と束縛と


- 第46話(3) -


 昨夜の残りの鹿肉入りシチューを温め直すため、コンロにかけ、慎重に火を調節する。また焦がしたら、鷹津にどんな皮肉を言われるかわからないので、和彦は真剣だ。わずかに水を足してから、次は、冷凍保存しておいたバゲットを二人分、トースターに並べる。
 コンロとトースターの前を行き来しつつ、合間にコーヒーカップも二つ出し、インスタントコーヒーの粉を放り込む。シチューが焦げつかないようかき混ぜ、先にパンが焼けたので、器に盛る。
 和彦が着々と朝食の準備を整えていると、玄関のドアが開き、重装備の鷹津が姿を見せる。朝早くから、ログハウス前の雪かきをしていたのだ。
 この四日の間、雪は降ったり止んだりを繰り返しており、豪雪に埋もれるとまではいかないが、容易に移動ができる状態ではなくなった。こんなときのための備蓄だということで、翔太の配達は止めてもらい、ほぼこもりきりの生活が続いている。和彦の場合、熱が完全に下がるまでおとなしくしていろと言われ、玄関から出ることすら許されていなかった。
 そんな生活が功を奏したというべきか、体調はすっかりよくなっていた。鷹津は半信半疑だが。
 鷹津が着替えを済ませるのを待って、朝食となる。バゲットを千切ってシチューに浸して食べながら、他愛ない会話を交わす。
「シチュー美味しかったな。料理の才能が開花してるんじゃないか」
「レシピどおり鍋に放り込んで煮込めば、食えるものは作れる」
「つまり、ぼくでも同じ味にできると?」
「……さあ、それはどうだろうな」
 テーブルの下で、鷹津の爪先を軽く蹴りつける。鷹津はふっと口元を緩めた。
「高い山に登ると、気圧のせいで舌が鈍くなるし、汗を掻いた分、体が塩分を求める。若い頃は平気で濃い味つけにして、それが普段の生活にも身についちまってたが、年食ってからは、さすがに加減するようになった。レシピの調味料の分量も、ほんの少しだけ変えてる。――俺だって健康的に長生きしたいからな。お前の口に合ってるんなら、何よりだ」
 和彦が返事に困っていると、今度は反対に、鷹津に爪先を軽く蹴られた。
「笑えよ。柄にもないこと言うな、って」
「……自分でわかってるんだな。自分のこと」
 ここで話題は変わったが、シチューとバゲットを半分ほど食べたところで和彦は、ヤカンの注ぎ口から吹き上がる蒸気に目を向けつつ、ぽつりと洩らした。
「あんたは、自分のことに興味がないのかと思ってた。悪徳刑事で出世は望めないうえに、長嶺組や総和会にもちょっかいをかけてたぐらいだから、破滅願望がある、ヤバイ男だと……」
「まあ、そこまで極端ではないが、投げ遣りではあったかもな。長嶺と知り合って、俺は人生をしくじった。だからあの男へ嫌がらせすることで、帳尻合わせをしたかった」
「……それで、合ったのか?」
「どうでもよくなった」
「捨て鉢になってるだけじゃないだろうな」
 ここに滞在している間はいいのだ。しかし、必ず元の生活に戻る日はやってくる。鷹津が何も考えていないはずはないだろうが、和彦はどうしても心配になる。
 鷹津は、ニヤリと笑いかけてきた。
「今のところ俺は、かつてなく人生の張り合いを感じてる。お前を匿いながら、快適に過ごさせるためにな。騎士(ナイト)になった気分だ」
「それは……、言いすぎだろ」
「お前に手がかかればかかるほど、俺は楽しいぜ」
 鷹津の軽口に、また大雪が降るのではないかと本気で和彦は危惧する。
 朝食を終えて一段落つくと、鷹津は雪かきの続きをしてくると言って席を立つ。手伝おうかという和彦の提案は、あっさり拒否された。
「ウッドデッキの屋根の雪を落とすから、お前がいるとかえって危ない。洗い物をしたあとは、ゴロゴロしてろ」
「そんな、落ち着きないのない小さい子供じゃないんだから……」
 小声でぼやく和彦に対して、面倒くせーなと言いたげな顔をした鷹津が、ひげを撫でながら思案する。そして、こんなことを呟いた。
「――……昼頃から晴れてくると、天気予報で言ってたな」
「つまり、散歩に出ていいってことだな」
 勢い込んで尋ねると、鷹津が鼻で笑う。
「雪道の歩きにくさを舐めるなよ。お前が遭難したときのために、俺もついていく。……はー、仕事が増えたな」
 騎士を自称するわりには、性格と口の悪さは変わってないではないかと、心の中で毒づきながら和彦は、再び外に出る準備を始めた鷹津の様子を眺めていて、ある用事を思い出した。
「あっ、そうだ。携帯電話を借りるからな」
「勝手に使え」
 どこにかけるのかは、当然聞かれない。
 鷹津が玄関を出ていくと、和彦は急いで洗い物を済ませ、薪ストーブの薪とヤカンの水を確認してから、携帯電話を掴んで寝室に引っ込んだ。
 今のところ和彦しか使っていない寝室だが、一応、私的なものは出しっ放しにはせず、段ボールにひとまとめにしてクローゼットの隅に置いてある。見ようと思えば鷹津も見られるが、現状、その素振りは一切見せない。
 一旦段ボールを引っ張り出し、ファイルを手に取る。その中に、賀谷から渡されたメモ用紙を挟んでいた。
 メモ用紙を手にベッドに腰掛け、さっそく電話をかけようとして、ふとあることに気づく。反射的に、壁に貼り付けた手製のカレンダーを見遣った。
