と束縛と


- 第44話(4) -


 英俊とは、いまだに一言も言葉を交わせていない。
 和彦が里見の部屋を飛び出したあと、二人の間で何があったか、当然わからない。里見との連絡用の携帯電話の電源は切ったままにしてあり、むしろ和彦のほうが、情報を遮断しているともいえる。
 英俊から詰られるのなら、甘んじて受け入れるつもりだったのだ。しかし英俊は何も言わない。それどころか、和彦とまともに目を合わせることすらしない。怒っているのか悲しんでいるかすら、推し測ることができないのだ。
 この家にいると、感情が波立つことすら抑制されるのだろうか――。
 年を越し、元日を迎え、午前中から出入りする親戚たちの接待に務めているうちに、和彦は次第に、自分の中が空っぽになっていくのを感じていた。感情が磨滅していく、という表現が近いかもしれない。
 一階に下りる途中の階段で腰掛けた和彦は、ゆっくりと手を握ったり開いたりしてみる。指先がいつもより冷たく感じる。それだけではなく、酸素が上手く体内に取り込めていないような息苦しさにまとわりつかれていた。
 早く帰りたい、と心の中で呟いてみる。声に出すのは、そうした時点で家を飛び出してしまいそうで、できなかった。
 きちんと会話をしたかった。自分の言葉にきちんと耳を傾けてくれる相手に、心に溜まったものを吐露したかった。一方で、それが今は難しいことも知っている。年末年始は、長嶺の本宅も多忙をきわめているため、こちらから電話はかけられないのだ。
 遠慮するなと、長嶺の男たちは言ってくれるだろうが。
 玄関のほうから、また客が訪れた気配がする。和彦は立ち上がろうとして、失敗した。気力が萎えかけていて、足に力が入らない。
 出奔後、おめおめと実家に戻ってきたことになっている和彦は、父方の親戚たちの間で、ちょっとした見世物状態だ。叱責され、励まされ、あれこれと詮索され、午前中だけで疲労困憊となっていた。一方の母方の親戚は――というと、誰一人として訪ねてこない。また、佐伯家の人間が出向いていくこともない。
 かつては、和彦を除いた皆で、母親の実家である和泉家を訪問することもあったが、いつの間にかその習慣はなくなっていた。両家の間で何かしら取り決めが交わされたのか、問題が起こったのか、その理由を和彦が知らされることはない。
 いつでも、和彦はこんな立場なのだ。
 視線を伏せかけたとき、足音がしてハッとする。一階の廊下から俊哉が姿を見せた。俊哉も、階段に座り込んでいる和彦を見て、軽く目を見開く。
「――……そんなところで何をしている」
「気疲れして、休んでた」
「何年もサボっていたんだ。久しぶりだと疲れもするだろう」
「この家は、ぼくがいなくても同じことを繰り返していたんだよね。だったら、いまさらぼくがいなくても、いいんじゃないかな」
 皮肉でもなんでもなく、率直な気持ちだった。意外なことに、俊哉はふっと笑みをこぼす。自嘲気味、ともいえる表情だ。
「そうだな。同じことの繰り返しだ。わたしが物心ついたときから、ずっと、な」
「……父さん?」
 和彦は反射的に呼びかける。このときには、俊哉は顔から一切の表情を消してしまう。いつもの父の姿だ。
「今来た客に挨拶をしたら、昼食をとれ。あとで部屋に運ばせておく。――お前も英俊も、年を越す前から揃って顔色が悪い。何かあったのか」
「ぼくが、兄さんを怒らせた。昔からよくあることだよ」
「だったら、他人に悟られないようにしろ。明日は家族揃って出かけるからな」
「上手くやるよ。慣れてるから」
 和彦は小さく掛け声をかけて立ち上がると、自分がこの家で課せられた務めを果たすため、階段を下りた。


 ベッドに横になって文庫本を開いていた和彦は、デスクの上の時計にちらりと目を遣る。実家に戻って気を張り続けているうえに、親戚たちの応対をして、神経を限界まですり減らした。
 さすがに今夜は泥のように眠れるだろうと思っていたが、疲れすぎてかえって目が冴えている状態だ。明日も用事があるということで、眠りが深くなりすぎるのが怖くて、安定剤には手が出せない。結局和彦は、一度は消した部屋の電気をまたつけて、文庫本の文字を目で追っている。
 とはいっても、内容はほとんど頭に入っていない。読書がしたかったわけではないのだ。
 ページを捲るたびに挟み直している栞を、そっと指先で撫でる。繊細なデザインが施された金属製のもので、三田村がクリスマスプレゼントとして贈ってくれたものだ。
 しきりに賢吾が、三田村のプレゼントの中身を気にしていたが、里帰りを終えたら教えてやろうと、密かに和彦は楽しみにしていた。おそらく、余裕たっぷりに笑いながら、趣味がいい奴だなと洩らすはずだ。
 実際、和彦はこの栞を気に入っている。実用性というより、三田村の存在を側に感じられるお守りとして。
 ただ栞を指先で撫で続けていたが、温かい飲み物が欲しくなり、もそもそとベッドから出る。お茶でも淹れてこようと、カーディガンを羽織って一階に下りた。
 おやっ、と思ったのは、誰か起きている気配がないのに、リビングの電気がついていたことだ。和彦は一旦はキッチンに向かったが、やはり気になり、お茶を淹れたあと、部屋に戻るついでにそっと覗いてみる。
