廊下からのガタガタという物音で目が覚めた。
室内の暗さに少しの間戸惑った和彦だが、ここは和泉家の一室だと思い出し、安堵の息を吐いた。昨夜は肉体的にも精神的にも疲労困憊しており、早々に床に就いたのだ。
夢も見なかったと、和彦はもそりと寝返りをうつ。祖母の総子から聞かされた話はあまりに衝撃的で、夢見の悪さを覚悟していたのだが、眠りの深さが勝ったようだ。
再び眠気が押し寄せてきて、素直に目を閉じる。物音が、雨戸を開ける音だとわかってしまえば、耳に障るものではない。夜が明けたようだが、今何時なのかわかるものは手近にない。テレビをつければいいのだろうが、わざわざリモコンを取るために起き上がる気にはなれなかった。
掛け布団と毛布に包まっていても、室内に冷気が流れ込んでくるのがわかる。なぜかといえば、猫たちが出入りするのに困るだろうと、板戸をわずかに開けて休んだからだ。
自分たちの寝床にきちんと戻ったのだろうかと、ぼんやりと考える。夜、ヒーターを消してしまうと、ぬくもりを求めるように和彦に身を寄せてきて、ひとときの幸福感を味わわせてくれたのだ。
二匹の猫の警戒心のなさは、ここで大事にされていることの表れだ。祖父母は、何も覚えていない和彦に対しても親愛の情を示してくれた。わが子たちに対してはどうだったのだろうかと、ふと気になった。
和泉家のために娘に婿を取らせようとした結果が、悲劇を生んだ――とは言いすぎかもしれない。すべて巡り合わせだと、和彦は思う。和彦自身、巡り合わせから、裏の世界に引きずり込まれ、怖い男たちと関係を持っている。
強い力に流されただけだと、他人は言うかもしれない。それでも、するべき選択はしてきたと、今の和彦なら主張できる。
紗香が生きていれば、和彦の現状をどう受け止めていただろうかと想像して、次の瞬間、不思議な感覚に襲われた。実母にこんなふうに思いを巡らせるなど、初めてだったからだ。
母親の実家に滞在し、過去の話を聞いたせいだろう。今日はおそらく写真を見せてもらえるはずだ。そして、できることなら――。
すっかり眠気がどこかにいってしまい、二度寝を諦めて和彦は体を起こす。枕元に置いてあった半纏を羽織ってから、ヒーターを入れた。部屋が暖まるのを待つ間、廊下に出てみる。昨夜は叶わなかった外の景色を見ることができた。
艶やかな赤い花が咲いており、一瞬椿だろうかと思ったが、地面に花弁が散り落ちているのを見て、山茶花(さざんか)だと見当をつけた。
ふいに、山茶花の木が揺れる。枝の合間からひょっこりと姿を現したのは、全身灰色の猫だった。朝の散歩なのか悠然とした足取りで歩いており、和彦は無意識に息を潜める。朝の陽射しを受ける毛並みは上等な毛皮のようで、改めて、ここの猫たちは大事にされているのだなと実感する。
灰色猫は、窓一枚を隔てた和彦に気づくことなく目の前を通り過ぎるかと思われたが、何かを感じ取ったようにこちらを見上げてきた。琥珀色の瞳に見入っていると、灰色猫は尻尾を揺らして素っ気なく行ってしまう。あとでまた会えるだろうかと考えながら和彦は部屋に戻った。
ひとまず着替えを済ませて布団を畳み、洗面所で顔を洗った帰りに君代に出くわす。ちょうど和彦を呼びに来たところだったという。
朝食の準備ができているということで食堂に向かうと、着物姿の聡子がすでに席についていた。和彦を待ってくれていたらしく、二人分の朝食がテーブルに並んでいる。
おはようございますと挨拶すると、柔らかな微笑みが返ってきた。
「ゆっくり休めましたか?」
「はい。――ここは、とても静かですね」
