と束縛と


- 本 -


 医大生時代に読んだ一冊の本のことを思い出したのは、自宅の本棚の前に立っていたときだった。
 気になった本はとりあえず買い込む癖がある和彦だが、一冊一冊にさほど愛着を持つタイプではなく、本棚が窮屈になってきたなと感じたら、古いものから処分していく。ときおり、処分したあとでまた読み返したくなる場合があるが、そのときは素直に買い直している。
 並んだ本の背表紙を指先でなぞりながら、和彦はぽつりと洩らした。
「なんてタイトルだったかな……」
 読んだのは、十年ほど前だ。学生として忙しく過ごしながらも、当時は乱読ぶりに拍車がかかっており、時間ができると図書館に通ったり、大学の帰りに書店に立ち寄っていた。抱えた人恋しさを紛らわせるのに、読書は都合がよかったのだ。
 それに、実家から送金される生活費を何に使っているか、ときおり細かくチェックされることがあり、学生らしく本に費やすのは無難であったというのもある。
 今は、美容外科医として大手のクリニックに勤めており、収入的にも時間的にもそこそこ余裕がある生活を送っている。当然本だって、金額を気にすることなく、好きなだけ購入している。
 昔読んだ本を急にまた読みたくなったが、とっくに処分してしまっており、そのうえタイトルも思い出せない。では、どうするかといえば――。
 クリニックが休みであるこの日、和彦は暇を持て余していた。
 本棚の前をうろうろと行き来してから、今度は窓に歩み寄る。日曜日の昼下がり、部屋に閉じこもっているのがもったいなくなるような天気のよさだった。ただし、気温は低い。
 寒いからと部屋にこもったままなのも不健康で、外出する理由ができてよかったのかもしれない。
 和彦は慌ただしく着替えを済ませ、車のキーと財布を掴んで玄関に向かう。携帯電話はどうしようかと思ったが、現在のところ〈独り身〉である和彦には、連絡を心待ちにする相手はいない。置いていくことにためらいはなかった。
 本を探しに、大きな書店に向かうつもりで車に乗り込んだが、すぐに気が変わる。新刊や、ここ数年のうちに出版された本ならともかく、十年前に読んだ本だ。しかも、専門書ときている。
 向かう先はなんとなく決まり、和彦はさっそく車を出した。


 車を走らせながら、ある感情が胸に広がっていた。懐かしさと、甘さを伴った胸苦しさ。どうしてこんな感情に陥るのか、和彦自身、不思議で仕方ない。
 医大生時代、和彦が一人暮らしをしていたのは、大学から二駅しか離れていない場所だった。治安がよく、通学も便利で、父親が借りてくれたワンルームのマンションもきれいだった。近所には商店街もあったが、和彦がもっぱら利用していたのは、さらに近所にあったコンビニだった。
 充実した住環境に支えられて、大学とマンションを往復するだけの生活を送っていた――とは言わない。一気に世界が広がった和彦は、里見が言っていたとおり人間関係も広がり、ときには深い仲にもなっていた。
 当時のことを思い出し、意識しないまま口元が緩む。嫌な記憶はほとんどない。
 誰も彼も、常に和彦に新鮮な刺激を与えてくれた。感情的に振り回されることもあったが、今となってはいい思い出だ。
 よく利用していた駅の前を通り過ぎ、空いている駐車場をようやく見つけて車を入れる。
 駐車場から歩道に出た途端に懐かしさに襲われる。和彦は歩きながらきょろきょろと辺りを見回していた。研修医となってからは引っ越してしまい、近くを通りかかることすらなくなってしまった場所だ。
 講義を終えてから、駅に着いて真っ直ぐマンションに帰るのではなく、わざわざ遠回りをしては、ここを通っていた。美味しい定食屋や総菜店があったからという理由も少なからずあったが、最大の理由は、古書店が何軒も並んでいたからだ。
 医大が近いということで、教科書や参考書を多く扱う店もあったし、一般書やマンガを扱う店、学生では到底手が出せない高額の希少本専門の店もあった。
 学生時代と変わらず古本屋が並んでいる一角を見て、和彦はほっと息を吐き出す。一気に時間が引き戻されたようだった。
 懐かしさから、特に足繁く通っていた一軒に入る。ここは、医学書以外にもさまざまな専門書を扱っており、興味をそそられた和彦は、ときおり他の分野の専門書が並ぶ棚の前に立ち、背表紙を目で追っていた。
