と束縛と


- Extra30 -


 中嶋の機嫌が最悪だということは、一目見てわかった。
 居酒屋の前まで迎えに行った加藤が声をかける前に、中嶋が車のキーを投げて寄越してくる。タクシーで来いと指示を受けていたのだが、どうやら、飲酒した中嶋に代わって車を運転しろということらしい。
「……悪かったな。休んでいるところを、呼び出したりして」
 並んで歩き出してすぐ、低く抑えた声で中嶋が言う。感情的になるところを、ギリギリで堪えているといった感じだ。
「いえ、どうせ、部屋でごろごろしてたんで。それで――」
 何かあったんですか、と問いたいところだが、いつになく険しい中嶋の横顔を見てしまうと、迂闊な一言でとんでもない逆鱗に触れてしまいそうで、無難に口を閉じておく。
 加藤は決して、中嶋を怖い存在だとは思わないが、怒らせたくない存在だとは思っている。元ホストという経歴も納得の、ヤクザらしくない容貌と物腰の持ち主のため、中嶋をナメてかかる連中もいるが、本人は澄ました顔で受け流している。実は加藤も、そのナメているうちの一人だったが、中嶋の下で仕事を手伝っているうちに、知ったのだ。
 見た目に反して中嶋は、賢しくてあくどい人間だ、と。
 暴力を振るうばかりが、ヤクザのやり口ではない。むしろ、力を持たない三下や、加藤のようにヤクザの下で働く連中が使うべき手で、頭のいいヤクザは、自分の手を汚さない。第二遊撃隊の中では新入り扱いされている中嶋には、その片鱗があった。
 使われていながら、誰かを使うための触手を常に伸ばしており、必要に応じて中嶋は、動かす触手を使い分けている。そこから人脈や情報を引き当て、自分の地位固めのために利用している。
 加藤にとって中嶋は、初めて会う種類の人間だった。ヤクザのくせに堅気っぽく、だが、堅気というには毒がありすぎる。その毒が、これまでの生活で麻痺しかかっている加藤の神経を、チクチクと心地よく刺激してくる。
 多分、自分はこの人を気に入っているのだと、加藤は分析していた。
 並んで歩いていたはずが、いつもの癖で中嶋の斜め後ろの位置に落ち着いた加藤は、あるビルの様子をうかがう。来るときに気づいていたが、やはり、チームの人間がビルの前に立っていた。中にはカラオケボックスが入っており、遊びに来た――というわけではないだろう。鋭い視線を辺りに向けている姿は、明らかに警戒しているものだ。つまり、ビルの中に〈誰か〉いる。
「――その様子だと、お前も聞かされてなかったみたいだな」
 肩越しに振り返った中嶋に言われ、加藤はハッとする。
「えっ」
「中に、南郷さんがいる。今頃気持ちよく歌ってるんだろ。それと、小野寺たちも一緒だ」
 中嶋の口調から苦々しさを感じ取り、ここでやっと、加藤は切り出すことができた。
「……何か、あったんですか」
 中嶋は心底不愉快そうに顔をしかめると、歩調を速める。自分の問いかけに気を悪くしたわけではないと、加藤には確信めいたものがあった。
 コインパーキングに着くと、中嶋は停めた車の助手席側にさっさと回り込む。車に乗り込んですぐ、中嶋の携帯電話が鳴った。加藤はエンジンをかけるのをやめようとしたが、かまわないと言うように中嶋が軽く手を振ったので、遠慮なく車を出す。
 中嶋は、いくらか緊張したように大きく深呼吸をしてから電話に出た。
「――お疲れ様です」
 一瞬、南郷からの連絡かと思ったが、すぐに違うことに気づいた。ため息を洩らした中嶋が、困惑を物語るように所在なさげに髪を掻き上げる。伸ばしっぱなし、気が向けば自分で適当に切っている加藤の髪とは違い、美容師によってきちんと手入れされている髪だ。
 さっそく渋滞に巻き込まれ、なかなか車が進まないこともあり、ハンドルを握りながら加藤は、横目で中嶋を観察しつつ、しっかりと聞き耳を立てる。
「ええ、たった今まで先生と一緒でした。……そうですか。組員の方から連絡がありましたか」
『先生』という単語を聞いて、加藤の脳裏にある人物の顔が浮かぶ。いつだったか、中嶋と一緒に食事をしていた医者だ。育ちのよさが全身から滲み出ており、元ホストの中嶋と並んで、遜色ないどころか、より強い印象を与えてくる整った顔立ちをしていた。優しげな雰囲気が漂っていたが、加藤にとっては接したことのない人種のせいか、かえって近寄りがたさを感じた。
 総和会ならびに、総和会に名を連ねる組には、その医者に傷一つつけることはおろか、存在を軽んじるような言動すら慎むよう、密かに厳命が下っている――と噂で聞いたことがあるが、南郷の下で、総和会の枠外で使われている加藤には、関係のない話だ。
 そう、今この瞬間まで思っていた。
「詳しい話と言われても、今日の出来事については、俺は蚊帳の外に置かれてたんです。先生から連絡をもらわなかったら、明日までのん気に寝ていたでしょうね」
 電話の相手は感情的になっているらしく、運転席の加藤の耳にも、何を言っているのかはわからないが、荒らげた口調が聞こえてくる。
 自分が怒鳴られたわけでもないのに胸が悪くなってきた加藤は、無意識のうちに横目できつい眼差しを向ける。それに気づいたのか、中嶋は苦笑を浮かべ、前を見ていろと言うように、軽く手を振った。
「……何があったかは、詳しくは話してもらえませんでした。ただ、先生にしては珍しく、荒れてました。今夜はあまりよくない飲み方をしてましたね」
 どことなく過保護さが感じられる中嶋の口ぶりを聞いていれば、『先生』とは、加藤も見かけたあの医者であることは間違いなかった。
 南郷も絡んだ揉め事が起きたのだろうかと考えているうちに、繁華街周辺の渋滞をようやく抜け出す。その頃には中嶋の会話は、電話の相手とこれから落ち合うことになっており、加藤は言われるまま車を目的地に向けて走らせる。
「――電話の相手、聞いていいですか?」
 中嶋が携帯電話を仕舞ったところで、加藤は問いかける。冗談なのか本気なのか、中嶋は真剣な顔でこう答えた。
「俺が今一番会いたくない相手。……下手したら、縊り殺されるかもな」


