と束縛と


- 邪 -


 真也が飲み物を買って戻ると、〈彼〉は窓に張り付いて外を見ていた。
 日は完全に落ちているが、積もった雪で白くぼんやりと浮かび上がっている景色を、どうやら気に入ったらしい。
 そういえば、と真也は思う。このホテルに到着してすぐ、外で少し雪に触れたいと言っていたのを、風邪を引くからと諭して、建物の中に入らせたのだ。
 できることなら、好きなだけ雪に触れさせたいし、すぐ近くのスキー場にも連れて行ってやりたいが、悲しいかな、真也には大人としての責任があった。悪い大人なりに。
「――飲み物買ってきたよ、和彦くん」
 真也が声をかけると、浴衣の上から羽織を着込んだ和彦が振り返る。風呂上がりで乾かしたばかりの髪がふわふわと揺れ、思わず真也は顔を綻ばせた。
「ありがとう、里見さん」
 窓際に歩み寄った真也が袋を広げてみせると、和彦は中を覗き込み、案の定、オレンジジュースの紙パックを取り上げた。真也は缶コーヒーを取り出すと、残りの飲み物は備え付けの冷蔵庫に仕舞う。
 和彦と並んでベッドに腰掛け、真也も窓の外の景色を眺める。
 昨日までの真也は、庁舎内で年末特有の多忙さに目を回しかけていた。朝早くから出勤し、夜更けまで残業をして、休日すらまともに取れなかった。当然のごとく、クリスマスに浮かれる暇もなかった。毎年のことながら、年末年始の休みに入るまで全力疾走をしているようなものだ。
 ただ、今年は少し様子が違った。ひたすら目の前の仕事を処理することに全精力を傾けてはいたのだが、そうするだけの立派な理由があった。
「……妙な気分だ。今頃みんな、まだ働いているのかと思ったら」
 ぽつりと真也が洩らすと、ストローに口をつけていた和彦がこちらを見た。おそらく無自覚なのだろうが、十七歳の少年とは思えないような色気のある流し目だ。和彦の家族や、同級生たちすら知らない――、いや、真也しか知らない、和彦のもう一つの顔だ。
「ぼくも、妙な気分。昨日まで必死に受験勉強していたのに、家庭教師に唆されて、家族に内緒で旅行に来ているなんて」
「そう言われると、ものすごく罪悪感が疼くな……」
 真也が大げさに胸元に手をやり、顔をしかめて見せると、和彦は軽やかな笑い声を上げる。真也はそっと目を細め、手櫛で和彦の髪を整えてやる。
 大変なことをしでかしたなと、心の中で呟く。それでいて、実は危機感を抱いていなかった。そういう気持ちを抱く時期は、とっくに過ぎてしまった。
 上司の息子である和彦の、家庭教師という名の世話係を任されてから、六年になる。その間に真也は、上司の信頼を勝ち得、三十歳にして省内で申し分のない地位にも就いており、部下もいる。その部下の一人が、和彦の兄だ。
 職場でも私生活においても、佐伯家には世話になり、濃密なつき合いをしている。そんな真也が、こうして和彦を旅行に連れ出しているとは、誰も想像すらしないだろう。真也自身、自分の大胆な行動に驚いているぐらいだ。
 しかし、後悔はしていなかった。罪悪感が疼くと言いはしたが、実際のところ、高揚感や感慨深さに比べれば、些細な感情だった。
「里見さん、いざとなると大胆だよね。受験生を一泊旅行に連れ出して、自分は、家族が入院したから、ってウソついて、仕事休むなんて。しかも、年末の忙しいときに」
「そこまでしないと、君とここには来られなかった。――おれたちのことを知っている人がいなくて、雪が見られる場所なんて」
 うん、と頷いた和彦が、はにかんだような笑みを浮かべる。
 医大受験を控えている和彦は、高校が冬休みに入ってから、家と予備校を往復するだけの生活を送っている。世間がクリスマスで浮かれていたときも、追い立てられるようにひたすら勉強をしていた。どの受験生もそんなものだろうが、和彦の場合、少々事情が違う。佐伯家の事情というものだ。
「明日の夜には、予備校の合宿のあるホテルにチェックインしないといけないけど、それまでは、自由でいられる。友達にはアリバイを頼んでおいたし、今の時期、うちの家族はみんな仕事で忙しいから、ぼくのことなんて気にかけないよ」