 当時の自分の行動をなぞるように、ある棚の前へと立つ。日曜日の午後ということも関係あるのか、本を選ぶ客は多く、空いているスペースを探すのも苦労する。
 和彦は棚を見上げていて、スーツ姿の男性客がふと視界に入った。何げない光景だったが、思い出が蘇り、切なく胸が疼いた。
 そういえば、この古書店で出会ったのだ――。
 懐かしい思い出を胸の奥でまさぐろうとしたとき、前触れもなく肩を軽く二度叩かれた。ハッとして振り返り、目の前にいかめしい表情で立っている人物の顔を見て絶句する。驚く和彦の反応に満足したのか、その人物は目元を和らげた。
 一見、堅物めいた頑なな表情を保ち、人を寄せ付けない厳格な雰囲気を漂わせているが、その実、人を甘やかすのが好きな男(ひと)だった。十年近く経っても、それは変わっていないようだ。
 他人の耳を気にするように周囲を見回してから、その人物――岩代(いわしろ)は抑えた声で言った。
「久しぶりだ、佐伯くん」
 話しかけられたことに安堵しながら、素直な気持ちで和彦は笑みを浮かべる。
「――……本当に、〈先生〉」
 店内で話し込むわけにもいかず、二人は外へと出る。
 歩道の隅に移動すると、改めて和彦は、目の前に立つ岩代を見つめた。察しのいい岩代は、白髪の目立つ頭に手をやりながら表情を緩めた。目元に深くシワが刻まれ、それが和彦には印象的だった。
「老けただろう。……いや、君と初めて会ったときから、俺はすでにおじさんだったな」
「渋いナイスミドルでしたよ」
 和彦としては本気で言ったのだが、岩代は楽しげに声を洩らして笑う。
「社会に出て揉まれると、君でも冗談を言えるようになるんだな。そうか。あのときは医大生だったが、今は立派な医者になったんだな。君のほうこそ、〈先生〉だ」
「立派かどうかはともかく、美容外科医をしています」
「救急外科医を希望していたんじゃなかったか?」
「……体力的にも精神的にも、柔なぼくにはキツくて……。情けない話です」
「いいじゃないか。適材適所という言葉がある。君が選択したんなら、情けないなんていうことはない」
 ここまで会話を交わしてから、込み上げてくる懐かしさに和彦は吐息を洩らす。当時まだ学生だった自分と、すでに四十半ばだった岩代との会話も、こんな感じだったなと思ったのだ。
 医大生としての生活は大変で、だが家族に愚痴をこぼすことは許されず、同期の友人たちとは苦労を分かち合うことはできても弱みは見せられなかった。そんな中で出会った岩代は、和彦の身近にいた唯一の頼れる大人の男だった。
 和彦は、たった今出たばかりの古書店を見遣る。
「先生は、まだここに通っていたんですね……」
 岩代は、知り合った当時、すでに大学教授という肩書きを持っており、この古書店で何度も顔を合わせているうちに会話を交わすようになった。学生の身で、大学は違えど教授という立場にある人を〈先生〉と呼ぶのは自然なことで、それがいつの間にか癖となっていた。
「通うというほどじゃないが、気が向いたら、たまに。大学を移ったりしたから、頻繁に足を運ぶというわけにもいかなくなった」
「ぼくは、大学を出て以来です。欲しい本があって、急にここのことを思い出したから、懐かしくなって」
「だとしたら――多少なりと、まだ縁は続いていたということかな」
 ふっと岩代と視線が合い、流れる空気が変わりそうになる。和彦は密かにうろたえ、慌てて視線を逸らした。
 和彦にとって岩代は、最初は確かに頼り甲斐のある相談相手だった。どこか近寄りがたい風貌と雰囲気とは裏腹に優しくて面倒見がよく、古書店でたまたま顔を合わせれば、近くの喫茶店に移動してコーヒーを飲みながら話を聞いてもらい、そこからの流れで、食事もするようになった。
 前につき合っていた恋人と別れ、人恋しさを持て余していた和彦には、岩代はあまりに大人で、包容力がありすぎた。
 甘やかされ、甘えているうちに、自然な流れで体を重ねるようになっていた。
「立ち話もなんだから、どこかに入らないか。……いつも行っていた喫茶店は、何年も前になくなったんだが」
 頷いた和彦は、岩代について歩きながら、かつて喫茶店があった場所に目を向ける。女性向けのアクセサリーショップになっており、通りかかるたびに岩代がどんな顔をして眺めていたのか想像して、和彦はくすりと笑っていた。
