と束縛と


- 第44話(3) -


 大掃除をしようと、トレーナーの袖をまくり上げ、バケツなどを探し出してはきたものの、定期的に専門業者を入れている家は、心配するまでもなく掃除が行き届いている。
 結局、自分の部屋の窓を磨いたり、本棚の上のわずかな埃を払ったぐらいで、掃除は済んでしまった。
 他の家族は何をしているのか、それぞれの部屋に入って物音一つ立てない。もしかして外出しているのかもしれないが、わざわざドアをノックしてまで確認する必要はない。
 和彦が一人暮らしをしていた間も、この家の生活はこうして淡々と続いていたのだなと、奇妙な感慨深さすら覚える。家族という団体で暮らしていながら、家庭内でそれぞれが独立していた。
 それが過ぎて、和彦は孤立感を覚えていたが――。
 すっかり手持ち無沙汰となったため、着替えを済ませ、財布と携帯電話を持って家を出る。外の空気を吸いたくなった。
 自由に出歩いていいと俊哉から言われてはいるが、門扉を開ける瞬間、和彦は緊張した。自分は今、表の世界に身を置いているのだと、肌で実感できたからだ。
 慎重に周囲を見回してみても、昨日同様、監視がついている気配はない。仮についていたとしても、和彦に近寄ることはできないだろう。あの守光が、いまさら俊哉を相手に事を荒立てるまねをするとは思えない。
 羽織ったカーディガンの前を掻き合わせて、首を竦める。あまり大荷物にしたくなくて、ダッフルコートは持参してこなかったのだが、厚手とはいえさすがにカーディガンでは心もとない。仲のいい兄弟なら、上着の一枚ぐらい気軽に借りられるのだろうが、さすがに英俊には頼めない。
 パンツのポケットに財布と携帯電話を捻じ込んだ和彦は、散歩がてら実家近くの並木道を歩く。
 記憶になかった家が建ち並び、道路の幅が広くなり、街灯のデザインが新しくなっていたりと、意外にしっかりと記憶に残っているものだなと、ささやかな驚きに浸っているうちに、広場に出る。ここも、新たに造られた場所のようだ。
 広場の一角に公園があり、遊具がいくつも設置されている。しかし、この寒さでは、遊んでいる子供の姿はない。重苦しい雲に覆われた空からは、今にも雪が落ちてきそうなのだ。
 人がいないならちょうどいいと、和彦は近くの自販機で温かい缶コーヒーを買い、公園内のベンチに腰掛ける。寒いが、実家で息を潜めて過ごしているより、遥かに気持ちは楽だ。
 いざとなれば、バスで図書館にでも出かけて時間を潰そうかと、ぼんやりと考える。悲壮な覚悟を持って実家に帰ってきたつもりだが、どこか捨て置かれたような今の自分の状況に、現金なものだが心のどこかで安堵もしている。いないものとして扱われることには慣れていた。
 別に、自棄にはなっていない。
 和彦はコーヒーを一口飲んで、唇を歪める。ここで携帯電話にメールが届き、確認する。送り主は、優也だった。
 何してる? と簡潔さをきわめた文章を目にして、今度は唇を緩める。いつもの優也らしいメールだ。
 さっそく返信しようとメールを打ち始めた和彦だが、かじかんだ指が上手く動かず、もどかしくなって電話に切り替える。
『珍しい。そっちから電話くれるなんて』
 挨拶もなく、驚いた様子で優也に言われてしまう。いつも電話を億劫がる和彦に対する皮肉かもしれない。それでも破顔したのは、優也が、和彦にとって〈あちら〉の世界を匂わせる相手だからだ。コーヒーの温かさよりも、ほっとする。
「君と話したくなった」
 大まじめに和彦が答えると、なぜか電話の向こうで優也が沈黙する。
「――……ぼく、変なこと言ったか?」
『……いや、あんたが〈モテモテ〉な理由が、ちょっとわかった気がして』
 声に動揺を滲ませた優也が、咳払いをしてから改めて問いかけてくる。
『で、何してるの、今』
「何もしてない。やることないから、公園でコーヒー飲んでる」
 マジかよ、という呟きが聞こえてきた。
『確か、実家に戻ってるんだっけ』
「うん……。君は?」
『あー、こっちのことは、別にいいじゃん』
 優也の歯切れの悪い物言いに、かえって和彦の興味はそそられる。宥めすかしてなんとか聞き出したが、なんと宮森の自宅にいるのだという。
『年末年始はこっちで過ごせって、無理やり連れてこられた。もうさ、うるさいんだよ。組の人間が出入りするわ、子供が家中走り回るわで。しかも、毎食、こんなに食えないっていうのに、ご飯もオカズも山盛りで出されて。寒いのに、朝晩散歩に連れ出されるし』
 心底嫌そうな口ぶりで話す優也だが、健康的な生活を送っているのは間違いない。宮森は、優也に対して積極的に出ることにしたようだ。そのほうがいいと確信したのだろう。
「次に会うときは、多少は肉付きがよくなってるかもな。君は少し痩せすぎだったから、しっかり面倒見てもらうといい」
『……偉そうに言うな』
「君の主治医だから。偉そうに言わせてもらうよ」
 舌打ちらしき音が聞こえてきたが、優也なりの照れなのだと思うことにする。
『で、あんたのほうは、里帰りはどんな感じなんだ』
「まあ……、普通だよ。よくある、普通の里帰り」
 何か察したのか、他人の家庭事情に興味はないしと、優也がぼそぼそと言う。傍若無人なようで、実は繊細な神経の持ち主らしい配慮だ。和彦は背もたれに体を預けると、頭上を仰ぎ見る。
「いろいろと親不孝をしたから、家族と顔を合わせづらいだけなんだ」
『息子がヤクザのイロになったんだから、親不孝の一言じゃ済まないよな、普通』
 配慮はあるが、物言いに遠慮がない。事実であるだけに、和彦は苦笑するしかなかった。
