と束縛と


- 第46話(2) -


 足を引きずる和彦に合わせて、鷹津はゆっくりとした歩調で歩く。息が切れて立ち止まると、声をかけるまでもなく、鷹津も足を止める。
 和彦を急かすでもなく、頭上を見上げたり、周囲を見回す鷹津の様子は、警戒心が強い獣を思わせる。さながら今の自分は、その獣に庇護される番(つがい)といったところだろう。大げさではなく、この地に来てから和彦は、何もかも鷹津の世話になっていた。
 あの日駅で、南郷たちから逃れるために必死で駆けていたときのことを思い返す。
 道路に飛び出し、向かってくるバイクを前に動けなくなった和彦を、背後から強く腕を掴んで引き戻したのが鷹津だった。とはいえ、すぐには正体がわからなかった。バランスを崩して足首を捻り、勢いで地面に座り込んだのだが、目深にキャップを被った髭面の男に容赦なく引き上げられ、ほとんど抱えられるようにして歩かされたからだ。
 切迫感と混乱と恐怖、それに足の痛みから、思考が空白になっていたのかもしれない。和彦は抵抗もできないまま、ただ男についていくしかなかった。駅近くに停まっていた車の後部座席に男と一緒に乗り込み、十分ほど移動した。最後まで運転手とは一言もを会話を交わさなかったことから、何もかも打ち合わせ済みだったのだと推察はできた。
 車を降りると、近くのコインパーキングに停まっていた別の車の助手席に押し込まれた。今度は男がハンドルを握り、和彦はひたすら体を強張らせて俯いていたが、次第に右足の痛みが強くなっていくことに気づき、ぎこちなく動かしてみる。意識しないまま呻き声を洩らしていた。
「――足を痛めたか?」
 ここまでずっと沈黙を貫いていた男が初めて発した声を聞き、和彦はハッと顔を上げた。ハンドルを握る男の横顔をまじまじと見つめたところで、やっと、鷹津だと気づいたのだ。
 少しの間我慢しろと言って、鷹津は車を走らせ続ける。和彦は目を見開いたまま、ただ鷹津の横顔を見つめることしかできない。どうしてあの場にいたのか聞きたかったが、落ち着いてくれば、理由は一つしか思い当たらない。俊哉が事前に知らせていたのだ。だから俊哉は、わざわざ在来線を使うよう和彦に指示したのだ。
 行き違いになったらどうするつもりだったのかと、恨み言のように質問をぶつけると、鷹津の口元がふっと緩んだように見えた。嘲笑されたように感じ、和彦は一瞬にして気持ちが昂る。
「……なんだ?」
「最初にツンケンした物言いをしてくるのが、いかにもお前らしいと思ってな。懐かしくなった」
 最後に鷹津と会話を交わしてから、およそ四か月ほど経っている。今日までの間に和彦の身にはずいぶんと様々なことが起こり、なんだかずいぶん長い月日が流れたような気がした。
「行き違いにならないよう、他に人員を配置して、改札を見張らせていた。その一人から、お前が予定通りの改札を出てきたと連絡を受けたから、絶妙なタイミングで拾えたんだ。……さすがに、総和会の人間もうろついている構内に、俺は待機できなかった」
 ああ、と和彦は声を洩らす。鷹津の存在は、総和会に要注意人物として認識されている。さきほどの場で鷹津と南郷が直接顔を合わせていたらと想像して、ゾッとする。
「あんたと接触する前に、ぼくが総和会の人間に連れて行かれていたらどうするんだ。……正直、あの場で走り出せただけでも、自分で奇跡だと思っているぐらいだ。本気で追いかけられたら、とても振り切れなかった」
「あいつらは駅では派手な行動は取れなかったはずだ。総和会の人間が駅でヤクの取引きをやるようだと、所轄に〈匿名〉のタレコミがあったからな。構内で仮にお前が捕まったとしても、警戒していた署員が即座に動く。まあ、お前も取引相手として、一緒に署に連れていかれた可能性もあるが、総和会に連れて行かれるよりはマシな事態だ。――結果として、上手くいった」
