と束縛と


- 恋 -


 突然耳元で、音楽が鳴る。枕に突っ伏して寝ていた千尋は勢いよく頭を上げ、寝ぼけた状態で辺りを見回す。何事かと思ったが、 すぐに枕の傍らの携帯電話に気づいた。昨夜、横になったまま友人と話し、そのまま放り出して寝てしまったのだ。
「なんだ、 こんな時間に――」
 そう言いかけたが、デスクの上の時計に目をやると、すでに昼前だ。ここのところの怠惰な生活のせい で、すっかり生活のリズムが狂ってしまった。
 寝入っているところを電話で叩き起こされただけでも最悪なのに、液晶に表 示された名を見て、気分はどん底を突き抜ける。
 無視したいところだが、千尋は、電話の相手の執念深さが骨身に沁みてい る。どんな報復に出られるか、わかったものではない。
 仕方なく、これ以上なく不機嫌な声で電話に出た。
「――……な んだよ、クソオヤジ」
『おう、生きてたか。バカ息子』
 電話越しに聞くバリトンは、いつもと変わらず余裕に満ちてい るようだが、この男の息子として生まれて二十年、多少なりと千尋にも独自の勘というものがある。
 その勘が、こう訴えて いた。父親は今、機嫌が悪いと――。
 モソモソと体を起こした千尋は、ベッドの上であぐらをかく。
「で、なんか用か よ」
『お前、今日が平日だってわかってるか? ずいぶんのんびりと過ごしているようだな』
「……見ているような言い 方するな」
『見ていなくてもわかる。目的もないのに大学を中退して、孫に甘いジジイに小遣いせびって遊び歩いているよう な奴が、年明け早々、意欲的に動くとも思えんからな』
 千尋は聞こえよがしに舌打ちして、父親である賢吾の読みの正しさ を認める。
 放任主義を標榜していた賢吾だが、千尋が一年目にして大学を中退し、フリーター生活を送るようになると、生 活に干渉してくるようになった。これは、一般的な親としては、ごく当然の行動だろう。
 賢吾に対して一般的という表現を 使うのは、非常に抵抗があるが。
『お前、去年の十一月にはバイトを辞めてるらしいな』
「……調べたのかよ」
『長 嶺組の大事な後継者が、社会勉強に励んでいるんだ。親としては、心配にもなるだろ』
 たとえ顔が見えなくても、千尋は手 に取るようにわかる。賢吾が、電話の向こうでニヤニヤと笑っていると。
 長嶺組という名の通った大きな組を背負っている 賢吾は、何もかもを知りたがり、支配したがる。臆病で慎重な性質だからな、と嘯(うそぶ)くが、本人が本気でそう思っている のかは実に怪しい。
 とにかく、なんでも知りたがり、興味を持ったら調べたがる賢吾のおかげで、千尋の生活は丸裸同然と なっているようだ。
『ダラダラと過ごすだけなら、さっさとそこを引き払って、うちに戻ってこい。フリーターですらないお 前に、総和会に出入りされると、俺も体裁が悪い。せめて、組の後継者として勉強しています、と胸張って言えるぐらいには、し っかりしてもらわんとな』
「だから、俺が勉強するなら、オヤジじゃなくて、じいちゃんのところで――」
『じいさんに は、お前への小遣いの打ち切りを頼んでおいた。よかったな。父と祖父が、お前の成長を見守っているぞ』
 笑いを含んだ声 で賢吾に言われ、千尋の頭に血が上る。クソオヤジ、と毒づこうとしたが、気配を察したようにあっという間に電話は切られた。
 不貞寝する気さえ失せた千尋は、携帯電話を放り出してベッドを出る。すぐに祖父である守光に電話をしようと思ったのだ が、なんといって用件を切り出すべきか考える必要がある。
 賢吾のことなので、どんな言葉で守光を説得して、納得させた かわからない。二十歳になっても、〈甘ったれなガキ〉扱いをされている千尋が、老獪な狐に翻意を促せるとも思わない。
