのには理由がある。クリスマスイブに、賢吾が贈ってくれた香水だった。
おそらく、当分賢吾と顔を合わせることはできない。そう思うと急に胸苦しさを覚え、紛らわせるように、さりげなく自分の手首を鼻先に近づける。この香りは、お守りだ。
なんとも切ない気持ちを抱えたまま総和会本部に到着する。
アプローチ前を車で通りすぎるとき、エントランスホールで人影が動くのが見えたため、何事かと気になる。そういえば、と思い出したのは、場違いなクリスマスツリーだ。
車を降りた和彦は裏口から建物に入ると、エレベーターの前を通り過ぎた。
物陰からそっとエントランスホールの様子をうかがおうとして、自動ドアが反応する。ドアが開いた途端、その場にいた男たちが一斉にこちらを見た。最悪なことに、その中に南郷の姿がある。
和彦は慌てて立ち去ろうとして、即座に南郷に呼び止められる。反射的に身が竦み、動けなかった。
「土曜日だというのに、クリニックに行ってたらしいな。先生」
見覚えのあるマウンテンパーカーを小脇に抱えた南郷が、側にやってくる。
「ええ、まあ……。週明けは忙しいので、今のうちに片づけをしておこうと思って。――門松、ですか?」
床の上に新聞紙を何枚も広げ、竹を切ったものや、何種類もの花、さらには土の入ったバケツなどが置いてあるのだ。
「これから作って、夕方には外に置きたいと思ってな。クリスマスが終わったら、年末年始まで大忙しだ」
それは本部に限った話ではない。今ごろ長嶺の本宅も、大わらわだろう。昨年は、自分も一員として準備を手伝っていた。
意識しないままため息をついた和彦は、すぐに我に返り、南郷をうかがい見る。目が合うと、皮肉っぽく笑いかけられた。
「長嶺組長が恋しくなったか、先生?」
「……いえ」
南郷は当然、クリスマスイブの和彦と賢吾の逢瀬を把握しているだろう。何を言われるだろうかと身構えていると、ふいに南郷が顔を寄せてきた。
「いい香りだな。新しいコロンか?」
和彦は、飛び退く勢いで南郷と距離を取り、おざなりに頭を下げて立ち去ろうとする。すると背後から声をかけられた。
「部屋の前に、遅くなったが俺からのクリスマスプレゼントを置いてある。ああ、お返しは気にしないでくれ」
無視したかったが、それはあまりに大人気ないし、この場にいる他の男たちの目も気になる。立ち止まった和彦は頭を下げ、ぼそぼそと礼を言っておく。南郷の耳に届いたかどうかは知らないが。
エレベーターに乗り込んでから、ああ、と声を洩らした。さきほどの南郷の発言は、勝手に部屋には入っていないとアピールする意図があったと察したのだ。多分。いや、絶対に。
自分が疑り深くなり、穿った見方しかできない人間になるのではないかと、薄ら寒い気分になる。人からクリスマスプレゼントを贈られるなど、本来は嬉しい出来事であるはずなのに。
和彦はもう一度、手首をそっと鼻先に近づけた。
どれだけ嫌だと思おうが、時間を停めることはできない。
とうとう、実家に向けて出発する日がやってきた。
朝から和彦はひどく緊張していた。前夜は安定剤を飲んでベッドに入ったが、気が高ぶっていたせいで、短くまどろんでは目が覚めるということを繰り返していた。おかげで頭が重い。
部屋で一人で朝食をとったあと、ベッドに腰掛けた和彦は、スーツケースに詰め込んだ荷物を改めて確認する。里帰りは、一応一週間を予定している。クリニックの仕事始めは年明け六日からとなっており、その日までにはなんとしても戻ってこなければならない。
「どこに――……」
無意識に言葉が口を突いて出る。そして、肩を落としていた。
和彦としては長嶺の本宅に戻るつもりだが、周囲は、この総和会本部こそが戻ってくるべき場所だと認識しているはずだ。自分が知らないところで、総和会と長嶺組の駆け引きが始まっているのだろうかと考えると、それだけで胸が締め付けられる。
ため息をついてから、忘れ物はないだろうかと室内を見回して、テーブルの上に置いたものが目に留まった。南郷からのクリスマスプレゼントだ。羊革を使った滑らかな手触りの手袋で、かさばらず実用的なものをと、考慮したのかもしれない。
