と束縛と


- Extra33 -


 ラウンジから見下ろせるプールでは、どのレーンも水飛沫が上がっており、圭輔は冷たいお茶を飲みながら、その光景を漫然と眺める。体を動かして一汗かいたあとの、ちょっとした虚脱状態は心地いい。
 ホスト時代からスポーツジムに通っていたため、体を動かしてから仕事に向かうというリズムには慣れている。むしろ、体を動かさない日が続くほうが具合が悪い。まるで自分の体が、自分のものではなくなっていくようだ。
 この人も同じなのだろうか――。
 圭輔は、自分の正面に座っている和彦に視線を移す。線が細いように見えて、実はしっかり体を鍛えている。だからこそ、男たちの事情に振り回される日々にも耐えられるのかもしれない。
 圭輔の視線に気づいていないのか、オレンジジュースを飲み干した和彦が、神妙な顔をして自分のてのひらを見つめる。そしてゆっくりと、指を握ったり開いたりを繰り返す。圭輔は、そんな和彦の行動を最初は興味深く眺めていたのだが、急に心配になって口を開いた。
「もしかして先生、バーベルでも持ち上げているときに、指を痛めましたか?」
 医者が指を痛めるとなったら大変だ。さらに、和彦の指は特別なものだ。
 意識せずとも、圭輔の口調は真剣なものとなる。和彦は驚いたように顔を上げたあと、柔らかな笑みを浮かべた。
「ああ、違うんだ。今日は、バーベルは触ってないし。ただ、たまにはプログラムを変えてみようかと思って、スタジオを覗いていたら、ちょっと考えることがあって」
「何を?」
「格闘技系のプログラム、もう少し本格的なものをやりたいなと」
 圭輔はこの瞬間、どういう反応をすればいいのかわからなかった。そもそも、和彦がどういう意図からそんなことを考えたのかがわからない。
「……先生、ストレス溜まってるんですか?」
「溜まっているといえば溜まっているが、別に、体を動かしてストレス解消したいというわけじゃないんだ。それなら別に、今のプログラムでも十分だし」
 格闘技系とはいっても、所詮はスポーツジムのプログラムにあるものだ。機能的に体を動かしはするものの、鍛えているとは言いがたい。つまり、和彦が言おうとしているのは、そういうことなのだろう。
「本格的ということは、あー、つまり、人と戦いたいということですか」
「戦うのは本旨じゃないな。自分の身ぐらい自分で守りたいというか、護身術っていうのかな。そういうものを身につけたいんだ」
 照れた様子で話す和彦を見つめながら圭輔は、相槌の言葉にすら詰まっていた。
 圭輔にとっては――和彦を護衛する立場にある男たちにとっては、和彦自身が危険を感じて戦うなど、あってはならない事態なのだ。そのために、総和会と長嶺組は、和彦の身辺に気を配っている。
 もっとも和彦としては、そういう自分の境遇に感じるものがあり、こんなことを言い出したのかもしれない。
 ここで和彦が、冗談とも本気ともつかない口調で言った。
「実戦的なのを、君から教わるのもいいな」
 思わず姿勢を正した圭輔は、頭を下げる。
「勘弁してください。先生に変なことを教えるなと言って、いろんな人たちから確実に、シメられます」
 大げさな、と言って和彦は失笑したが、対して圭輔は苦笑で返す。この無自覚ぶりが、男たちの庇護欲を刺激すると同時に、危機感も煽り、結果として過保護ぶりが増すのだろうなと思うと、あれこれ忠告するのも野暮な気がした。
「ところで先生、やる気満々なのはけっこうですが、荒っぽいことは苦手でしょう」
「苦手だが、危険な目に遭ったら、そんなことも言ってられない。窮鼠猫を噛むという言葉もあるぐらいだし。どうせぼくは、この世界じゃ甘くみられているから、相手が油断しているところに、ガツンと一発――」
 言っていることは勇ましいが、和彦本人の優しげな雰囲気とのギャップに、圭輔は笑いが込み上げてきて仕方ない。必死に押し殺し、失礼がない程度にまじめな表情を取り繕う。
「その、ガツンと一発、いままで誰かに食らわせたことあるんですか?」
「……ないわけじゃない。ぼくだって、怒るときは怒るんだ」
「へえ。先生をそこまで怒らせた相手って、気になるなあ」
 和彦はそのときのことを思い出したのか、一瞬不機嫌そうな顔となったあと、周囲を見回してから、声を潜めて教えてくれた。
「――……長嶺組長と、南郷さん……」
 本気で驚いた圭輔が目を見開くと、和彦が慌てて付け加える。
「頬を張っただけだからなっ。二人とも平然としていたから、痛くもなかったんだろう」
