軽く咳き込んだ和彦は、モゾリと身じろいで寝返りを打つ。うつ伏せとなって、布団から手を出してみると、肌に触れる空気は
ふんわりと温かい。
誰かが気を利かせて、客間のエアコンを入れてくれたようだ。おかげで、朝の身震いするような寒さは
感じなくて済むが、その代わり、ひどく空気が乾燥している。
もう一度咳き込んだ和彦は、ようやく薄く目を開く。障子を
通して、朝の柔らかな陽射しが室内に満ちていた。
緩慢にまばたきを繰り返しながら、どうして今朝は、体が心地いい充足
感に満たされているのだろうかと考えてすぐに、小さく声を洩らす。布団に包まった体の体温が、わずかに上がったようだ。
昨夜は、千尋と体を重ねたあと、しばらく布団の中で睦み合っていたのだが、そのうち眠ってしまった。よほど眠りが深かった
のか、千尋が布団を出たことすら気づかなかった。
千尋の寝顔を見ておきたかったなと心の中で呟いた和彦は、すでにいな
い青年の姿を思い返しながら、敷布団の上にてのひらを這わせる。
このとき、なんの前触れもなく布団を剥ぎ取られた。寝
起きということもあり、反応が鈍くなっている和彦は、数秒の間、何が起こったのかわからなかった。そもそも、部屋に人がいる
ことすら気づいていなかったのだ。
「えっ……」
ようやく声を洩らしたとき、和彦は力強い腕によって腰を抱え上げら
れ、浴衣をたくし上げられた。下着は――つけていない。千尋との行為のあと、しどけなく絡み合っているうちに眠ったため、無
防備な状態のままだった。
「や、め――」
わけがわからないまま声を上げたときには、千尋を受け入れた余韻がまだ残
っている内奥に、指らしきものが挿入されてきた。
「あううっ」
本能的に体を強張らせて拒絶しようとしたが、柔らか
く解れ、湿りを帯びた内奥は、異物をすんなりと呑み込んでしまう。
何かを確認したかっただけらしい。すぐに指は引き抜
かれ、代わって押し当てられたのは、熱く硬い感触だった。和彦の内奥が、十分に欲望を受け入れられると判断したのだ。
混乱しながらも、なんとか前に逃れようと片手を伸ばしたが、内奥の入り口に擦りつけるようにして、逞しいものが押
し込まれてきた。
「うあっ……」
和彦は声を上げると、畳に爪を立てる。
もう、わかっていた。この場所で、こ
んなにも自分勝手で強引な行為ができる男を、和彦は一人しか知らない。そして和彦は、その男の〈オンナ〉なのだ。
「……あ
んたは、獣かっ」
唸るように和彦が言葉を投げつけると、腰を抱え直され、突然の乱暴な行為に喘ぐ内奥を、容赦なく熱い
欲望で押し広げられる。昨夜、千尋のもので強く愛されたばかりの襞と粘膜は、和彦自身の意識よりも早く、覚醒していた。
「んあぁっ」
痺れるような肉の疼きが生まれ、一気に腰に広がり、背筋を這い上がってくる。寝起きには強烈すぎる感覚に、
自分は夢を見ているのではないかとすら思った和彦だが、内奥への侵入が深くなるに伴い、再び疼きを認識した。
「ひっ……、
あっ、んんっ」
双丘を痛いほど割り開かれ、腰を突き上げられる。深く繋がっていく過程を見つめられているのだと思うと、
苦しさよりも羞恥が上回る。しかし羞恥は和彦にとって、官能を刺激する媚薬だ。傲慢な腰使いに、すがるように和彦も動きを合
わせてしまう。
「――目が覚めたか、先生」
背後からかけられたバリトンの響きに、腰が疼いた。和彦は無意識に首を
小さく横に振ったが、声を聞かせろと言わんばかりに一際大きく腰を突き上げられ、悲鳴を上げる。