『まあ……、帰ってこいと言ってくれるだけ、いいじゃん』
「……そうだな」
 ほろ苦い気持ちで応じると、電話の向こうでは、優也は誰かに呼ばれたのか返事をして、急に慌ただしい気配を感じさせる。今度は和彦が気をつかって、話を終わらせ電話を切った。
 時間をかけて缶コーヒーを飲み干してしまうと、誰もいない公園を眺め続けるのも空しくなってくる。
 気分転換にはなったなと、ごみ箱に缶を捨てて、諦めて帰途についた和彦だが、ガレージの扉が開いていることに気づいて駆け出す。中の様子をうかがうと、二台並んでいるはずの車のうち、英俊の車がない。
 ガレージに続く階段を下りてくる靴音に、ハッとする。スーツ姿の俊哉が姿を見せた。
 目が合ったものの、言葉が出ない。こういうとき、普通の父子ならなんと声をかけ合うのだろうかと、どこか自虐的に思ったそのとき、俊哉がいくぶん呆れたような口調で言った。
「そんな格好で外に出ていたのか。――風邪をひくぞ」
 和彦はうろたえ、視線を伏せる。
「……兄さん、出かけたんだね」
「大学時代の同期と会うらしい」
「父さんも、これからどこかに?」
「――お前が戻ってくるのを待っていた。あと十分待ってから、携帯を鳴らすつもりだった」
「ぼく……?」
 俊哉にひたと正面から見据えられ、緊張が走る。和彦は息を詰めた。
「これから、わたしと一緒に出掛けるんだ」
「どこに……」
 俊哉はゆっくりと腕時計を見遣る。
「早く着替えてこい。わたしは車で待っている」
 拒否できるはずもなく、和彦は指示に従う。急いで家に入ると、俊哉に合わせてスーツに着替え、洗面所で手早く髪を整える。
 ロングコートを抱えてガレージに戻ると、俊哉が待つ車の助手席に乗り込んだ。


 車中で和彦が、再度、どこに向かうのかと問いかけると、俊哉はある高級ホテルの名を口にした。
 なんのために、とさらに問おうとして、昨日の書斎でのやり取りが蘇る。俊哉の口ぶりから、和彦一人で〈どこか〉に向かうものだと思っていたが、どうやら俊哉本人も同行するようだ。
 俊哉がハンドルを握るという珍しい光景を横目に、こうして二人で出かけるなど、いつ以来だろうかとふと考える。
 幼い頃、和彦は、事情があって診察を受けるため病院に通っていた。忙しい家族に代わり、親戚の女性が付き添っていたが、一度だけ、俊哉が連れて行ってくれたことがあった。
 その帰り、いつもとは違う道を通っていたことを、和彦は鮮明に覚えている。遠回りというよりまったく違う目的があったようで、思えばあれが、最初で最後の俊哉とのドライブだった。
「昔、今のように車に乗せたときも、そうやって、おっかなびっくりな顔をしていたな、お前は」
「……父さんは、ぼくに興味がないのかと思ってた。見てたんだ、ぼくのこと」
「子供の頃から、何も不自由させなかったつもりだが」
 そういうことではないのだと、強い苛立ちが和彦の中で生まれる。しかし、それも一瞬だ。俊哉の言葉に、不承不承ながらも肯定せざるをえなかった。ただ、不自由はしていなかったが、和彦に選択肢は与えられなかった。
「ずっと疑問だったんだ。どうして、ぼくを医者にさせたかったのか。子供の頃は、それが父さんの希望ならと疑問にも思わなかったけど、今は――」
 いつかは佐伯家から放逐されるであろう自分には、医者になることは、ある意味最善の道だろうと、和彦は納得していたし、両親に感謝もしている。ただ、あえて医者でなくてもよかったはずだ。
 佐伯家は代々官僚を輩出している家で、少なくとも和彦が把握している限り、親戚に医者はいない。ただ、母親の実家である和泉家はどうなのかはわからない。出生の複雑さと、それを秘匿するために、和彦はずっと和泉家から遠ざけられてきた。
「――お前の母親が、望んでいたからだ」
 ぽつりと俊哉が洩らし、和彦は眉をひそめる。脳裏に浮かんだのは、感情を抑制した綾香の顔だった。すると俊哉は、こちらの困惑を読み取ったように緩く首を振る。
「お前を産んだ母親のほうだ」
 和彦は、絶句するしかなかった。そんな大事なことをどうしていままで教えてくれなかったのかと、膝の上で硬く手を握り締める。いままで話す機会はいくらでもあったはずだ。それが、車中での世間話のついでのように語られたのだ。
 和彦の実母である紗香(さやか)は、奔放で、火のように激しい気性の持ち主だったという。奔放ゆえに、姉の夫である俊哉と関係を持ち、そして和彦を身ごもった。両家でどのような話し合いが持たれたのか、結果、和彦は綾香から誕生したことになっており、戸籍には養子だという記載はされていない。
 母親は、〈火遊び〉の末にできた子供を手放したのだと、断片的に俊哉から聞かされた話と、佐伯家内での自分の扱いから推測していた和彦だが、今この瞬間、疑念を抱く。
 名しか知らなかった母親の実像に、ようやく触れられるかもしれないのだ。
「ぼくの将来のことを、話してたんだ、母さん。もっと早くに、そのことを知りたかった……」
「だとしても、何も変わらなかっただろう。あえて記憶に残さなくてよかったんだ。もう、この世にいない人間だ」
「そんな冷たい言い方しないでくれっ。〈あの人〉は、少なくともぼくに笑いかけてくれた。それに手も繋いで――」
 感情的になって溢れた言葉に、口にした和彦自身よりも、俊哉のほうが過敏に反応した。針で刺すような一瞥を向けてきたのだ。
「覚えているのか?」
「……わからない。でも、頭に浮かんだんだ。今」
