「――俺との約束を忘れたのかと思ったぞ」
春巻を一口食べて、味に納得したように頷いてから、唐突に澤村が切り出す。
和彦は苦笑を洩らしながら、酢豚を堪能する。値段が手頃なランチメニューなのだが、値段以上の価値がある味だ。
先日、
中嶋に連れてきてもらってディナーを食べた中華料理店に、ぜひもう一度訪れたいと思っていたところだったので、澤村とランチ
を一緒に、という約束を果たすには、うってつけの店だろう。
店はホテル内にあるため、常にさまざまな人が行き交ってい
る。そのため、護衛をホテルの駐車場に待機させておいても目立たない。和彦の予定としては、食事後、澤村と別れてからは、ホ
テル内で買い物をするつもりだった。
「仕事で忙しかったんだ。それに、友人の相談に乗ったりしていた」
「ほお、友
人……。新しい職場でできたのか」
「……まあな」
テーブルを挟んで、和彦と澤村の間に微妙な空気が流れる。情報を
隠そうとする者と、なんとか探ろうとする者との、軽いジャブの応酬といったところだろう。
和彦のガードが堅いと悟った
のか、澤村は肩を竦めて春巻の残りを食べる。
「いいさ。相変わらず元気そうだし、何より、いい物を着ている。少なくとも、
荒んだ生活を送っているようには見えない」
「荒んだ、か。澤村先生がどんなことを想像していたのか、聞くのが怖いな」
「俺にこんな心配をさせたくなかったら、来月もランチにつき合えよ」
「そうだな。年明けから、ぼくも忙しくなりそうだか
ら、友人とゆっくりバカ話できるうちに、楽しんでおこう」
「知的な会話と言えよ」
かつてのように澤村と、他愛ない
会話を交わしながら、笑い合う。
澤村と会うまでは、今の生活を気取られるのではないかと身構え、緊張もするのだが、こ
うして会って話してしまえば、ほっとするし、楽しい。自分は何を心配していたのかとすら思えてくる。
だが、かつては毎
日味わっていた気楽な時間も、そろそろ終わりに近づいてきた。
食器が下げられ、代わって、デザートの杏仁アイスクリー
ムが運ばれてくる。
わずかな寂しさを覚えながら和彦がスプーンを取ろうとしたとき、異変を感じた。ハッとして
周囲を見回すが、気づいたのは和彦一人なのか、同じような行動を取っている人間はいない。みんな、食事と会話を楽しんでいる
ようだ。
「どうかしたのか、佐伯」
澤村に声をかけられ、和彦は正面に向き直る。
「いや……、なんか、変な気配
を感じたというか……」
「気配?」
「気のせいかな。誰かに見られていたような感じがしたんだ」
そう答えながら、
もう一度周囲に視線を向ける。
「お前、疲れてるんじゃないか。意外に神経質なところがあるからな。それで神経が過敏にな
ってるってことはないか?」
「……ああ、そうかもしれない」
表の世界から、裏の世界へと引きずり込まれたときから、
和彦は庇護される存在となった。守られることが、当たり前の生活となったのだ。その生活に慣れてしまうと、組の人間から離れ
て行動することに多少の不安感を覚える。
友人と楽しい時間を過ごしていながら、その不安感は消えなかったらしい。
「あまり気にするなよ。少なくともお前以外は気づいてないみたいだし」
「そう、だな……」
そう答えはしたものの、
実は釈然としなかった。もしかすると和彦が気づかない間にも、〈誰か〉の視線は、自分にまとわりついていたのかもしれないの
だ。そう思うと、少し不気味だった。
和彦の一言が水を差した形となり、なんだかぎこちない空気となる。デザートを黙々
と食べるだけで、会話が弾まない。
結局そんな空気を引きずったまま、約束通り今回は、和彦が二人分の支払いを済ませて
店を出る。すると、和彦ではなく澤村が、ほっとしたように大きく息を吐き出した。目が合うと、店内でのことなど忘れたように
笑いかけてきた。