これ以上なくしっかり
と、賢吾と繋がった瞬間だった。
体の内から焼かれそうなほど熱い欲望の逞しさと力強さに、和彦はあっという間に従わさ
れる。抵抗することはもう許されない。多淫な体は、大蛇にがっちりと押さえ込まれ、あとは肉の悦びを引きずり出されるだけだ
った。
簡単に結んでいた帯を解かれ、浴衣を脱がされる。このときになって、客間を温めてくれたのは賢吾だとわかった。
和彦が寒さで体を強張らせることを、大蛇の化身のような男は望まなかったのだ。
「俺が、むさ苦しい連中が揃ったじいさん
のところから戻ってきたら、俺の息子と、俺のオンナが、温かな布団の中でヌクヌクと寝ているんだ。しかも、二人揃って無邪気
な顔してな。……どうだ。少しは俺を労わってやろうって気になっただろ?」
笑いを含んだ声でそんなことを言いながら、
賢吾の両手が体をまさぐってくる。促されるまま和彦は、敷布団に両手を突いて上体を起こした姿勢で、緩やかに内奥を突き上げ
られる。
「あっ……、あっ、あっ、んあっ」
「先生、俺を見ろ」
がっしりとした片腕で抱き締められながら、耳朶
を甘噛みされて囁かれる。のろのろと和彦が振り返ると、優しく唇を吸われた。間近で賢吾の顔を見つめる。賢吾も、愉悦に目を
細めながら、和彦を見ていた。
「さっき、誰のことを『獣』と言ったんだ?」
からかうように賢吾に問われ、思わず和
彦は睨みつける。
「……寝ている人間に、朝から襲いかかる男のこと、だっ……」
「それは、紳士的じゃねーな」
悪びれた様子もなく、澄ました顔で賢吾が応じる。この言動に腹が立つし悔しくもあるのだが、一方で、おかしくもある。
「あんた、ぼくと千尋の寝顔を、わざわざ見に来たのか?」
「どっちも、意味は違うが、俺にとっては可愛い存在だからな」
「えっ……」
突然、ぐいっと抱き寄せられた和彦は、繋がったまま、あぐらをかいた賢吾の両足の間に座らされた。内
奥を下から強く突き上げられ、ビクビクと腰が震える。
「――ここをじっくり可愛がってやる」
和彦の肩に唇を押し当
てながら、賢吾の片手が両足の間に差し込まれる。すでに反り返り、先端から悦びのしずくを垂らしているものを軽く扱いたあと、
賢吾の手はさらに深くへと入り込んできた。
「んうぅっ」
柔らかな膨らみをいきなりきつく揉みしだかれ、和彦は腰を
浮かせて逃れようとしたが、太い杭を内奥深くに打ち込まれているような状態だ。実際は、賢吾の片腕の中で身悶えただけだった。
「やっ……、そこ、嫌だっ……」
「嫌か? 最近はここでよく感じるようになっただろ。それに尻が、引き絞るように締
まってるぞ。遠慮するな、先生。腰が抜けるぐらい、感じさせてやる。いい寝顔を見せてくれたからな」
理屈はなんでもい
いのだ。賢吾はこうやって、和彦をいたぶる――淫らに攻めるのが楽しいのだ。
巧みに指が蠢き、ゾクゾクするような感覚
が込み上げてくる。弱みを弄られる怖さと、快感の塊を愛される悦びが混ざり合い、和彦を惑乱させる。
「んんっ、あっ、あ
っ、はああっ」
強い快感に身を捩るたびに、内奥でふてぶてしく息づく大蛇の分身を意識させられる。唆されるままにぎこ
ちなく腰を揺らすと、褒美とばかりに、柔らかな膨らみを手荒く揉み込まれた。
「くっ……ん、いっ、いぃ……」
快感
を知らせるように、何度も背をしならせる。すると、熱く濡れた舌に背を舐め上げられた。和彦は甲高い声を上げ、自分でもわか
るほどきつく、賢吾のものを締め付ける。この瞬間、精を迸らせていた。