 うそではなかった。覚えていると言えるほど明瞭な記憶ではない。しかし、忘れていると言えるほど明確な欠落があるわけでもない。まるで幻のようなものだ。はっきりとした輪郭を掴もうとしても、まるで靄(もや)のように手からすり抜けていく。
 昔からふとした瞬間に、誰かに優しく微笑みかけられた光景や、手を握られたり、抱き締められた感触などが蘇ることがあった。家族よりも面倒を見てくれていた親戚の女性との思い出かと、さほど気に留めていなかったが、俊哉の様子で腑に落ちた。
 胸の辺りがズシリと重くなる。急に気分が悪くなってきて、額にじっとり冷や汗が浮かぶ。和彦の顔色の変化に気づいたらしく、俊哉はわずかにウィンドーを下ろして冷たい空気を車内に取り込んだ。
「――お前は一度だけ、短い間だが実の母親と暮らしている。ただその頃に事故に遭ったショックで、心身に異変が起きた。事故に遭った前後の記憶がなくなっていると、お前を診察した医者は言っていた。そして――」
 しばらく口がきけなくなった。
 当時の自分がどのような状態だったか、和彦は覚えていない。すべて人からの伝聞で、そうだったのかと他人事のように受け止めていただけだ。今も、俊哉から聞かされて、どう反応をすればいいのか戸惑っている。
「ぼくは……、ずっと昔に、大事なものを置き去りにしてきたような感覚なんだ。今になってそんなことを父さんから聞かされて、どう反応すればいいんだ」
「何も。……ただ、心の準備はしておけ」
「それは、何に対して?」
 答えるつもりはないということか、俊哉が唇を引き結ぶ。
 和彦は、そっと俊哉をうかがい見る。いまだに十分人目を惹きつける端整な横顔に、ふとした瞬間に英俊の面影を見出す。兄弟揃って和泉家の血が濃く出ていると言われてきたが、年齢を重ねるうちに、英俊は少しずつ面差しが俊哉に似てきたように感じる。それとも、置かれた環境や自己研鑽の結果、俊哉に近づけているのだろうか。
 では、他人からは、自分と俊哉はどんなふうに見えているのか――。
 寒気を感じて身を震わせると、俊哉はウィンドーを上げる。
 当然のように俊哉が無言で自分を気遣ってくれる様子に、正直和彦は、警戒していた。これまで、必要最低限の会話すらまともに交わしてこなかった父子だ。それが、和彦が尋ねれば、圧倒的に説明が足りないなりに、答えてくれるのだ。
 水面に浮かぶ木の葉のように、和彦の気持ちは不安定に揺れる。何かとてつもない事実が、自分を呑み込もうとして大きく口を開けているのではないかと。俊哉は、無慈悲にそこに自分を突き落とそうとしているのではないかと。
「……気分が悪いから、ぼくだけ車で待っている」
 つい弱音を洩らしたが、当然のように却下された。
 車がホテルの地下駐車場へと入り、エンジンが切られると、仕方なく和彦はコートを抱えて降りた。
 エレベーターで二十階へと上がると、おとなしく俊哉のあとをついて歩く。アフタヌーンティーを楽しむ客たちでにぎわっているラウンジに入ると、軽く辺りを見回した俊哉が軽く片手を挙げた。
 窓際のテーブルに着いた女性が呼応するように立ち上がり、こちらに向かって丁寧に頭を下げた。


 ベッドに横たわった和彦は、天井を見上げたまま大きくため息をつく。本当は寝返りを打ちたいが、それすら億劫だ。とにかく、疲れ果てていた。
 午後二時頃に俊哉とともに実家に戻ったあと、和彦は何もする気力も体力も起こらず、すぐに自分の部屋に引きこもった。その後、綾香の戻ってきた気配がしたが、わざわざ一階に下りて顔を見せる気にもならなかった。英俊は、いまだ戻ってきていない。
 それでよかったかもしれない。とてもではないが、英俊の顔をまともに見られなかった。
 ようやくもぞりと身じろいで、和彦は体の向きを変える。昔から使っている本棚が視界に入り、わずかに胸が痛んだ。かつては、兄が選んでくれた本がずらりと並んでいたのだ。
 他人が放つ毒にあてられたと、和彦は苦々しく心の中で呟く。
 おかげで帰りの車の中では、俊哉とは会話を交わすどころではなかった。せめて、〈彼女〉との対面の意図について問い質すべきではあったが。
 今からでも――と、なんとか気力を振り絞って起き上がろうとしたとき、携帯電話が鳴り始める。里見との連絡用で使っているものだ。
 どうしても、自分の兄と寝ている人だという事実が、和彦の脳裏をちらつく。嫉妬とも嫌悪ともつかない感情に、胸苦しくなる。
 ためらっているうちに着信音は途切れたが、一分の間も置かず、再び鳴り始めた。里見からの電話を避けることは、実質的には不可能だ。いざとなれば実家の固定電話にかけてくることもできる。
 無駄な足掻きをやめて、ベッドを下りた和彦は電話に出ていた。
『今、大丈夫かな』
 何日ぶりかに聞いた里見の声は、不思議なほど耳に馴染んだ。前回、クリニックを訪ねてきた里見との再会は最悪に近く、もしかするともう二度と、顔を合わせることはないのではないかと、密かに覚悟すらしていたのだ。
 しかし現金なもので、何事もなかったように里見に話しかけられると、和彦はあっという間に昔の感覚へと引き戻されそうになる。一心に里見を慕っていた頃に。
「……うん。自分の部屋にいるから」
 正直に答えたあと、自分が一度は電話に出なかったことに気づき、慌てて和彦は付け加える。
「ちょっとベランダに出てたんだ。電話に気づくの遅れて……」
 ふっと里見が笑った気配がする。それだけで、わずかに身構えを解いていた。今は、里見と話すのに人の耳を気にしなくていいのだ。
「どうかした、里見さん?」
『夕方から会えないかと思って』
 電話で話すのはいい。しかし、直接会うのは抵抗があった。