 ファストフード店に入ってホットコーヒーを買うと、二階に上がる。和彦はともかく、岩代は大柄な体を押し込めるようにして小さなテーブルにつく。
 客が多くにぎわっている分、あまり他人に聞かれたくない話をするには、うってつけの店だった。
 改めて岩代と向き合うと、いまさらながら気恥ずかしいものがあった。数少ない、和彦の何もかもを知っている人物だ。店内の暖房がよく利いているせいもあるが、じわじわと顔が熱くなってくる。
 意識すると、会話のとっかかりを掴むのも難しい。落ち着きなく視線をさまよわせていた和彦に対して、岩代は過去を懐かしむように目を細める。そして、両手で包み込むようにカップを持った。
 和彦はこの瞬間、十年近い間に起こった岩代の変化を知った。
 和彦が見つめるものに気づいたのか、ああ、と声を洩らした岩代は、自分の左手を見下ろした。薬指には銀色のリングが光っている。
「……再婚、されたんですね」
「一年前だ。まさか、この歳で出会いがあるなんて思わなかった」
 奥さんはどんな人なのか、聞く権利は自分にないように思え、和彦は口ごもる。岩代とはコーヒーを飲もうと思っただけで、後ろめたい感情があるわけではなかったが、これ以上一緒にいてはいけない気がした。
 早くコーヒーを飲んで立ち去ろう。和彦はそう自分に言い聞かせ、カップに口をつけようとする。そのタイミングで岩代が切り出してきた。
「――君に聞けずじまいで、ずっと気になっていたことがある」
「なんですか?」
「どうして俺は、君に捨てられたんだろうかって。まあ、二十歳そこそこの学生が、おじさんの相手に飽きたと言われたら、それまでだ。だけどあのとき、君が言ったのは――」
「勉強に集中したい」
 それだ、と岩代は頷く。
 ウソや誤魔化しではなかった。実家の手前、不甲斐ない成績を取るわけにはいかなかったため、勉強に集中しなければならなかったのだ。しかし岩代であれば、和彦のそんな事情を汲み取り、いくらでも配慮してくれただろう。事実、岩代との関係は、和彦の生活の中で負担にはなっていなかった。
 当時の自分は何を思っていただろうかと、記憶をたぐり寄せながら和彦は、意識しないまま岩代の左手の薬指のリングを眺めていた。
「先生には感謝しているんです。ぼくに優しくしてくれて、日常の細々としたことまで面倒を見てもらって……。でもなんだか、まるで、ぼくの――」
 和彦が口にした言葉を聞いて、岩代は目を見開いたあと、他に浮かべる表情がないとばかりに苦笑した。
「おじさん相手は飽きたと言われたほうが、まだマシだったかもしれない」
「……すみません。自分でも、あのときは屈折していたと思います」
「今は? 今はもう、平気なのか?」
 心底心配そうに尋ねられ、やはり岩代は優しい人だなと思う。大人と子供の境にあった和彦には、岩代の優しさがひたすら甘かった。
 イスの硬い背もたれに体を預け、短くため息をつく。
「ぼくももうすぐ三十歳になりますから、平気なのかどうかはともかく、〈一人〉でなんとかやれてます。これでもけっこう、要領はよくなったんですよ」
「それが本当なのか、俺にはもう確認することができない。だから、その言葉を信じるしかないな」
「信じてください」
 コーヒーを飲み終わったが、まだ別れがたいという空気を互いに感じ取る。年上らしい配慮か、岩代のほうからこう切り出してくれた。
「久しぶりなんだから、古本屋巡りにつき合ってくれ」
「……ああ、そうだった。欲しい本があるから、ここまで探しに来たんですよ、ぼく」
「じゃあ、のんびり見てまわるか」
 目元のシワを深くして岩代は笑った。つられて和彦も声を洩らして笑いながら、促されるままテーブルを立った。






 書斎に新たに運び入れた本棚に、床の上にまで溢れた本を詰め込んでいた和彦だが、いつの間にか作業の手を止めていた。
 本棚に並べたある本を目にして、岩代と最後に会ったときのことを思い出す。最初の目的であった本をとうとう見つけ出すことはできなかったが、岩代に勧められて買った数冊の本は、今もしっかり本棚に並んでおり、この先も処分するつもりはなかった。
 岩代と古書店の前で別れてから何日かは、切ない感傷に苦しめられたりもしたが、一か月もしないうちに特別な出会いがあったのだ。