  作戦を立てなければ――。
 千尋の中に、おとなしく実家に戻るという選択肢はなかった。


 最初は真剣に頭を使っていた千尋だが、コーヒーを淹れ、つい昼間のテレビ番組をチェックしているうちに、寝起きで味わった 切迫感がどんどん遠ざかっていく。
 守光からの小遣いを一時的に打ち切られたところで、今すぐ買いたいものが買えない事 態になるわけではないのだ。それに、最低限の生活費を毎月賢吾からもらっているため、飢え死にする事態だけはない。つまり、 精神的にも金銭的にも、まだ余裕はあった。
 もう少し、甘やかされている後継者としての立場を享受しようと、このときま で千尋は考えていた。それは同時に、賢吾を甘く見ていたということでもある。
 腹が減り、冷蔵庫の中を覗いた千尋は顔を しかめる。見事に空っぽだった。
「……なんか、食いに行くか……」
 面倒くせー、とぼやきつつ、着替えを引っ張り出 そうとしていると、インターホンが鳴った。
 友人が押しかけてきたのだろうかと思いながら、玄関に向かった千尋はモニタ ーを覗く。意外にも、映っていたのは三田村だった。
 賢吾が気に入って側に置いている組員で、若頭補佐という肩書きを持 っている。まるで影のように賢吾に付き従い、黙々と仕事をこなす男だ。口数が少なく、精悍ともいえる顔に滅多に表情を浮かべ ない三田村を、賢吾は信頼しており、一人暮らしをしている千尋の元へよく使いとして寄越す。
「何しに来たんだ、こい つ……?」
 三田村の仕事の一つとして、賢吾から預かった生活費を千尋に手渡すというものがある。ただし今月の生活費は、 元日に本宅に顔を出したときに、賢吾から直接受け取っている。
 面倒だから銀行口座に振り込めと言い続けているのだが、 生活状況の監視も兼ねていると言われると、千尋は反論できない。
 今になってお年玉をくれる気になっただろうかと、調子 のいいことを思いながら千尋はドアを開ける。目の前には、相変わらずの無表情で三田村が立っており、折り目正しく頭を下げて きた。
 外から入り込んできた冷たい空気に、ブルッと体を震わせた千尋は、ドアを開けたまま話す気にもなれず、とりあえ ず三田村を玄関に入れた。
「どうかしたのか、三田村」
 千尋が問いかけると、三田村はスッと白い封筒を差し出してき た。いつも、生活費を入れて持ってくる封筒だ。
「組長から預かってきました」
「……俺、三十分ぐらい前にオヤジと話 したけど、お前が来るなんて一言も言ってなかったぞ」
「わたしはただ、組長にこの封筒を持っていくよう言われただけです」
 三田村はあくまで、賢吾のために働いている。千尋に礼儀正しく接してはくれるが、そこに親しみを抱かせるような個人的 な感情は存在していない。とにかく有能な組員だ。腹が立つほど。
 三田村の手からひったくるように封筒を受け取った千尋 は、すぐに異変に気づいた。明らかに、いつもより薄い。慌てて封筒を開けると、中に入っていたのはメモ用紙一枚だった。
「なっ……んだ、これ……」
 メモ用紙には、賢吾の字でこう書かれていた。
『さっき言い忘れたが、今年から生活費は 自分で稼げ。正月に渡したのは、お年玉だ』
 千尋は、はっきりと声に出して毒づく。
「あの、クソオヤジっ」
 そ のクソオヤジに仕える三田村は、わずかに眉をひそめはしたものの、唇を引き結んだまま何も言わなかった。




 一刻も早くアルバイトを見つける――。そう目標を決めた千尋は、すぐさま動き始めた。まだ正月ボケを引きずっている友人た ちに電話をかけまくり、いいアルバイトはないかと尋ねる一方で、インターネットでもアルバイト情報を探す。