 リビングには誰もいなかった。しかし、庭に面したテラス窓越しに、英俊の後ろ姿が見えた。細く煙が立ち上っており、どうやら煙草を吸っているようだ。
 一瞬、その場を離れようとした和彦だが、ふっと息を吐き出す。今度は逃げないと、意外なほどあっさりと覚悟が決まった。
 リビングのテーブルにカップを置いてからテラス窓を開けると、驚いた顔で英俊が振り返った。
「……なんだ」
 さすがに虚をつかれたのか、英俊から声をかけてくる。だがすぐに、忌々しげに唇を歪めて煙草を揉み消そうとしたので、和彦は慌てて庭に出る。
「話がしたいんだっ」
「わたしはない」
「ぼくを避けたって、何も解決しないよ。兄さん」
 うるさい、と鋭い声を発した英俊が部屋に戻ろうとし、それを引き留めようとする和彦と軽く揉み合いになる。このとき、まだ消えてなかった煙草の火が、和彦の指の付け根を掠めた。反射的に声を上げると、ようやく英俊が動きを止めた。
 火傷の痛みよりも、今は、英俊を逃がさないことのほうが大事だ。和彦は自覚もないまま、英俊の手首をしっかりと掴んでいた。
「――……放せ。火が消せない」
 手の力を抜くと、英俊が灰皿で煙草の火を消す。ずいぶん使い込んでいる灰皿だった。
「兄さん、煙草を吸うんだ」
「昔から吸ってた。たまに。どうしようもなく、イライラしているときしか……」
 自分も同じだとは言えなかった。
 フラワースタンドの隅に灰皿と煙草を置いた英俊が庭の奥へと向かい、和彦もあとに続いた。
 閑静な住宅街のため、夜更けともなると通りを歩く人も姿もなく、ひっそりとしている。鉄柵の向こう側に広がる夜の景色を、兄弟で並んで眺める。
 英俊とこんなに近い距離にいて、話ができる雰囲気になるなど滅多にないことで、和彦はいまさら緊張していた。
 冷静に、と自分に言い聞かせたところで、前触れもなく英俊が言葉を発した。
「因果応報だと思っているだろう」
「えっ?」
 和彦が困惑すると、英俊はいきなり感情を露わにする。
「わたしの今の状況すべてに対してだっ。お前がヤクザどもにちやほやされて生活している間に、わたしはっ……、この様だ」
「……兄さんほどの人が『この様』って言うなら、ぼくはどうなるんだろう」
 恵まれすぎているが故の傲慢かと、ほんのわずかに英俊に苛立った和彦だが、そうではないなとすぐに思い直す。
 いつでも、兄であるこの人は努力をしてきた。そのうえで、両親からの期待に応え続け、周囲から評価されながら、若くして現在の地位を得たのだ。恵まれすぎているというのは、英俊が積み上げてきたものの結果だ。
 だからこそ、書斎での俊哉の発言を聞いてしまった和彦は、不安を覚えるのだ。
 佐伯家の人間として相応しくあろうと必死に努力してきた英俊が、その佐伯家から『切り離された』とき、壊れないでいられるのか。さらに、里見との関係の軋みまで抱えて。
「お前は自分で選んだ結果だろう」
「それを言うなら、兄さんだって同じじゃないか。今が、選んだ結果、だろう?」
「……昔のお前は口答えなんてしなかった。気味が悪いほどな。そんな憎まれ口を叩かれるぐらいなら、昔のままのほうがよかった」
「家の中で求められるものが違いすぎた者同士、もっと話し合う――ううん、言い争いでもすればよかったのかもしれない。ぼくはそう思うよ。昔は、ただ申し訳なく感じてたから。兄さんに対して……」
 英俊のまとう空気が一変したのは、肌で感じた。和彦がハッとしたときには、カーディガンの襟元を乱暴に掴まれていた。炎を孕んだような目で、英俊が睨みつけてくる。
「どうしてお前が申し訳なさを感じるっ?」
「ここが、ぼくの居場所じゃないと思ってたからだ。自分の生い立ちを知ってて、何も感じないわけないだろうっ……」
「だが父さんは、お前を迎え入れた。お前は〈特別〉なんだ。父さんにとっては、たぶん生まれたときから」
「兄さん、そんなことを――……」
 ますます襟元を強く引き寄せられ、英俊の顔が迫る。眼差しで射殺されそうだと、和彦は息を詰めていた。
 英俊は激高していた。その理由はいくつも思い当たる。逡巡しながらも和彦は切り出さずにはいられなかった。あまりにも、英俊が苦しそうだったからだ。
「……里見さんの仕事部屋で、初めて、兄さんがどんなものに興味があるのか知った気がした。なんていうか、そういうものを持ち込んで置いておけるほど、里見さんに心を許してるんだとも思った。あそこが、兄さんにとって安らげる場所なんだ」
「やめろっ」
 乱暴に肩を突かれ、よろめいた和彦は鉄柵に背をぶつけた。英俊は肩を上下させ、相変わらず睨みつけてくる。
「――兄さんは、里見さんのことが好きなんだね」
 こう告げた瞬間の英俊の反応は、到底里見との関係を割り切っているようには見えなかった。
 確信を深めた和彦には、だからこそ伝えておかなければいけないことがある。
「もう、知っているかもしれないけど、ぼくは昔、里見さんとつき合っていた」
「つまり、自分のお下がりの男だと言いたいのか?」