和彦はテーブルに歩み寄り、複雑な気持ちで手袋を眺める。物に罪はないと頭ではわかっていても、使うには抵抗がある。そこに、控えめなノックの音が響いた。
「――先生、そろそろお時間です」
返事をした和彦は、反射的に手袋をジャケットのポケットに突っ込む。慌ててロングコートを羽織ってからドアを開けると、吾川が立っていた。
「荷物をお持ちします」
「あっ、いえ、一人で持って行けますから……」
微笑みながらも拒絶を許さない吾川の物腰に圧され、渋々和彦は荷物を引っ張ってくる。スーツケースとガーメントバッグが一つずつなのは、一週間ほどの里帰りの荷物としては多いのか少ないのか、判断できない。ただ、どこに引っ張り出されるかわからないため、スーツだけは欠かせない。他の着替えは、実家に着いてから買えばいいだろうが、万が一の事態に備えることにした。
たとえば、必要な用事以外では、実家に軟禁状態となるかもしれないのだ。
和彦から荷物を受け取り、吾川は先に立って歩き出す。あとをついていくと、エレベーターの前で守光が待っていた。
今のところ守光から――というより総和会からは、里帰りの間の指示は特に受けていない。実家に入ってしまえば監視の目も届かず、和彦に何を命じたところで無駄だと考えているのだろう。
それとも、守光と俊哉との間に成り立つ信頼ゆえかもしれない。互いを〈信用〉していないのは、和彦も知るところではあるが。
「実家に帰るのは、久しぶりだったかな?」
開口一番の守光の問いかけに、和彦はぎこちなく頷く。
「数年ぶり、です」
「だったら、彼も楽しみにしているだろう。君が帰ってくるのを」
一瞬、これは皮肉なのだろうかと思ったが、守光の表情は穏やかだ。
「あちらでの生活について、逐一報告してほしいとは言わない。ただ、気になることがあれば、いつでも連絡してくればいい。相談に乗ろう」
「……ありがとうございます」
「心配しなくても、あちらとことを構えようとは毛頭考えていない。むしろ、友好的な関係を築きたい。佐伯家も同じ気持ちであってほしいと願っているが……」
吾川が先に一人でエレベーターで降りようとしたが、守光が呼び止める。促されて和彦も乗り込んだが、内心面食らっていた。もっと忠告めいたことを言われるかと思っていたのだ。
「君の父親によろしくと伝えてくれ」
扉が閉まる直前に守光がそう言い、返事をする間もなかった。
裏口を出ると、すでに車が待機しており、吾川がてきぱきとトランクに荷物を積み込んだ。
ここからの行程は前夜のうちに説明を受けている。総和会の車で実家に帰るわけにはいかず、和彦は本部の最寄り駅から電車に乗ることになっている。そこから適当な駅で降り、タクシーに乗り換えるのだ。しかも、不測の事態に備えて、途中で別のタクシーに移るよう言われている。
護衛をつけられない代わりに、和彦自身に慎重になってもらいたいと、何度も念を押された。総和会だけではなく、長嶺組からも。
後部座席に乗り込んだ和彦は、すでにもう気疲れしていた。
今からこの調子で、実家に着いたときにはどうなるのか――。
ふっと息を吐き出したところで、吾川が車内を覗き込む動作をする。ウィンドーを下ろすと、わざわざ声をかけてくれた。
「行ってらっしゃいませ、先生」
「……行ってきます」
「元気な姿で戻られるのをお待ちしております」
吾川に見送られながら車が静かに走り出し、ウィンドーを戻す。
本部を出た瞬間、出勤時とはまったく違う感情が和彦の胸の内に生まれる。もしかして、もう二度と、ここを訪れることがないのではないかと、漠然と考えていた。
反射的に身震いをしたのは、そうなったとき、必然的に長嶺の本宅を訪ねることもできない可能性に気づいたからだ。
魔が差したのかもしれない。自らを不安に陥れるようなことを考えてどうするのかと、和彦は身じろいでから、外の景色に目を向ける。見慣れた道を車は走り、曲がり角でスピードを落とす。
