客を出迎えるために一階に降りた二神(ふたがみ)は、すぐに異変に気づいた。
普段は意図して人を置いていないエントランスホールに、数人の男たちの姿があった。外をしきりと気にかけている様子から、総和会の幹部の誰かが訪れるのだろうかと思ったが、それにしては、緊張感はない。
だからといって気が緩んでいるわけではなく、むしろ、か弱い者を労わるかのような気遣いを、男たちの眼差しから感じた。
総和会本部に詰めている男たちから、そんな眼差しを向けられる人物はごく限られている。二神の知る限りでは――二人。
二神の勘は当たっていた。自動ドアが開き、二神が知るうちの一人が姿を現す。
エントランスホールで出迎えた男たちは、仰々しい挨拶ではなく、黙然と頭を下げる。相手の地位が自分より高いか低いかは関係なく、〈彼〉にはそう接するよう、この本部の主に申しつけられているのだ。決して怖がらせることのないように、と。
二神は、ここで自分の格好を見下ろす。喪服かと揶揄される、漆黒のスーツに身を包んだ自分は、彼の目にはひどく不気味で、不吉なものに映るのではないかと考え、観葉植物の陰へと身を潜める。そのうえで、じっくりと彼を観察する。
佐伯和彦の非常に整った顔には今日も、困惑と諦観の色が浮かんでいた。ただ、育ちのせいなのか、もともとそういう性質なのか、感情を露骨に顔に出すことはしていない。立場上、自分の言動のせいで、余計な誤解を生むことを避けているとも考えられる。
いろんなことを慎重に考えられる人間でなければ、彼のような状況に置かれると、身動きが取れなくなるどころか、呼吸すらままならなくなってしまうかもしれない。何よりまず、精神がもたない。
そっと目を細めた二神は、軽く唇を舐める。品がよく、優しげな雰囲気を持つ彼は、外見とは裏腹に、実はヤクザすら太刀打ちではないほど、タフな内面を持っているのではないかと、ふと考えていた。
途中で買い求めた洋菓子の箱を手に、二神はインターホンを鳴らす。しかし、いくら待っても返事は返ってこない。こういうときの対応は決まっていた。
嫌な予感を覚えつつ、玄関のドアをゆっくりと引いた二神は、思わず声を洩らす。
「不用心な……」
鍵がかかっていなかったことに少しばかり憤慨しつつ、二神は挨拶をして靴を脱ぐ。廊下を歩いていると、ふわりと薬草の匂いが鼻先を掠めた。すっかりこの家に染みついてしまったらしく、そのことに二神は、わずかに胸が苦しくなるのだ。
庭に面している奥の部屋を覗くと、案の定、この家の主人の姿があった。戸を開けたまま、庭に屈み込んで何かしている。
「――そういう雑用は、我々に任せてくださいと言っているでしょう」
箱をテーブルに置いて二神が声をかけると、この家の主人であり、二神にとっての主人でもある御堂秋慈が顔を上げた。その顔を見て、二神は安堵の吐息を洩らす。秋慈の顔色がよかったからだ。機嫌も悪くはなさそうだ。
「庭の草引きのために、わざわざ人を呼べるわけがないだろう」
「あなたの顔を見るためなら、みんな喜んで駆けつけますよ」
世辞でもなんでもなく、本心からの二神の言葉に、秋慈は唇の端に笑みを刻んだ。
「あと、まだ肌寒いんですから、外に出るときは、しっかりと着込んでください。せめて、上着を一枚羽織るとか。――それと、いつでも戸締りには気をつけてください。鍵がかかっていませんでしたよ」
「過保護だな、二神」
軍手を外しながら、縁側から部屋に上がった秋慈の一言に、二神は口を閉じる。つい数時間ほど前に総和会本部で見かけた佐伯和彦と、その彼に向けられていた男たちの眼差しを思い出していた。
総和会の男たちから気遣われる存在は現在、二神が知る限り二人。一人は、佐伯和彦。もう一人は、今二神の目の前にいる、御堂秋慈だ。
ただしこの二人は、抱えた事情も立場もまったく違う。
佐伯和彦は、総和会会長、長嶺組組長という特別な地位に就く男たちのオンナで、一方の御堂秋慈は、総和会〈第一遊撃隊〉隊長という肩書きを持っている。あくまで、肩書きだけ。
「ちょっと待ってろ。手を洗って、コーヒーを淹れてくる」
俺が、と二神は動こうとしたが、すかさず秋慈にイスを示された。こうなると二神は、調教師に命令された犬同然だ。従うしかない。