 刑事を辞めた人間が、どうしてこんな確信を持った言い方ができるのか。考えられることは一つだ。和彦の頭の中を覗いたように、鷹津は面白味もない口調で続けた。
「元悪徳刑事の面目躍如だ。警察とヤクザがどう動くか、予測がつく。俺はどちらの組織からも蛇蝎の如く嫌われているから、そこをお前の父親に買われたというわけだ」
 俊哉の話題が出て、このまま実家に連れて行かれるのだと思った途端、圧し潰されそうな胸苦しさに襲われた。そもそも和彦は、実家に戻るために移動していたのだ。鷹津が同行することになったところで問題はない。
 心の準備をしたはずなのに――。和彦は無意識のうちにコートの胸元を握り締める。
 そんな和彦の様子を一瞥して、鷹津は小さく舌打ちした。
「さっきから顔色が悪いぞ。死人みたいなツラだ。……これから車で長距離を移動することになるから、多少無理させるぞ」
「えっ……」
「その途中で、いろいろと買い込むものがある。が、まずは、お前の足の状態を確認するのが先だ。痛みがひどいようなら、病院だな」
「待、て……。どこに行くんだ? 病院じゃなくて――」
「お前には当分、実家だけじゃなく、長嶺とも総和会とも離れてもらう。そのために、身を隠す場所を押さえてある」
 なぜ、そうなったのか。鷹津は話してくれなかった。聞けば教えてくれたのかもしれないが、実家に向かうわけではないと知り、まず安堵した自分の気持ちに和彦は従うことにした。
「――……鷹津、あんたも一緒にいてくれるのか?」
「そのつもりで、ずっと準備をしていた」
「だったら、いいんだ……」
 ようやく肩から力を抜いた和彦に、次に鷹津が言ったのは、自分のことは名で呼べということだった。鷹津が姿を消す前、ぎこちないながらも互いに名を呼び合っていたことを、しっかりと覚えていたらしい。切迫したこの状況で念押しされることなのかと戸惑いもあったが、いつまでかはわからない、これから生活を共にするための契約なのだと和彦は認識し、承諾した。
 鷹津は、和彦の予想を遥かに上回って細やかに面倒を見てくれている。出会ったばかりの頃の、傲岸不遜で挑発的、下卑た発言ばかりしていたのは一体なんだったのかと、ときおり考えるぐらいだ。
 本来、こういう性質の男だったのか、自分だけが特別なのか――と、和彦は傍らに立つ鷹津を見遣る。見慣れたつもりでも、短髪に、口元を覆う髭という精悍な姿に、鼓動が大きく跳ねることがある。
「どうした?」
 そう問いかけてきて、さりげなく鷹津が腕を出してくる。和彦は遠慮なく掴まり、再び歩き出す。
「翔太くんが、鹿肉の塊を持ってきてくれたんだ」
「ああ。レシピを調べてきたから、ステーキ以外に、シチューでも作ってみるか」
「……そんな難しそうなもの、本当に作れるのか?」
「薪ストーブで煮込み続ければできるだろ。赤ワインはあるし、調味料も野菜も揃ってる。――安心しろ。お前には期待してない」
 ときどき口の悪さが出てくるなと、和彦は気を悪くするよりも、おかしくて笑ってしまう。
 昼食は、焼き立ての食パンを買ってきたというのでホットサンドを作ることにして、それならと、コンソメスープもつけることにする。小腹が空いたときに手軽に飲めるため、インスタントのカップスープを重宝しており、また頼んでおこうかと考えているうちに、ログハウスに着いた。外には、鷹津が使っている軽ワゴン車が停まっている。どういう経緯で選んだのか、髭面の男には似つかわしくない、明るい黄色の丸みを帯びた可愛い車体で、乗っている鷹津の姿を見るたびに、和彦は表情を緩めるのだ。
