と束縛と


- Extra31 -


 医局に戻ってきた和彦は、やれやれと思いながらゆっくりと首筋を揉む。一仕事を終えてほっとしたいところだが、この一時間後に、また次の手術を控えているのだ。
「お疲れだな、佐伯」
 そう声をかけてきた澤村も、和彦同様、顔に疲労の色を滲ませている。普段であれば、午前中は患者のカウンセリングを行い、午後から手術室に入るスケジュールとなっているのだが、ここのところは、午前中から手術室に入るパターンが多い。クリニックとしては、いわゆるかき入れ時に入っているのだ。
「寒くなってくると、人は見た目を変えたくなる心理に陥るんだろうか……」
 電子カルテを開きながら和彦が呟くと、隣のイスに腰掛けた澤村が微妙な表情を浮かべる。和彦が本気で言ったのか、冗談を言ったのか、判断がつかなかったのかもしれない。
「休みが続く時期は、いつもこんなものだろ。春休みなんて特に、新しい生活を始める前に、と駆け込み予約が多くなるし」
「なんとなく、それはわかるんだ。ただ、冬休みなんて、そう長くないだろ。この寒い時期に、どういう心境から、顔の雰囲気を変えてみたくなるのか――」
 腕組みをした澤村が、軽く唸って首を傾げる。和彦のことを、妙な質問をぶつけてきて厄介な、と思っている様子はなく、いつになく理屈っぽい和彦をおもしろがっている節すらある。その証拠に、口元がわずかに緩んでいた。
「見た目によらず、佐伯は情緒に欠けているところがあるよな。季節を、寒いか暖かいかでしか感じないタイプだろ」
「……澤村先生ほど、情緒豊かじゃないからな、ぼくは」
「人間、完璧じゃないほうが、かえってモテるぞ」
 澤村の発言こそ、本気で言っているのか、冗談で言っているのか判断がつきにくい。和彦は曖昧に笑って作業に戻ろうとしたが、澤村はさらに続けた。
「人それぞれ事情や考えはあるんだろうけど、俺は少しだけ、わかる気がするんだよな。いや、患者に直接聞いたわけじゃないんだが」
「話したそうだから、聞いてやる。――なんだ?」
 パソコンのディスプレイから視線を離さず和彦が促すと、人のデスクに遠慮なく腕をかけ、澤村が身を乗り出してくる。
「前にテレビを観ていて思ったんだ。成人式って、同窓会も兼ねているようなところがあるだろ。進学や就職で普段は地元を離れているけど、成人式には戻ってくる、ってやつ」
「そういう……、ものか?」
「あー、面倒くさくて、顔出さない奴もいるだろうな。俺なんて、ガキの頃から転校が多くて、成人式に出たところで、知り合いがほとんどいないから、妙に寂しかったぞ。これなら出ないほうがよかったと思ったし」
 社交的な澤村にもそういうことがあったのかと思った和彦だが、次の瞬間には眉をひそめる。
「で、どうして成人式の話題になってるんだ」
 察しが悪いと言いたげに、澤村に乱暴に肩を叩かれる。
「少しは想像力を働かせろ。久しぶりに同級生たちと顔を合わせるとなったら、ちょっとは自分を変えてみたいとか、思う人間もいるかもしれない。男も女も関係なくな」
「……改めて聞くが、そういうものなのか?」
「さあ、わからん。俺は美容外科医であって、美容外科手術を受ける患者じゃないからな」
 和彦が横目で睨みつけると、澤村はのんびりと笑った。
「こういうことをあれこれ考えてみると、患者の一人一人が、なんだか愛しくなってくるだろ。俺はときどき、機械的に処置を施しながら、むしょうにこの仕事が空しくなってくるときがあるんだが、こうやって乗り越えてるんだ。佐伯は――まだ大丈夫そうだな」
 軽薄そうな物腰で、女性患者の受けが抜群によくて、悩みなど何もなさそうに見える美容外科医に、こんな一面があるとはと、正直和彦は驚いた。同時に、澤村を見直した。別に、澤村を医師として軽んじていたわけではないが、先輩だと意識することはほとんどなかった。それだけに――。
「気の迷いで、澤村先生をちょっと尊敬しそうになった……」
 ぼそりと和彦が洩らすと、澤村は少しだけ考える表情となってから、和彦の首に容赦なく腕を回してくる。
 医局にいる他の医師たちが、また二人がじゃれ合っていると、苦笑交じりの視線を向けてきたが、もちろん澤村は気にしていない。




