と束縛と


- 第46話(1) -


 起きてから、今日一日の予定を何も考えなくていい朝というものを、和彦はベッドの中で堪能していた。
〈ここ〉で寝起きするようになって、確実に眠りが深くなっている。安定剤も必要なく、朝までぐっすりと眠れるうえに、うなされるような夢も見ることはない。漂白されたような目覚めだと、そんな言葉がふいに頭に浮かぶのだ。
 和彦はもぞりと寝返りを打つと、ベッド横の小さな窓に視線を向ける。今日も天気はよくないのか、陽射しは入ってこない。外はよほど冷え込んでいるのか、窓から見ることができるブナの木の枝は、ふわふわとした綿毛がついたようにうっすらと白くなっている。
 樹霜(じゅそう)と言うのだと教えてもらった。読んで字のごとく、樹木の枝についた霜だという。枝だけが白く染まっている光景は幻想的で、いつまででも眺めていたくなる。
「雪……」
 ぽつりと洩らした和彦は、慌ててベッドから起き出すと、裸足のまま床の上に降り立つ。室内はほんのりと暖かいが、さすがに足元は少し寒い。窓からよく外を見てみると、今にも雪が降り出しそうな空模様ではあるが、かろうじて持ちこたえているようだし、夜の間に積もることもなかったようだ。
 窓の外には、ブナの木々と、その間を漂う濃い霧があるだけだ。静謐としか表現できない光景だった。まだ見慣れないということもあり、深い沼の底にでも沈んだ場所にいるような、不思議な感覚に陥る。
 実際のところは、和彦が今寝起きしているこのログハウスは、ブナ林の一角を切り拓いた場所に建っている。周囲に人家はなく、夜ともなると月明かりすら眩しく感じられるほど真っ暗になる。息を潜めて静かに生活したい人間にとってはうってつけの場所だろう。もっともそれは冬の間の話らしく、暖かくなってくると、近くにあるという渓谷目当ての人たちのトレッキングコースとなるそうだ。
 小さな滝もあるらしく、大雪が降らないうちに足を運んでみたいと思っているが、この空模様が続くようなら間に合わないかもしれない。
 ベッドを簡単に整えた和彦は、クローゼットから着替えを選び出す。とにかく冷え込む地域なので、しっかり着込むよう厳命されていた。コーデュロイパンツを履くと、Tシャツの上にネルシャツと厚手のセーターを重ねて着ていく。今から出かけるわけではなく、室内でこの格好だ。
 和彦は右足を少し引きずりながら寝室を出る。リビングダイニングは寝室よりも遥かに暖かく、薪ストーブの偉大さに何度目かの感動をしてしまう。耐熱グローブをつけてストーブ横の扉を開けると、薪を少し追加しておく。
 天板にかけられた大きなヤカンの注ぎ口からは蒸気が立ち上っており、乾燥しがちな室内を快適な湿度に保ってくれている。薪ストーブとしては小型だと言っていたが、何もかもコンパクトなログハウスではかえって具合がいいのだろう。
 リビングダイニングと寝室、それにキッチンと洗面所、トイレとシャワー室の1LDKという造りで、もともとは、仕事を定年退職した好事家が、趣味でこもるために建てたものだそうだ。しかし、自身が体を壊したため行き来が難しくなり、貸し出すことになったのだという。場所が場所のため、伝手もあって安く借りられたと、〈彼〉は説明してくれた。
 当初は夫婦で過ごす予定だったというだけあって、二人で過ごすにはぴったりの家だった。寝室は、大きめのベッドとクローゼットで大半のスペースが占められており、リビングダイニングは、テーブルセットとソファが隣り合って並んでいる。そこに薪ストーブと、二人分の食器を収めておくだけのサイドボード、買い溜めた食料品を入れておく横長の収納ボックスが加わり、窮屈さ一歩手前の空間を保っている。テレビは置いていない。そして固定電話もない。