「その言い方は……、自分を傷つけるだけだよ。兄さん」
「わたしに対して諭すような言い方をするなっ」
 声を荒らげた勢いのまま英俊に左頬を打たれた。衝撃に目が眩み、すぐに顔の左半分が熱くなる。
「最初からっ……、気づいてた。里見さんにとっても、お前が〈特別〉だってことは。父さんからお前の子守りを命じられて、嫌々従ってるという感じじゃなかったからな。ただの上司の子供を、どうして弟みたいに面倒を見てやれるのか、心底不思議だった。里見さんの人のよさを、愚かだとか、出世のための計算尽くだとか思いながら、腹立たしくて仕方なかった」
「……里見さんは優しい人だ」
「知っている。だけど同じぐらい、残酷な男(ひと)だ」
 痛む頬がじわりと熱を帯びてくる。和彦は強張った息を吐き出すと、心の中で応じた。多分、自分もだ、と。
「里見さんとの関係を、どうするつもり? ぼくには口を出す権利はないけど、結婚するんなら……」
「お前が倫理観を持ち出すのか。世の中、不倫してる奴なんていくらでもいる。父さんだって咎めはしないだろう。そもそも、すべての原因は父さんだ」
「その父さんの生き方を、兄さんはずっと追いかけてきてた。佐伯家の跡取りとして、官僚として」
 英俊の顔が歪む。和彦とのやり取りで、目を逸らし続けていたものを眼前に突き付けられたかのように。
「何が、言いたい……。わたしに、父さんを批判させたいのか? そうやって、家の中を引っ掻き回したいのか?」
「そうじゃない。ただ、兄さんが心配でっ……」
「ウソをつくなっ。内心、嘲笑っているんだろ。自分を痛めつけてきた兄が、無様に苦しんでいる様を」
 襟元を掴み寄せられ、再び頬を打たれた。この瞬間、和彦の頭の中で何かが弾けた。それが理性の箍だとわかったのは、低い声で英俊にこう問いかけたあとだった。
「――……苦しいんだ?」
 ハッとしたように英俊が目を見開く。和彦は打たれたばかりの頬に触れながら、痺れているせいで口が動かしにくいなと他人事のように思う。ただ、言葉を発するのは止めなかった。
「その苦しみの大部分は、ぼくのせいじゃないだろ」
「お前……」
「ずっと努力してきたのはすごいよ。だからといって、ぼくに八つ当たりしていい理由にはならない。いい加減、そのことをわかってほしい」
 重石のように胸につかえていた感情は、言葉にすればたったこれだけなのだ。同時に、恐れの対象であった兄を、自分と大差ない人間なのだと認識できていた。子供の頃は、年齢差のある英俊を大人だと感じていたが、今となっては体格差はほぼなく、おそらく力は和彦のほうが強い。
 裏の世界で、物騒な男たちに囲まれて過ごしてきた結果、否応なく精神的にも逞しくなった。
 自分はもう、痛みを与えられながら、唇を噛んで耐えていた子供ではない。
 和彦はてのひらにぐっと爪を立てる。
「……どんな理由があったにせよ、兄さんが昔ぼくにしたことは許さない」
「お前の許しなんて――」
「許さないけど、もう終わったことだと思ってる。……兄さんのこと、怖くはあったけど、嫌いじゃないんだ。ときどき優しくしてくれたことを覚えてるから。だから、今の兄さんの立場を悪くするというなら、父さんたちがなんと言おうが、もうこの家に戻ってこないこともできる。ぼくを利用したいなんて、きっと兄さんの本心じゃないんだろう? ぼくが側にいたら、苦しい思いをするとわかってるはずだ」
 英俊は小さく声を洩らしたあと、何かを訴えかけてくるような眼差しを向けてくる。しかしすぐに顔を背け、忌々しげに吐き捨てた。
「自分が満たされているから、わたしに対して優しくもなれるし、寛容にもなれるということか……。生憎だったな。わたしは、お前という弟ができてからずっと、お前が嫌いだ」
 和彦は、兄弟間のわだかまりが簡単に消えるとは考えていなかった。英俊の頑なさは知っているつもりだし、拒絶も覚悟はしていた。いつかはわずかな歩み寄りが可能かもしれないが、今は無理だ。
 言葉を交わしてそのことを確認できただけでも、自分は一歩を踏み出せた。
 さらに一歩を――。
「――兄さん」
 呼びかけると、英俊がこちらを見る。和彦は躊躇なく、英俊の左頬を平手で打った。
 何事が起こったのか理解できない様子で、英俊が呆然とする。かまわず和彦は、もう一度手を振り上げ、鋭い音を響かせた。
「今のぼくは、痛めつけられるだけの人形じゃない。憎まれ口も叩くし、殴られたら殴り返す。それだけはわかってほしかった」
 英俊は、掴みかかってはこなかった。自分がされた行為が信じられないように、ただ立ち尽くしている。その様子にズキリと胸が痛んだ。
 英俊の姿が、与えられた痛みをどう処理していいかわからず、なんの反応もできなかったかつての自分と重なる。
 ごめん、と言い置いて、和彦はその場を逃げ出していた。
 二階の自室に戻ると、途端に両足から力が抜け、その場に崩れ込む。心臓の鼓動が狂ったように早打ち、頭がガンガンと痛む。自分の行動に激しく動揺していた。
 英俊に打たれて怒ったのではなく、本当にわかってほしかっただけなのだ。和彦という人間を。