「昨日話しましたが、昔はたくさんの人が出入りして、朝早くから夜遅くまで騒々しかったのですよ。そうでなくなった今も、年末年始ぐらいはにぎわっていましたが、うちの人があの調子ですから……。本当は、年末に餅つきをして、あなたにもそのお餅を食べてもらいたかった」
君代がご飯をよそった茶碗を二人の前に置き、朝食を食べ始める。
味噌汁と卵焼きの味に感動しつつ、和彦はこの家にいる猫たちのことを話題にした。
「ここの猫は人懐こいですね。ぼく相手にも威嚇しないどころか、側に寄ってきてくれて」
「あなたをこの家に呼んでおきながら、猫は平気なのか確認するのを忘れていて、ハラハラしていました。もしダメなようなら、別棟の部屋をつかってもらおうと思っていたのですよ。あそこは、猫たちは入れないようにしてありますから」
「猫は好きですけど、いままでずっと飼える環境になかったんです。ですから、同じ部屋に猫がいるなんて初めてのことで、喜んでいます」
「――……紗香も、猫が好きでした」
箸をとめた和彦は、まじまじと総子を見つめる。
「一方の綾香は猫が……というより、動物全般が苦手で。猫をかまう紗香に、よく綾香が怒っていました。その声がにぎやかで……。女の子の声って、華やかでしょう? 怒っていたかと思うと、あっという間に笑い声が聞こえてきて。それだけで家中が明るくなっていました」
ここまで話してから総子が、口元に手をやった。
「ダメですね……。和彦さん相手だと、昔話がとまらなくなってしまって」
「知らないことばかりなので、ぼくはありがたいです」
和彦の言葉に総子はほっとしたようで、ゆっくりと朝食をとる間に、さらに昔の話を聞かせてくれた。
君代が食器を片付けてから、和彦はコーヒーを、総子は紅茶を飲みながら、今日の予定について話す。
和彦は少し逡巡してから、控えめに切り出した。
「母の――、お墓に行きたいです。手を合わせたいんです」
ずっと考えていたわけではなく、今朝になって頭に浮かんだことだった。自分を産んでくれた人は本当にもうこの世にいないのだと、この目で見て実感したかった。
「せっかくこの家に来たのだから、きちんと挨拶をしたいと思って……」
「ありがとうございます、和彦さん。わたしから切り出していいものかと迷っていたことですから、そう言ってもらえて、あの子の母として嬉しいです」
さっそく、と言った様子で総子は君代を側に呼ぶと、声を潜めて何事か相談する。すぐに君代は食堂を出て行った。
「――出かけるなら、午前中がいいですね。今日は午後から、この家が長年お世話になっている弁護士の先生が来られます。わたしたちからあなたへの生前贈与について、説明をしていただきます」
「生前、贈与……」
「難しく考える必要はありません。手続きはこちらであらかた済ませますし、あなたに経済的な負担はかけません。それは、綾香や英俊に対しても同じです。ただあなたには、生い立ちから今に至るまでのことでの贖罪もしたいのです。……これは、わたしたちが楽になりたいがために必要な手続きですね」
「……それが、この先を生き抜くための武器、ですか」
「あなたが一番必要とするものでしょう。佐伯家にはできないことを、この家はできます。それなりに修羅場を潜り抜けているのですよ。和泉という家は」
穏やかな表情には似つかわしくないことを言ってから、総子は立ち上がる。飾り棚の引き出しから便箋とペンを持ってくると、和彦が見ている前でさらさらと地図を描き始める。
「ここに来る途中に見かけたかもしれませんが、お寺があるのですよ。和泉家の先祖のお墓はそこにあって、紗香も……。あの子のためにお墓を作りました。寂しくないよう、わたしたちもそこに入ろうと決めています」
