と束縛と


- 縁 -


 開けた窓からようやく風が入り込んでくる。少しも涼しさを運んではこない、室温よりも高く感じられる風だ。
 体調を崩している頃なら、この風にあたっただけで気分が悪くなり、すぐに横になっていただろうが、今は違う。暑かろうが、寒かろうが、季節を肌で感じてみたいという、強い衝動があった。
 イスに腰掛けた秋慈(あきちか)は、首筋にまとわりつく伸びた髪を軽く指で梳く。昼下がり、汗ばみながらも熱いお茶を飲みつつ、庭を眺めるのが、秋慈のささやかな楽しみだった。基本的に秋慈の生活は、変化に乏しい。だからこそ、例えどんな小さな変化であろうが、愛でたくなる。
 初夏の陽射しを浴びている庭は、鮮やかな緑と花々で溢れていた。日々、体調と相談しつつ少しずつ手入れしていったもので、数年かかってやっとここまできた。庭の片隅で咲いている紫陽花が最近のお気に入りだが、アーチに覆い被さるようにして咲いているクレマチスの白い花は、陽射しを浴びるとまぶしいほどだ。
 天気もいいし、体調も気分もいい。こういうときは散歩に出たいところだが、あいにく今日は、予定が入っていた。
 秋慈が、壁に掛けた時計をちらりと見上げたとき、門扉が開閉される微かな音が聞こえた。少し間を置いて、インターホンが鳴らされる。小さくため息をついた秋慈が立ち上がったとき、再び風が入り込んでくる。思いがけず強い風に、ハッとした秋慈は数瞬動きを止めていた。
 静かで緩やかな時間が流れるこの家に、〈何か〉が入り込んできて、掻き乱そうとしているような、そんな不穏なものを感じたからだ。
 突然、居留守を使いたい心理に陥ったが、そういうわけにもいかない。秋慈は玄関まで行くと、鍵を解き、ゆっくりとドアを開ける。
 玄関先に立っていたのは、スーツ姿の男一人だった。それがずいぶん意外な気がして、秋慈は開口一番に問いかける。
「どうして一人なんだ」
 男は面食らったように目を丸くしたあと、すぐに口元に薄い笑みを湛えた。物騒で鮮烈なその表情は、惚れ惚れするような端整な容貌にはよく似合う。
「電話での、あんたの迷惑そうな声を聞いちまうと、とてもじゃねーが、護衛を引き連れてくる度胸はなかったな」
 秋慈は思わず苦笑を浮かべ、男を玄関に招き入れる。
「君もやっと、相手を慮るなんて芸当ができるようになったんだな」
「ハッ。俺が組を仕切るようになって、何年経ってると思うんだ。家に引きこもって生活していると、時間の感覚も麻痺してくるか。――秋慈」
 男の遠慮のない物言いは、昔から変わらない。ただ、こうして間近で聞いてみて、男の声がさらに深みを増していると気づいた。声で人を従わせることも可能ではないかと思わせる、魅力的なバリトンだ。
 秋慈は腕組みをして、男を見つめる。
「本当は、玄関で立ち話で済ませたいところだが、そういうわけにもいかないんだろう?」
 秋慈の言葉に、男は――長嶺賢吾は満足そうに頷いた。


 庭がよく見える部屋に通すと、賢吾は軽く鼻を鳴らして洩らした。
「薬草っぽい匂いがする」
「さっきまで、漢方を煎じていたんだ。安心しろ。君には普通のお茶を入れてやる」
 座って待っていろと言い置いて、秋慈はキッチンに向かう。手土産もなしでやってきた男なので、茶菓子を用意してやる義理もなく、秋慈は手早くお茶を淹れて部屋に戻る。
 賢吾は、ジャケットを脱ぎ、ずいぶん寛いだ様子で庭を眺めていた。
「……いい家だな。古いが」
「ああ。一人でのんびり暮らすには、十分の広さだし、何より庭が気に入ったんだ」
「あんたが、庭いじりとはな。あんたを知っている人間が聞いたら、目を剥くぞ」
「君が知らないだけで、わたしは本来、こういうのが性に合っているんだ」
 賢吾の前に少々乱暴にお茶を置き、秋慈は正面のイスに腰掛ける。賢吾は横目でこちらを一瞥して、意地の悪い笑みを浮かべた。その顔はどう見ても、ウソつけ、と言っている。
