普段よりスピードを上げてランニングマシーンで走りながら、和彦は正面の大きな窓の向こうに広がる景色を一心に見据えていた。当然のように、いくら走ったところで景色は変わらない。
体を動かすだけなら、スポーツジムで問題はないのだが、そこに、外の空気も吸いたいという希望が加わると、なかなか難しい。
せめて、マンションの周囲でジョギングぐらいしたいと思っていても、賢吾に切り出す前に返事は予測がついた。わかった、と返事をしたあと、毎朝組員と一緒に走ればいいと、当然のように言うだろう。
「――先生、心拍数がちょっと上がりすぎじゃないですか」
突然、傍らにやってきた人影に話しかけられ、ぎょっとする。いつの間に側にやってきたのか、中嶋がランニングマシーンのパネルを覗き込んでいた。
答えるには息が上がっており、和彦はひとまずマシーンを降りてから、肩で大きく息をする。滴り落ちる汗を拭ってようやく、中嶋と向き合った。どうやら中嶋のほうも、すでに体を動かしたあとらしく、Tシャツが汗で濡れている。
「ちょっと考え事をしていたら、いつもよりペースを上げすぎたみたいだ」
「俺も、ウェイトのほうでがんばりすぎましたよ。……体を動かしていないと、いろいろと考え込んでしまうんで」
ゆっくりと腕を回しながら、中嶋は笑う。いつもと変わらない表情に見えるが、和彦はなんとなく身構えてしまう。
そんな和彦に対して、中嶋は自然な口調でこう切り出した。
「――先生、ラウンジで休みませんか?」
「ああ……、そうだな」
ぎこちなく応じた和彦は、汗を拭きながら中嶋とラウンジに移動した。
仕事抜きで中嶋と相対するのは、正直きつい。先日、接待されたときも、中嶋の反応がひどく気になったのだ。和彦相手に感情を吐露する男でもなく、ただ視線だけが突き刺さる。だがこれは、和彦の後ろ暗さの表れでもある。
中嶋は、秦を慕っている。ホスト時代の後輩と先輩、ヤクザとヤクザのごく側に身を置く男。何より、中嶋にとって秦は恩人だ。筋者らしい表情で、秦は自分の手札になると言いながら、本当にそうできるのか、怪しいものだ。
中嶋と秦の奇妙な結びつきを知っていると、キスシーンを見られたのは非常にマズイ。だから和彦は、スポーツジムを利用するのも、いつもより早めの時間にしたのだ。さすがに中嶋と、どんな顔をして会えばいいのかわからない。
若いビジネスマンのような外見ながら、実は切れ者のヤクザである中嶋に、あれは秦の冗談だと話しかけるのも、わざとらしい。
秦が何かしらフォローしていればいいが――。
頼んだコーヒーを啜った和彦に、中嶋は静かな迫力を湛えた眼差しを向けてくる。そのくせ口元には笑みを刻んでいるのだ。
中嶋にしてみれば、長嶺組の組長のオンナが、自分の慕う人物をたぶらかしていると思っているのかもしれない。
自分で自分を追い詰めるようなことを考えた和彦は、居たたまれなさから、つい視線を周囲へと向ける。すると、こちらの緊張が伝わったのか、笑いを含んだ声で中嶋が言う。
「先日の秦さんの行動なら、別になんとも思っていません。あの人はホストをしていた頃から、気に入った相手には、ボディータッチが激しかった。キスなんて、それこそしょっちゅう、していましたよ。……まあ、あんなことをする秦さんは、久しぶりに見ましたけど」
秦にされた行為がキスだけなら、和彦のこの言葉に心底安堵しただろう。だが現実は、和彦は秦と、危うく関係を持ちそうになった。あれは、ボディータッチが激しかったというレベルのものではない。
中嶋は秦のそんな面を知っているのか、そのうえで鎌をかけられているのかと、和彦は疑心に陥る。そこで、反対に探ってみることにした。
