と束縛と


- 第45話(4) -


 何から切り出すべきなのかと、借りた携帯電話を手にしたまま、和彦は途方に暮れていた。俊哉に言いたいこと――確認したいことがあまりにありすぎる。
 しかし、連絡しないわけにはいかない。
 和彦が難しい顔で考え込んでいると、ヒーターの前で丸まっていた黒猫がふいに起き上がり、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。伸ばしていた和彦の足に軽く身をすり寄せると、甘えるような顔で見上げて鳴く。
 この部屋のヒーター目当てで、自分の存在など目に入っていないのかと思ってあえて構っていなかったのだが、予想外の態度を示された。そっと片手を差し出すと、黒猫は自らあごを擦りつけてくる。気をよくした和彦は、ここぞとばかりに撫でさせてもらう。柔らかく滑らかな毛並みと、てのひらから伝わってくる高めの体温が心地いい。
「温かいな……」
 仰向けになって腹まで撫でさせてくれた黒猫は、気が済んだのか、あっさりとヒーターの前へと戻っていく。
 少しだけ肩の力が抜けた和彦は、その勢いで俊哉に電話をかける。携帯電話の呼出し音を聴きながら、ある種の感慨深さを覚えていた。
 俊哉と別れてから、まだ丸一日しか経っていないのだ。その間に、和彦はいくつもの真実を知り、さらに封じていた記憶が蘇った。衝撃を受けすぎて神経が麻痺しているのか、手足を動かし、さまざまなことを自分の頭で考えているのに、どこか他人のものであるような、奇妙な違和感がある。
 ついてのひらを眺めたのは、この体に、俊哉の血は流れているのだろうかと思ったからだ。感傷的になっているわけではなく、ただとにかく、具合が悪かった。
 壁にもたれかかったそのとき、呼出し音が途切れ、俊哉が出た。和彦は咄嗟に声が出ず、不自然な沈黙が十秒ほど流れた。
『――今どこにいる』
 開口一番の俊哉の言葉に、安堵と同時に不快さを感じた。この人は何があったも変わらないと、嫌でも痛感した。
「和泉の家、だよ……」
『総子さんから、いろいろ聞いたか』
「……うん」
 紗香の墓参りのあと気を失ったとは言えなかった。ただ、体調を崩して、和泉家にもう一泊すると伝えることで、俊哉はある程度察したようだ。昨日、別れ際の俊哉の言動から、おそらく和彦がここを訪れることで、過去の出来事を思い出す事態を想定していたはずだ。
 和彦の古い記憶は、ガラスの箱に仕舞われていたようなものだ。少しの衝撃で箱は砕けてしまう。だから俊哉は、和彦を和泉家から遠ざけ、偽りの思い出を語りながら、記憶を刺激すまいとしていた。
 思い返してみれば、俊哉の口から総子の名を聞くのは初めてだった。いつでも〈和泉の家〉と呼んで、総子や正時の存在を一括りにしており、そこに和彦は疑問を感じたことはなかった。
 この人なりに必死だったのだ――。
 胸の奥で呟いた和彦は、髪に指を差し込む。
「父さんの目的は何?」
 呻くように和彦が問いかけると、俊哉が一瞬息を詰めた気配がした。
『そんなことを聞きたくて、電話してきたのか』
「大事なことだっ。少なくとも……、ぼくにとっては。ううん、きっと、父さん以外の人たちにとっても大事だと思う」
 俊哉は書斎にでもこもっているのか、物音一つ伝わってこない。
『――血は、呪いだ』
 ふいに俊哉が切り出す。今度は和彦が息を詰める番だった。
『大半の人間にとってはそうではないだろうが、少なくとも、佐伯の血はそうだ。それに、和泉の血も。逃れたくても逃れられない。わたしは昔から、それが疎ましくて仕方なかった。否応なく体に流れる血と、だからこそ受け継ぐことを当たり前とされる官僚としての人生。求められるなら、淡々と歩めばいいと、ずっと思っていた。興味はないが、それが佐伯俊哉という人間に与えられた生き方だ』
「何、言って……」
