「――最近、どうよ」
明(あきら)の問いかけに、幼馴染は声にわずかな苦々しさを滲ませて応じる。
「んー、まあ、がんばってはいる。とはいっても、まだまだお客さん扱いだ。仕事を任せてもらっているとは言いがたいな」
「大変だな、一足先に〈社会人〉生活を送ってる奴は。俺は、ちょっと海外に遊びに行きたいから、その資金のためにバイト三昧だ。来年の今頃は、就職活動でヒイヒイ言ってるだろうから、今のうちに大学生活を楽しんでおかないとな」
「羨ましいな。俺も、行けるものなら行きたいなあ」
互いにメニューに目を通しながら、他愛ない近況報告をしたところで、明はさりげなく視線を周囲に向ける。
昼間という時間帯のせいばかりではなく、外の猛烈な暑さから避難してくる人たちもいるためか、ファミリーレストランはほぼ満席だ。夏休みの補習帰りなのか、制服姿の高校生のグループや、気楽に夏を楽しんでいそうな学生たち、それに、堅苦しいジャケットを脱いで寛いでいるサラリーマン。とにかく客層はさまざまだ。
その中に、異様な空気を漂わせているテーブルがある。スーツ姿の男が二人、ジャケットの前を開くことすらせず、背筋を伸ばした姿勢で向かい合って座っていた。運ばれてきたばかりのアイスコーヒーに口をつける様子もなく、ときおりこちらの様子をうかがっている。
「……お前の護衛って、ガキの頃はもっと、親しみやすいっていうか、ギリギリ堅気に見えるおっちゃんたちがやってなかったか? なんかずいぶん、雰囲気が変わったな」
注文を受けたウエートレスが立ち去るのを待ってから、明はぼそりと指摘する。幼馴染――長嶺千尋は、ああ、と声を洩らして笑った。こちらも、スーツなど着ているせいで、明と同じ歳だというのに、妙に大人びて見える。
「組の跡目の勉強のために実家に戻って、総和会にも出入りするようになったら、それらしく振る舞えって言われたんだ。ハッタリ、ってことだな。あの護衛もそう。そういうところは、オヤジより、じいちゃんのほうが厳しいんだ」
「へえ」
千尋の話に気軽に相槌を打つ自分が、明にはおもしろく感じられる。今、目の前にいる幼馴染は、長嶺組という長い歴史を持つ組の、次期組長だ。そして、その長嶺組以上に、物騒な組織という印象を世間に与えているのが総和会だが、現会長は、千尋の祖父だ。
暴力団組織のサラブレッド――と、千尋は昔から、大人たちに陰口を叩かれていた。ただ千尋自身はスレたところも、傲慢なところもなく、普通の子供と変わらなかった。だからこそ、同じ町内に住んでいた明も、幼馴染として、まるで子犬同士がじゃれ合うように接してこれたのだ。
だが、住む世界は確実に違っている。
今日こうして会うのも、連絡を取って気軽に、というわけにはいかなかったぐらいだ。
「しかし千尋、お前、実家に戻る気はないとか、前に言ってたよな。それがどういう心境の変化だ。一人暮らしを続けるつもりで、バイトもしてたっていうのに」
「――突然、人生の転機がやってきた」
まるで聖書でも朗読するかのような厳かな口調で、千尋が言う。何事かと目を丸くする明に対して、千尋は唇の端を動かすだけの表情を浮かべる。それが、余裕に満ちた大人の笑みだと気づいたのは、数十秒経ってからだ。
「オヤジに丸め込まれた気もするけど、実家……本宅に戻ったことは、後悔してねーよ。なんだかんだで、毎日刺激に満ちてるしな」
「お前がそういうこと言うと、いろいろ物騒なこと考えちまうだろ……」
千尋はイスの背もたれにしっかり体を預けると、ここではないどこかを見つめる目をする。『刺激に満ちている』生活について語る気はないのか、急に話題の矛先を明へと向けてきた。
「で、明、お前のほうは、実家に帰ってるのか? たまにおばさんを見かけるけど、こっちは車だから、声をかけられなくてな」
「大学入ってから……正月に一回だけ」
「親不孝者。本当は一人暮らしするまでもなく、実家から大学通えるぐらいの距離なんだから、たまにはメシ食いに顔出してやれよ」
「お前に言われたくねーよ。オヤジの思い通りにはならないとか大層なこと言って、一人暮らしを始めたくせに、生活費はそのオヤジ頼りだったくせによ」
「……過去の話だ」
気まずそうに洩らした千尋の顔を、明はニヤニヤしながら覗き込む振りをする。いつもなら殴るマネで返されるところだが、予想に反して千尋は、真剣な表情と口調で続けた。
「俺はもう、組の人間だ。将来的に、いろいろと張り合わなきゃいけない人間もいるしな。そのために、急いで大人になる必要がある」