前触れもなく、視界の隅に人影が映った。住宅街の景色に紛れ込んでしまう、地味な色合いのスーツを着た男――。
ハッとした和彦は目を見開き、食い入るようにその人影を見つめる。数メートル先の電柱の陰に立っていたのは、紛れもなく和彦の〈オトコ〉の姿だ。
「みっ――」
危うく声を出しそうになり、必死に呑み込む。三田村も、車中の和彦をじっと見つめていた。
何時に本部を発つか、和彦は長嶺組に連絡を入れていない。総和会で予定を立てると言われて、和彦自身が把握していなかったためだ。つまり三田村は、朝からずっとあの場所に立っていたことになる。
少しの間車を停めてもらおうとしたが、すぐに思い直す。三田村が独断でやって来ていたのだとしたら、総和会に行動を知られては、三田村の立場を危うくしかねない。
和彦はウィンドーに軽くてのひらを押し当てる。手を振れないが、これで気持ちは伝わるはずだと信じて。
振り返って最後まで三田村の姿を見ていたい衝動を、唇を噛んで和彦は堪えた。
タクシーが走り去ってから、和彦は軽く辺りを見渡す。
穏やかな表情の人たちが行き交う閑静な住宅街に、子供の頃から和彦は愛着というものを感じたことはなく、それは大人になった今も変わらない。
医大生時代は、義務を果たすためだけに年に一度は実家に顔を出していたが、医者になってからは、その義務すら果たすことはなくなり、実家からも何か言われることはなかった。
このまま自然に佐伯家とは縁遠くなっていくだろうと、漠然と想像していたのだ。
一旦は歩き出したものの、足取りは重い。わざわざ実家から少し離れた場所でタクシーを降りたのも、わずかながらでも猶予が欲しかったからだ。どこかで時間を潰してもよかったが、監視の目があるのではないかと気になった。
歩きながら何度も背後を振り返ってはみるものの、不審な人影はない。しかし素人の和彦が気づかない形で尾行はついているかもしれない。そう考えてしまう時点で、守光の手の内から逃れられてはおらず、指示された通りに行動するしかないのだ。
昼前に到着すると、俊哉には連絡してある。ようやく実家前に立ったところで、和彦は腕時計に視線を落とす。普段は身につけていない、去年三田村から贈られたものだ。お守りは一つでも多いほうがいい。
改めて実家の白い建物を見上げる。近隣の邸宅に比べて、一際目立つ豪邸というわけではないが、大物官僚が暮らしていると説明されれば、なるほどと納得できる程度には立派な外観を持っている。
インターホンを押しても、応答はなかった。一瞬の躊躇のあと和彦は門扉を開く。久しく出番はなかったが、当然合い鍵は持っており、別に開けてもらうのを待つ必要はない。
なんだか行動の一つ一つに言い訳をしているなと、内心苦々しい気持ちになる。
玄関に入って声をかけたが、人がいる気配はなかった。すでに省庁は休みに入っており、険しい顔をした家族に出迎えられることを想定していた和彦は、拍子抜けする。
スリッパに履き替えると、念のためダイニングやリビングを見て回ったが、やはり誰もいない。
「……出迎える必要はない、ってことかな……」
和彦は特に感慨もなく呟く。
家の様子に大きな変化はなかった。そういえばこんな感じだったなと、ぼんやりと思い出をたぐり寄せながら、二階へと上がる。自分の部屋は物置きになっているのではないかと、多少危惧していなくもなかったが、ドアを開けて安堵した。最低限の家具類しか置いてはないものの、子供の頃から使っていた和彦の部屋が、確かに目の前にあったからだ。
コートを脱いで、ベッドに腰掛ける。部屋の空気は澱んでおらず、定期的に換気が行われていたのだとわかる。触れたシーツはしっかりと糊が効いており、デスクの上などには埃が見当たらない。通いの家政婦がやってくれているのだろうが、少なくともこの部屋の存在を忘れられてはいなかったということだ。
一息つく間もなく、和彦はガーメントバッグを開けてスーツを取り出すと、クローゼットにコートと一緒に掛ける。他の着替えはデスクの上に出しておいた。