 そんなことを平然と言う和彦に対して、真也の胸が痛む。表情に出さないよう努めながら、缶コーヒーを飲む。
「……もっと気楽な気分で来たかったな。温泉は気持ちよかったけど、やっぱり、スキーをしたかった」
「君が受験を控えてなければ、思う存分滑らせたけどね。転んで骨折でもされたら大変だし、風邪も怖い」
「じゃあ、無事医大生になれたら、また里見さんに連れてきてもらおうかな」
 ここで和彦がまた、流し目を寄越してくる。自分以外の人間にそんな眼差しを向けてはダメだと、一度しっかり注意しておかないと、と考えながら、真也は淡く笑いかける。
「その頃には、同年代の子たちと行くほうが楽しくなってるよ。おれは、君が自由に動けない間の、エスコート役だ。君が大学生になって、あの家を出たら、一人でどこに行くのも自由だし」
「限られた範囲内での自由だけどね」
 苦々しげに和彦が呟く。横顔に浮かんだ翳りの表情に、真也は見入ってしまう。危ういバランスで保たれた繊細な存在に、いつの頃からか真也は強く惹かれ、理性では抑制できないまま、触れてしまった。
 子供であった和彦に、勉強以外にいろんなことを教えてきて、成長に伴い、利己的な欲望も伴った行為すら教えた。何度も罪悪感を抱きかけたが、その罪悪感を溶かすのは、和彦本人だった。自分が欲しがるのだから、与えられて当然なのだと、ゾクリとするようなしたたかさを覗かせて、和彦の目が訴えてくるのだ。
 もしかするとそれは、自分は悪くないのだと思いたい大人の身勝手さが生む、幻なのかもしれないが。
 真也が向ける視線に気づいたのか、紙パックをゴミ箱に捨てた和彦が首を傾げる。
「里見さん、どうかした?」
「いや……、大きくなったと思って。初めて会ったときの君は、本当に子供だったから。おれは、君が成長する大事な時期に関われたんだなって、不思議な感動を覚える」
「いつになく感傷的だ」
 まったくその通りだと、真也は苦笑を洩らしてから、まだ中身の入った缶をナイトテーブルの上に置く。ベッドに座り直してから、和彦の頬を撫でながら、目を覗き込む。
 和彦は、印象的な目の持ち主だった。初めて会ったときから、子供らしくない、喜怒哀楽を抑え込んだ静かな目をしていたのだ。ときおり示される柔らかな拒絶すら愛しくて、真也はずっとこの目を見つめ続け、気がつけば、魅了されていた。
 今の和彦は、拒絶ではなく、溢れるような情愛を両目に宿し、真也を見つめ返してくれる。
 和彦の眼差しに吸い寄せられるように、真也は顔を近づける。尊いものに触れるような気持ちで、和彦の唇にそっと自分の唇を重ねた。二度、三度と繰り返しているうちに、互いに唇を啄み合うようになり、和彦がそっと吐息を洩らしたのを待って、唇を吸ってやる。
 口づけの仕方も、真也が最初から教えた。和彦が高校に入学するのを待ってから、まずは子供同士の戯れのように唇を触れ合わせ、それから時間をかけて、快感を得られるような濃密な口づけが交わせるようになったのだ。
 和彦の甘い口腔に舌を侵入させ、感じやすい粘膜を舌先でまさぐる。上あごの裏を舐めてやると、微かに呻き声を洩らした和彦が、真也を求めてくる。舌先を触れ合わせ、緩やかに絡めていく。唾液を交わして喉を鳴らした和彦が、囁くような声で言った。
「オレンジジュースとコーヒーの組み合わせって、最悪だったかも……」
 真也は声を洩らして笑ってしまう。
「口、すすいでこようか?」
「いいよ。すぐに気にならなくなる」
 和彦がしなだれかかってきて、濡れたような目で真也を見上げてきた。そんな和彦を抱き締めながら羽織を脱がせ、もう一度唇を塞ぐ。浴衣の帯を解いてから、一緒にベッドに倒れ込んだ。
 和彦の上に覆い被さり、体重をかけないよう気をつけながら、髪や頬を撫でてやると、心地よさそうに目を細める仕種が愛しい。真也は、和彦が着ている浴衣の前を開く。途端に石けんの香りに鼻腔をくすぐられた。
 首筋に唇を這わせると、和彦が鼻にかかった声を洩らす。かつては、肌に触れるだけでくすぐったがって身を捩り、笑い声を上げていた和彦だが、もうそんな子供っぽい反応は見せない。微かに吐息を洩らし、肌に触れるたびに体が熱くなってきて、滑らかな肌が汗ばんでいく。