 なかなか返事をしない和彦に、里見は柔らかな口調で続ける。
『君に会って謝りたいことがある。それに、きちんと話しておきたいことも』
「……それは、兄さんのこと?」
『そうだ』
「ぼくには聞く権利はないよ。里見さんの口から、兄さんのことを。もう里見さんとは……」
 恋人同士ではないし、想いを残しているわけでもない。
『聞き苦しい言い訳なんていらない、ということかな』
「……里見さん、昔より意地が悪くなったみたいだ」
 和彦は苦い口調で洩らす。一方の里見は引くつもりはないようだ。
『君のほうは、おれに話したいことはない?』
「ない……とは、言えない。偉そうなこと言ったばかりだけど、本当はいろんなことを聞きたいよ。自分に関係あることも。ないことも。知らないことばかりで、不安になる」
『何かあった?』
 言いかけて、口を噤む。すると里見がこう提案してきた。
『せっかくだから、外で夕飯を食べよう。待ち合わせ場所を指定してくれたら、迎えに行くよ』
 里見からの電話に出た時点で、こうなることは決まっていたようなものだ。
 待ち合わせ場所と時間を決めてから、和彦は一階に下りる。今晩の夕飯は外で食べてくるというメモを、ダイニングテーブルの上に残しておく。
 里見との待ち合わせ時間までまだ余裕はあったが、部屋で鬱々としているより、一刻も早く外の空気を吸いたかった。
 再びスーツに着替えて慌ただしく家を出ると、通りでタクシーに乗り込む。一息ついて背もたれに体を預けようとして和彦は、ふと後ろを振り返る。尾行を気にするのは習性だ。
 注意深く後ろを走る車を観察してから、ひとまず尾行はついていないと判断した。


 ショッピングエリアを抜けてきた和彦は、広々としたアトリウムを見回す。年末の買い出しに来ている人も多いのか、商業ビル内はどこも混雑している。簡単に買い物を済ませるつもりだったが、商品を見ているより、レジに並ぶ時間のほうが長くかかった。
 休憩スペースで少し座りたかったが、案の定というべきか、空いているイスがない。場所を移動しようにも、ここが里見との待ち合わせ場所だった。
「何を買ったんだい?」
 唐突に話しかけられて驚く。いつの間にか里見が傍らに立っていた。和彦は、持っている袋を軽く掲げて見せる。
「ダウンジャケット。荷物になると思って持ってこなかったけど、家の近所を散歩してたら、やっぱりいるなと思って」
 案内板でビル内に量販店が入っているのを見つけて立ち寄り、手頃な価格のものを買ったのだ。里見は軽く眉をひそめる。
「言ってくれたら、おれのを持ってきてあげたのに」
「いいよ。きっと、もったいなくて袖を通せないから。里見さん、着道楽ぶりに拍車がかかってるんじゃない?」
 そうかな、と呟いて、里見が自分の格好を見下ろす。シャツの上からVネックニットを着ており、いかにも仕立てのいいイタリアンカラーのコートを羽織っている。知的で品のいい外見をさらに引き立てる装いに、和彦は少しだけ見惚れてしまう。昔は、里見と二人で出かけるたびに、誇らしい気分になったものだ。
 ふいに里見に顔を覗き込まれ、危うく仰け反りそうになる。里見は険しい目つきとなった。
「……何、里見さん?」
「いや、実家できちんと休めているのかなと思ったんだ。なんだか疲れているように見える」
 相変わらず目敏いと、和彦は素直に感心する。言い繕うことはできなかった。
「ずっと気を張ってる。自業自得なんだけど。今回は、大事な用があって呼び戻されただけで、そうでなかったら――……」
「大事な用?」
 答えようとしたが咄嗟に言葉が出ず、和彦は視線をさまよわせてしまう。里見はちらりと笑みをこぼした。
「約束通り、夕飯を食べようか。ここならいろんな店が入ってるから、ちょうどいい。君が食べたいものを食べよう」
 現金なもので、実家では特に何か食べたいということはなく、用意された食事を義務として胃に収めていただけだというのに、里見と並んで歩いていると、それだけで食欲が湧いてくる。
「――昔を思い出すね。君とこうやって、よく一緒にご飯を食べに行ってた。最初はおれを警戒して、なかなか隣を歩いてくれなかったんだ。なんというか、もらわれてきたばかりの子猫みたいで、あれは……可愛かった」
 懐かしそうに目を細める里見の横顔を一瞥して、和彦は小さな声で呟く。
「里見さんは、いつでも優しかった」
「おれは……、君に優しくて甘い自分が好きだった。そして、そのことに溺れそうだった。――君を引きずり込みながら」
 和彦の医大合格が決まったあと、もう会わないほうがいいと言ったのは里見だ。大人としての配慮と苦悩を滲ませた理由を告げられて、和彦としては納得するしかなかった。不安定な時期を支えてくれた恩人の人生を、縛り付けたくはなかったからだ。
 互いを想い合っての別れは、きれいな思い出だけを和彦に残してくれた。だからこそ、こうして里見の側にいると、いまだに気持ちは揺れるのだ。
 エレベーターに乗り込むとき、たまたま里見と手が触れ合う。手の甲で感じた微かな体温を、和彦はひどく意識してしまう。ふっと隣を見遣ると、里見はかつてのように愛しげにこちらを見つめていた。
 忘れてはいけないと、自分に言い聞かせる。里見は、和彦の面影にすがりつきたかったという理由で、その兄である英俊を抱ける残酷な男なのだ。
 和彦の将来を考えてとはいえ、自分から別離を切り出しておきながら、勝手な人だと思う。だったらいっそのこと、ずっと一緒にいてくれればよかったのに――。
「和彦くん」