 二十四時間営業のスーパーの駐車場は、夜だというのに車の出入りが多かった。昼間以上にさまざまな人間も出入りしているように見え、おかげで、そこにヤクザと半端者が加わったところで、注目を浴びることはまったくない。
 車を降りた中嶋が軽く辺りを見回し、すぐにある方向へと歩き出す。加藤は、自分もついていくべきなのかと逡巡したが、振り返った中嶋に指先で呼ばれる。
「お前も来い。せっかくの機会だから、紹介したい」
 加藤は小走りで中嶋に駆け寄り、小声で話しかけた。
「もしかして中嶋さん、さっき言ったこと、本気だったんですか」
「さっきって?」
「車の中で、縊り殺されるかもと……」
「冗談だ。相手はなんといっても、〈紳士〉だからな」
 そう言って中嶋が、正面を見る。広い駐車場は、まるで昼間のように照明によって照らされているが、ある一角は明かりが届かず、不気味に薄暗い。そこに、陰に身を潜めるようにスーツ姿の男が立っていた。
 また中嶋にからかわれたと、率直に加藤は思った。
 近づく二人にとっくに気づいていたのだろう。暗がりから男が向けてくる視線は、まるで獲物を狙う獣のように鋭く、殺気立っている。紳士どころか、男は間違いなく、ヤクザだ。強面の堅気など掃いて捨てるほどいるが、男の放つ静かな凄みは、堅気のものではない。
「お待たせしました。――三田村さん」
 中嶋が呼びかけると、三田村と呼ばれた男が暗がりから一歩出てくる。間近に寄って気づいたが、男のあごにはうっすらと、細い傷跡があった。
 一瞥され、加藤は反射的に姿勢を正したあと、深々と頭を下げる。
「こいつは?」
「うちの隊が見ている若い連中の一人です。……すみません。俺、飲んでいたので、運転を任せようと思って呼んだんです。まさか、三田村さんから連絡があるとは思ってなくて」
 中嶋に言われて頭を上げた加藤は、三田村が軽くあごをしゃくったのを見て、会話が聞こえなくなる距離まで離れた。
 中嶋と三田村はすぐに顔を寄せ合い、厳しい表情で何事か話し始める。
 目の前で、絶対的な境界線を引かれたようで、なんともいえない虚無感が加藤の胸を塞ぐ。あくまで自分は、ヤクザではなく、そこに属することをまだ許されていないチンピラ以下の存在なのだと思い知らされる瞬間だ。
 不貞腐れた顔を晒すわけにもいかず、ぐっと奥歯を噛み締めて、二人の姿を見据える。
 最初のうちは、中嶋が何か言うたびに、三田村が詰め寄っている感じだったが、次第に様子は変わっていく。三田村は苦々しい顔となって携帯電話で誰かと話し、ちらりと安堵の表情を見せたあとは、これまでとは打って変わって、感情をなくしたかのような静かな表情で中嶋と向き合う。
 ここでようやく、中嶋が笑みを浮かべる。そしてごく自然な動作で、三田村の腕に軽く触れた。その光景を見たとき、なぜだか加藤はドキリとする。自分でも、一体何に反応してしまったのかはわからないが、それでもうろたえてしまう。
 さほど待つことなく二人の話が終わり、加藤は呼ばれた。中嶋は、三田村を見た。
「三田村さん、改めてきちんと紹介させてもらいます。こいつは、第二遊撃隊で面倒を見ているチームの人間で、加藤と言います。よく俺の仕事を手伝ってもらっているんです」
 加藤がもう一度頭を下げると、中嶋は今度は三田村を紹介してくれた。
「この人は、長嶺組若頭補佐の一人、三田村さんだ」
 中嶋は、総和会と長嶺組との連絡役を任されている。そのことを教えられたとき加藤は、中嶋と長嶺組の繋がりが不思議で仕方なかったが、今ならわかる。この両者を繋ぐのが、車中の電話で話題になっていた医者だ。中嶋は医者と親しく、その医者を、長嶺組が面倒を見ている。
「――しっかり物事を考えている顔をしているな」
 唐突に三田村から声をかけられ、加藤は即座に反応できなかった。身構えることもできず、ただ目を丸くする。感情をなくしたかのような、と思えた三田村の顔が、この瞬間笑みめいたものを浮かべたように見えた。