 当初、このログハウスにはカレンダーがなかった。正確には、狭いキッチンの壁にかかってはいるのだが、それは四年も前のものだ。これまでの滞在者は日付に頓着していなかったのかもしれないが、和彦はそうではない。ラジオで知ることができるとはいえ、日常生活に組み込まれたカレンダーを見るという行為が大事なのだ。だからといってわざわざ買ってきてもらうほどでもなく、携帯電話のカレンダー機能をチェックするのも味気ない。結果、菓子箱についていた厚紙を切り取って、自分で作ってしまった。
 本来であれば一月六日からクリニックの仕事始めであったが、もう中旬を過ぎた。手製のカレンダーを見るたびに罪悪感を覚えるが、自分が置き去りにしているものを確認するためにも必要だ。
 そして今日は日曜日だ。気を抜くと、曜日感覚が狂ってしまう。
 メモ用紙に記された携帯電話の番号にかけてみると、意外なほどすぐに賀谷は電話に出た。知らない番号からの着信に、最初は訝しげな様子だったが、遠慮がちに和彦が声を発すると、電話の向こうで慌ただしい物音がして、すぐにおさまった。
『――和彦くん?』
 この人に名を呼ばれるのは妙な感覚だなと、和彦は短く息を止める。
「……すみません。今、大丈夫ですか?」
『ああ、うん。今日はまだ往診の予定は入ってないから』
 賀谷の場合、日曜日だからといって仕事が休みとは限らない。それを心配したのだ。
 賀谷は、和彦が用件を切り出す前に、正時の容体を教えてくれる。眠っている時間が多いものの、落ち着いているということでほっとする。総子も風邪を引くことなく過ごしているそうだ。
『それで、何かあったかい? 二人の様子を聞くためだけにかけてきたんじゃないだろう』
「……すみません。ぼくに関わらないほうがいいとか、自分で言っておきながら……」
『いやっ、違うんだ。咎めているんじゃなくて、まさかこんなに早くに君から連絡をくれると思っていなかったから――』
 嬉しいんだ、と言われて、和彦は自然と笑みをこぼしていた。耳に馴染む優しい声は、本心からの言葉だと信じさせる不思議な力があった。だから和彦も、気負うことなく告げられた。
「あなたと、〈これから〉のことを話したいんです」


 道に積もった雪には、轍(わだち)はおろか、人の足跡すら残されていない。溶け始めて水分を含んで重くなりつつ雪を踏みしめて、和彦は背後を振り返る。そこには、二人の足跡がログハウスから続いている。
 陽射しを受ける雪の眩さに思わず目を細める。数日ぶりに外に出たせいで、外の明るさにまだ順応できないのだ。何より、寒さに。
 外出時の標準装備であるセーターを含めた重ね着の上から、ダウンコートを羽織り、ネックウォーマーに毛糸の帽子や手袋を身につけて、さらに鷹津から、あらゆるポケットにカイロも突っ込まれたが、それでも突き刺すような冷気を感じる。ただ、新鮮な空気に触れるのは心地いい。
 数歩あるいては立ち止まる和彦に、鷹津は急かすことなくついてくる。今回の散歩コースは、前回和彦が歩いた道とは逆方向になっている。こちらは比較的坂が緩やかなうえに、足を滑らせたところで山から転がり落ちる心配もないという。とはいっても、ふくらはぎの辺りまで積もった雪は想像以上に歩きにくく、容赦なく乏しい体力を削っていく。転がり落ちるまでもなく、その場に倒れ込みそうだ。
 ネックウォーマーで口元まで覆っていたが、息苦しさに耐え切れず下ろす。吐き出した白い息がキラキラと輝きながら大気に溶ける。思い切り息を吸ってから咳き込むと、鷹津に背をさすられた。
「……病み上がりが無茶するなよ」
「多少無茶しないと、体力が戻らないんだ」
「その結果、また熱を出す事態にならなきゃいいがな」
「たぶん、今回は大丈夫だ」
 目に見えるものではないが、自分の体のことなので実感できるものがある。ようやく、気力が体内を巡り始めたのだ。体力が落ちようが、手足を動かす原動力にはなる。
「――お前は、わかりやすいな」
「何が?」
「駅でお前を捕まえてここに連れてきてからずっと、拾われてきた猫みたいに不安げな様子だったのが、今はやっと性根が据わった顔つきになった」
「今朝鏡を見たら、やつれたままだったけどな」
 苦笑いしながら和彦は自分の顔に触れる。
「そういう意味じゃねーよ。……わかっててとぼけるんなら、もう何も言わんぞ」
 道の傍らに広がるブナ林から、甲高い鳥の鳴き声が聞こえてくる。なんの鳥かと尋ねたが、鷹津から返ってきたのは、知らん、という素っ気ない一言だった。少しの間立ち止まり、鳥の姿が見えないかと目を凝らしても、気配はもうない。枝から雪が落ちたのをきっかけに、再び歩き出す。
「……拾われてきた猫かどうかはともかく、不安だったのは確かだ。体は思うとおりに動かないし、何かやろうにも気力が湧かない。あんたはひたすら甘やかしてくるだけだし。ゆるゆると、このまま時間が流れていけば楽になっていくのかなと思った」