黙ってイスに腰掛けると、満足した様子で秋慈が部屋を出て行く。その後ろ姿を見送って二神は、もう一度安堵の吐息を洩らした。
一時期の秋慈は、外に出ることはおろか、ベッドから起き上がることも難しく、痩せて死人のような顔色をしていた。その最悪の時期を知っている二神としては、週に何度も秋慈のもとに足を運んではいるのだが、元気な姿にやはり胸を熱くしてしまう。同時に、悔しさも噛み締めるのだ。
三十代の若さで秋慈は、当時の総和会会長の片腕となっていた。会長の親戚筋というだけではなく、秋慈自身、痺れるほど有能だった。だが、第一遊撃隊を任されてから、総和会内である程度の発言力を持とうとしていたところで、状況は一変した。秋慈が内臓を悪くしたところに、会長の交替劇が重なったのだ。総和会の中で激しい嵐が吹き荒れ、秋慈の精神はともかく、体がもたなかった。
秋慈は、長嶺会長に休職の挨拶をすると、ごくありふれた外観を持つこの一戸建てに引越し、もう数年間、療養生活を送っている。秋慈の動きを警戒して、長嶺会長はこの家を見張らせていたが、それもずいぶん前の話だ。
第一遊撃隊は、名だけを残した、形式的なものとなってしまった。それでも完全になくしてしまわないのは、前会長と長嶺会長との取り決めだと言われている。どこの馬の骨とも知れない男を隊長とする、第二遊撃隊の設立を認める代わりに、第一遊撃隊の存続を認めさせたのは、前会長なりに意地があっただろうし、何より、わが子のように可愛がっていた秋慈への愛情もあったはずだ。総和会の中での、秋慈の居場所を残しておきたかったのだ。
当の秋慈は、いまだに残る第一遊撃隊のことをどう考えているのか、これまで一言も、副隊長の二神に洩らしたことはない。
現在の二神は、総和会総本部の運営委員会の人間として、長嶺会長の居城となっている本部によく詰めている。請われるまま総和会に所属しているのは、踏ん切りがつかないせいだ。秋慈が第一遊撃隊の解散を命じるなら、それと同時に総和会を辞するつもりでいたが、その秋慈が何も言わない。
だから、期待してしまう。
「――そろそろ、お前たちのせいで太りそうになっていることを、本気で心配している」
正面のイスに腰掛けた秋慈が、二神が買ってきた洋菓子の袋を破りながら、そんなことを言う。二神はちらりと笑みをこぼした。
「あなたの食事制限がなくなったと聞いて、皆からの差し入れの量がすごいんでしょう」
「若い奴が来たら、持って帰らせるようにしているんだ」
「そりゃ、誰も彼も、御堂さんのところに寄りたがるわけですよ」
「まったく、ヤクザも、堅気もそう変わらないな。美味いコーヒーを飲みながらの、愚痴と世間話と、噂話が大好きだ」
自分で美味いと言いますかと、二神は手元のコーヒーカップを覗き込み、危うく出かかった言葉をぐっと呑み込む。ふと、あることに気づいた。
「噂話というのは……」
「まあ、いろいろだ。わたしのところに来るのは何も、隊の人間ばかりじゃないからな。総和会の中も、いろんな人間がいる」
秋慈の物言いで、なんとなく見当をつける。総和会は、対外的には磐石の組織ではあるが、内部については一概にはそうも言えない。十一もの組を抱え込んでいる巨大な組織だからこそ、さまざまな人間がいるし、そこに利害も事情も生まれる。それでもしっかりとまとめ上げているのは、長嶺会長の凄さだ。
その凄さは、容赦のなさにも通じている。総和会の中で、長嶺会長に反感や敵意を抱く人間はいるだろうが、表立って悪し様に言う者はいない。よくも悪くも、今の総和会は長嶺会長のための組織で、それで上手く回っているのだ。
生まれた不満は胸の内で抱え込むか、信頼できる誰かにこぼすしかない。秋慈は、そういう意味で最適な人物だった。実際二神も、秋慈の世話をする名目でこの家を訪れては、総和会の様子を話していた。ただし、愚痴でも世間話でもなく、報告として。
この家にいながら秋慈は、総和会の事情通と言ってもいいだろう。
二神はコーヒーを一口啜ってから、秋慈を見つめる。まったくヤクザらしくない秀麗な面立ちは、かつての鋭さを取り戻しつつあると感じる。気力も体力も充実している証だと、密かに二神は考えているが、だからといって今後の生活について、秋慈に問いかけることはできない。このまま穏やかに暮らしたいと断言されたとき、自分が失望することを恐れているからだ。