 里見に呼ばれてハッとする。軽く背を押されてエレベーターを降りた和彦は、足元に視線を落とした。
 里見との別離は、すべての始まりだ。たくさんの人との出会いを経て、今の和彦がいる。男たちに大事にされ、執着され、束縛されるオンナとして。いまさら引き返せないというのもあるが、何より、後悔はしていない。できないのだ。
 和彦は目についた店の看板から、どの店に入るか決める。
「今日は、午後から父さんと出かけてたんだ」
 鰻屋の奥まったテーブルについた和彦は、注文後、そう切り出す。おしぼりで手を拭いていた里見は、意外そうに目を丸くした。
「どこに……と、おれが聞いていいのかな?」
「里見さんに聞いてほしいから、話すんだ」
 和彦はちろりと唇を舐めてから、慎重に里見の表情の変化を観察する。
「――兄さんの婚約者に引き合わされた」
 里見は、こちらの意図を探るように一瞬鋭い目つきとなったが、すぐに目元を和らげた。
「なかなか強烈な女性らしいね」
「知ってるのっ?」
 反対に和彦のほうが驚いてしまい、つい声が大きくなる。店内は、夕食時にはまだ少し早く、さほど客は入っていない。誰もこちらに注意を向けていないのを確認して、和彦は声を落とした。
「里見さんも、会ったことが……」
「まさか。ただ、英俊くんがたまにこぼすのを、聞いていたんだ」
 和彦も他人のことを言えないが、里見と英俊の関係はよくわからない。割り切った関係で、互いを利用し合っているだけだと里見は言っていたが、そんな簡単なものではないと、当事者でない和彦にも断言できる。今でもつき合いのある元上司の息子と関係を持つリスクは、ささやかな憂さ晴らしの見返りとしては、抱えるには大きすぎる。
 かつての和彦と里見がそうだったように、英俊との間にも、きっと情が介在している。
「……里見さん、平気だったの、それ」
「それ、とは」
「兄さんが結婚するかも、という話」
「おれには、佐伯家のことで口出しする権利はないよ。英俊くんも納得して、出馬や結婚について話を進めているんだ」
 そうではないと、本当は言ってしまいたかった。俊哉から聞いた話では、英俊は、そのどちらにも迷い始めている。
 うな重が運ばれてきて、二人の前に置かれる。割り箸を手にしたものの和彦は、すぐには食べ始められなかった。自分でも意外なほど、昼間の出来事が澱のように重く心に沈んでいる。
「ぼくは、女性相手はスタッフや患者さんで慣れてると思ったけど、あの人は……、苦手かもしれない」
「兄弟で、感性が似ているんだね」
「どうだろ。でも、兄さんも何か感じてるのかな。だったら――」
 あえて結婚しなくてもいいのではないか。そう思いはしたものの、口には出せない。佐伯家の家柄に見合う相手を、両親は慎重に探し出したはずだ。これまで部外者として生活し、ほんの数日、実家に里帰りをして事情に触れただけの和彦に、意見は許されない。
「ぼくに求められているのは、佐伯家のための駒としての役割だ。だったらいっそのこと、家族の事情なんて何も知りたくなかった。知ってしまったから、あれこれ考えてしまう」
「君を煩わせている原因の一つだな。おれは」
 和彦は微苦笑を浮かべたあと、誤魔化すように食事を始める。
「――彼女は、何か言っていた?」
 店に立て続けに客が入り、いくらかにぎやかになってきたところで、里見に問われる。和彦はそっと眉をひそめた。
 俊哉からの口止めをあっさり反故にしたのは、英俊と関係を持つ里見には聞く権利があると思ったからだ。義務とすら言ってもいいかもしれない。
「兄さんの知らないところで、ぼくに会いたかったんだと言っていた。行方をくらましていた不肖の次男坊が、また姿を現したんだから、何かあると思われても仕方ない。どんな厄介事を抱えているのか、相手も探りたかったんだろう。まるで、尋問だったよ」
 前に鷹津から、英俊の婚約者について簡単な報告を受けてはいたが、そのときはただ漠然と、世間知らずの箱入り娘を想像したものだ。しかし、実際目の前にすると、その想像はかけ離れたものだと痛感した。
 華やかな雰囲気と顔立ちの、勝ち気そうな瞳が印象的な女性だった。将来、義父となるかもしれない俊哉が同席していることもあって、口調は丁寧ではあったが、ときおり高姿勢さも覗かせ、いくぶん和彦は気圧され気味だった。暴力を後ろ盾にした男たちの圧の強さとはまた違う、緩々と締め付けられるような息苦しさを覚えたのだ。
「……笑えるよ。ぼくは、医者として進む道に迷って、自分探しの旅に出ていたことになってた。父さんも兄さんも、ぼくの現状の説明には苦労したんだろうね」
 じわりと怒りがこみ上げてきたのは、精神的疲労のせいだけではない。他人から注がれた毒に触発されて、和彦自身が毒を放ちたがっていた。それができる相手は今のところ、事情を知っている里見しかいない。
『あなたでもよかった』
 電話に出るため俊哉が中座したとき、二人きりとなった場で婚約者は言った。最初は意味が理解できなかった和彦に、彼女は楽しげに説明してくれた。
「最初は、ぼくに、という話だったらしいんだ」
「何が?」
「結婚話。佐伯家と姻戚になれるのなら、人脈でも資金でも、兄さんの政界進出に力を貸すって、そういうことだったみたい。歳も、ぼくのほうが近いし」
 しかし現在、結婚話が進んでいるのは英俊だ。和彦の行方がわからなくなった結果、そうなったのか、実家に思惑があってのことか、帰りの車中で俊哉に確認することはできなかった。いつになく不機嫌そうな横顔を目にしたせいだ。
 俊哉にとって、今日の面談は不本意なものだったのだと、なんとなく和彦は察したのだ。
