と束縛と


- 虜 -


 総和会会長――つまり祖父との昼食から戻ってきた千尋は、組員たちに玄関で出迎えられる。一人暮らしのときは、部屋を出入 りするのに人目を気にする必要もなく、そんな些細なことにすら感動を覚えていたものだが、実家に戻ってしまうと、この堅苦し い出迎えが普通なのだと思えてくるから怖い。
 気前のいい祖父から、土産として持たされた折詰を、今本宅にいる組員たち で食べるよう告げて靴を脱ぐ。さっそく自分の部屋に戻ろうとした千尋だが、片手に掴んだままの封筒の存在を思い出し、階段に かけていた足を下ろす。祖父から書類を言付かっていたのだ。渡す相手は、千尋の父親である賢吾だ。
 賢吾は長嶺組の組長。 祖父は、長嶺組を含めた十一の組を統括している総和会の会長という肩書きを持っているが、この二人は、父子関係という以上に、 ヤクザの世界での同志として深く結びついている。千尋の知らないところで、食えない大物ヤクザ二人、いろいろと動いているよ うだ。
 この世界では〈可愛い子犬〉呼ばわりの千尋は、祖父と賢吾の身内として大事に扱われているが、ヤクザとしては、 ほとんど無価値に近い。賢吾から組の運営について相談されたことなど、一度もなかった。
 この家を飛び出したときは、堅 苦しい世界の厄介な事情を背負う気など皆無で、ただ、皆から畏怖される祖父の持つ力に焦がれていた。だが今は、堅苦しい世界 の厄介な事情に一刻も早く浸りたかった。そういうものを背負うことで、価値のある男になりたいのだ。二十歳にしてこういう気 持ちに至ったことに、千尋自身、驚いている。
 大きな家の最奥に、賢吾の部屋はある。この家でもっとも価値ある男として、 何人もの組員たちに、そしてこの家そのものに守られている。
 廊下を歩きながら千尋は、中庭に目を向ける。立派すぎるこ の中庭を、千尋の母親は嫌っていたらしい。いつでもきれいに整えられている様が、気の抜けないヤクザの世界での生活そのもの のようだと思っていたようだ。そう教えてくれたのが祖父なので、そもそもどこまで事実なのか怪しい。祖父は、中庭を嫌ってい たというその母親を、嫌っていた。
 千尋としては、組員相手に泥だらけになりながら遊んだ、思い出深い場所なのだが――。
 賢吾の部屋に向かう途中、護衛の組員の詰め所の前を通りかかる。行き来する人間を常にチェックしているため、この詰め 所のドアが閉まることは絶対ない。
 今も、千尋が声をかけると、組員がわざわざ廊下まで出てきて頭を下げる。
「オヤ ジ、いるんだろ?」
「はい、もう戻られてますが――」
 微妙に口ごもった組員が、賢吾の部屋へと通じる廊下をちらり と見る。賢吾の部屋がある一角は、護衛か、側近の組員しか近寄れない聖域のような場所だ。その部屋に、自由に出入りできる特 権を持つ人間は、息子の千尋と、もう一人だけ。
 千尋は軽く唇を歪めてから、髪に指を差し込む。
「先生、来てるの か?」
「……組長がお連れになって、今は部屋で一緒に寛がれていると思います」
 それを聞いた千尋は引き返そうかと 思ったが、祖父に似ていると言われる意固地な部分がそれを許さなかった。
「なら、俺が顔を出しても平気だな」
 完全 に口ごもってしまった組員に軽く手を上げ、千尋は何食わぬ顔をして先へ進む。
 廊下を区切るようにして取り付けられた頑 丈なドアを開け、賢吾の部屋が近づくにつれ、妖しい空気を感じ取っていた。人の声は聞こえるが、会話を交わしているわけでは ない。呻き声と、乱れた息遣い。それにときおり、伸びやかな嬌声が混じる。