 玄関に入ると、暖かさに大きく息を吐き出す。手袋を外し、もごもごと身じろぎながらアウトドアブーツを脱ぐと、毛糸の帽子は鷹津に取られた。
「しっかり汗を拭いておけよ。また熱を出すぞ」
 はいはいと返事をして寝室に入ると、脱いだダウンコートなどをクローゼットに仕舞う。ここで一気に疲労感に襲われ、和彦はベッドに這い上がって転がった。極端に足がだるいのは、普段より少しだけ長く歩いたからだ。
 情けない、と自嘲しながらも、まだしばらくこのままでもいいのではないかと、不安定に気持ちは揺れる。予定に縛られない、少し散歩をしただけで充足感を得られる生活は、案外心地がいい。
「おい、ホットサンドの具は――」
 寝室を覗きにきた鷹津が、ベッドの上の和彦を見て表情を険しくする。
「気分が悪いのか?」
「……知らない鳥が飛んでいたから、横になって見ていただけだ」
 鷹津がほんの一瞬見せたほっとしたような表情に、目を奪われる。我に返った和彦は、ぎこちなくベッドを下りる。
「作るの手伝う」
「焦がすなよ。神経質そうに見えて、お前けっこう、大雑把なところあるぞ。いや、大雑把というか、適当――」
「……足が完全に治ったら、蹴りを覚悟しろよ」
 怖い、怖い、とおどけたように言って、鷹津は肩を竦める。和彦は、今は蹴りを入れられない代わりに、向けられた広い背を軽く拳で殴りつけた。


 一部が炭のように焦げてしまったホットサンドを食べ終えた和彦は、食器を洗ったあと、冷蔵庫や食料品が入った収納ボックスの整理をしてから、一仕事終えたとばかりにソファで横になった。
 一方の鷹津はテーブルにつき、書店のカバーのかかった専門書らしきものを読んでいた。つけたままのラジオから流れていたのはピアノの音が心地いいクラシックで、おかげであっという間にウトウトする。鷹津に何か話しかけられて、適当な返事をしていた気がする。
 ふと目が覚めたのは、窓がガタガタと揺れる音のせいだった。風が出てきたなとぼんやり考えながらソファの上で身じろぎ、壁にかかった時計を見上げる。午後三時を少し過ぎており、二時間ほど眠ったことになる。使った毛布を畳みながら室内を見回すが、鷹津の姿はない。
 立ち上がった和彦は何げなく窓のほうを見て、驚く。外が白く染まっていた。窓に歩み寄り、声を洩らす。
「うわ……」
 圧倒されるような勢いで雪が降っていた。いつから降っていたのか知らないが、ブナの木の枝にすでに積もっており、山を白く染めつつある。その光景から目が離せなくなっていた。しかし数分もしないうちに現実に引き戻される。
 いきなり玄関のドアが開き、ヌッと鷹津が入ってきた。米袋のようなものを玄関横のスペースに置くと、またすぐに出ていく。
 一体なんだろうかと、和彦は玄関横で屈み込み、袋に印刷された文字を読む。すると鷹津が戻ってきて、今度は段ボール箱とレジ袋を抱えていた。段ボール箱のほうを差し出され、反射的に立ち上がって受け取る。和彦が昼寝をしている間、鷹津は外で作業していたらしく、着込んだダウンコートの両肩に雪が積もっていた。
「その荷物は、お前宛てに送られてきたものだ。預かっていると安川商店から連絡が入って、受け取りに行ってきた。ついでに買い足しておきたいものもあったしな。明日でもよかったが、吹雪いてくるとなると、雪で道がどうなるかわからん」
 安川商店とは、翔太の実家のことだ。二人宛ての荷物は安川商店に送ってもらい、連絡があると鷹津が受け取りに行く。ここまでやってくる配達業者が大変だというのもあるが、何より、このログハウスの住所を明らかにしたくないというのがあるのだろう。
「買い足しておきたいものって?」
「乾電池に軍手。お前が欲しいと言っていたカップスープも何箱か買ってきた。その他いろいろ。揃えたつもりでも、いざとなると心もとない」