 大学を中退 してから、いつ賢吾が切り出してくるかと身構えていたが、いよいよやってきたという感じだ。
 長嶺の本宅に戻ってきて、 長嶺組後継者としての勉強をしろ。
 賢吾は、面と向かって千尋にこう言いたくて仕方ないのだ。もっともらしく、父親面を して。
 嫌でも継ぐことになる組だ。とっくの昔にそのことについては納得しているが、千尋の希望としては、何かと可愛が ってくれる祖父の守光の側で働きたい。しかし賢吾がいい顔をせず、意見の衝突を繰り返すうちに、勢いで一人暮らしをすること になった。
 生活費を止められて、尻尾を巻いて逃げるように本宅に戻るような、みっともないことをしたくなかった。そん なことをすれば、確実に賢吾が喜ぶ。
『そういや、あのカフェが、バイト募集してるとか言ってたな……』
 イライラし つつマウスを動かしていると、ふいに思い出したように、電話の向こうで友人が洩らす。手を止めた千尋は、意識をパソコンの画 面から、友人との会話に集中させた。
「カフェって、なんてとこ?」
 友人が告げた店名と大まかな住所を、千尋は素早 くメモ用紙に書き殴る。バイクを使えば通勤が苦にならない距離だ。
『俺のバイト先の先輩が前に働いてたらしくて、そんな こと言ってた。シャレた店で、制服もカッコイイ。一緒に働いているバイトたちのレベルが高かったってさ。何より、時給がいい』
「……なんか、怪しいなー。のこのこ面接受けに行ったら、個人情報抜かれるとか、妙な商品買わされるとかじゃないだろう な」
『その店な、バイトの募集期間が長いらしいぜ。面接受けにくる奴はいくらでもいるけど、容赦なく落とされるんだと』
「お前、俺をブラックな店に売り飛ばそうとしてねーか……?」
 友人から返ってきたのは、派手な笑い声と、非常にわ かりやすい言葉だった。
『長嶺組の跡取りを売り飛ばすほど、俺は命知らずじゃねーよ』
 育った家が家なので、千尋は 他人に簡単に素性を明かしたりしない。長嶺組のことを知っているのは、長年の腐れ縁を保っているごくわずかな友人だけだ。だ からこそ、こうして冗談にもできる。
「意外に俺は、高く売れるかもな」
『おう、そうかもな。実はそのカフェのバイト って、見た目重視で選ばれるらしい。だからモデルや役者だけで食えない奴が、けっこう働いてるって言ってた。バイト先の先輩 ってのも、一応、事務所に入っている役者で、ツラだけはいい。店側の好みもあるだろうが、とりあえず面接だけでも受けてみろ よ。けっこう人気のある店みたいだから、ホームページぐらいあるんじゃないか』
 千尋はすぐにカフェの店名で検索して、 苦労せずにホームページにたどり着く。アルバイト募集の告知もあり、ざっと求人情報を確認する。勤務時間に特に希望はなく、 重要なのは時給なのだが、友人の言うとおり、確かにいい。
「……新年の運試しで、面接受けてみるか……」
『やってみ ろよ。ただし、しっかり猫かぶれよ。お前、その見た目で愛想さえよくしてりゃ、いいとこのお坊ちゃんに見えるから――って、 お前むしろ、ホスト向きじゃね? 甘えるの上手いし』
「そんなバイトしていると知られたら、おもしろがったオヤジが客と して押しかけてくる」
 案外本気で言ったのだが、基本的に人がいい友人は、冗談として受け止めたようだ。楽しげに笑って いる。
 たっぷり励まされて電話を切ると、千尋はもう一度パソコンの画面を食い入るように見つめる。一刻も早く連絡をす るべきなのだろうが、その前に、店の様子を知っておきたかった。何より、レベルが高いという従業員の外見についても、見定め ておきたい。
