と束縛と


- 雌 -


 保育所の保母――ではなく、保父になったつもりはないのだが、と玄関に入った圭輔は、そんなことを苦々しく考える。
 狭い三和土には靴が散乱しており、足の踏み場もない。靴ぐらい並べろと怒鳴る気力も湧かなくて、仕方なく圭輔が並べ、それでやっと、自分が靴を脱ぐスペースを作ることができる。
 マンションの駐車場や駐輪場で騒ぐな。共用通路にゴミを捨てるな。住人と揉めるな。煙草は換気扇の下で吸え――と、これまで自分が繰り返してきた注意を、心の中で指折り数えながら、圭輔はダイニングを覗く。
 玄関の惨状を見て覚悟していたのだが、予想に反して、片付いていた。テーブルの上に食い散らかしたものがないというだけで、まともに思える。
「……お疲れ様です」
 奥の部屋から、スウェットパンツに上半身裸という格好の加藤(かとう)が姿を現す。どうやら寝ていたところらしい。不揃いに伸びた髪に、微妙な寝癖がついている。
 圭輔は、腕時計にちらりと視線を落とす。今は昼前で、まっとうな勤め人なら、今日の昼飯は何にしようかと考えながら、働いている時間帯だ。まっとうな勤め人ではない圭輔も、同じことを考えているぐらいだ。
「他の連中は?」
 圭輔の問いかけに、加藤はちらりと視線を奥の部屋へと向ける。
「まだ寝てます。朝まで……出ていたので」
 玄関の靴が散乱したままだった理由が、なんとなくわかった。先に帰宅して寝ていた加藤は、気づかなかったのだろう。
「若い奴らは元気だな。夜まで、隊の仕事を手伝っていたんだろ。それから一晩中遊んでたのか」
「南郷さんから、小遣いをもらったんです。パアッと使ってこいと言って」
 南郷の現状を物語るような、羽振りのよさだ。金で買える人心などたかが知れているが、それでも、小遣い目当てで若い連中が集まれば、その中から使える人材を拾いやすくなる。たとえば、圭輔の目の前にいる加藤のように。
「中嶋さん、コーヒー飲みますか?」
 イスに腰掛けた圭輔に、加藤が尋ねてくる。圭輔が知るどの〈若い連中〉よりも、加藤は気遣いができる。この部屋が、人が住める程度に片付いているのも、加藤のおかげだ。
 圭輔が第二遊撃隊に入って間もなくの頃、加藤を含めた数人の青年たちの面倒を見ていたのだが、この中で一番仕事の要領がよく、それでいて、どんな雑用だろうが手を抜かなかったのが加藤だ。そのため圭輔の中では、加藤の評価は高めだ。
 友人の部屋を転々としていたらしいが、隊での活動に不便になってきたからと、一週間ほど前にようやくこの部屋に移ってきた加藤だが、まさかここまでしっかりしているとは、いい意味で圭輔にとっては誤算だった。
「いや、いい。すぐに次の部屋の様子を見にいかなきゃいけないんだ」
 応じる圭輔の目の前を、Tシャツを掴んだ加藤が通りすぎる。まだ二十二歳という若さだが、加藤の体つきは、貧弱とは対極にある強靭さを感じさせる。格闘技をしていると話していたことがあるが、まさに一目瞭然だ。
 鍛え上げた体で相手を威嚇するだけでは物足りなかったのだろう。加藤の左腕には、黒一色の禍々しい骸骨のタトゥーが彫られている。
 加藤が特別というわけではなく、少なくとも南郷が面倒を見ている若い連中は、むしろきれいな体をしているほうが珍しい。軽いノリで入れてしまった者も入れば、南郷と関わりを持ったことで、覚悟を示すために入れる者もいる。
 そういったさまざまな若い連中――本人たちは〈チーム〉と自称しているが、基本的に共同生活を送っている。数人ずつのグループに分けて、第二遊撃隊が管理しているアパートやマンションの部屋を使わせているのだ。現在のところチームには二十人ほどが所属しているが、人数は流動的だ。チームの人間が外から仲間を連れてくることもあったり、ふらりと出ていくこともあるためだ。
 ただ、固定となっている顔ぶれがいるため、極端に人が減ることはなく、放任しているようで、隊は人員の管理をしっかり行っていた。