「――兄弟揃って物静かなのね、って嗤われたよ」
 ふうっと息を吐き出した和彦は、お茶を啜る。里見のほうは、和彦の話を熱心に聞きながら、いつの間にか食事を平らげていた。食べるのが早いのは、昔からだ。
「珍しいね。君が他人に対して、そんな刺々しい言い方をするの」
「ぼくは……昔から人嫌いの性質だよ。ただ、表面を取り繕うのが上手いだけで……」
「今は、それもしたくない?」
 和彦は返事の代わりに顔を背ける。
 彼女は、英俊との結婚話を進めると決めながら、その弟である和彦を露骨に値踏みしてきた。そのことがひどく癇に障り、反感を抱いた。自分でも意外だが、佐伯家そのものを軽んじられたような気もしたのだ。
「おれの誘いに応じてくれたのは、愚痴をこぼしたかったから?」
「……里見さんなら、他言しないと信用してるから。それに――」
「気に食わない相手だから、結婚を思いとどまるよう、英俊くんを説得してもらいたい、とか」
 柔らかな苦笑を含んだ声で言われると、和彦は、自分が子供の頃に戻ったような感覚に陥る。
「里見さん、そんなに意地の悪い物言いをする人だったかな」
「そうだな……。君があんまり健気だから、少し意地悪を言いたくなった」
「健気って、ぼくが?」
 きょとんとした和彦に、里見は真顔で頷く。
「英俊くんの心配をしてるだろ。彼女と結婚して幸せになれるんだろうか、って」
 和彦はドキリとして視線を伏せる。
「そんな……お人よしじゃないよ。ぼくは」
「君の人のよさは、おれが十分知ってる」
 臆面もなく里見に言われると、居たたまれなくなる。和彦は立ち上がると、不思議そうに見上げてくる里見に動揺を押し隠しつつ告げた。
「もう、お腹いっぱいだから。買い物も済ませたし、帰るよ」
「まだ早くないかな?」
 そう言いながら里見も立ち上がり、財布を取り出す。自分の分は自分で、と言う暇もなかった。伝票を手に里見はさっさと歩いていき、和彦は買い物袋を持って慌てて追いかける。結局、里見が二人分の食事代を支払ってくれた。
 なんとなく里見の斜め後ろを歩く。里見と一緒にいると、居心地の悪さがつきまとう。一方で、昔からよく知る安堵感もあるのだ。その安堵感に引きずられてはいけないと、和彦は自分に言い聞かせる。
 タクシー乗り場の案内を見つけて別れようとしたが、さりげなく里見に肩を抱かれる。
「里見さん?」
「もう少し君と話したい。おれの車で送るよ」
 穏やかな申し出とは裏腹に、肩にかかった手は容易には外せない力強さがあった。
「でも、もしかしたら家に兄さんが――」
「近くまでだよ。会わないよう気をつけるから」
 里見を振り払うこともできず、和彦はおとなしく車までついていく。乗り込む寸前、周囲を見回したのは、後ろめたさ故の行動だ。
 話したいと言った里見だが、車を運転しながら口を開こうとはしない。和彦のほうは、里見に聞きたいことがないわけではなかった。下世話と言われるかもしれないが、やはり英俊とのことだ。
 聞く権利はないのに。和彦は、ぐっと奥歯を噛み締める。
 この空間に耐え切れなくて、やはり適当なところで降ろしてほしいと言おうとして、異変に気づいた。里見が、明らかに実家に向かう道とは違う方向にハンドルを切ったからだ。
「どこに……」
「やっぱり、君を帰したくなくなった」
 里見の返答に、和彦は大きく目を見開いた。


 車で移動する間、和彦はひたすら困惑していた。隣でハンドルを握る里見は、ドライブを楽しんでいるかのように、気軽に話しかけてくる。しかし、降ろしてほしいと頼んでみると、首を振って拒むのだ。
 恫喝してくるわけでもなく、それどころか声を荒らげることすらしない里見だが、和彦を帰したくないという確固たる意志は伝わってくる。
 状況としては今まさに連れ去られているのだが、切迫感や危機感は乏しい。
 里見の真意や、英俊との関係がどうしても気になるのだ。
 話を聞いて、揺れる気持ちにケリがつくなら――と、どこか言い訳じみたことを、和彦は自分に言い聞かせる。
 膝の上で握り締めていた手をゆっくりと開く。覚悟を決めるしかなかった。
「……結局、里見さんの思うとおりになってたんだよね。昔から」
 和彦の非難がましい言葉を受け、里見は短く笑い声を洩らす。
「君には多少強引に出たほうがいいって、知ってるからね。自分からあれこれとワガママを言う子じゃなかったから」
「持って生まれた性分かな。ぼくの周囲は、そういう人……男ばかりだ」
 ピリッと車内の空気が緊張する。和彦は、あえて里見の表情を確認しなかった。
 車は、あるマンションの駐車場に入り、エンジンが切られる。戸惑う和彦に対して、里見は先に車を降りると、後部座席に置いた和彦の荷物を取り上げる。目が合うと頷かれ、車内に一人残るわけにもいかず、渋々和彦もあとに続く。
 エントランスに入ると、里見は集合郵便受の前で立ち止まる。郵便物を取り出している間、和彦は所在なくガラス扉越しに外の通りを眺めていた。
「――静かだろ」
 ふいに里見に話しかけられる。
「うん……」
「オフィス街にあるから、生活するには不便な場所なんだ。ただ、仕事に集中はできる」
「あっ、じゃあ、ここが仕事用に借りてる部屋?」
「出勤も楽だし、出張帰りとか、駅が近いから寝泊まりするにもいい場所なんだ。年相応に、家でも買おうかと考えたこともあるんだけど、独り身で、なんでもかんでも自分だけで処理していくことを考えたら、都合に合わせて部屋を行き来する生活のほうが、おれの性分には合ってるかなって」