 突き詰めれば、自分は何者でなければいけないのかを見失っていたのかもしれない。両親についての真実を教えられ、自ら封印していた記憶を取り戻した結果、〈佐伯和彦〉を構成していたものを削り取られたようなものなのだ。そう、和彦は感じた。ログハウスで生活しながら、どこか他人事のように空虚となった自身を眺めていたが、案外早く変化は訪れた。
「ぼくはけっこう図太くて、逞しいみたいだ。自覚はあったけど、改めて実感してる……」
「俺はとっくに知ってた。いや、お前以外の奴はみんな知ってるかもな」
 和彦は素早く雪を掬い上げると、鷹津にぶつけてやる。動じるでもなく、鷹津はニヤニヤする。もう一回雪をぶつけようとしたが足を滑らせ、大きくバランスを崩そうとして、すかさず強い力で引っ張り上げられた。和彦は鷹津に掴まりながら体勢を直す。
「足がふらふらじゃねーか。もう少しがんばれよ。休める場所がある」
 鷹津に掴まったまま呼吸を整える。雪を掻き分けるようにして歩いていたせいで、疲れた足が重くなっており、爪先から寒さが這い上がってくる。鷹津のほうは息も乱しておらず、和彦を支えながら足取りはしっかりしている。
 この男の安定感はどころから来ているのだろうかと、ふと思った。肉体的な強靭さのことではなく、精神的なものについてだ。出世は望めないにしても公務員の職を捨て、暴力団組織にケンカを売るようなまねをした挙げ句、厄介事の権化のようなものである和彦を懐に抱え込んでいる。なのに微塵も不安さを覗かせないのだ。ふてぶてしい、の一言では済ませられない。
 鷹津が歩き出し、掴んだ腕から手が離せないまま和彦も続く。
「――どうした。急にまじまじと俺の顔を見て」
「あんた、怖いとか不安だとか感じるネジが抜け落ちてるんじゃないかと思ったんだ。いまさらながら」
「俺は、食えないクソどもとのつき合いが長いからな。覚悟と準備があれば、ビクビクする必要はない。いざとなれば、外国に高跳びするって手もある。お前も連れて」
「……つき合いがいいな」
「秦の奴が何回も言ってたんだ。二人分のパスポートぐらい用意してやるってな。俺については、お前の用心棒にでもなってくれればいいと思ってたんだろ。あいつは妙に、お前を気に入っているし」
 いつだったか、鷹津と秦が一緒に飲んでいる光景を思い出し、和彦はふっと笑う。
「なんだかんだで、仲がいいよな。あんたと秦」
「やめろ。気色悪い」
 心底嫌そうに吐き出す鷹津がおもしろい。しかしすぐに真剣な横顔を見せ、ぽつりと鷹津は洩らした。
「お前が何もかも投げ出したいと言うなら、俺はすぐに海外に逃がすつもりだ。お互い余計なしがらみを抱えちまってるが、目に見える鎖で手足を縛り付けられてるわけじゃない。行こうと思えば、どこにだって行ける――と、お前の世話を焼きながら、ずっと考えてた」
 分厚いダウンコートを通しても感じられる鷹津の腕は、和彦をどこまでも引っ張っていく逞しさと力強さがある。大言壮語ではなく、鷹津は実行する男だ。対して自分はと、今のひ弱さに和彦はため息をついた。
「ぼくは……、考えることを放棄してた。気力が湧かないまま、周りのお膳立てに甘えて、ただ悲劇の主人公になりきってた」
「そうは言うが、けっこうな生い立ちだろ。お前。正直、もっと塞ぎ込まれて、八つ当たりされるのは覚悟していた」
「あんたは何も悪くないのに?」
 珍しく鷹津が一瞬、きまり悪そうな顔をする。俊哉と繋がっていたことを責められると思っていたのかもしれない。ただ和彦としては、鷹津の心情を推察するのは難しいことではなかった。
 鷹津が指さした先に、数軒の小さな建物が並んで建っており、軒下にはベンチも置いてある。観光客相手の土産物屋だそうだが、冬の間は閉めており、誰もいないのだという。ベンチに積もった雪を払って、二人並んで腰掛ける。腰から冷たさが伝わってくるが、それ以上に足が冷え切っているので、さほど気にならない。
「――総和会相手にぶつけるなら、お前の父親……佐伯俊哉しかいないと思っていた」
 和彦は手袋を外してカイロで指先を暖めながら、鷹津の告白を聞く。
「お前はどんどん総和会に引き込まれて、取り返しのつかないところまで行くのは目に見えてる。そうなる前に、状況を掻き回したかった。が、二人が既知の間柄だったというのは、予想外だったがな。もっとも、悪くはない手だったようだ。相手の出方の予想がつくというのは、やりにくいからな。そのせいなのか、性分なのか、佐伯俊哉は慎重だった。それに、人使いが荒い。いかにも官僚様ってやつだな」
「本人に会ったら、そう伝えておくよ」
 鷹津に笑いかけた和彦だが、すぐにうろたえることになる。カイロごと、きつく手を握り締められた。
「俺は、最善の策を取れたということだな。だからこうして、お前は今、俺の隣にいる」
「……下手したら、コンクリ詰めにされたり、海に沈められたりしたかもしれないのに、よくやるよ」
 ログハウスに連れて来られてから、ようやく初めて、取り繕うことなく会話を交わせていた。鷹津はずっと、和彦が自ら行動を起こすのを待っていたのだろう。ただ静かに――。
「おばあ様から送られてきたものを見ていたら、経緯はどうあれ、自分は望まれて生まれてきたし、大事に育てられてきたことを思い出した。いろいろな手続きの手順とか詳しく書いてあって、まるで子供に説明しているみたいなんだ。ああ、ずっとこんなふうに、ぼくを気遣ってくれていたんだなって」