 賢吾とのこういうやり取りが昔から好きだった。気心が知れているというのだろう。互いのことをよく知っているため、偽りも遠慮もいらない。ただここ数年は、顔を合わせることはおろか、連絡すらも取り合っていなかった。これについては、賢吾のほうが気をつかってくれていたのだ。本当はこの男は、秋慈が知る誰よりも、相手を慮ることができる。
 賢吾との関係が一度疎遠になったのには、もちろん理由がある。
 内臓を悪くした秋慈が、人と会うこともままならなくなったためだ。横になって過ごすことが増え、仕事にも差し支えが出始めたので、ある出来事をきっかけに公の場に姿を現すことをやめ、実質的に引退の身となることを選んだ。以来、この家で静養を続けている。
 賢吾が、じっと秋慈を見つめてくる。外見は上等な紳士のような男だが、眼差しの鋭さはまさに、筋者だ。無意識なのか本能なのか、相手を屈服させようとしてくる傲岸さが漂っている。
「――聞いた話だと、もうずいぶん体のほうはいいらしいな。半信半疑だったが、こうして会ってみると、確かに、顔色がいい。前より、色男ぶりが増したんじゃねーか」
「褒めても、茶菓子は出さないからな」
 秋慈は微妙に話題を逸らそうとしたが、さすがに賢吾は聡い。いきなり、核心を突いてきた。
「体の心配がなくなったんなら、仕事に戻る頃じゃないのか」
 今度は秋慈が、賢吾を見つめる番だった。
「君の話は、いろいろと聞いているよ」
「いろいろ?」
「誰も彼も、組織に対して思うことはある。だけど、迂闊に人には洩らせない。そういう意味ではわたしは、世間話の相手としてうってつけだ」
「世間話、か……。その世間ってのは当然、ヤクザの社会のことだよな」
「わたしにとっての世間は違うが、わたしの周囲の人間たちの世間は、そうみたいだな」
 秋慈の物言いに、賢吾が苦い顔をする。そして、急に気づいたように、手で顔を扇ぐ仕種をした。
「しかし、ちょっとここは暑くねーか? エアコンぐらい入れたらどうだ」
「わたしは平気だ。君の場合、身が燃えているんじゃないか。――えらく大事にしている愛人ができたそうだね」
「愛人じゃない。大事で可愛い、〈オンナ〉だ」
 あれこれ聞かされてはいたが、こうして本人の口から断言され、秋慈は自然と笑みをこぼす。秋慈の知る賢吾は他人に執着しない男で、特定の相手を作らなかった。結婚はしたものの、長続きしなかったことにひどく納得したものだが、その賢吾がここまで言うということは、本当に大事で可愛い存在なのだろう。
 当然秋慈は、その〈オンナ〉が男であることも把握している。
「どんな人なんだ。君みたいな厄介な男に、そこまで言わせるなんて」
「妬けるか?」
 嬉しそうに賢吾が問うてきたので、秋慈は真顔で応じる。
「同情してるんだ。よりによって、どうして長嶺の男に捕まったのかと。――君の家の男たちは、みんな怖い。自分がこうしたいと思えば、容赦がなく、手段を選ばない」
「だから長嶺守光は、総和会会長の座を手に入れた――と言いたげだな」
「事実だろ」
「ああ、事実だ。だが訂正させてもらうなら、長嶺の男の中では、俺はおとなしいほうだぜ」
 ヌケヌケと、と心の中で呟く。秋慈は本気で、賢吾に捕まったオンナに同情していた。こんなに怖い男に執着され、想われていては、そのうち窒息してしまうのではないかと思うのだ。しかも、長嶺の男は賢吾一人ではない――。
 秋慈は、長嶺賢吾とのつき合いが長く、だからこそ、長嶺家の事情にも多少通じている。しかし、現在のような状況は、さすがに想像が追いつかなかった。
 狂っていると感じると同時に、淫靡で心惹かれる関係を、長嶺の男たちとオンナは持っている。
 秋慈の心の内を見透かしたように、賢吾は絶妙のタイミングで語り始めた。
「――うちの先生は、見た目も中身も真っ当な人間だ。だが、どこかが壊れている。それが何かとは、俺も明確に言葉にはできないが、壊れているせいで、不安定なんだ。そのせいか、優しくて愛情深いが、どこか冷めている部分もある。そういう掴み所のなさに、振り回される。ときどきむしょうにムカつくときもあるが、それすら愛しい」