 大きく深く呼吸を繰り返し、なんとか気を静めようとする。
 鼓動は次第に落ち着いてきて、頭痛もゆっくりと引いていくが、いざ動けるようになると、今度はある衝動が抑えられなくなった。
 和彦は携帯電話を手にすると、震える指で操作する。呼出し音が留守電の応答メッセージに切り替わって諦めたものの、五分も経たないうちに、今度は電話がかかってくる。
 勢いよく電話に出た和彦の耳に、ゾクリとするほど魅力的なバリトンが注ぎ込まれた。
『――明けましておめでとう、と言っていいか?』
 胸が詰まり、咄嗟に声が出なかった。
 上擦り、震えを帯びた声を聞かせてしまっては、泣いていると思われる。和彦は慎重に呼吸を整え、できる限り感情を抑制する。
「ああ……。明けましておめでとう」
 元日ということで、今日一日で何度となく口にした挨拶なのに、とても新鮮に感じた。
「……今、電話をかけてきて、大丈夫なのか?」
『お前との電話は、何を置いても優先する。――なんだ。気をつかって、昨日、一昨日と電話をくれなかったのか。こっちも気をつかったんだが、こんなことなら、慣れない我慢なんてするんじゃなかったな』
 賢吾の声が笑いを含み、柔らかく鼓膜に沁み込む。瞬く間に賢吾という存在が全身へと行き渡っていた。
 和彦はふらふらとベッドに腰掛ける。そのまま仰向けで倒れていた。
「年末年始の本宅は忙しいから、煩わせたくなかったんだ。それに、ぼくの辛気臭い声を聞かせたくなかったし……」
『でも、電話をかけてきた』
「仕方ないだろ。……あんたの声が聞きたかったんだから」
 意地を張る気力も残っていなかった。電話がすぐに終わりそうにないと察したのか、賢吾は場所を移動しているようだ。電話の向こうはざわついており、陽気な笑い声も聞こえてくる。昨年の元日と同じなら、本宅で宴会をしている最中だったのだろう。
 急に申し訳なさを感じ、和彦はぼそぼそと告げる。
「組長が抜けていいのか?」
『みんなもう出来上がってる。かえって俺がいないほうがいいだろう』
「……そっちは、にぎやかでいいな」
『恋しくなったか?』
 和彦は思わず苦笑いを浮かべる。
「そうだと答えたら、あんたはどうするつもりだ」
『今から迎えに行ってやるが』
 複雑な事情を踏まえれば、そんなことができるはずもないのだが、あまりに賢吾らしい返答に胸がじわりと熱くなる。英俊とのやり取りで擦り切れそうになっていた心が、まるで賢吾の声音に包み込まれていくようだ。
「あんたは……、ぼくに甘すぎる。大蛇みたいに、怖い男のくせに」
『だからだ。お前をドロドロに甘やかして、俺なしじゃいられなくしてやった。俺の背負ってる蛇は、執念深くて計算高いんだ』
 だがな、と賢吾が続ける。
『一番の理由は、俺がお前に骨抜きだからだ。難儀だな、和彦。俺みたいなのに目をつけられて』
「……自分で言うな」
 和彦は体を横向きにして、携帯電話を強く耳に押し当てる。もっと側で賢吾の声を聴きたくて。
「無事に年は明けたから、あと少しがんばる。こっちでのぼくの役目はもう終わるだろうし」
『終わるのか?』
「不肖の次男坊としての役割を、果たしたと思う。引き止められることはたぶんないだろうから、予定通り帰る」
 決意表明ともいえる和彦の発言に対して、賢吾がふっと息を洩らした。安堵の吐息――ではないようだ。
『帰ってきたらきたで、こっちも大変だぞ。なんといっても俺が、総和会と派手にやらかすんじゃないかって話になってるからな』
「あんたは、そのつもり、なのか……?」
『俺は臆病で慎重な蛇だ。ただ、腹に据えかねているのは本当だ。オヤジにも、〈あいつ〉にも』
 和彦はぶるっと身を震わせる。
「……不安になる話ばかりだ」
『お前を怖がらせるつもりはないんだがな。――なかなか、上手くいかないもんだ。本来なら、実家でゆっくりしてこいと言ってやりたいところだが、互いに抱えた事情が事情だ。何より、沈んだお前の声を聞いちまうと、どうしたってこっちも身構える』
 実家に戻ってから、自分の存在や価値についてずっと向き合ってきた和彦には、賢吾とのやり取りはあまりに危険だ。何もかも放り出して、長嶺の本宅に駆け込みたくなる。
 英俊に打たれた頬と、英俊の頬を打ったてのひらが、熱を持ってジンジンと疼いていた。もっと別の熱が欲しいと、ふっと願っていた。賢吾の声音が優しすぎるせいだ。
『和彦……?』
「――さっき、ケンカしたんだ。兄さんと」
 一拍置いて、悪戯っぽく問いかけられる。
『一発食らわせてやったか?』
「一発どころか、二発……」
 声を上げて賢吾が笑う。笑いごとではないと非難すべきかもしれないが、つられて和彦も唇を緩めていた。
「……大変だったんだ。だから、甘やかしてくれ」
『何をしてほしい?』
「声が……、いつもみたいに、あんたの声を聞いていたい」
『さっきから話してるじゃねーか』
 そうではないと言おうとして、和彦は急に我に返ってうろたえる。どんな恥知らずな行為を求めようとしていたのか自覚したのだ。
「やっぱり、いい」
『そうか? 俺は、お前のいやらしい声が聞きたくて仕方ねーんだが』
 この男にはやっぱり見透かされてしまう。