「いやいや。痛いとか痛くなかったとかじゃなくて、俺の感覚からすると、あの二人に手を上げたらと考えただけで、卒倒しそうですよ」
「ぼくなりに頭にきた理由があったんだ。……まあ確かに、今考えると、とんでもないことをしたなと思うんだが……」
 長嶺組と総和会、それぞれの組織の大物二人が、一体どんな理由で和彦を怒らせたのか、非常に好奇心を刺激される。しかし、聞き出すことで和彦の機嫌を損ねるのは避けたい。
 圭輔は小さく声を洩らすと、くしゃくしゃと髪を掻き上げる。
「気持ちとしては、先生にこっそりと、効果的な一撃ってやつを教えてあげたいんですが、きちんとレクチャーを受けたわけじゃない俺が迂闊なことをして、先生に怪我をさせたら大変です。……まあ、こういうことは長嶺組長に相談して、誰か適任を紹介してもらったほうが……」
 和彦は露骨に顔をしかめると、忌々しげに言った。
「そんなことをあの男に言ったら、きっとおもしろがるに決まっている。ニヤニヤ笑いながら、自分が教えてやるとか言って、ぼくを押さえ込むんだ。ああ、もう、簡単に想像がつくっ」
 和彦があまりにムキになって言うので、圭輔はつい、同情混じりにこう声をかけていた。
 苦労していますね、と。




 シートに座り込み、缶コーヒーに口をつけた圭輔は、ほっと息を吐き出して頭上を見上げる。照明に照らされた桜の花が、それ自体が光を帯びたように、夜空に白く映えて見える。きれいだなとは思うが、うっとり見入ってしまうには、ここはあまりにも騒々しい。
 圭輔がちらりと視線を向けた先では、第二遊撃隊が使っているチームの面々が車座となり、上機嫌で飲み食いをしている。
 花見とはいいながら、桜に興じる様子もなく、さきほどから下品な冗談を飛ばし、バカ笑いをしている。それでも、さらにハメを外した学生と思しきグループや、会社帰りらしきスーツ姿の一団もいるため、チームの連中が悪目立ちしているわけではない。
「――中嶋さん、ビール飲まないんですか」
 そう声をかけてきたのは加藤だ。こういう場でも、完璧に自分を律している男は、バカ騒ぎから一歩引いて、しかし場を白けさせない程度に会話に加わりながら、チームの連中が〈堅気〉に迷惑をかけないよう、ずっと見張っていたようだ。
 圭輔が遅れてやってきたとき、真っ先にこちらに気づき、立ち上がったのは加藤だった。
「いい。車で来ているんだ。俺としては、人様に迷惑かけるんじゃないぞと、軽く指導をしたら、さっさと帰るつもりだったんだが……、あいつら、大丈夫か?」
 傍らに座った加藤に胡乱な眼差しを向けると、缶ビールに口をつけながらも、まったく酔った様子のない加藤は、軽く肩をすくめる。
「だと思います。程ほどにしておけと、隊からは言われているんで」
「どうだかな。南郷さんは、なんだか騒ぎを期待しているような口ぶりだったけど」
 基本的にチームは、二つのグループに分かれて行動する。今回の花見も、参加している面子は加藤が中心となっているグループの連中だ。残りの面子は、別の場所で花見をしているか、気取った店で騒いでいるかもしれない。
 酔った勢いで殴り合いでも始められたら面倒なので、この場合の別行動は非常に正しいといえる。
「総和会の花見会っていう、大きな行事が終わったから、多少はハメを外しても大丈夫だということかもな。お前たちチームの連中も、よく動いてくれたし」
 ちなみに、花見にかかる飲食代を出したのは、南郷だ。太っ腹な男のことなので、この後、どこかの店に立ち寄って豪遊できる程度の金は、加藤に渡しているだろう。
 加藤は、すぐには仲間たちのもとに戻る気はないらしく、圭輔に倣うように頭上の桜を見上げた。
 夜ともなると少し肌寒い。圭輔は小さく身を震わせた拍子に、加藤の格好に目をとめる。酒が入って身が燃えるのか、上着を脱いでおり、半袖のTシャツ姿だった。そのため、左腕に入れた骸骨のタトゥーを見ることができる。
 不吉で生々しい絵柄に気づいた堅気の人間は、落ち着かない気持ちになるかもしれない。一見して、加藤から不穏なものを感じ取り、見なかったふりをするのは、正常な反応だ。突っかかろうとする者がいるとすれば、それは加藤と同類の危険な奴か、どこかが壊れたさらに危険な奴だ。
 圭輔にとってはすでに見慣れたもので、特に感想もないのだが、今日は違った。加藤のタトゥーに――ではなく、腕をまじまじと見つめる。武骨な筋肉がついているわけではないのだが、逞しさと強さを十分感じさせる腕だ。
 ここで圭輔は、あることを思い出した。