「――やけに色っぽい目で、自分の部屋の本棚を眺めているな、先生」
 突然、揶揄するように声をかけられ、和彦は肩を揺らす。開いたままのドアのところに、いつの間にかワイシャツ姿の賢吾が立っていた。
 いつやってきたのかと、問うだけ野暮だろう。賢吾には、好きなときにこの部屋を訪れる権利がある。
「そうか?」
「そうだ。並んだ本の中に、男からもらったラブレターでも挟んであるんじゃねーかって、思わず下衆な勘繰りをしたくなる」
 和彦は呆れて賢吾を一瞥する。
「……あんたのその嫉妬深さは、本気か冗談かわからないから、怖い」
「俺はいつだって本気だぜ。本気で、先生の思い出にある男たちに嫉妬している」
 軽い口調で物騒なことを言いながら、賢吾が歩み寄ってくる。あっという間に和彦は背後から抱き締められた。首筋に唇が押し当てられ、背筋に疼きが駆け抜けた。
「――で、何を見てたんだ」
 忌々しいほど魅力的なバリトンに、耳元で囁かれる。大蛇の化身のような男の執着心と独占欲の強さは本物だった。
 和彦は口元に淡い笑みを刻むと、本棚に目を向ける。
「あんたの息子を初めて見かけたとき、ここに並べてある本を読んでいたなと思い出していたんだ」
 これはウソではなかった。その本がたまたま、岩代に勧められたものだったというだけだ。明らかに余計なことなので、あえて賢吾には説明しないが。
 ふうん、と意味ありげに声を洩らした賢吾が、再び首筋に唇を押し当てた。
「本好きの先生としては、つまらなく感じることはないか?」
「どういう意味だ」
「身近にいないだろ。語り合える同好の士が。千尋は論外だし、俺も若い頃ならともかく、今は滅多に読まない。三田村は、新聞はよく読むが、本は苦手らしい。いつだったか、先生が本宅に置いていた本を開いていたが、修行僧みたいな顔をしていたぞ」
 父子はともかく、三田村は意外だなと、和彦は小さく噴き出してしまう。笑う和彦に気をよくしたのか、抱き締めてくる腕の力がわずかに強くなった。
「そういえば……、知っているか、先生――」
 ふいに賢吾の声音が変わる。
「総和会の南郷が、ああ見えて読書家なんだそうだ」
 思いがけず出た南郷の名に、和彦は笑みを消す。
「南郷さんが?」
「俺も実際目にしたわけじゃなく、総和会の本部や総本部に出入りしていて、そういう話が耳に入る。ときどき本屋から、紙袋を提げて出てくるらしいぞ。……どんな本を読んでいるのやら」
 楽しげに語る賢吾の声に、ゾクリとするような冷やかさを感じるのは、決して気のせいではないだろう。賢吾の手の上に自分の手を重ね、悪戯心から少しだけ大蛇の尾を刺激してみた。
「そんなことを言い出すなんて、ぼくと南郷さんを含めた読書会でも開くつもりか」
「俺がそんなにお人好しだと、本気で思ってるのか? 嫉妬深い俺は、先生が、ある日南郷から本好きという共通の話題を振られて、絆(ほだ)されるんじゃねーかと心配してるんだ」
「なっ……」
 それこそ、自分がそこまでお人好しだと思っているのかと、ムキになって反論しようとした和彦だが、賢吾がくっくと笑い声を洩らし始めたので、なんとなく気勢を殺がれてしまう。
 身を捩り、抱き締めてくる腕の中でなんとか体の向きを変えると、すかさず唇を塞がれた。柔らかく互いの唇を吸い合っていると、口づけの合間に賢吾に問われた。
「……ところで先生、本当に、本にラブレターなんて挟んでねーだろうな」
「疑うなら、全部調べたらどうだ。ぼくは、かまわないけど」
 むしろ、とっくに調べていて、実は鎌をかけられているのではないかとすら思えてきたが、嫉妬深い男をこれ以上刺激するような発言は控えておく。一方の賢吾のほうも、あまりしつこくして〈オンナ〉の機嫌を損ねるのはマズイと思ったようだ。
 和彦の後ろ髪を手荒く撫でながら、こんなことを提案してきた。
「これから、外にメシを食いに行かねーか。先生の食いたいものでいいぞ」
「それは……、ぼくの機嫌を取ってるのか?」
「おう、取ってるぞ。今ならどんなワガママでも聞いてやる」
 そのわりには偉そうだなと思いつつ、和彦は笑って頷いた。









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