「……で、戻ってきてから、凍結防止剤も撒いたのか」
 大きな袋に入った凍結防止剤だが、もう半分ほどなくなっている。
「声をかけてくれたら、ぼくも一緒にやったのに」
「気持ちよさそうに昼寝しているお前を叩き起こして、恨まれたら嫌だからな」
 玄関で肩の雪を払い落としながらの鷹津の言葉に、体調を気遣ってのことなのだろうなと思ったが、指摘するのも野暮だ。和彦は、はいはいと頷いておく。
 ソファに腰掛けると、さっそく段ボール箱に貼られた送り状を確認する。送り主はやはり、総子だった。
「――孫の生活が心配でたまらないんだろう」
「なかなか気苦労の多い人だよ。……ぼくの母のことがあって、その母の元婚約者の家と諍いになって。収めるために父さんが、長嶺組の手を借りた。そして今は、孫のぼくがいろんなしがらみに縛られて、元悪徳刑事の手を借りて身を隠している」
「だからこそ、肝が据わっているんだろうな。俺みたいな怪しい素性の奴とも、平然と会話ができるぐらいだ」
 俊哉を介して、鷹津と総子は連絡を取り合えるようになったといい、現在のログハウスを拠点とした生活に、長嶺の男たちは一切関与していない――させていない。そう、鷹津から説明を受けている。
 和彦が姿を消したことで状況に変化が起きないはずがない。あるいは、変化をあえて起こすために、鷹津と俊哉、総子が何か画策しているのではないか。
 不穏な想像で己の気力を奮い立たせてみようとするが、その三人から悪意も害意も向けられたことはないため、切迫感はどこまでも乏しい。和彦は別に、この場所に軟禁されているわけでも、完全に情報を遮断されているわけでもないからだ。
 丁寧に送り状を剥がしてから、段ボール箱を開封する。中を見て、声を上げていた。
「セーターが入ってる。それに、毛糸の靴下っ。これは……のど飴かな。あっ、ジャムも入ってる」
 他にお茶のティーバッグや茶菓子、佃煮なども入っており、和彦の生活を気遣っているのがよく伝わってくる。段ボールの下には厳重に梱包された包みが入っているのを見つけて、ちらりと鷹津を見上げると、ひらひらと手を振られた。
「それは寝室で確認してこい。俺に見られたくないものなんだろ」
「そういうわけじゃないけど……。これを見ている最中の、ぼくの顔を見られたくない、というのが正確なところだな。きっとひどい顔になるから」
 一週間ほど前、最初の荷物が総子から届いたとき、同封された手紙に予告めいたことは書かれていたのだ。誰にも邪魔されず、時間もたっぷりある環境にいる今こそ、できる手続きを進めてしまいたいと。
 わたしたちには残された時間が少ない、と和泉家に年末年始に滞在したとき、ぽつりと総子が洩らしていた。その言葉の重みを、和彦はじわじわと実感している。
「……子供の頃のことを思い出してから、自分は〈欠けていた〉人間だったんだと思った。実の母のこと、母方の祖父母のこと。ぼくは自分を守るために、思い出を犠牲にしてたんだ。だからこそ、全部知ってしまうと、何かで補おうと焦ってしまう」
「和泉家の人間と思い出作りがしたいのか?」
 鷹津の声には、どことなく突き放したような冷たさがあった。皮肉屋な男らしく、感傷的になっている自分を嘲っているのだろうかと、鷹津の表情をうかがった和彦は目を丸くする。鷹津は、怖いほど真剣な顔をしていた。
 自身の出生について、鷹津には簡単な説明しかしていない。もしかすると俊哉か総子から詳細に聞かされているのかもしれないが、和彦から切り出すことを待っているように感じる。混乱した気持ちを言葉にして吐き出してしまうこともあり、きっと要領を得ないであろう話でも、鷹津はすべて理解しているかのように自然に会話を続けるのだ。
