と束縛と


- 第45話(3) -


 意識が戻ったとき、和彦は暖かい部屋に寝かされていた。何があったのかと軽く混乱したが、すぐにここは和泉家の屋敷で、自分が使っている部屋だとわかる。ただ、どうして今のような状況になっているのかは不明だった。
 墓地にいたのだ。実母の墓参りをして、そして――。
 前触れもなく、ひっと息を詰まらせた和彦は、次の瞬間には咳き込む。舌もうまく動かせないほど口中が乾ききっており、喉も痛い。身を捩った拍子に布団の傍らに目を向けると、水差しとグラスが盆に載せられ置いてあった。とりあえず水を飲もうと体を起こしたが、途端に頭がふらつき、すぐに突っ伏してしまう。このとき、布団の中の湯たんぽに気づいた。
 漠然と、意識をなくしている間、周囲が騒々しかったことを思い出していた。夢だったのかもしれないが、甲斐甲斐しさがうかがえる部屋の様子を知るにつれ、少しずつ状況が把握できてきた。服も、楽なスウェットの上下に着替えさせられている。
 そのうえで、まっさきに浮かんだ疑問は、誰がここまで運んでくれたのかということだ。
 見知らぬ誰かが、墓地でうずくまった和彦を発見したのであれば、救急車を呼ぶ可能性が高いはずだ。昨日の午後にやってきたばかりの和彦が、和泉家の身内だと近所に周知されるはずもなく、そうなると可能性はごく限られてくる。
 あとで総子に尋ねてみるしかないが、墓地で取り戻した記憶に比べれば些末なことにも思え、うつ伏せの姿勢のまま和彦はじっと考え込む。あの山小屋で何が起こったのか、正時や総子は知っているのだろうかと、それが気になった。実の娘のあんな凄惨な死に様を目の当たりにして、当時の二人が味わったであろう悲嘆ぶりを想像すると、胸が締め付けられる。
 実母の死の重みが、ズシリと和彦にのしかかってくる。同時に、罪悪感も。すべて思い出した以上、逃げ出すことはできないのだ。
 今すぐ俊哉に電話すべきではないかと思い至り、再び体を起こそうとしたとき、板戸の向こうで猫の鳴き声がした。まだ幼い感じのする声で、開けてくれと訴えかけてくるような鳴き声に意識を奪われ、数秒、思考が無になる。そのおかげで、かろうじて落ち着きを取り戻せた。
 猫の鳴き声に重なるように、人の足音が近づいてくる。
「――入るよ」
 聞き覚えのある柔らかな声がかけられる。少し間を置いてから、ゆっくりと板戸が開いた。和彦は顔だけを動かし、入ってきた人物を確認する。昨日、屋敷の門の前で出会った医者だった。
 今日は白衣を羽織っていないのだなと、まず思った。それに一人だ。
 板戸を閉める前に、毛玉が転がるように子猫が部屋に入り込んできたが、男性が一声かけると、まるで人の言葉がわかっているかのように、一声愛らしい声で鳴いて廊下に出る。
「ここの猫たちは聞き分けがいい」
 板戸を閉めて振り返った男性は、そう言って笑った。温和な印象が一層強くなったが、和彦の気持ちは和らぐどころではない。今、一番会いたくないのと同時に、一番会う必要がある人物と二人きりになったのだ。
「もっとも、ぼくの体に染みついた消毒薬の匂いが嫌で、逃げているだけなんだろうけど」
 診察鞄を置いて、男性が布団の傍らに腰を下ろす。このとき確かに、ふわりと消毒薬の匂いがした。
 和彦が水を飲みたがっているとすぐに察したのか、水差しの水をコップに注いでくれる。和彦はなんとか頭を起こし、水を飲むことができた。
「――和泉家の墓の近くで、うずくまって気を失っていたと聞いたよ」
 体を横向きにして和彦が枕に頭を預けたところで、男性が切り出す。
「とにかく早く来て欲しいと言われて飛んできたんだ」
「……すみ、ません……」
「体調を悪くした人が謝る必要はない。――まず血圧を測ろうか」
 男性は診察鞄から血圧計を取り出して準備をすると、和彦の手を取った。ここぞとばかりに和彦は、じっと男性の顔を観察していた。
 自分の、実の父親かもしれない人。ぼんやりとそんなことを考える。
 血圧と熱を測り終えた男性に聞かれるまま、今の体調について答える。ふと、大事なことをまだ聞いていないことに気づいた。
