と束縛と


- 第13話(1) -


 組員に出迎えられて、組事務所に足を踏み入れた和彦は、ほっと息を吐き出す。車での移動とはいえ、わずかな間でも外に出る と寒さが堪えるようになった。
 組事務所の中はよく暖房が効いており、応接間に案内されながら、首からマフラーを外す。 これまで、マフラーを巻く習慣はなかった和彦だが、出かけるたびに、賢吾を始めとした長嶺組の人間に、首回りが寒くないかと 聞かれ、答えるのも面倒になって巻くようになった。
 大事にされているのはわかるが、少々過保護ではないかと感じなくも ない。ただ、こんなことで抗議の声を上げるほどではない。和彦がマフラーを巻くことで安心するなら、そうするだけだ。
  応接間に通されてコートを脱いでいると、コーヒーが運ばれてきてすぐに、今日、ここで会うことになっている人物が姿を見せた。 ファイルを小脇に抱えた姿が、ビジネスマンに見えなくもない三田村だ。
「寒い中、わざわざ出てきてもらってすまない、先 生」
 コートを傍らに置いた和彦は、小さく首を横に振る。
「とんでもない。仕事なんだから、どこにだって出かける。 だいたい、開業したら、ぼくはほぼ毎日、出勤しないといけないんだ」
「ああ。開業までに、先生専属の運転手を決めないと な」
 和彦が目を丸くすると、三田村は口元に薄い笑みを刻みながら、正面のソファに腰掛ける。仕事の話をするための位置 だ。
「先生は、クリニックの仕事に集中してくれたらいい。組に関わることや、先生自身の身の安全について考えるのは、俺 たちの仕事だ」
「……そこは、あんたたちを信用している」
 よかった、と小さな声で三田村が呟く。その声があまりに 優しくて、和彦の頬は知らず知らずのうちに熱くなる。もしかすると、応接室も暖房が効きすぎているのかもしれない。
「そ こで今日来てもらったのは、その、クリニックの仕事と、組に関わることだ」
 そう言って三田村が、ファイルを差し出して くる。受け取った和彦が開くと、履歴書のコピーと書類が挟んであった。簡単に履歴書のほうに目を通して、和彦は頷く。
「ああ、クリニックのスタッフ募集で応募してきた人のものだな」
「胡散臭い人間を先生に会わせるわけにはいかないから、 履歴書を送ってきた人間の身辺調査を軽くしてみた。組で問題ないと判断した人間のものは、これだけだ。まだ多いぐらいだが、 先生に目を通しておいてもらいたい」
 コンサルタントに依頼して、クリニックで働くスタッフを、医療系の求人サイトや求 人誌で募集をかけてもらっていたのだが、和彦がのんびりしている間にも、長嶺組はしっかりと動いていたようだ。
 勤務は 日勤のみで、週休二日。給与は、美容外科のスタッフとしては平均的な額。こういった条件を掲載してもらったが、それでもこち らの予想を超えて反応はあった。
 好条件で人材を集める必要はなく、日中の、〈表向き〉の業務さえきちんとこなせるなら、 それで十分なのだ。長嶺組の人間がチェックして、これだけの人間が問題ないと判断されたのなら、あとは面接を経て、数人を採 用することになるだろう。
 大事なのはむしろ、組絡みの業務に携わる人材だ。
「それで、数日中には書類選考の結果を 連絡して、来月中旬には、面接を行いたいと思っている。もちろん、先生には立ち合ってもらうが、組の関係者も同席させたいと 思っている」
「関係者?」
「長嶺組のフロント企業を統括している人間が、こういった席に慣れているから、面接を任せ てみたらどうかと組長に提案されたんだ」
 話しながら三田村は、気づかうように和彦を見る。何もかも長嶺組主導で決めら れることに、和彦が気を悪くするのではないかと心配しているのだろう。
「ぼくのほうは、それでかまわない。経営のノウハ ウも何もないんだ。クリニックを持たせてやると言われたときから、何もかも組の意向で決まると思っていた。むしろ、内装から 家具選びまで、ぼくの自由にさせてくれたことのほうが意外だったんだ。あとのぼくの仕事は、開業してから患者を診ていくだけ だ」
「……先生は、察しがいい」