 ここでなぜか賢吾が、意味ありげに秋慈の顔を眺めてくる。
「なんだ……?」
「いや、顔が整いすぎている人間は、どこか似た雰囲気を持つのかと思ってな。あんたと先生、顔の造りはまったく違うが、なんとなく感じが似ている。表情によって、ひどく冷たそうに見えるところとか。――男タラシのところも、そっくりだな」
 賢吾を睨みつけて、秋慈は立ち上がる。話しているうちに、飲んでいたお茶が冷めてしまっていた。
 お茶を淹れ直した秋慈が部屋に戻ると、これまでの砕けた様子とは一変して、真剣な――長嶺組組長として相応しい表情となっていた。背筋もスッと伸びている。
 ようやく本題に入るのかと、秋慈は静かに息を呑み、イスに腰掛けた。
「――南郷の話は、聞いてないか?」
 前置きもなしに賢吾が切り出す。秋慈は胸の奥でゾロリと蠢いた不快さを、率直に表に出した。
「南郷……、南郷桂(けい)のことか」
「俺たちの間で出る『南郷』といえば、第二遊撃隊隊長のあの男しかいないだろ」
 賢吾の表情からは、南郷という男をどう思っているか、読み取ることはできない。ただ、快く思っていないことは、容易に想像できた。
 賢吾の父親でもある現総和会会長の長嶺守光は、南郷を重用している。それが過ぎて、南郷は守光の隠し子ではないかと噂されているぐらいだ。秋慈は、そんな噂はまったく信用していない。だが、賢吾は長嶺組を守っている現在、総和会に身を置く守光は、南郷に、総和会での息子としての役目を与えているとは考えている。
 表立って賢吾と南郷が衝突することはなく、公の場では、南郷が賢吾を立てることで、さらに下劣な噂が流れる事態にはなっていないが、だからといって秋慈は、楽観視はしていない。
 力を持った人間は、いつ強い野心に駆られても不思議ではないのだ。これは、経験則だ。
「……南郷のことは、何かと顔を合わせる機会のある君のほうが、詳しいんじゃないか。だいたい、わたしは病人で、静養中だ。もう何年も、南郷の顔すら見ていない」
「見たくない、じゃなく?」
 さらりと投げかけられた賢吾の言葉には、毒が含まれている。秋慈は黙ってお茶を啜り、受け流そうとしたが、賢吾はそれは許さんとばかりにわずかに身を乗り出してきた。
 そして、非常に魅力的な、悪辣とした表情でこう言った。
「いいか、秋慈。俺は今日、あんたを唆すために、ここまで来た」
「唆す?」
「あんたは聞きたくないだろうが、オヤジが会長である限り、総和会はこれから益々勢力を増す。そのオヤジの側近として、南郷はわが世の春を謳歌するだろうな。実際、あいつが率いる第二遊撃隊の存在は、影響力が日に日に大きくなっている。――それは、おもしろくないだろ? なんといっても南郷は、前会長を総和会から追い落とすのに暗躍したと言われている。そのことは俺より、あんたのほうがよく知ってるはずだ。前会長の親戚筋にあたるあんたは、反現会長派の神輿として、担がれかけたぐらいだ」
 さきほど感じた不穏な〈何か〉は、決して錯覚などではなかったのだと、秋慈は込み上げてくる苦いものを懸命に堪える。今目の前にいるこの男は、ある意味、疫病神だ。
「いまさら……、そのときの遺恨で、殺し合いでもしろと言うのか?」
「いいや。そこまでは求めない。ただ、あんたが心底嫌っている南郷と、派手に対立してほしいだけだ。総和会の中に、ささやかな嵐を起こしてほしい。あんたが動けば、オヤジに――現会長に反感を抱く連中も、何かしら動きを見せるはずだ」
「……総和会を中から崩壊させる気か……」
 空恐ろしさを覚えながら秋慈が洩らすと、賢吾は薄い笑みを浮かべて首を横に振った。
「あの組織は、これぐらいじゃ揺るぎもしないだろ。どんなものでも呑み込んで、周囲も巻き込みながら、それでも巨大になっていく組織だ。オヤジは、そんな組織の頂上にいるのが相応しい。ただ――」
 常に冷静な賢吾の目に、強い感情の光が宿る。憤怒と表現するには、氷のように底冷えしているようで、秋慈はこの瞬間の賢吾の心理を推し測るのはやめておく。冷たい火で焼かれそうだ。