 ちなみに外には、薪や除雪道具を仕舞っておく小屋があり、野菜や常温保存がきく食品なども保管している。
 和彦はラジオの電源を入れると、適当に周波数を合わせる。これまでラジオを聴いて過ごすという習慣がなかったので、今の時間帯にどんな放送をしているか、まだ把握できていないのだ。こういうときは新聞の番組表を確認して、と言いたいところだが、ここは新聞が配達されておらず、さらにはインターネット回線も通っていない。日々のニュースはラジオ頼りとなっている。
 ラジオをつけたまま、ヤカンの湯を使って洗面所で顔を洗うと、室内を簡単に掃除してからコーヒーを淹れる。一人分の朝食をわざわざ準備するのも面倒で、缶に入ったクッキーを数枚、小皿に取り分ける。
 予定がないため、やることもない。ゆっくり休めと言われているが、さすがにここに滞在するようになって十日も経つと、ずっと続いていた熱も下がり、今の体調はいい。まだ少し歩きにくくあるが、右足の捻挫の腫れもすっかり引いた。
 クッキーとコーヒーを交互に味わいながら窓の外に広がるブナ林を眺めていて、ふと思い立ち、サイドテーブルに置いてある野鳥図鑑を手に取る。退屈しのぎにと、和彦が好んで読むミステリー小説以外にも、さまざまなジャンルの雑誌を買ってきてもらったが、この図鑑は〈彼〉が選んだものだ。この辺りを飛んでいる野鳥の姿を双眼鏡で見ては、図鑑を開いて名を確認している。
 目的がなくても、図鑑というものは眺めているだけで楽しい。和彦は、ある鳥のページで手をとめ、ひときわじっくりと眺める。
 コーヒーを飲み終えたカップを洗ってから、ついでに毛布を取ってきて、ソファに横になって読書をしようかと考えていると、外から車のエンジン音が聞こえてくる。
 ログハウスの前でエンジン音が止まり、車のドアを閉める音がする。それから少し間を置いて、ドアノッカーを叩く音が響いた。警戒することなく返事をした和彦は、玄関に向かう。ドアを開けると、途端に切りつけてくるような冷気が入り込んできて、震え上がる。
「寒っ……いね」
「夕方ぐらいから吹雪いてくるみたいなんで、外での用事は早めに済ませておいたほうがいいですよ」
 白い息を吐きながらそう言った青年は、大きな段ボールを抱えている。和彦は慌てて玄関に入ってもらう。
「頼まれていたもの、持ってきました」
 床の上に置かれた段ボールの中を覗き込むと、野菜や果物などの食料品の他に、日用雑貨品も入っている。和彦が一つずつ取り出して確認している間に、青年は一旦外に出て、またすぐに、今度は両手に袋を提げて戻ってきた。
「こっちは、かあちゃんから。餅と肉味噌。あと、もらいものの卵。今朝産みたてだから、新鮮ですよ」
「あー、嬉しいな。卵はいくらでも使うし、お餅も肉味噌も美味しかったから」
「佐伯さんがそう言ってくれてたって聞いて、かあちゃんがはりきって作ったんですよ。肉味噌。餅も売るほどあるから、いつでも言ってください」
「売るほど、って、実際売り物だろ」
 食料品を持ってきてくれた二十代前半の青年――翔太(しょうた)の言葉に、和彦は破顔する。
 翔太は二、三日おきに、こうして食料品や日用雑貨品などを運んできてくれる。彼の実家は、このログハウスから車で十五分ほどの場所にあり、山魚の養殖場と、併設した食事処と商店を経営している。翔太は養殖の仕事の傍ら、注文を受けるとこうして配達もしているのだという。
 翔太は和彦の足元を見て、問いかけてきた。
「足の調子はどうです?」
「うん、もう腫れは引いたよ。少し痛みはあるけど、歩けないほどじゃないし」
「だったらようやく、念願の温泉に入りに行けますね」