「……ということは、君もされたのか。あの傍迷惑な行為を」
和彦の問いかけに、中嶋は苦みを感じたように唇を歪める。
「どうやら俺は、秦さんの好みじゃないらしい。あの人は、冗談に対して、ムキになって反応する人がタイプなんですよ。男女関係なく。俺はそういうのは苦手なんです。ホストをしていたから、演技として相手の会話に乗ることは得意だけど、素で反応して見せろと言われたら、本当に困ってしまう」
「君のそういうところが気に入っているから、彼は助けてくれたり、今もつき合いがあるんじゃないのか」
「どうでしょうね。俺が、秦さんのことを突っ込んで知りたがらないから、気楽なのかもしれません。俺はこれでも、総和会のヤクザですからね。名前を出せば、あの人の番犬にはなる」
「そんな――」
「俺も、秦さんを手札にするとか企んでいるんですから、お互い様ですよ。そう思われていたとしても」
ふと気になることがあり、率直に尋ねた。
「彼は、手札にするには危険すぎる人物だと、思ったことはないか?」
この瞬間、中嶋の目に鋭い光が戻ったことに和彦は気づいた。
「――秦さんについて、何か知っているんですか?」
「あっ、いや……」
見えない刃を喉元に突きつけられたような圧迫感を覚え、和彦は思わず姿勢を正す。
「聞きたいのは、ぼくのほうだ。君は彼とつき合いが長いから、ウソか本当かはともかく、いろいろと話を聞いているんだろう。例えば……ホストになる以前のこととか」
「先生がどうしてそんなことを知りたいのか、俺はむしろ、そっちのほうが気になりますね」
これ以上、中嶋から物騒な眼差しを向けられたくない和彦は、咄嗟にこう口にした。
「……気にしているのは、組長だ。どうしてか、なんて聞くなよ。ぼくにもわからないんだ」
へえ、と声を洩らした中嶋の顔は、切れ者のヤクザのそれだった。
「秦さん、いつの間にか、長嶺組長に気にかけられるような存在になっていたんですね」
「みたいだな。……先日、組長が彼の店で飲んだときにぼくも一緒にいたが、そのあと、何かしら二人の間でやり取りがあったんだろう」
賢吾と秦が何をしようが、勝手にやってくれという思いがある反面、小さな棘のような疎外感が、胸の奥でチクチクと痛んでいる。そんな自分に、和彦は驚いていた。ヤクザの世界の事情に関わりたくないという考えとは、この疎外感は相反している。
秦が日本人でないかもしれないという、鷹津からもたらされた情報は、当然、賢吾の耳に入れてある。インパクトは十分だが、だからどうしたと問われれば返事に詰まる情報だ。それを賢吾はどうやって処理するか、和彦はずっと気にしていた。
中嶋も思うことがあるのか、足を組み、じっと何かを考え込む表情となる。
「さっきの先生の質問ですけど――、ホストになる前、秦さんが何をしていたか、いろいろ聞かされましたよ。留年続きの大学生だったとか、海外を放浪していたとか、親の仕事を手伝っていた……。あとは、女のヒモをしていた、ですね」
「のらりくらりと躱された、というところか」
「あの人なら、全部本当だとしても驚きませんが、全部ウソかもしれませんね」
小さく声を洩らして笑った中嶋だが、目だけは変わらず鋭い光を湛えている。普通の青年を装うことが上手い中嶋も、秦の話題になると、地が出てしまうようだ。
「それでもいいんですよ。俺にとっては、ホストクラブなんかで先輩風を吹かして、生意気なガキの面倒を見てくれて、今も腐れ縁が続いている程度のもので。過去は、どうでもいい」
「――厄介な過去を背負っていたとしても?」
意識しないまま、和彦はつい鋭い問いかけをしてしまう。呼応するよう
に、中嶋から鋭い眼差しを向けられた。