 総子からの荷物が、和彦の心を解きほぐす大きなきっかけとなったのは間違いない。
「ぼくに遺したいという財産の目録は、何回目を通しても、すごすぎて現実味がなくて……。本当なら、和泉紗香という女性(ひと)が受け継ぐはずだったものなんだ。ぼくと彼女の間に起こったことを思えば、これは本当に許されるんだろうかとか、熱でうなされながらプレッシャーで押し潰されそうだった」
 胸の奥に積み重なっていた想いを訥々と語りながら、和彦は意識しないまま鷹津の手を握り返す。
「動揺も混乱もしたけど、呑み込んだ。そのうえで、これから先のことを考えたい。一つずつ」
「その考えた一つが、今日、どこかに電話をかけたことに繋がるのか?」
「ぼくの実の父にかけた。あっ、いや、はっきりはしていないんだ。親子鑑定をしたわけじゃないし。ただ――」
「お前は確信しているんだな」
 和彦は頷きはしたものの、どういった用件でかけたのかまでは告げなかった。自分と賀谷との間で、まだ秘匿にすべき事柄であると判断したからだ。もっとも鷹津の関心は、電話の内容ではなく、和彦の〈父親〉にあるようだった。
「……一度会ってみたいな」
「佐伯家の人間にはいないタイプだよ。見るからに優しげで、仕事柄なのか穏やかな物言いと表情をしてて。おばあ様たちが信頼しているんだから、医者としては優秀なんだと思う。でも、自分のことには不器用そうだ……」
「だとしたら、俺と気が合うかもしれねーな」
 一瞬、返答に詰まったのは、鷹津が冗談で言ったのか、それとも本気でそう思っているのか判断できなかったからだ。
 すっかり印象が変わった、髭に覆われた鷹津の横顔を見つめながら、たまらず和彦は噴き出す。
「あんたでも、そういうこと考えるんだな」
「俺は善良な人間相手には、友好的だぜ?」
「ぼくに対して、最初から態度が悪かった記憶があるんだが……」
 失礼なことに、鷹津は鼻先で笑う。和彦は軽く体をぶつけて抗議したが、当然のように受け流された。
「――帰るか」
 握り合っていた手をスッと引いて、鷹津が立ち上がる。和彦は反射的にすがるような目を向けてしまい、そんな自分に気づいてうろたえる。鷹津は真剣な表情で、和彦の頬に触れてきた。カイロを握っていたせいで、鷹津のてのひらは熱い。凍えそうになっている頬にたっぷりの熱を与えられ、心地よさについ目を細める。
「本当に元気になったみたいだな」
 その言葉に込められた意味を瞬時に読み取った和彦も、慌てて立ち上がる。
 帰り道は、自分たちが残してきた足跡を辿るため、比較的楽ではあった。ただ、和彦の意識は絶えず鷹津に向けられ、足元への注意がおろそかになり、何度か雪に足を取られてしまう。よろめくたびに鷹津に腕を掴まれ、ログハウスに帰り着いたときにはしっかり肩を抱かれていた。
 玄関に入り、暖かな空気に触れて安堵の吐息が洩れる。しっかり防寒対策をしていても、さすがに雪中の移動で体が芯まで冷えていると実感できる。鷹津に追い立てられながらアウトドアブーツを脱いで、和彦は自分の足元に視線を落とす。
「どうした?」
「……足の先の感覚がない……」
 鷹津に強引にソファまで連れて行かれ、座らされる。何をするのかと見ていると、薪ストーブに新たに薪をくべてから、乱雑に上着を脱ぎ捨て、部屋を行き来する。
 和彦は鷹津の行動を目で追いつつ、自らも着込んでいたものを脱いで傍らに置く。ついでに、ポケットに突っ込まれていたカイロもすべて取り出した。もったいないのでベッドに入れておこうかと立ち上がりかけたとき、タオルを小脇に抱え、洗面器を持った鷹津が目の前に立った。
 ヤカンの湯を洗面器に注いでいたのは見ていたので、和彦はちらりと笑みをこぼす。
「もしかして、足湯か?」
 至れり尽くせりだなと、のんきに喜んでいたのはわずかな間で、向かい合って床の上に座り込んだ鷹津に有無を言わさず足を掴まれ、靴下を脱がされた。戸惑う和彦にかまわず、鷹津は湯に浸したタオルを絞った鷹津は、そのタオルで足先を包み込んできた。
「さすがに、やりすぎだ。洗面器に足を突っ込んでおくから、こんなことしなくても――」
「俺がやりたいんだから、好きにさせろ」
「やってることは甲斐甲斐しいのに、偉そうだな」
 冷たくなっていた爪先から、じんわりと温かさが伝わってくる。血流を促すように、鷹津はタオルの上から足の指や甲を揉んでくれ、タオルが少しでも冷めると、すぐにまた湯に浸す。気恥ずかしさと遠慮から、最初は体を強張らせていた和彦だが、心地よさには勝てず、おずおずと力を抜いていた。
 もう片方の足はひときわ丹念に揉まれ、どうしてかと思えば、痛めた部分を気にかけているのだ。真剣な表情の鷹津を見つめていて、ふと誘われるように前屈みとなって手を伸ばしていた。鷹津の短く刈られた髪に触れてから、頬にてのひらを押し当てる。強(こわ)い髭の感触に、ゾクゾクするような疼きが背筋を駆け抜けた。
「――さっきの話だが……」
 突然鷹津が切り出す。
「何?」
「これから先のことを考えたい、と言ってただろ」
 タオルを洗面器に放り込んだ鷹津が、足に直に触れてくる。足の指を一本一本撫でられ、和彦の呼吸は弾む。