 真也は浴衣を脱がせながら、肩先に強く吸いついた。一瞬見せた真也の激情を、聡い和彦はすぐに読み取ったらしく、ひそっと囁いてきた。
「もう、大浴場に行かないから、大丈夫だよ。……服で見えないところなら、跡をつけても」
 思わず真也が顔を覗き込むと、あどけない表情で和彦が、頬にてのひらを押し当ててくる。そんなに自分はわかりやすいかなと思いながら、真也はありがたく、和彦の言葉通りにさせてもらう。
 和彦の体から浴衣と下着を奪い取り、まだ少年っぽさを強く残した、細身でしなかやな体に思う様、唇と舌を這わせる。和彦の体のすべてを、真也は知っている。何度となく、全身隈なく味わってきたと自負していた。
 和彦と体を重ねるとき、真也はいつも、見えない刻印を残しているつもりだ。今後、和彦が誰と肌を合わせ、愛し合おうが、里見真也という男が残した痕跡が消えないようにと。これは、大人の男が、庇護すべき少年に向けるにしては、ひどいエゴだ。しかし和彦はそれすら受け入れ、悦んでくれる。
 手首から肘へと舌先を這わせ、腕の内側の一際肌が白い部分に鬱血の跡を散らせる。腋にすら唇を押し当てると、和彦がビクンと体を震わせ、吐息を震わせた。片手で両足の間をまさぐると、和彦の欲望が震えながら身を起こしかけていた。
「もう少し待ってね」
 先端を指の腹で撫でながら語りかけると、さすがに和彦が恥ずかしそうに目元を染めた。
 刺激を期待したように、すでに尖っている胸の小さな突起を舌先でくすぐってから、そっと唇で挟む。優しく吸い上げてやりながら、もう片方の突起は爪の先で弄ると、和彦が控えめに、切なげな声を上げ始めた。
「はっ……、んっ、んうっ、んんっ」
 和彦の甘い声を聞いていると、意識しないまま表情が緩みそうになる。突起を強く吸い上げると、和彦の声が大きくなり、つい真也の愛撫も熱を帯びる。胸元にいくつもの小さな赤い跡を散らし、その様子を顔を上げて眺める。
 このとき感じる征服欲や独占欲に酔っては危険だと、真也は自分に言い聞かせながら、喘ぐ和彦の口腔に、誘い込まれるように舌を差し込む。すぐに和彦が吸いついてきた。
 真也は慎重に自分も浴衣を脱いでいき、和彦と同じく何も身につけていない状態となると、和彦の両足の間に腰を割り込ませ、高ぶった欲望同士を擦りつける。軽く腰を揺すった和彦が、ぎこちなくシーツを握り締める。
「大丈夫?」
 いつもの手順として真也が問いかけると、和彦が頷く。薄い腹部に唇を押し当ててから真也は、和彦の両足の間に顔を埋め、体つきだけではなく、まだ少年らしさを強く残した欲望を舐め上げた。
「はうっ……ん」
 甲高い声を上げた和彦が内腿をビクビクと強張らせる。怖くないと宥めるように、真也は滑らかな内腿の肌をてのひらで撫でながら、素直な反応を示す和彦の欲望を丹念に舐める。
「あっ……、里見さ――、あんっ、んんっ、い、い……」
 欲望の根本を優しく指で擦り上げ、焦らすように括れを舌先でくすぐっているうちに、先端から透明なしずくがこぼれ落ちる。それを待ちかねていた真也は、嬉々として唇で吸い取り、先端を優しく舐める。シーツの上に突っ張らせていた和彦の両足からふっと力が抜けていた。
 真也は、和彦の両方の膝裏を掴んで、腰の位置を上げる。和彦の欲望を口腔に含み、少しきつく吸引しながら舌を絡めると、和彦は啜り泣きのような声を洩らし、悩ましく腰を揺らし始める。真也の情熱は、欲望だけではなく、淡く色づいた頑なな内奥の入り口へも向けられる。
「ひあぁっ」
 内奥の入り口にも舌を這わせると、一声鳴いた和彦が、抱え上げた両足を爪先までピンと突っ張らせる。かつては泣いて恥ずかしがっていた愛撫だが、今は多分気に入っていると、真也は思っている。
 時間をかけて繊細な部分を唇と舌で蕩けさせ、赤く染まってきたところで、ゆっくりと指を挿入していくと、和彦が切なげに身を捩り、ただでさえ狭い内奥をきつく収縮させる。痛いことが何より苦手な和彦を驚かせないよう、この瞬間、いつも真也は緊張する。
「耐えられる?」