この家から寺までの道順と、墓の場所を記した便箋を差し出され、和彦は覗き込む。建物が密集して道が入り組んだ地域ではないため、地図はシンプルで、わかりやすかった。おかげで和彦は、昨日、和泉家に歩いて向かいながら、寺らしきものを視界の隅に捉えていたことを思い出した。
「誰かに車で送らせてもいいけど、わたしたちがずっと暮らしている場所を、少しでもあなたに見てもらいたくて」
「大丈夫です。ちょうど散歩したいと思ってましたから。それに、近くにあるようですし」
話していると君代が食堂に戻ってきたが、手には大きなブルゾンを抱えていた。和彦が持っていたボストンバッグでは、大した防寒着を用意してないと総子は察していたようだ。
「前にうちに通っていた男の子が使っていたものです。他に誰か使う人がいるかもしれないと思って、クリーニングして取っておいたのですよ」
促されて立ち上がった和彦はさっそく厚手のネルシャツの上からブルゾンを着込む。二サイズほど大きいが、これなら下にフリースジャケットも着込めるのでありがたい。しかも、墓に行くまでの道は革靴では滑りやすいだろうからと、靴まで出してくれるという。
「供えるお花は、途中にある商店で買ってください。暖かい時期なら、うちで咲いたものを持っていくのですけど。さすがに山茶花は、すぐに花が落ちてしまって、寂しいですから……」
それから総子と君代は、墓参りに必要なものを揃えて、手提げ袋に入れて渡してくれる。
「あらっ、お花を買うお金も用意しないと――」
和彦は、甲斐甲斐しい様子を微笑ましい気持ちで眺めていたが、総子のその言葉で慌てて手を振る。
「それぐらいは出させてくださいっ……。母のお墓に供える花ですから」
「……ごめんなさいね。あなたの昔の姿が記憶に残っていて、つい子供扱いしてしまって」
総子と君代が顔を見合わせる。幼子にお使いを頼む保護者の心境なのだろうなと思ったら、口元を緩めずにはいられなかった。
一度部屋に戻った和彦は、出かける準備を整える。外はかなり冷え込んでいるということで、どうしようかと迷ったものの、南郷から贈られた手袋も持っていくことにする。
玄関に行くと、三和土には何足もの運動靴が並んでおり、ぎょっとする。君代によると、どれが和彦の足に合うかわからないので、家にある運動靴をあるだけ持ってきたのだという。和彦はサイズを確認して、何足か履いてみてから、少し大きめのものを借りることにした。
出かけるだけで一騒動だが、気遣ってもらっているとわかるだけに、胸の奥が温かくなってくる。笑顔の君代に見送られて和彦は玄関を出た。
風の冷たさが想像以上だったため、門にたどり着くまでの間に手袋をしていた。
地図では、昨日通った道だと寺に行くには遠回りになるらしく、田んぼの間の砂利道を通ることにする。
傍らを流れる用水路を覗き込み、散歩途中の犬にまとわれつかれたので撫でさせてもらったり、遠くで上がる凧に見入ったりと、街中とはまた違った散歩を楽しんでいた。
もしかすると、この土地で自分が育っていたら、こんなふうに毎日ここを歩いていたかもしれない――。
和彦はふっとそんな想像をして、軽く身震いしていた。寒さのせいなのか、それ以外の何かを感じたのかは、よくわからない。
民家が立ち並ぶ車道に出たが、車や人の姿はまばらだ。そんな中を歩いて気づいたことがある。
通りの家の多くが玄関先に正月飾りをしているのだが、和泉家にはそれがなかったということだ。あれだけ立派な屋敷だ。しめ縄や門松が出ていても不思議ではないのに、一切ないのだ。朝の総子の口ぶりによると、正時の具合からそれらを準備する状況ではなかったようだし、さらに、和彦の訪問に合わせて慌ただしく予定を組んだり、準備をしていたはずだ。