「先生やっぱり、何か知っているんですね」
「いや、そういうわけじゃ……」
「ついでに聞かせてください。先生と秦さんの間に、何があったのか」
和彦は視線をさまよわせ、汗で湿っている髪を掻き上げる。
「……彼に利用されただけだ。ヤクザでもない彼にとって、長嶺組長と話をするためには、ぼくに近づくのが手っ取り早かったんだろう。ただ、危険な賭けだと思う。長嶺組長が、〈自分のもの〉に指一本でも手を出されたと知って激昂する人間だったなら、今頃彼は――」
「指一本でも、手を出されたということですか」
外見は立派な青年である中嶋だが、こうして秦のことを話していると、和彦はどうしても、厄介な〈女〉を相手にしている錯覚に陥る。女の神経を逆撫でないよう気をつかいながら、彼とは深い仲ではないのだと説明しているのは、ヤクザの〈オンナ〉だ。
自分の想像は悪趣味だなと、和彦は心の中で自戒する。この悪趣味な想像を断ち切るために、単刀直入に尋ねた。
「君は、彼――秦さんに、性的な関心があるのか?」
和彦の問いかけは意外だったらしく、中嶋は驚いたように目を見開いたあと、肩を震わせて笑い始めた。中嶋のその反応を眺めながら和彦は、自分の考えが的外れなものだったのだろうかと、顔を熱くする。今の生活に毒されてしまったのかもしれない。
「変なことを聞いて悪かった……」
「いえ、面と向かって初めてそんなことを言われたので、驚いて」
さんざん笑ったあと、中嶋はスッと無表情に戻り、遠い目をした。
「……あの人は、あまりに掴み所がなくて、ヤクザとは違う怖さがあるんです。そこが魅力といえば魅力ですが、あの人相手に甘い感情は――」
和彦は片手を上げ、話を打ち切る。
「もう、いい。別に、君の繊細な部分に踏み込みたいわけじゃなかったんだ」
「先生は物腰が柔らかいから、つい余計なことまでしゃべってしまいますね。こんな仕事をしていると、気恥ずかしくなるような話題とは無縁なので、俺も油断してしまいました」
ようやく中嶋がいつもの笑みを見せたので、和彦は安堵する。ちょうどコーヒーも飲み終えたので、シャワーを浴びに行くことにしたが、中嶋も同時に立ち上がる。
示し合わせたわけではないが、行動をともにする流れになっていた。
着替えを取りに一旦更衣室に向かい、ロッカーは別々なので中嶋とは出入り口で別れる。
和彦が借りているロッカーがある列に客は二人しかおらず、着替えながら世間話をしていた。軽く会釈して傍らを通り、自分のロッカーを開ける。
バスタオルや替えのTシャツを取り出しているうちに会話の声は遠ざかり、和彦一人となったが、入れ替わるように足音が聞こえ、こちらに誰かが近づいてくる。和彦は開けたロッカーの扉から顔だけを出して、足音の主の姿を確認した。
「中嶋くん……」
傍らに立った中嶋が手ぶらであることを訝しみつつ、声をかける。
「どうかしたのか。これからシャワーを浴びに――」
「先生、さっきの俺の発言は訂正します」
「えっ?」
「秦さんに甘い感情はないけど、興味はあります。特に、あの人の感触に」
どういう意味かと問いかける間もなかった。いきなり中嶋に肩を掴まれて押される。眼前に中嶋の顔が迫ってきて、唇を塞がれた。中嶋の思いがけない行動に和彦は目を見開くが、奇妙なほど冷静でいられた。
中嶋は、乱暴ではなかった。何かを確かめるようにゆっくりと丁寧に和彦の唇を吸い、和彦はその中嶋の目を、間近から覗き込む。こんな場所で、突拍子もない行為に及んでいるにもかかわらず、中嶋の目は静かだった。おそらく和彦も、同じような目をしているだろう。
何度も唇を吸われているうちに、和彦もつい中嶋の唇を吸い返す。