 和彦はしどろもどろになって断ろうとしたが、賢吾の忌々しいほど魅力的な声には逆らえない。二度、三度と名を呼ばれているうちに、着ているトレーナーの下に片手を忍び込ませていた。
 いつも賢吾がしているように、自分の胸元にてのひらを這わせる。まだ冷たい手にざわっと肌が粟立つが、同時に、胸の突起も反応する。
「んっ」
 微かな疼きを発し始めたものを指の腹で撫でると、それだけでゾクゾクするような感覚が背筋を駆け抜ける。賢吾の声を聞いただけで、どうしようもなく欲情してしまったのだ。
 電話越しとはいえ賢吾に痴態を晒したくないと、ほんのわずかに残った理性が引き止めるが、当の賢吾が追い打ちをかけてくる。
『いつも俺がしているみたいに、やってみろ』
 何度となく賢吾に抱かれては見せてきた己の痴態が、一気に脳裏に蘇る。どんなに強い欲情に駆られても、決して和彦に乱暴なまねはしない、堪能するようにじっくりと触れてくる手指の動きは、体に刻み込まれていた。
 賢吾の言葉に逆らえず、それどころか積極的に、和彦は自らの胸をまさぐり、すぐに物足りなくなって、スウェットパンツの中に片手を差し込む。もちろん、声に出して説明したわけではないが、すべてわかっているように賢吾が深く息を吐き出した。
『――もう、熱くなってるな。和彦』
 堪らず和彦は小さく呻き声を洩らす。
『意地を張るくせに、体は素直だからな。俺が、そんなふうにした。そうだろう?』
「どう、だろうな……」
 長嶺の男がこんな言い方をするときは、当然のようにたった一つの返事しか求めていない。わかっていながら、こんなことを言ってしまうのは、結局のところ、賢吾に甘えているのだ。
『ほら見ろ。やっぱり意地を張る』
 低い笑い声に官能を刺激され、和彦は掴んだ己のものを緩く擦る。呆れるほど昂っていた。
 はあっ、と熱い吐息をこぼすと、賢吾が名を呼んでくれる。その声にすがりつくように、和彦は手を動かす。あっという間に先端が濡れ始め、指の腹で塗り込めるように撫でると、腰が震える。
『濡れてきたか?』
 狙い澄ましたようなタイミングで問われる。和彦は唇を噛んで声を堪えたが、かまわず賢吾は続ける。
『こっちに戻ってきたら、ふやけるほどしゃぶって、飲んでやる』
「……年明け早々、なんでそう、品のないことをっ……」
『興奮するだろう?』
 握り締めたものは、賢吾の言葉に呼応するように熱くしなっている。
「こんなこと、している状況じゃないのに……」
『お前一人が深刻な面をして、思い悩んだところで、何もかもがよくなるわけじゃねーだろ。ヤクザ相手に見せるようなふてぶてしさを、そっちでも発揮したらどうだ』
「そんなことしたら、ますますここでの居場所がなくなる」
 つい苦い笑みをこぼした和彦に、抜け目ない男はすかさずこう囁いてくる。
『おう。そうなったら悠々とお前を引き取れるな。とっくに骨身に沁みてると思うが、大事にしてやるぜ』
 こちらの気持ちを解すための冗談――ではないだろう。むしろ、本気であってほしいと和彦は願う。
「ワガママを言いまくって、あんたを振り回せるんだな」
『お前の言うワガママは、いつだって可愛い。控えめで、遠慮がちで。俺を振り回したいなら、もっとがんばれよ』
 賢吾との会話によって、沈み込んでいた心は完全に掬い上げられる。一時の情欲は潮が引くようになくなり、賢吾には申し訳ないが、艶めかしい声を聞かせられそうにはない。
 和彦は横たわったまま、乱れた格好を整える。それを気配で察したらしく、賢吾も行為を続けろとは言わなかった。
『――きつくなったら、いつでも電話をかけてこい。迎えに行ってやると言ったのも、本気だ』
 ありがとう、と自然に口にできた。あと二、三日で里帰りが終わることを思えば、賢吾のこの言葉は十分すぎるほどのお守りだ。
 おかげで、電話を切るのにさほど勇気は必要としなかった。
 賢吾の声の名残りがまだ耳に残っているうちに眠りにつきたいと、和彦はすぐに寝支度を調え始めた。




「――両手に花です」
 隣を歩いている〈彼女〉の言葉に、和彦は軽く首を傾げてから、斜め後ろを歩いている英俊にちらりと目を向ける。不機嫌そうに唇を歪めたまま反応しないため、仕方なく和彦が問いかけた。
「何が……ですか?」
「今のわたしが、両手に花ということです。よく似た素敵なご兄弟に囲まれて」
 なんとも答えようがなくて、和彦は視線をさまよわせる。
 英俊の婚約者は楽しそうだが、和彦はずっと困惑し続けている。前日に俊哉から、家族で出かけるとは言われていたが、場所については何も教えられなかった。そのことについては、もう仕方ないと受け入れている。和彦は従うだけだ。
 しかし、困惑するぐらいは許されてもいいだろう。
 英俊の婚約者と、その両親を交えての昼食会だと告げられたのは、移動中の車内でだった。向かう先は、婚約者両親が暮らす邸宅。
 ハンドルを握る俊哉の横顔を一瞥して、和彦は心の中で呟いた。三日前に会ったばかりではないか、と。
 和彦の言わんとしたことを表情から読み取ったらしく、俊哉は、お前はお嬢様の眼鏡に適ったようだと、シニカルな口調で応じた。