 ようやく顔を上げて真也が問いかけると、息を乱した和彦が唇だけの笑みを浮かべる。
「里見さんは、耐えられる?」
「……今の君を眺めていられるなら、いくらでも耐えられるよ」
 臆面もなく真也が言うと、和彦のほうが照れたように視線をさまよわせる。その間にも内奥で指を蠢かし、まだ熟していない肉を解していく。
 内奥に指を含ませたまま真也は、和彦の胸元や腹部に唇を押し当て、硬くなっている欲望も口腔で愛撫してやる。和彦の体に快感を与えながら、異物に慣れさせていく。確かに欲情で気持ちは逸るが、和彦の体が蕩けていく様を眺めるのは、精神的に満たされるものがある。真也は、そういう感覚を大事にしていた。自分が快感を得たいために、和彦と体を重ねているわけではないのだ。優先すべきは、和彦の快感だ。
 もう一度内奥に唇と舌を這わせ、和彦が喉を震わせて泣き出すほど感じさせてから、指の本数を増やす。真也が見下ろしている中、和彦は体をしならせ、精を吐き出した。
 瞬間の声は押し殺したが、喘ぐ息遣いは甘い響きを帯びており、指を呑み込んだ内奥も、喘ぐように淫らな蠕動を繰り返している。
「――和彦くん」
 真也は囁くように呼び掛けると、和彦は陶然とした表情で言った。
「いいよ、里見さん」
 指を挿入したときよりもさらに慎重に、真也は欲望を内奥に沈めていく。和彦は眉をひそめ、ときおりつらそうな顔をするが、それでも『痛い』とは言わなかった。貫かれて痛みがないとは思えない。真也のために我慢しているのか、それとも和彦にとって、この痛みだけは特別なものだと受け入れているのか――。
 そんなことを考える真也の胸の奥で、和彦に対する愛しさが吹き荒れる。
 いきなりすべてを挿入したりはせず、途中で動きを止め、和彦の髪や頬を撫でる。暑いのか、首筋には汗が伝い落ちていた。
 ほっと息を吐き出した和彦が、真也のてのひらに頬を寄せてくる。
「……すっかり慣れたね」
「里見さんとのセックス?」
「おれに甘えること」
 和彦が目を丸くして、真也を見上げてきた。
「ぼく、そんなに可愛げなかったかな……」
「最初の頃は、警戒心の強い猫みたいだった。何かあったら、おれが全部、ご両親に報告すると思ってただろ。だから、すごく行儀がよくて、よそよそしかった。おれが何を話しかけても、ロボットが受け答えしているみたいで」
「それは……、仕方ないよ。里見さんのこと、ぼくの親から面倒事を押し付けられた被害者だと思ってたから。なるべく、手がかからないようにしようって」
 懐かしい思い出に浸りながらも真也は、和彦から快感を引き出そうと手を動かす。緩やかに腰を揺すりながら、和彦の欲望をてのひらに包み込み、擦り上げる。短く息を吐き出した和彦が、心地よさそうに目を閉じた。


 枕元に腰掛けた真也は、飽きることなく和彦の寝顔を眺めながら、優しい手つきで髪を撫でてやる。さきほどまでぽつぽつと会話を交わしていたが、ふいに黙り込んだかと思うと、もう眠っていた。
 電車を乗り継いで移動したうえ、激しい行為も重なっては、さすがに眠気も強烈だったようだ。少し無理をさせたかなと、真也は反省する。
 いつまででもこの寝顔を見ていたいという誘惑に駆られている最中に、不粋な音が真也の意識を引き戻す。仕事用の携帯電話の着信音だった。本心では、この一泊旅行に持ってきたくはなかったのだが、後ろめたさがあるため、それはできなかった。
 一旦ベッドから離れ、デスクの上に置いた携帯電話を取り上げる。表示された名を見て、一度だけ心臓の鼓動が大きく跳ねた。
「――何かあったか」
 電話に出た真也が淡々とした口調で問いかけると、電話の向こうからほんの数秒だけ、不自然な沈黙が返ってきた。
『……すみません。大変なときに連絡して』
「いや、こっちこそ悪かった。忙しい時期に、個人的な事情で休んだりして」
『気にしないでください。ご家族が入院されたのなら、誰だって心配して、仕事どころではないでしょう』
 その言葉を聞いた真也は、皮肉っぽく唇を歪めていた。もっともらしい、実に常識的な発言だが、真也としては、電話の相手にこう問いかけてみたくて仕方なかった。