「お前は一刻も早く〈ここ〉を出ていきたいかもしれないが、もう少し待ってくれ。まだ、早いんだ」
「何か、あるんだな?」
 頻繁に出かけたり、電話をかけている鷹津の普段の様子を見ていれば、それぐらいは察しがつく。和彦は頷いた。
「ぼくもまだ、ここから動きたくない。何か起こって、和泉の家と連絡が取れなくなる可能性もあるし、相談していることもあるし。……よくわかったんだ。波乱に満ちた人生を歩むなら、さっきのあんたの話じゃないけど、相応の覚悟と準備がいるって。そのための時間が必要で、それに――」
 今すぐに目の前の男と離れるなど、考えられなかった。
 鷹津が、食らいつかんばかりに凝視してくる。両目に宿るのは煮え滾る強い欲望で、そのことに気づいた時点で、和彦もまた、自分の何もかもを差し出し、食らい尽くされたい衝動に支配されていた。
 鷹津がにじり寄ってきて、和彦はソファに座ったまま追い詰められる。
「鷹津……」
「違うだろ」
 秀、と呼び直すと、腰を浮かせた鷹津がのしかかってくる。間近に顔を寄せられ、無遠慮な視線に晒されて、和彦は咄嗟に顔を背けていた。耳朶に獣の熱い息遣いが触れる。
「今すぐ抱かせろ。――和彦」
 名を呼ばれただけで胸が疼き、一気に全身が熱くなる。もう一度名を呼ばれたところで、和彦の理性は溶けた。
 久しぶりの鷹津との口づけは、まずは一方的なものだった。痛いほどきつく唇を吸われて噛みつかれ、後ろ髪を掴まれてソファに半身を倒れ込ませる。のしかかってきた鷹津の荒い息遣いが顔に触れたが、すぐにまた唇を塞がれた。
 口腔にねじ込まれた熱い舌が蠢き、粘膜をまさぐられ、歯列をなぞられる。搦め捕られた舌に歯を立てられたときは、このまま噛み千切られるのではないかと本気で危惧したが、同時に、抗いがたい肉の疼きも自覚していた。
 夢中で互いを貪り、呼吸すら止まりかねない勢いで掻き抱き合っていたが、大の男二人が激情をぶつけるにはソファの上は狭すぎる。床に転がり落ちそうになった和彦は、すかさず鷹津の腕に引き止められた。
 間近で目が合い、いまさらながら怯みそうになったが、鷹津に再び唇を塞がれ、すぐにまた求め合う。唇を吸い合い、差し出した舌を絡めながら、唾液を交わす。ぐっと腰に押し当てられた鷹津の欲望はすでに高ぶっていた。
 四日前に鷹津が唐突に見せた性衝動は、自分が見た都合のいい夢のような気すらしていたが、もちろんそんなことはなかった。鷹津はひたすらじっと待っていたのだ。だから今、こんなにも荒々しく猛っている。
「――最後にお前を抱いたのは、去年の秋だった」
 鷹津にセーターをたくし上げられ、下に着ているシャツのボタンを外されていく。和彦の鼓動は狂ったように速くなっていた。
「クソ忌々しいことに、そのときのことを何度も思い出して、夜一人で悶えていた。ついでに言うなら、夢の中でお前を犯してた」
「……そんなこと言うなんて、悪いものでも食べたんじゃないか……」
「お前と同じものしか食ってねーよ」
 鷹津は短く声を洩らして笑う。
「俺はお前に、どんな男だと思われてるんだ。一途な男なんだぜ。だから、ここにいる」
 かつてであれば、憎たらしい口ぶりと表情で、餌をくれとねだってきていた鷹津だが、もうその言葉は必要ないと、和彦自身もわかっている。二人の関係は変わったのだ。
 インナーシャツの下に入り込んできた熱いてのひらに脇腹を撫でられる。たったそれだけのことが鳥肌が立つほど心地よく、目が潤む。鷹津の唇が目元に押し当てられた。
「欲しくてたまらないって目だな。――和彦」
 息遣いが肌を掠め、それすら心地いい。和彦から求めて口づけを交わしながら、身じろいだ鷹津に片手を取られて下肢に導かれる。触れさせられたのは、剥き出しとなった男の欲望だった。握り締め、手を動かす。すると、服を強引にたくし上げた鷹津のてのひらが胸元に這わされ、触れられる前から興奮で凝った胸の突起を転がされる。
 すぐに鷹津がむしゃぶりついてきて、いきなりきつく吸い上げられる。和彦が息を弾ませると、舌先で弄られたあと、歯を立てられた。知っている鷹津の愛撫ではないと感じるのは、肌にチクチクと当たる髭のせいだ。鷹津自身、意識しているのか、ときおり擦りつけるように顔を動かす。
 布の上から強く両足の間を押し上げられて、和彦は煩悶する。さきほどから握っている鷹津のものは重量と硬さを増しており、力強く脈打っている。その反応に和彦は感化されていた。
「しゅ、う……。秀っ――」
 舌打ちした鷹津が体を離してソファから下りた。
「ベッドに行くぞ」
 腕を掴まれて引っ張り起こされる。否も応もなく、和彦は寝室へと連れて行かれ、ベッドに押し倒された。
 動きの制限がなくなった分、理性という制限もなくなる。ベッドの上でもつれ合いながら、余裕なく服を脱ぎ、ようやく素肌を重ねる。すっかり高ぶった欲望同士を擦りつけ合ってから、すぐにそれだけでは物足りなくなり、自然な流れとして、互いのものを口腔に含んだ。
 鷹津の顔を跨ぐようにしてうつ伏せとなり、その体勢に激しい羞恥を覚えるが、和彦の羞恥を溶かすように、鷹津に強く欲望を吸引される。無意識に腰が逃げそうになっても、しっかりと腿を掴まれているため、突き出した尻を揺らすだけだ。