自分は和泉家に新たな嵐を呼び込んだことにならないだろうかと、和彦は無意識に歩調を緩めていた。
顔を合わせた人たち皆が暖かく迎え入れてくれたからこそ、申し訳なさを感じる。
何げなく視線を上げた先で、看板が見えた。地図を確認すると、花を買うよう言われた商店で間違いないようだ。
さっそく店の前まで行くと小さなスーパーで、軒先テントの下には果物や野菜の他に、榊や何種類かの花がバケツに入って並んでいる。白い菊の花束に手を伸ばそうとした和彦だが、その隣のバケツに入っている淡いピンクの小菊に目をとめた。
可愛らしいなと、腰を屈めて眺めていて、ふと視線を感じた。
軒先の隅に自販機とベンチが置かれているのだが、缶コーヒーを手にした男が一人腰掛けて、じっとこちらを見ていた。帰省客だろうかと思う程度には、この地にまったく馴染んでいない風体の持ち主だ。
仕立てのいいスーツとコートを身につけており、肩にかかるほど長いウェーブがかった髪と、きちんと手入れされた顎ひげは不潔さとは対極にある。目尻はやや下がり気味。通った鼻筋と大きくて薄い唇が印象的で、バランスの悪くない顔立ちながら、そこはかとなく胡散臭さが漂う。年齢は、和彦よりわずかに上に見えた。
目が合うなり、大きくて薄い唇がにっと笑みを浮かべる。初対面で愛想がいい人間には、警戒心を抱く習性が身についている和彦は、軽い会釈で返す。そこに、さらに警戒心を強める要素が加わる。
店から、菓子パン二つを持った坊主頭の男が出てきて、ベンチに座る男の前に立った。中背のがっしりとした体つきをしており、佇まいが明らかに堅気ではない。周囲に威嚇しているわけでもないのに、近寄りがたさがある。
ゾッとした和彦は小菊の花束を持って急いで店内に入り、精算を済ませる。店を出ると、男二人は並んでベンチに腰掛け、菓子パンを齧っていた。
視界に入れぬよう気をつけながら、足早にその場を離れる。一分もしないうちに寺が見えてきたときには、堪らず駆け出していた。
寺の駐車場は、まだ早い時間帯ということもあってか停まっている車の数は少ない。和彦は反射的に背後を振り返る。男たちはあとをつけてきてはいないようだが、油断はできない。
山門を潜ると、境内には思っていたよりも人の姿がある。初詣目的の他に、近所の人たちにとっては散歩コースの一つなのかもしれない。
境内に設置された案内看板と、総子が書いた地図を見比べる。表からはわからなかったが、寺の敷地は広かった。和泉家から寺に向かう道中より、寺の敷地の中のほうがよほど迷いそうだ。
石畳に沿って移動する前に和彦は、参拝者たちに倣って手水舎で手を清めてから、本堂に目を向ける。実家で過ごしていて新年らしい行事どころではなかったため、せめてこれぐらいはと、賽銭箱に賽銭を入れ、本堂で手を合わせておく。
山門を出入りする人たちを確認してから、足早に移動する。
墓地はいくつかの区画に分かれており、古くからの檀家であろう和泉家の墓は、本堂から一番離れた区画にある。かつては旧本堂があった場所だと、案内看板には書かれていた。
石畳から砂利道に入って数分ほど歩くと、石段へと差し掛かる。両側には地蔵が何体も並んでおり、皆、可愛らしい毛糸の帽子と前掛けをしている。檀家や信者たちによって大事にされている寺なのだと、払い清められた石段や身綺麗にしている地蔵たちの様子から伝わってくる。
人影はなく、おかげで自分のペースで歩くことができる。霜で濡れた石段は意外によく滑り、これが革靴だったらと思うと、緩やかな勾配とはいえ上がるのに難儀したかもしれない。