「来月は、俺が知っている美味い店に連れて行ってやる。ただし、クリスマス時期は外すからな。俺とクリ
スマスを過ごしたがる女の子たちを、寂しがらせるわけにはいかない」
甘い笑みが似合う整った顔立ちで、女の扱いも上手
く、サービス精神も旺盛な澤村が言うと、冗談には聞こえない。もしかすると本当に、澤村のクリスマスのスケジュールは時間単
位で埋まるかもしれない。
「……はいはい。澤村先生が大変おモテになることは、存じております」
「慇懃無礼とは、ま
さにこのことだな、お前……」
澤村と並んでエレベーターへと向かいながら、和彦は内心で驚いていた。今言われるまで、
来月のクリスマスなどまったく忘れていたからだ。
もともとイベント事に疎く、興味もないため、誰かと集まって騒ぐこと
もなかったのだが、今年は特別だ。特殊な環境で日々を過ごし、普通の人間であればありえないような出来事を体験してきた。世
間と切り離されたような世界にいても、人並みに何かのイベントに立ち合えるかもしれない。
ここでふと、ヤクザにもクリ
スマスなど関係あるのだろうかと考えた途端、和彦は顔を伏せて笑ってしまう。あまりに似合わなくて、おかしかったのだ。
「どうした、佐伯?」
「今年はいろいろあったから、クリスマスぐらい能天気に楽しめるかなと思ったんだ」
「いい傾向
じゃないか。お友達と集まって、クリスマスパーティーでもしたらどうだ」
明らかにからかわれているとわかり、笑いなが
ら和彦は、澤村の脇腹を肘で小突く。
エレベーターで一階に降り、当然のように澤村はロビーに向かおうとしたが、和彦は
立ち止まって声をかける。
「澤村、ぼくはここで」
振り返った澤村が、不思議そうに首を傾げる。
「車で来たんじ
ゃないのか? 駐車場はこっちからのほうが近いだろ。タクシーに乗るにしても――」
「ホテルのショッピングアーケードで、
ちょっと買いたいものがあるんだ」
「買いたいもの?」
「手袋。それに、マフラーも変わった色合いのものがあれば欲し
いなと」
和彦は、首に巻いたマフラーの端を弄ぶ。実は昨日、千尋と会ったとき、もう少し華やかな柄や色のマフラーを巻
いてはどうかと言われたのだ。渋い色のマフラーばかりなのもどうかと思っていた和彦としては、当然、買い物好きの血が騒ぐ。
「残念。俺も時間があればつき合いたいところだが、これから用があるんだ」
「せっかくクリニックが休みだっていうの
に、忙しいみたいだな」
「俺の体は一つしかないっていうのに、女の子たちが独占したがってな」
適当な返事をした和
彦はヒラヒラと手を振り、澤村は笑いながらロビーへと向かう。その後ろ姿を見送ってから、さっそく和彦も場所を移動する。
紳士用品を扱っているショップに入り、手袋が置いてあるスペースにまっすぐ向かおうとして、その途中で目についたワイシャ
ツについ気を取られる。
今の生活で和彦は、スーツを着る機会はそう多くない。今日は澤村と会うため、無難にスーツを選
びはしたが、普段はラフな服装で過ごしている。対照的に、スーツばかり身につけているのは、和彦の〈オトコ〉のほうだ。
地味な色のスーツに合わせて、ワイシャツの色もごくありふれたものばかりを身につけている三田村に、注文をつける気はない。
地味ではあっても、いい品を選んでいることを和彦は知っている。
二人が逢瀬に使っている部屋にワイシャツの買い置きが
ある。その中に、新しく買ったものを紛れ込ませておこうかと思いながら、陳列されているさまざまな色のワイシャツを眺める。
「――ワイシャツをお探しですか、お客様」
目移りしている和彦に、そう話しかけてきた人物がいた。その声と口調に
は覚えがあり、同時に懐かしい。
思わず笑みをこぼした和彦が隣を見ると、スーツ姿の千尋が立っていた。意外な場所での、
意外な出会いだ。
「その口調を聞くと、お前と初めてカフェで会ったときを思い出すな」
「なかなかの好青年っぷりだっ