 千尋は、長嶺の血をしっかり受け継いだ自分の外見がどんなものか、よく把握している。利用できるのであれ ば、最大限利用するだけだ。
 空腹で腹が鳴ったのをきっかけに、千尋は出かける準備をするために立ち上がった。


 駐車場にバイクを停めた千尋は、もしかすると勤め先となるかもしれないカフェを眺める。シャレている、という表現は間違っ ていないと思うが、気取っている、とも言い換えられそうだ。
 店に入った千尋は、席に案内されるまでの間、店内の様子を 観察する。すっきりとしたインテリアでまとめられており、外から見るよりも広く感じられる。それは、通りに面した大きなガラ スの向こうに、テラスがあるせいかもしれない。冬の間は出番がないテーブルとイスが整然と並んでおり、暖かくなれば、テラス 席こそが混み合うのだろう。
 オフィス街という場所柄か、客層もよく、雰囲気が落ち着いている。テーブルの間を、白と黒 を基調とした制服を着たウェイターたちが行き来しており、所作の丁寧さなどを見る限り、従業員の教育はきちんとしているよう だ。
 アルバイトの外見重視という話はあながち大げさではないらしく、ウェイターたちの顔を一人一人見ていると、タイプ は違うが確かにみんな、整った顔立ちをしている。
 客として訪れる分にはいいが、働くには窮屈な職場かもしれない――。
 にこやかな表情で接客している彼らを見ていて、そんなことを考えた千尋はつい自分の顔を撫でた。愛想はいいほうだが、 感情が素直に表に出るタイプだとも言われ続けているのだ。
 案内されたテーブルについてランチを頼むと、さりげなく周囲 のテーブルの様子をうかがう。比率としては、女性客が多い。ウェイターの顔ぶれを見れば、さもありなんといったところだろう。
 意外に男性客は居心地が悪いのではないか、と余計なことまで考えた千尋の目に、当の男性客の姿が飛び込んできた。
 二十代後半ぐらいに見える男性客は、美形揃いのウェイターたちが立ち働く店内にあって、誰よりも人目を引く容貌をしていた。 すごくいい男、という安易な表現しか思いつかない自分に、千尋は腹立たしさを覚えるほどだ。
 ハイネックセーターの上か らジャケットを羽織った姿は、時間に追われるビジネスマンには見えず、だからといって水商売の人間にも見えない。カバーをか けた本を開き、知的な雰囲気を漂わせていることから、〈先生〉と呼ばれる職業が似合いそうだと思った。
 妙に惹きつける 容貌でありながら、一方で近寄りがたさも感じ、それが不思議な吸引力を生んでいる。
 千尋は、コーヒーが運ばれてきたの も気づかず、男性客を見つめ続ける。心なしか顔が熱くなってきたが、それは暖房のせいだと思った。ただ、心臓の鼓動がわずか に速くなっている理由は、思いつかない。
 若い男が凝視しているとも知らない男性客は、本のページを繰る。神経質な性質 なのだろうかと推測してしまうほど、男にしては細く長い指をしていた。
 こぼれ落ちそうなほどの具がのったチキンサンド にかぶりつきつつ、それでも千尋の視線は男性客から引き剥がせない。
 自分でもわからないが、とにかく気になって仕方な いのだ。
 この店の常連客なのか、聞いてしまおうか。
 ふっとそんなことを考えてしまい、一瞬立ち上がりそうになっ たが、寸前のところで我に返る。突然、見知らぬ男にそんなことを話しかけられたら、普通の人間は身構える。それに、もし仮に 常連客だとして、警戒してもうこの店に立ち寄らないかもしれない。
 それは困ると千尋は思った。なんといっても、千尋は すでにもう、この店で働く気になっていた。ただ、男性客に話しかけたいがために。