ここで手持ち無沙汰となり、なんとなく携帯電話を手にしていた。必要ないとは言われているが、無事に到着したと連絡だけはしておこうかと考えていると、階下から微かな気配がした。
慌てて一階に下りると、帰宅した様子の俊哉と廊下で顔を合わせた。
咄嗟に声が出ず、顔を強張らせる和彦に対して、俊哉は驚いた様子もなく言った。
「――久しぶりの実家はどうだ。和彦」
開口一番に面罵されることを覚悟していた。そうされて当然だとも思っていた。しかし、予想に反した俊哉からの言葉に、形容しがたい感情が込み上げてくる。緊張や畏怖もあるが、それ以上の何かが。
「変わってないと、思う。ぼくの部屋は全然……」
「母さんは手を入れたがっていたがな。わたしが、そのままにしておくよう言った。いつお前が戻ってきてもいいように」
和彦はようやく、正面からしっかりと俊哉の顔を見つめ返すことができた。体面を繕うための穏やかな笑みはなかった。これが俊哉の素顔だ。
一人の人間として、自分を見てくれているのだろうかと、和彦は考えてしまう。
「ぼくは父さんにとって……、ううん、この家にとって、本当に必要なんだろうか」
「不必要だと答えたら、すぐに出ていくか?」
あまりな言いように、つい失笑が漏れる。すると俊哉が間近にやってきて、和彦のあごに手をかけた。顔を覗き込まれて息が止まりそうになる。
「父さん……」
「いつの間にか、英俊より腹の据わった顔をするようになったな。案外お前のほうが、人前に出る仕事に向いているかもしれんな」
俊哉に限って、こんな冗談を言うはずがなかった。意図を問おうとしたが、声が出ない。間近から父親の顔を見て、正直圧倒されていた。
官僚として頂点を極めたと言ってもいい地位に就きながら、両目にあるのは鋭気だ。この人はまだ何かを目指しているのだろうかと、ふいに知りたくなった。
あごから手が退いたことよりも、俊哉の視線が逸れたことにほっとする。
「今日はもうスーツでいる必要はないだろう。着替えたら、書斎に来い。話がある」
和彦はぎこちなく頷き、急いで二階に上がる。
着替えを済ませて書斎に向かうと、俊哉の姿はまだなかった。入っていいものだろうかと戸惑っていると、和彦同様、着替えた俊哉がやってくる。
書斎に足を踏み入れると、あっという間に過去の自分へと引き戻される。実家を離れていた時間の長さなど関係ないのだと、痛感せずにはいられなかった。
書斎の様子は、和彦が高校生の頃に見たときから、ほとんど変わっていないようだった。天井に届くほど高い書棚には、俊哉の専門分野だけではなく、政治や科学、宗教といった幅広い分野の専門書が並んでいる。資料の広げられたデスクの傍らにはパソコンが。仕事から帰っても、寝るときと食事以外はほぼ書斎にこもりきりだった俊哉だったが、今もその生活は変わっていないようだ。
俊哉がデスクについたため、和彦は部屋の隅に置いてあるイスを持ってくる。まるで面接でも始めるように、デスクを挟んで俊哉と向き合って座った。
「……ぼくに行ってもらう場所というのは――」
ずっと気になっていた疑問をまっさきにぶつけようとしたが、俊哉に片手をあげて制された。
「絶対に外の連中に漏らさないと約束できるか?」
「そんなに気を使う場所……相手ということ、だよね」
「そうだ。本当ならお前を行かせたくはないが、そろそろ圧力に逆らえなくなった」
「父さんが……」
「わたしも人間だ。弱みも急所もある。今回は、その両方を押さえられた」
ざわっと肌が粟立った。書斎という場所で俊哉と向き合い、こうして話している状況に、強く記憶が刺激される。覚えていないのではなく、懸命に思い出すまいとしていた事柄が、まるで水面に浮かび上がるように蘇る。
和彦は意識しないまま、口元に手をやる。急に吐き気が込み上げてきた。
俊哉は抑えた声音で言った。
「わたしとお前にとっての因果が巡ってきたというところだな。よりによってこの時期に、〈向こう〉が動き出したというのも」
「父さんと、ぼく……?」
こちらを探るように俊哉が一瞬目を眇める。そして、ああ、と声を洩らした。