「先生の、お名前を伺ってもいいですか……?」
「伺う、なんて言ってもらえるような大層なものじゃないけど、そういえばまだ名乗ってなかった。――賀谷(かや)、だよ」
「賀谷先生……」
「賀谷晴秋(せいしゅう)。賀正の賀に、渓谷の谷。そして、晴れた秋と書く。どんな日に生まれたのかわかりやすいだろう?」
 そうですねと応じて、和彦は大きく深呼吸をする。聞きたいことはいくらでもあるのに、胸が詰まって上手く言葉が出ない。そんな和彦を気遣わしげに見つめていた賀谷は、いきなり正座を崩す。胡坐をかき、やや前のめりの姿勢となった。診察を終えてもすぐに帰るつもりはないと、示すように。
 なんとなくだが、いくら急に呼び出されたとはいえ、今日は看護師を伴っていないことに、賀谷なりの理由があるように感じた。それに、白衣を羽織っていないことにも。
「君も医者なら、自分がどうして失神したのか、薄々察しはついているんじゃないか?」
「……PTSD、ですか」
「専門医に診てもらったことは?」
「特には。もともと不眠気味で、心療内科でカウンセリングは受けていたんですが。いままで、自分の中に〈何が〉あるのか、よくわからなかったんです。だけど、赤い屋根を見て――」
 賀谷は、小さく声を洩らした。和彦に何が起こったのか、即座に解したらしい。
「十年ぐらい前までは、あの墓地から見ることができたんだ。彼女が亡くなった山小屋は。だけど、山の木々が成長して、山小屋を覆い隠してしまってから、ぼくらの視界に入らなくなっていた。つらい記憶の残る場所なら取り壊してしまえばいいという話もあったみたいだけど、そう割り切れるものでもないんだろう。この家の人たちにとっては」
「……ぼくには見えたんです。覆い隠されているはずの山小屋が」
「PTSDの症状の一つだ。フラッシュバックは。ぼくは、紗香さんの月命日にあの場所に足を運んでいるけど、もう何年も見たことはないんだ。山小屋を」
 見えた、見えないと、言い争うつもりはない。それは重要ではなかった。
 和彦は身じろぐと、慎重に体を起こす。賀谷が手を貸してくれ、なんとか座ることができた。賀谷は和彦の指先を軽く握ってから問いかけてきた。
「痺れは?」
「いえ……」
「寒気とかは……」
 大丈夫ですと、顔を強張らせたまま応じると、賀谷に指摘された。
「緊張している、かな。――実はぼくも、緊張している。昨日はたまたま君と顔を合わせたけど、今日は違うから」
 そう言って賀谷は顔を伏せる。
「もう聞いているかもしれないけど、ぼくの父親も医者だったんだ。和泉家には長く世話になっていてね。だから、わかるようになったんだそうだ。総子さんの話しぶりで、これは内密にしたい診察だな、というのが。今日総子さんから、うちにかかってきた電話を聞いて、これかと思った。だから目立つ白衣を置いて、一人で来たんだ」
 再び顔を上げた賀谷は微苦笑を浮かべていた。
「総子さんは肝が据わっている。ぼくと君をこうやって対面させるんだから。……いつかは、会いたいと思っていたんだ。紗香さんの子に」
「ぼくの子に、とは言わないんですね」
 自分でも驚くほど冷たい声が出ていた。賀谷はハッとしたように目を見開いたあと、なぜか慈しむような眼差しを和彦に向けてきた。本能的に感じた。これは、親が子に向ける眼差しではないか、と。
 和彦の発言で、ある程度の事情を把握していると察したのか、あらかじめ総子から何か教えられていたのか、賀谷はすぐさま、医者としてではなく、賀谷個人として和彦と向き合うことを決めたようだった。
「……弱っている君に話していいものか、ためらう気持ちはあるんだ」
「かまいません。全部、聞きたいです」
 和彦の中でわけのわからない感情がこみ上げてきて、目頭が熱くなってくる。ぐっと奥歯を噛み締めて、涙を堪えた。
「――多くの人は理解してくれないだろう。紗香さんとぼくと、佐伯さんの関係を」
 話しながら賀谷が指を組む。
「父を……、佐伯俊哉を知っているんですか?」
「最初は、紗香さんが紹介してくれた。義理の兄だと言って。それから何度か。紗香さんが亡くなってからは、彼女の墓の前で」