 このログハウスについているのはシャワーだけで、湯に浸かりたいときは近くの町営温泉を利用することになる。ただし和彦は足を捻挫していたため、いまだに一度も出かけられていない。
「……骨折してるわけじゃないから、大げさなんだよな。一応自力で歩けるわけだし」
「〈あの人〉が心配するのもわかりますよ。熱、出ていたんですよね?」
「その熱が下がったから、温泉に入ってじっくり温まりたい……」
 翔太は苦笑いしてから、段ボールから品を取り出すのを手伝ってくれる。
「そんなことが言えるぐらい元気になってよかったですよ。最初、佐伯さんのことを病人だって説明されたから、うちのかあちゃんととうちゃんで、滋養をとってもらうのにどんな食い物を差し入れたらいいのか、相談し合ったんですよ」
「ただの疲労で、少し寝込んでいただけなんだけど、大げさに伝えたみたいだ」
 冷凍した肉の塊を取り出して目を丸くすると、近くで獲れた鹿肉だと教えてもらう。
「とにかく肉を食わせて、佐伯さんを少し太らせたいと注文を受けたので。若い鹿だからクセも少ないし、脂っこくなくて、いくらでも食えます。何より美味い。適当に塩コショウで味つけしただけでいいですよ」
 料理が苦手な人間には、手順が少ないのはありがたい。簡単に作れる料理の本も買ってきてもらい、二人で四苦八苦している最中なのだ。
 空になった段ボールを畳んだ翔太が、挨拶をして玄関を出ようとして、急に振り返る。ポケットから折り畳んだ紙を差し出してきた。
「そうだ。頼まれてたもの、持ってきてたんだ。――これ、この辺りの観光地図です。実は、うちの養殖場も載ってます。釣り堀もやってるんですけど、寒くなってくるとお客さんが少なくて。いつでも遊びに来てください」
「手広くやってるなー」
 翔太を見送った和彦は、届いた品を仕舞い終えると、さっそく、受け取ったばかりの観光地図を広げる。ここに来てから、ログハウスの周囲を軽く散歩したことしかないため、イラスト付きの大まかな地図ではあっても興味深い。
 ログハウスが建つ位置に見当をつけ、そこから、見てみたいと思っている滝までの道程を指でなぞる。
「……さすがに、歩いていくのは無理か」
 そう呟いた和彦だが、地図を眺めているうちにある場所が気になり、一人そわそわとし始める。
 薪ストーブの薪がまだ当分持ちそうなのを確認してから、ヤカンの水をたっぷり補充しておく。散歩に出るときは、わざわざ薪ストーブの火を消さなくていいと言われていたが、やはり不安だ。
 寝室からダウンコートとネックウォーマー、毛糸の帽子と手袋を持ってきて、身につけていく。手袋を嵌めようとして、和彦は少し複雑な心境になる。身につけているものほぼすべて、ここに来てから新たに買い与えられたものばかりだ。手袋については、南郷から贈られたものを駅構内を走っているうちに落としてしまったようで、物には罪はないと思っている和彦としては多少なりと罪悪感を覚えるのだ。
 玄関には、普通のスニーカーの他に、立派なアウトドアブーツが並んでいる。これも、必要になるかもしれないからと言って揃えてもらい、今日初めて履いてみる。サイズはぴったりだった。
 防寒対策をして外に出ると、ゆっくりと辺りを見回す。目が覚めたときはあれだけ立ち込めていた霧はすでにもう消えている。ただ、だからといって天候がよくなったわけではなく、厚い雲が空を覆い尽くしている。翔太は夕方から吹雪いてくると言っていたが、もっと早くに天候が崩れても不思議ではない。山の天候は気まぐれだと、もう何度も聞かされていた。
 和彦は右足の調子を確認しながら、ゆっくりとした歩調で歩く。ここで生活し始めてから痛感していたが、捻挫したことを抜きにして、格段に体力が落ちている。肉体的にも精神的にも疲弊しきって高熱を出し、それはほんの二日ほどで下がりはしたが、あとは微熱が続いていた。とにかく体がだるくて、ログハウスの周囲を散歩するのがやっとだったのだ。