「――……何も知らないまま、ずっと疎遠にしてたんだ。その間に作れたたくさんの思い出が、きっとあったはずで、だから胸が痛くなる。申し訳なくて……」
 和彦がソファの上で膝を抱えると、側にやってきた鷹津の手が頭に乗せられる。
「電話で話しただけだが、お前のばあさんは、過去よりも将来を見据えてもらいたがっていたぞ。これから先が長い人生なんだからと。お優しい言い方をするなら、終わったことは取り返しがつかない。だからお前がウジウジ思い悩む必要はないということだ」
 鷹津が励ましてくれているのだと、気づくのに少しだけ時間を必要とした。和彦は小さく笑みを浮かべる。
「……口が悪い」
「うるせーな」
「ばあちゃまは――」
 子供の頃の記憶にある呼び方が無意識に口を突いて出てしまい、和彦は誤魔化すように咳をする。矯正している最中なのだが、油断するとこういうことになるのかと、顔から火が出そうだ。鷹津は顔を背けて、肩を震わせている。いっそのこと、派手に笑ってもらったほうが気が楽だ。
 気を取り直して改めて言い直す。
「おばあ様から、どこまで聞いた?」
「お前から聞いたことと、だいたい同じようなことを。……お前に武器を与えたいとか、物騒なこと言ってたぞ」
 和彦はため息をついて、抱えた包みに視線を下ろした。
 鷹津は、ダウンコートのポケットから携帯電話を取り出すと、床の隅で充電器と繋ぐ。そしてまた玄関に向かおうとしたので、慌てて呼び止めた。
「明日のために、小屋から除雪道具を出して、玄関先に置いておくだけだ」
「そんなに積もりそうなのか?」
「念のためだ。――携帯、使ってもいいぞ」
 そう言い置いて鷹津が玄関を出て行き、和彦はソファに座り直してから、充電中の携帯電話に視線を向ける。
 ログハウスで過ごし始めて十日になるが、その間、鷹津から誰とも連絡を取るなと言われているわけではない。ただここの住所を知らせるなと釘を刺されているだけなのだ。携帯電話も、鷹津が外に持ち出しているとき以外は管理は緩く、いつでも使えるようになっている。
 それなのに和彦は、長嶺の男たちとまだ連絡を取っていない。
 彼らが棲む〈あの世界〉と離れてしまうと、ほんの少し前まで自分がそこで生活していたという事実に実感が伴わなくなる。まるで、長い夢でも見ていたように。
 今の自分は危ういと、和彦はよく自覚している。だから連絡は取れない。それだけだ。


 夕食前に和彦は、鷹津がキッチンに立っている隙に少しだけ外に出てみたが、世界が一変したかのような静寂と、積もる雪の白さに息を呑んだ。このまま降り続いたら、この場所はすっぽりと雪に覆われてしまうのではないかと不安が首をもたげたが、一方で、物理的に隔絶されるということに、抗いがたい魅力も感じていた。
 外はすでに真っ暗で、玄関灯の明かりがかろうじて周囲をぼんやりと照らしているだけだ。明かりの届かない場所まで行ったとき、そのまま闇にさらわれてしまうのではないか――。
 和彦はふらりとウッドデッキの階段に足を踏み出そうとしたが、試みは成功しなかった。背後から鷹津に首根っこを掴まれて、部屋に連れ戻されたからだ。
 今晩は特に冷え込むということで、夕食はおでんだった。手の込んだ料理は作れないため、だしもついたおでん種のセットを鷹津が買ってきていたのだ。煮込み担当も鷹津で、料理ができないというわりに、意外に刃物の扱いや準備などが手慣れている理由を問うと、山登りをしていた頃はやむなく自分で作っていたのだという。
 その頃の話を和彦はもっと聞きたかったが、おでんを食べて体が温まっているうちにシャワーを浴びてこいと、追い立てられてしまった。