 賀谷が話してくれた紗香との出会いは、前日に総子から聞かされたものとさほど差異はなかった。この土地では目立つ二人だったため、おおっぴらに出歩くわけにもいかず、ときには電車で出かけて、離れた場所で逢瀬を重ねていたと、昔を懐かしんでいるのか賀谷は目を細めた。
「ぼくは本気で結婚を考えていたけど、父からは釘を刺されたんだ。彼女にはもう婚約者がいて、婿として和泉家に入ることが決まっていると。一方のぼくは、国試に受かるのは当然で、医者としての出世を家族から望まれていた。ご覧のとおり、野心からは程遠い人間だから、なんとも息苦しくてね。……当時の紗香さんも似たような状況だった。一時本気で、駆け落ちしようかと話したこともあった」
「……どうして、そうしなかったんですか?」
「どうしようもなく重いものを背負わされた人間は、簡単には投げ出せない。紗香さんは、和泉家を大事にしていたんだ。お姉さんが嫁いでいってしまったから、自分が将来、家の切り盛りしなくては、と。――だからせめて、ぼくを欲しいと訴えてくれたんだ。総子さんと正時さんに」
 古くから続く家同士の繋がりは難しいと、ため息交じりに賀谷は洩らした。どんなに当人たちが求めようと、家長が許さない限り、二人の結婚はありえなかったのだ。
「そのときからだ。ぼくが知る、おとなしくて控えめなお嬢さんの紗香さんは変わった。もしかすると、ずっと本当の自分を抑え込んでいただけで、本当の姿は〈こちら〉だったのかもしれない」
「本当の姿……?」
「気性が激しくなった、というのは、少し違う。そう……、怒りや苛立ちを表に出すようになった。大嫌いだと言っていたよ。自分の実家を。大事だけど、大嫌い。偽らざる、彼女の本心だったと思う」
 視線を上げた賀谷は、苦しげに眉をひそめる。
「ぼくは、総子さんや正時さんには話せない、彼女との思い出がたくさんある。話せないのは、二人がつらい思いをするとわかっているからだ。こういう感傷を持つのは、ぼくのエゴなのかもしれないけど。――君はどう思う? 自分の祖父母に会ってみて」
 こう問われ、和彦の脳裏にまず浮かんだのは、なぜか父方の祖父母の存在だった。すでに二人とも他界しているが、和彦が実家で暮らしていた頃は行き来があり、顔も覚えている。特に可愛がられたわけではなく、それは英俊に対しても同様だった。いくつかの名誉職を掛け持ちしていた祖父母はとにかく多忙で、孫に目をかけている暇などなかったのだろう。
 佐伯家を継ぐ男子が生まれて、それだけで満足だったのかもしれない。しかも長男の英俊は優秀だ。ある意味、無関心は、安心感の表れだったともいえる。
 自分たちの祖父母とはそういうものなのだと、ずっと和彦は思っていた。
「……優しい人たちだと思います。何年も疎遠にしていたぼくと会っても、喜んでくれて……。事情があったにせよ、もっと早くに会って、話したかったです」
「ぼくも同じ気持ちだ。家族同様に扱ってくれて、紗香さんのことをいろいろ聞きたいだろうに、こちらの気持ちをずっと慮ってくれる。――父を亡くして、後ろ盾をなくしたぼくをここに呼び寄せてくれたのも、あの人たちなんだ。紗香さんが繋いでくれた縁だ」
 賀谷の話に引き込まれながらも、和彦はあることが気になった。
「……〈母〉を、憎んでいないんですか?」
 和彦の問いかけがよほど意外だったのか、賀谷は目を見開いたあと、口元に手をやり、あごを撫で、小さく声を洩らして視線を伏せる。医者として、大人の男性として、和彦などよりよほど経験を積み重ねているはずの人が、この瞬間だけはひどく頼りなく見えた。まるで、世間ずれしていない年若い青年のような――。
「ああ……、考えたこともなかったな。そうか。ぼくは、恋人を既婚者に奪われた挙げ句、恋人自身を死なせて失った男になるのか」
「すみません……。冷静に話されているので、気になって」
「ぼくなりに、納得したんだ。紗香さんは目的があって行動した。ぼくは、その彼女についていくことを許されなかった。……いや違うな。ぼくが彼女の手を取れなかった。自力で生活費を稼いだこともなく、学費も親頼みの自分が、駆け落ちして二人きりで生きていくという現実を怖がったんだ。紗香さんは聡い女性だったから、ぼくの心の揺れを見抜いたんだろうな」