 圭輔は、彼らが生活している部屋を巡回する仕事を任されている。血気盛んな粋がったチームの連中がどこで騒ぎを起こすかわからないため、最低限の干渉を行う世話係が必要というわけだ。
 Tシャツを着込む加藤を横目で眺め、圭輔はため息交じりにぼやく。
「どこの部屋も、加藤ぐらいしっかりした奴が一人はいてくれたら、俺も仕事は楽なんだがな」
「俺は別に、しっかりはしてないっすよ。ガキでもできることをやってるだけです」
「……それができない奴が多いから、困るんだ。俺は正直、部屋を回るたびに、自分がヤクザじゃなく、保父さんになったような気分になるんだ」
 このとき圭輔は、加藤が唇をわずかに歪めたのを見逃さなかった。いかつい風貌と、ハッとするほど鋭い空気を持つ加藤にとって、これが笑顔なのだ。
「中嶋さん、面倒見がいいから」
「よくねーよ。こんな仕事をしてるわりに人当たりが柔らかいから、ガキの扱いも上手いと思われてるんだ」
「でも、その『ガキ』たちに慕われてますよ。怒鳴らないし、手を上げないから」
 圭輔は大仰に顔をしかめると、片手を振ってみせる。
「お前らみたいな頑丈な奴殴ったら、こっちが手を痛めるだろ。……というか、慕われているというより、舐められてる、の間違いじゃないか」
「少なくとも、俺は慕ってますよ」
 意外にタラシの素質があるなと、圭輔はまじまじと加藤を見つめる。いかつい顔は照れるでもなく、堂々と圭輔を見つめ返してきた。
 一旦暴れ出すと手がつけられないという噂がある加藤だが、普段はいたって物静かで、だからといって人を遠ざける孤高さがあるわけでもない。ただ、やはり普通の青年とは違うものを持っているのだろう。そうでなければ、十代の頃から組に出入りしていたりはしないだろうし、南郷が目をつけ、第二遊撃隊の仕事を手伝わせたりもしないはずだ。
 総和会の内外で自由に動き回っている遊撃隊が、さらに自由に動ける手駒として、チームの面倒を見ているが、その中で加藤は際立った存在だった。度胸があって頭が切れると判断され、チームの半数を指揮して動かす権限を与えられている。
 近い将来、ただの使い捨ての駒になるか、第二遊撃隊の一員になるかは、加藤自身の働きにかかっている。普段の本人を見ていると、そういった気負いは一切感じられないが、だからこそ、修羅場でのキレっぷりがどれほど凄まじいか、想像してしまうのだ。
 圭輔は再び腕時計に視線を落とし、立ち上がる。
「さて、昼までに巡回を終わらせるか。多分最後が一番……手がかかるだろうしな」
 圭輔がこう呟くと、案の定、加藤がこう提案してきた。
「中嶋さん、ついていっていいですか? 運転は俺がしますから」
 隊の人間から、車の運転の荒さを指摘されたという加藤は、運転手役を務めることの多い圭輔の隣に乗りたがる。多少のヘマをしても怒鳴ることのない圭輔とだと、同乗しても気楽なのだろう。勉強したいと言われれば、断る理由もない。もっとも圭輔は、加藤の運転が荒っぽいと感じたことは、一度もないのだが。
 圭輔は圭輔で、加藤を連れて移動するのには、もちろん理由があった。
「昼飯奢ってやるから、俺の後ろに立って、しっかり威嚇しろよ」
 そう圭輔が応じると、加藤は今度こそはっきりと唇を歪めた。


 詰め所への連絡を終えて携帯電話を仕舞った圭輔は、助手席のシートに深くもたれかかると、ハンドルを握る加藤の横顔に視線を向ける。これまでのところ、非常に快適なドライブが続いており、一応褒めておこうかと思ったところで、加藤が先に口を開いた。
「――中嶋さんって、もともと売れっ子ホストだったんですよね。どうしてヤクザになったんですか」
「誰が言ったんだ、売れっ子なんて。俺は普通のホストだった。何も知らずに店に入ったら、その店が総和会の組の一つが出資してたんだ。ときどき店に組の人間が出入りしていて、話をするようになって、そうしているうちにヤクザへの抵抗が薄れていって……。まあ、葛藤はあったが、何かしら成功したいという気持ちもあったし、紹介してくれる人もいたからな。勢いで飛び込んで、トラブルに見舞われて対処しているうちに、深みにハマったというか」