「……本当に、覚えてないんだな。わたしがずっと遠ざけてきた甲斐はあったということか。お前にとってよくない場所だったからな。この先も縁遠いままであればよかったが、そうもいかないようだ。事情があるらしく、相手はひどく急いでいる。ここで断ると、お前に会いに押し掛けてきても不思議ではないと判断した。今は、これ以上の揉め事は困る」
ここで深く息を吐き出した俊哉が、指で目頭を押さえる。どうやら疲労が溜まっている様子だ。
守光とのやり取りで神経をすり減らしたのか、仕事が多忙だったせいなのかと考えるが、本人には聞けない。息子の勘として、俊哉のプライドを傷つけるだろうと思ったからだ。
数十秒ほどの静寂のあと、姿勢を戻した俊哉が口調を変えないまま言った。
「――英俊が、今になって迷い始めている」
何を、と和彦は視線で問いかける。このとき、口元にやっていた手をやっと下ろした。
「国政への出馬と、婚約について。まだお前にはきちんと話してなかったが、どうせヤクザ共が調べて、その報告を受けているんだろう。英俊からも聞いているんじゃないのか」
「出馬のことは聞いていたけど、婚約については……。前に会って話を聞いたときは、兄さん、張り切っているようだった。父さんたちも協力してくれているって言ってたし。何が――」
和彦はハッとして顔を強張らせる。佐伯家にとって自分の存在が一番の障害になっていると、当然のことを思い出していた。
「ぼくのせいで……」
「そうとは言い切れない。〈あれ〉は、この家とわたしに依存して生きてきた。そこから切り離されて生きていくことに、いまさら不安を覚えたんだろう」
和彦はそっと眉をひそめる。さきほどからずっと、俊哉は迂遠な言い回しを続けている。不肖の次男に対して、佐伯家の現状を伝えたくないのではないかと勘繰りたくなってくる。
ゴクリと喉を鳴らしてから、和彦は勇気を振り絞って告げた。
「父さん、ぼくを利用したいなら、必要なことは教えてほしい。年末年始の間、親兄弟に心配をかけ続けた次男が、やっと心を入れ替えて戻ってきた――という役は、きちんと演じる。そのために、この家で何が起こっているのかを知りたい。ダメだというなら、何も協力しない。〈向こう〉がどこなのか知らないけど、そこにも行かない」
「わたし相手に駆け引きか」
俊哉の声が極寒の冷たさを帯びる。和彦は一心に見つめ返し、怯まなかった。
次の瞬間、俊哉が薄い笑みを浮かべた。
「――婿に欲しい、と言われている」
和彦は即座に理解できなかった。俊哉はデスクの上で指を組み、言い直した。
「英俊が、佐伯の姓を捨てるということだ」
英俊との婚約話が出ている相手が、ある企業の創業者の孫娘であることは、かつて鷹津から聞かされた。俊哉の説明もその通りで、あの男の調査能力の高さを改めて実感するのだが、今はそれどころではない。
孫娘には姉がおり、彼女の夫もまた婿養子で、ゆくゆくは会社を継ぐことになっていると聞いて、和彦は首を傾げる。
「だったら、兄さんがわざわざ婿養子に入る必要はないんじゃ……。政治家になるつもりなら、経営に携わることもないだろうし」
そう、英俊は国政に打って出ようと考えているのだ。知名度や人脈のために婚約者の家に入るのだとしても、佐伯家も同程度のものは持っているはずだ。あえて婿養子に入る利点が見当たらない。
「……兄さんは、その形での婚約に納得してないのかもしれない。父さんに言われたら、兄さんは嫌とは言わない人だ。でも、佐伯家から出るとなると――」
「この家から出ても、地位や名誉が手に入る道は示してやった。佐伯という姓に束縛される必要はないだろう。あれは、人並み以上の能力はある。どこでだろうが成功できるはずだ。政治家になれなかったというのなら、いつでも見切りをつけて、婿らしく経営の補佐に回ればいい。官僚生活で培った人脈やノウハウが役に立つ」
なんともうわべだけの言葉だと、率直に和彦は感じた。血を分けた息子というより、手持ちの駒について語っているようだ。