欲情は刺激されないが、不快ではないキスだった。心地いいと表現していいかもしれない。漠然と、秦とのキスに似ていると思ったところで、中嶋の目的がわかった気がした。
ロッカーの列の向こう側で人の話し声がする。それをきっかけに唇が離れ、うつむいた中嶋が息を吐き出した。
「……まあ、こんなことをして、わかるはずがないですよね。あの人の感触が」
「悪い。ぼくが余計なことを吹き込んでしまったから……」
「被害者である先生が謝らないでください。下手をしたら、俺は長嶺組長の前で、落とし前をつけなきゃいけない」
中嶋は自己嫌悪に陥っているようだが、もしかすると演技かもしれない。そんな穿った見方をする自分に、和彦のほうが自己嫌悪に陥りそうだ。
中嶋の肩をポンポンと叩き、声を潜めて話しかけた。
「やましいことはしてないんだから、別に話す必要はない。君は秦静馬という男のことが知りたくて、ぼくは少しだけ彼のことを知っているから教えた。――それだけだ」
顔を上げた中嶋が苦笑する。
「どうして、この間まで堅気だった先生が物騒な男たちに大事にされるのか、初めてわかった気がします」
「ぼくは、ズルイ人間だからな。どこでも上手く立ち回れる。……自分の実家以外では」
最後の言葉はほとんど囁きに近く、中嶋には聞き取れなかったかもしれない。
何事もなかった顔をして声をかけられた。
「先生、シャワーに行きませんか?」
「……ああ」
頷いた和彦は、ロッカーから着替えとバスタオルを取り出した。
パーティー用の飾りつけも買ってくるべきだったかもしれないと、まるで子供のように嬉しそうにプレゼントを開ける千尋を見ながら、そんなことを和彦は考える。
「すげーっ、先生から誕生日プレゼントなんて、初めてもらった」
「……語弊のある言い方をするな。一年前の今頃、ぼくとお前はまだ知り合ってなかっただろ」
「そうだっけ?」
「そうだ」
応じながら和彦は、自分の言葉に奇妙な感慨深さを覚える。これだけ濃密なつき合いをしている千尋と、知り合ってまだ一年も経っていないのだと。それは千尋だけでなく、今、和彦の身近にいる男たちに対しても同じことがいえる。千尋よりもさらに、知り合ってからの期間は短い。
「――……ぼくがいままでつき合ってきた男の中じゃ、お前が一番長いかもな。十歳も年下とつき合うのは初めてで、一週間ももたないんじゃないかと思っていたが……」
「予想を超えて、俺とのセックスがよかった?」
和彦が誕生日プレゼントとして贈ったネクタイを首に締めながら、千尋がニヤリと笑いかけてくる。そんな千尋をわざと冷めた視線で一瞥してから、和彦は顔を背けてため息をつく。
「まあ、若さが〈売り〉だからな」
「何、先生っ。そのグサッとくる言い方っ。まるで俺が、若いだけが取り柄みたいじゃん」
「若いといっても、今日で二十一だろ。十歳差、というのが新鮮でよかったのに――」
悲鳴を上げた千尋が勢いよくソファから立ち上がり、和彦の隣へとやってくる。
締めたネクタイがどことなく、犬っころの首につけられた首輪に見えなくもない。千尋の必死の表情も相まって、たまらず和彦は噴き出す。
「お前、可愛いな……」
「先生、今、俺のことを、犬っころみたいだと思っただろ」
その言葉を肯定するように、遠慮なく千尋の頭を撫で回す。そして、柔らかな口調で告げた。
「ぼくの前では、意識してそんなふうに振る舞ってくれているんだろ」
次の瞬間、千尋は年齢以上に大人びた表情となり、ネクタイを解く。汚してはいけないと言わんばかりに、きちんと箱に仕舞い、ソファの端に置いた。