〈彼〉が、和彦を置いて一人で朝から出かけるのも、そんな体調を知っているからだ。連れ回したところですぐに疲れさせるだけだとわかっているのだ。
 体力を戻すより先に、まずは気力の復調を優先しなければ――。和彦は自分に言い聞かせながら、足を動かし続ける。目的はなんでもいい。気力が湧き起こり、実際に行動を起こしてみようという気になるのであれば。
 車一台が通るのがやっとの山中の道は、陽射しが差さないこともあって薄暗い。車どころか人の姿もなく、ブナの木の間を吹き抜ける風の音だけが響く。ときおり頬に冷たいしずくが触れるのは、枝についた樹霜の名残りのようだ。
 和彦は歩きながら高いブナの木を見上げる。最初は木の種類などわかっていなかったのだが、ログハウスに連れて行かれたその日に、窓の外を見ながら教えてもらった。他に、薪ストーブの扱い方や、防寒の仕方など。
 本当は他に教えてもらいたいことはあるが、和彦からはまだ尋ねていない。和彦の心中を察してか、〈彼〉からも切り出してはこない。静かだが、どこか緊張感のある日々を過ごしてきた。
 風の音に交じって水音が聞こえてきたので、耳を澄ませて気のせいではないことを確認する。少し歩くと道が二手に分かれ、和彦は迷わず小道のほうに足を進める。
 辿り着いたのは、小さな沢だった。大小の岩や石が転がっている間を、細く水が流れている。行こうと思えば上流へと上がっていけるかもしれないが、真冬の今の時期、水を被りながら濡れた岩を乗り越えていくのは、無謀すぎる。
 鳥のさえずりにハッとする。和彦はこのときになって、双眼鏡を持ってくればよかったと後悔していた。
 ふいに、背後から言葉をかけられる。
「――何をしているんだ」
 この十日の間、ずっと側で聞き続けた声だった。和彦は、ブナの木々の間に野鳥の姿を探しながら応じる。
「もらった地図を見てたら、この近くに洞窟があると描いてあったんだ。どんな感じなのか見てみたくて」
「どんな地図を見たんだ。洞窟は、もっと先だぞ」
「洞窟って、実物を見たことがないから、どんなものかと思って……」
「小学生の遠足コースになってるようなところだ。多分、お前の期待に応えられるようなものじゃないだろうな」
 よく知っているなと、和彦は口中で呟く。
 野鳥と洞窟を見つけるのは早々に諦め、和彦は沢に近づく。危ないぞと、すかさず言われる。
「どうして、ここにいるとわかったんだ」
「簡単だ。ふらふらと歩くお前のあとをついてきた」
「……性格悪いな。だったらもっと早くに声をかけたらよかったのに」
「お前がどこに行こうとしているのか気になった」
 すぐ背後で小石を踏む音がする。
「予報より早く雪が降り出すかもしれないから、帰るぞ。――和彦」
 和彦は軽く息を吐き出して振り返る。すかさず、自分を見つめる視線とぶつかった。
 ドロドロとした感情の澱を湛えていた男の目は、今も健在だ。しかし今はそこに、こちらがうろたえてしまうほどの優しさも加わっている。皮肉げな表情も影を潜め、淡々として物静かだ。トレードマークだったオールバックをやめて髪を短く刈り、かつての不精ひげは、伸びてきれいに整えられている。
「鷹津」
 そう和彦が呼びかけると、鷹津は一瞬眉をひそめる。
「約束しただろ。ここに連れてきたときに」
「……しゅう。――秀、秀」
 和彦は鷹津の名を呼びながら、手を差し出す。当然のように鷹津にその手をしっかりと握られ、引き寄せられた。









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