と束縛と


- 第45話(1) -


 こぢんまりとした駅を出た和彦は、白い息を吐き出しながら、その場に立ち尽くしていた。
 見慣れない風景に、澄み切った空気と吹き付けてくる風の冷たさ。それら一つ一つを丹念に確認してから、和彦はゆっくりと辺りを見回す。
 コンビニと喫茶店、ビジネスホテルにガソリンスタンド。目についた建物を心の中で羅列してみたが、すぐに後が続かなくなる。新幹線から在来線に乗り換えて、窓の外を流れる景色がどんどん変化していく様子を眺めてはいたが、和彦の感想としては、長閑な地方都市にやってきたのだなという一言だった。
 列車から降りたのは和彦以外には三人で、あっという間に駅から立ち去ってしまう。尾行がついていないのは確実だ。
 和彦はボストンバッグを肩にかけ、すでに冷たくなりかけている手を擦り合わせる。俊哉の指示通り、泊まりに必要な最低限のものは、新幹線に乗る前に慌ただしく買い揃えた。せめて、事前に教えてくれていればと、今になって苛立ちを覚える。
 おかげで、お守り代わりとしていた、千尋と三田村からのクリスマスプレゼントを持ってこられなかった。賢吾の香水だけは、実家を出る前につけてきたが、時間とともに香りは淡くなり、もうすぐ消えてしまうだろう。
 唯一、南郷から贈られた手袋は、コートのポケットに突っ込んだままだったというのは、皮肉というしかない。
 物に罪はないからと、和彦は言い訳のように胸の中で呟きながら、手袋をする。
 俊哉からのメモを取り出し、目的地までの道程をもう一度確認する。簡潔さを極めたような内容で、和泉家の住所と降りる駅しか記されていないのだ。一応、和泉家の電話番号も書いてはあるが、まさか、迎えに来てほしいと連絡できるはずもない。
 雪もちらついており、立ち尽くしているわけにはいかない。和彦は駅に戻ると、案内所で移動方法などを聞いてから、バスの時間も確認し、コンビニで買い物をして小銭を作ってくる。
 バスがやってくるまでしばらく待つことになり、いっそのことタクシーを使おうかと考えなくもなかったが、あまり急いで着きたくないという思いもあり、和彦の心中は複雑だ。
 熱い缶コーヒーがすっかり冷めた頃にバスがやってきて、急いで飲み干して乗り込む。
 車内は暖房がよく効いており、ほっとして手袋を外す。乗客は和彦以外に中年の女性二人連れと、小学生らしき少年が乗っていたが、五つ目の停留所に停まったときには全員降りてしまい、和彦だけが取り残された。
 バスは町を通り過ぎ、山間に通る道を走り始める。カーブに差し掛かるたびに和彦は体を前後に揺らし、慣れていないと車酔いしそうだと、心配になってくる。
 ただそれも長い時間ではなかった。木々に覆われた変わり映えしなかった景色が一変したのだ。満々と水を湛えた湖が視界に飛び込んできて、身を乗り出す。湖にかかった橋を渡り切ったところでバスが停まり、たまたま近くにかかった案内板から、貯水湖なのだと知る。
 本当に記憶にない景色ばかりだと、和彦は座席に座り直した。


 案内所で教えてもらった停留所名がアナウンスされたとき、和彦はバスの振動と暖かさのせいで、ぼんやりとしていた。我に返り、慌てて降車ボタンを押す。いつの間にかバスには、和彦以外の乗客がちらほらと乗っていた。
 降り立った場所の周囲は広大な田畑となっており、遠くに人家が見えている。
「……今日中にたどり着けるかな……」
 不安から、ぽつりとこぼした和彦だが、運よく畑仕事をしている人を見つけて声をかける。
 あからさまに胡乱げな表情を浮かべられたが、和泉家の名を出すと態度は豹変する。ある方向を指さし、この道の突き当たりにある〈屋敷〉が和泉家だと、愛想よく教えてくれた。
「屋敷……」
 きれいに区分された土地のうえ、道はまっすぐに整備されているため、見通しはいい。確かに突き当たりに何か建物がある。
 和彦は礼を言って立ち去る。
 歩きながら、寒さが麻痺するほど緊張していた。万が一にも面罵されるような事態になれば、これ幸いと逃げ帰るかもしれない。和泉家での自分がどんな存在なのか、あえて最悪な想像をしておくほうが、何があっても精神的に楽だ。
 ようやく道の突き当たりまで来たとき、和彦の額にはうっすらと汗ばんでいた。