 佐伯という名家の名と、自らの努力で手に入れた権力を誇りにしている。それが俊哉だった。和彦の思い込みなどではなく、俊哉自身がそう振る舞っていたのだ。優秀な長男に家を継がせ、その長男が結婚して子が誕生したら、当然のように官僚の道を歩ませ、佐伯家を継がせる。そうやって佐伯の名と血は続いていく、はずだった。
『あるとき、わたしの前に一人の男が現れた。嬉々としてその呪いを受け入れている、愚かだが、力と生気を漲らせた男だった。つまらない問題の処理に、その男の手が必要だったんだが、危惧した通り、男はわたしにつきまとってきた。だからわたしも、便利に使ってやった』
 ああ、と和彦は小さく息を洩らす。俊哉が誰のことを語っているか、すぐに見当がついた。
『……ずいぶん昔の話だ。お前は生まれていないし、英俊はまだ幼かった。――綾香は、二人目の子は望めない体だった。わたしも、跡取りの英俊がいるのだから、もう一人欲しいという感情はなかった。ただ、何も知らない親戚たちのお節介な忠告が、心底疎ましかった記憶がある……』
 家庭は子供中心となり、綾香は慣れない子育てに奔走し、淡々とした俊哉の日々の生活は大きな変化に呑み込まれたのだという。その変化には、男との――長嶺守光との出会いも含まれていた。
『ヤクザなんてしているくせに、夢見がちな男だった』
 嘲っているようでありながら、俊哉の声音は柔らかだった。
『生まれ育った環境は違っていたが、共通する部分はあった。血に縛られ、唯々諾々と従う。あの男は暴力という絶対的な力を持っていながら、それでも、自分の父親には逆らえないと、苦笑交じりで洩らしたことがあった。男を紹介してくれた政治家に聞いたところ、父親からはずいぶんひどい扱いを受けていたそうだ。跡目としての躾と教育、ということだったそうだが――』
 官僚とヤクザとの間に、友誼めいた感情があったと思わせる口ぶりだが、俊哉という人間は、ずっと複雑な心理を持っていた。
『わたしは、あの男が嫌いだった。そんな扱いを受けながら、己の血を誇り、妄信している。一方の男のほうも、わたしに苛立っていたのかもな。理解したくないが、理解できてしまう。わたしたちは、そんな間柄だった』
「……友人、だった?」
 バカなことを言うなという意味か、俊哉は短く息を吐いた。鼻で笑ったのかもしれない。
『一時的な用心棒代わりにあの男を使っている間に、わたしたちは互いに毒を注ぎ込んだ。――組をただ次の代に繋いでいくためだけの、能無しの装置なのかと罵ったら、顔色を変えていたな。わたしに対しては、心の中で毒づきながらも、結局家の名から逃げれる気のない怠惰者(なまけもの)だと、あの男は言った』
 理解したくないが、理解できてしまう者同士、言葉で互いの弱い部分を抉ったということだろう。
『それで、二度と会うつもりはなかった。わたしは、わたしの人生を歩むことにしたからな。長嶺にしても、同じだったかもしれない。だが忌々しいことに、和泉家が抱えたトラブルの処理のために、わたしはまた、助けを借りることになった』
「もしかして、母さ……紗香さんの婚約破棄の件で、和泉家と婚約者の家が揉めていたこと……」
『佐伯と和泉と長嶺、血の呪いを受け継ぐ家同士の、共同作業だ。さすがに、和泉の家と長嶺を接触させることはしなかったし、言われたこと以外はするなと釘を刺しておいた。和泉の家に厭われると、土地に厭われる、という忠告も』
 このとき再会した守光は、もう夢見がちな、父親に従うだけのヤクザではなくなっていたという。
『奴の父親は死んでいた。突然死したと新聞の記事には出ていたが、長嶺本人は、追い落としたとわたしに話した。詳しくは聞かなかった。……違うな。聞けなかった』
 熱を帯びることも、抑揚が変わることもない俊哉の話しぶりに、和彦は怖気立つ。脳裏に浮かんだのは、紗香の命が消える瞬間を見ていた自分たち父子の姿だ。