 一刻も早くこのチキンサンドを食べて 店を出たら、すぐに面接を申し込むつもりだ。一足違いで面接すら受けられなかったら、悔やんでも悔やみきれない。
 この、 突き動かされるような強い衝動がなんであるか、千尋にはわからなかった。
 とにかく、息苦しいほどに気持ちが急くのだ。 早く、早く、と。




 まだ着慣れないカマーエプロンの端を軽く引っ張り、ベルトの位置を確認する。さきほど鏡で確認したが、見かけだけは、シャ レたカフェの立派なウェイターだ。
 研修は受けたが、いまだに接客に不安を覚える。爽やかな笑顔を心がけると、どうして も口調のほうがぶっきらぼうになってしまうのだ。
 ベストのボタンに触れたり、靴紐を確認したりと落ち着かない千尋の肩 を、先輩のウェイターがポンッと叩いた。
「慣れだ、慣れ。心配しなくても、いざお客様の前に出たら、案外しっかりできる もんだ」
 頷いた千尋に、すかさずグラスがのったトレーと伝票が渡される。
「ということで、八番テーブルをよろしく」
 背を押されるまま、千尋はホールへと出る。
 つい先週、初めてこのカフェに足を踏み入れたというのに、今日はもう ウェイターとして働いているのだ。これまでいくつものアルバイトを経験しているが、ここまで新鮮な気持ちになるのは初めてだ った。
 いままでは、遊ぶ金を稼ぐためだったが、今回は、打ち切られた生活費を稼ぐためだ。そういう理由の違いはあるが、 実はそれだけではない。
 二人連れの女性客が楽しげに話しながら、メニューを決めている。テーブルの傍らに立ってそれを 待つ千尋は、さりげなく視線を隣のテーブルに向ける。
 運命だ、と思った。このカフェでのアルバイトを決意することとな った〈きっかけ〉が、そこにいるのだ。
 端正な容貌の男性客は、今日は真剣な顔でノートに何か書いており、ひどく考え込 んでいるのか、いかにも柔らかそうな髪を何度も掻き上げている。千尋は、しなやかな指の動きにうっとりと見入ってしまう。
「あの――」
 女性客に声をかけられ、我に返って慌ててオーダーを取る。それでも千尋の意識は、どうしても隣のテーブル に向いてしまう。
 話しかけたくてたまらないが、ウェイターという立場で、担当していないテーブルの客に話しかけるのは 至難の業だ。
 他愛なく天気の話でもしてみようかと思ったそのとき、小さく声が上がる。
「あっ……」
 反射的に 千尋が隣のテーブルを見ると、ボールペンが床に落ちるところだった。頭で考えるより先に、体が動いていた。
「俺が拾いま すっ」
 飛びつく勢いでボールペンを手に取り、しゃがみ込んだ姿勢のまま、男性客を見る。
 間近で見た男性客は、容 貌以上に、印象的な目をしていた。波紋が広がることすら拒むような澄んだ湖面を思わせる、静かできれいな目だ。最初に感じた 近寄りがたさは、この目のせいかもしれない。
 静かすぎるこの目に、感情が宿ることはあるのだろうか。
 唐突に千尋 がそんな不安に駆られたとき、男性客がスッと片手を差し出してきた。恥ずかしいことに、千尋は相変わらずしゃがみ込んだまま、 まるで犬が飼い主にお手をするように、男性客のてのひらにボールペンをのせる。少しだけ指先で触れたてのひらの感触に、眩暈 がするほど興奮していた。
「――ありがとう」
 柔らかな声で礼を言われたのだと認識した途端、千尋の顔中の筋肉が緩 む。これ以上ないほどの笑顔を浮かべたのだが、男性客のほうは淡々としたもので、にこりともしない。
 ただ、無造作な手 つきで千尋の髪をくしゃくしゃと撫で回した。それこそ、犬でも撫でるような手つきで。