たろ。今はさらに磨きがかかって――」
「スーツ姿も板についてきたな」
和彦がこう言うと、千尋は嬉しそうに目を輝
かせる。和彦は周囲を見回してから、そんな千尋の頬を軽く抓り上げた。
「……ところで、なんでお前がここにいる。仕事じ
ゃないのか」
「仕事とはいっても、ちょっとした雑用で、もう終わったよ。だから、先生が今日、澤村先生とここでメシを食
うって聞いてたから、寄ってみたんだ。でも、メシ食ってるとこに顔出すわけにはいかないじゃん?」
「そうだな」
「先
生のことだから、昨日、俺が言ったことを気にかけて、さっそく新しいマフラーを探してるんじゃないかと思ってさ。ここに来る
と踏んでたわけ」
得意げに話す千尋だが、和彦が立ち寄らなければどうするつもりだったのだろうと、思わなくもない。せ
めてメールでも送ってくれたら、澤村と別れたあと簡単に待ち合わせもできたのだ。それをしなかったということは――。
和彦は千尋の腕を引っ張り、マフラーを置いてあるスペースへと移動する。
「気をつかってくれたんだな、千尋。ぼくの邪魔
をしないように」
「どうかな。なんか、かっこいいじゃん。待ち合わせもしてないのに、俺が先生の行動をピタリと予測して、
こうして会えるなんて」
子供っぽいことを言う千尋の顔つきは、すでにもう立派な青年のものだ。いつもはこんな凛々しい
顔で、長嶺組の跡継ぎとして忙しく仕事をし、人と会っているのだろう。
「お前に行動を予測されるなんて、自分が単純だと
言われてるようで、軽くショックだ……」
「ひでーよ、先生。俺こそ、どれだけ先生に単純だと思われてるんだよ」
た
まらず声を洩らして笑った和彦は、並んでいるマフラーを指さす。
「お前の予測だと、ぼくのマフラーを一緒に選ぶ、という
のも入ってるのか?」
もちろん、と返事をした千尋が、率先してマフラーを取り上げ、和彦の首元に持ってくる。その状態
で、側に置かれた鏡を覗き込んだ和彦は、今度こそ本気で驚いて目を見開く。反射的に振り返ると、そこには、さきほど別れたば
かりの澤村が立っていた。
和彦以上に驚いた様子の澤村は、咄嗟に言葉が出ないのか、物言いたげな表情で千尋を指さした。
和彦は慌ててマフラーを千尋に押し返し、澤村に歩み寄る。
「どうかしたのか、澤村先生。女の子たちを待たせているんじゃ
ないのか」
冗談交じりに言ったつもりだが、動揺して声が上擦ってしまい、ひどく不自然な話し方になってしまう。澤村は
ようやく我に返ったのか、ぎこちなく頭を動かした。
「……えっ、ああ、そうなんだ、が――」
澤村の視線は、まっす
ぐ千尋に向けられる。千尋は困ったように頭を掻いたあと、人好きのする感じのいい笑顔を浮かべた。カフェでバイトしていた頃
は、千尋はこの表情がトレードマークだったのだ。
「お久しぶりですね、澤村先生」
千尋から屈託なく声をかけられ、
澤村はうろたえた素振りを見せながら答えた。
「あっ、えっと……、久しぶり。長嶺くん」
まるで助けを求めるように
澤村から目配せされ、和彦も驚いている場合ではなくなる。
明らかに、和彦と千尋が一緒にいるのは不自然なのだ。澤村の
同僚であった頃も、和彦たちは関係を隠しており、カフェで顔を合わせるときも、あくまで客と従業員として接していた。その後、
和彦は逃げるようにクリニックを辞め、千尋もまた、カフェのバイトを辞めた。
時期は微妙にズレているが、澤村の前から
姿を消した二人が、こうして一緒にいて親しげにしていれば、何かしら不審なものは感じるはずだ。
「長嶺くんとは、街で偶
然会ったんだ。そのとき彼に、バイトを辞めたあとのことを相談されて、たびたび会っているうちに、まあ……、こんなふうに一
緒に出歩くようになった。今日は、時間が合えば、外でお茶でも飲もうってことを話していて……」
「そうなんです。佐伯先
