最初はいつも憎まれ口から始まる。ゾクリとするような冷めた眼差しを鷹津に投げかけ、心底うんざりしたような口調で、あしらおうとしてくるのだ。しかし、鷹津が少し強引に出ると、冷めた眼差しはうろたえたようにさまよい、口調は、戸惑いと柔らかな拒絶へと変わる。
詰る声はすぐに甘さを帯び、ときには媚びさえ含まれるようになる。鷹津を押し退けようとしていた手がすがりつくようになる瞬間は、いつでも身震いしたくなるような興奮に襲われる。自分は求められていると、強く実感できるのだ。
快感に貪欲な体は、本人に自覚があるのかないのか、鷹津を欲望の獣として駆り立て、狂奔させる。鷹津は容赦なく貪り尽くし、満足すれば体を離す。それで終わりの関係であり、それを繰り返すだけの関係だ。だが――。
自分の腕の中から出ていこうとする体を惜しみ、引き戻し、無意識のうちにこう思うのだ。
〈こいつ〉は俺だけのものだ、と。
そのたびに、首に巻きついた見えない首輪が、誰かに引っ張られる気がする。それが悔しくて、忌々しくて堪らず、鷹津は叫ぶ。
早く、こんなものを外してくれと。そして、〈こいつ〉を好きなだけ貪らせてくれと。
叫びすぎて、喉から血が出そうだった。しかし一方で、ここまで感情的になれることに、心地よさすら覚える。
やはり、〈こいつ〉は特別な存在なのだ。自分にとって特別な――。
目覚まし時計の不快な機械音で、夢の世界から引き戻された鷹津は、ゆっくりと瞬きをしたあと、自分が口元に笑みを浮かべていることに気づいた。
内容はともかく、〈あいつ〉の夢を見たあとは、いつもなぜか笑っているのだ。
ベッドを出た鷹津は、近くのテーブルの上に置いた携帯電話を何より先に取り上げる。前までなら、まっさきに煙草を火をつけるところだが、そういう意味では、鷹津の生活はほんのわずかだが健康的になったといえる。
携帯電話には、メールが届いていた。鷹津が以前、微罪を見逃してやった組員からで、何かと相談事を持ちかけられ、そのたびにささやかなアドバイスをしてやっているうちに、今では立派な、子飼いの情報屋となった。
鷹津が突けば、いくつかの情報を吐き出す組員は何人かいるが、この組員が特別なのは、日ごろ、総和会総本部に詰めているという点だ。警察に益となる情報は流さなくていい。その代わり、総本部に入る、本部の動きを逐一報告しろと言ってある。組員は、その言いつけを忠実に守り続けていた。
刑事として働いている鷹津には、四六時中、総和会や長嶺組を見張ることは不可能だ。だからこそ、動向を報告してくる手足のような存在は不可欠だ。長嶺組に対しては、別のアプローチをして、情報提供者は確保していた。
メールに目を通した鷹津は、心地のよい空想に少しの間浸っていたが、出勤の時間が近づいていることを知り、やむなく準備を始める。
近ごろ、よく考えることがあった。危険で甘い空想は、鷹津の心を惹きつけ、蕩けさせる。実行に移してみろと、常に頭の片隅で、もう一人の自分の声がしていた。そうすれば、〈あいつ〉を自分だけのものにできる、と。
その声を楽しめるだけの余裕はまだあると、鷹津は自分に言い聞かせる。少々のリスクはあるが、気楽に〈あいつ〉との関係を楽しめる今の状況は、さほど悪くはない。あえて危険を冒す理由は、微塵もない。
だから、今のままでいい――。
心の中でこう呟いた鷹津は、眠気を完全に払拭するため、シャワーを浴びに向かった。
ガサ入れの下準備のため、長時間会議室にこもっていたせいで、むしょうに外の新鮮な空気が恋しかった。
特に腹は減っていなかったが、とりあえず胃に何か入れておこうという義務感だけで、鷹津はコンビニでパンと牛乳を買い、警察署から少し歩いた場所にある公園へと移動する。
ベンチに腰掛けたときには、すでにもうじっとりと額には汗が滲んでいた。陽射しが強いというほどではないが、妙に風が生ぬるく、清々しい気候とはいいがたい。やはり外に出るのではなかったと、鷹津は多少後悔をしつつ、パンにかぶりつく。
美味いとも不味いとも思わないものを機械的に咀嚼しながら思うのは、今朝見た夢のことだった。味気ない生活の中で、鷹津にようやく人間らしい彩りを与えてくれるのは、睡眠の合間に挟み込まれる夢だけというのも、考えてみれば空しい。
しかしそれでも、鷹津は口元に浮かびそうになる笑みを、必死に押し殺す。
そろそろ〈あいつ〉を抱きたいと思うが、美味い餌をもらうためには、見返りが必要だ。それが、鷹津が有能な番犬でいるための条件だった。そのやり取りがあるからこそ、鷹津は〈あいつ〉に飼われている。
ふいに胸に、苦い塊を押し込まれたような不快さが広がった。もともと食欲はなかったが、食い物を口に押し込む行為すら嫌になり、鷹津はパンの残りを袋に入れて傍らに置く。
自分の中で、まるで魔が差したように何かが起こったと思ったが、それがなんであるか、鷹津自身も掴みかねていた。
そんな鷹津の目の前を、大きな犬と、リードを引いた飼い主が通りかかる。散歩に出て興奮しているのか、犬は駆け出そうとして前足を踏み出すが、そのたびに首輪にかかったリードがピンと張り、当然、駆け出すことは叶わない。それでも犬は、何度も前足を踏み出す。
飼い主は初老の痩せた男で、今にも引きずられそうになるが、なんとか堪えている状態だ。飼い主の叱責も、犬には関係ない。とにかく駆け出したいのだ。
人によっては、元気な犬だとのん気に思うかもしれないし、リードを振り切った犬が誰かを襲うではないかと気が気でないかもしれないが、鷹津は、犬に期待していた。あと少しで逃げられるぞと。
この瞬間、鷹津は自分の正直な気持ちに気づいた。
リードよりさらに頑丈な鎖が、鷹津の首にはついている。鎖の先を握るのは〈あいつ〉で、だから安心して、鷹津を番犬として使っている。鷹津は、自分でそうなることを選んでおきながら、不満を胸の奥で燻らせていた。
鎖から自由になりたかった。だが、決して〈あいつ〉から逃げ出したいわけではない。それどころか、狂ったようにまとわりつき、のしかかり、甘えているだろう。そして、その気持ちが強すぎて、首に食らいつくかもしれない。
その光景を想像して、ゾクゾクするような暗い悦びが鷹津の中で湧き起こる。
「ああ、そうか……」
鷹津は小さく呟く。その声は、興奮のためわずかに掠れていた。
番犬だからといって、鎖に繋がれている必要はない。側にいて、守ることは可能なのだ。
何を我慢する必要がある。誰に遠慮する必要がある。鷹津は矢継ぎ早に自問を繰り返す。
〈あいつ〉に知らせていない情報はいくつも手の内にあり、さらに、これからも手に入る。それを最大限に有効利用できる方法を、鷹津は知っている。
自分だけが知っている――。
短く声を洩らして笑った鷹津は、再びパンを取り上げると、かぶりつく。なぜだか、急に食欲が湧いてきた。
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