「けっこう、苦労してるんですね」
 しみじみと加藤に言われ、圭輔は声を上げて笑ってしまう。
「若いお前に言われると、変な気分だな。――お前は、早いうちから組事務所に出入りして、南郷さんに声をかけられたんだったな」
「高校を一年で中退して、家にも居場所がなくて街をぶらついてたら、組の人に声をかけられたんです。小遣い稼ぎをしないかって。そのうち寝床を提供してもらって、組の下っ端みたいな扱いになって、でも、この先どうしようかと思っているところに、南郷さんが……。居心地が悪かったら、さっさと逃げるつもりだったんです」
「居心地がよかったか」
 少し間を置いて、加藤が浅く頷く。
 正直圭輔は、いまだに南郷という男がどういう人間なのか掴めない。何を考え、何を目指して第二遊撃隊を大きくし、力をつけているのかすらも、わからない。しかし南郷に限って、漠然と上を目指しているということはないと言い切れる。何か確固たるものがなければ、いくら長嶺会長の後ろ盾があるとはいっても、第二遊撃隊が急速に力をつけることは不可能だ。空恐ろしいのは、第二遊撃隊という組織は、まだ発展途上にあるということだ。
「――自分の中で期限を決めておけよ。隊に入るか、どこかの組を紹介してもらって盃をもらうか。チームにいて、ガキたち相手に大物面して満足できる器じゃないだろ、お前」
 圭輔の言葉に感じるものがあったのか、車が急に加速する。それに気づいたのか、すぐに加藤はスピードを落とした。
「買い被りですよ……。チンピラみたいなものです、俺なんて」
「この世界、控えめなだけじゃ、図太い奴に食われるぞ」
 圭輔が暗に誰を指しているのか、すぐに加藤は察したらしい。ああ、と声を洩らして、微妙な表情を浮かべる。加藤の様子を一瞥して、圭輔は改めて実感する。
 チームなどと言ってはいるが、和気藹々とした集まりではない。目的も考えもバラバラの若い連中が顔を突き合わせていれば、諍いは日常茶飯事だろうし、気が合う、合わないもあるだろう。
 才覚がある者を中心としたグループが出来ており、そのうち一つのグループの中心に、加藤はいる。そして、もう一つのグループの中心にいる『図太い奴』は――。
 車は、あるマンションの駐車場に入った。エレベーターに乗り込む前に圭輔は、集合郵便受を覗き、溜まっているチラシをまとめてゴミ箱に放り込む。
 第二遊撃隊が管理しているのは、二階の、エレベーターホールに一番近い部屋だった。人の出入りが多いため、なるべく他の住人の目につかないよう配慮した結果だが、住んでいる当人たちが理解しているかは、甚だ疑問だ。
 玄関のドアを開けてすぐ、圭輔は軽く鼻を鳴らしてから、舌打ちする。
「臭い……」
 煙草と酒、食べ物の匂いが入り混じり、そこに男たちの体臭も加わると、悪臭以外の何者でもない。圭輔は遠慮なく、三和土に散乱した靴を足先で押しのけて部屋に上がる。
 薄暗いダイニングに足を踏み入れた途端に、何か弾力のあるものを踏みつけて驚く。足元に視線を落とすと、毛布に丸まった男が寝ていた。改めてダイニングを見渡すと、複数の人間が雑魚寝をしている状況だった。
「……この部屋、四人で使っているはずなんだが、どう見ても、四人以上はいるよな?」
 言いつけを守り、しっかりと圭輔の背後に立っている加藤に話しかける。加藤は何も言わずズカズカとダイニングを突っ切ると、奥の部屋に通じるドアを開ける。そこでも、床の上で誰か寝ているようだ。
 部屋の電気をつけて、床に散乱したアルコールの空き缶や瓶、つまみが残った器などを一つ一つ確認してから、圭輔は玄関に引き返し、靴を履いてダイニングに戻る。そして、寝ている男の腰を、思いきり蹴りつけた。
「起きろっ」
 怒鳴りながら、次々に男たちを蹴って回る。その合間に、加藤に窓という窓を全開にさせた。
 わけもわからないまま怒声を上げる連中には、容赦なく再び蹴りを食らわせる。飛びかかってこようとした者もいたが、加藤が素早く押さえ込んでしまう。やはり、連れてきて正解だったようだ。
「――見かけによらず、荒っぽいことするなー、中嶋さん」