生と一緒だといろいろ奢ってくれるから、俺がよく誘うんですよ。就職活動中のフリーターには、ありがたくて」
咄嗟の機
転は千尋のほうが上だと、内心で和彦は感心する。和彦はまったく気が回らなかったスーツ姿の理由まで、違和感なく説明してし
まった。
千尋にさりげなく腕を小突かれた和彦は、深く追究される前に澤村に問いかけた。
「どうしてここに? 用が
あるんじゃなかったのか」
この瞬間、澤村の視線が落ち着きなく動く。必死に言い訳を〈探して〉いるのだと、和彦は思っ
た。
「あー、駐車場に行こうとして、家にハンカチを忘れたのを思い出したんだ。それで、ついでだからお前と一緒の店で買
おうかと思って、追いかけてきたら――」
千尋がいたというわけだ。
気まずい空気が三人の間に流れ、和彦はどう会
話を続けようかと悩む。すると、空気を読んだのか、澤村は片手を上げた。
「じゃあ、俺はこれで。急いで行かないといけな
いんだ」
言葉通り、澤村はハンカチ一枚を素早く選んで買い求めると、もう一度和彦たちに向けて片手を上げたあと、立ち
去ってしまう。
「――澤村先生、絶対おかしいと思ったよね」
隣に立った千尋がぽつりと洩らし、思わず和彦は苦笑い
を浮かべる。千尋に押し付けたままのマフラーを受け取ると、鏡を覗き込む。
「おかしいと思っても、またぼくと会ってくれるか
どうかは、澤村に任せる。ぼくが厄介事に巻き込まれていると知っていても、連絡をくれるような男だ。そのうえで、ぼくとお前
の関係をどう判断しても、文句は言えない」
「でも、ちょっとショック?」
一緒に鏡を覗き込んできた千尋は、不安そ
うな顔をしていた。自分と一緒にいるところを澤村に見られ、和彦の心が揺れる事態を心配しているのかもしれない。
「……そ
うだな。澤村がもう連絡をくれなくなったら、少しはショックかもしれない。だけど、それなら仕方ないとも思っている。友人だ
からというのもあるが、澤村は、今のところぼくにとって、表の世界と繋がる数少ない人間なんだ」
だけど最近の和彦にと
って表の世界は、遠くに離れた場所にあり、漠然と眺めるものになってしまった。なんらかの執着を感じているのかどうか、もう
自分でも判断がつかない。
「未練がましく堅気の人間と親しくしているのも、もう限界なのかもな」
「先生……」
痛みを感じたように顔をしかめた千尋の頬を、和彦は軽く抓り上げる。
「ほら、千尋。マフラーを選べ」
きゅっと唇を
引き結んだ千尋は、大きく頷いたあと、ニッと笑みを浮かべた。
文庫を開いたまま畳に伏せて、片腕ずつ動かす。うつ伏せで、枕を抱えるような姿勢でずっと本を読んでいたため、背と腕が痛
い。
そろそろ寝ようかと思いながら和彦は、仰向けとなる。枕元のライトだけでは、美しい木目の天井を照らすことができ
ず、まるで怪物のような闇が張り付いている。
耳を澄ませば、微かながら人の話し声や物音が聞こえてくる。それに、中庭
に吹き込んでくる風の音も。
常に人が出入りする長嶺の本宅を気忙しいと最初は感じていたものだが、慣れてしまえば、こ
れはこれで居心地のいい空間だと思えてきた。本当に一人で落ち着いて過ごしたければ、今住んでいるマンションに閉じこもれば
いい。
つまり今の和彦は、一人でいたくない気持ちだということだ。
マフラーと手袋を買ったあと、千尋につき合っ
て街を少しぶらついていると、本宅に泊まらないかと切り出された。らしくなく、遠慮がちな表情を浮かべる千尋を見ていると、
甘いと言われそうだが、無碍には断れなかった。
意外なことに、本宅に着いてから知らされたのだが、今夜は賢吾はいない
そうだ。父親宅――というより、総和会会長宅に呼ばれて、そのまま泊まることになったらしい。
親子水入らずといえば微
笑ましいが、長嶺組組長と総和会会長という組み合わせだと考えると、なんとも物騒に思えてくるから不思議だ。
ぼんやり