 別れてから再会するまでの里見の生活について、思いを馳せないわけではない。魅力的な外見と、仕事での有能さを持ち合わせた人物だ。出会いなどいくらでもあったはずだ。
 巡り合わせとは怖いものだと、エレベーターで三階に上がりながら和彦は心の中で呟く。
 足を踏み入れた里見の仕事部屋は、適度に物が多く、それでいてきちんと片付いていた。
「……昔の里見さんの部屋を思い出すなあ」
 リビングダイニングで仕事をしているのか、テーブルの上には何冊もの本やファイルが積み重ねられ、空いたスペースはわずかだ。どこで食事をとっているのかと見回してみれば、どうやらキッチンカウンターで済ませているようだ。小さな食器棚には、わずかな食器類が収まっている。
 その食器棚の上に置かれた、赤い花をつけたシクラメンの植木鉢を眺めていると、コートを脱いだ里見がキッチンに入る。
「そこら辺のクッションを適当に使っていいよ。ちょっと待って。今お茶を淹れるから」
「里見さん、ぼく、あまり長居は――」
 できないというより、したくない。この部屋に連れてこられたことで和彦には、抗えない力に巻き取られてしまいそうな予感があった。里見と長く一緒にいることで、その力はどんどん強くなっていく。聞きたいことだけを聞いて、早く帰りたい。
「大丈夫。送っていくから」
 里見が背を向けたため、発しかけた言葉は口中で消える。仕方なく和彦もコートを脱いだが、素直に腰は下ろせない。
 ふと、半分ほど引き戸が開いている隣の部屋が気になった。
「……里見さん、こっちの部屋、入っていい?」
「かまわないよ。おもしろいものはないけど」
 壁際に置かれたベッドはあえて視界に入れないようにして、和彦が歩み寄ったのは、スチール製の本棚だった。専門書ばかりが並んでいるかと思いきや、意外にも写真集もスペースを取っている。一冊手に取って開いてみると、国内の自然風景を撮ったものだ。
 お茶が入ったと呼びにきた里見は、和彦が写真集を開いているのを見て、微妙な表情を浮かべる。
「それは――」
 里見の様子から、和彦は即座に理解した。
「ああ……、そうか。これは、兄さんが置いてる本なんだ」
 他人の宝物に触れてしまったような罪悪感に、慌てて写真集を本棚に戻す。食器棚の上に置かれたシクラメンの植木鉢も、おそらく英俊が持ち込んだものだろう。
 英俊の痕跡がしっかりと残るこの部屋に、自分を連れてきた里見の無神経さが腹立たしかった。
「何がしたいんだ、里見さん……」
「君が気にしていることを、知ってもらいたくて。おれと英俊くんの関係がどういったものなのか、気になっているだろう?」
「そんなことっ――」
「君はずいぶん、感情が表に出るようになった。……今日会ってから、おれに対してずっと、物言いたげな顔をしてたよ。それに、おれを責めるような目も」
 していないとは言い切れなかった。和彦が目を伏せると、里見も部屋に入ってきてベッドに腰掛ける。
「前に君が電話をくれたとき、おれはこの部屋にいた。……もう察してるんだろう? あのとき訪問者がいて、それが英俊くんだったということは」
「それなのに、連れてきたんだ」
「……君と別れてからのおれは、本当に何もない人間だった。仕事だけだ。うわべだけの人間関係を上手く構築して、なんとなくいい人だと思われて、それなりに満足しているつもりだった。だけど、ときどきふと考えるんだ。君が側にいてくれたら、この店で美味しいものを食べさせてあげたいとか、あそこに旅行に連れて行ってあげたいとか。時間が経てば記憶が薄れて、いつかは思い出すこともなくなるだろうと考えていた」
 知的な顔に浮かぶ苦悩の翳りは、里見が本心を語っていると思うには十分だ。だからこそ和彦は、焦りにも似た気持ちから息が苦しくなってくる。
 いまさらそんなことを聞かさないでほしいと、叫びたかった。
「情けないが、君が通う大学の近くを車で走ったこともある。偶然という形で、君の姿を見たかった。見るだけだ。顔を合わせて話そうなんて考えなかった」
「勝手だよ、里見さん……」
 発した声は震えを帯びていた。
「もう会うのはやめようと言ったのは里見さんだ。ぼくには新しい生活と出会いがあるから、その妨げになりたくないって、立派な大人らしいことを言った。ぼくはしっかりと覚えてる」
「そう思ったんだ。あのときは。どんなに苦しくても、君と会うつもりはなかった。実際おれたちは、十年以上もそうしてきた。きっかけさえなければ、この先何年も――。いや、一生会わなかったかもしれない」
「……それは、兄さんが、里見さんの側にいたから?」
 里見がわずかに身じろぎ、ベッドが軋む音がした。
「彼に、未来の君の姿を見ていた。君たちは顔立ちが似ている」
「でも兄さんは、ぼくじゃない」
「わかっている。だけど、君がいなかった間、おれの側にいたのは彼だ」
 里見が淡く笑み、和彦は視線を逸らす。
「里見さんは……、子供の頃のぼくが好きなんだ。里見さんにしか懐いてない、里見さんしか知らないぼくが」
「――大人になった今の君を知りたいと言ったら、教えてくれるのかい?」
 熱を帯びた眼差しを向けられた和彦は、一瞬、自分の足で立っているという感覚がなくなる。それが眩暈のせいだとわかったときには、背後の本棚にぶつかる。
「和彦くんっ」
 素早く里見が駆け寄ってきて、崩れ込みそうになる和彦の体を支える。体に回された腕の力強さを認識したとき、和彦は激しくうろたえていた。里見の顔を、目を見開いて凝視する。里見も、じっと和彦の顔を覗き込んでくる。
 我に返って身を捩ろうとしたが、動きを封じるように両腕でしっかりと抱き締められる。耳元で里見に名を呼ばれ、ゾクリとした。
