いつものように仰々しい出迎えを受けて、和彦は車から降りる。辺りを見回す余裕すら与えられず、組員にやや強引に促されて、
監視カメラに見下ろされながら威圧的な門扉をくぐる。
自分は長嶺組にとって貴重な存在であると、嫌でも自覚が芽生えて
きた和彦だが、だからといってヤクザの慣習や生活様式に馴染んだわけではない。この世界で和彦の扱いは、組長ほどではないに
しても、幹部並みの厚遇だ。
組事務所などでは、顔馴染みとなった組員たちと世間話をする程度には打ち解けて、扱いも、
堅苦しいほどのものではない。だが、長嶺の本宅に足を踏み入れるときは、別だ。やはり和彦は特別扱いなのだ。
ヤクザの
世界で長年積み上げたものがない人間にとっては、それはひたすら重い。
「……ぼく相手に、出迎えはいらないんだがな……」
靴を脱ぎながら和彦が独りごちると、傍らに立っている組員にまじめな口調で言われた。
「そういうわけにはいきませ
ん。先生は、うちの組にとって大事な方ですから」
反射的に和彦は、ごめん、と頭を下げてしまい、組員が奇妙な表情を浮
かべる。
「先生、いい加減、うちでのもてなし方に慣れてください」
「たかが医者に、無茶を言わないでくれ」
そ
んなやり取りを交わしながら、応接間に案内される。
今朝、賢吾から電話があり、話したいことがあるので本宅に来いと言
われたため、当然、応接間に賢吾の姿があると思っていた。だが、ソファに腰掛けていたのは――。
「どうして……」
和彦が思わず声を洩らすと、スーツ姿の秦が軽く肩をすくめる。
案内の組員はすぐに立ち去ったが、入れ替わるように別の
組員がコーヒーを運んできたため、和彦は秦の向かいに腰を下ろした。
ドアが閉まるのを待ってから、秦が口を開く。
「長嶺組長に、いろいろと相談をしていたんです。先生もあとから見えられると聞いたので、せっかくなのでご挨拶をしようと思
って、待たせてもらっていました」
和彦は遠慮なく、胡乱な眼差しを秦に向ける。ヤクザの組長の本宅にいるというのに、
緊張した素振りも見せず、柔らかく艶やかな雰囲気をまとい、優しげな笑みを浮かべている。
ふいに、鷹津から聞かされた
話が脳裏を過る。別に外国人に対して抵抗があるわけではないが、今、目の前にいる男は、実は日本人ではないかもしれないと思
うと、不思議な感覚が和彦の中で芽生える。
「先生?」
いつの間にか秦を凝視していたらしい。声をかけられてハッと
した和彦は、わずかに視線を逸らしつつ、誤魔化すように言った。
「どうやら、組長と関わりが持てたらしいな。ここに来る
のは、今日が初めてじゃないんだろ」
「ええ、まあ……。初めて呼び出されたときは、さすがに膝が震えましたよ。もしかす
ると、わたしの命も今日までなのかもしれないと思って」
物騒なことを言うわりには、秦の口調は滑らかで、楽しげだ。
「……こうして元気なところを見ると、組長からは、なんのお咎めもなく済んだようだな」
「まさか」
短く言い切っ
て、秦は唇を歪める。優雅な存在感を放つ男には不似合いな表情に、和彦は目を丸くする。
「噂以上に怖い方ですよ、長嶺組
長は。覚悟はしていましたが、今のわたしは、生殺与奪の権をしっかりと長嶺組長に握られている状態です。――許しがあるから、
こうして息ができている」
あまりに大仰な物言いに、かえって和彦は、自分はからかわれているのではないかと疑ってしま
う。そんな和彦に対しては秦は、すぐに表情を一変させ、安心させるかのように微笑を向けてきた。
「そう、驚いた顔をしな
いでください。わたしの今の状況は、別の見方ができるんです」
「別の見方?」
「長嶺組の庇護を受けていることと同義
なんですよ。わたしを生かすも殺すも、決められるのは長嶺組長だけ、という状況は」