 和彦は、前を走る英俊が運転する車にぼんやりと目を向けていた。助手席には綾香が座っている。わざわざ二台の車に分乗したのは、和彦に言い含めておくことがあったからのようだ。
 つまり面談で、和彦の存在が不穏当だと判断されていれば、婚約の話は流れていたかもしれないのだ。そんな場に、大した説明もなく連れて行かれたのかと、ゾッとするしかなかった。俊哉にも、〈彼女〉にも。
 そして現在、一同に会して和やかな雰囲気の中で昼食をとったあと、親同士で大事な話があるということで、英俊と婚約者、そこに和彦も加わって、部屋を移動していた。
 大企業の創業者一族という、華やかな家柄に相応しい邸宅だった。建物だけではなく、さりげなく置かれた調度品や美術品には手間も金もかかっているのだろうと、容易に想像できる。
 佐伯家の場合、俊哉も綾香も家の中が片付いていればいいという考え方で、だからこそ飾り立てることに興味がない。他人を招いたときの体裁を整えるために購入された品はいくつかあるが、二人の好みが反映されているとは思えなかった。
 自分は一体誰に似たのだろうかと、買い物好きであることや、細々としたものを集めてしまう癖を思い返し、ついほろ苦い気持ちになってしまう。
 長い廊下を歩きながら和彦は、飾られた絵画に目を向ける。名のある画家のものなのだろうが、あいにく立ち止まってじっくりと鑑賞できる状況ではない。なんとなくだが、英俊と婚約者を並んで歩かせてはいけないと、妙な危機感が働いている。婚約者がいくら話しかけても、英俊が短い相槌しかしないため、間を取り持つために和彦が応じるハメになっているのだ。
 俊哉との約束で、今日が彼女との初体面ということになっている。英俊に勘繰られまいと、あまり親しげな雰囲気を醸さないよう、和彦はずっと気を張っている。彼女のほうも心得ているようだが、こちらの苦労も知らず、英俊はいつも通りだ。
 一階の客間に入ると、勧められるまま和彦はソファに腰掛けたが、英俊のほうは窓に近づいた。
 制止する間もなく窓を開け、そのまま外に出てしまう。
「ガーデンルームよ。うちに何回か来ているけど、英俊さんはあそこがお気に入りみたい」
 客間に隣接したガラス張りの広々としたスペースには、たくさんの観葉植物が並んでいる。英俊が何に興味を示しているのかわかり、和彦は呼び戻すのはやめた。
 ソファに座り直して、わずかに顔をしかめる。英俊の婚約者からの無遠慮な視線に気づいたからだ。
「――あなたは、政治家にはなれないわね」
「えっ」
 反射的に彼女と視線が交わった。和彦に向けられる眼差しは楽しげで、興味深げでもある。三日前は、義弟になりうる和彦をあからさまに値踏みしていたが、どうやら様子が変わったようだ。
「感情が表に出すぎ」
「似たようなことを、よく言われます……」
「でも人たらしの才能はありそう。モテるでしょう? お兄さんよりずっと」
〈英俊の婚約者〉というフィルターを通してしか見ていなかった存在から、急に打ち解けたように話しかけられて、面食らう。
 和彦はようやくまともに相手を見つめ返し、同時に、名を胸の奥で呟いた。
 西宮(にしみや)光希(みつき)。和彦より年下なのに、まるで物怖じしない、勝ち気な女性だ。
「……いえ、そんなことは……」
 まさか今の和彦の生活ぶりについてまで、光希に報告しているとは思えないが、受け答えは慎重になる。
「でも、経営者には向いてそう。この人のために尽くしたいと思わせるタイプ。うちのおじいちゃんがそれよ。物腰が柔らかくて、偉ぶってなくて。そのせいで、どこか頼りないと陰口を叩かれることもあったそうだけど、大半の人は、盛り立ててあげないと、って気持ちになるみたい。もう昔のようにバリバリと仕事をする立場じゃないけど、でも、人たらしぶりは健在。いまだに〈お友達〉が多いみたい」
 わたしね、と光希が続ける。
「おじいちゃんと同じ種類の人と、最近出会ったの。誰だかわかる?」
 話を聞いていて、ある人物の顔が脳裏に浮かんでいた和彦は、光希の反応を探りながら答えた。
「――もしかして、ぼくたちの父、ですか」
「素敵なおじさま。官僚として優秀なのににこやかで優しくて、しかもあんなに眉目秀麗。いろいろな方面から話を聞いたけど、あなたのお父様を悪く言うものは一つもなかった。若い頃から、たくさんの人から好意や尊敬の念を向けられてきたんでしょうね」
「ええ、まあ……。自慢の父で――」
「でもきっと、家族に見せる面は違う」
 きれいなネイルが施された自分の指先を眺めながら、光希が言う。
「おじいちゃん、他人からの評判のよさとは違って、家庭だと暴君だったの。今はずいぶん丸くなったけど、それでも、うちの親は逆らえない。おじいちゃんが、わたしに婿を取らせろと言うなら、そうするしかない。あなたのお父様とずいぶん気が合うようだから、縁続きになるのが楽しみなんでしょうね」
「……嫌じゃ、ないんですか」
「嫌どころか、結婚の話が出てからずっと、ワクワクしてる」
 示し合ったように二人は、ガーデンルームで観葉植物を眺めている英俊へと目を向けていた。