和彦は体を震わせて息を喘がせる。本当はこのま
ま倒れ込んでしまいたいが、賢吾が許してくれなかった。
呼吸が落ち着くまで唇と舌を吸われたあと、再び敷布団の上に這
わされ、内奥を果敢に突き上げられる。
「イかせたばかりだっていうのに、もう尻が締まり始めたな……」
そう言って
賢吾の手が、両足の間をまさぐってくる。執拗に柔らかな膨らみを攻め立てられ、和彦は嗚咽をこぼす。突き出した腰がガクガク
と震えていた。しかし賢吾は容赦なく、内奥で力強い律動を繰り返すのだ。
「あうっ、ううっ、賢吾さっ……、んあっ、あっ」
放埓に声を上げながら和彦は、敷布団の端を握り締める。快感がつらいのに、それでも自ら大きく両足を開き、賢吾を求め
てしまう。そんな和彦に賢吾は、ゾクリとするような残酷で淫らな言葉をかけてきた。
「感じすぎて――漏らすまで、攻めて
やる」
このとき和彦が感じたのは恐怖ではなく、快感に対する純粋な期待だった。その証拠に、内奥を犯し続ける大蛇のよ
うに太い欲望を、和彦は柔らかな肉で締め付け、襞で舐め上げる。
「……高ぶったか、先生?」
愉悦を含んだ声で問い
かけてきた賢吾に、精を放ったばかりのものを掴まれ、きつく扱かれる。
「うあっ……、あっ、あっ、い、ぃ――」
「あ
あ、俺もいい。最高だ」
さすがの賢吾も限界が近いのか、腰を掴まれて乱暴に前後に揺さぶられる。容赦なく内奥深くを掻
き回すように抉られ、突き上げられ、和彦は何度となく悲鳴を上げる。その悲鳴が、凶暴な大蛇を高ぶらせた。
腰を抱え込
まれ、深く繋がる。和彦は、柔らかな膨らみを弄ばれながら、賢吾の精を叩きつけるようにして内奥に注ぎ込まれた。
「ひぁ
っ、あっ、はっ……ん」
腰を震わせながら、内奥で脈打っている賢吾のものを引き絞るように締め付ける。和彦の意思では
なく、体が勝手に反応しているのだ。
休む間もなく賢吾が再び動き始めたとき、和彦の唇からこぼれ出たのは哀願の言葉で
はなく、歓喜の声だった。
怒っていることを隠そうとしない和彦を、賢吾は楽しげに眺めている。横目でちらりと一瞥するたびに、芝居がかったような下
卑た笑みを向けてくるぐらいだ。それがまた、腹が立つ。
和彦はキッと賢吾を睨みつけてから、顔を思いきりウィンドーの
ほうに向けたが、馴れ馴れしく肩に腕が回され、半ば強引に抱き寄せられた。
「先生、怒っているのか?」
耳元に顔が
寄せられ、囁かれる。あごに手がかかると、力を込められるのが怖くて、結局和彦はまた、賢吾を見た。機嫌を取るように、優し
く唇を吸われる。
ここが移動中の車の後部座席だということを、もちろん賢吾は気にしていない。運転席と助手席には組員
たちが座っているが、完璧に存在感を消している。必要がない限り、振り返ることも、声をかけてくることもない。
彼らに
賢吾とのやり取りを見聞きされることに、和彦はもう慣れていた。しかし、今日は別だ。つい三十分ほど前まで、自分と賢吾が何
をしていたか、誰にも知られたくなかった。一応和彦にも、人間として最低限の慎みはあるのだ。
「……頼むから、余計なこ
とを言うな」
和彦が声を潜めて言うと、賢吾は嬉しそうに口元に笑みを刻む。この笑みがまた、性質が悪い。実に物騒に見
えるのだ。
「俺相手に、余計なことを言うなとは、大した度胸だな、先生」
「度胸の問題じゃない。恥じらいの問題だっ」
「恥じらい……。そそる言葉だな。特に、さっき俺の腕の中で――」