そう語る千尋は、『大人びた』という表現では足りない、すでにもう本物の大人に見えた。明はこの瞬間、強烈な羨ましさと同時に、妬みにも似た感情を抱く。安穏とした生活を送る大学生でしかない自分が、ひどく矮小な存在に思えた。
「なんか、立派だな、お前……」
思わず出た明の言葉に、千尋は苦笑いを浮かべて首を横に振る。
「おい、しっかりしろよ。俺は、社会の嫌われ者の一員になったんだ。立派っていうのは、真っ当な家で真っ当に育って、真っ当な社会人になろうとしてる、お前みたいな奴のことを言うんだよ」
明は、そうか、としか答えられなかった。〈大人〉に正論を言われると、こう返すしかなかったのだ。
千尋の言葉に刺激されて里心がついたわけではないが、この日、アルバイトが休みだった明は、ふらりと実家に顔を出し、母親を驚かせた。
実家のことを忘れてなかったのね、と軽い皮肉は言われたものの、心なしか母親の顔は嬉しそうに見え、久しぶりの里帰り――というほどの距離ではないのだが、自分の行動は間違っていなかったと明は内心で安堵する。実は、少々気恥ずかしくもあったのだ。
夕飯ができるまでの間、リビングのソファに転がり、テレビを観ていた明に、キッチンから母親が声をかけてくる。
「そろそろ、お祭り始まってるんじゃない?」
「えー、祭りって?」
「あら、知ってて帰ってきたんじゃないの」
体を起こした明は、声を張り上げて会話するのが面倒で、キッチンに足を運ぶ。
「祭りってなんのこと?」
「神社の夏祭り。明も子供の頃は、よく行ってたでしょう」
そんなこともあったなと、明は昔を懐かしむ。自分を含めた幼馴染の悪ガキたちと一緒に、小遣いを握り締めて出かけていたのだ。その悪ガキたちの中に、子供の頃は意外におとなしかった千尋もいた。
その千尋と、つい数日前にメシを食ったと母親に言いかけたが、やめておいた。千尋が長嶺組の跡目として本格的に動き始めたことを知り、母親がどういう反応を示すか、目の当たりにしたくなかったのだ。
「ちょっと覗いてきたら? その間に明の好きなもの、作っておいてあげるから」
「……お袋、優しい……」
「あら、いつも優しいでしょう」
振り返った母親に澄ました顔で返されて、明は破顔する。
「んじゃあ、もっと腹を空かせるために、行ってくるか」
ジーンズのポケットに小銭を突っ込み、サンダルを引っ掛けた明は家を出た。
普段は静かな家の前の通りだが、確かに今日は様子が違う。神社のほうに向かって歩いていく人の姿が多かった。
華やかな浴衣を着た女の子たちが、下駄の音をさせながら明の傍らを走り抜けていく。その光景に目を細めつつ、こう考えてしまう。
バイトに明け暮れる夏もいいが、カノジョを作る努力もすべきではないか、と。
カップルも多い夏祭りはなかなか目の毒で、神社に足を踏み入れた明は、なんとなく引き返したい心境になるが、空きっ腹には堪える匂いがあちこちの屋台から漂っており、ふらふらと歩き出す。
まだ夕方ということもあり、子供の姿が目につく。なんとなく、自分の子供の頃の光景が蘇り、知らず知らずのうちに明は唇を緩めていた。
「そういや、子供神輿があるんだったな」
晩飯を食べたあと、間に合うようなら沿道に出て見てみようかと思っていると、ふいに明の耳に、聞き覚えのある声が届いた。
「えっ」
一瞬聞き間違いかと思ったが、そのはずがない。数日前にすぐ側で聞いた声だ。
明は足を止め、ゆっくりと周囲を見回す。人出があるとはいえ、押し合うほど混んでいるわけではない。目的の人物の姿は、すぐに視界に捉えることができた。
明の脳裏に、幼馴染たちと夏祭りではしゃいでいた子供の頃の思い出が、鮮やかに蘇る。なんといっても、明が見つめる先で、〈幼馴染〉の一人が当時のままの顔で笑っていたからだ。
「なんだ、あいつ、全然変わってねーじゃん……」
思わず明は呟く。
千尋は、何がそんなに楽しいのか、満面の笑みを浮かべていた。そして、落ち着きない様子で、隣を歩く人物にしきりに話しかけている。ときおり千尋の大きな声が聞こえてくるが、話している内容まで、子供の頃と変わっていない。
とにかく、夏祭りに来られて嬉しくてたまらない、という千尋の気持ちだけは、表情と声からしっかりと伝わってくる。
「大人になったどころか、ガキのまんまだな、あいつ」
そう呟いた明の声は、自分でもわかるほど、安堵に満ちていた。
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