 まず熱湯を出して狭いシャワー室内を暖めてから、急いで体を洗う。換気扇から入り込んでくる冷気は厄介で、のんびりしていると、湯を浴びている端から体が冷えてくるのだ。替えのスウェットの上下を着込み、慌ただしくリビングダイニングに戻って薪ストーブの前に陣取る。水滴が落ちている髪を拭いていると、キッチンから鷹津が出てきた。
「しっかり髪を乾かしておけよ。湯冷めするぞ」
「湯冷めどころか、そもそも温まる暇がなかった。――早く、温泉に入りに行きたい」
「お前、毎日言ってるな。それ。……残念だが、確実に明日は無理だろうな」
 夜のうちに水道が凍るかもしれないからと、鷹津もシャワーを浴びてくるのを待ってから洗濯を済ませる。梁と梁の間に張ったロープに洗濯物を干していくと、それでなくてもコンパクトな部屋は一層狭く感じられるが、仕方ない。それに、生活感が増した空間を和彦は嫌いではなかった。
 総子が送ってくれたティーバッグでお茶を淹れてから、ヤカンにたっぷりの水を足しておく。鷹津は、寝室のほうで何かしているようだ。
 やっとソファに腰を落ち着けた和彦は、改めて、室内に干した洗濯物を眺める。自分のTシャツと、隣には鷹津のインナーシャツが並び、さらには二人分のトレーナーとバスタオル。薪ストーブ近くに移動させたイスの背もたれには、洗濯ハンガーを引っ掛け、そこには靴下や下着を。
 誰かと二人きりで生活して、相手を思いやりながら家事をこなすのは初めてだった。甲斐甲斐しいタイプではないと自覚はあるため、世話を焼かれることはあっても、焼いたことはない。今の生活も、鷹津に世話になっている部分は多大にあるが、それでも、不得手なりに和彦も動いている。
 食事のたびに何を作るかと相談し、役割を分担し合うのも、けっこう楽しい――。
 無意識のうちに表情を和らげていたことに気づき、和彦は強く頬を撫でる。自分がこの場所に滞在している理由を考えれば、能天気に楽しんでいる場合ではないのだ。そこに、鷹津が戻ってくる。
「何してたんだ?」
「寝室の窓に断熱シートを貼っていた。お前がベッドから窓の外が見えると喜んでたから、まあいいかと思ってたんだが、こうも冷え込むと、やっぱり気になる」
「……あり、がとう」
 お茶を飲むかと問いかけた和彦の顔を、ふいに鷹津が覗き込んでくる。
「お前、顔が赤いぞ」
 それは今さっき頬を擦ったからだと言おうとしたが、鷹津はその前に体温計を取りに行き、有無を言わせず突き出してくる。鷹津は、和彦の体温管理に厳しい。
「一応、こっちは医者なんだが……」
「医者の不養生という言葉があるだろ。お前は、ちょっと元気になったら、フラフラしやがって」
 渋々体温計を受け取ろうとした和彦は、鷹津の右手に目を留める。トレーナーの袖を捲り上げているせいで、腕から手首にかけて走った刃物傷の跡がよく見えた。
「なんだ?」
「さすが、ぼくが縫った傷だと思って。跡がきれいだ」
 体温計を脇に挟みながら和彦が答えると、鷹津は鼻先で笑った。
「オッサンの傷跡がきれいか汚いかなんて、気にする奴はいねーよ」
「きっとぼくだけだな。気にするのは」
 不自然な沈黙が訪れる。和彦は体温計の電子音が鳴るのを待ちながら、鷹津の視線を意識していた。そのせいか、やけに鼓動が速くなり、今になって頬の熱も感じる。
 ようやく熱を測り終えたときはほっとしたが、脇から出した体温計をすかさず取り上げられた。表示を見てムッと唇をへの字に曲げた鷹津に、寝室を指で示される。
「お前はもう、ベッドに行け」
「……まだ夕方――」
「行け」
 こういうときの鷹津に逆らうのは不可能だ。和彦は、まだ全然眠くないのだがとぼやきながら、寝室に向かう。確かに、ベッド横の小さな窓には半透明のシートが貼られ、外の景色が見えなくなっていた。
 和彦がベッドに潜り込むと、鷹津がサイドテーブルに水の入ったペットボトルを置き、さらにラジオまで持ってきた。