英俊は優秀で、両親どころか親族たちからの期待を一身に受け、それに見事に応えてきた。叶わないことはないとでもいうように、充実した日々を送り、順調に省内で出世し、このまま俊哉のあとを追いかけ続けると、誰もが思っていた。しかし、実際のところ、俊哉の口から一度でも英俊に対して、『官僚になれ』、『佐伯家を継げ』と言ったことがあったのだろうか。もしかすると、政治家を目指すというのも、英俊の意思がどれだけ反映されているのか。
ふと疑問が過った瞬間、寒気がした。
俊哉が望んでいるはずだと信じて邁進してきた英俊が、その俊哉から婿養子に行くよう言われたとしたら、どう感じるか。
和彦は瞬きもせず、真正面から父親の顔を凝視する。昔からほとんど衰えることのない容色と、他人を惹きつける謎めいてすらいる華やかで艶やかな雰囲気は、ある意味毒気だ。和彦はこのとき、守光の存在を思い出していた。
内心うろたえ、動揺を表に出すまいと努める。今は、俊哉と守光の関係を問う場面ではない。
「――……父さんは、兄さんに対して声を荒らげたことがある?」
俊哉にとっては意外な質問だったらしく、わずかに目を細めた。
「どうしてそんなことが聞きたい」
「兄さんは、ぼくに対してはよく声を荒らげていた。あの人は、父さんをなんでもコピーしようとしてたわけじゃない。自分を律しようと努力はしてたけど、感情的な人間だよ。もちろん、ぼくも」
話していて、自分は英俊に同情しているのだろうかと、自問したくなる。和彦の、兄に対する気持ちは複雑だ。だが決して、憎んではいないのだ。
ふふ、と俊哉は声を洩らして笑った。
「わたしも、お前たちと同じだ。どこまでも感情的で、だからこそ己を律する術を身につけた。そうしないと、自壊するとわかっていたからな」
「……ぼくは、感情的になった父さんを見てみたかったよ。いつだって落ち着いてて、遠い存在に思えた。きっと兄さんも。ずっと、父さんが何を考えているかわからなかったんだ。一番わからなかったのは、どうして、ぼくをこの家に引き取ったのか――」
そもそも、怜悧狡知な俊哉が、なぜ義妹と関係を持つという行為に至ったのか。
ずいぶん昔に理由を告げられたことはあるが、それは到底、情熱的な愛の話と呼べるものではなく、どこか動物的な、即物的ともいえるものだと、思春期だった和彦はわずかな嫌悪を覚えたのだ。
およそ俊哉らしくない生々しい告白だった。まるで、巷にあふれる下世話な噂話を脚色したかのような。
「――……里見さんの存在も関係あるのかな」
「なんのことだ?」
「兄さんが、婚約を迷い始めた理由」
まっさきに思いつくべきだったのだろうが、あの兄に限ってという気持ちが一方である。感情で動くという行為を、何よりも嫌っていそうだからこそ。ただ、自分〈たち〉が父親から受け継いだ資質だとするなら、納得もできる。
俊哉が苛立ちを表すように、指先で軽くデスクを叩いた。
「会話があちこちに飛ぶな。理路整然とまとめたらどうだ」
「ごめん……」
疑問のすべてを解決したくて、このときとばかりに気持ちが逸るのだ。
「まあ、いい。――里見のことだが、そうかもしれないし、違うかもしれない。わたしは、英俊ではないからな」
「でも、父さんならわかるんじゃないか? たった一人を選ばなければいけないけど、選べない気持ちが……」
部屋の空気が一層張り詰めた。和彦はじっと息を潜める。
俊哉に対して、こんなに踏み込んだ問いかけをするなど、かつての自分ならありえなかった。この二年近くでわが身に起こった出来事で、和彦は強く、ふてぶてしくなっていた。
「仮にそうだとして、だからどうだというんだ。決断できないなら、折り合いをつけるしかない。――英俊ができると思うか?」
「それは……」
「他人事ではなく、お前も決断することになる。この先、どんな人生を歩むか。何を切り捨てるか」
「……ぼくはもう、選んだよ」
「後悔しないと言い切れるか?」
和彦が答えようとしたとき、部屋の外から物音が聞こえた。他の家族が帰宅したようだ。
「どちらが帰ってきたんだろうな……」