と天井を見上げ、怪物のような闇にも慣れてきた頃、障子の向こうで抑えた足音がした。和彦が顔を横に向けると、静かに障子が
開く。
案の定、立っていたのは千尋だった。しかも、小脇にはしっかり枕を抱えている。
昼間、しっかりスーツを着
こなしていたくせに、これではまるで、図体の大きな子供のようだ。和彦は小さく噴き出すと、声をかけた。
「ぬいぐるみは
抱えてこなくていいのか?」
「俺が抱えるものは、別にあるから」
恥ずかしげもなく言い切られ、和彦のほうが恥ずか
しくなってくる。
「……バカ」
許可もしていないのに、千尋はいそいそと部屋に入ってきて障子を閉める。そして、ま
るで犬のように大きく身震いした。
「先生、この部屋寒くない? エアコン入れたらいいのに」
「寝るときに入れると、
空気が乾燥して喉が痛くなるから、あまり好きじゃないんだ」
「それじゃあ、俺の出番だね」
にんまりと笑った千尋に
布団を指さされ、仕方なく和彦は自分の枕の位置をずらして、スペースを作ってやる。ポンッと枕を置いた千尋が、布団に潜り込
んできた。
自分とは明らかに違う体温が、浴衣を通してじんわりと伝わってくる。和彦は片手を伸ばして文庫を閉じると、
その手で千尋の頭を抱き寄せてやる。可愛い〈犬っころ〉は、嬉々とした様子で和彦にしがみついてきた。
「――昼間のこと、
気にしてくれているのか?」
頭を撫でながら和彦が尋ねると、胸に顔を埋め、くぐもった声で千尋が答えた。
「俺と先
生とじゃ違うと言うかもしれないけど、堅気の人間が離れていく寂しさは、俺も知ってるし、避けられるのが嫌で、自分から離れ
たこともある。……いや、まだ、澤村先生が離れていくって決まったわけじゃないけどさ」
和彦は千尋の髪に顔を埋めると、
唇に笑みを刻む。
「お前、そんなに優しくて甘くて、本当に将来、長嶺組を背負っていけるのか」
「俺が優しくて甘いの
は、先生に対してだけだ。ヤクザとしての俺は……嫌な奴だよ。そうなるよう、努力している。なんといっても、大蛇の息子だか
らね」
「……大蛇の息子、か。お前もそのうち――」
話しながら和彦は、てのひらを千尋の背に這わせる。しなやかな
筋肉に覆われた体は、千尋だけが持っている感触だ。
「父親みたいに、大蛇の刺青を背中に入れるのかな」
千尋が着て
いるトレーナーの下に手を忍び込ませ、刺青の入っていない滑らかな肌を撫でる。千尋はブルリと身震いした。
「あっ、悪い。
手が冷たかったか」
「違う。先生の手つきが、ものすごくいやらしくて、興奮した……」
上目遣いに見上げてきた千尋
が、悪戯っぽく笑いかけてくる。そのくせ、ライトの光を受けた目は、強い輝きを放っていた。確かに、欲情している目だ。
胸の奥で妖しい衝動がうねるのを自覚しながら、和彦は努めて平静な声で告げた。
「おとなしく寝ろ。そうじゃないと、布
団に入れてやらないぞ」
「――先生、お母さんみたい」
和彦は、千尋の髪を軽く引っ張る。
「誰がお母さんだ」
「だって、俺にベタベタに甘いじゃん。……俺だけ、甘やかしてくれる」
「最近、お前にナメられてるだけじゃないかって気
がしてきた……」
「そんなことないよ。――甘えさせてよ、先生」
浴衣の襟元が開かれ、露わになった胸元に千尋の熱
い息遣いを感じる。次の瞬間、千尋の舌に胸の突起を探り当てられ、吸い付かれた。
「あっ」
千尋に強く突起を吸われ
ながら、布団の中で浴衣をたくし上げられたかと思うと、下着を引き下ろされる。尻を痛いほど揉まれて、たまらず和彦は小さく
呻き声を洩らした。
ようやく顔を上げた千尋と唇を触れ合わせる。
「……本当は、ぼくを甘えさせてくれるべきじゃな
いのか。なんだかいつの間にか、お前がぼくに甘える流れになってるが……」
「先生、甘えられるほうが好きだろ。だから、
たっぷり甘えてあげるんだ」
「父親と同じで、屁理屈を捏ねるというか、人を丸め込むのが上手いというか――」