 この瞬間、呆気ないほど簡単に、 千尋は理解した。どうして自分が、男性客が気になって仕方なく、話したくてたまらなかったのか。
 それは――。






「運命的出会いだったよなー」
 感慨深く千尋は洩らしたが、隣からは賛同の声は上がらない。何をしているのかと思って視 線を向ければ、枕を抱えるようにしてうつ伏せとなった和彦は、雑誌を開いていた。さきほどから千尋は熱っぽい口調で、出会っ た頃の思い出を語っていたのだが、どうやら聞いていなかったようだ。
 千尋は、和彦ににじり寄る。つい思い出話などして しまったせいか、こんなにも側で和彦の姿を見つめられることが、くすぐったいほど嬉しい。
 側にいられるだけではない。 触れることすらできるのだ。なんといっても千尋は、和彦とつき合っている。年の差十歳の恋人同士だ。
 片手を伸ばした千 尋は、そっと和彦の頬を撫でる。わずかだが、和彦の口元に柔らかな笑みが刻まれた。
「ねえ、先生」
「……なんだ」
「俺たちって、運命的出会いをしたよね」
 さきほどと同じ言葉を繰り返した千尋を、ようやく和彦が見る。
「どうだっ たかな……」
「わーっ、たった二か月前のことだろっ。俺と先生が知り合ったのって」
 和彦の手から雑誌を取り上げて、 千尋はベッドの上に恋人の体を押し付ける。のしかかると、すぐに背に両手が回された。千尋が見惚れ続けた指が、滑るように背 に這わされる。
「一目見て、先生に恋しちゃったんだよな。なんかわかんないけど、この人の側にいたいと思った。いや、む しろ、離れるべきじゃないというか――」
「千尋、酔っ払ってるのか。あまり恥ずかしいことを言うな」
 和彦は嫌そう に顔をしかめる。年上である分、クールなところがある和彦だが、実は愛情深い。千尋がそうしてほしいときに、いつでも甘やか してくれるのだ。
 にんまりと笑った千尋は、和彦の唇を啄む。すぐに和彦も応えてくれ、戯れるように軽いキスを楽しむ。 このまま濃厚に絡み合おうとしたが、千尋はあることが気になったので、ついでに尋ねてみた。
「先生、俺と初めて話したと き、頭を撫でてくれただろ。あれ、どうして? 思わず頭を撫でちゃうぐらい、俺が可愛かった?」
 和彦はまじめな顔をし て、千尋の髪を何度も撫でてくれる。うっとりするほど、その感触が心地いい。
「可愛いっていうか、〈あれ〉みたいだと思 ったんだ……」
「あれ?」
「――豆柴」
 和彦が口にした単語と、記憶にある映像が、千尋の頭の中で一致する。こ の瞬間、自分がどれほどマヌケな顔をしたのか知らないが、和彦が声を洩らして笑い始める。
「茶色の髪と、真っ黒の目をし た男の子が、床にしゃがみ込んで、ぼくにお手をしてきたんだ。最初は驚いたけど、一度豆柴に似ていると気づいたら、頭を撫で ずにはいられなかった。見た目通り、人懐っこいし、甘ったれだし」
 さんざん笑ったあと、和彦は両手で千尋の頭を抱き締 めてくれた。そんな和彦にしがみつきながら千尋は、こう思わずにはいられなかった。
 十歳年上の恋人に、絶対自分の素性 を知られてはいけないと。
 怖がられることが嫌なのではない。知られることで、実家や父親の力を後ろ盾にして、和彦を縛 り付けることに躊躇しない瞬間が訪れることを、恐れていた。しかし心の片隅で、望んでもいる。
 ずっと一緒にいたい。嫌 われたくない。去られたくない。複雑な想いが千尋を苛み、胸を苦しくさせる。
 この苦しみこそが、きっと本物の恋の証な のだろう。
 千尋が初めて自分の力で手に入れた、甘く苦い恋だ。









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