 一度は足を止めた千尋だが、すぐに、足元も 荒く部屋の前まで行き、一気に障子を開ける。
 よりによって目の前に、賢吾はいた。もう一人、千尋にとって大事な人であ る、和彦も。二人は、文字通り一つになっている最中だった。畳の上に賢吾があぐらをかき、その賢吾の腰の上に、向き合う格好 で和彦が跨っている。その部分を見なくても、二人が繋がっているのは明らかだ。室内に、淫靡な湿った音が響いている。
  賢吾は、こちらに背を向けている。本当に四十代半ばかと、自分の父親ながら感嘆するほど見事に鍛え上げ、精力を漲らせた体に、 刺青はよく映える。普段は人目に触れることのない忌まわしいものだが、障子を通して差し込む陽射しを受け、汗で濡れているそ れは、艶かなほどだ。筋肉が動くたびに、生々しく大蛇が蠢いている。
 その大蛇に、しなやかな腕が絡みつき、ゾクリとす るほどきれいな指が這わされる。賢吾の腰の上で揺さぶられるたびに、和彦が背にしがみついているのだ。
「はっ……、賢吾、 さ……。賢吾さんっ――」
 千尋の存在に気づかないらしく、和彦は甘く掠れた声で賢吾を呼ぶ。賢吾に髪を鷲掴まれ、和彦 が伏せていた顔を上げる。苦しげに眉をひそめているが、その表情はどこか陶然としている。千尋は何度も見て知っているが、和 彦が快感を貪っている顔だった。
 そんな和彦の頭を手荒く引き寄せ、賢吾が唇を貪る。舌を絡ませ合いながら、和彦が伏せ ていた視線を上げ、ここで初めて、千尋と目が合った。
 目に見えて和彦はうろたえた表情を見せ、その様子に、千尋の中で 甘い疼きが生まれる。性質が悪い衝動だと思うが、十歳も年上の和彦に対して、ときおりむしょうに加虐的なものを刺激される。 千尋が和彦にハマる理由の一つだ。
「千尋がっ……」
 和彦が身じろごうとしたが、千尋など比較にならないほど性質の 悪い父親は、ピシッと和彦の双丘を打ってから、腰を動かした。
「あうっ」
 呻き声を洩らした和彦が、また賢吾にしが みつく。
「いまさら、千尋に見られたぐらいで恥ずかしくもないだろ、先生。なんといっても、一緒に楽しんだ仲だ」
「あんたの羞恥心と、一緒にするなっ……」
 こんなときでも、和彦の減らず口は健在だ。長嶺組の人間には、賢吾相手にこ んなことを言える人間はいない。誰も彼もが、千尋の父親を組長として敬い、恐れているのだ。
 ようやく振り返った賢吾が、 人すら食らいそうな物騒な笑みを千尋に向けてくる。
「見たくないなら、外で待っているか?」
 賢吾の言葉に、千尋は 軽く鼻を鳴らす。
「なんなら、俺が替わってやろうか。オヤジより、若い俺が相手のほうが、先生も悦ぶぜ」
「勢いだけ で突っ走るガキは、先生に甘やかしてもらうほうが好きだろ」
「俺はガキじゃねーよ」
「……こんなときに、父子ゲンカ をするな」
 涙で潤んだ目で、和彦が睨みつけてくる。その目に誘われたように賢吾が和彦の唇にキスしてから、胸に顔を埋 める。胸の突起を愛撫されているのか、和彦が顔を仰のかせて吐息をこぼし、その吐息に千尋は誘われる。
 ふらりと二人に 歩み寄ると、体を屈めて和彦と唇を触れ合わせ、舌を絡める。賢吾が緩やかに和彦の体を揺さぶり、内奥を突き上げ始める。
 和彦の口腔を千尋は舌で犯し、内奥を、千尋の父親である賢吾が逞しいもので犯す。異常で淫らすぎるこの状況を、和彦は驚く ほどしなやかに、快感に狂いながら受け止めていた。
