珍しいことだが、その夜の鷹津は機嫌がいいようだった。もちろん、ヘラヘラと笑っているわけでもなく、浮ついた空気が漂っているわけでもない。
しかし、観察眼に自信がある秦は、些細な変化を見逃さない。
ソファに腰掛けた鷹津がグラスを口に運ぶ。そのとき、甘美な思い出にも浸っているかのように、ふっと眼差しが和らいだ。だが、秦の視線に気づいたらしく、次の瞬間には、いつもの皮肉げな目つきとなる。
秦は、何も見なかったふりをして、向かいのソファに腰を下ろした。
「――この店が今夜は暇だと、読んでいましたね?」
苦笑交じりに秦が言うと、鷹津はソファの背もたれに鷹揚に体を預け、芝居がかった動作でホール内を見回した。
秦が経営する店のうち、おそらく今夜、一番売り上げが悪いのは、このホストクラブだろう。実際、いつもならにぎわっている店内も、今は少し寂しい。数少ない女性客をもてなそうと、ヘルプに入っているホストたちが、いつも以上に大きな声を出していた。
客の少ない店に滞在するのは、オーナーとしては少々苦痛だ。秦の予定では、店の帳簿のチェックを済ませたら、早々に帰宅するつもりだったのだが、マネージャーから『例の刑事が来ている』と言われては、無視できない。
「俺は、美味いタダ酒が飲みたいだけだ。お前の接客はいらない」
「でしたら、別の人間をつけましょうか? ――男しかいませんが」
秦の冗談に対して、鷹津がじろりと鋭い視線を向けてくる。親交を深めるための秦の冗談は、鷹津の皮肉を誘発させるのが常だが、今夜は様子が違った。何か言いかけて、結局グラスに口をつける。ガリガリと氷を噛み砕く音が、ささやかな抗議のようにも聞こえた。ここで秦は確信する。
やはり今夜の鷹津は機嫌がいい。いや、そもそも今夜に限ったことなのか。もう何日も続いていることなのか。それとも、天変地異でも起こって、鷹津の性格が変異したのか――。
我ながらひどいことを考えているなと、秦はそっと微笑を浮かべる。
鷹津は嫌な顔をするだろうが、これでも秦は、性格に難ありの悪徳刑事を気に入っているのだ。だからこうして、文句も言わずにタダ酒を飲ませている。
従業員がさりげなく、秦の前にグラスを置く。水割りのように見せているが、中身はお茶だ。
口を湿らせつつ、秦は慎重に鷹津の様子をうかがう。疼く好奇心から、機嫌がいい理由を問うてみたいが、捻くれた性格の男が素直に答えてくれるとも思えず、さあどうしようかと思案する。
「そういえば、鷹津さん、チョコはもらえましたか」
軽い調子で話題を振ってみると、鷹津が露骨に顔をしかめる。
「……本気で知りたいか?」
「おや、教えてくれるんですか」
秦があまり品のよくない笑みを浮かべると、舌打ちをして鷹津は横を向く。
鷹津は、決して外見は悪くない。剣呑としてどこか崩れた雰囲気のせいで、関わり合いたくないという忌避感を大半の人間に抱かせるが、格好次第ではそれなりに、まともな人間に見えるのだ。それに世の中には、身を持ち崩したような男に魅力を感じる物好きも、一定数はいる。
つまり、本人次第でいくらでも異性を引き寄せられるということだ。もしかすると同性も。
秦はソファから身を乗り出すようにして、ホールへと目を向ける。
「バレンタインデー当日は大盛り上がりだったんですけどね。チョコをもらいたいという名目で、うちの従業員たちが電話営業したおかげで。その反動で、今夜は暇です。鷹津さんがそれを狙って来たんだとしたら、いい読みですよ」
「たかが酒を飲むのに、そこまで考えるわけないだろう。……たまたま通りかかっただけだ。適当に飲んで帰るつもりだったのに、まさかお前と出くわすとはな。マネージャーの奴が余計な気を回したせいだ」
「お客様にちょっかいを出されてはたまらないと思ったんでしょう」
再び舌打ちをした鷹津が、空になったグラスを差し出してくる。秦は水割りを作りながら、さりげなく問いかけた。
「それで、チョコはもらえたんですか?」
「……しつこいぞ、お前。俺がどこの課にいるのか、よく知っているだろ。ムサ苦しい同僚と、反吐が出そうなヤクザどもを相手にしているのに、世間の浮ついたイベントなんて関係あるか」
少し薄めに作った水割りを一口飲んで、鷹津は軽く眉をひそめたが、文句は言わなかった。やはり、普段とは違う。いつもであれば平気で、作り直せと言ってくるところだ。
ここで秦は好奇心を抑え切れなくなる。にっこりと笑いかけると、何かを察したように鷹津が露骨に身構える。
「なんだ、気色の悪い笑い方をして……」
「わたしが、チョコをもらえたか気にするのは、それなりの理由があるんですよ。――鷹津さん、今夜は機嫌がいいですよね」