「あんたが、わかりやすすぎるんだ。初めて会ったときは、表情がなくて、何を考えて いるのかわからない男だと思ったが、今は――少しわかりやすすぎるかもな」
 驚いたように目を見開いた三田村だが、すぐ に微苦笑を浮かべ、自分の頬を撫でた。
「自分では、そんなつもりはないんだが……」
「だったらぼくが、勘がよくなっ たのかもな。あんたの些細な変化を見抜けるようになった」
「それは……怖いな。先生に隠し事ができない」
 和彦は澄 ました顔で問いかける。
「隠したいことがあるのか?」
「――先生に知られたくないことは、いくらでもある。俺は、ヤ クザだからな」
「だったら、上手く隠してくれ」
「ああ……」
 こんな生活を送っていれば、知りたくないことは山 のようにある。それでも、視界に入り、耳に入るものを塞ぐことはできない。今の生活は、知りたくないことを知りながら、感情 と良心に折り合いをつけて成り立っているのだ。
 感情はともかく、和彦の良心は確実に磨耗している。そのうち、この世界 にいて何を知っても、眉をひそめることはなくなるだろう。
 上手く隠してくれという三田村への頼みは、ささやかな足掻き のようなものだ。
 スタッフの採用までの流れを、確認を兼ねて打ち合わせする。三田村はクリニック経営に関わることはな いが、まったく無関係というわけではない。賢吾以外で、和彦と長嶺組を強く結びつけているのは、三田村なのだ。
「組絡み の患者を診るとき、先生を手伝うスタッフについては、安心してくれ。今、うちの人間が動いている。むしろ、人材集めはこっち のほうが手間はかからないかもしれない」
「そうなのか?」
「先生が思っている以上に、先生のクリニックに期待してい る人間――組は多い。医者の手伝いができる人間を捜していると言えば、どの組も喜んでツテをあたってくれる」
 責任重大 だ、と洩らした和彦は、開いたままだったファイルを閉じる。持ち帰って目を通すつもりだった。年明けには、一緒に働くことに なる人間を選ぶのだ。履歴書のコピーと報告書を見て、慎重に考えたい。
 これで打ち合わせは終わりだ。長居して、三田村 の仕事を邪魔するのも悪いので、和彦は帰ることを告げ、立ち上がる。
 コートを羽織ってからマフラーを取り上げると、三 田村が表情を和らげた。
「先生もとうとう、マフラーを巻いて出歩くようになったんだな」
「……仕方ないだろ。巻いて ないと、寒くないかと聞かれるんだ。こうして巻いておいたら、ぼくより、周りの人間が安心するんだと思うようにした」
「先生に、風邪でも引かれたら大変だから、諦めてくれ」
 傍らに立った三田村が、首に引っ掛けただけのマフラーを丁寧な 手つきで巻いてくれる。こんなことをされると、車に乗っても外せない。
「気をつけて帰ってくれ」
「ああ」
 短く 応じた和彦は、マフラーの端を掴む三田村の手を、素早く握り締めた。




 時間が緩やかに流れているような夜だった。賢吾も千尋も訪れないし、書斎に閉じこもって書類仕事をする気分でもなく、急患 を告げる電話もない。
 言い換えるなら、退屈な夜ともいえるが、今のような生活に入る前は、これが当たり前だった。
  リビングのソファに腰掛けた和彦は、ミルクがたっぷり入ったコーヒーを啜りながら、ぼんやりとDVDを観ていた。まとめ買い したまま放置していた映画のDVDを、こういうときに消化すべきだと、妙な義務感に駆られたのだ。
 最初はまじめに観て いたのだが、次第に内容が頭に入らなくなる。
 外の空気が恋しくなり、マンション近くのホテルのバーに飲みに行こうかと、 ちらりと考える。もちろん、考えるだけだ。寒い中、護衛の組員を呼び出してまで飲む気はない。
 誰か外に誘い出してくれ ないだろうかと考えていると、テーブルの上に置いた携帯電話が鳴った。
 反射的に携帯電話を取り上げて、表示された名を 見る。思わず和彦は、口元に笑みを浮かべていた。
「――もしかして、夜遊びのお誘いか」
 電話に出た和彦の開口一番 の言葉に、電話の向こうから微かな笑い声が聞こえてくる。