『――紗香も、わたしと同じような人間だった。和泉の血を呪いながら、どう足掻けばいいかもわからない。初めて会ったときに受けた印象は、綾香によく似てはいるが、おとなしい、従順さだけが取り柄の女というものだった。そんな彼女が変わったのは、賀谷という医学生と恋仲になってからだ』
「……賀谷先生に会って、知っていることを全部教えてもらった」
『恋に狂った、というやつだな。まるで脱皮するように、紗香は別の生き物になった。赴任先で一人暮らしをしていたわたしは、紗香をずっと間近で見ていた。正直、あの変化ぶりには感銘を受けた。紗香の婚約破棄のごたごたの処理のため、さっき言ったように、長嶺と再会したのもよくなかった。血の呪いに抗えるのは、長嶺といい、己を構成する〈何か〉を削ぎ落とせる人間なのだと思った』
 ひたすら淡々と俊哉は話し続ける。それを聞き続ける和彦は、携帯電話を持つ手が氷のように冷たくなっていくのを感じた。こんな形で自分の出生にまつわる話を聞かされるのは、拷問に近かった。ただ、さまざまなことを知りすぎて感覚が麻痺している今だから、受け入れられるともいえる。
『自分が妊娠したと知ったとき、紗香は動揺していた。子供は産みたい。しかし、そうなれば確実に自分から引き離される。田舎の名家だ。婚約者以外の男の子を産んだなどと知られるわけにはいかないからな。見も知らない遠戚に養子にやられるぐらいならまだいい。縁も所縁もない人間のもとにいってしまったら――と、それをずっと心配していた』
「……同情したからぼくを引き取った、というわけじゃないんだろう……?」
 俊哉の語りを聞いていれば、嫌でもわかる。紗香との間に甘さや優しさを含んだ感情など介在していなかったのだと。
 電話の向こうから微かに何か軋む音が聞こえてきた。書斎のイスに座り直した音だと見当をつけた和彦は、自らも、膝を抱えるようにして座り直す。
『同情なんてものは、薄っぺらな感情だ。……紗香から妊娠の話を聞かされたとき、これは天啓だと思った。お前は、望まれて生まれた子だ。間違いなく』
「ぼくに、その言葉を信じろと?」
 皮肉っぽく洩らした和彦は、その口調が俊哉に似ていることに気づき、ハッとする。体を形成するものだけが、〈親〉から受け継ぐすべてではないのだと、この状況だからこそ実感していた。
 俊哉の口ぶりで、もうとっくに悟ってはいるのだ。自分は、俊哉の血を引いていないと。それでも、父子として生活してきた時間は、確かにこの体に宿っている。
「わからない……。父さんみたいな人が、どうして必死になってまで、ぼくを手元に置きたがったのか」
『長嶺と出会って、わたしは気づいたんだ。佐伯の血をどうしたいのか。――お前は、わたしが歩めなかった、わたしのもう一つの人生だ』
 わからない、と和彦は絞り出すようにもう一度呟く。それが聞こえなかったのか、あえて無視したのか、俊哉は話を続ける。
『紗香とは約束を交わした。子はわたしが引き取り、佐伯家の人間として育て、和泉の家には渡さないと。わたしの、というより、綾香の手元に置けるということで、紗香はひどく安堵していた。常にわが子の居場所がわかるということが、何より大事だったのだろう。ただしわたしは、お前が幼いうちは接触するのを禁じた。二人の母親の存在など、人格形成に悪影響を及ぼすのは、明白だからな』
「……紗香さんは、父さんに何を望んだんだ」
『お前を、賀谷と同じように医者にしたいということ。それと、その賀谷に迷惑をかけないこと。わたしは約束を守るつもりだった。和泉の家だけでなく、賀谷に危険が及ばないよう、長嶺に手を回したぐらいだ』
 なのに、と俊哉は洩らす。ここで初めて、口調にわずかな苛立ちが混じった。
『お前を佐伯家の人間として引き取り、育て、順調にやっていた中で、あんなことが起こった』
 紗香が精神的に安定しているうちは、俊哉との約束は守られていたのだろう。しかし結局は、和彦の記憶にあるとおりだ。悲劇は起こってしまった。母親が子に寄せる想いの深さを見誤っていたというより、紗香という女性を、俊哉は理解しきれていなかったのかもしれない。