秦は先日、誰かに暴行を受けて大怪
我を負った。和彦に手を出したことによる、長嶺組の報復だろうかと、ちらりと考えたことがあるのだが、どうやらそちらの件は、
秦個人の事情によるものらしい。つまり、秦を脅かす存在がいるのだ。
そして今、本人の口から語られたが、秦の生殺与奪
の権は賢吾が握っているという。秦を襲った者たちからすれば、この事態をどう感じるか――。
「……いろいろと、わからな
いことがあるんだが……」
「なんでしょうか?」
「君を襲った相手は、一体誰なのか。そして、襲った理由。その連中と
長嶺組が、敵対する危険はないのか。仮に危険があるとして、厄介な存在となる君を、どうして組長はわざわざ本宅に呼んだりし
たのか。君と関わりを持つことに、組長は何かしら利益を得るのか――」
和彦が思いつくまま簡単に述べると、秦は軽く拍
手した。思わず睨みつけた和彦だが、すでに包帯が巻かれていない秦の右手のてのひらに、大きな絆創膏を貼ってあるのが見えた。
和彦の視線に気づき、秦はてのひらを差し出してくる。
「先生が何度も忠告してくれたので、病院に行って胸のレントゲンを
撮ってもらったんです。そのとき、抜糸もしてもらいました。もう少し早く来いと怒られましたが、傷の縫い目がきれいだとも言
われましたよ」
「別に……、特別丁寧にしたわけじゃない。そういう縫い方が身についてるんだ」
「肋骨のほうは、しっ
かり固定して、静かに日常生活を送っていたので、完治も間近だそうです。すべて、先生のおかげです」
「感謝なら――」
中嶋くんにしてくれ、と言おうとして、和彦は反射的に口元に手をやる。先週、その中嶋と自分が何をしたのか思い出したのだ。
欲情を刺激されないくせに、不快どころか、心地よさを覚える不思議なキスだ。やましい気持ちがないからこそ、罪悪感と
も無縁だ。だが、誰にも言えない。
「先生、どうかしましたか?」
「あっ、いや……。君を診るよう頼んできたのは、中
嶋くんだ。そうじゃなかったら、ぼくは君と関わる気はなかった。感謝の言葉なら、彼にかけてやってくれ」
「もうたっぷり、
メシを奢らされました。それに――」
ソファの背もたれに体を預けた秦が、ふっと唇に笑みを刻む。甘いだけではない、わ
ずかな苦さを含んだ笑みに見えた。
「自分に感謝しているなら、本当の名前を教えてくれと言われましたよ。それどころか、
わたしを襲った人間を捜し出したいから、心当たりがあったら、全部話してくれとも。わたしは今までにも何度もヤバイ目に遭っ
てきて、そのことを中嶋も知っているんですが、こんなことを言われたのは初めてです。さすがに、面食らいました」
秦の
言葉から、中嶋の中で起こりつつある変化を知った。
和彦は無意識にソファに座り直し、先日、中嶋がスポーツジムで言っ
ていたことを思い出していた。あのとき中嶋は、秦の個人的なことは詮索しないと言っていた。だからこそ秦は、自分の存在を気
楽に感じているのかもしれないとも。
その中嶋が、秦の本当の姿を知りたがったというのは、大きな変化なのだ。
「……見
た目はともかく、中嶋は中身は、筋金入りのヤクザですよ。自分が身を置く組織への忠義と野心が程よくバランスが取れて、情な
んていくらでも切り売りできる。そういう人種です。――と、わたしはいままで思っていたんですが……」
「教えてやればい
いじゃないか。本当の名前ぐらい。君は謎が多い人間なんだろ。だったら、いくつかの秘密を中嶋くんに話したところで、惜しく
もないんじゃないか」
「先生は、中嶋の味方なんですね」
思わず咳払いした和彦は、ムキになって言い返した。
「違うっ。君がどんな男だろうが、慕っている人間からすれば、せめて名前ぐらい知りたいと思っても、当然じゃないかと言いた