俊哉の独り言に、書斎での談話はこれで終わりなのだと察する。和彦は短く息を吐いて立ち上がった。イスを元の位置に戻して部屋を出ようとしたが、動きを止める。最後にもう一つだけ、俊哉に聞いておきたいことがあった。
「――父さん、鷹津はどうしてる?」
不自然な間を置いたあと、俊哉は言った。
「まだ気にかけているのか。彼のほうは、面倒事はもう勘弁とばかりに、日本を脱出したかもしれないのに」
「鷹津が、総和会を引っ掻き回すために、憎まれ役をやるつもりだと教えてくれたのは、父さんだよ。……あの男はさらに何かやるつもりなんだろ?」
「さあ。わたしは何も聞いていない。お前が心配したところで、簡単に野垂れ死ぬ男でもなかろう」
そう、と応じて部屋を出た和彦は、ドアを閉める寸前に一瞬だけ、俊哉の表情を盗み見た。非常に険しい顔をしていた。
廊下を歩きながら、俊哉の表情の意味を考える。昔一度だけ、あの表情を間近で見た記憶があった。常に冷静な父親がこんな顔をするのかと、幼心に強く記憶に刻み込まれたのだ。
それなのに、いつ、どんな状況であったのかが思い出せない。
胸の奥がざわざわと落ち着かなくなり、急き立てられるように足早に玄関ホールに出たところで、ある人物と遭遇した。
和彦は大きく見開いたあと、反射的に半歩だけ後退ってしまう。まだ、心の準備ができていなかった。
「――帰っていたの」
針を潜ませた冷ややかな声に、妙なことだが、実家に戻ってきたのだと実感していた。
和彦はぎこちなく笑いかける。
「ただいま、母さん」
綾香は、久しぶりに顔を合わせた〈息子〉を容赦なく観察してきた。頭の先からつま先までじっくりと見つめられながら、和彦もまた、母親を控えめに観察する。
昔から、スカートを穿いた姿をあまり見せない人だった。今もパンツスーツ姿で、髪もきれいにまとめている。異様な若々しさを保っている俊哉ほどではないが、六十代前半には見えない容色だ。かつては省庁で有望な女性官僚として勤めていたが、和彦が美容外科医に転科して慌ただしくしていた頃にいつの間にか退職し、その後は大学で教鞭をとっている。
非常に整った顔立ちをしているのだが、表情は女性的な柔らかさが乏しく、近寄りがたい雰囲気がある。このあたりは俊哉とよく似た夫婦といえる。
もっとも綾香の場合、頑なな殻をまとっていなければ、己を保てなかったのではないか。そう気づいたときから和彦は、どれだけ冷たく接されようが、笑いかけることができるようになった。
「さんざん迷惑かけたのに申し訳ないけど、年末年始の間、ここに滞在させてもらうから」
「……本当は、ホテルを取ってほしかった」
「うん、わかってる」
「あなた絡みで何か問題が起これば、お父さんが何を言おうが、ここから出て行ってちょうだい」
突き放すような綾香の物言いを聞いていると、高校を卒業するまでの生活が昨日のことのように蘇る。しかし今の綾香の忠告は、むしろ当然なのだ。厄介な事情と人間関係を抱えた和彦など、本来であればこの家の敷居を跨ぐ資格はない。
年末に自分を呼び戻すために、両親の間でどんなやり取りがあったのか――。
見たわけでもないのに、寒々としたものが胸を駆け抜ける。居たたまれなくなった和彦は、視線を伏せてその場を立ち去る。実家に到着してさほど時間が経ったわけでもないのに、もうこの状況に怯んでしまいそうだった。
耐えられるのか。耐えなければ。耐えるべきだ。
自分の部屋に向かいながら、まるで呪文のように和彦は心の中で呟いていた。
夕食は、俊哉と二人でとった。
ダイニングの広いテーブルで俊哉と向き合うのはなかなかの緊張を強いられたが、これも団らんの一つの形かと考えると、少なくとも苦痛ではなかった。綾香は、あとで一人でとるつもりらしい。
入浴後、自分の部屋に戻った和彦は、ベッドに倒れ込む。患者を診たわけでもないのに、一日中働いたあとのような疲労感があった。実家で過ごすのが久しぶりすぎて、気疲れしたようだ。
まだ夜も早い時間だが、このまま眠ってしまいたかった。そうやって時間を進めていけば、自分がいるべき場所にあっという間に帰れるはずだ――。