千尋の誕生日である今日は、和彦はほぼ千尋に独占されている。午前中はしっかりと買い物を楽しみ、午後からはたっぷりと遊び歩き、ホテルのレストランで豪華な夕食を済ませたあとは、和彦の部屋に移動して寛いでいる。
「……お前に、そういう役回りを押しつけているのかもな、ぼくは。生活が一変した中で、犬っころみたいに人懐っこいお前の姿だけは、元の生活の頃と変わらない。だから、なくしたくないんだ」
自嘲するように洩らした和彦は、テーブルに置いたチョコレートケーキを切り分け、二枚の皿にそれぞれ置く。千尋の誕生日を祝うためにわざわざ予約して、クリームで名まで書いてもらったのだ。
千尋のためというより、子供の頃から誕生日を祝ってもらったことがない和彦が、ささやかな遊び心を満たすために頼んだともいえる。
和彦の手から皿とフォークを受け取った千尋が、軽く肩をすくめる。
「俺は、先生とこうしてベタベタできるんだから、それが嫌なんて思わない。あんな家に生まれてさ、跡継ぐことが決まっていると、俺に望まれる姿なんて一つだけなんだ。だけど先生は、そうじゃない。甘ったれの俺を大事にしてくれる」
「……その甘ったれを、何歳まで続けられるか……」
「だから、歳の話はやめてよっ。というか俺、まだ二十一なんだからね」
声を洩らして笑った和彦は、せっかく買ってきたケーキを味わう。
「千尋、がんばって全部食べろよ。お前のために、買ったんだから」
「全部食べるまで、先生が隣にいてくれるなら」
横目でじろりと見ると、千尋ににんまりと笑いかけられた。その千尋の唇の端に、チョコレートがついている。ここで指先で掬い取ってやるほど甘くない和彦は、反対に、指先にクリームをたっぷり取って、千尋の高い鼻につけてやる。しかし、千尋も負けていない。目をキラキラさせて、和彦の頬にクリームをつけてきた。
「――生意気」
「いくら先生が年上でも、こういうところじゃ遠慮しないよ、俺」
「よし、わかった。ぼくも遠慮しない」
和彦の言葉に、またクリームをつけられると思ったのか、犬っころのような従順さを発揮した千尋が、ぎゅっと目を閉じて待ち構える。その顔を見た和彦は、必死に笑いを噛み殺しながら、鼻につけたクリームを指で掬い取ってやる。
「あっ……」
目を開いた千尋に、その指先を突きつける。
「食べ物は、粗末にしない」
和彦の意図がわかったのか、千尋は素直に指先を咥えた。千尋に指先のクリームを舐めさせながら和彦も、自分の頬についたクリームを掬い取って舐める。
誕生日である千尋は、今日は王様だ。甘えられれば、それがどんなことであろうが、和彦は逆らえない。せがまれるまま、千尋にケーキを食べさせてやる。
甘ったれぶりに拍車がかかっているなと、つい和彦は苦笑を洩らしていた。
そして千尋は、調子に乗る。
「先生、誕生日プレゼントとして、俺のわがままを聞いてほしいんだけど」
大きくため息をついた和彦は、もう一度千尋の鼻にクリームをつける。
「――こんなにお前を甘やかすのは、今日だけだからな」
「そうは言うけど、先生って、いつでも俺に甘いよね」
反論できなかった和彦は、悔し紛れに千尋の頬をつねり上げてやった。
ぬるま湯と柔らかな入浴剤の香りに包まれながら、ほっと吐息を洩らした和彦は、知らず知らずのうちに熱くなる頬を撫でる。すると、背後から頬ずりされた挙げ句に、唇が押し当てられた。たまりかねた和彦は、とうとう本音を洩らした。
「……千尋、お前は機嫌がよさそうだが、ぼくは恥ずかしくてたまらないんだが……」
「どうして? 俺たち二人きりだし、先生と風呂に入るなんて、初めてじゃないだろ。ついこの間なんて、先生の体を俺が洗って――」
「あのときは、ぼくの意識は朦朧としていたっ。だいたいお前も、変な気になってなかっただろ」