手すりを掴もうとして、あまりに冷たくて飛び上がりそうになる。やむなくまた手袋をするしかなかった。
黙々と石段を上がり続けていた和彦だが、足元に伸びた影に気づいて顔を上げる。石台の上に据えられた観音像が、穏やかな表情を浮かべていた。長い石段の途中ということで休憩所を兼ねているのか、整備されたスペースにはベンチも置かれている。石台の高さもあってまるで観音像に見下ろされているようだが、どこに向けているとも知れない眼差しの柔らかさに、和彦は惚けたように見入ってしまう。
そのまま立ち去るのも忍びなくて、観音像の足元に置かれた小さな賽銭箱に小銭を入れた。
石段を上がりきると、墓地はすぐ目に入った。日当たりのいい場所で、暮石は古いものが多いが、放置されている印象はまったくなく、それどころかよく手入れされていると一目見てわかる状態だ。微かに線香の匂いが漂っているのは、和彦と入れ違いで墓参りを済ませた人がいるのかもしれない。
墓地の入り口で備え付けの手桶と柄杓を借りると、水桶に溜めている水を分けてもらう。
探すまでもなく、和泉家の墓はすぐにわかった。墓地の一番奥まった場所に一際立派な墓石があり、まだ新しい花が供えられている。紗香の墓は、その隣にあった。墓石は一回り小さいが、それでも十分立派なもので、亡くなって三十年近く経っていることを感じさせない、きれいな墓だった。
たくさんの花が供えられ、しかもその花はどれも生き生きとしている。頻繁に誰かがここを訪れては、花を供え、掃除をしているのだろう。
愛されて、大事にされていた人なのだ。和彦は、墓誌に刻まれた紗香の名をじっと見つめながら、心の中で呟く。
買ってきた小菊も供えると、総子たちが持たせてくれた袋から線香や数珠を取り出す。
墓参り自体は淡々としたものだった。語り掛けるだけの思い出があるわけでもなく、そもそも紗香という人物に対する想いは、和彦の中でいまだに輪郭の掴めないものだ。総子から話を聞かされ、ようやく思慕や憐憫めいたものが胸に湧き起こっているが、それが自分自身の感情なのか、感化されたものなのか、判然としない。
「……また来ます」
ようやく、そう声をかけてから立ち上がった和彦は、最後に片方の手袋を外して墓石を撫でる。これが、今生きている自分の温もりだと伝えるために。
手桶と柄杓を返し、帰ろうとしたところで、この場所が見晴らしがいいことに気づいた。石段を上がるときはずっと足元に意識が向いていたため、周囲の景色など見る余裕がなかったのだ。
吹き付けてくる寒風に首を竦めながら、鉄柵の際まで近づく。山を切り開いたような場所にある墓地のため、鉄柵の先は収穫を終えたあとの段々畑となっていた。視線を先に向ければ、この土地の様子がよく見渡せる。田畑だけではなく流れる川。民家に、小学校らしい建物もある。可愛らしい形をした屋根の建物は、幼稚園か保育所のようだ。
改めて、自分がここで育っていたらと想像していた和彦だが、ふと、和泉家の屋敷も見えることに気づいた。広い敷地を取り囲む土塀がよく目立っている。
古く立派な先祖の墓と屋敷は、和泉家がこの土地で生きてきた歴史の長さを物語っていた。代々の当主たちは、別の生き方をしたいと願ったことはないのだろうかと考えてしまうのは、〈家〉や〈血〉に囚われている人々を間近で見ているからだ。和彦自身は、その人々に囚われている。
囚われるということは、決して忌まわしいことばかりではない。今は、そう思えるのだ。
このとき強い風が吹き、髪が乱れる。顔をしかめつつ髪を掻き上げた和彦は、視界の端に映ったものにドキリとした。