『紗香は、世間知らずなままだった。お前を連れ去っても、二人で遠くに知らない土地に逃げる手段を思いつかず、結局、和泉家の土地に逃げ込んだ。それが彼女の本能だったということだ。わたしとの約束など、頭に残っていなかったのだろうな』
 俊哉が、理性の枠外で動く和彦を、紗香とよく似ていると感じていたとしても、不思議ではなかった。
「――……約束を守れ、って、そういう意味だったんだ」
 呻くような和彦の呟きが何を指しているか、すぐに俊哉は解した。
『お前の存在を目立たせるわけにはいかなかった。しかも、紗香と一緒にいるなど、あってはならないことだ。――ただ、わたしなりに、あの結末は後悔している。紗香は、あんな亡くなり方をしていい人間ではなかった。世間知らずだが、普通の優しい女だったんだ。お前が、当時のことを忘れてしまったのは不幸中の幸いだと、ずっと思っていたが……』
 深く息を吐き出して、和彦は抱えた膝に顔を埋める。秘密を封じ込めていた箱の紐は、一度緩んでしまえば、あとは簡単に解けてしまう。開いた箱から溢れ出たものが和彦の中を満たしていき、苦しくて堪らない。
「……ぼくの人生は、生まれる前から決められていた、ということか……」
『それでも、自由にはさせたつもりだ。進学のために一人暮らしをさせて、医者になったあとも、佐伯の家に戻ってこいとは言わなかった。いつか英俊が佐伯の姓を捨てたあと、お前が戻ってくれば、それでよかった。何かを強いるつもりはない。お前は佐伯の人間として生きてさえいればいいんだ』
「兄さんは、佐伯の家を大事にしている。父さんの思い通りにならない可能性があるのに」
『〈あれ〉は、あまりにわたしに似すぎている。わたしの人生をたどろうとして、わたし以上に血に殉じようとして――苦々しかった。英俊は、若い頃のわたしだ』
 佐伯の血が流れている英俊から、あえて姓を奪うという行為は、血の呪いから解放してやりたいという親心なのか、佐伯の家の系譜を歪めてやろうという、俊哉なりの復讐なのか。
 わからない、と和彦は何度も声に出して呟く。俊哉の抱えている闇の深さが、本当にわからなかった。どれほど、佐伯の血を疎んでいるのかも。
「父さんは、ぼくに意思があることを忘れている。もしぼくが、全部知ったうえで、和泉の家に入ると決めたら、どうするつもりなんだ。今みたいな話を聞いて、どんな顔をして家に戻ればいい……」
『和泉の家に入ったところで、お前は紗香と同じ苦しみを味わうだけだ。もともと和泉の家は、憂いの種となっていた紗香の元婚約者の実家が断絶したあと、お前を返してほしいと、こちらに連絡を寄越してきていた。お前の健康な体があれば、後継ぎとなる子はどうとでもなると考えていても不思議ではない。〈和泉〉と〈和彦〉、姓と名に同じ漢字が入っていると短命になると、古い言い伝えを信じている家だ。お前に名も捨てさせるかもな』
「そんな……」
 和泉の家に住む人たちと接してみて、そんな企みがあるとは到底思えなかった。少なくとも総子はもう、家の将来について諦観のような感情を抱いていると感じた。
「血の呪いだと言いながら、父さん自身が、ぼくに呪いをかけようとするんだね……」
『お前がこちらに戻ってきたら、膝を突き合わせて、いくらでも時間をかけて語ろう。――お前が佐伯家を継ぐべき人間だと、何度でも言ってやろう』
 ふいに猫が鳴き声を上げ、体を丸めたままこちらを見る。大きな丸い目を見つめ返しながら和彦は、頭に浮かんだ疑問をそのまま口にしていた。
「母さんは、全部知ってる?」
『……どうだろうな。英俊を婿養子に出す話に前のめりなのは、綾香なりに、わが子を守りたいと思ってのことかもしれない。佐伯や和泉の家から引き離そうと』
 初めて抱く感情だが、和彦は、自分自身を強烈に哀れんでいた。同時に、叫び出したいほど猛烈な怒りに襲われた。そして次の瞬間に襲われたのは、虚無感だった。