『なんだか、待ちかねていたような口ぶりですね、先生』
「実は、退屈していたんだ」
『気をつけてください。非日常が、今の先生にとっての日常ですから。強い刺激に慣れてしまう と、感覚はなかなか元には戻りませんよ』
「……嫌なことを言う」
 電話の向こうで中嶋が声を洩らして笑っている。す でに酔っているのかと思うほど、機嫌はよさそうだ。
『先生が考えた通り、これから〈二人〉で飲みに行かないかと思って、 こうして連絡しました。出世したおかげで、夜は人並みに楽しく過ごせるようになりましたから、さっそく満喫しようかと』
「それはいい。今のぼくを気軽に誘ってくれる人間なんて、ほとんどいないからな。君が遊び歩けるようになったら、ぼくもあり がたい」
 三十分後に中嶋が、タクシーでマンション前まで迎えにくることで、あっさり話はまとまる。
 電話を切った 和彦は、すぐにクロゼットから服を引っ張り出してくる。ラフな格好でかまわないという話なので、気楽にアルコールが楽しめる 店のようだ。忘れずにマフラーも持ってきたところで、和彦はあることを思い出し、子機を取り上げる。
 携帯電話は持って いくが、念のため、外出することを長嶺組に報告しておく。組員からは、すぐに護衛の人間を向かわせると言われたが、中嶋が同 行することを告げると、渋々引き下がってくれた。
 総和会の中で出世した中嶋への信頼感の表れか、何かしらの思惑がある のか――と考えるのは、穿ちすぎかもしれない。
 身支度を整えた和彦がエントランスに降りたとき、約束した時間には五分 ほど早かったが、マンション前まで出ると、すでにタクシーが一台停まっていた。中から中嶋が手を振っている。
「――それ で、どこまで行くんだ」
 タクシーが走り始めてから、首に巻いたマフラーの端を弄びながら和彦は尋ねる。
「知り合い の店です」
 漠然と察するものがあり、和彦はじろりと中嶋を見る。一方の中嶋は、ニヤリと笑ってこう言った。
「先生、 そんな顔したら、せっかくの色男ぶりが台無しですよ」
「……なるほど。飲みに行くのは二人だが、他にもう一人、すでに店 で待っているんだな」
「そういうことです」
「いろいろと言いたいことはあるが、まあ、いい。誰がいるかわからない場 所に連れて行かれるより、よほど安心かもしれない」
 多分、と和彦は心の中でひっそりと付け足す。中嶋は、和彦が怒り出 さなかったことに安堵したのか、ほっと息を吐き出してシートにもたれかかった。
「正直、どんな顔をして、〈あの人〉と顔 を合わせればいいのかわからないんですよ。前のように、気楽につき合いたい気もするが、そうじゃないような気もする――」
「それで、ぼくを利用しようと思ったんだな」
「そう言わないでください。先生と楽しく飲みたい気持ちもあるんですよ」
 本音かどうか怪しいものだが、美味いアルコールを飲ませてくれることだけは、確かなようだった。


 グラスに口をつけながら和彦は、横目で隣を見る。中嶋は、普通の青年のような顔をして笑っていた。
 正体がわかってい ながら、こうして見る姿は、とうていヤクザには見えない。ノーネクタイのため、スー ツ姿とはいっても寛いで見えるが、それでも雰囲気は若いビジネスマンのものだ。
「――先生、飲んでますか?」
 正面 に腰掛けた秦に問われ、数瞬言葉に詰まってから、和彦は軽くグラスを掲げて見せる。
 中嶋も相変わらずなら、秦も相変わ らずだ。相変わらず、柔らかく艶やかな雰囲気をまとい――胡散臭い。秦の場合、自分の独特の存在感を武器にしている節すらあ るので、和彦が露骨に警戒する姿を、楽しんでいるかもしれない。
「飲んでる」
「客もホストもいないホストクラブで、 男三人で飲むというのも、新鮮でしょう?」
「イイ男二人に囲まれて、贅沢な気分だ」
 わざと素っ気ない口調で応じる と、隣で中嶋が派手に噴き出す。急に和彦は心配になり、中嶋のあごを掴み寄せて顔を覗き込む。
「もしかして、もう酔っ払 ったのか」
 和彦の突然の行動に驚いたように中嶋は目を丸くしたあと、やけに嬉しげに笑った。