 男たちに抱かれることによって、和彦はどんどん本性を露わにしてい く。しなやかでしたたかで、反面、戸惑うほどの脆さも持ちながら、下手なヤクザより肝が据わっているのだ。何より、多淫で愛 情深い。
 ハンサムな美容外科医としての和彦もたまらなく魅力的だったが、長嶺組の中にいる今の和彦に、千尋はのめり込 んで、のぼせ上がっている。たとえ、父親のオンナとなり、その飼い犬である三田村をオトコとしてしまっても。
 ヤクザと いう世界に触れてから、和彦は妖しい本質を開花させているようだった。そうやって、どんどん男を虜にしていく怖さがある。そ の怖さが、千尋にはたまらない。
 千尋が唇を離すと、待っていたように今度は賢吾が、和彦の唇を貪り始める。同時に、和 彦が自ら腰を揺らし、その動きに応えるように賢吾が両腕でしっかりと和彦を抱き締める。もう、千尋が入っていける雰囲気では なかった。
 和彦が、賢吾の背に必死にしがみつく。この瞬間、千尋の心臓の鼓動が速くなる。まるで、自分が今、和彦を抱 いているような錯覚に陥っていた。実際は、和彦を抱いているのは、自分の父親だというのに。
「あっ、あっ、も、う……」
 和彦が切羽詰った声で訴えると、賢吾は露わになった喉元を舐め上げてから、和彦の唇の端にキスした。
「ああ……、 いいぞ、先生。俺も出したくなった」
 愉悦を含んだ声で賢吾が囁き、次の瞬間には、和彦の体が大きく上下に揺さぶられる。
 千尋が見ている前で、艶やかに和彦は絶頂を迎えた。身を捩り、放埓に悦びの声を上げる。一方の賢吾も、和彦の内奥深く に熱い精を注ぎ込んでいるのか、全身の筋肉が強張り、震えている。
 知らず知らずのうちに千尋は息を詰め、二人の交歓に 見入っていた。
 快感を堪能するように賢吾にしがみついていた和彦の両手がようやく動き、汗が流れ落ちる賢吾の背を愛し げにてのひらで撫でる。すでに刺青の大蛇の形を記憶しているのか、男にしては細い指先が大蛇の巨体をなぞり始める。
 和 彦の、こんな手の動きを千尋は知らない。大蛇に媚びているようでもあり、求めているようでもある。
 賢吾と体を重ねなが ら和彦は、刺青の大蛇とも身を絡め合っているような興奮を味わっているのかもしれない。そう思いたくなるような悩ましい手つ きだ。
 息を呑んで立ち尽くす千尋を、振り返った賢吾が一瞥する。口元には薄い笑みが浮かんでいた。息子である千尋を挑 発しているのだ。
 クソオヤジ、と千尋は小さく呟いた。


 座卓につき、祖父から言付かった書類に目を通す賢吾を、向かい側に座った千尋はじっと見つめる。
 自分の父親ながら、 嫌になるほど精力的な男だと思う。ほんの三十分ほど前まで和彦を抱いて煩悶させていながら、さっさとシャワーを浴びて戻って きたと思ったら、もう、澄ました顔で仕事をしているのだ。
 その、嫌になるほど精力的な男に振り回された和彦は、疲れた、 と不機嫌そうに一言いい残し、客間で休んでいる。いつもならそんな和彦の足元に居座る千尋だが、今日は賢吾とサシで話したい ことがあった。
「――言いたいことがあるなら、さっさと言ったらどうだ」
 ふいに書類から視線を上げた賢吾が、ニヤ リと笑みを浮かべて言う。微かに肩を揺らした千尋は、眼差しにぐっと力を込めて父親を見据える。すると賢吾は目を細めた。
「そういう目をすると、お前は母親に似てるな。俺に文句があるとき、よくそういう目で睨んできてたんだ」
「お袋の顔 なんて覚えてるのかよ」