 古めかしくも手の込んだ工法で造られているとわかる土塀がずっと続いており、ようやくたどり着いた門は、家の格を感じさせる立派な数寄屋門だ。石階段を上がって表札を見ると、〈和泉〉と彫られている。
 和泉は元は豪農の家で、山林やそれ以外の土地も多く所有しており、その関係から企業人との交流も盛んだったという。一時期は投資でも成功を収めており、地元での権威は絶大だと、ずいぶん前に俊哉が話していた。
 そんな家で誕生し、違法な形で養子に出された自分に、いまさらどんな話が――。
 門の前に立ったまま、なかなかインターホンを押せないでいた和彦だが、閉じた門の向こうから人の話し声と足音が聞こえてきて、動揺する。一瞬、どこかに隠れようかと思ったが、そんな場所はどこにもない。
 そうしているうちに門が開く。
「先生っ、上着を着ないと風邪引きますよ」
「いいよ、いいよ。車はすぐそこなんだから」
 気安い調子で会話を交わしながら、二人の男女が門から出てくる。
「あっ」
 思わず声が洩れたのは、風で煽られた白衣の裾に目を奪われたからだ。
 和彦の声が聞こえたのか、白衣を羽織っている人物がこちらに視線を向けた。優しげな整った顔立ちに、温和な雰囲気を漂わせた五十代半ばぐらいの男性だ。そのすぐ後ろについているのは、ナース服の上からダウンジャケットを着込んだ四十歳前後の女性で、往診カバンを抱えている。
 一目見て、この家に往診に訪れたのだとわかった。
 まだ三が日なのに大変だなと思いながら、和彦は会釈して見送ろうとしたが、男性のほうは何かに気づいたのか、驚いたような表情となる。
 そして、すぐ側までやってくると、食い入るように和彦の顔を見つめてきた。
「あ、の……」
 戸惑う和彦に対して、男性は取り繕うように笑いかけてきた。
「ああ、ごめんなさい。昔の知人によく似ていたものだから、もしかして身内の方なのかと思って」
 雰囲気そのままに、口調も柔らかだった。和彦は数回目を瞬いたあと、いまさらながら、ここは〈母親〉の生まれ育った地なのだと実感する。しかも、実家の前だ。いくらなんでも誤魔化すのは無理がある。
「……この家の主の孫、です」
 やっぱり、と洩らした男性は、ふっと笑みを消すと、気遣わしげな視線を門の向こうへと投げかけた。それだけで、和彦も不穏な気配を感じ取る。
 病院が休みであるはずの三が日に、往診を頼むぐらいだ。誰かに、何かが起こったのだ。
 本当に自分はこの地を訪れてよかったのだろうかという思いは、移動中ずっと胸を塞いでいた。そして今、和彦の中に過ったのは、自分は疫病神なのではないかという考えだ。
「ご高齢だからね。少しでも体調で気になることがあれば、いつでもお呼びくださいとお願いしているんだよ。杞憂で済めばそれでいいし、万が一にも何かあれば、すぐに大きな病院への入院の手続きができる。今回は、杞憂のほうだ」
「そう、ですか……」
「去年からずっと、お孫さんと会えるのを楽しみにされていたんだ。少し興奮したのかもしれないと、ご本人は笑っていらっしゃったよ」
 ここで車のクラクションが短く鳴らされる。看護師の女性が運転席から身を乗り出して、こちらを見ている。
「ああ、いけない。これから、新年の集まりにお呼ばれしているんだ」
 そう言って男性は車に駆け寄ろうとしたが、ふいに立ち止まって和彦を振り返る。さきほどまでとは一変して、真剣な顔をしていた。
「一つ、不躾な質問をしていいかな?」
「えっ」
「――君の年齢が知りたい」
 なぜ、と思わなくもなかったが、男性が和泉家から出てきた医者ということもあり、和彦は素直に答える。
「来月で、三十二になります……」
「三十二……。そうか、君が――」
 何事か言いかけてから、男性は唇を引き結ぶ。反射的に和彦は尋ねていた。
「もしかして、ぼくのことを知っているんですか?」
「君のお母さんを知っているんだ。……本当に、〈紗香さん〉によく似ている」
 男性の言葉を頭の中で反芻してから、和彦は大きく目を見開く。呼び止めようとしたときには、男性は車に乗り込みドアを閉めていた。
「あのっ――」
 和彦が石階段を駆け下りるより先に、車は走り去ってしまう。
 少しの間、その場に立ち尽くしていたが、いつまでもそうしているわけにもいかず、インターホンを鳴らす。応じたのは元気な女性の声だった。名乗ると、数秒の間のあと、慌てた口調ですぐに迎えに出ると言われる。