 腰を引き寄せられ、熱い口腔深くにさらに呑み込まれる。和彦は呻き声を洩らしてから、鷹津の逞しいものの先端に丹念に舌を這わせ、唇で締め付ける。舌を添えながら、ぎこちなく頭を動かして口腔から出し入れすると、鷹津の下腹部が強張る。
 この男の悦びを知ることが、今の自分の悦びだと、和彦は思った。
「んうっ」
 欲望を口腔に含んだまま。鷹津の指が内奥の入り口に触れてくる。和彦は大きく腰を震わせた。落ち着けと言いたげに、尾てい骨から背筋にかけててのひらが這わされ、その感触に痺れてしまう。
 鷹津は察するものがあったのか、口淫の途中だった和彦は呆気なくベッドの上に再び転がされた。獣のように這った姿勢を取らされて、背後から柔らかな膨らみを揉みしだかれながら、尾てい骨から背筋にかけて舌先が何度も行き来し、和彦は快感に鳴かされる。
「あっ、あっ、あぁっ――。んっ、あっ……ん、んふっ」
 巧みに蠢く指先に、柔らかな膨らみの中にある弱みをまさぐられ、刺激される。何もかも差し出したくなるような、怖さを含んだ愉悦がうねりとなって体の奥から溢れ出してきた。
 和彦は毛布を握り締めながら全身を戦慄かせ、鷹津の指と唇、舌によって秘めた場所すべてを暴かれていく。唾液と汗で潤った内奥に二本の指を揃って挿入されたときには、軽い絶頂に達していた。
「ああ……、俺がよく知っているお前の体だ。性質が悪いほど貪欲で、快感に弱い。だからこそ――ムカつくほど愛しい」
 じっくりと内奥の襞と粘膜を擦り上げながらそんなことを言われ、和彦は意識しないまま、指を締め付ける。反り返った欲望の先端から透明なしずくが垂れていき、少しずつ内腿を濡らしていく。
 一度指が引き抜かれ、ひくつく内奥の入り口にまた舌が這わされた。
「はあっ、あっ、んっ、んっ……。くうっ……ぅ」
 唾液で濡れそぼった場所に、今度は三本の指を含まされ、掻き回すように動かされる。じわりと痺れるような快感が腰に広がり、和彦は身をくねらせる。反射的に腰を押し付けるような動きをしてしまい、我に返って激しく羞恥する。しかしその羞恥が、官能に火をつける。
「――入れるぞ」
 背後から鷹津が掠れた声をかけてくる。体はよく覚えていて、和彦は、鷹津にとって具合がいいように、より大きく足を開き、腰を突き出した姿勢を取っていた。内奥の入り口に、ぐっと押し当てられたものは燃えそうに熱い。
 自分が少し緊張していること気づいた和彦は、ゆっくりと息を吐き出す。その間に、鷹津は侵入を開始した。
「ふっ……、うっ、ううっ、んっ」
 鷹津の形だと、まっさきに露骨な感想が頭に浮かんだ。
 数か月ぶりの和彦の肉の感触を確かめるように、鷹津はゆっくりと腰を進める。内奥を押し広げられながら、襞と粘膜を強く擦り上げられ、和彦は喉を鳴らす。馴染みのある重苦しい感覚が訪れるが、痛みはない。腰を抱え込まれてただひたすら緩やかに突きあげられながら、繋がりを深くしていく。内奥深くまで鷹津を受けれるのに、さほど時間は必要なかった。どちらも、狂おしいほどの情欲に駆り立てられていたからだ。
 興奮し、淫らな蠢動を始めた部分を、ぐうっと突き上げられた。内から焼かれそうなほど、受け入れたものは熱い。
「気持ちいいか?」
 返事の代わりに、きつく欲望を締め付ける。鷹津が小さく声を洩らした。
 てのひらで背を押さえつけられて、乱暴に内奥を突かれる。たまらず呻き声を洩らしたが、もう一度突かれたときは自分でもわかるほど、潤んだ嬌声となっていた。背を撫で上げられ、後ろ髪を手荒くまさぐられる。そんな感触すら心地いい。
 そこから数度腰を突き上げられ、和彦の欲望は呆気なく絶頂の証を噴き上げた。間欠的に声を洩らし、腰を震わせて快感の余韻に浸る。一方の鷹津も、軽く腰を揺すったあと、いまだ激しい収縮を繰り返す内奥深くに精を放った。
「ひあっ……」
 この瞬間、和彦の意識は舞い上がり、閉じた瞼の裏で鮮やかな光が飛び交う。体の隅々にまで快美さが行き渡っていた。鷹津が大きく息を吐き出してから、慰撫するように再び背を撫でてくる。
 和彦は、内奥でまだ力強く脈打つ鷹津のものを感じながら、明け透けだが、もっと欲しいと率直に感じた。
 和彦の呼吸が落ち着くのを待ってから、鷹津のものがズルリと内奥から引き抜かれる。すぐに、注ぎ込まれたばかりの精が溢れ出し、うろたえた和彦が身じろぐと、卑猥な音を立ててさらに溢れる。鷹津が腕を伸ばしてティッシュを取る姿を、うつ伏せの姿勢のまま和彦は眺める。
「寒いなら、電気毛布を入れるか?」
 和彦の下肢の後始末をしながら、何事もなかったように鷹津が尋ねてくる。まだ余韻に浸っている身としては、この甲斐甲斐しさは少し腹立たしい。平気だと答えようとして、体の向きを変えかけたところで、鷹津と目が合った。つい笑ってしまったのは、鷹津の両目に宿る強い欲望を見たからだ。
「――……暑いんだ。すごく」
 すぐに笑みを消して和彦が答えると、鷹津は忌々しげに舌打ちした。
「お前は本当に性質が悪い。……俺の煽り方をよく知ってる」