「加藤、お前確か、格闘技をやってるんだったな」
 加藤は、意外な話題を振られた、という顔をして曖昧に頷いた。
「総合格闘を。なんでもあり、ってやつですよ。俺の場合、ケンカが強くなりたいって不純な動機で始めたんで、ちょっとトラブってから、今はジムに通ってないんですが」
「実戦の場数は踏んでるのか?」
 圭輔の言う『実戦』の意味がわかったのだろう。加藤はふてぶてしい笑みを浮かべ、圭輔はその反応に満足する。加藤に、和彦の護身術の手ほどきを頼むわけにはいかないが、興味深い話が聞けそうだと思ったのだ。
「ちょうどいい。つい三日前に、知人――じゃなくて友人から、格闘技を習ってみたいという話をされたんだ。本人としては、戦う云々というより、自分の身を守りたいと考えたみたいだけど。お前、護身術みたいなもの、何か知らないか?」
「――『知人』から『友人』に訂正したことに、何か意味があるんですか?」
 唐突な加藤の問いかけに、圭輔は呆気に取られる。質問に対して、この質問返しは予想外だった。当の加藤はふざけているわけではなく、あくまでまじめな顔をしているため、どうやら本当に気になったようだ。
 圭輔はニヤリと笑いかける。
「いろいろあるんだよ。俺とその人の間には。あと、諸事情。その『友人』が、そんな物騒なことを習いたがっていると知られると、各方面に波紋が広がる。だから迂闊に相談を持ちかけられない。あくまでお前相手に、世間話をしているんだ」
「なんだか、大物な感じですね」
 お前も会ったことがある人だとは、言わないでおいた。加藤にとっては、和彦の存在はまだ理解しがたいだろうし、その価値もピンとこないはずだ。
「で、何かないか? それらしいの」
 加藤はまじめな顔のまま、不揃いに伸びた髪をガシガシと掻き上げる。そして、やけに重々しい口調で語り始めた。
「やっぱ、股間に一発、蹴りを――」
「却下」
「……ダメっすか」
「いろんな意味で、ダメだ」
 残念だと言わんばかりに、加藤がため息をつく。
「相手を少し痛めつけて怯ませられたらいい、なんて甘い方法、俺は知らないですよ。動けなくなるまで、徹底的にぶちのめす方法ばかり身につけてきましたから。俺も、多分、ここにいる連中も」
「その甘い方法が、俺の『友人』には合ってるんだ。本格的に危ないことは、俺〈たち〉で片付ける」
 圭輔の意味ありげな笑みに気づいたのか、納得したように加藤は頷く。
「だったら、その『友人』という人に、危ない目に遭いそうになったら、相手の目を狙えと言ってください。狙う振り、です。場数を踏んでいる人間ほど、相手も弱点を知り尽くしていて、確実に狙ってくると経験で知っているはずです。だからこそ、ためらいもなく目を狙ってくると思わせたら……、ほんの少し、隙ができるかもしれない」
 あの優しい先生には、振りだとしても、ハードルは高そうだと思ったが、本人も言っていたように、窮鼠猫を噛むような事態になるかもしれない。願わくば、自分も含めた周囲の男たちが、危機を未然に防いでしまいたいが。
「――中嶋さんの恋人には、いいんですか?」
 また、加藤からの唐突な問いかけだ。多少心構えができていた圭輔は、落ち着いて応じる。
「何が?」
「護身術、教えなくていいんですか。『友人』の心配をするなら、当然、『恋人』の心配もあるでしょう」
 自分にとっての『恋人』とは――と考えて、圭輔は微妙な笑みを浮かべていた。〈あの人〉とは、そういうヌルい関係ではないと思う気持ちがある一方で、なかなか新鮮な響きだなと、感慨深いものもある。
 こちらの返事をじっと待っている加藤と目が合う。さて、なんと答えようかと考えていると、加藤を呼ぶ声がした。視線を向けると、チームの連中二人が襟元を掴み合い、今にも殴り合いが始まろうとしているところだった。圭輔は、加藤に向けて手を振る。
「ほら、仕事だぞ」
 加藤は物言いたげな顔をしたものの、その場に缶ビールを置いて黙って立ち上がった。
 有無を言わせぬ強引さで、掴み合っていた二人の間に入り込む加藤を眺めたあと、圭輔はもう一度頭上の桜を見上げる。
「……完全に桜が散る前に、先生と花見をしないとな」
 そう呟いた圭輔は、さきほどの加藤との会話を思い出し、一人性質の悪い笑みをこぼす。
 物騒な男の股間を蹴り上げる和彦の姿を想像してみて、ついそんな表情になってしまったのだ。









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