「今はなってる?」
千尋が耳に直接唇を押し当て、意味ありげに囁いてくる。わざわざ確認しなくても、ニヤニヤとしている表情が容易に想像できる。
「なってないとしたら、ぼくの腰に当たっているものはなんだ」
「俺の正直な気持ち」
背後から千尋にきつく抱き締められ、隠しようのない熱い欲望がさらに押しつけられる。
一緒に風呂に入りたいと言われたときから、こういう状況になるのはわかりきっていた。それに、こんなことを言われると――。
「今日は、先生を独占できる。オヤジには何度も念を押しておいたんだ。絶対電話してくるなって」
「何も、そこまでしなくてもいいだろ……」
「先生は、オヤジの意地の悪さを甘く見てる」
息子にここまで言われるのも、ある意味すごいかもしれない。思わず和彦が声を洩らして笑うと、千尋に首筋を舐め上げられた。驚いて水音を立てた和彦だが、一向に気にかけた様子もなく千尋の片手が胸元に這わされてくる。さらにもう片方の手が、両足の間に差し込まれた。
「お前……、湯に浸かってこんなことをしたら、のぼせるからなっ……」
「だから、こんなにぬるいお湯にしたんじゃん」
楽しげにそう言った千尋が、さっそく手に握り込んだ和彦のものを緩やかに扱き始める。
「うっ……」
和彦は小さく呻き声を洩らして、反射的に前に逃れようとしたが、背後からしっかり抱き締められているため身動きが取れない。
「おとなしくしてよ、先生」
そう囁いてきた千尋の手に下肢をまさぐられ、とうとう内奥の入り口を指先でくすぐられる。
「わざわざ風呂でこんなことをしなくていいだろっ」
「だって普通の日なら、させてくれない――」
「いつだったか、お前に軟禁されて好き勝手されたときに懲りたんだ。……風呂は、体を洗って寛ぐ場だ」
振り返って和彦が言い切ると、そんな和彦の顔をまじまじと見つめてから、千尋が軽く唇を吸ってきた。
「……こら、千尋、聞いてるのか」
「んー、あんまり聞いてない」
和彦が呆れてため息をつくと、待ちかねていたように口腔にスルリと舌が入り込む。これ以上小言をいうのも野暮に思え、千尋の舌を吸ってやり、絡め合う。同時に、片足を持ち上げられて、内奥にゆっくりと指を挿入される。和彦はわずかに腰を揺らしながら締め付けていた。
「千尋っ……、せめて、風呂から出るまで我慢しろ」
「嫌。せっかく先生とこうしてるのに、我慢したくない」
言葉とともに指が付け根まで、内奥に埋め込まれた。和彦は、前に逃れようと伸ばした手で湯を叩き、また水音を立てる。
「うっ、あっ、あぁっ」
指が内奥で蠢き、そのたびに湯が入り込んでくる。絡みついてくる腕の強さから、千尋にやめる気がないのは明らかだ。湯の中で暴れても疲れるだけだと嫌でも悟った和彦は、仕方なく千尋の胸に体を預ける。
「……お前、誕生日が終わったら覚えてろよ」
「何かお仕置きしてくれるわけ?」
耳元で楽しそうな声で言いながらも、千尋の指は巧みに内奥で動き続ける。
「相手をするとお前が喜ぶだけだから、しばらく会わないというのはどうだ?」
「そうなったら、この部屋に転がり込んで、住み着く」
千尋のわがままには敵わない。和彦は顔をしかめてから振り返り、千尋と唇を触れ合わせ、そっと噛み付く。千尋の興奮を煽るのは簡単だった。
すぐに内奥から指が引き抜かれ、体の位置が入れ替えられる。大きめのバスタブとはいえ、大きな男二人が入っていて余裕たっぷりというわけではない。少々苦労したが、千尋としては満足できる態勢になったらしく、バスタブにもたかれかかった和彦に抱きついてきた。その一方で、開いた両足の間に腰が割り込まされる。