いんだ」
「――秦静馬が、わたしの本名ですよ。生まれた頃から」
ウソをつけと、非難がましく鋭い視線を向ける。そ
んな和彦に対して秦は、やっと真剣な表情を見せた。
「わたしの秘密は、長嶺組長の所有となりました。――野心をたっぷり
抱えた中嶋にとっては、わたしの秘密なんてむしろ毒であり、邪魔になりますよ。奴は、わたしに深入りしないほうが、まっとう
なヤクザとして生きていける。……ああ、この表現は変ですかね」
「だったらどうして、もっと早くにそう言ってやらなかっ
た」
「ヤクザである中嶋は、利用できるからです。現に、暴行されたわたしを匿ってくれたのは、あいつだ」
あまりに
簡単に言われ、和彦は咄嗟に声が出なかった。
中嶋も、秦を利用するつもりでいる。だから秦が、中嶋を利用したところで、
お互い様の一言で片付く。しかし和彦は釈然としない。秦の芝居がかったような話し方のせいか、どこからどこまでが本心であり、
偽りなのかわからないのだ。
ムキになるなと自分に言い聞かせ、深く息を吐き出す。
「……別に、君らの関係なんてど
うでもいいんだ。ぼくを巻き込まない限りは」
「どうでしょうね。中嶋は、先生を気に入ってますよ。もちろん、わたしも」
和彦がぐっと唇を引き結んで黙り込むと、ノックもなしにいきなりドアが開き、賢吾が入ってきた。不機嫌そうな和彦の顔
を見るなり、ニッと笑いかけてくる。
「ずいぶん、会話が盛り上がっているようだったな」
「そんなことはない……」
「そう素っ気ない返事をするな。この男は仮にも、先生の浮気相手だろ」
睨みつける和彦とは対照的に、賢吾はどこまでも
楽しそうだ。和彦の隣にドカッと腰を下ろすと、当然のように肩を抱いてくる。
「おいっ――」
「いまさら慌てることも
ないだろ。この色男は、先生が俺のオンナだとよく知っている。それを承知で、先生に手を出したんだからな」
怖く感じる
ほど、賢吾の声は朗らかだった。この男の場合、それは相手を威嚇しているようなものだ。言葉の端々から、凄みが伝わってくる。
「先生に手を出したこと以外にも、この男に対してはいろいろと腹に据えかねることがある」
「どんな?」
和彦の
問いかけに対する賢吾の返事は、言葉ではなかった。いきなりあごを掴み上げられ、噛み付くようなキスをされる。
驚いて
なんの反応もできない和彦の眼前で、賢吾はひどく優しい顔をした。
「知りたいなら教えてやるが、いろいろと覚悟が必要だ
ぞ、先生」
この男が口にする『覚悟』という言葉から、濃厚な闇の存在がうかがえる。ただの〈オンナ〉でしかない和彦が
覗くには、あまりに深すぎる闇だ。
「……だったら、遠慮しておく……」
「先生は、肝が据わっているくせに、こういう
部分で臆病なのがいい。ヤクザの世界で生きるには必要なものだ。どれだけ強い好奇心を持っていても、きちんと自分を律しきれ
るからな」
もう一度、和彦の唇に軽いキスを落としてから、賢吾はスッと秦に向き直る。さすがというべきか、秦は気まず
い様子も見せず、口元に微笑を湛えていた。肝が据わっているとは、この男のことを言うべきだろう。
和彦はわずかな羞恥
を覚えながら、つい唇を手の甲で拭う。賢吾のせいでまともな感覚が狂いそうになるが、たとえキスであろうが、人に見られてい
い気持ちはしない。
「先生は聞きたくないそうだから、事情と過程については省くが、長嶺組は、この色男のケツ持ちをする
ことにした」
唇を拭った和彦の手を取り、賢吾がさらりと言う。そして、嫌味のように手の甲に唇を押し当ててきた。和彦
は横目で睨みつつも、問いかける。
「ケツ持ち?」
「この男の抱えたトラブルを、長嶺組が後ろ盾になって処理する、と