 騒ぎが収まりかけたところで、どことなく人を小馬鹿にしたような、涼しげな声が割って入る。いつから見ていたのか、もう一つの部屋のドアが開いており、いかにも寝起きといった風情の小野寺(おのでら)が立っていた。
「ガキへの教育的指導だ。お前、部屋に何人連れ込んでるんだ。これだけの人数を泊めるなんて、連絡は受けてないぞ」
「すみません。つい盛り上がって、連絡入れるの忘れてました」
 申し訳ないと、欠片ほども思っていない様子で言われる。圭輔は床に転がっている空き缶を拾い上げ、小野寺に投げつける。本当は、いかにも重そうな灰皿を投げつけたかったが、壁に穴を開けるのは避けたかった。
 余裕たっぷりに空き缶を受け止めた小野寺は、片手で握りつぶす。このとき、外から差し込んでくる陽射しを受けて、小野寺の耳元でピアスが輝いた。圭輔はわずかに目を細めてから、ダイニングを指さす。
「――用のない奴は帰らせて、さっさとここを片付けろ。終わるまで、監視しているからな」
 圭輔の命令に、小野寺は軽く肩をすくめる。
「本当に、見かけによらないなー」
「うるさい。とっとと動け」
 圭輔は腕組みをして壁にもたれかかると、不満げな視線をぶつけてる連中をじろりと睨みつける。小野寺はさほど堪えた様子はないものの、さすがに圭輔に逆らうようなマネはせず、チームの人間以外には帰るよう告げ、手分けして部屋を片付け始める。
 もっとも、小野寺が動いていたのは、最初だけだ。よくも悪くも『図太い奴』である小野寺は、圭輔が見ていようがお構いなしに、他の人間に指示を出して、効率よく働かせ始める。
 そんな小野寺を、圭輔はじっと観察していた。小野寺もまた、南郷の目に止まり、第二遊撃隊の仕事を手伝わせている一人だ。加藤とは別のグループを精力的に作り上げ、その中心に立っている。
 現在は似たような立場にいる二人だが、十代の頃から組事務所に出入りしていた加藤とは違い、同年齢の小野寺は、南郷が声をかけるまで組とは一切関わりがなく、〈やんちゃ〉な連中を集めて、街で遊び歩いていたという。その合間に、ヤクザを出し抜いて多少の悪さをしていたところ、総和会のある組と揉めかけ、その仲介に南郷が関わった。後ろ盾と小遣い欲しさに、小野寺は第二遊撃隊――というより、南郷個人の雑用を請け負うようになり、今ではチームの顔ともいうべき存在となったそうだ。
 圭輔が第二遊撃隊に入ったときすでに、加藤と小野寺は、互いに気質が合わないと感じてチーム内で距離を取り合っていた。さらに、二人の空気を感じ取り、それぞれのグループも牽制し合っている節がある。
 ガキはガキなりに、立派に縄張り意識があるのだ。特に小野寺は、普段の人を食ったような言動からは想像もつかないほど、強烈な南郷の信奉者だ。南郷に信頼されている加藤の存在が、少しばかり鼻についているのかもしれない。
 部屋が片付いてきたところで圭輔は、自分が土足のままなのに気づき、ようやく靴を脱ぐ。すかさず加藤が、その靴を手に玄関に向かった。
「――中嶋さんには懐いてますよね、加藤の奴」
 さりげない二人のやり取りを見ていたのか、どこかおもしろがるような口調で小野寺が話しかけてくる。圭輔は軽く片手を振って見せた。
「俺は、手を上げないからだそうだ」
「その代わり、足はすぐに出ますよね」
「汚いものに触れたくないからな」
 笑ったまま、小野寺の表情が凍りついた。ただし、一瞬だ。自然な様子で圭輔の傍らにやってくると、抑えた声で言った。
「さすが、元売れっ子ホストだけあって、言うことが違いますね」
「女を食いものにしてきた、と言いたいんだろうが、俺も客の女も、商売と割り切ったうえでのつき合いだった。――女を騙して、えげつないことをしていたお前とは違う。俺が知らないと思っているのか? お前が何をやらかして、南郷さんに尻拭いをしてもらったか」
 小野寺の触れられたくない部分を突いたはずだが、さすがに〈図太い奴〉だけあって、表情を消しはしたものの、動揺を圭輔に悟らせることはなかった。それどころか、馴れ馴れしく圭輔の肩に手をかけてくる。