「まだ、大丈夫ですよ。 先生の冷めた口調と冗談の加減が、妙にツボで……」
「ぼくの冗談で笑うようなら、本当に酔ってるんじゃないか」
 中 嶋がさらに笑い声を洩らし、和彦は、大丈夫かと秦に視線を向ける。優雅に足を組み替えた秦は、中嶋を指さした。
「リラッ クスしてるときは、こんな感じですよ、こいつは。ホスト時代は、どれだけ客から飲まされようが、顔色一つ変えなかった。だけ ど、仲間内で飲むと、まっさきに酔っ払って、つまらないことで笑い転げる」
「……つまらないこと……、つまり、ぼくの冗 談はつまらないということだな」
 ぽつりと和彦が洩らすと、失礼なことに、中嶋と秦が同時に噴き出した。
「先輩・後 輩揃って、失礼な連中だな……」
 怒ったふりをして席を立った和彦は、カウンターへと向かう。
「先生?」
「カウ ンターの中に、いいウィスキーを隠してあるだろ。さっき見えたんだ」
 なんでも自由に飲んでくれと最初に言われたため、 遠慮する気はなかった。秦という男は信頼していない和彦だが、秦の店の品揃えについては信頼しているのだ。
 素早く立ち 上がった秦が、カウンターに入る。
「封を開けるので、ちょっと待ってください。ついでに、新しい氷も出しますね」
  そこに、中嶋からカクテルの注文が入り、苦笑しながら秦が準備を始める。和彦は、カウンターにもたれかかりながら、改めて店 内を見回していた。
 このホストクラブを訪れるのは初めてではない。実は前に一度、来ていた。
 そのときのことを思 い出し、和彦の頬は熱くなってくる。もちろん、酔いのせいではない。
 和彦は、この店で秦に安定剤を飲まされ、体をまさ ぐられたのだ。挙げ句、内奥にはローターを含まされた。長嶺組組長である賢吾と関わりを持ちたかった秦が、賢吾のオンナであ る和彦に目をつけたうえでの策略だ。
 賭けに近い危険極まりない策略だが、秦は生殺与奪の権を賢吾に握られながらも、こ うして艶やかな存在感を放ち、元気にしている。そのうえ、賢吾の許可を得て、和彦の〈遊び相手〉という立場に収まっている。
 よくこの店に招待できたものだと、見た目に反した秦の神経の図太さに、和彦は感心すらしてしまう。
「……中嶋くん に肩入れしたくなる……」
 聞こえよがしに和彦が呟くと、慣れた手つきで氷を砕きながら、秦が囁くような声で言った。
「わたしなりに、必死に考えたんですよ。中嶋の出世を祝いたい気持ちもあるし、中嶋の思い詰めた顔も見たくないという気 持ちもあって」
「だからといって、ぼくを巻き込むな。この間、確かそう言ったはずだ」
 グラスに氷を入れた秦が、嫌 味なほど清々しい微笑みを浮かべた。
「それは、無理ですね。わたしも中嶋も、先生が好きですから」
 グラスとウィス キーのボトルをカウンターに置かれ、和彦はそれらを持って席に戻る。すると中嶋が、肩に腕を回してきた。
「――二人して、 内緒話ですか」
 いかにも酔っ払いらしい気の抜けた笑みを向けてくる中嶋だが、芝居の可能性が高い。
 切れ者のヤク ザで、恩人ですら利用できると断言するしたたかさを持つ反面、その恩人が絡むときだけ、妙に〈女〉を感じさせ、健気さすら見 せるこの青年を、和彦なりに傷つけたくないと思っている。
 周囲にいる男たちからは甘いと笑われるだろうが、中嶋に対し て友情めいた感情を抱きつつあるのだ。
「出世祝いに、君に何か贈ったほうがいいだろうかと、相談してみたんだ」
 和 彦のウソに、中嶋は一瞬真顔となってから、次の瞬間には困ったように眉をひそめた。やはり、酔ったふりをしていたのだ。和彦 のウソなど、簡単に見抜かれた。
「……先生は、甘いですね。男に対して」
「この世界で生きていく武器だ――と、最近 思わなくもない。千尋みたいに、見た目からして犬っころみたいな奴なら、いくらでも頭を撫でてやれるんだが、それ以外の男た ちは、可愛いとは言いがたい。だけど、甘やかしたくなる。ヤクザなんて、この世でもっとも親しくなりたくない人種だっていう のにな。自分で自分の甘さが、嫌になる」