「あなたとお兄さん、どちらがお父様と似ているの? わたしは、楽しい人と結婚したいなあ」
 暗に、結婚相手は和彦でもかまわないと仄めかされる。正式に結納を交わしてはいないうえ、婚約の話はまだ内々でしか進めていない。つまり、取り換えは可能だという光希なりの冗談なのかもしれないが、和彦は何も答えることができなかった。
 ちょうどそこにコーヒーが運ばれてきて、ほっとする。光希から逃れるように、英俊を呼んでくると言い訳して和彦は立ち上がった。
「――兄さん、コーヒーを淹れてもらったから、一旦中に入ろう」
 窓を開けて声をかけたが、英俊は観葉植物に視線を落としたまま動こうとしない。和彦は光希の様子をうかがってから、自分もガーデンルームに入る。なんとなく窓を閉めると、いきなり英俊が言った。
「お前がこの家に入ったらどうだ」
 さきほどの光希との会話が聞こえていたのだろうかと、ドキリとする。しかし、そうではないようだ。
「彼女と話してみてわかっただろう。わたしとでは、水と油ぐらい、気質が合わない」
「そんなこと、今言わなくても……」
「経済的に余裕がある家だ。お前一人飼うぐらいできるだろう。結局のところ、わたしとお前、どちらでもいいんだ。結果として、佐伯家と西宮家が姻戚になればいいんだし、わたしが政治家を目指すことに変わりもない」
 言葉自体は辛辣なのだが、英俊の口調に刺々しさはない。どこか投げ遣りで、諦観のようなものが滲んでいる。和彦だけでなく、英俊もまた、悩みすぎて疲れているのかもしれない。
「……それはぼくじゃなく、父さんに話すべきだ。兄さんならわかってると思うけど、決断しないと、引き返せないことになるよ」
 ようやく視線を上げた英俊に睨みつけられた。
「楽なほうに流れているだけのお前に、そんな偉そうなことを言われるとはな」
「兄さんも同じだろ。父さんのあとを追いかけるだけだったんじゃないか。……そうできるだけの優秀さも勤勉さもあったから、できたんだろうけど。ぼくには無理だった」
 昨夜のやり取りを繰り返しているようだなと思ったが、互いに激することはない。ここが訪問先の家だということもあるが、感情をぶつけ合って一晩経って、物怖じすることなく〈兄〉に向かい合えた。
 頑なであるはずの英俊の中にも、何かしら思うところはあったのだろうか――。
 さすがにそんな無遠慮な質問はできないなと、和彦が微苦笑を浮かべる。
 一緒に部屋に戻ると、先にコーヒーに口をつけていた光希がにっこりと笑いかけてきた。
「ご兄弟、仲がよろしいのね」
 発言に悪意は感じられない。和彦が動揺して口ごもる隣で、英俊は苦虫を噛み潰したような顔となっていた。


 午後二時を少し過ぎて、ようやく西宮家を辞することになったとき、和彦は誰にも気づかれないよう深く息を吐いていた。自分の役目を無難にこなせたという安堵の気持ちからだ。
 親同士はどうであったかはわからないが、少なくとも、光希とは終始無難に過ごせたと思う。もっと場を盛り上げられたかもしれないが、主役はあくまで英俊と光希だ。和彦は脇役らしく二人の会話を繋ぐことに努めた。光希は機嫌を損ねなかったし、英俊も再びガーデンルームに逃げ込んだりはしなかったため、働きとしては十分のはずだ。
 和彦は、帰りも俊哉の運転する車に同乗し、わざわざ見送りに出てくれた光希の姿をサイドミラー越しに見つめる。
 別れ際、英俊にも言葉をかけていたが、和彦には『近いうちにまた会いたいな』と耳打ちしてきた。言葉の深意は――考えるのはやめておいた。
「――明日、帰るよ」
 信号待ちで車が停まったのをきっかけに、和彦は切り出す。なるべく自然にと思ったが、声はわずかに上擦っていた。
 俊哉は前を見据えたまま唇に薄い笑みを浮かべる。
「どこに」
「どこに、って……」
「総和会と長嶺組、父親と息子で、お前の所有権を争っているんなら、お前がどちらを選んでも、波風が立つ。おとなしくこちらにいたほうが、結果として長嶺の男たちのためになるんじゃないか。息子とは面識はないが、父親のほうは狡猾で老獪な狐だ。揉めたところで、息子が痛手を負うだけだ」
 実の父からこんなことを言われて、本来であれば消え入りたくなるべきなのだろうが、和彦は別の想いに囚われていた。俊哉は、長嶺の男――というより、守光の性質を知り抜いている、と。
 俊哉と守光の関係を今こそ問おうとしたが、言葉を発したのは俊哉が先だった。
「お前の用は終わってない。むしろ、重要なのはこれからだ」
 和彦は目を見開いて俊哉の横顔を凝視する。
「どういう意味……」
「言っておいただろう。行ってもらう場所があると」
「でもそれはっ――」
 誰にも知らせず、ホテルで光希と会うことではなかったのか。和彦はそう思い込んでいたが、しかしそうではなかったと、俊哉の反応が物語っている。
「今からお前は、和泉の家に向かうんだ」
 すぐにはピンとこなかった。ようやく、母親の実家を指しているのだと理解する頃には、車は走り出している。