和泉家の敷地の裏手にある山の木々は、寒さが厳しい時期となり全体に茶褐色か、暗緑色に落ち着いている。そこに、一瞬だけ赤色が見えたのだ。時期外れの紅葉だとは思わなかった。その赤は、あまりに人工的な色合いだったからだ。
一体なんなのか気になった和彦は、鉄柵からわずかに身を乗り出す。もう一度強い風が吹いて木々の枝がしなり、さきほどよりしっかりと赤色が――物体が見えた。
さほど高くはない山の頂上付近に屋根らしきものが。
急に心臓の鼓動が痛いほど速くなったのは、昨晩の総子の話を思い出したからだ。己の意思では止めようがないほど、記憶を刺激される。もっとよく見える場所を探して和彦はふらふらと歩き出していた。
ようやく、木々の合間から赤い屋根の一部が見えると、大きく息を吐き出した。自分は、あの赤い屋根を間近で見たことがあると、確信が持てた。それは、いままで靄にかかったようにおぼろだった記憶が、鮮明になった瞬間だ。
「あぁっ……」
和彦を声を洩らすと、その場に屈み込んでいた。
赤い屋根の建物は、二階建ての山小屋だった。一階には木や枝の伐採で使う道具などが並べて置いてあり、刃が危ないから近づかないようにと言い聞かされた。ずいぶん昔のことなのに、明瞭に耳元で女性の声が蘇る。
幼稚園から戻って一人、自宅の庭に出て花を眺めていた和彦に、初めて見かけた女性は柵の向こう側から親しげに話しかけてきた。お母さんの妹だと名乗られてすぐに信じたのは、母親とよく似た顔立ちをしていたからだ。そして、母親より声音も表情も優しかった。
それが和彦の記憶にある、紗香との初対面だった。
なんと言われて外に誘い出されたのかまではさすがに覚えていないが、強引に連れ出されたわけではなく、和彦は自らの意思で紗香についていった。二人で電車に乗り、途中からタクシーに乗り換え、長い移動の途中にはたくさんのお菓子やジュースを買い与えられたが、すぐに眠くなり、ほとんど口にすることはなかった。
起こされてタクシーを降りたとき、見たこともない景色が広がる場所に立っていた。
ずっと手を繋いで、二人で山を登ったのだ。幼い和彦の足ではひどく険しい道でときおり泣きそうになったが、紗香もまた足取りが覚束なくて、弱音を吐けなかった。何度か座り込んで休憩をするたびに汗を拭ってくれ、髪を梳いてくれて、優しい手つきと眼差しに、和彦は嬉しくなった。
ただ、それもほんの一時だった。山小屋の二階に身を落ち着けると、途端に紗香の様子は不安定になった。和彦に、自分は本当の母親だと言い、ずっと引き離されてつらかったと涙を流したかと思えば、突然、誰に対してなのか呪詛めいた恨み言を叫び、全身で怒りを表した。この頃にはすっかり和彦は怯えてしまい、部屋の隅に逃げて膝を抱えていたが、するとそんな和彦を見て紗香が悲しげな顔をする。引き寄せられるまま抱き締められていた。
強い香水の香りと入り混じった汗の匂いが蘇り、眩暈に襲われる。
エアコンもない暑い部屋の中で、紗香はずっと、わが子との理想の生活を語り続けた。和彦が聞いているとかいないとかは関係ないようだった。疲れて眠ったあとはとにかくお腹が空き、途中で買ってもらったお菓子とジュースでなんとか飢えを凌いだが、それも一日も経たずに尽きてしまった。
一階の小さな台所で、水を飲もうと蛇口を捻っても肝心の水は出ず、和彦は途方に暮れるしかなかった。外に出ることも許されず、ただ窓から、鬱蒼とした木々を眺めていた。そのうち、体を起こしているのもつらくなり、畳に寝転がるようになっていた。紗香は、心配はしてくれたようだが、水を持ってきてくれることはなく、それどころか、押し入れから引っ張り出してきた毛布を和彦の体にかけてきた。
この人は、自分とは違う世界にいるのだと、漠然とながら和彦にも理解できた。