鷹津は瞬間的に表情を一切隠してしまうと、ゆっくりと横を向く。
「――……よくねーよ。俺の気分は、いつでも最低だ」
「本当に?」
いい加減にしておけと、横目でじろりと睨みつけられる。さすがに秦も、毒針を持つサソリの尾は踏みたくない。
真相を明らかにするのは諦めておくかと、話題を変えようとしたとき、鷹津がぼそりと言った。
「二月十日がなんの日か、知っているか?」
秦は、危うく手を打ちそうになった。まさか鷹津が知っているとは思いもしなかったのだ。
鷹津はまた眼差しを和らげ、たっぷりの間を置いてから言った。
「――あいつの誕生日だ」
鷹津が言う『あいつ』とは、もちろん佐伯和彦のことだ。
実のところ秦は、和彦の誕生日を知っているどころか、何日も前に中嶋も含めて三人でささやかな誕生日祝いをしている。しかしそのことを、今の鷹津には言えなかった。
「もしかして、先生の誕生日を祝ってあげたんですか?」
短く声を洩らして鷹津は首を横に振った。
「しねーよ、そんなこと」
ウソだな、と即座に見抜いたが、指摘するのは野暮だろう。
秦は内心で、素直に感嘆していた。和彦の存在は、想像以上に鷹津の中で大きいようだ。少なくとも、和彦の誕生日から五日経ってなお、鷹津が機嫌のよさを保つほどには。
怖い人だと、秦は思う。鷹津のことではない。品がよくて優しげな面立ちの和彦のことだ。
あの人は、側にいる男をじわじわと変えていく。そのうち、鷹津のような男ですら、独占欲と執着心に押し流された挙げ句に、狂奔に駆り立てられるかもしれない。
秦は、鷹津を気に入っている。もし仮に、鷹津がそうなったときは、多少なりと手を貸してやろうかと、戯れのように考えていた。
唐突に、半年以上前の出来事を思い出した秦は、無意識のうちに唇に笑みを浮かべそうになり、寸前のところで我に返る。慌てて唇を引き結んでいた。
こういうとき自分は、恐怖を感じる神経が人よりかなり鈍いのだと実感させられる。だから、物事の限度を見誤りやすい。そのたびに痛い目に遭っているのだが、これはどうにもならない性分だと諦めるしかない。
ふと手元から視線を上げると、じっとこちらを見つめている眼差しとぶつかった。獣じみた、と表現するしかない、無遠慮で野蛮で殺気立った、いかにも筋者らしい眼差しだ。
どうやら、秦が笑みを浮かべかけていたことを見抜いたらしく、凄みのある声で言われた。
「――ずいぶん、余裕だな。色男」
眼差しだけではなく、発する声も獰猛な獣を思わせる。
これが、総和会第二遊撃隊隊長という肩書きを持つ男かと、秦は冷静に観察する。怯えた表情を取り繕いながら。
南郷という男については、圭輔からそれとなく聞いていた。隊の内情についておおっぴらに語ることはないが、それでも南郷という個人について、圭輔なりに思うところがあるらしい。端的に表現するなら、ひたすら怖い、ということだが、いざ目の前にすると、なるほどと思うしかない。
派手めのスーツに包まれている大きな体は、圧倒的な力強さを感じさせて、暴力的な空気を強く漂わせている。目を惹くような顔立ちをしているわけではないが、目の前にいる人間を眼差しで射殺そうとしているかのように、眼光は鋭く物騒だ。
ひりつくような緊張感が、南郷ではなく、南郷の背後に立つ男たちから伝わってくる。秦を警戒してのものではなく、南郷の言動に神経を使っているためだ。何かあれば即座に反応できるよう、日ごろからよく教育されているのだろう。
どことなく示威的なものも感じるが、ヤクザにハッタリはつきものだと、長嶺組の組長あたりなら笑って言いそうだ。
「こちらの用件はわかっているだろう? できることなら、とっととあんたを連れて来たかったが、長嶺組にがっちりと身柄を押さえられていたからな、接触できなかった」
「ああ……。鷹津さんのことですね。びっくりしました」
「感想はそれだけか?」
「先生が無傷で返されたと聞いて、安心しました。もっとも――、あの鷹津さんが、先生を傷つけるとは、最初から思ってはいませんでしたが。その点については、長嶺組長も信頼されているようでした」
一昨日、秦の営む輸入雑貨店を訪れた和彦を、鷹津が連れ去った、らしい。秦が目にしていたのは、鷹津が和彦を、あくまで〈穏やか〉に外へとエスコートしていく姿だったため、店を出てからの行動については一切関知していなかった。
そのため、二人が店を出て三十分もしないうちに、見たこともない男たちが駆け込んできたときは、一体何事かと困惑したのだ。それが、南郷の部下である第二遊撃隊の隊員たちだったのだが、さらに長嶺組の組員たちまで押しかけてきたため、ちょっとした騒動となった。