「血の繋がらないぼくに託すぐらいなら、父さん自身が、抗うべきだった。父さんの対応次第で、紗香さんはあんな亡くなり方をしなくて済んだかもしれない」
『そのことに気がついたときには、手遅れだった。そもそもわたしも、長嶺と出会っていなければ、考えなかった。……いろんなことを』
 俊哉の声は、暗い澱みのようなものを感じさせた。胸の内にずっと隠し持っていたものを晒しながら、この人はどんな感情に支配されているのだろうと、想像せずにはいられない。一方の和彦自身は、疲れからか声が掠れ気味となっていた。
 まだ聞かなければならないことがあるのではないかと、忙しく頭を働かせるが、思考は緩慢になりつつある。
 昨日までとは、まさに世界が一変したのだ。佐伯という姓に対しても、家族に対しても、自分は異物だという認識はあったが、完全に血が繋がっていないという現実は、あまりに非情だ。
「だったらぼくも、父さんと同じだ。長嶺の男たちと出会って、いろんなことを考えるようになった。その中の一つに、佐伯の姓を失っても、生きていけるんじゃないか、ということもある……」
 和彦のこの発言に対して返事をしなかった俊哉だが、電話を切ろうとしたとき、最後にこんなことを言った。
『――明日は、列車を乗り継いで帰ってこい。新幹線は今からだともう予約が取れないだろ』
 俊哉の指示を怪訝に思ったが、あえて疑問を口にするほどではない。実際、帰省終わりのラッシュが始まっており、和彦が利用する予定の新幹線は全車指定席となっているため、予約は絶望的なはずだ。
 それに、無理をしてでも一刻も早く帰りたいという心境ではない。
「わか、った……」
 電話を終えた和彦はぐったりと壁にもたれかかり、しばらく動けなかった。




 結局、俊哉との電話のあと、和彦は部屋に閉じこもったまま、誰とも顔を合わせることができなかった。総子が様子をうかがいに来てくれたが、板戸越しに最低限の会話を交わすのが精一杯で、それで総子は察してくれたようだ。
 夕食はわざわざ部屋まで運んでもらったが、ほとんど口をつけることができなかった。
 届けられた抗不安薬を服用したあと、和彦はただ横になって天井を見上げていた。ゆらゆらと視界が揺れていたのは、薬のせいなのか、浮かべた涙のせいなのかも、気に留めなかったぐらいだ。ただひたすら、考え続けていた。
 いつ自分が眠ったのかもわからず、ひどい喉の渇きを覚えて目を覚ましたとき、今が何時なのかわからず混乱する。
 部屋の電気はつけたままではあるが、ヒーターは消して休んでいたことに安堵する。しばらく和彦の傍らにいてくれた黒猫も、そろそろ仲間の元に戻るようにと、抱えて廊下に出したのだ。
 頭上に手を伸ばし、リモコンをたぐり寄せる。テレビをつけると、見覚えのあるニュースキャスターがニュースを読んでいる。画面の隅に表示された時刻を見て、小さく声を洩らす。
「朝、だ……」
 テレビに目を向けたまま和彦はぼんやりしていたが、いつまでもこうしているわけにはいかず、気力を振り絞って起き上がる。両瞼が腫れぼったく、きっとひどい顔になっているだろうなとため息をつく。
 顔を洗いに行こうと半纏を着込んで外に出ると、何か抱えた総子がこちらにやってくる。
 昨夜、礼を失した態度を取ったことを謝罪しようとしたが、そんな和彦を柔らかく制し、総子は微笑んだ。
「お風呂が沸いているから、入ってきてください。温まってから、朝食にしましょう」
 差し出されたのは、きれいにアイロンがかけられたワイシャツだった。
 受け取ったワイシャツを眺めて、今日の予定を思い出す。
「……今の状態だと、弁護士さんの話をまともに聞けそうにありません」
 ぽろりとこぼした弱音に、表情を変えないまま総子が応じる。
「何も心配はいりません。面倒なことは、この家と弁護士の先生で引き受けますから。あなたは必要な手続きを済ませればいいだけです」