「中嶋さん、この間のこと、まだ怒ってますね」
「……この間?」
「会長の、特別なお医者さんのことです。中嶋さんに報告せずに、南郷さんに会わせたんで、ずいぶん中嶋さんが怒っているように見えたんで」
 圭輔は、横目で小野寺を睨みつける。肯定するのも癪で、あえて話題を逸らした。
「――お前、酒臭い。詰め所に顔出す前に、なんとかしておけよ」
 肩にかかった小野寺の手をさりげなく押しのけようとして、反対にその手を掴まれ、耳元で挑発的な言葉を囁かれた。
「俺、前から気になってたんですよ。あんたから、どうしてだか――雌の匂いがすることに。あのお医者さんと、どことなく似た匂いだ」
 小野寺の言ったことを頭が理解する前に、体が反応していた。圭輔は、小野寺から一歩離れて距離を取り、拳を振り上げる。澄ました顔を殴りつけようとしたが、それは叶わなかった。二人の間に加藤が割って入ったからだ。
「中嶋さん、腹減ったんで、メシ行きましょう」
 小野寺を一瞥すらせず、圭輔をまっすぐ見据えて加藤が言う。落ち着いているようで、加藤の目は殺気立っていた。漠然とだが、暴れ出すと手がつけられないという加藤の姿が、想像できた瞬間だった。ここで圭輔が引かないと、おそらく加藤が、小野寺に殴りかかる。
 この二人をすぐに引き離さないとヤバイ、と本能が訴える。即座に圭輔は冷静さを取り戻していた。
「……ああ、行くか」
 圭輔がこう応じると、加藤は唇をわずかに歪めた。




 帰宅した秦が、圭輔の顔を見るなり、大仰に目を丸くして問いかけてきた。
「おれの帰りが遅かったから、機嫌が悪いのか?」
「……俺は待ちぼうけを食らったガキですか」
 圭輔が苦笑して見せると、秦は軽く肩を竦めてジャケットをソファに置き、ネクタイを解き始める。
 相変わらず、仕事は忙しいようだ。実業家としていくつも店を経営しながら、長嶺組との間でも事業が動いており、秦はその準備でも駆け回っている。おかげで最近は出張も多く、圭輔が秦の部屋を訪ねても留守ということが増えた。
 秦がワイシャツのボタンを外していく様を、ぼんやりと眺めていると、ふいに問われた。
「風呂、一緒に入るか?」
 圭輔が嫌がると知っていて、こんなことを聞いてくる。圭輔は首を横に振ろうとして、ふと今日の昼間の出来事を思い出し、勢いよく立ち上がって秦に歩み寄る。
「圭輔?」
 秦が、首を傾げる。最近二人のときは、秦は名で呼んでくれることが多くなった。
「――……風呂に入る前に、俺の匂いを嗅いでもらっていいですか」
 唐突な圭輔の頼みに不思議そうな顔をしながらも、秦がスッと顔を近づけてくる。秦がつけているコロンの柔らかな香りが鼻先を掠め、一瞬、気も遠くなるような心地よさに包まれる。
 秦は軽く鼻を鳴らして、圭輔の髪や首筋の匂いを嗅いだ。
「仕事を上がったあとの、いつものお前の匂いだ。車の芳香剤と煙草の匂いが染み付いている。……お前自身の匂いは、よくわからないな」
 何かあったのか問われ、圭輔は微妙な表情で返す。あえて秦に報告するほどのことなのだろうかとも思ったが、深く追及してくるでもなく、寸前のやり取りなど忘れた様子で着替えを始めた秦を眺めていると、つい反応を試したくなる。
「俺が、隊で面倒を見ているガキのお守りをしていること、話したことがありますよね?」
「おれのホスト時代の教えだな。将来、誰がどう出世するかわからないから、他人の面倒はできる範囲で見ておけ、と。実際、お前は出世して――」
「昔話はいいんですよっ。……今日、そのガキの一人に、挑発的な口調で言われたんです」
 ここで圭輔が口ごもると、素肌にシャツを羽織った秦が、おもしろがるように顔を覗き込んでくる。
「なんて?」
「……雌の、匂いがすると……」
 秦はニヤリと笑った。見惚れるほど端麗な美貌は、こういう表情を浮かべると、途端に秦をとてつもない〈悪い男〉に見せる。したたかで狡猾で、ヤクザである圭輔ですら底が見えないほどの闇を抱えているようにも。
「鋭いガキだな。そういう鼻の利く人間には、ガキだろうが油断するなよ、圭輔」