 当時の二人がどんな様子だったか、和彦には知ることができない。ただ、賀谷と紗香、それぞれが抱えたであろうやるせない気持ちは、少しだけ理解できる気がするのだ。
 特に紗香が、周囲の期待を裏切るような行動を取ったことは、和彦自身にも重なる。無意識に唇を噛んでいた。
「――……紗香さんと佐伯さんの間にどんなやり取りがあったのかまでは、ぼくは知らない。はっきりしているのは、ぼくと佐伯さんは同時期に、紗香さんと関係を持っていたということだ」
 昨夜総子から話を聞かされて、想像はしていたことだ。それでも、紗香と自分はどこまでそっくりなのかと思わずにはいられない。
「それを受け入れたんですね。賀谷先生は」
「不思議と、嫌悪感も嫉妬もなかった。自分は潔癖なタイプの人間だと思っていたけど、そうじゃなかったんだろう。……なんだか、危うくてね。裏切られたとか、そういうことはまったく思わなかった。当時」
「……危うくて、とは、母が、ですか?」
 いや、と賀谷は緩く首を振る。
「紗香さんと佐伯さんの二人が」
 このタイミングで、板戸を軽く叩く音がした。和彦と顔を見合わせてから、賀谷が立ち上がる。板戸を開けたとき、ちらりと見えたのは総子の姿だった。短く会話を交わしたあと、賀谷は一旦部屋を出る。
 和彦の様子について手短に説明したのか、一分もしないうちに賀谷は、湯呑みと急須をのせた盆を持って部屋に戻ってきた。
「君が目を覚ましていたら、勧めてくれないかと言われた」
 差し出された湯呑みから漂う甘酒の香りに、ほっと吐息を洩らす。少しだけ口に含むと、優しい甘さが体に溶け込んでいく。
 甘酒で思い出すのは、ちょうど一年前、初詣に出かけたときのことだ。あのときは、甘酒を勧められたものの、結局一口も飲まないうちに賢吾に取り上げられてしまった。
 賀谷はお茶を啜ってから、再び話し始めた。
「佐伯さんと自分は似ていると、紗香さんが言ったことがある。最初、ぼくはピンとこなかったけど、一緒にいる二人を見ているうちに、こういうことじゃないかなと思うようになったんだ――」
 同志、という単語を賀谷は口にし、和彦は口中で反芻する。
「二人の関係は、不倫の一言で片づけることもできるけど、ぼくはそうしたくない。……紗香さんは、とにかく自分が置かれた状況から抜け出したがっていた。何かを変えたくて必死にもがいているようでもあり、佐伯さんはたぶん、そんな紗香さんに共感した。もしくは、紗香さんが佐伯さんに、かも。――目的のためなら、なんでもやってしまいそうな危うさ。当時ぼくが二人に感じたのは、それだ」
 俊哉は、優秀な官僚として精力的に働いていたであろう時期だ。当時の俊哉の姿を知らない和彦だが、そんな俊哉に『危うさ』を感じたという賀谷の言葉は、にわかには信じられないものだった。俊哉は、常に完璧であり、理性的だ。そして、家庭の中にあっても孤高だ。俊哉の孤高ぶりは、己への自信に裏打ちされたものだと、当然のように和彦は考えていた。
 しかし、異性関係に奔放であったとはいえ、俊哉があえて妻の妹と関係を持ったのには、目的があったとすれば――。
 形容しがたい感情の塊に胸を塞がれ、和彦は甘酒をさらに啜る。
「……ぼくも、親からの圧力にうんざりはしていたけど、切迫したものではなかった。だから、なんの決断もできなかった。紗香さんが亡くなったあと、都会でそれなりの規模の病院で、手術が上手いだなんだと持ち上げられて、だからといって独立するだけの気概はなく、縁談を何件も持ち込まれても選ぶもこともできず、ただ流されてきた」
「ぼくも、そうです。ずっと、流されてきました」
 ぽろりと出た言葉に、賀谷はふっと目元を和らげる。
「似ているんだな、ぼくたちは」
 自分が知っていることはこれだけだと、賀谷は言った。和彦は湯呑みに視線を落としてしばらく黙考していたが、思いきって顔を上げる。賀谷は、和彦が何を言おうとしているか察しているようだった。