「――そんなやり取りを澤村と、成人の日あたりに交わした記憶がある……」
 文庫本のページを捲りながら和彦が話し終えると、人の話を子守唄だとでも思っているのか、うつ伏せの姿勢で枕を抱え込んでいた千尋が、いきなりガバッと頭を上げた。
「それだけっ?」
 和彦はムッと唇をへの字に曲げる。
「不満なのか?」
「だって俺、先生の成人式の思い出を聞いたんだよ。それがなんで、今みたいな話になるんだよ。先生と成人式が、直接関わってないじゃん」
 寝ているように見えたが、しっかりとこちらの話を聞いていたらしい。和彦は露骨にため息をつくと、文庫本にしおりを挟んで閉じる。
「ぼくは、成人式には出席していない。いろいろと忙しかったんだ」
 和彦の場合、本当に成人式にはなんの思い出もないのだ。実家から、どうするのかと問われることすらなかった。佐伯家だからこうなのか、それとも、世間の大半――とまではいかなくても、半数ぐらいの家庭はこんなに無関心なものなのか、そう考えることすらしなかった。
「そうは言っても、なんかちょっと、お祝いみたいなこと――」
「興味なかった。別に……会いたい人間がいるわけでもなかったしな。新成人の誰もが、成人式を楽しみにしているわけじゃないし、祝ってもらえるわけでもない。無関心な人間だっているんだ」
 少し冷たくなった和彦の口調に気づいたのだろう。枕に顔半分を埋めた千尋が、まるで捨てられた子犬のようないじらしい眼差しを向けてくる。
 怒鳴ってやろうかと思ったが、すぐにその気は萎え、和彦は千尋の髪を梳いてやる。
「――……お前は、成人式には出席したのか? まだ二十一だから、成人式なんてつい最近の出来事だろ」
 よく聞いてくれたと言わんばかりに、千尋が身を寄せてくる。きっとおもしろい話を聞かせてくれるのだろうなと予感して、和彦は読書の続きを完全に諦めると、文庫本をヘッドボードの上に置いた。
「俺、成人式には出席しなかったんだ。地元じゃ、長嶺組は有名で、その跡目の俺も顔が知られてるからさ。幼馴染とかは、気にせず出ろよって言ってくれたけど、やっぱり、お偉いさんとかはいい顔するはずがないだろ? あと、目立ちたいって考えるチンピラみたいな連中が、俺を襲撃してやるなんて、どこかで吹いてたらしくてさ。俺より、組員のほうがピリピリして――」
「それでお前は、大人の判断をしたというわけか」
 和彦が頬を撫でてやると、千尋は子供のような邪気のない笑みをこぼす。話している物騒な内容とのギャップがなんだかおかしくて、和彦もつい笑ってしまう。
「まあ、式には出席しなくても、あとで仲のいい奴らと集まったし。それに成人の日に、うちの家らしい祝い方もしてもらった」
「どんな?」
「紋付袴を着て写真を撮ったあと、オヤジと一緒に、あちこちの組や会に挨拶回り。そのあとはじいちゃんのところに顔出して、総和会の幹部たちに引き合わされた」
「……お前もけっこう、苦労してるんだな」
「窮屈な思いをさせたからって、そのあと、高いクラブで、高い酒をガンガン飲ませてもらったんだ。気に入った女がいたら、あとで連れて帰ってもいいぞとも言われてさ、あのときは、俺を取り囲んだ怖いおっさんたちのおかげなのか、それとも、俺が可愛かったからなのか、やたら女からチヤホヤされたなー」
 千尋が若いうちに、さらに次の世代の長嶺の男が誕生してくれたらと、〈誰か〉は企んでいたのではないかと、和彦はちらりと考える。もっともこれは、下衆の勘繰りというものかもしれないと、口に出すのは自重しておいた。
 ただ、物言いたげな表情はしていたらしく、目敏くそれに気づいた千尋が、意味ありげな眼差しを寄越してくる。
「先生もしかして、妬いてる?」
 千尋の思いがけない言葉に目を丸くした和彦だが、すぐに苦笑を洩らして茶色の髪をぐしゃぐしゃと掻き乱してやる。
「妬いてほしかったら、もう少し大人になれ。お前はまだまだガキだ」
「いやいや。俺がガキっぽく振る舞うのは、先生の前だけだって。普段は、ピシッと決めてるんだから」
「どうだかな……、と言いたいところだが、長嶺の男は食えないからな。あー、怖い、怖い」
 最後の台詞は棒読みで言ってやると、千尋がムキになって反応する。これすら、あえて『ガキっぽく』振る舞っているのだとしたら、長嶺の男は本当に怖い。
 和彦は、千尋の頭を撫でてやりながら、ついこんな頼みごとを口にしていた。
「そのうち、お前の成人の日の写真を見せてくれ」
 騒いでいた千尋が、一瞬にして大人びた男の顔になり、和彦と額と額を合わせてきた。
「いくらでも見せるよ。俺が生まれた頃からの写真も、全部見て」
「……たくさんあるんだろ? 見終わるまで、時間がかかりそうだな」
「いいじゃん。どれだけかかっても。――先生ずっと、俺と一緒にいるんだし」
 長嶺の男が本当に怖いと思えるのは、こんな言葉をさらりと言われたときだ。
 さきほど大人になれと言っておきながら、千尋にはまだガキっぽいままでいてほしいと、自分勝手なことを思いつつ、そうだな、と和彦は応じた。









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