「……言われなくても」
「しかし、なかなか刺激的な表現だな。どこから見ても男のお前に、『雌』なんて言葉をぶつける度胸も、刺激的だ」
「言われたほうは、堪ったものじゃないですよ。思わず、ぶん殴りそうでした」
 それも刺激的だと、楽しげに秦が洩らす。これ以上続けても、秦にからかわれるだけだと思った圭輔は、軽く睨みつけてバスルームに逃げ込もうとしたが、それは叶わなかった。腰に秦の腕が回されたかと思うと、振り回されるようにしてベッドに放り出される。
 何事かと呆気に取られる圭輔の上に、艶然とした笑みを浮かべた秦がのしかかってくる。ジーンズの前に手がかかったところで、ようやく我に返った。
「何してるんですかっ」
 慌てる圭輔の問いかけに、悪びれることもなく秦が答える。
「お前が気にしているようだから、今から確かめてやる。――本当に雌の匂いがしているか。一番匂いが強そうなのは、ここだろ?」
 両足の中心を強く押さえつけられ、圭輔は返事に詰まる。明らかに、秦は楽しんでいる。優しげな物腰で大抵の人間は騙されるが、秦は意外に意地が悪い。
 本気で抵抗できるはずもなく、一応嫌がってはみるものの、ジーンズと下着を一緒に引き下ろされたところで、興奮のため圭輔の息遣いは妖しさを帯びていた。秦の眼差しも、妖しい色を帯びている。
 脱がされたジーンズと下着をベッドの下に落とされて、まるで辱めるように、秦に両膝を掴まれ、足を大きく左右に開かされる。秦の顔が内腿に寄せられたところで、圭輔は顔を背ける。
 男から愛撫を与えられ、自分が〈オンナ〉になる瞬間は、まだどうしても身構えてしまう。妙な話だが、品がよくて優しげで、淫奔でもある美容外科医と一緒に絡み合うときは、平気なのだ。自分と似通った部分を持っているという事実に、どこか安堵し、信用もしているせいだ。
 しかし秦は――あくまで男だ。圭輔と同じ悦びは共有していないし、隙さえあれば、支配してこようとする。圭輔の男としてのプライドが牙を剥くことを、楽しんでいる節すらある。そこが怖いし、信用もできない。だがそれ以上に、刺激的で、愛しいのだ。
「ここは、しない――」
 内腿に舌先が這わされ、ゾクゾクするような疼きが圭輔の全身を駆け巡る。優しく肌を吸われたかと思うと、チクリと微かな痛みが走る。そっと視線を向けると、秦が強く肌を吸い上げていた。上目遣いに見つめられ、圭輔は目が離せなくなる。
 秦は、圭輔の胸の奥で高まる期待を見透かしたように、唇に笑みを刻んだ。その唇が内腿に這わされる。油断ならない手は、圭輔の欲望にかかり、上下に擦られる。圭輔は小さく声を洩らすと、ゆっくりと背を反らした。
 秦の手の中で、圭輔の欲望は性急に形を変え、熱くなっていく。
「はっ、ああぁっ……」
 感じやすい先端に、焦らすように熱い息を吹きかけられる。上擦った声を上げた圭輔は、反射的に秦の頭に手をかけていた。あとは、意地を張る気力も湧かなかった。
 秦の頭を引き寄せると、圭輔の無言の求めに応じて、熱い口腔に欲望が呑み込まれる。気が遠くなるほど心地よくて、恥知らずなほど大きな声で喘いでしまう。
 さんざん圭輔のものを口腔で愛撫してから、顔を上げて秦が言った。
「ここは、雌の匂いというより、雄の匂いだな。どんどん強くなる」
「……もう、いいです。さっきの話は、忘れてください」
 透明なしずくを垂らす先端を舌先で弄られ、声が震える。
「そういうわけにもいかない。お前が、ガキにわけのわからない因縁をつけられたんだ。俺がなんとかしてやらないと」
 完全に秦は、この状況を楽しんでいる。さすがに圭輔も本気を出して抵抗しようとしたが、秦のほうが何枚も上手だった。圭輔が体を起こそうとしたタイミングで、内奥の入り口に指先を這わせてきたのだ。
 鳥肌が立つような感覚に襲われたが、それは決して不快さからではない。圭輔は上体を捩って逃れようとしたが、おとなしくしろと言わんばかりに、内奥の入り口を擦り上げられる。そして、唾液で濡らした指を挿入された。