「至れり尽くせり……」
「うるせー。寒気がしてきたら電気毛布も使えよ」
「なんともないんだけどなー」
 ベッドの端に腰掛けた鷹津がラジオを操作し、音量を抑えたニュースが流れてくる。どこも大雪で大変なようで、混乱ぶりを伝えるニュースに耳を傾けながら、向けられた鷹津の背を和彦はじっと見つめる。
「――ずっと気になってたんだ」
「何をだ」
「少し痩せただろ、秀」
 肩越しにちらりと鷹津が振り返る。
「忙しかったんだ。刑事だった頃よりまじめに働いてたな」
「総和会に追われてたんじゃないのか」
「あいつらは、俺一人にかまっていられるほど暇じゃないだろ。ようは、お前にまとわりついていたのが不愉快って話だったんだ。そういう意味では、長嶺のほうが厄介だったかもな」
「組?」
 和彦は枕からわずかに頭を浮かせる。
「長嶺個人だ」
「賢吾……」
「あいつは、俺という人間をよく知ってる。だから伝手という伝手を使って、俺を捜し出そうとしていたみたいだ。自分のオンナを連れ出されて、相当頭に来てたんだろうな」
「……それなのに、ぼくの前に現れたことがあっただろ。前に」
 鷹津は短く声を洩らして笑った。
「まさか、見つかるとは思わなかった。あのときお前は、よりによって総和会の奴と一緒にいたしな」
 鷹津が言っているのは、中嶋のことだ。彼と一緒にいたとき、人波の中に鷹津の姿を見かけたのはやはり見間違いなどではなかったと、今証明された。
「どうして……」
「俺の口から言わせたいのか?」
 鷹津の背に伸ばしていた手を、触れる寸前で止める。
「――〈俺の〉オンナが元気にしているか、確かめたかった。……お前が気づかなかっただけで、何度か遠くから見てたんだぜ」
 思いがけない告白に、じわりと熱が上がった。


 横になったままラジオを聴き続けているうちに、いつの間にかうとうとしていた和彦だが、強い寒気で目が覚めた。ぶるりと身を震わせ、ため息をつく。きちんと布団に包まっていて、背筋がゾクゾクしてくるのだ。理由は一つしかない。
 今日出歩いて汗をかいたのがいけなかったのか、そもそも本調子ではなかったのか。頭が痛くないだけマシかと嘆息して、慎重に体の向きを変える。いつの間にかラジオは消され、ときおり強い風の音だけが耳に届く。
 常夜灯の明かりを見上げて少しの間ぼんやりしていたが、寒気が耐え難いものになってきて、手探りで電気毛布のスイッチを入れる。顔の熱さや、脈が速くなっていることから、それなりに発熱しているようだ。
 子供の頃の体調に戻ったようだった。一時期和彦は、特に虚弱というわけではないが、何かとすぐに発熱しては、真っ赤な顔をしていた。普段からおとなしかったので、手がかからない分、弱っていてもわかりにくかったと大人たちから言われていたのだ。紗香の件があって口がきけなくなったこともあって、精神的にかなり負荷がかかっていた時期なのは確かだ。
 今のこの体調は、子供返りのようなものなのかと考えて、すぐにバカらしくなる。半身を少しだけ起こして、ペットボトルの水を飲む。あっという間に蒸発していくようで、体に水分が行き渡るという感覚はない。結局、すべて飲み干していた。
 寝室のドアに視線を遣る。薪ストーブで温められた空気が少しでも流れ込むようにと、ドアは開いたままになっている。今夜に限ったことではなく、鷹津は火の番をするという理由で、リビングダイニングで休んでいる。
 和彦はまた横になりかけて、思い直してベッドを抜け出す。予想以上にふらついているが、歩けないほどではない。枕元に置いてある上着を羽織ると、覚束ない足取りで寝室を出た。
 足音を抑えてソファの傍らを通り抜けようとして、声をかけられた。
「――どうした?」