どちらが先に秦から事情を聞くかということで、殺気立った空気となり、殴り合い寸前にまでなりかけたが、秦の後ろ盾となっているのが長嶺組ということで、秦は本宅へと連れて行かれた。南郷が言う『身柄を押さえられた』というのは、こういうことだ。
「わたしが知っていることは、すべて長嶺組長に話しました。もしここで、あなた方に新情報を提供したら、わたしは長嶺組に不義理をしたことになります。――そんな命知らずなことはしませんし、できません」
秦の浮かべた柔らかな笑みを、南郷は胡散臭そうに眺め、軽く鼻を鳴らした。
「長嶺組長は、情報提供に協力的だ。それは感謝している。しかし、二つの組織が追っているにもかかわらず、鷹津の行方が掴めない。突発的な行動じゃない。鷹津は最初から準備していた。昨日、先生を解放したあと、パッと、まるで手品でも使ったように姿を消しちまった。……そう、鷹津は準備していた。周到に、何もかも」
暗い情念を含んだ目で、南郷は自分のてのひらを見つめていた。ゆっくりと指を曲げたり伸ばしたりする動作は、まるで何かを掴み、捻じ切ろうとしているかのようだ。
「あんたが、先生を店に誘ったと聞いたんだが、間違いないか?」
「ええ、その通りです」
「そこにたまたま鷹津がやってきて、先生を衝動的に連れ去った、と。俺が今話したことと、なんだか矛盾していると思わないか?」
「どうでしょう。鷹津さんは、複雑な人ですから。あの人が何を企んでいたかまでは、わたしには。もともと、先生のストーカーのようなこともしていたようですから、もしかすると、移動する先生の車を尾行していたのかもしれません。なんといっても、刑事さんですから」
「刑事だった、だな。正確には」
ああ、と秦は頷く。鷹津が警察を辞めたことは、長嶺組から聞かされた。とうとうか、というのが秦が最初に抱いた感想だった。
二月の和彦の誕生日を祝ったことについて、密かに喜悦に浸っていた鷹津の姿を見たときから、秦はなんとなく予想はしていたのだ。遠からず、鷹津は〈恋〉に狂うと。
「――また、笑ったな」
ふいに南郷に言われ、秦は気づく。無意識のうちに、口元に笑みを湛えていたのだ。どうやらさきほども、自分では上手く誤魔化したつもりだったが、やはり笑っていたらしい。
秦は、南郷の言葉を無視する形で、腕時計を見る。無礼な態度に、南郷本人ではなく、背後に立つ男たちが殺気立った。
「すみません。じっくりお話をしたいところですが、店の開店準備がありまして。それぞれの店のマネージャーと打ち合わせすることになっているのです」
「オーナー業というのも大変だな。座ってりゃ金が入ってくるというわけでもないのか」
「オーナーとは名ばかりで、一番駆けずり回っている立場ですよ」
これ以上秦から何か聞き出そうとするのは無駄だと悟ったのか、南郷があごをしゃくる。もし秦が、長嶺組の後ろ盾を持たない存在であったなら、おそらくこんなにあっさりと解放はされなかったはずだ。
「おい、秦さんをお送りしろ。失礼のないようにな」
立ち上がった秦は、南郷に丁寧に一礼して部屋を出る。
いくらか安堵して廊下を歩いていると、背後でドアが開く音がして、突然声をかけられた。
「万が一、鷹津から連絡があったら、長嶺組だけでなく、うちにも連絡をくれ。――あんたと仲がいい中嶋に伝えてくれりゃいい」
振り返った秦は、にこやかな表情で南郷に頷いて見せたが、実際のところは、顔が強張りそうになるのを堪えるのに必死だった。
わかりましたと応じて再び歩き出したが、南郷がこちらを見ているのは、背を向けていても感じていた。
エレベーターに乗り込んだことでやっと息がつけたが、秦はわずかに唇を歪める。最後に南郷がかけてきた言葉は牽制のつもりなのだろう。第二遊撃隊にいる中嶋の立場を考えろ、というところか。
もっとも中嶋は中嶋で、情報を流したところで、素直に南郷に伝えるとは思えない。総和会の中で地位を得るために、中嶋なりにしたたかに計算している。
だから秦は、たった一つはっきりしている情報を、誰にも伝えない。
あの日、和彦を総和会から引き離すために、雑貨店に呼び出してほしいと、鷹津から頼まれたことを――。
長嶺組長も南郷も薄々勘付いているようだが、鷹津がまた秦に接触する可能性を考えて、あえて見逃しているのだ。
我ながら、厄介なことを引き受けたものだと思うが、後悔はしていない。秦は、狂奔に駆り立てられた鷹津の姿に興味があった。
あの男は、和彦を置いたままただ逃げ出したりはしない。きっと何か仕掛けてくるだろう。
そのときは、物騒な男たちが慌てふためく姿を間近で眺め、少しばかり愉快な気分を味わいたかった。
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