ぼや
いているうちに和彦の上に千尋がのしかかってきて、布団の中で二人は抱き合う。
まるで人懐こい犬のように千尋が頬をす
り寄せ、唇を舐めてくる。くすぐったくて笑い声を洩らした和彦が顔を背けると、首筋に軽く噛みつかれた。
千尋は、じゃ
れついてくる犬っころそのものだ。和彦の肌を舐め、甘噛みしながら、見えない尻尾をフリフリと振っているのかもしれない。
淫らな行為に耽るというより、ふざけ合うような感覚で抱き合い、体を擦りつける。あっという間に布団の中に二人分の熱がこ
もる。
とうとう下着を脱がされてしまうと、身を起こしかけたものを千尋の手に握り込まれる。
「先生、俺も」
甘い声でねだられた和彦は、千尋のスウェットパンツと下着をわずかに下ろし、引き出したものを柔らかく握る。血気盛んな千尋
のものは、すでに熱くしなっていた。
互いのものを扱きながら、吸い寄せられるように唇を重ね、緩やかに舌を絡め合う。
和彦は、千尋のものの先端を指の腹で優しく撫でてやる。千尋の腰がビクビク震え、素直な反応が愛しかった。
「――可
愛いな、千尋」
和彦が柔らかな声で囁くと、お返しとばかりに、千尋に先端を爪の先で弄られる。
「あっ、あっ……」
「先生も、可愛い……というより、いやらしい」
「お前が言うな」
「先生と知り合ってからだよ。俺がこうなったの
は」
人のせいにするなという抗議の声は、千尋の唇に奪われた。口腔に差し込まれた舌が余裕なく蠢き、和彦は千尋の頭を
撫でながら、深い口づけを受け止める。
そうしている間にも、千尋の片手に尻を揉まれてから、指が秘裂に這わされた。頑
なな窄まりでしかない内奥の入り口を、乾いた指で擦られ、反射的に和彦は腰を揺らす。
「……ここ、舐めようか?」
ひそっと千尋に囁かれ、意識しないまま和彦の顔は熱くなる。
「いい……。濡らして、くれたら――」
千尋は自分の指
を舐めて唾液で濡らすと、すぐに和彦の内奥の入り口をまさぐり始める。布団の中で両足を大きく開いた格好で、和彦は千尋の愛
撫を受け入れた。
「なんか、親に内緒で悪いことしてる気分」
内奥に挿入した指を慎重に出し入れしながら、どこか楽
しげな調子で千尋が言う。和彦は小さく声を洩らしながら、そんな千尋の肩にすがりつく。
「いつも、悪いことばかりしてる
のかと思った」
「オヤジが家にいないときに、夜、こうして先生の布団に忍び込んで、エッチなことしてるなんて、いかにも
悪いことしてるって感じじゃん」
「……お前の感性はよくわからない」
和彦の発言への抗議のつもりか、千尋の指が付
け根まで挿入され、内奥で蠢かされる。その愛撫で官能が刺激され、体が肉の悦びを欲しがる。
「あっ、はあっ……」
内奥がひくつきながら、千尋の指を締め付けていた。襞と粘膜を撫で回され、円を描くように動く指によって内奥を解される。
顔を覗き込んできた千尋と啄ばむような軽いキスを交わしたあと、再び口腔深くに舌が差し込まれ、感じやすい粘膜を舐められ
る。
内奥への愛撫と、深い口づけが気持ちよかった。それに、布団の中での秘めやかな行為はなんだか新鮮だ。この家で何
度も千尋と体を重ねているが、こういう状況は初めてだ。いまさら隠すようなことでもないのに、つい声を殺し、息を潜めてしま
う。
我慢できなくなったのか、内奥から指を引き抜いた千尋が身じろぎ、代わって、熱くなったものを擦りつけてきた。
「んうっ」
逞しいもので内奥をゆっくりと押し広げられ、和彦は喉を反らす。大きく息を吐き出した瞬間、腰を掴まれ、深
く侵入される。苦しさと、襞と粘膜を強く擦り上げられる愉悦に、思わず和彦は細い悲鳴を上げていた。
「先生、そんな声出
されたら、本当に悪いことしてる気分になる。……先生の繊細な場所を、散らしてるって、気分――」
荒く息を吐き出した
和彦は、子供を窘めるように千尋を睨みつけた。