「ぼくに、そこまでしてもらえる価値はあるんでしょうか」
 総子の顔からスッと微笑みが消える。憔悴しきった和彦の様子から、斟酌は簡単だったようだ。
「昨日は……、あまりいい話は聞けなかったようですね。俊哉さんから」
「楽しい話ではありませんでした」
 和彦は自嘲気味に言うと、ふうっと息を吐き出して、視線を窓の外に向ける。今朝は、山茶花の側に猫の姿はない。
「ずっと、何を考えているのかわからない人でしたが、昨日電話で話して、ますますわからなくなりました……」
 俊哉は、自分の生き方に対して、他人からの理解も共感も得られるとは思っていないだろう。そもそも、必要としていないのだ。傲慢で身勝手で冷徹。それが、俊哉という人間だ。その俊哉が生み出した〈呪い〉を押し付けられようとしている理不尽さに、和彦は何度も息が詰まりそうになる。
 しかし、総子に打ち明けるつもりはなかった。信用しているか否かの問題ではなく、綾香と紗香の母親である総子を、間違いなく傷つけると確信しているからだ。
「――俊哉さんの抱えた闇は深い、ということでしょうね」
「闇……なんでしょうか。父さん自身は、光を見出しているのかもしれないと、なんとなく思って……」
「あなたは、引きずられてはいけませんよ。闇だろうが、光だろうが、それは俊哉さんのものでしかないんです。――わたしの娘たちは、それがわからなかったのかもしれません」
 そう言った総子が、突然何かを思い出したように、小さく声を洩らした。一瞬、逡巡する素振りを見せたものの、毅然とした眼差しで和彦を見上げてきた。
「お風呂に向かう前に、あなたに見てもらいたいものがあります。……いろいろ思い出したあとですから、もしかするとつらいかもしれませんが」
 かまわないと答えた和彦は、総子について歩く。向かったのは、屋敷の奥にある部屋だった。奥とはいっても、晴れた日であれば日当たりのいい一角なのだろう。残念ながら今は薄曇りのうえに霧も出ているが、窓から見える景色は計算されたかのように素晴らしい。けぶる山々と、近景の生垣と花壇の花と。
「入ってください」
 総子に言われるまま部屋に足を踏み入れて、和彦は目を見開く。なんのための部屋であるか、すぐにわかった。
「ここは……」
 紗香のための仏間だった。仏壇には、墓に供えてあったのと同じ種類の花が飾られており、室内の雰囲気を明るいものにしていた。
 仏壇の前に正座すると、総子は小さいテーブルの上に並んだ写真立ての一つを差し出してきた。収められている写真には、まだ少女らしい面影を残した綾香と、もう一人、わずかに年若でよく似た顔立ちの女性が写っている。片方だけが、穏やかに微笑んでいた。
 この人が、と和彦は心の中で呟く。写真を見ても、不思議なほど気持ちは凪いでいた。記憶にあるのは成長した姿の紗香で、写真の少女とは面影が似ているだけとも思えるせいだ。
「女の子なのに、二人ともあまり写真が好きではなかったから、あまり撮ってあげられなくて……。あとになって後悔しました」
 他の写真も見せてもらったが、高校の入学式らしい制服姿の紗香に、胸が詰まった。生まじめな硬い表情を浮かべており、それが、自分自身の姿と重なった。
「似て、ますね……。ぼくに。顔もだけど、佇まいというか。晴れやかな場面で、上手く笑えないところとか――」
「恥ずかしがり屋なのでしょうね。あなたも、紗香も」
 ぎこちなく笑みを浮かべたものの、和彦はこぼれそうになる涙を堪えるのに必死だった。
 仏壇に手を合わせてから、テーブルの上に、写真立てと一緒に置かれた陶器製の鉢に目を留める。艶やかなピンク色の花が咲いており、なんとなく気になって、総子に花の名を尋ねる。ベゴニアといい、紗香が好きだった花だと教えてくれた。
 仏間を出て廊下を歩いていると、総子を探していたのか、君代が慌てた様子でやってきた。二人組のお客様が見えられた、と報告を受けて、総子は顔を綻ばせる。心当たりがあるのか、君代に短く指示を出してから、和彦を見た。