一度は目を閉じた和彦だが、すぐにソワソワして起き上がる。
デスクの上に置いた携帯電話を手に取ると、数分ほど逡巡したあと、賢吾に連絡していた。
『――今日はもうかかってこないかと思った』
柔らかな声音で言われ、和彦の頬は瞬く間に熱くなる。
「心配、しているかと思って……」
『よくわかったな』
賢吾と話しているだけでほっとする。心身の強張りがじわじわと解けていくようで、和彦はやっと肩から力を抜くことができる。
『久しぶりの実家はどうだ』
「うん……。相変わらず、かな。さんざん迷惑かけたから、温かく迎え入れてもらおうなんて考えもしてなかったし、むしろ、よく家に入れてもらえたと思う」
『どんな不祥事を起こそうが、悪さをしようが、親は簡単に子を見捨てない――と綺麗事を言うのは、お前に失礼だな。少なくとも、佐伯俊哉には思惑があってのことだ。そこに、俺のオヤジも噛んでる。気が張って仕方ないだろうが、踏ん張れよ』
ふっと沈黙が訪れる。和彦はベッドに腰掛けると、何を話そうかと言葉を模索する。俊哉の様子を伝えておくほうがいいのだろうか。長嶺組や総和会で変わったことはないかと聞くべきだろうか。あれこれ頭に浮かぶのだが、口には出せない。
結局、ぽろりと洩らしたのはこんなことだった。
「――……早く、戻りたい。そっちに」
『心置きなく戻れるように、用事を済ませてこい。待ってるから』
賢吾の声音が一際優しさを増す。
「……今、あんた一人なのか」
『どうしてだ?』
「子供を甘やかすような声を出してるから、誰か聞いていたらびっくりするんじゃないかと心配になった」
『別に、聞かれてもかまわねーがな。俺が甘いのは、お前にだけだって、みんな知ってる』
ヌケヌケと、と思いつつも、表情が緩んでしまう。
「千尋はどうしてる?」
『ようやく自分の部屋に戻った。ずっとお前の心配をしてたみたいだぞ。本当に戻ってきてくれるのか、ってな』
「あいつらしい。……年越しの準備は進んでいるか?」
『いつも通りだ。去年は、お前がいたおかげで華やいで、楽しかったのにな』
今朝、三田村を見かけたことは言わなかった。賢吾は把握しているのかもしれないが、自分と三田村の秘密にしておきたかった。
実家に滞在している間に、賢吾への隠し事はいくつ増えるのだろうか――。
和彦はこの瞬間、自分がとてつもなくしたたかでふてぶてしい、〈悪いオンナ〉に変化した気がして、ゾッとする。こんな変化を、和彦は望んでいない。
『さすがにお前でも、今日は疲れただろうから、早く休め』
「……まだそんな時間じゃない」
『俺と話し続けると、興奮して眠れなくなるぞ』
艶のある笑い声に鼓膜を震わされ、甘い疼きが生まれる。
わかったと答えて電話を切ろうとしたところで、最後に賢吾から忠告された。
『――どうしてもダメだと思った瞬間が来たら、迷わず逃げろ』
「それは……」
どういう意味かと尋ねようとしたときには、向こうから電話を切られた。
明日確認すればいいかと、和彦は携帯電話を置く。まだ頬が熱かった。
休む前にミネラルウォーターのボトルを持ってこようかと立ち上がったとき、カーテンを閉めた窓の向こうが急に明るくなった。外を見てみると、家の前に車が停まっているようだった。
窓を開けた途端、冷たい風が吹きつけてきて身を竦める。それでも和彦はバルコニーに出て、様子をうかがう。すると、タクシーらしき車が走り去ったあと、門扉を開ける音がした。階段を上がってきたのは英俊だった。
年末休みに入ったとはいえ、多忙なようだ。顔を伏せ、心なしか肩を落とし気味の英俊の姿を二階からじっと眺める。日中の俊哉との会話もあって、複雑な感情が和彦の中で渦巻いていた。
前触れもなく英俊が顔を上げ、なぜかまっすぐ和彦の部屋を見た。反射的に和彦は部屋に逃げ込み、窓を閉める。
里見と一緒だったのだろうかと、即座に想像してしまった自分に、激しく動揺していた。
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