「……やっぱり、お前と組長は、性癖が特殊なんじゃないか」
「それ知
ってるの、先生だけだよね」
軽い口調で言われたが、本来は憂慮すべきことなのかもしれない。和彦が関係を持っている年
上の男と年下の男は血が繋がった父子で、しかも、長嶺組組長と、その次期後継者だ。
普通の神経をしていれば、この状況
は耐え難いだろう。だが和彦は、自分でも呆れるほどのしたたかさとしなやかさで、受け入れている。
もしくは、神経のど
こかが壊れているのだ――。
和彦が身震いをして千尋の背に両腕を回すと、機嫌を取るように千尋の唇がこめかみや頬に押
し当てられた。
「先生は、親に内緒で悪いことしたことないの?」
問われると同時に、内奥深くを千尋のもので犯され
る。和彦は声を上げ、腰を揺らす。
「突然の、質問だな……」
「先生が、家や親のことを言われるの嫌いだって知ってる。
ただ、なんとなく聞きたくなってさ。嫌なら、答えなくていいよ」
口ぶりからして、千尋も和彦の家族構成などは知ってい
るのだろう。賢吾が行った、和彦への身元調査の精度がどれだけのものかは予測もつかないが、それでも、家庭の内情を探ること
は不可能なはずだ。
なんといっても和彦の家庭は、〈完璧〉なのだ。
胸に広がりかけた冷たい感覚は、千尋のしなや
かで力強い律動によって消されてしまう。和彦は悦びの声を上げ、千尋の肩に額をすり寄せる。
「――……悪いことなら、し
たさ。だから、今のぼくがいる」
「聞いてみたいな。先生がどんな悪いことをしたのか」
「内緒だ。若いお前の自信を喪
失させたら、悪いしな」
大げさに情けない顔をした千尋を、和彦は甘やかす。頭や背を撫で、耳元に熱い吐息を吹き込む。
若い獣が疾走するように、千尋の律動が激しさを増し、脆くなった襞と粘膜を強く擦り上げられる。
「ああっ、あっ、あっ、
千、尋っ――」
「いいよ、先生……。奥が、すごくヒクヒクしてる。ここも、ヒクヒクさせてあげる」
そう言って千尋
の指に、繋がった部分を擦られる。和彦は腰を揺らして悦び、内奥全体をきつく収縮させる。締め付けが心地いいのか、千尋が執
拗に腰を突き上げ、押し寄せてくる快感に和彦は身悶える。
「ふっ……、んっ、んんっ、んあっ」
和彦の切迫した息遣
いに感じるものがあるのか、千尋の手が、反り返って震えるものにかかる。指先で形をなぞられ、たまらず和彦が悩ましく腰を動
かすと、しっかりと握り締められて、扱かれる。
「あうっ……」
千尋の動きが大きくなり、とうとう布団を跳ね除けて
しまう。それを見た和彦はつい笑ってしまうが、次の瞬間には息を詰める。千尋の愛撫に促され、精を放っていた。
内奥に
収まっている逞しい欲望をこれ以上なくきつく締め付けると、今度はその感触を堪能するように、千尋は動きを止める。和彦は、
そんな千尋の脈打つものの感触を、蕩けそうになっている内奥で堪能する。
欲望を素早く内奥から引き抜いた千尋は、和彦
の下腹部に精を放った。
和彦は息を喘がせながら、自分の下腹部に散ったどちらのものとも知れない精に、指で触れる。そ
れを見た千尋は、慌てた様子でトレーナーを脱いだ。
「先生、汚れるよっ」
脱いだトレーナーで下腹部を拭ってくれた
千尋に、和彦は呆れつつも笑いかける。
「お前のトレーナーが汚れたじゃないか」
「こうするのは、俺の義務」
和
彦はのろのろと片手を伸ばして、千尋の頭を撫でてやる。くすぐったそうに首をすくめた千尋だが、すぐにてのひらに頬をすり寄
せてきた。
千尋が本当に、父親のような大蛇を背負いたがっているのかはともかく、自分のために、こういう犬っころのよ
うに人懐こい部分は残しておいてほしいなと、和彦はふと思う。
長嶺組の後継者に対して、ある意味非道な望みかもしれな
いが。
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