 仰向けとなり、覆い被さってきた鷹津としっかりと抱き合う。汗で濡れた熱い肌をてのひらでまさぐりながら、貪るような口づけを交わし、眩暈がするほど間近にある目を覗き込む。
 濡れて蕩けている内奥に鷹津の欲望が捩じ込まれて、和彦は唸り声を洩らす。ただそれは、鷹津の唇にすべて吸い取られた。
 鷹津の背に爪を立てると、痛みに奮い立ったように猛る欲望が内奥で震える。
「はあっ、あっ、い、い……。気持ちいぃ――、秀」
 和彦が呼びかけるたびに、鷹津が腰を打ち付けてくる。その腰に両足を絡めながら、和彦は自らのものを握ると、律動のたびに擦り上げる。そうすると、より内奥の締まりがよくなると知っている。
 和彦の媚態に、鷹津は口元に笑みを浮かべる。
「それでこそ、お前だな。見た目からは想像もできないほど快感に貪欲で、何人も男を咥え込む」
 責められるのかと和彦は身構えかけたが、湿った髪を鷹津に手荒く掻き上げられ、こめかみや額に唇が押し当てられる。愛しげに。
「そんなお前が、ここでは俺だけのものだ。これでも、はしゃいでいるんだぜ。四十を過ぎた男が、浮かれたガキみたいに」
 和彦は鷹津の髭面に頬ずりして、囁きかける。
「だったらあんたも、ここではぼくだけのものだな」
 舌打ちをした鷹津が首筋に顔を埋め、唇を這わせてくる。緩やかな律動に身を任せながら和彦は、全身で鷹津の重みと体温を受け止め、恍惚としながらゆっくりと目を閉じた。


 ようやく触れ合えるようになったという現実を確認するように、二人の交歓は長く続いた。ベッドで身を寄せ、肌を擦りつけ合い、欲情が高まれば繋がる。精が尽きてしまえば、相手の体を愛撫しながら、精神的な高揚感に酔う。そんなことを繰り返していた。
 ときおり鷹津はベッドを抜け出し、薪ストーブの様子を見たり、飲み物を取ってきてくれたが、和彦はひたすらベッドの中にいた。
 時間の感覚が怪しくなっていたが、何げなく窓のほうを見て、息を洩らす。断熱シートが貼られた窓は、外の景色がぼんやりとしか見えないのだが、それでも日が暮れて暗くなっていく様子ぐらいはわかる。
 何時間、鷹津とベッドで過ごしていたのだろうかと、少しだけ自分に呆れた。
 寝室に戻ってきた鷹津が、ベッドの端に腰掛けて問うてくる。
「なあ、腹減らないか?」
「……減った。シチューの残り、全部食べたんだよなー」
「献立を考えるのも、今から下準備するのも面倒だから、今晩はパスタでいいな。パウチのソースがあるし――」
 和彦は、鷹津の声を聞きながら目を閉じかけていたが、肩を揺すられてハッとする。
「今のうちにシャワーを浴びてこい。夜になって、湯を使いたくても出なくなるかもしれないぞ」
 鷹津の言うことはもっともで、仕方なく起き上がる。着替えを抱えた和彦が寝室を出ようとするときには、鷹津はすでにシーツを換え始めていた。汚れたシーツは自分が持って行くとはなんとなく言い出せず、素知らぬ顔でシャワーを浴び向かう。
 いつもと違ってシャワー室の寒さが気にならないのは、体に留まっている熱のせいだ。和彦の自身のものと、鷹津が体内に残したもの――。
 ゾクゾクして身を震わせ、慌てて全身を洗ってシャワー室を出る。すでに洗濯機は回っており、何を洗っているかは容易に想像がついた。
 入れ違いに鷹津がシャワーを浴びに行っている間に、和彦が大きめの鍋で湯を沸かしてパスタを茹で、別の鍋ではソースのパウチを温める。これぐらいなら、さすがの和彦でも失敗しようがない。
 体力を消耗し尽くしたため空腹が限界で、二人それぞれの皿には大盛りのパスタを盛り付ける。野菜が足りないのが気になったので、瓶詰のピクルスを小皿に取り分けておく。ついでにカップスープに湯を注いでおいた。
 シャワーを浴びてきた鷹津が席につくのを待ってから、夕食となる。
 黙々とパスタを食べていると、隣で鷹津が小気味いい音を立てながら人参のピクルスを食べ始める。鷹津の食事の様を無意識に目で追っていると、当の鷹津がふいにこちらを見て、ニヤリとした。
「お前今、いやらしいことを考えてたろ」
「……なっ、に、言って……」
「さすがに今晩は、もう勃たないぞ。明日の朝ならもしかすると――」
「食事中に品のないことを言うなっ。そもそもぼくは、いやらしいことなんて考えてないからなっ」
「本当か?」
 鷹津の笑みが、ニヤニヤへと進化している。和彦は反論しようとしたが、言葉が出てこない。自分の分が非常に悪いことはわかっていた。実は、食事をしている鷹津の口元を見て、行為の最中に自分を貪ってくる獣のような姿が重なってしまったのだ。
「意地の悪い男だな……」
 和彦がぼそりと洩らした言葉に、さらりと鷹津が返す。
「お前は、可愛いな」
 もう鷹津の顔は見られなかった。急いで食事を済ませると、後片付けを鷹津に任せて薪ストーブの前に移動しようとして、気が変わった。ダウンコートを手に玄関に向かうと、すかさず鷹津に止められる。
「お前、一応病み上がりなんだから、チョロチョロするな」
 さきほどの仕返しとばかりに、和彦はにっこりと笑いかける。
「ぼくがとてつもなく元気になったのは、あんたが一番よくわかってるだろ」
「……このヤロー」
「玄関前で外の空気を吸うだけだ」