「俺に似てないってことは、そういうことだろ。が、顔立ちそのものはうちのじいさん似だな。だか らお前は、じいさんに可愛がられる。今日も小遣いをたっぷりもらえたか?」
 答えようとした千尋だが、話が逸れかけてい ることに気づき、強引に本題を切り出した。
「オヤジは、何歳のときに刺青を入れたんだ」
 ほお、と賢吾が声を洩らし、 手にしていた書類を置いた。
「初めてじゃないか、お前がそんなことを聞いてくるなんて」
 ニヤニヤと笑っている賢吾 は、単なる意地の悪いオヤジだ。もう少し真摯な姿勢で息子の話を聞けとも思うが、そもそも刺青の話題を持ち出す時点で、どっ ちもどっちなのかもしれない。
「……答える気があるのか、ないのか、どっちなんだ」
「気が短い奴だな。――彫り始め たのは、二十五ぐらいだったな。最初は背中だけに入れるつもりだったが、どうせ大蛇を入れるなら、大きくて立派なものがいい と思って、今の姿になった。手彫りだから、恐ろしく時間はかかったがな。俺も忙しい時期だったから、完成したときは、二十七 になっていた」
 千尋は無意識に、自分の左腕の付け根近くを撫でる。自分がタトゥーを入れたときのことを思い出していた のだ。タトゥーは機械彫りで、小さいものだったため、体への負担は軽いものだったが、賢吾のような刺青を彫るとなると、痛み もかなりのものだろう。
「お前も彫るのか?」
 賢吾に問われ、ぎこちなく左腕から手を退ける。いつの間にか真剣な表 情となっている賢吾の顔を見つめ返せず、千尋は視線を伏せる。
「別に……。ただ、聞いてみただけだ。箔をつけるために入 れるって、うちの連中が話してるの聞いたから、何歳ぐらいで入れるもんなのかなって……」
「――三田村も入れてるぞ。あ いつのは、背中一面に彫られた立派な虎だ」
 思わず鋭い視線を向けた千尋に対し、賢吾は薄い笑みを見せる。息子が何を考 えているか、すべて見通していると言いたげな表情だ。
「愛情深い先生のことだ。さぞかし、撫でて可愛がってるだろうな。 あの先生の手にかかったら、ヤクザだろうが猛獣だろうが、簡単に骨抜きにされる」
「オヤジも……?」
 賢吾は答えな かったが、機嫌よさそうに喉を鳴らして笑う。
 三田村はどんなに暑かろうが薄着になることはなく、他人に肌を見せること はまずない。刺青を入れていることは聞いていたが、背に虎の刺青があると、今日初めて知った。
 賢吾の背にある大蛇を撫 でていたように、三田村の背にある虎も、和彦はやはり撫でているのだろうかと、つい千尋は想像してしまう。三田村に抱かれて いる和彦は、当然刺青に触れるはずだ。賢吾の大蛇をあれほど狂おしげに撫でていたぐらいだ。従順な虎をたっぷり愛してやって いても不思議ではない。
 その想像は千尋をひどく胸苦しくさせる。自分にはない刺青を持つ男への羨望と、嫉妬だ。刺青を 撫でる和彦の手の動きが脳裏をちらつき、胸苦しさに拍車をかける。
 思わず顔をしかめると、淡々とした声で賢吾が言った。
「長嶺の跡取りのお前に対して、刺青を彫るなとは言わん。だが、生半可な気持ちならやめておけ。今の時代、ヤクザが刺青 を彫っていないからといって、珍しいこともないしな」
「でも、箔がつくからという理由で入れる奴だっているだろ」
「だったらお前だって、遊び感覚でチャチなものを入れたじゃねーか」
 うっ、と言葉に詰まった千尋は、また左腕に触れる。 大学生とは名ばかりの、自堕落な生活を送っていた頃、遊び仲間に唆されて軽いノリでタトゥーを入れたのだ。賢吾の見事な大蛇 へのあてつけという気持ちも、なかったといえばウソになる。