「……あの?」
「じっとしているのが落ち着かない性分だと、よく話している人たちですよ。行動力があって、優秀。若いのに、それなりに修羅場も経験しているそうです。だから――あなたのことをお任せしようと決めました」
 客人を出迎えるつもりなのか、総子が向かったのは玄関だ。必然的に和彦もついていく。
 靴を脱いでいる二人組の姿を見て、思わず声を洩らす。そこにいたのは、昨日墓参りに向かう途中で見かけた男たちだった。
 顎ひげを生やした男のほうは、グレーのチェック柄のマフラーを外し、口元に笑みを湛えながら総子に頭を下げる。一方の坊主頭の男は、表情らしい表情もなく、黙然と佇んでいる。
「――寒いですね。約束の時間まで宿でじっとしているのも落ち着かないので、わたしらだけ一足先にやってきました」
 総子の言っていた通りだと思ったが、それよりも和彦が気になったのは、顎ひげの男の言葉にわずかに独特のイントネーションがあることだった。関西訛りだろうかと思いながら、なんとなく総子の背後に控えたままになっていると、顎ひげの男がふいに和彦に目を留めた。
「なかなかいい格好ですね。いかにも、田舎で過ごす正月休みといった感じで」
 スウェットの上下に半纏を羽織った格好をそう表現され、和彦は居たたまれなさから身を縮める。
「顔色はあまりよくないが、起きて動けるようならよかったです。昨日は、あんなことになっていましたから」
 墓地で気を失った和彦を運んできてくれたのが彼らであると、総子は教えてくれた。和彦は礼を言おうとしたが、制された。
「ああ、気にしなくてけっこうです。仕事をしただけですから。……昨日のはこちらの失態です。もっと早くにあなたを見つけるべきでした」
 戸惑う和彦にかまわず、顎ひげの男は総子に向き直る。
「ざっとこの周囲を見ておきましたが、不審者は見かけませんでした」
「ご苦労様です。さあ中にどうぞ。お茶を淹れましょう。朝食はお済みですか?」
「こちらで食べるのを楽しみにして、宿の朝メシは断ってきたんですよ。――あっ、コーヒーでお願いします」
 男とのやり取りに慣れているのか、総子は口元を押さえて笑う。しかしすぐに笑みを消し、和彦を見た。
「では、準備をしますから、和彦さんがお風呂を済ませてから、一緒にとりましょう。そのとき、お互いの紹介と、今後についてのお話も」
 和彦は、一変した場の雰囲気に呑まれそうになりながら、ぎこちなく頷いた。




 帰りの列車で、和彦は座席にぐったりと身を預けていた。効きすぎた暖房のせいで、さきほどから顔が火照るうえに、頭痛がする。車内は混んでおり、人いきれにもあてられたのかもしれない。運よく座席に座れたが、こんな状況でなければ、途中下車してしばらく休みたいところだ。
 自分には時間が必要なのだと、車窓の外を流れる景色に目を向けながら、和彦は心の中で呟く。
 和泉家での体験は、強烈すぎるものばかりだった。家の人たちは優しく接してくれたし、親しみも覚えたが、滞在することによって和彦は、嫌でも己の出生と、今後の人生について向き合わざるをえなかった。
 和泉家から辞するときに、紗香の写真が数枚収められたアルバムを渡された。それと、とりあえず目を通しておくようにと、相続に関する分厚いファイルを。総子は、本当はいろいろと土産を持たせたいと言っていたが、帰ってからの和彦の生活の慌ただしさを気遣い、渡す荷物を最小限にしてくれたのだ。
 まだ他に、持ち帰っているものを思い出し、和彦はジャケットのポケットをまさぐる。取り出したのは、賀谷から渡されたメモ用紙の他に、三枚の名刺だ。顎ひげの男と坊主頭の男。そして、弁護士のものだ。
 弁護士を交えての面談は、諸々の手続きの説明や、準備されていた書類への署名などで、想定を超えて時間がかかった。