いう意味だ。うちとしても事を荒立てる気はないから、うちの代紋を見て、相手の頭が冷えるなら、けっこう。そうでないなら――こ
の色男を差し出すのもおもしろいかもな」
冗談めかしてはいても、賢吾の声にはヒヤリとするような冷たさがあった。賢吾
の中に潜む大蛇の体温を、こんなときに実感する。小さく肩を震わせた和彦だが、一方の秦は、相変わらず微笑を浮かべていた。
和彦の知らないところで密談を重ねているうちに、賢吾のこの手の冗談は言われ慣れたのかもしれない。
「……二人の
間で話がまとまっているなら、わざわざぼくを、この場に呼ばなくてもよかっただろ。電話で報告してくれるだけでよかったんだ」
「俺の親切心だぜ。先生だって、自分の浮気相手の処遇は気になるだろ」
「だからっ――」
賢吾の口から『浮気』と
いう言葉が出るたびに、恐怖と羞恥がムチとなって、和彦の神経を打ち据えてくる。
たまらず声を荒らげようとすると、賢
吾に肩を抱き寄せられ、髪に唇が押し当てられた。これだけで和彦は何も言えなくなる。代わりに賢吾が、秦に向けて言い放った。
「――色男、俺のオンナに手を出すなよ」
賢吾の声は柔らかだが、リビングの空気は一瞬にして凍りつく。和彦は顔を
強張らせながら、賢吾を見上げた。
「俺に近づくために、先生に目をつけたのはともかく、妙な薬を飲ませたことについては、
俺は少しばかり怒っているんだ。……二度目があると思うなよ」
そんなことを言いながら、優しげな顔で和彦を見つめてく
る賢吾だが、大蛇を潜ませている目はひんやりとして、優しさの欠片も感じさせない。
こんな目を持つ男に、自分は大事に
されているのだと思うと、うろたえるほど強烈な疼きが和彦の背筋を駆け抜ける。和彦の異変に気づいたのか、賢吾は唇の端を動
かすだけの笑みを浮かべた。
和彦を片腕に抱いたまま、賢吾がちらりと秦を見る。一瞥されただけだというのに、目に見え
て秦は緊張していた。
「いろいろと調べさせたが、お前、やり手のホストだったんだってな。のぼせ上がる女が多すぎて、派
手な揉め事にも事欠かなかったようだが。なんにしても、ホストとしては一流だった――」
「若気の至りというやつで、無茶
だけはできましたから」
「謙遜するな。それだけのホストだ。足を洗ったとはいっても、先生を楽しませるぐらいの手管はま
だ持っているだろ? もちろん、セックス抜きで、という意味だ」
思いがけない賢吾の発言に慌てたのは、和彦だ。
「なっ……、何を言い出すんだ、あんたっ……」
賢吾は意味ありげな視線を寄越してきて、澄ました顔で応じる。
「変
なことは言ってないだろ。何かとストレスを溜めやすい繊細な先生のために、遊び相手になってくれと言ってるんだ。この色男は、
なかなか安全な遊び相手だぞ。なんといっても今は、長嶺組の紐付きだ。下手を打てば、自分の身がヤバくなる。自分の居場所を
確保するために、死ぬ気で先生のストレス解消につき合ってくれるぞ」
賢吾が本気でこんなことを考えているのか、怪しい
ものだった。和彦に対して執着を見せる一方で、千尋や三田村を含めた奔放な関係を許容して、楽しんでいる。それに、敵対して
いるはずの鷹津に自分たちの行為を見せつけ、刺激もした。そのせいで和彦は、鷹津に汚されたのだ。
非難を込めて和彦が
睨みつけても、賢吾は一向に気にかけた様子もなく、それどころか、秦に向けてこう言い放った。
「――大事な先生を退屈さ
せるなよ、色男」
秦は、賢吾の迫力に気圧された様子もなく、それどころかすべてを心得たように、唇だけの艶然とした笑
みを浮かべて頷いた。
応接間を出ていく秦の姿を見送った和彦は、何かしたわけでもないのに疲労感に襲われ、深くソファに座り直す。そんな和彦の