「うっ、うっ……」
 内奥で指が動かされるたびに、圭輔は腰を震わせて呻き声を洩らす。異物感と微かな痛みは、肉欲のうねりとともに複雑な快感へと姿を変えていく。
「ここが一番、雌の匂いがしそうだと思わないか?」
 指を出し入れしながら秦に囁かれる。もちろん、こんな問いかけに圭輔が答えられるはずもない。秦も、答えを求めてはいなかった。
 スラックスの前を寛げて圭輔に覆い被さってくると、優雅な美貌に似合わない、露骨で淫らな発言をした。
「じっくり奥深くまで擦り上げると、いやらしい雌の匂いがしてくるかもな」
 秦を睨みつけた圭輔は、次の瞬間には両腕を秦の背に回してしがみついた。
「――……早く、試してください」
 自ら足を上げると、秦の高ぶりが内奥の入り口に押し当てられる。落ち着いた表情からは想像もつかない欲望の熱さに、圭輔は吐息を洩らした。
 逞しい部分がぐっと押し込まれ、内奥を広げられる。全身の毛が逆立つような、強烈な感覚だった。身悶えしそうなほど痛いし苦しいのに、肉と粘膜が擦れ合う部分から、じわりと快感めいたものが滲み出てもくるのだ。繋がっているとより強く実感するこの瞬間を、圭輔は気に入っていた。
「うっ、うあっ、あっ、ううっ」
 寸前までの優雅さがウソのように、秦は強引だ。強く腰を打ちつけ、逞しいものを内奥に捩じ込んでくる。苦しむ圭輔を見下ろしながら、楽しげに秦は笑っている。
 深くしっかりと繋がると、一度動きを止めた秦に首筋を舐め上げられる。
「ここは、お前の汗の匂い」
 大きく息を吐き出した圭輔は、思わず笑ってしまう。秦にTシャツを脱がされ、脇腹を撫で上げられて甘く掠れた声を上げる。緩やかな律動を繰り返されながら、秦のてのひらが胸元に這わされ、愛撫を欲しがっている突起を転がされる。
「あっ、い、ぃ……」
 圭輔が肉の悦びに少しずつ乱れ始めると、秦に両足を抱え上げられる。抉るように内奥深くを突かれ、電流にも似た感覚が背筋を駆け抜けていく。
「汗の匂いが強くなった」
 秦の言葉に刺激され、内奥で蠢く熱をきつく締め付ける。反り返って震えるものが、秦の下腹部に擦り上げられていた。前後から押し寄せるまったく異質の快感と、体全体で感じる秦の重み、そして、秦の汗の匂いに、圭輔は酔いしれる。
 理屈を抜きにして、純粋に秦とのセックスが好きだと思った。
「中に……、出してください」
 喘ぐ息の下、圭輔がそう求めると、秦は微苦笑を浮かべる。
「いいのか? なんなら、今からゴムをして――」
「味わいたいんです。雄に征服された証を」
 圭輔が挑発的に見上げると、秦は優雅な男ではなくなる。荒々しく唇を塞いできて、圭輔の口腔を舌で犯し始める。内奥では、脈打つ欲望がさらに膨らむ。
 達したのは、ほぼ同時だったかもしれない。繋がっている部分が熱く溶けて、そのまま一つになってしまいそうで、秦の体の下で圭輔は身震いする。それは、非常に甘美で魅力的な感覚だった。


「――お前、気づかないうちにフェロモンを振り撒いてるんじゃないか」
 並んでベッドに横になっていると、唐突に秦がそんなことを言い出す。行為の余韻に浸っていた圭輔は、眉をひそめて反論した。
「本気で言ってますか? そんなもの、出せるわけないでしょう」
 どこかの先生じゃあるまいし、という言葉は、心の中で呟いておく。秦は横顔を見せたまま笑った。
「無自覚で出せるほうが、性質が悪いんだ」
「自覚して出せる人も、性質が悪いと思いますよ。たとえば、今俺の隣で横になっている人とか」
「なんだお前、おれのフェロモンにやられたのか?」
 意地悪く問いかけられ、圭輔はじろりと睨みつけてから、秦に背を向ける。背後でくっくと笑い声を洩らした秦が、圭輔の肩先に唇を押し当ててきた。フェロモンなど出さなくても、その感触だけで圭輔の理性は揺れる。もう振り返りたくて仕方ない。
「で、お前に刺激的なことを言ったガキは、どんな奴だ?」
 圭輔は、小野寺のことを考える。これまで、圭輔に対しても最低限の礼儀を払っていたからこそ、今日の露骨な発言は驚いたのだ。もっとも、隊の中では新人である圭輔のことを、どことなく値踏みしているような視線には、前々から気づいてはいた。