肩書きだけとはいえ、秋慈が第一遊撃隊の隊長でいるから、二神は前と変わらず漆黒のスーツを着続け、総和会で仕事を続けている。同い年の隊長を、再び支える日が来ることを願いながら。第二遊撃隊の活躍を間近で見ながら。
そのことに疲れる日が先にくるかもしれないが――と考えたところで、こちらをじっと見つめている秋慈の眼差しに気づく。二神は反射的に背筋を伸ばしていた。
長嶺会長も怖いが、二神にとってはそれ以上に、秋慈が怖い。この人の眼差しは、ただひたすら冷たく澄んでいる。
自分が買ってきた洋菓子を一つ手に取りながら、二神は話題を変えた。
「そういえば今日、本部に例の医者が来ていましたよ」
「……どういう心境で毎日を過ごしているか、聞いてみたくなるな」
秋慈の声には、憂いが含まれていた。破廉恥ともいえる、佐伯和彦と、その彼を取り巻く男たちの関係について、嫌悪しているわけでも、好奇心を抱いているわけでもない。もしかすると、二神ですら知らないことが、とっくに秋慈の耳に入っているのかもしれない。
「堅気の生活を奪われて、押しつけられたのは、よりによってヤクザの組長の囲われ者という立場だ。しかも、その立場はどんどん複雑に、面倒なことになっている。柔な……というか、普通の神経をしていたら、とっくにどうにかなっているだろうな」
「なら、とてつもなく強靭な神経をしているんでしょう。少なくとも見た目は、品がよくて優しげな青年ですよ」
「それは――、毒気に染まって生きてきたヤクザ共には、新鮮な存在だろうな」
秋慈の口調が、かつてのように皮肉げな響きを帯びる。その瞬間、二神の背筋に痺れにも似た感覚が駆け抜ける。こういうとき痛切に、また秋慈の下で働きたいと願うのだ。自分勝手なもので、これでも秋慈が病に伏したときは、この人が生きてさえくれれば、それだけでいいと願っていたのだ。
秋慈の反応をうかがうためではないが、二神はささやかな言葉の爆弾を投げ入れてみた。
「――……南郷がどう感じているかは知りませんが、どうやら、その医者の周りをうろついているようです」
秋慈は、声を立てて笑った。少し怖い笑い声だ。
「あの男にとっては、たまらない存在だろうな。いろんな意味で、高嶺の花だ」
二神は、秋慈が何を、どこまで把握しているのかは知らない。ただ、秋慈が把握していないであろうことを、二神は知っている。
「あなたが第一遊撃隊を率いている頃は、あなた自身が、高嶺の花でしたよ。俺はそれを知っている。だから、あなたを追い詰めようとしていた南郷の性質ってやつを嗅ぎ取ったんです」
ほう、と興味深そうに秋慈が声を洩らす。
「奴は、自分が持っていないものを持っている人間を貶めて、愉悦を覚える。あなただけじゃない。あなたの昔馴染みでもある長嶺組長も、南郷にとってはそういう対象になりうる。そしておそらく、長嶺組長が大事にしているあの医者も――」
「わたしは、そこまであの男に憎まれる覚えはないんだがなあ」
「憎しみではないでしょう。貶める、穢す……、性質というより、性癖といえるかもしれない」
ぞっとしない話だ、と呟いた秋慈の両目には、はっきりと嫌悪の色が浮かんでいた。それを見た二神は、罪悪感を覚える。心穏やかに、この家で庭いじりをしていた秋慈にとって、これは明らかに余計な情報だったからだ。
こんなことを知らせて、自分は秋慈にどんな行動を促したいのだろうかと、二神は自問する。
第一遊撃隊を解散する決心をしてもらいたいのか、それとも――。
我に返った二神は、自分の中の迷いを振り切るように、秋慈にこう提案した。
「桜が見ごろになったら、集められるだけ人を集めて、花見に行きましょう。立派なお重を用意して、酒も持って」
「……みんな見境なく差し入れを持ってくるのは、なんとなくお前のせいのような気がする……」
「そうですかね」
二神はそうとぼけると、庭に視線を向ける。少し間を置いて、秋慈が柔らかな声で応じた。
「そうだな、行ってみるか。久しぶりに、気心が知れた連中に囲まれて騒ぎたい」
唇が緩みそうになり、ぐっと堪える。
その返事を聞いた瞬間、二神は強く確信したのだ。秋慈は、第一遊撃隊を見捨てたりはしないと。
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