「――あなたは、ぼくの本当の父なんですか?」
「その質問に対する答えを、ぼくは持たない。……紗香さんはあくまで、佐伯さんの子だと主張して、佐伯さん自身も認めていた。和泉家の人たちはそれで納得するしかなかった。ぼくに対して彼女は、あなたは関係ないと言ったんだ。そんなわけにはいかないと、ぼくは何度も説得しようとしたんだけどね」
 追いすがろうとした賀谷に、紗香はさらにこう言ったのだという。
 もう二度と会わない、と。
「婚約破棄のゴタゴタにぼくを巻き込みたくないんだと、すぐにわかった。佐伯さんはいいのかと聞いたら、あの人は戦い方を知っていると言われて、初めて、佐伯さんに嫉妬した。ぼくは医学生。あの人は当時すでにエリート官僚だったから、相手にならない。家庭のある身なのに、醜聞を恐れてもいないようだった。佐伯さん自身、すごい後ろ盾を持っているのかと、あれこれ考えたものだよ」
 この瞬間、和彦の脳裏に過るものがあったが、一瞬すぎて、それがなんであるかはっきりと捉えることができなかった。
「ぼくは、誰にも、何も主張できなかった。紗香さんの意思を尊重したと言えば格好いいが、そうじゃない。敗北感と劣等感で身動きできなかった。結果、産まれた君に一度も会うことは叶わなかったし、会いに行くこともしなかった」
 申し訳ないが、と前置きしてから、賀谷はこう続けた。
「長い時間が経つ間に、紗香さんのことは鮮やかな思い出になり、彼女が産んだ子供の存在は、どんどん現実味が薄れていった。夢の中での出来事だったのかもしれないとすら、思い始めていた。紗香さんの墓前で、数年に一度、佐伯さんと顔を合わせるたびに、子供のことを聞こうとして、できなかった。教えたくないと言われることも、そんな子供はいないと言われることも、恐れていた。ぼくは勇気のない男なんだ。……ずっと」
 この人は、外見はともかく、内面は青年の頃のままなのかもしれないと和彦が思ったとき、棘が刺さったような痛みが胸の奥に生まれた。紗香と過ごしていた時間に心が囚われ続けているのだとしたら、賀谷を愚かとも哀れだとも思わないが、一方で、紗香と俊哉に対しては怒りを覚えるのだ。
「賀谷さん……、ご家族は?」
「ずっと独身のままだ」
 寂しげな笑みとともに、賀谷が答える。
「紗香さんを引きずっているわけじゃない。ただ向いてなかったというだけだ。家庭を作るということに」
「それは――」
 わかる気がする、と言いかけて、寸前で口を閉じる。賀谷は情が薄そうに見えるという同意ではなく、自分もそうだと共感したのだ。
 長嶺父子と出会う前まで和彦は、自分は佐伯という姓に縛られたまま、一人で生きて一人で死ぬ人間なのだと、漠然と思っていた。今はどうかと自問してみると――。
「でも、ときどき考えていたんだ。この世界には、紗香さんの子がいるんだなと。どんな人生を歩んでいるんだろうかと。聞けば、総子さんは教えてくれたんだろうけど、そのとき自分は、どんな顔をすればいいのかと想像して、怖気づいた。佐伯さんの下で育っているなら、ぼくなんかが心配するのは、失礼だろう」
 和彦は何度か唇を舐めてから、ようやく切り出した。
「……ぼくは、あなたを責める気持ちはまったくありません。父たちとの間で実際はもっといろんなやり取りがあったんでしょうけど、あなたが自分を卑下するのは違う、と思います」
 むしろ責められるべきは、自分〈たち〉ではないのかと和彦は呵責に苛まれる。賀谷から、紗香を奪ってしまったのだ。
 賀谷は目を丸くして和彦を凝視し続けていたが、我に返ったのか、診察鞄のポケットからメモ帳とボールペンを取り出し、素早く何か書き込む。
「相談事や助けが欲しいときは、いつでも連絡してくれないかな。大層な力はないけど、できる限りのことをさせてほしい」
「お気持ちはありがたいですが、ぼくに関わらないほうがいいと思います」
 和彦の置かれた状況を知ってか知らずか、賀谷は遠慮がちにこう言った。
「――……普通、親は、子が困っていたら、なんとかしたいと思うだろう?」