「……もっと早くに先生と知り合っていたら、入れなかった」
「意外に、〈お堅い〉からな、先生は」
 賢吾の言い方に、思わず千尋はニヤリとする。和彦は、反社会的な組織と人間 の中にいて、自らもその一端を担い、性的に奔放な生活を送りながらも、ある部分では非常に道徳的でまじめなのだ。だからこそ、 侵しがたい清廉さのようなものがある。
「入れるにしても、もう少し待ってみろ。お前が、長嶺組と総和会で自分の立ち位置 を確立できるまでな。そうでなきゃ、刺青を入れた単なるチンピラだ」
 賢吾に珍しく父親らしいことを言われたからではな いが、千尋は左腕を撫でてから、和彦に相談して、タトゥーを除去してくれる病院を紹介してもらおうかと、本気で考える。
「――千尋、何を彫るか、考えているのか?」
 再び書類を手にして、視線を落としながら、思い出したように賢吾に問われ た。座卓に頬杖をついた千尋は、そんな父親をじっと見つめて即答する。
「大蛇を退治する児雷也」
「児雷也なら、ガマ を忘れるな。ガマガエル。……お前まさか、児雷也を美男子にして、それが自分だなんて、恥ずかしいこと言わないよな?」
 妙に嬉しげに応じる賢吾が、少しばかりムカつく。千尋は軽く舌打ちして視線を逸らすと、ぼそぼそと続けた。
「……俺も、 自分の分身は大蛇がいい、オヤジの刺青みたいに。ただし、搦め捕っているのは――天女だ。大蛇に感じさせられている、色っぽ くて、いやらしい天女……」
「その天女には、男のシンボルがついているってオチか」
 千尋は少し考えてから、不安を 覚えつつ賢吾に尋ねた。
「先生、これ聞いて、泣いて嫌がらないかな?」
「本人に言ってみろ。むしろ、泣いて喜んでく れるかもしれねーぞ」
 自分の父親に完全に遊ばれていることを悟り、千尋は乱暴に立ち上がる。
「今言ったのは、冗談 だからなっ。先生に言うなよ、クソオヤジ」
 賢吾は楽しそうに声を上げて笑っていたが、千尋が障子を開けて部屋を出よう としたとき、突然、真剣な声で言った。
「お前の口ぶりを聞いていると、大蛇が天女を搦め捕ってるんじゃなくて、天女に大 蛇が搦め捕られているみたいだ。そういうのを、〈虜〉っていうんだぜ。地べたを這いずり回る大蛇が、天からふわふわと降りて きた天女にのぼせて、自分がどんな姿をしているのかもわからなくなっちまってる状態だ」
「……天女にイカれて、虜になっ た、ってことか」
「気をつけろよ。天女は慈愛に満ちた顔をしているが、意外に、薄情だ。地べたに転がる大蛇なんて見捨て て、あっさり天に帰っちまうかもしれない。龍と違って、大蛇は天に昇れないからな」
 自分などより、よほど賢吾のほうが ロマンチストのような気がした。千尋は単純に、頭に思い描いた絵を口にしただけで、賢吾のようなことを考えもしなかった。
「――……大蛇はそんなに、ヌルくないだろ。太い体で巻きついて、泣こうが喚こうが、天女を絶対に離さない。一度離したら、 二度と戻ってこないとわかってるからな」
「千尋、お前は極道に向いてるぜ。さすが、俺の息子だ」
 振り返って、賢吾 のニヤニヤと笑う顔を見たくなくて、千尋はこう言い置いて障子を閉めた。
「そんなこと言われても、嬉しくねーよ」
  本心は、そうではない。ただ、あの『クソオヤジ』の前で素直に感情を表に出すのは、癪だった。
 自分の部屋に戻ろうと、 中庭に面した廊下まで出た千尋は、ふと足を止める。中庭に、人の姿があったからだ。