〈本当のお母さん〉に会いたいと、あのときはただひたすら願っていたのだ。あまり笑いかけてくれなかったが、毎朝早く仕事に出かける前には、まだベッドにいる和彦のもとに来て、何度も頬を撫でてくれたし、仕事が休みの日には和彦の好物を作り、美味しいと言うと嬉しそうに笑った。子供の目から見てもわかるほど忙しい人だったが、できる限り寄り添ってくれていた。
母親を恋しがって泣く和彦に、紗香は嬉しそうに微笑んでいた。当時は自分を虐げて喜んでいるのかと思ったが、今なら意味がわかる。自分を求めて泣いていると思い込んでいたのだ。
精神的にも肉体的にも衰弱した和彦を助けてくれたのは、俊哉だった。血相を変えて部屋に飛び込んできたかと思うと、畳の上で毛布に包まってぐったりとした和彦を見るなり、紗香を怒鳴りつけた。約束を守れ、と言っていた気がする。
二人の揉み合いに巻き込まれ、体を揺さぶられた和彦は嘔吐してしまう。怯んだ紗香が身を引いた瞬間に、俊哉は和彦を抱き上げた。立ち去ろうとした俊哉に、紗香は必死にすがりついていた。
和彦は荒い息を吐き出す。今は真夏ではなく、ここは息苦しいほどの熱気が立ち込めた山小屋でもない。それなのに容易に、意識はあの頃へと引き戻される。
紗香を振り払った俊哉が一階に下り、外に出ようとした瞬間、あとを追いかけてきた紗香が鋭い声を上げた。俊哉にしがみついた和彦が見たのは、置いてあった鎌を手にした紗香だった。
あのとき、俊哉と紗香の間に駆け引きはなかった。紗香は強張った顔で鎌を首筋に当てたが、俊哉は止めなかった。その代わり、和彦の両目を手で覆ったのだ。次に紗香を見たとき、血を流して床に倒れ込み、弱々しい声で和彦を呼んでいた。
手を伸ばされて、握ってと言われているのだと気づいたが、俊哉が身を引いて拒み、和彦も首を横に振った。
「……違う。ぼくは、もっとひどいことを――……」
紗香が亡くなる瞬間を、ただ俊哉と一緒に見ていたのだ。怪我をして痛そうだとか、せめて側にいてあげようとか、そんなことは頭にも浮かばなかった。ただ、もうつらい思いをしなくていいのだという安堵感に支配されていた。
間近に見た俊哉の横顔は、非常に険しい表情を浮かべていた。子供の目にはただ怒っているようにも見えたが、もしかするともっと複雑な感情ゆえの表情だったかもしれない。
和彦は地面に両膝をつき、嗚咽をこぼして泣いていた。
実の母親を見殺しにしてしまったという記憶に、打ちのめされる。俊哉とは、共犯だ。
強烈すぎる罪悪感と、紗香が示した愛執に対する恐れに、幼かった和彦の精神は、記憶を封じるという手段を取らずにはいられなかったのだろう。俊哉が、和彦を和泉家を遠ざけたがった理由も理解できる。自己保身からというより、息子を守るためだったと信じたい。
記憶の蓋が開いてしまうと、和彦はさらなる罪悪感に胸を抉られる。いままで、佐伯家の異物として自分は綾香から冷遇されて当然だと思っていたが、実際はそうではなかった。
育ててくれた母親――綾香を先に拒絶したのは和彦だ。
綾香と紗香は顔立ちのよく似た姉妹だ。助け出された和彦は、駆け付けた綾香の顔を見て怯え、抱き締めようと伸ばされた腕から逃げた。綾香は、和彦から距離を置かざるをえなかったのだ。
荒い呼吸を繰り返しているうちに、手足の感覚がなくなってくる。気がつけば地面にうずくまって動けなくなっていた。なんとか顔を上げた視線の先で、もう一度赤い屋根を目にする。
次の瞬間、目の前に突然幕が下りたように、和彦の意識は途切れた。
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