 そう言いながらも和彦は、自分の口調が柔らかだという自覚はあった。
 グ ラスをゆっくり揺らしてから、ウィスキーを一口飲む。美味しい、と思わず洩らしていた。中嶋の元には、琥珀色が美しいマンハ ッタンが置かれ、しっかりとチェリーも添えられている。
 秦は、中嶋の満足そうな顔を見て小さく微笑むと、自分の分のカ クテルを作るため、カウンターに戻る。
 もてなされる側の和彦と中嶋は、ゆったりと美味しいアルコールを楽しんでいるが、 もてなす側に回っている秦は、テーブルとカウンターを行き来して、なかなか慌ただしい。
 もっとも、秦本人は楽しそうに しているので、かつての仕事柄というより、人にサービスすることが好きな性質なのかもしれない。
 しかし、いくらこんな ことを推測しても、秦の本性に触れた気がしない。相変わらず謎の男のままだ。
 機嫌よく飲んでいるうちに、次第に和彦も 緊張を解く。いい思い出があるとは言いがたい店であることや、一緒に飲んでいる面子にクセがあるということを差し引いて、そ れでも気分はよかった。
 護衛を待たせているという心苦しさを感じなくていいのが、その気分に拍車をかけている。
 カ ウンターに入ってオレンジを絞っている秦を、ソファの背もたれに腕を預けて和彦は眺める。
「――ああいう姿を見ていると、 秦静馬というのは何者なんだろうかと思えてきません?」
 和彦と同じような姿勢となって、中嶋が話しかけてくる。
「何者なのかはともかく、抜け目がないな。物騒なことに巻き込まれたと思ったら、いつの間にか、長嶺組を後ろ盾にしたんだ」
 若い頃、警察に目をつけられるようなこともしているらしい秦だが、結局、補導歴も逮捕歴もないのだ。やはり、抜け目が ない。
「あまり、何者なのか考えないほうがいいのかもしれない。ぼくは今みたいな生活を送っていて、自分の好奇心に折り 合いをつけている。知りたいこと、知りたくないこと、知ったところで、つらくなるだけのこと――」
「俺も、わかってはい るんですけどね。ただ、秦さんと知り合って十年以上になるのに、ほとんど何も知らないっていうのは、けっこうキツイ」
  中嶋は、苦々しげに唇を歪めていた。そんな表情を目にして、和彦のほうが胸苦しくなる。
 思わず立ち上がると、中嶋が驚 いたように見上げてきた。
「先生?」
「ちょっと酔ったみたいだから、顔を洗いに行ってくる」
 そう告げて、パウ ダールームに向かう。
 店内以上に、和彦にとってこのパウダールームは、恥辱の記憶に満ちていた。ここの洗面台に押さえ つけられ、秦に――。
 これ以上思い出すと、秦だけでなく、中嶋の顔までまともに見られなくなりそうだった。和彦は唇を 噛むと、鏡に映る自分の顔から視線を逸らす。
 水で濡らした手を頬に当て、熱を冷ます。秦が作ってくれたミモザを飲んだ ら、あとはソフトドリンクをもらって今夜の締めにしようと思った。深酔いして、明日に響くのは避けたい。
 パウダールー ムを出た和彦が店内に戻ったとき、思いがけない光景が繰り広げられていた。
「なっ――……」
 秦と中嶋がキスしてい た。正確には、カウンター内にいる秦のシャツの襟元を掴み寄せ、身を乗り出すようにして中嶋が強引にキスしているのだ。
 キスしているほうの中嶋はこちらに背を向けているため、どんな顔をしているかは見えない。ただ、必死さは伝わってくる。一 方の秦は、落ち着いていた。和彦と目が合うと、まるで子供の駄々を許す大人のような、ひどく優しい眼差しをしているとわかっ た。
 どういう状況なのだと、和彦は軽く混乱する。混乱しながらも、自分はここにいてはいけないと――中嶋の邪魔をして はいけないと思い、慌てて自分が座っていた席へと戻る。
 あたふたしながらダッフルコートとマフラーを取り上げたところ で、やっと中嶋が振り返った。
 店内には、なんとも気まずい沈黙が流れる。そんな中で、秦だけは艶やかな笑みを浮かべて いた。
 優しいのか冷たいのかよくわからない笑みだなと思った途端、和彦はむしょうに秦に対して腹が立った。


「――恥ずかしいところをお見せしました」