「お前の母親の遺産に関する話だと言っていた。が、もちろん、それだけではないだろう。和泉の人間はずっと、お前に会いたがっていたが、そうできない理由があった。旧家ならではのしがらみと、わたしが拒絶していたからだ」
「母さんは……、違うよね。ぼくを手放したがっていた」
「仕方がない。お前の誕生については、身内であるのに綾香は蚊帳の外に置かれていたからな。知ったときには、すべてカタがついていた。だから綾香は――実家である和泉の家を憎んでいる。もちろん、原因となったわたしのことも」
 俊哉の淡々とした言葉が、和彦の胸に深く突き刺さる。その憎んでいる実家に、綾香は和彦を養子に出したいと願っていたのだ。
 正確には、〈戻したい〉と表現したほうがいいのかもしれない。
 最初から事情を話してくれればよかったのにと、俊哉を責めたい気持ちがないわけではない。家族それぞれが知らされていない事情があり、すべてを把握しているのは俊哉だけ。そうやって長年、家族としての形を保ってきたのだと思うと、俊哉のおそろしいほどの利己主義と、孤独を感じ取る。
「――……まだぼくに、知らせてないことがあるんだよね?」
「わたしは、お前には何もかも見せてきた。知らないというなら、お前が忘れているだけだ」
 実家に戻ってから、俊哉と話すたびに気になっていた迂遠な物言いについて、和彦はずっと、厄介な立場にいる自分に立ち入られたくないからだと考えていた。うそも隠し事も下手な和彦に情報を与えてしまっては、いつかは長嶺の男に筒抜けになると、そう危惧して。
 しかし、そうではないと、ここに至って薄々とながら気づく。
 微かに震えている自分の手を、和彦はきつく握り締める。
「完全に忘れたままならそれでよかったが、そうじゃない。話していてわかったが、お前の中には確かに記憶が残っている。中途半端に、忌々しいほど優しい形でな」
「本当の、母さんのこと……」
「お前を和泉の家から遠ざけたかったのは、そのことがあるからだ。お前が子供の頃は、また口が聞けなくなるような精神状態にはしたくないと理由をつけて、向こうの家に連れていかなかった。成長してからは、勉強が忙しいところに余計な負担はかけたくないと。大人になってからは、仕事に夢中で実家に寄りつきもしないとも言ったな。とにかく時間を稼ぎたかった」
 不穏な影がぴったりと背に張り付いたような、嫌な感覚が生まれた。少し息苦しさを覚え、和彦は大きく深呼吸をする。
「わたしなりの人生設計があった。概ね予定通りだったが、狂いが生じた。……きっかけは、長嶺の男と出会ったことだろうな」
「……ぼくが? それとも、父さんが?」
 俊哉は答えなかった。
 車を走らせている途中、無機質な着信音が鳴り始める。俊哉のジャケットのポケットから聞こえてくるが、車を停める気配も見せない。
「おそらく、英俊だろう。車がついてきていないことに気づいたんだな」
「それじゃあ、兄さんと母さんにも、何も言わず?」
「あの二人には関係のないことだ」
 関わらせたくない、という気持ちからなのだろうが、どうしてこういう物言いしかできないのかと、詰りたくなる。
「――ぼくと父さんにとって大事なことが、和泉の家にはあるんだね」
「杞憂で済めばいいが、わたしの悪い予感は、だいたい当たる」
 車が向かった先は、ターミナル駅だった。周辺にある駐車場に車を停めた俊哉は、自身のブリーフケースから取り出した封筒を和彦に渡してきた。
「中に、新幹線の切符が入っている。それと地図も。財布は持ってきているか?」
「う、ん……」
「一応、いくらか入れてある。着替えは適当に買い揃えて持って行け。今から出発だと泊まりになる」
 俊哉は素早く周辺を見回してから、携帯電話について問うてくる。客先でまで連絡を気にする相手はいないため、持ってきていないと答えると、こう釘を刺された。
「わかっていると思うが、自分の居場所について誰にも話すな。面倒が増えるだけだ」
 そこで和彦は、ああ、と声を洩らしていた。
「父さん、尾行を気にしてる?」
「ヤクザ者と関わると、どうしても神経質になる」
「……尾行はついてないよ。何度か確認していたけど、同じ車がついてくることはなかった」
 俊哉の微妙な表情の変化を目の当たりにして、和彦は自分の失言を知る。普通の人間は、後続車の存在などいちいち確認しないのだ。
 封筒をコートのポケットに仕舞って車を降りようとする。すると俊哉がいくらか沈んだ声で言った。
「――……和泉の家から戻ってきたとき、お前はもう、いままでのような目でわたしを見てくれないかもしれないな」
「どういう目?」
 振り返ると、前を見据えたまま俊哉はわずかに眉をひそめていた。苦しげに。
「子供の頃から変わらない、物言いたげな、訴えかけてくるような目だ」
「たぶん、何があってもぼくは変わらないよ。まだ父さんには聞きたいことがあるんだ。うるさいと言われても、教えてもらうまでしつこく話しかけるよ」
 車を出る瞬間、強い不安に駆られたが、和彦は思い切って地面に降り立つ。あとは振り返ることなく、急ぎ足で駅に向かった。









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