 その言葉通り、パタパタと走ってくる足音が聞こえてきて、門が開く。出迎えてくれたのは、割烹着姿の中年女性だった。
「寒い中、お待たせしましたっ。どうぞお入りください」
 大きな声に面食らった和彦だが、満面の笑顔を向けられて、門を潜る。
 まず驚いたのは、目を瞠る敷地の広大さだった。土塀に囲まれてはいても閉塞感が一切ないのは、露地から見渡せる景色のよさのおかげだろう。
 寄棟屋根の大きな平屋が母屋で、渡り廊下で別棟が繋がっている。さらに、ざっと確認できただけでも、白壁の土蔵が三つ、納屋らしき建物もある。広々とした庭の先にはなだらかな坂道があり、そこから山へと上がれるようだ。ただ、ここからの位置では、和泉家の全容を見ることはできない。
 一つの集落がすっぽりと収まっているみたいだなと、観光地を訪れたような感想を抱きつつ、和彦は玄関に入る。
 廊下を歩いていた白猫といきなり目が合った。さらに、下駄箱の上にはトラ猫が。見知らぬ他人がやってきたというのに警戒する様子もなく、香箱座りで寛いでいる。
「このお家、猫が多いんですよ。あっ、猫は大丈夫ですか?」
 靴を脱いだ和彦はスリッパに履き替えながら、表情を緩める。
「はい。飼ったことはありませんが、好き、です……」
「昔は、外飼いがほとんどだったんですよ。お米とか蔵に保管してあって、ネズミ駆除のために。でも今は、その必要もなくなったんですけど、不思議と猫が居ついちゃうんですよ。旦那様も奥様も、寂しくなくていいからっておっしゃって、みんな引き取られて」
 肉付きも毛並みもいい猫たちは、ずいぶん可愛がられているようだ。和彦はトラ猫に触れてみたかったが、機嫌を損ねるのを恐れてやめておく。
 案内されて廊下を歩いていると、夕食の準備をしているのか、いい匂いが漂ってくる。医者の往診を頼む事態が起こったにしては、張り詰めた空気のようなものは感じない。
 ただ、静かだ。人の気配はあるが、にぎやかな話し声というものは聞こえてこない。今この家では、祖父母の他に誰が暮らしを共にしているのか、そんなことすら和彦は知らない。
 ある部屋の前で立ち止まった女性が、板戸の向こうに声をかける。
「奥様、和彦さんが到着されましたよ」
 心臓の鼓動が大きく跳ねる。和彦は息を詰めると、スッと背筋を伸ばした。
 ボストンバッグとコートを女性に預けてから、部屋に入る。座卓についた高齢の女性がじっと和彦を見つめていた。着物姿だからというだけではないだろう。凛然とした佇まいに和彦は気圧され、緊張すら一瞬忘れてしまう。
 声が出ない和彦に対して、高齢の女性は穏やかな笑みを口元に湛えると、座布団を外して畳の上に正座し直す。そして、深々と頭を下げた。
「――お帰りなさい。和彦さん」
 まさか、仰々しい挨拶で出迎えられるとは想像していなかった和彦は、慌ててその場で正座して、同じく頭を下げる。
「長らくご無沙汰しておりまして、申し訳ありません」
「あなたが謝ることではありません。むしろ悪いのは……」
 ここで一旦言葉が途切れたあと、頭を上げるよう言われて従った。改めて向き合うと、にっこりと笑いかけられる。こんな表情を目にしてしまうと、勘違いしそうだった。
 自分は、和泉家に歓迎されていると――。
「あの……、おばあ様、と呼んでも、いいですか?」
「小さい頃のように、〈ばあちゃま〉でもかまいませんよ」
 和彦が曖昧な表情を浮かべると、祖母である和泉総子(ふさこ)はわずかに顔を伏せた。このとき、肩の上で切り揃えられた白髪がさらりと揺れる。
「やっぱり、覚えていませんか」
「すみません……」
「あなたは悪くありません。悪いのは、わたしたちです。……佐伯の家では、ずいぶん肩身の狭い思いをしてきたでしょう。あの娘(こ)は、気位が高いうえに、強情なところがありますから。紗香の子に冷たく接しているのではないか、ずっとそのことが気がかりでした」
 総子は、和彦が置かれていた環境をどこまで把握しているのか。それを問おうと口を開きかけたとき、板戸の向こうからさきほどの女性が呼びかけてきた。それを受けて総子が立ち上がる。
「込み入った話を始める前に、まずは〈じいちゃま〉に顔を見せてあげてください。ずいぶん楽しみにしていたのですよ。うちの人は特に、あなたを可愛がっていたから」