 コンクリートの冷たい階段に腰掛けると、中嶋は自嘲気味に言った。缶入りの 熱いお茶を啜りながら和彦は、つい眉をひそめる。
「ぼくに対して、謝らなくていい。……酔っていたんだから仕方ない、な んて慰める気はないからな」
「……いざとなると、キツイですね、先生は」
 別に、あんな光景を見せた中嶋を責めたい わけではないのだ。責めたいのは、あんな行動に出るまで中嶋を追い詰めた、秦のほうだ。
 こう思ってしまう時点で、和彦 は物事を冷静に見ていないのだろう。きっと、中嶋に肩入れしている。思いがけないキスシーンを見ただけで、そこに至るまでに 何があったのか、実はまだ説明を受けていないというのに。
 中嶋に腕を掴まれ、足早に秦の店をあとにした。そのまま帰宅 するのかと思ったが、連れてこられたのは人気のない公園だった。冷たい風が容赦なく吹きつけてくるが、頭を冷やすには最適か もしれない。
「最近、秦さんと前みたいにつき合えないんですよ。微妙に避けられているというか、距離を置かれているとい うか。今夜は、先生をダシに使わせてもらいました」
「そんなことだろうと思った」
「迷惑かけついでに、すみませんが、 俺を慰めてくれませんか」
 本気で言っているのだろうかと、和彦は隣に座った中嶋の顔をまじまじと見つめる。中嶋は、ヤ クザらしくふてぶてしい笑みを浮かべていた。もしかしてからかわれているのだろうかと思ったぐらいだが、気弱な表情を見せら れるよりはいいかもしれない。
 和彦はもう一口お茶を飲んでから、ふっと息を吐き出す。
「――彼なりに、君を気づかっ ているんじゃないか。自分は集団で襲われて、そのトラブル処理のために、長嶺組に後ろ盾になってもらった。多分、長嶺組長に 何か弱みを握られたんだろ。一方で、君は総和会の中で確かな地位を築き始めた。……自分の事情に巻き込んで、元後輩の足を引 っ張りたくないのかもしれない、と甘いぼくは考えてしまう」
「本当に先生は甘いですよ。ヤクザの世界なんて、そう甘くも ないし、綺麗事は大抵通じない」
「ぼくだって、無理してこの理屈を捻り出してやったんだ。黙って頷いておいてくれ」
 ヤクザの体面を取り繕ってやるのも大変だと、和彦はお茶を飲みながら思う。
 本当は中嶋も、和彦が今言ったようなこと を薄々感じているはずだ。それを素直に認められないのは中嶋が、甘くなく、綺麗事も通じないと言い張るヤクザだからだ。秦は 秦で、正体の掴めない男であるが故に、容易に本心など晒したりはしないだろう。
「……秦さんは、一体何者なんですか」
「さあな。長嶺組長は知っているようだが、ぼくは知りたいとは思わないし、聞いたところで話さないだろうな。一応、ヤクザの 世界に限りなく近い場所にはいても、彼は普通の実業家だ。胡散臭くても」
 和彦の表現に、中嶋は苦しげに笑い声を洩らす。 その姿を横目で見ながら和彦は、こう思わずにはいられなかった。
 やはり中嶋は、秦に関することだけは、〈女〉を感じさ せる。猜疑心が強くて、粘着質で、嫉妬深くて――健気だ。
「罪な男だな。秦静馬って男は」
 和彦の言葉に、ニヤリと 笑って中嶋が乗った。
「秦さん以上に罪な男の先生が、何言ってるんですか」
「そういうことを言うと、今後君を慰めて やらないからな」
 次の瞬間、ふいに首の後ろに手がかかり、引き寄せられた。驚く和彦の眼前で、中嶋は真剣な顔をしてい た。
「だったら、もう少し慰めてください」
 中嶋に唇を塞がれ、さすがに体を強張らせた和彦だが、不思議に抵抗しよ うという気にはなれなかった。スポーツジムで中嶋に初めてキスされたときも思ったが、どれだけ唇を吸われようが欲情を刺激さ れない、しかし心地のいいキスだった。
 和彦は中嶋の唇を吸い返しながら、探るように舌先を触れ合わせる。数回それを繰 り返したところで、中嶋に求められるまま緩やかに舌を絡め合っていた。
 あくまで、中嶋を慰めるために。









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