 和彦は、なんと答えていいかわからなかった。検査をすれば、誰と血の繋がりがあるかはっきりするが、今の賀谷に、この提案はできなかったし、してはいけない気がした。
 賀谷にとって重要なのは、和彦が紗香の子であるという一点なのだ。
 携帯電話の番号が書かれたメモ用紙を受け取った途端、激しい疲労感に襲われた。気を張っていられる限界が訪れたらしい。賀谷もすぐに察したようで、横になるよう言われて、おとなしく従った。
「念のため、抗不安薬を出しておこう。あとで届けるから、夜休む前に服用して。不安や緊張が続くなら、自宅に戻ってからきちんと診察を受けたほうがいい」
 賀谷には、今夜もこの家に泊まるべきだと釘を刺された。和彦としても、今の自分の体調では、長距離移動は無理だと判断せざるをえない。それに、俊哉と対峙するのに、少しでも猶予が欲しかった。
 和彦が頷くと、賀谷は安心したように口元を緩めた。


 昼頃まで横になっていた和彦だが、朝方、総子に言われていた予定が気になり、起き上がっていた。
 慎重に布団から出てみたが、心配していたような眩暈はなく、足のふらつきもない。やはり身体的に問題が起こったというより、精神的なショックが強すぎた故の失神だったのだろう。
 枕元に残っていた湯呑みと急須がのった盆を抱えて部屋を出ると、廊下に、窓ガラスの向こうをじっと見つめている白猫がいた。昨日玄関で見かけた猫かと思ったが、一回り小さくまだ若い猫のようだ。和彦に気づくと、小さな声で鳴いてから、素早く側にやってくる。身を擦りつけるようにして和彦の足元にまとわりついてくるため、できることなら撫でてやりたいが、盆を持ったままでは叶わない。
 どうしようかと立ち往生していると、ふいに若い白猫は身を離し、ひときわ甘い声を上げた。見れば、総子がこちらに向かってくる。
「あら、置いたままでよかったのですよ」
 そう言いながら和彦からさりげなく盆を受け取った。
「もう起きて大丈夫ですか? 顔色はまだよくないようですけど」
「動ける程度には、もう……。午後から、弁護士さんが来られると聞いていたので、気になって」
「それは、明日に変更していただきました。今日は近くにある宿に泊まってゆっくりされるそうなので、あなたが心配しなくても大丈夫ですよ」
 当然のように、和彦がこの家にもう一泊することは決定しているようだ。
「……すみません」
 お腹は空いていないかと問われ、正直、食欲はまったくなかったが、少しでも血の巡りをよくするためにも胃に何か入れておこうと考えた。
 若い白猫は途中まで和彦たちに同行していたが、ふいに廊下を曲がってどこかに行ってしまう。
「母親を探しているのですよ、あの子は。家の中で見かけませんでした? 大きな白猫。それが、あの子のお母さん。あんまりあの子が甘えるから、母親のほうが逃げるように移動していて、まるで追いかけっこをしているみたい」
「そう、ですか……」
 つい和彦は視線を伏せた。今、母子の話題を出されると、胸が締め付けられる。
「――あなたを一人で墓参りに行かせるべきではありませんでしたね。何か、紗香のことを思い出したのではありませんか?」
 さすがに、思い出したことそのままを口にはできなかった。
「紗香さんと、山に登っていたときのことを、少しだけ……。山歩きに向かないワンピースを着ていたんです。それで、何度も草や木に引っ掛けて、困ったように笑っていました。ぼくが心配すると、大丈夫、と言って――」
「他に、つらいことも思い出したのでしょう? そうでなければ、あんな場所で気を失うなんて……。見つけなければ、どうなっていたか」
 ここで和彦はハッとする。総子に聞きたいことがあったのだ。
 食堂に入ると、割烹着姿の君代が食卓の準備を調えていた。体調を気遣ってか、和彦が席につくと、煮込みうどんが出された。これなら食べられそうだと、ほっとする。
「足りないようなら、これも食べてくださいね」
 そう言って君代はおにぎりと漬物がのった皿も出したあと、忙しげに食堂を出て行った。
 総子のほうは先に昼食を終えていたのか、和彦の向かいに座ると、竹ザルの上に袋から煮干しを出す。何を始めるのかと見ていると、慣れた手つきで頭とハラワタを取り除いたあと、ボウルに入れていく。