「好き勝手をされちゃ、困るんだ。総和会の中だけで収めるならいいが、他人を使って、〈うちの者〉にちょっかいを出されると、臆病で慎重な蛇でも、ささやかに牙を剥きたくなるだろ」
「父子ゲンカに、他人を巻き込もうとしている君はどうなんだ」
 冷めた声で秋慈が指摘すると、悪戯を叱られた子供のように賢吾は肩をすくめ、決まり悪そうに顔をしかめる。
「俺はこれまで、総和会とは必要最低限の関わりしか持ってこなかった。そんな俺が、総和会に対して持っているツテは、オヤジ絡みを除けば、あんただけだ」
「買い被りだ。わたしはもう、半分足を洗ったと思われている」
「そうは言っても、いまだにあんたを慕う連中が、頻繁にこの家に出入りしている。それに、総和会の名簿で確認したが、あんたの名前は、しっかりとまだ残っているぞ。〈あれ〉も」
 腕組みをして賢吾を睨みつけていた秋慈だが、ふてぶてしく見つめ返されて、結局こちらが視線を逸らすことになる。
「――……ああ、君の話なんて聞くんじゃなかった」
「腐れ縁ってやつだ。お互い、手の内はわかってるじゃねーか。ごちゃごちゃ言ったが、俺が言いたいことは、たった一つだ。まだ四十歳だというのに、枯れた年寄りみたいな生活はやめろ。あんたは、筋者に囲まれて、ちやほやと崇拝されているほうが――色気が増す」
「その言い方はよせ。君に言われると、怖気が立つ」
 賢吾は、まるで見えない何かを恫喝するように、低く笑い声を洩らした。しかしそれもわずかな間で、笑みを消すと、一切の感情を押し殺した無表情で言った。
「あんたを疎んじたのは、俺のオヤジだ。賢いあんたはそれを察して、病気を理由に身を引いた。そんな人間を引きずり出すのは、さすがの俺も少々良心が痛む。だが今は……今後も含めてだが、総和会の中に、信頼できる駒を作っておきたいんだ」
「君自身のために」
 悪びれることなく賢吾は頷く。
「うちの先生に使わせるには、あんたという駒は力が強すぎる。先生には、先生に見合った駒を与えてある」
 これはいわゆる、惚気というものではないかと思ったが、口にするのも恥ずかしいので、秋慈は黙っておいた。しかし賢吾は別の意味に解釈したらしく、ぐいっとお茶を飲み干して立ち上がる。
「自称・病人に毒気の強い話をしちまったな。まあ、考えてみてくれ。そして早いうちに、返事を教えてくれ」
 ジャケットを片腕にかけ、賢吾が部屋を出ていく。秋慈は座ったまま、その後ろ姿を見送った。長嶺組組長に対して、あまりに素っ気ない見送りだが、歓迎すべき客ではなかったので、これで十分だ。賢吾にしても、こんなことで気を悪くしたりはしないはずだ。
 部屋に一人となった秋慈は、ほっと息を吐き出すと、庭に視線を向ける。見慣れているはずの光景が、この瞬間、妙に新鮮に感じられ、ここで秋慈は、あることを察していた。
 次の瞬間、勢いよく立ち上がると、隣の部屋に置いてある電話の子機を取り上げる。そして、ある人物へと電話をかけた。週に数回、この家に立ち寄っては身の回りの世話をしてくれている、秋慈の〈部下〉だ。
「――わたしの名で、緊急招集をかけてくれ。そして、人員を集められるだけ集めてほしい」
 普段は冷静な部下も、さすがに電話の向こうで驚いている様子だが、秋慈の指示をすぐに復唱する。それから、控えめに質問をぶつけてきた。
 秋慈は、自分でもわかるほど物騒な笑みをこぼして応じる。
「当然だ。〈第一遊撃隊〉隊長・御堂(みどう)秋慈の名で、招集をかけろ。隊を動かすんだ」
 こう告げた途端、ゾクゾクするような興奮が体を駆け抜けた。そこで秋慈は痛感した。この家にこもっていながら、自分はずっと鬱屈していたのだと。見事に、賢吾に唆されたとも。
 いつになく口が滑らかになった秋慈は、今度は自分が部下を唆す。
「今度こそ、第二遊撃隊と正面からぶつかることになるかもしれない。腹を括っておけよ」









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