「里見さん、ダメだっ」
「なぜ、おれ〈だけ〉がダメなんだ」
「それは――」
 和彦にこれ以上言わせまいとするかのように、里見に唇を塞がれる。
 拒絶の言葉はすべて吸い取られる。足元が乱れ、本棚に追い詰められながら、和彦は里見の腕の中から逃れようとする。嫌悪感からではない。一度囚われてしまっては、抜け出すのは容易ではないと本能的に悟っているからだ。
 激しい口づけに、和彦は喉の奥から声を洩らす。こんな里見は知らなかった。反応をうかがってくることなく、ひたすら利己的な欲情をぶつけようとしている。
 英俊にも、こんなふうに触れているのだろうか。
 そう考えた瞬間、ふっと抵抗を緩めてしまう。唇を離した里見が髪を撫でてきた。
「また、何か言いたそうな顔をしている」
「……兄さんじゃ、ダメなの?」
「彼とは割り切った関係だと――」
「割り切っているから、なんの情も生まれないという前提にはならないよ」
 里見がわずかにうろたえたように見えた。
「兄さんのほうは、本当に里見さんと同じ気持ちなのか、ぼくは知りたい。……兄さんがこんなふうに私物を持ち込んで、それを里見さんは置いたままにしておいて、言葉通りには受け止められないよ」
「彼を気遣っているのか?」
「よく、わからない。だけど、ぼくにとっては家族なんだ。綺麗事を言うつもりはないけど、嫌な気持ちがする。里見さんが、兄さんとは割り切った関係だと言うたびに。まるで自分が雑に扱われているみたいな……」
 違うっ、と鋭い声を発した里見に腕を掴まれて引きずられ、あっという間にベッドに突き飛ばされていた。
「君がおれを責めるというなら、おれも、君を責めたい。――どうして、何人もの男と同時に関係を持てる?」
 そう言いながら里見がベッドに乗り上がってくる。和彦は慌てて体を起こそうとしたが、肩を掴まれて動けない。
「君がやっていることと、おれがやっていることに、どれだけの差がある」
 カッとしたのは、自分たちの関係を侮辱されたと感じたからだ。決して人に誇れるものではなく、それどころか秘匿にすべきものであると自覚はあるが、だからといって、〈部外者〉に非難されたくはない。
「……ぼくは、誰かの身代わりになんてしてない。その『何人もの男』と、それぞれ向き合ってる」
 詭弁だと吐き捨てた里見が、苛立ちを滲ませた顔で和彦を見下ろしながら、片手を胸元に這わせてきた。
「里見さんっ」
「おれは知りたい。今の君の何もかもを」
「そして、兄さんと比べる……?」
 里見はもう答えず、和彦が着ているジャケットの前を開き始める。本気の気配を感じ取り、なんとか身を捩って逃れようとすると、のしかかってきた里見に、両足の間に手を差し込まれていた。
 全身を駆け抜けたのは、嫌悪感と恐怖だった。
「や、め――」
 ベッドから這い出ようとするが、しっかりと体を抱え込まれて引き戻される。敏感なものを布の上から押さえられ、和彦は声を洩らす。ファスナーを下ろされ、長い指が入り込んできた。形をなぞられて息が詰まる。気持ちは拒否をしているのに、体の奥でゾロリと蠢くものがあった。
 十数年経とうが、初めて教えられた感触は容易には体から消えないのだ。
 昔は確かに、里見から与えられる愛撫が好きだった。穏やかで優しく、たっぷりと甘やかしてくれた。ただ、愛撫だけではない。実の兄のように接してくれた里見の愛情深さに、和彦は救われて、すがりついていた。
 和彦が抵抗をやめると、里見が慎重に腕の力を緩め、耳元に唇を押し当ててくる。
「和彦くん……」
 里見がベルトを緩めようとしたとき、和彦はぽつりとこぼした。
「――……ぼくは昔、里見さんのことが本当に好きだったんだ」
 十秒ほど沈黙したあと、苦い声で里見が言った。
「今は違う?」
 時間が停まったように二人は動けなかった。
 しばらく続くかと思われた張り詰めた空気を破ったのは、玄関のドアが開閉される音だった。里見が微かに身じろぐ。和彦は、開いたままの部屋の引き戸に視線を向けた。
 スッと人影が部屋の前に立つ。その時点で和彦には、誰なのかわかっていた。それでも、顔を確認せずにはいられない。
「兄さん……」
 英俊は無表情だった。顔を隠すようにゆっくりと、中指で眼鏡の中央を押し上げる。
 和彦はこれ以上なく動揺し、急速に手足が冷たくなっていくのを感じた。一方の里見もさすがに動揺している様子ではあるが、体を起こし、当然のようにこちらに手を差し伸べてきた。
 和彦はその手を取らずに起き上がると、乱れた格好を直す。
 ベッドの側まで歩み寄ってきた英俊は無表情のままだが、顔色を失っていた。何も言わず手を振り上げ、和彦はぼんやりと見上げる。殴られても仕方ないと、一瞬にして覚悟が決まっていた。
「やめてくれっ」
 素早く里見が立ち上がり、英俊の手を掴む。和彦の目の前で二人が揉み合い、ついには英俊が、里見の頬を打った。呻き声を洩らし、もう一発。さらに両の拳で、里見の肩を殴りつけ始める。
 里見は苦しげに眉をひそめると、英俊の動きを封じ込めるように抱き締めた。しっかりと。
 和彦はそこに、二人がこれまで築き上げた時間と関係を見て取った。割り切った関係だといいながら、やはり情が介しているとしか思えなかった。
 ここにいていけないのは、自分のほうだ――。
 和彦はふらりと立ち上がると、里見の制止を振り切って部屋を飛び出した。









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