隣で、賢吾はニヤニヤと笑っている。これが、大蛇の化身のような男でなければ、不愉快だといって、顔を背けさせるところだ。
「……あんたがここまで、寛大で優しい男だと、初めて知った」
和彦の精一杯の皮肉を、賢吾は純粋に冗談として受け
止めたらしく、短く声を洩らして笑った。
「俺は先生の前ではいつでも、寛大で優しい男だろ」
「ぼくに薬を飲ませた不
埒な男を、遊び相手として与えてくれるほど、か?」
「先生の目の前で、秦を半殺しにすれば満足するというなら、今から呼
び戻して、そうしてやるが」
冗談を装っているが、賢吾の場合、本当にやりかねない。
獲物を巨体でじわじわと締め
上げるのは、残酷な性質を持つ大蛇にとっては、さぞかし楽しいだろう。たとえ戯れであろうが、締め上げられるほうは堪ったも
のではないが。
和彦は片手を伸ばし、賢吾の頬にてのひらを押し当てる。骨格は千尋とよく似ているが、年齢を重ねた分、
さらにしっかりとした造りで、そこからごっそりと甘さだけを削ぎ落とした男の顔だ。
「――せっかくぼくが診て、完治が近
いところまできているのに、またぼくの手を煩わせる気か」
「なるほど。先生のきれいな指が、他の男の体を這い回るのかと
思うと、少しばかりムカつくな」
「変な言い方をするなっ……。用が済んだんなら、ぼくはこれで帰るからな」
立ち上
がろうとした和彦だが、すかさず手首を掴まれて引っ張られ、バランスを崩して賢吾の胸元に倒れ込む。そのまましっかりと両腕
で抱き締められた。
「先生への本題はこれからだ」
嫌な予感がした和彦は、露骨に顔をしかめて見せる。すると賢吾は
表情を和らげてから、耳元に唇を寄せてきた。
「頼みたいことがある」
「……聞きたくない」
「結婚披露宴に、俺の
名代として祝儀を持っていってほしい」
一瞬聞き間違えたのかと、和彦は目を丸くして賢吾を見つめる。
「えっ……」
「結婚披露宴だ。俺のオヤジが、昔から面倒を見てやっている男がいるんだが、そこの次男坊が結婚する。昵懇だから、何も
しないわけにはいかない。だが、ヤクザと繋がりがあるなんて、人に知られるわけにもいかない。だから、先生に頼むってわけだ」
どんな物騒なことを言われるのかと身構えた和彦は、正直拍子抜けした。意外に、というのも変だが、まっとうな頼み事だ。
だからといって、素直に引き受けられるわけではない。
「……結婚披露宴なんて目立つ場に、足を運ばなくてもいいだろ。相
手も事情がわかっているんだから、日を改めて祝いの気持ちを伝えたところで――」
「ヤクザは、いつ生きるか死ぬかわから
ない連中の集まりだ。日を改めたとして、そのとき生きているかわからないし、もしかすると、ムショにぶち込まれているかもし
れない。そういう事情があるから、祝えるときに祝い、弔えるときに弔う。相手の顔を潰すわけにもいかんしな」
賢吾の話
が本当かウソか、和彦には確かめようがない。ただ、心は動いた。
「――……あんたでも、頼みたい、なんて言うんだな」
ぼそりと和彦が洩らすと、賢吾が機嫌よさそうに軽く唇を吸ってくる。
「ああ、これは命令じゃないからな」
「つまり、
嫌だと言えるんだな」
賢吾が微かに笑い、息遣いが唇に触れる。誘われるように今度は和彦から、賢吾の唇をそっと吸った。
「嫌か?」
「……祝儀を持っていくだけなら」
「受付で、記帳もしてくれ。誰の名前を書くかは、あとで教える」
「それだけ?」
「それだけだ。簡単だろ」
和彦が返事をする前に、賢吾は本格的に唇と舌を貪り始める。こんな口づけ
を与えられて、嫌と言えるはずがなかった。
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