「千尋、盛り上がっているところ悪いが、少し背中が痛い……」
「じゃあ、俺にしっかりしがみついててよ」
素直に従うのも癪だが、仕方ない。和彦は両腕を千尋の首に回してしがみつく。千尋の体は熱くなっていた。
「……先生の体、熱いね」
ふいに千尋に指摘され、自覚がなかった和彦はうろたえる。一気に顔が熱くなり、のぼせてしまいそうだ。
「恥ずかしいんだっ」
和彦が自分の反応を誤魔化すために睨みつけると、すべてわかっているような顔で千尋は笑い、唇を塞いでくる。さらに片手で、和彦のものを再び扱き始めていた。
「あっ、はあぁ……」
いつもならとっくに先端から透明なしずくが滲んでいるだろうが、今は確認のしようがない。それでも千尋は、指の腹で先端を執拗に撫で、和彦が腰を浮かせるようになると、柔らかな膨らみを弄ぶように愛撫を加えてくる。
「んっ……、んっ、あっ、あぅっ」
仰け反った拍子に、後ろ髪どころか、耳まで湯に浸かってしまう。すかさず千尋の片手で頭を支えられ、笑いを含んだ声で問われた。
「先生、沈んじゃうよ」
「……誰の、せいだ」
和彦がしがみつくと、千尋も限界を迎えていたらしく、内奥の入り口に熱い欲望が押し当てられる。ゾクゾクするような興奮が和彦の体を駆け抜け、思わず身震いする。
千尋がゆっくりと押し入ってこようとした瞬間、バスルームのドアの向こうから聞こえてくる音があった。二人は動きを止め、間近で見つめ合う。
「千尋、あれ――」
「俺の携帯だ……。しかもあの着信音、じいちゃんから……」
「早く電話に出ろっ」
和彦は千尋の肩を押し退け、なんとか姿勢を戻す。そんな和彦を恨みがましそうに見ていた千尋だが、さすがに祖父からの電話は無視できないらしく、勢いよく立ち上がった。
バスルームを出る千尋の後ろ姿を見送ってから、和彦は肩までしっかり湯に浸かる。すっかり千尋の言葉に乗せられていたが、自分たちがいかに恥知らずな行為に及ぼうとしていたのか、今になって痛感していた。
バスタブの縁に腕をかけ、濡れた髪を掻き上げる。ドアの向こうから千尋の声が聞こえてくるが、何を話しているかまではわからない。
千尋は千尋で、周囲から大事にされている存在だ。本来は、誕生日という大事な日に、和彦が独占するのは許されないのかもしれない。
そんなことを考えているとドアが開き、千尋がひょこっと顔を覗かせる。申し訳なさそうな表情に目にして、和彦は思わず笑ってしまう。
「その顔は、呼び出されたな」
「ごめんね、先生。俺が無理言って、こうして一緒に過ごしてもらってるのに……」
「かまわないさ。誕生日に必要なことは、もう済ませたんだし。プレゼントを渡して、おめでとうを言って、ケーキのロウソクを吹き消してもらった。ぼくは、お前の誕生日を祝ってやれたと思って、満足している」
和彦の反応にほっとしたように、千尋がちらりと笑みを見せる。腰にタオルを巻いて、バスタブの側までやってきた。何事かと、和彦は千尋を見上げる。
「どうした?」
「――和彦」
突然名を呼ばれて、驚いた和彦は派手な水音を立てて立ち上がる。和彦の反応を笑いもせず、それどころか真剣な顔をして、千尋が唇に軽くキスしてきた。
「十歳差じゃなくなった記念に、先生の名前を呼びたかったんだ」
もう一度、囁くように名を呼ばれてから、しっとりと唇が重ねられる。
ただ、名を呼ばれただけだというのに、和彦の心臓の鼓動は速くなっていた。この瞬間、千尋がとても大人びて見え、照れていたのだ。
そんな和彦を、千尋はしっかりと抱き締めてくれた。
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