「……ガキらしくないガキです。もう成人はしているんですけどね。うちの隊の南郷さんに心酔しているっていうんですか、そのせいか、どことなく言動が、南郷さんに似ています」
「影響を受けると、知らず知らずのうちに似るんだろうな」
 相槌を打とうとした圭輔は、ここで顔をしかめる。なんとなく、ホスト時代の自分と秦の関係のようだと感じたせいだ。
 圭輔の汗の匂いを嗅ぐように、秦が髪に顔を寄せる。
「お前の言う『ガキ』は、いい嗅覚はしてるのかもな。元ホストのヤクザが、男と寝ているんだ。お前の匂いが変わったのかもしれない。……あっ、もしかして、おれじゃなく、先生が原因か」
「どっちだと言ってもらいたいんですか?」
 髪に触れる秦の息遣いが笑う。誘われるように振り返った圭輔は、秦の頭を引き寄せ唇を重ねようとする。そのとき、携帯電話が鳴り出した。
「あっ、俺の携帯だ」
 無視したいところだが、鳴り響く着信音は、圭輔が仕事用として使っているものだ。急な呼び出しの連絡かもしれない。裸のままベッドを出た圭輔に、柔らかな微笑とともに秦が声をかけてくる。
「仕事熱心だな」
「嫉妬しないでくださいね」
 そう応じた圭輔は、テーブルの上に出しておいた携帯電話を取り上げる。表示されていたのは、意外な名だった。一体何事かと、慌てて電話に出る。
「どうかしたのか、――加藤」
 いつも圭輔から電話をかけることがほとんどで、加藤からかかってくることは滅多にない。だからこそ、何かトラブルに巻き込まれたのではないかと危惧したが、どうやら違うようだ。
 電話の向こうから、加藤がためらう気配が伝わってくる。
「加藤?」
『……昼間のことです。俺、ずっと気になっていて……』
「昼間って――」
 加藤に昼飯を奢ったことかと思ったが、その前に、ちょっとした事件があったことを思い出す。たった今、秦に話したばかりだ。
「ああ、小野寺のことか。昼間も話したが、あいつが生意気なことを言ったから、怒っただけだ。別にお前が気にするようなことじゃないぞ。お前はお前で、きちんと仕事をしてくれたしな」
『中嶋さんがあそこまで怒るってことは、よほどのことを言ったんでしょう、あいつ』
 さすがに、雌の匂い云々とは、加藤には言えない。圭輔が言葉を濁すと、何をどう誤解したのか、加藤は低く抑えた声で言った。
『――俺、あいつシメますよ』
 この瞬間、圭輔はゾクリとするような寒気を感じる。加藤は本気だと思った。
「バカか。お前も小野寺も、南郷さんが面倒を見ているチームの人間だ。そのチーム内で揉め事は起こすな。いくら、気に食わなくてもな」
『だけど……』
「俺が困る。小野寺は正直どうでもいいが、俺は南郷さんから、お前の面倒を見るよう言われているんだ。そのお前が、他の隊の人間が面倒見ている小野寺に手を出したら――わかるな?」
 少しの沈黙のあと、加藤がようやく返事をする。その返事を聞いて安堵した圭輔は、もう一度念を押して電話を切る。すると、いつから聞いていたのか、秦に背後から抱き締められた。寸前までのやり取りを聞かれていたのかと、圭輔は気恥ずかしさに襲われる。
 照れ隠し――というほど可愛げのあるものではないが、秦の腕の中から逃れようとしたが、絡みつくように優しい秦の抱擁は、けっこう頑丈だ。結局、圭輔は諦め、おとなしく抱き締められる。
 どんな甘い言葉を囁かれるのかと思ったが、予想に反して、楽しげな口調で秦が言った。
「お前、少し先生に似てきたんじゃないか」
 これには圭輔は本気で困惑する。
「……どういうところが、ですか?」
「いろいろ」
「話す気がないってことでしょう、それ」
「お前に、雄を引き寄せる本物の雌になられると、困るからな」
 本気なのか冗談なのか判断のつかないことを言って、秦が圭輔のこめかみに唇を寄せた。









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