『可愛がっていた』という言葉に、和彦は不思議な感覚に陥る。自分の覚えていない自分が、和泉家の人たちの記憶には刻まれているのだ。予想外に温かな総子の対応に、緊張も忘れて困惑する。
 廊下に出ると、総子の口から女性を紹介された。
「彼女は、君代(きみよ)さん。昔から住み込みで働いてもらっています。他に、何人か。機会があれば、あなたにも紹介しましょう」
「昔から……」
 和彦の呟きが聞こえたのか、総子が説明を続ける。
「昔は手広く商売をやっていた家だから、その手伝いのために大勢の人たちが住み込んだり、通っていました。家を空けることが多かったわたしに代わって、娘二人の面倒見てくれる人もいて。それが、君代さんのお母さんでした。――都会で暮らしているとピンとこないかもしれませんが、ここは人同士の繋がりに歴史があります。そして濃い。あなたをもっと早くに、ここに呼べなかった理由でもあります」
 縁側に差し掛かり、敷地の様子を見ることができる。別棟の電気はついておらず、人がいる気配は感じられない。
「……ずいぶん、静かですね」
「大勢の人が出入りしていたのは、十年以上も前の話です。今は、商売を畳んだり、この辺りのいくつかの田畑以外は、貸し出すか、処分しましたから。あとの世代に苦労と面倒を背負わせたくないというのが、わたしと主人の考えです」
 途中、総子に言われて洗面所に立ち寄り、丹念に手を洗う。ガラス戸の部屋の前で差し出されたマスクをしてから、ようやく和彦は祖父である正時(まさとき)との対面を果たすことができた。
 ベッドに横たわる正時は酸素マスクをつけており、深くゆったりとした呼吸を繰り返していた。眠っているかと思ったが、和彦たちの気配を感じ取ったように目を開く。総子が顔を寄せて告げた。
「和彦さんが来てくれましたよ」
 意識ははっきりしているようで、正時の視線は迷うことなく和彦に向けられ、表情が和らぐ。何か言おうと正時は唇を動かしたが、すぐに咳き込み、代わって片手を布団の下から出した。意図を察し、和彦は痩せた手を握り締める。ドキリとするほど熱く、かかりつけ医を呼んだのはこの熱が理由なのかもしれない。
「和彦です。顔を出すのが遅くなりました」
 よく来てくれたと、咳が落ち着いてから、絞り出すような声で正時が言う。勘違いなどでなく、総子同様、和彦の訪問を歓迎してくれているのだ。
 傍らの総子を見遣ると、嬉しそうに笑みを湛えている。正時はまだ話したそうにしていたが、宥めるように総子が言葉をかける。
「熱が下がってから、思う存分話してください。和彦さん、ゆっくりしてくれるそうですよ」
 一瞬視線が泳いだ和彦だが、すぐに頷く。この場で否定できるはずもなかった。なんにしても、今日は泊めてもらうことになる。
 明日の予定は、明日考える。
 短い対面を終え、最初に通された部屋に戻りながら総子が教えてくれた。
「心臓が、だいぶ弱っているんです。年齢が年齢ですから、仕方がないんでしょうけど。――この家に婿に入ってくれてから、とにかく一生懸命働いてくれた人で、いい歳になったら、さっさと隠居して二人でのんびりしましょうねと話していました。でもお互いの性分で、それが無理で……。娘の一人を亡くし、もう一人とは疎遠になり、なんのためにこの家を支えてきたのかしらと考えてばかりで」
 隣を歩く総子の横顔は、柔和な表情から、何かを決意したような硬いものへと変化していく。ここでやっと和彦は、綾香に似ているなと感じた。つまり、実の母である紗香とも――。
「……あの、母の写真は残っていますか? あっ、ぼくを産んだ人のほうの……」
「あります。でも、写真を見るかどうかは、わたしの話を聞いてから判断したほうがいいでしょう」
 和彦は無意識に苦い顔となる。
「ぼくの出生の件なら、今はそれは……」
「そのことではありません」
 立ち止まった総子が板戸を開けてから、和彦を振り返る。
「あなたは子供の頃、実の母親に――紗香に殺されかけたのですよ」
 和彦は、総子の発言をすぐには理解できなかった。数瞬、呼吸すら忘れる。
「ぼく、が……」
 総子に手を取られてなんとか部屋に入る。ぎこちなく座布団に腰を下ろして愕然としている間に、君代がやってきて静かに二人分のお茶を出すと、すぐに部屋を出て行った。
 それを待って総子が再び語り出す。