「組に出入りするような若い連中は、命令はしっかり聞くが、それ以外のことは頭の中を素通りしているような顔をするんだ。だからまず、どんな些細なことだろうが、自分の頭でしっかりと噛み砕いて理解しろと教える。そうするうちに、考える癖がつく。そして、〈言外〉ってものを理解する。上からの話は、声に出したものがすべてじゃない。むしろ、そうできないもののほうに重要な意味を含んでいることが多い」
 ここで三田村が、自戒するように洩らした。
「うちの組の人間でもないのに、余計なことを言ったな……。最近、若い奴の指導をする機会が多くてな。つい、いつもの調子が出た」
「基本的に三田村さん、面倒見がいいですからね」
 さきほどまで厳しい表情で話し合っていたのがウソのように、中嶋が軽い茶々を入れ、三田村は渋い表情で返す。医者絡みのトラブルがどうなったかはともかく、少なくとも中嶋の機嫌はマシになったようだ。
「俺はこれから組事務所に顔を出す。もしかすると、本宅――組長から何か伝言があるかもしれないからな」
「……大事になると思いますか?」
 中嶋の問いかけに、三田村の顔からまた感情がなくなる。
「大事にはなるだろうが、どの程度に収めるかは、長嶺会長の腹一つだと思う」
「長嶺〈組長〉ではなく?」
「命知らずな質問だな、中嶋。……聞かなかったことにしてやる」
 三田村から向けられた暗く冷たい眼差しに、傍らで見ていた加藤の首筋が寒くなる。中嶋は肩をすくめたあと、三田村に頭を下げて踵を返す。加藤も慌ててあとを追いかけようとして、三田村に呼び止められた。
 スッと名刺を差し出され、反射的に受け取ってしまう。名刺には、三田村の名だけではなく、組での肩書きと携帯番号が印刷されていた。
「気が向いたら連絡してこい。メシを食いに連れて行ってやる。組の人間と接触するなと言われてるわけじゃないんだろ?」
「……はい。ありがとうございます」
 もっと気の利いた台詞を言ったり、喜びを表に出すほうがいいのだろうが、あいにく加藤はそこまで器用ではない。ぎこちなく頭を上げるのが精一杯だったが、三田村は気を悪くした様子もなく、早く行けと中嶋のほうを指さす。
 もう一度礼を言った加藤は、走って中嶋に追いつく。振り返った中嶋が、ニヤリと笑った。
「あの人、いい人だから、懐くなよ」
「いい人だというのは、なんとなく……」
「デキるヤクザだが、ヤクザらしくないヤクザでもある。――どういう人なのか、そのうちいろいろと耳に入るだろうがな」
 意味深な中嶋の言葉が気になったが、加藤の意識は、次の中嶋の言葉に奪われた。
「今のところ、俺が気兼ねなく使えるのは、お前ぐらいしかいないからな。三田村さんの下で働きたいです、なんて言われると、困る」
「困りますか……」
「困るな」
 元ホストのヤクザは、女タラシどころか、人タラシだ。加藤は、自分の体温がわずかに上がったことを認識しつつ、ぐっと奥歯を噛み締め、胸の奥から沸き起こったわけのわからない感情の高ぶりを抑える。
「お前の機嫌を取っておくために、ラーメンを奢ってやる」
「……それ、中嶋さんが腹減ってるだけでしょ」
「こういうとき、可愛げのある後輩は、嬉しいです、と言っておけばいいんだよ」
 加藤は、中嶋に向かってぎこちなく唇を歪めて見せる。笑うのが苦手なせいで、こういう歪な表情しかできないのだが、それでも中嶋は、しっかりと汲み取ってくれる。
 申し訳なくなるような、鮮やかな笑みで返してくれた。









Copyright(C) 2013 Tomo Kitagawa All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。



Extra[29]  titosokubakuto  Extra[31]