 灰色の雲の合間から、わずかに夕暮れのオレンジ色が覗いている。実家に戻った頃にはもう暗くなっているだろう。どうせ遅くなるなら、夕食は外で済ませるか、何か買って帰ろうかと、ぼんやり考える。和泉家の温かな食事を味わっていると、長嶺の本宅での食事が懐かしくなって、仕方なかった。
 帰りたい、と痛切に願った次の瞬間、どこに、と自問する。自分には果たして帰れる場所があるのだろうか、とも。
 すべてを知った今、和彦にとって実家の存在は、どこよりも苦しい場所となった。俊哉と相対するのも、正直怖い。だからといって、このまままっすぐ長嶺の本宅に駆け込んだところで、総和会が――というより守光が、見逃してくれるはずがない。
 長嶺の男たちと知り合う前まで、自分はどうやって生きてきたのだろうか。ふっとそんなことを考え、和彦は身を震わせる。
 列車がようやく目的の駅に到着し、のろのろとコートを着込んで準備をする。
 ホームを歩きながら、ずっと緊張していた。人の流れに押されるように改札口を通り抜けた瞬間、ざわりと肌が粟立った。混雑する駅構内で、何者かがこちらを見ているような視線を感じたのだ。気のせいかとも思ったが、和彦は顔を伏せる。このときには、心臓の鼓動が痛いほど速くなっていた。
 どこに向かうのかも決めないまま、とにかくその場を立ち去ろうと機械的に足を動かすが、行き交う人たちにぶつかりそうになり、結局顔を上げてしまう。五メートルほど離れた場所で、マスクをした男が、じっと和彦を見ていた。さらに男が携帯電話を手にしたところで、顔を背けて早歩きとなる。
 明らかに、和彦を捕捉しようとしている者の目だ。
 脳内に激しい警告音が鳴り響き、じっとりと冷や汗が滲む。とにかくここから出なければと、気ばかりが逸り、足がもつれそうになる。
「――佐伯先生」
 背後からはっきりと名指しされて呼ばれる。和彦はビクリと肩を震わせたものの、振り返らない。
 とにかくタクシー乗り場まで行けばなんとかなるかもしれないと、密集していた人たちが分散したタイミングで、小走りとなる。背後から足音が迫っているようだった。
 階段を駆け下りながら和彦はふと、もしかして自分は、意図的に罠に追い込まれているのではないかと危惧を抱いた。
「あっ……」
 タクシー乗り場の案内が見えたが、最悪なことに乗車待ちの行列ができている。その近くに、大柄な男が立っていた。行列に加わっているわけではなく、誰かを探しているかのように辺りを見回している。
 全身の毛が逆立つような感覚に襲われ、近くの太い柱の陰に隠れた和彦は強張った息を吐き出す。見間違えるはずもない。普段の粗野な空気を押し隠すように、黒のシックなコートで身を包んでいるが、存在が獰猛な獣じみた男には無駄なことだ。
「どうして、ここに、南郷さんが……」
 震える声で和彦は呟く。この場に止まり続けるわけにもいかず、柱からそっと顔を覗かせると、すでに和彦に気づいていたらしく、南郷がまっすぐこちらを見ていた。
 歯を剥き出すようにして南郷特有の笑みを浮かべ、手招きしてくる。逃げられないと悟り、足を踏み出しかけたが、寸前で踏みとどまる。
 耳元で蘇ったのは、電話越しに聞いた賢吾の言葉だった。
『――どうしてもダメだと思った瞬間が来たら、迷わず逃げろ』
 和彦は踵を返すと、とにかく一気に駆け出す。どこに向かうかはまったく考えられない。とにかく、南郷たちの手から逃れるのが先だった。
 待てっ、と鋭い声をかけられたが、必死で走り続ける。
 横断歩道を渡ろうとして、寸前で赤信号に変わる。一瞬ためらいはしたものの、立ち止まるわけにはいかなかった。停止している車が発進する前に道路に飛び出したところで、思いがけない速さでバイクが突っ込んでくる。
 足が竦んだ和彦は、目を見開いたまま動けなかった。









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