「紗香が当時、精神的に不安定だったというのは、言い訳にはならないでしょう。ただ、それが原因で善悪の区別がつかなくなり、母親としての本能が暴走したと、考えています。親としては、そう願わずにはいられなかった」
「……ぼくは、生まれてすぐに、佐伯家に引き取られたと聞いています。それがどうして、母が、そんな――」
 ここで和彦は、俊哉から言われたことを思い出す。
「父に言われました。ぼくが、短い間一度だけ、母と暮らしたことがあると。そのときに、何かあったんですか?」
「『暮らした』というのは、俊哉さんにしては、婉曲な表現ね」
 総子の口調がわずかに皮肉げだったのは、気のせいではないだろう。
「まずは、紗香について話しましょうか。その様子だと、あまり教えてもらってはいないのでしょう?」
「どういう人だったかということは、ほとんど何も……」
 わずかに教えられたのは、奔放で、火のように激しい気性の持ち主だったことぐらいだが、次の総子の言葉を聞いて、和彦は目を丸くした。
「――子供の頃からおとなしくて、手がかからない子でした。あまり自己主張もせず、親に逆らうこともなく……。綾香とは対照的な姉妹でしたよ。外に出て自立して、自分で見つけた相手と結婚した綾香の代わりに、婿を取って、この家を守っていくとも言ってくれて」
「婿?」
「紗香には婚約者がいました。和泉家と古いつき合いのある家の次男で、子供の頃からお互いを知っているという安心感もあって、あとはいつ式を挙げるかという話にまでなっていました。でも、そんな紗香の前に現れた男性がいた」
「ぼくの父、ですか?」
「いいえ」
 えっ、と声を洩らした和彦の顔を、総子はしみじみといった様子で眺める。
「和彦さんの今の姿を見たら、紗香は涙を流して喜んでいたかもしれませんね。願っていた通りの子に育ってくれたと。俊哉さんから、あなたを医者にしたいと考えていると連絡をもらったとき、止めるべきか悩んだけど、今となっては正解だったのでしょうね。きっと、親であるわたしたちより、俊哉さんは紗香のことを理解している。だからこそ、憎くて仕方ないときもあったけど……」
「……医者にしたいと、母が先に言っていたようです」
『母』という呼び方が、どうしてもしっくりこない。戸籍上の母親である綾香に対しても、『母さん』と呼ぶことに、和彦はずっと引け目のような感情を抱き続けていたぐらいだ。和彦にとって母親とは、手を伸ばしても届かない幻のような存在なのだ。そのため思慕の念を抱くのは難しい。
 堪らず、総子にこう訴えていた。
「あの、母を名前で呼んでもいいですか? 頭ではわかっているんですが、まだ混乱していて……。ぼくを産んでくれた人は、ずっと前に亡くなったと聞かされていたし、記憶からも抜け落ちているんです。それが、ここにきて急に、存在がはっきりとした輪郭を持ち始めて、なんだか――」
 怖い。知りたいはずなのに、知ることが怖いのだ。そこには、自分がいままでとは違う生き物になってしまいそうな危惧も含まれる。
「呼びたいようにお呼びなさい。母と呼ぶことに抵抗があるのなら、それは仕方のないことで、あなたは悪くありません」
 ただ、と総子が続ける。
「紗香が、本当にあなたの誕生を望んでいたことだけは、知っていてほしいのです。あの子なりに必死に考えて、足掻いた結果だとしても」
「父も、同じ気持ちだったと思いますか?」
 総子が一息つき、湯飲みを口元に運ぶ。和彦はじっとその行動を見守っていた。
 どんな返事があったとしても受け止めるつもりだったが、総子が口にしたのは意外なことだった。
「わたしは本当は、あなたは俊哉さんの血を引いていないのではないかと思っています」
 和彦は、自分でも不思議なほど冷静だった。実の母親に殺されたかけたと告げられただけで、十分すぎるほど衝撃を受け、まだ気持ちが持ち直していないところにこの言葉だ。もう、どう驚いていいか自分でもわからなくなっていた。
「さっき言われた、母の……、紗香さんの前に現れた男性、ですか?」
「紗香は、俊哉さんとの子だといい、俊哉さんも、それを認めた。だけど当時、紗香が想いを寄せていたのは――」
 当時医学部に通う学生だったと総子は言った。学生の父親が、正時たちの働きかけによってこの地域に開業した病院の医者で、和泉家のかかりつけ医でもあった。住居の世話までしており、いわゆる家族ぐるみのつき合いがあったのだという。