 そう言って玄関を出た和彦は、身が引き締まるような寒さに首を竦めてドアを閉めた。
 日没は間近で、遠くの空にわずかながら夕焼けが覗いている。ログハウスの周囲には夜の気配が色濃く忍び寄っていた。静寂を破るのはパタパタという水音で、溶けた雪が庇から地面に落ちているのだ。このまま冷え込めば、明日の朝にはツララが見られるかもしれない。
 和彦はウッドデッキに置かれたベンチに腰掛けると、ただ目の前の景色を眺める。冬の間だけ外の世界から隔絶されたようなこの場所は、息を潜めて生活するにも、療養するにも最適だ。鷹津はいつから目星をつけていたのだろうかと考える。
 突然、玄関のドアが開き、鷹津が顔を出した。
「おい、お茶飲むか?」
 和彦は目を丸くしたあと、頷く。それだけ聞いて鷹津は顔を引っ込める。
 知り合った当初は、蛇蝎の片割れらしく下劣で横暴で危険な存在として、とにかく鷹津は嫌な奴だったのだ。それが、自分を気遣ってお茶まで淹れてくれるようになるとは、と和彦は感慨深さすら覚える。
 自惚れかもしれないが、自分が、鷹津を変えたのだと思っている。人生すらも変えてしまった。もちろん、和彦自身も、何もかも変わってしまった。
 それでも、だからこそ、生き抜いていかなければならない。流されるままに生きてきた和彦に、さまざまなものを託してくれる人がいると知ったのだから。
「生きていかないと……」
 白い息とともにそう吐き出したところで再びドアが開き、鷹津がカップを手に出てきた。
「寒いな……。飲んだら、さっさと中に入れよ」
 差し出されたカップを礼を言って受け取ろうとして、じっとこちらを見つめてくる鷹津と目が合った。この瞬間、ふっと頭に浮かんだある考えが、和彦の感情を激しく揺さぶった。
「おい――」
 驚いた表情を見せた鷹津が隣に腰掛け、顔を覗き込んでくる。何事かと戸惑ったあと、和彦は自分の変化を知る。両目から涙が溢れ出していた。慌てて手の甲で拭うが、涙は止まらない。
 少し間を置いてから、鷹津にぶっきらぼうな口調で問われた。
「どうした?」
「……つい考えたんだ。そうしたら急に涙が出てきて、自分でびっくりした」
「何を考えた」
 慎重な手つきで渡されたカップを受け取り、一口お茶を飲む。急な感情の高ぶりは、落ち着くのも早い。和彦は急に気恥ずかしくなってきた。
「言わなきゃダメか?」
「俺の腰が抜けかけるほど驚かせて、悪いと思うならな」
 そんなタマかよと、和彦は笑ってしまう。もう一度手の甲で目を拭ってから、ぽつぽつと話した。
「――……二人が望んでいたのは、こんな生活だったのかもしれない、と思ったんだ……」
「二人?」
「ぼくの実の両親。駆け落ちしたくても、家のことを考えてできなかったみたいで。でももし、何もかも捨てて一緒に逃げていたら、どんな生活をしていただろうなって。どちらも世間知らずっぽかったみたいだけど、特にぼくの母なんて、本当に箱入り娘だったらしくて、きっと、父は苦労してたはずだ。ここみたいに、静かで人があまりこない場所でひっそりと暮らしながら、母のことを甲斐甲斐しく世話したのかもしれない」
 実際のところ、二人のことはよく知らない。あくまで和彦の想像でしかないが、鷹津からカップを渡されたとき、賀谷の姿が重なったのだ。
 心も体も満たされたからなのか、夜が訪れようとしているこの時間だからなのか、一瞬胸に走った寂しさがよく効いた。また涙が出そうになり、和彦は唇を噛む。
 おい、と鷹津に呼ばれて顔を向けると、すかさず唇を塞がれた。和彦は素直に口づけを受け入れる。
 時間をかけて互いを味わい、ようやく唇を離したとき、涙はもう引っ込んでいた。そして鷹津にこう言われる。
「苦労はするだろうが、案外楽しいかもしれない。惚れた相手に、とことん尽くす生活は」
 鷹津の言葉には実感がこもっていると感じるのは、気のせいかもしれない。そう思いながらも、和彦の頬はじわじわと熱くなってくる。これではなんのために外の空気を吸いに出たのかわからない。
「お前も元気になったことだし、明日から何かやりたいことはあるのか」
「……やっぱり体力作り。それと、せっかくいい講師がいるんだから、護身術みたいなものを習いたい」
 本気かと、鷹津の表情が言っている。
「完全に身を守るのは無理かもしれないけど、抵抗の意思ぐらいは示せるようになりたい、なと……」
「それで相手が逆上する可能性も、考えてのことだな? 言いたかないが、これまでお前の周囲にいたのは、ヤクザとしては紳士の部類だぞ。お前に価値を見出さない奴なら、平気で――」
「自信が欲しい。相手を少しでも怯ませられる術を、自分は持ってると。それだけでいい」
 和彦の手からカップを取り上げ、鷹津が口をつける。それから深々と息を吐き出した。
「俺に教わるからには、せめて一人ぐらいは制圧できるようになろうぜ」
「できるかな」
「やるんだよ。必要になったら」
 誰を想定しているのか、鷹津は楽しそうに目を細めている。あえてそこは指摘しないで、和彦は明日からの体力作りのメニューについて相談してみた。









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