 千尋はジーンズのポケットに指を引 っ掛けながら、表情を和ませる。中庭にいるのは、和彦だった。木陰に置かれたテーブルにつき、ぼんやりとグラスを手にしてい る。
 そっとしておこうかと思った千尋だが、その場から離れる前に和彦に気づかれ、手招きされると、満面の笑みを浮かべ て近寄らずにはいられない。
「――部屋で休んでるんじゃなかったの」
 サンダルを引っ掛けて中庭に下りた千尋が話し かけると、和彦に軽く睨みつけられる。
「ああ言わないと、お前の父親は続きをやる気満々だったぞ」
「オヤジ、絶倫だ からな」
「お前が言うな」
「俺を何歳だと思ってるんだよ、先生。オヤジの倍はがんばれるんだから」
「ぼくを殺す 気かっ――」
 はしたない会話をしてしまったと言いたげに、和彦が大仰に顔をしかめる。普段は落ち着いているくせに、和 彦のそういう表情が可愛いと思ってしまい、千尋は顔を背けて必死に笑いを堪える。
「話は済んだのか?」
 ようやく笑 い収めたところで、柔らかな声で和彦に問われる。頷いた千尋は、和彦の傍らに立ち、隙を見て髪に触れる。シャワーを浴びたば かりらしく、まだしっとりと濡れている。
「……うん」
「なんだかんだ言いながら、仲がいいな、お前と組長は」
「よくないよっ」
 ムキになる千尋とは対照的に、和彦は楽しそうに笑う。その笑顔に誘われるように千尋は腰を屈めて、和 彦の肩に額をすり寄せる。すると優しい手つきで頭を撫でられた。
「甘ったれ」
「いいんだよ。先生は、俺の特別なんだ から」
「いつまで、そう言ってくれるんだろうな」
「いつまででも。先生が側にいてくれるなら……」
 頬に和彦の 手がかかり、顔を上げさせられる。珍しく少し怖い目をして和彦は言った。
「軽々しく、そういうことを言うな。お前はまだ 二十歳で、この先、いくらだって出会いはあるんだ。自分で、人生の選択の幅を狭めてどうする」
 和彦のこういう部分は本 当に貴重だなと思いながら、千尋は我慢できずにしっかりと抱き締める。腕の中で和彦は声を上げた。
「こらっ、千尋、人の 話を聞いてるのか」
「聞いてる。説教している先生は可愛いなー、と思いながら」
「バカ」
 くっくと笑い声を洩ら しながら、ふと千尋は考えた。自分の体に刺青を彫るのではなく、いっそのこと、和彦の体に彫ってしまえばいいではないかと。
 自分が――父親の賢吾ですら、和彦の虜になっているのだ。なら、自分たちから逃れられないよう、和彦に所有の証を入れ てしまえばいい。それこそ、大蛇に搦め捕られた天女の刺青でも。
 さらりとこんなことを考える自分が、千尋は嫌いではな い。どう足掻いても、ヤクザの血は千尋の中から消えることはなく、ヤクザの気質もまた、千尋の一部なのだ。
 それを和彦 は把握しているのだろうか――。
 何げなく和彦の顔を覗き込むと、ドキリとするほど静かできれいな目に見つめ返された。
「――お前今、怖いこと考えてるだろ」
 和彦に指摘され、苦笑するしかない。
「怖い……かな。先生のことが好き すぎて困る、って考えてたんだけど」
「怖い。怖すぎる」
 真顔で言い切った和彦が、次の瞬間には柔らかな笑みを浮か べ、甘やかすように千尋の頭や頬を撫でてくれる。その手に簡単に翻弄されながら、心の底から千尋は実感した。
 やはり自 分は、和彦の虜だと。









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