 その繋がりで、父子揃って和泉家にも顔を出すことがあり、紗香と知り合うこととなった。
「そのときの学生さんは、立派なお医者様になりました。都会の大きな病院で勤めたあと、こちらに移住してきて、診療所を開いたのですよ。お父様のように、この家のかかりつけ医になってくださった。今日も、年が明けたばかりだというのに、主人のために駆け付けて……」
 だから紗香は、わが子を医者にしたかったのかと、和彦は詰めていた息を吐いた。
 さきほど門の前で出会った、白衣を羽織った男性を思い出す。優しげな整った顔立ちで、温和な雰囲気と穏やかな口調はあまりに俊哉とは対照的だ。
「紗香と俊哉さん、それに先生との間で何があったのか、わたしにはわかりません。紗香は頑なに口を閉ざしたまま逝ってしまったし、俊哉さんは曲者。先生は……、何も知らされていなかったのかもしれません」
「紗香さんは、その先生が好きだったんですね。一方の父にも、妻子がいた。そんな二人が、どうして……」
「一度紗香が、まだ学生だった先生と結婚したいから、婚約をなかったことにしたいと言ってきたことがあります。わたしと主人が猛反対したら、それはもう、絶望したような顔をしていました。それからしばらくして、あなたを身籠っていると告白してきました。しかもその場に伴ってきたのは、よりによって自分の姉の夫。あのときの二人は、道ならぬ恋に浮かれているとか、過ちを犯してうろたえているとか、一切そんな素振りはなく、むしろ毅然としていましたよ」
 総子は口元に淡い笑みを浮かべる。娘に激しい感情を抱く時期は過ぎて、どうしようもない空しさを噛み締めているような、そんな表情に見えた。和彦は胸苦しさに耐えきれず、温くなったお茶で口を湿らせる。
「俊哉さんは当時、ここから近い自治体に単身で出向していて、仕事と子育てに忙しい綾香に代わり、紗香がお世話に通っていました。そのときに何かあったと考えるべきなのでしょうが、それでも、紗香の目は先生だけに向いていたような気がして……。ただ先生は、紗香の妊娠について何も知らなかったようです。出産からあとのことも、すべて我が家と彼のお父様との間で進めましたが、紗香が亡くなったと知らせたときは、ずいぶん悲しまれて、こっそりお墓にも来てくれました」
 これは言うべきなのだろうかと逡巡した和彦だが、医者として黙っていることはできなかった。
「……今なら簡単に、親子鑑定ができます。ぼくと父が――」
「結果がどうあれ、あなたが紗香の子であることに間違いはありません。本当に、そっくり」
 両親からの説得にも関わらず、紗香は和彦を出産し、手放した。手元に置くことだけは、和泉家の総意として許さなかったのだという。何より、〈父親〉である俊哉が、赤ん坊を佐伯家で引き取ることを熱望したという話に、和彦は率直に疑問を口にした。
「どうしてですか?」
「それは、あなたが俊哉さんに直接ぶつける質問ではないでしょうか。ただ……、あなたを引き取るために、俊哉さんが必死だったことだけは確かです。危険を冒してまで、あなたを実子とするよう細工までして、わたしたちも協力しました。娘たちにとっては不本意で仕方なかったでしょうけど、得たものを守るためには仕方ないと、納得するしかなかった」
 綾香は、嫁ぎ先である佐伯家の名誉と、自身と英俊のために。紗香は、おそらく――。
「あなたを和泉家に置いておけなかったのは、紗香の実子だと悟られるのを恐れてというのもありましたが、一番は、婚約を破棄した相手の家が、面子を潰されたとずいぶん怒ったからです。それなりに発言力のある家だったものですから、こちらとしても義理を立てる必要がありました。紗香を療養名目で遠くにやり、他にいろいろと誠意を見せて尽くしてきました。それでも、ずいぶん嫌がらせをされましたが。綾香も、やむをえない事情でこの家に顔を出したときなどは、嫌な思いをしていたようです。俊哉さんがあちこちに根回しをして、どうにか落ち着いたという感じで」
「今回、ぼくを呼べたということは、相手方と和解なりできたということですか?」
 いいえ、と告げた総子の声と表情は、冷然としていた。その様子が、和彦の中で綾香と重なる。
「――断絶しました。事業が行き詰まってから、あっという間でしたよ。皆、見ているものですね。和泉家に対する仕打ちが広まって、誰も手を差し伸べなかったようです。失意と絶望は、簡単に人を弱らせる。その家にはもう誰も……」