 ソファの肘掛け部分に足をのせて横になっていた鷹津が、読んでいた雑誌を閉じて起き上がる。
「水がなくなったから、取りにきた。あと、濡らしたタオルが欲しくて……」
 和彦がふらふらとキッチンに入ろうとすると、鷹津に止められる。
「俺がやるから、お前はじっとしてろ」
 半ば強引に薪ストーブの前に座らされ、鷹津がキッチンを行き来する姿を眺める。
「……あんたがここまで面倒見がいいなんて、想像もしなかった。刑事だった頃なんて、ものすごく偉そうで、嫌な奴だったし。ぼくなんて何度、意地悪されたか……」
「ガキみたいな恨み言をこぼすな」
 ちらりと笑みをこぼした和彦は、鷹津に聞こえないよう小声で呟く。
「あんたに目をつけた、父さんの人を見る目は確かだったということだ」
 鷹津の立場であれば、厄介事に巻き込まれたくないと判断すれば、身軽に一人でどこにでも行けたはずだ。それこそ海外にでも。秦に頼めば手筈を整えてくれただろう。
 濡らしたタオルを手渡され、さっそく首筋に押し当てる。
「汗で気持ち悪いなら、着替えるか?」
「まだ、いい……。そこまで汗はかいてないから」
「水は枕元に置いておいてやる」
 背後を通り過ぎた鷹津にさりげなく頭を撫でられる。その感触に、和彦の胸の奥が急にざわつき始めた。
 膝を抱え、額に濡れタオルを押し当てていると、寝室から戻ってきた鷹津に軽く肩を突かれる。
「おい、さっさとベッドに戻れ」
「……もう少しここにいる」
「お前がいると、俺が落ち着いて横になれねーんだよ」
「鷹津――」
 咄嗟に呼びかけて和彦が顔を上げると、今度は手荒く髪を掻き乱された。
「違うだろ」
「秀……。どうして……」
 あることを問いかけようとして、寸前で思い止まる。とんでもなく自惚れの強いことだと気づいたからだ。熱で自分は少しおかしくなっていると言い訳しながら、立ち上がろうとして、和彦の体は大きくふらついた。素早く動いた鷹津に腰を抱えて支えられる。
「バカか、お前はっ。ストーブに顔から突っ込むかと思ったぞ」
 何も言わず見つめ返していると、鷹津は苛立ったように舌打ちする。和彦は半ば引きずられるようにして寝室に戻された。
 ベッドに入るよう言われた和彦は、反射的に鷹津のトレーナーの袖を掴む。この瞬間、鷹津の激しい動揺が伝わってきた。
「お前は……」
 呻くように鷹津が洩らす。
「お前は、性質が悪い。元からそういう奴だとわかってはいたが、今のお前は、かまってくれとせがんでくるガキみたいだ。だから一緒の部屋にいたくないんだ」
「それは――……」
「弱っているお前に手は出せない。いくら俺が獣でもな」
 突き飛ばされてベッドに倒れ込むと、そのまま肩を掴まれ押さえつけられる。のしかかってきた鷹津に真上から見下ろされて、和彦の心臓は壊れたように鼓動を打つ。これだけのことで、全身が燃え上がりそうなほど熱くなっていた。
「秀っ……」
「あまり刺激するな。けっこうギリギリだからな」
 鷹津が腿にぐっと腰を押し当ててくる。感じたのは、昂った肉の感触だった。鳥肌が立つほどの強烈な疼きが、和彦の中を駆け抜ける。
 このログハウスで生活を始めてから、和彦は鷹津と体を重ねることはおろか、口づけや抱擁すら交わしていない。鷹津が言ったとおり、和彦の体調を気遣ってのことなのだろうが、心のどこかで、鷹津の、自分への執着が薄れたのではないかと恐れていた。
 しかし――。腿に触れる熱は、鷹津の感情を雄弁に物語っている。
「――……早く元気になれ。そして、抱かせろ」
 熱い囁きが耳朶に触れ、和彦は小さく呻き声を洩らす。鷹津の唇は肌には触れず、ただ吐息だけが肌を掠めていった。









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