「うちはよく、この煮干しのダシを使うから、時間があるときにこうして準備しておくのですよ。炊き込みご飯やお味噌汁、煮物に使ったり、暑い時期だと、素麺のつゆにも」
「……今朝の味噌汁、美味しかったです。それ以外も……」
 嬉しそうに総子は笑った。
「いいお肉を配達してもらったから、今晩はすき焼きにしましょうね。明日のお昼は炊き込みご飯がいいかしら」
 麺を一本、二本と啜っていた和彦だが、やはりどうしても気になってしまい、おずおずと総子に尋ねた。
「――……墓地で倒れていたぼくを、見つけた人がいたんですよね? どうして、ぼくがこの家に滞在している人間だとわかったんですか?」
「最初から、あなたを知っていたからです」
 総子の言葉に、すぐには反応できなかった。和彦は目を瞬いてから、ゆったりとした口調とは裏腹に、休みなく動き続ける総子の手元をなんとなく見つめる。
「昨日、あなたに言ったでしょう。この先を生き抜くための武器を与えると。何もそれは、和泉家が代々受け継いできた財産のことだけではありません。わたしたち夫婦が築いてきた人脈もあるのですよ」
「人脈……」
「昨日、お墓参りに向かう途中で、気になる人たちを見かけませんでしたか?」
 総子の問いに対して、和彦の脳裏に浮かんだのは、小さなスーパーで見かけた二人組だった。この土地にまったく馴染んでいない風体で、帰省客かと咄嗟に判断したぐらいだ。
 和彦は頷く。
「予定では、弁護士の先生に同行するはずでしたが、急遽、彼らだけで一足先にこちらに来たそうです。でもそのおかけで、気を失ったあなたを助けることができたのですから、彼ら特有の勘が働いているのかもしれませんね。びっくりしました。気を失ったあなたが、背負われて帰ってきたのですから」
「……どういった、人たちですか?」
「心配しなくても、会社勤めをしている、身元のしっかりした人たちですよ」
 意識しないまま奇妙な表情を浮かべていたらしい。ちらりと視線を上げた総子が、和彦の顔を見るなり声を洩らして笑った。
「その会社は、わたしたちが設立したものです。便宜上必要でしたから。――綾香や英俊はともかく、あなたは今後、深くつき合うことになるでしょう。ですから、今回は顔合わせも兼ねて、こちらに呼んだのですよ」
 どういった会社なのか気になるが、さすがに今日はもう、頭の中に情報が溢れすぎて限界だった。
「〈こちら〉にいる者は、皆、和彦さんの味方です。わたしたちはもちろん、賀谷先生からも、同じようなことを言われたのではありませんか?」
「……はい」
「持っている姓は佐伯でも、あなたは和泉家の人間です。これからはしっかり、わたしたちを頼りなさい。もっとはっきり言うなら、利用しなさい」
 物言いは柔らかながら、これは総子からの命令だった。和彦の複雑な立場や状況を把握したうえで、あえてここまで言っているのだ。その証拠に、総子はこう続けた。
「――あなたのことを嗅ぎ回っている者がいないか、昨日から用心していますが、今のところ、よそ者は見かけていないそうですよ。あなたを含めた、和泉家が招いたお客様以外は」
 閉鎖的な土地だからこそ安全だと、言外に総子は言いたいようだ。
「食べ終わったら、夕方まで猫の相手でもしながらゆっくり過ごしてください。お布団はそのままにしておきますから、横になって休んでもかまいませんし」
 頷きかけた和彦だが、部屋に戻る前に済ましておくべきことを思い出した。
「あとで電話を借りていいですか? もう一泊すると、父に……伝えておきたいんです」
 ふっと、総子の手の動きが止まった。
「ここにある電話を使ってもいいし、部屋で話したいなら、携帯電話を持って行かせましょう」
 携帯電話を借りたいと答えた和彦は、心の内で、総子にある問いかけをしていた。
 紗香の人生と命を奪ったようなものである俊哉を、本当は今も憎んでいるのではないのか、と――。









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