 何もかもが因果応報なのだと、総子は続ける。和泉家も、名を大事にした結果、本来であれば将来家を支えるはずだった紗香を失い、その紗香が生んだ和彦を手放すことになった。
「あなたを和泉家には戻さないと、俊哉さんなりの決意の表れなのですよ。〈和彦〉という名前は」
「ぼくの名前……?」
「和泉家から受けた恩と、かけてしまった迷惑を忘れない。だが、この子を和泉家に戻すことはないと。その証として、〈和〉という字を名前に入れたようです」
 自分の名の由来など、和彦は告げられたことはなかった。兄である英俊には俊哉の一文字が入っており、跡取りとそうでない次男との間に、明確な線引きをされているのだと、そう感じていただけだった。
「家名と家族を守ることに必死だったわたしたちは、紗香の気持ちを顧みていませんでした。産んですぐに子から引き離されて、母親が平気でいるはずがない。そんな当然のことに気づかなかった……。いえ、気づかないふりをしていた」
 紗香が精神的に不安定だったという理由は、話を聞いただけの和彦でも推測できる。俊哉や〈先生〉、家族との関係。妊娠・出産を経る間に、さまざまな軋轢にも立ち向かわなければならなかったはずだ。自業自得という言葉では済まないつらさを伴っていただろう。
「何もかもが落ち着いたと思っていたある日、紗香の療養先から、紗香の姿が見えなくなったと連絡が入りました。同じ日に、今度は綾香から、四歳のあなたが連れ去られたと半狂乱になって連絡が。すぐに紗香の仕業だとわかりましたが、警察に連絡もできず、わたしたちは心当たりを探すしかできませんでした」
「母が、半狂乱……」
「生まれたばかりの子をずっと育ててきたのですから、母性が湧いても不思議ではないでしょう。子がいなくなれば、母親は必死になります。――もちろん、紗香も」
 夏の暑い盛りの出来事だったという。和彦を連れての紗香の逃避行は、たった三日で終わりを迎えた。どこかの街で宿泊施設にでも滞在しているのではないかと思われていたが、予想に反して、紗香は地元に戻ってきていた。
「昔、山林を管理する人たちのために、休憩所として建てた小屋があります。この屋敷の裏手にある山の頂上近くに。紗香たちが子供の頃、ときどき連れて行って泊まったことがあったんですけど、覚えていたんでしょうね。紗香とあなたはそこにいました。見つけたのは俊哉さんで、衰弱したあなただけを抱えて、泥だらけになって山を駆け下りてきましたよ」
 自分の身に何があったのか知る瞬間が近くなり、和彦の心臓の鼓動はうるさいほど大きくなる。
「小屋に泊まっている間、紗香はあなたに水も食料も与えてなかったようです。悪意があってのことではなく、頭になかったと思いたいですが、結果として、あなたを殺しかけたことは事実です。自分の子をやっと手元に置いて、笑いかけて、言葉をかけて、抱き締めて……。それで母親に戻れると、あのときの紗香は信じたのでしょう」
 ふいに、体に巻き付く生あたたかな感触があった。総毛立った和彦は、誰もいないとわかっているはずなのに、背後を振り返る。
 本能的に、子供の頃、紗香に抱き締められたときの記憶だと思った。ムッとするような熱気と、室内のカビ臭さ、窓から見えた鬱蒼と生い茂った雑草と木々。堰を切ったように次々と蘇る記憶に、和彦は動揺する。
「和彦さん?」
 我に返り、勢い込んで総子に尋ねる。
「……母さ……、紗香さんは、ぼくが保護されたあと、どうしたんですか?」
「俊哉さんからの知らせを受けて、家の者たちが行ったときには……。あなたをまた奪われたと思って、それでなくても脆くなっていた精神がもたなかったのでしょう。自ら命を絶っていました」
 深いため息をついた総子は、湯呑みの縁を指先でなぞりながら呟いた。
「……紗香の人生の大きな岐路には、俊哉さんが立ち会う運命だったのでしょうね」
 それは言い換えれば、俊哉の人生の大きな岐路に、紗香が立ち会う運命だったともいえる。
「ぼくは、佐伯家から疎まれている存在なのだとばかり思っていました。父はぼくに興味がなく、母はぼくを忌々しく感じていて……。だから正直、家を出たあとは、姿を消してしまおうと考えてもいました。でも、久しぶりに家族と関わってみて、そうすることがいいのか迷っています。おばあ様の話を聞いて、まだ考えるべきことはあるんじゃないかと」