 そういう君は、家族が入院したら、本当に心配するのか、と。
 そんな痛烈な皮肉を口にできるはずもなく、真也は当たり障りのない、上司らしいことを尋ねた。
「問題は起きてないか、――佐伯」
『大丈夫です。里見課長』
 真也はイスに腰掛け、和彦が寝ているベッドに視線を向ける。部下の佐伯英俊と話しながら、その弟である和彦の寝姿を見守るというのも、妙な感じだった。
『あの……』
「うん?」
『ご家族の方の容態はいかがですか』
「ああ、今は落ち着いている。大騒ぎしたわりに、という感じで、安心していいのか、どうなのか。君らには迷惑をかけた」
 ウソをつくことにためらいを覚えない自分自身を、真也は得体の知れない生き物のように感じていた。善人であると主張するつもりはないが、社会生活を送るうえで、それなりに道徳的な人間であると思っていたのだ。しかし、和彦を深く慈しむために、まったく逆の人間になっていく。良心の呵責も感じずに――。
「……何があっても、側についていてやりたかったんだ。少しも、不安な想いを味わわせたくなかった。側にいたところで、わたしが何かできるわけではないんだが」
『本当に、ご家族を大事にされているんですね』
 大事だよ、と囁くような口調で答えると、再び電話の向こうから沈黙が返ってくる。もう電話を切ってもいいのかもしれないが、ふと気になって真也は問いかけた。
「まだ、課に残っているのか?」
『ええ、もう少し片付けておこうかと思って』
「――本当は、わたしに用があったんじゃないのか?」
 和彦と英俊は、年齢差はあるものの、見た目はよく似た兄弟だ。これまでは、ただそれだけだと思っていたが、寸前まで和彦と会話を交わし、今は英俊と電話で話しながら、会話の間の取り方もよく似ているなと感じた。慎重に言葉を選んでいる印象だ。
 無意識のうちに真也は口元を緩めていた。
「この時期、無理をするなとは言えないが、風邪はひくなよ。佐伯」
『……優しいですね、里見課長』
「ああ。今は、みんなに優しくしたい気分だ」
 心が満たされているから。
 英俊が何か言いかけた気配がしたが、ベッドの上で和彦の体がもぞりと動いたので、慌てて真也は立ち上がる。
「悪い。呼ばれているから、もう切っていいか?」
『はい。夜遅くに失礼しました』
 電話を切った真也はすぐにベッドに歩み寄る。和彦は寝返りを打っただけらしく、相変わらず穏やかな寝顔を見せていた。
 さきほど慌てて電話を切ったのは、もし和彦が目を覚まし、声を発することを恐れたためだ。電話越しに英俊に聞かれたら、大騒動になる。
 自分が責めを受けるのは、仕方がないと思えるが、佐伯家で今以上に和彦がつらい立場に置かれるのは望まない。
 いざとなれば、自分の家に住まわせてもいいが――。
 そう考えた真也は、苦笑しつつまた枕元に腰掛けた。甘い夢想だと、嫌というほど自覚はしていた。この先、いくらでも恵まれた人生を歩み、恵まれた人間関係を築くことができる和彦を、このまま束縛したいという衝動は、常に真也の中にあった。
 邪で歪な想いで、和彦だけは苦しめたくなかった。せめて和彦には、優しい大人でいたい。それ以外の人間には、どれだけ最低で独善的な男だと罵られてもいいとすら思っている。
 頬にかかった和彦の髪をそっと摘み上げると、ふっと和彦が目を開けた。意識のはっきりしない目が、ぼんやりと真也を見上げてくるので、笑いかける。
「和彦くん、どうかした?」
「……怖い顔してる、里見さん……」
 内心ドキリとした真也は、咄嗟に何も言えなかった。すると和彦が、ふわりと表情を和らげる。
「仕事をズル休みしたこと、気になってるんだろ」
「気になってたけど、君の寝顔を見ていたら、どうでもよくなった」
「悪い大人だなー」
 一緒に寝ようというように、和彦が布団の端を持ち上げたので、甘い誘惑に逆らえず、真也は身を滑り込ませる。こう呟きながら。
「――そうだな。おれは、悪い大人だ」









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