 和彦はようやくこう切り出す。
「――ぼくも、人生の大きな岐路に立っている最中なんです」
「話は聞いていますし、悪いとは思いましたが、調べもしました」
 目を見開いた和彦に、安心させるように総子が笑いかけてくる。
「知ったうえで、あなたを呼び寄せました。わたしたちが今のうちにできるのは、知っていることすべてをあなたに話して、代々受け継いできた和泉家の財産のいくつかを、あなたに譲渡することだと思っています」
「ぼくは――」
「自分にはその権利がないなんて、言わないでください。あなたは紗香が産んで、綾香が育てた、和泉の血を引いた子なんです」
「受け継いだものをぼくがどう使うか、不安に感じないんですかっ?」
 語気が荒くなったのは、総子が、孫に対して盲目的になっているからではないかと疑ったからだ。自分の置かれた複雑な状況を思えば、本来ではあれば遠ざけられるべき存在だ。血の繋がりがあるというだけで、何もかもを受け入れてもらえるはずがない。
 総子や正時には迷惑をかけたくないし、失望もされたくなかった。和彦が今願うのは、その一点だ。
 顔を強張らせる和彦に対して、総子は相変わらず笑みを向けてくる。
「この先を生き抜くための武器を、あなたに与えると言っているのです。どう使うかは、あなた自身が決めなさい。あなたの負担にならないよう、いろいろと手立ては講じてあります。心配しなくても大丈夫ですよ」
 目の前にいるのは、一見穏やかな高齢の女性なのだが、伴侶と共にずっと、和泉家を切り盛りしてきた人物でもある。ここまで話を聞いただけでも、平穏とは言い難い人生を送ってきたとわかる。
 女傑、という言葉が、ふっと和彦の脳裏を過った。
「少し話しすぎましたね。続きはまた明日にしましょう」
 頭を整理したいと思っていた和彦に異論はない。頷くと、夕食をとるよう勧められる。
 こんなときでも腹は空くのだなと、ちらりと苦笑いをした和彦は、総子とともに食堂に向かった。


 食事の味はよくわからなかった。ただ、自分のために準備してくれたのだなとわかる献立は、素直に嬉しかった。
 和彦は総子と二人で夕食をとったあと、一気に押し寄せた疲労感を堪えつつ入浴を済ませた。新幹線に乗る前に買っておいたスウェットスーツを着込んだ上から、わざわざ用意してくれた半纏にありがたく袖を通す。大きい家だけあって、人がいる部屋以外は暖房が効いておらず、廊下などは冷え込むのだ。
 和彦が使うよう言われた部屋は、庭に面していた。ただ日が落ちてからしっかりと雨戸が閉められたため、外の景色を見ることは叶わない。長い廊下に人影は見えないが、家のどこかで誰かが移動している気配がして、微かに話し声も聞こえてくる。
 なんとなく長嶺の本宅の様子を思い出し、少しだけ胸が苦しくなった。
 部屋に入ると、すでに布団が敷かれていた。ヒーターも入れてもらっており、室内は十分に暖まっている。スーツもしっかりハンガーにかけられているのを見て、和彦は口元を緩める。
 ずいぶん気をつかってもらっているなと思いながら、ボストンバッグに近づこうとして、声を上げる。室内に自分以外のものの気配を感じたのだ。見ると、ほっそりとした体つきの黒猫が、悠々とした足取りでヒーターの側に歩み寄っている。
 ずっとこの部屋にいたのか、和彦が入浴から戻ってきたタイミングで、一緒に部屋に入ってきたのか。なんにしても、物怖じしない態度だ。
 和彦はボストンバッグからメモ帳とペンを取り出し、総子から聞いた話をまとめておこうと考える。横目でそっとうかがうと、黒猫は温風がちょうどよく当たる位置を見つけたのか、さっそく体を丸めるところだった。
 しばらく、人間一人と猫一匹、適度に距離を取って静かに過ごしていたが、閉めた板戸の向こうから猫の鳴き声がする。ちらりとこちらを一瞥した黒猫が、何かを指示するように尻尾を動かす。猫の鳴き声を無視できず、和彦が板戸をわずかに開けると、隙間からするりと猫が入り込んできた。玄関で見かけたトラ猫だ。
 二匹の猫が仲良くヒーターの前に陣取る姿に、和彦はいくらか気持ちが和らぐ気がした。









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