和彦は、慌てて賢吾の口を手で塞ぐ。それでも賢
吾は、目を細めるようにして笑いかけてくる。ムキになる和彦の反応が、楽しくてたまらないらしい。
口を塞いだ手を除け
られ、しっかりと賢吾の胸に抱き寄せられる。仕立てのいいダークスーツに包まれた体は、いつになく近寄りがたさを放っており、
触れることにためらいを覚えるが、逆らえない。すっかり抵抗する気が失せた和彦は、おとなしく身を任せる。
ヤクザとい
う人種が黒を身にまとったときの迫力は、圧倒的だ。静かな佇まいである分、底知れない闇を感じさせる。
本宅で、着替え
た賢吾を見たとき、和彦はその迫力に呑まれ、すぐには声が出せなかったぐらいだ。
特別な行事があると思わせるダークス
ーツを着た賢吾だが、こうして車に乗っていても、いまだに理由を教えてくれない。なぜ、自分まで連れて行かれているのかも、
もちろん和彦は知らない。
たまらなく体がだるくて、出かけるどころか、横になって休みたかったぐらいだが、嫌だという
暇すら与えられなかった。
振り回されるのはいつものことかと、ふっと息を吐き出した和彦は、おずおずと賢吾の肩に頭を
のせる。すると、賢吾にきつく片手を握り締められた。
その感触にわずかに体が熱くなる。同時に、腰が疼いた。和彦の体
の変化を感じ取ったのか、肩にかかった賢吾の手に、あごを掬い上げられる。咄嗟に顔を背けたかったが、射竦めるように強い眼
差しを向けられると、体が動かない。次の瞬間には、しっとりと唇が重なってきた。
さきほどまでの、朝とは思えないぐら
い濃厚な交わりは、和彦だけでなく、賢吾もまだ高ぶらせているようだった。
「――先生、舌を吸わせろ」
傲慢に命令
された和彦は、言われるまま舌を差し出し、賢吾にじっくりと舐られる。
「んっ……」
鼻にかかった声を洩らしたあと
和彦は、緩やかに賢吾と舌を絡め合う。握っていた手を離した賢吾は、ためらう様子もなく和彦の両足の中心をまさぐってきた。
また腰が疼き、座っているのもつらくなるほど、下肢に力が入らなくなる。
それほど、さきほどまでの賢吾の攻めは激しく
て、執拗だった。狂おしいほどの快感を、和彦に与えてきたのだ。
和彦の敏感なものを、賢吾は手慰みのようにスラックス
の上から揉みしだき始める。和彦はビクビクと腰を震わせながら、懸命に賢吾の手を押し退けようとする。
「やめろっ……。
人を、歩けなくする気か……」
「歩けなくなったら、俺が抱きかかえてやる」
「……絶対、嫌だ」
和彦が気丈に睨
みつけると、賢吾は満足したように表情を和らげ、軽く唇を吸い上げてきた。
「涙目でそういうことを言うのが、たまらないな、
先生」
「やっぱりあんたは、性癖に問題がありすぎる」
「だが、そういう俺に攻められると、感じるだろ? ――泣きじ
ゃくるほど」
最後の言葉は、耳に唇を押し当てて注ぎ込まれた。ここで和彦は限界となり、賢吾にしがみつく。まるで子供
をあやすように、賢吾は和彦の背を何度も撫でる。
和彦は、さきほどまでの自分の痴態を、嫌でも思い出してしまう。
眠っているところを叩き起こされるようにして賢吾に求められ、繋がり、快感を貪り合った。そのうえ賢吾は貪欲に、快感で追
い詰めてきたのだ。
ぐったりとした和彦は、賢吾に抱えられて風呂場に連れて行かれ、そこでさらに求められて、賢吾
の逞しいものを受け入れた。
快感で狂わされた和彦は、賢吾の淫らな攻めに耐えられなかった。内奥を突き上げられ、柔ら
かな膨らみを強く愛撫されながら、啜り泣いていた。泣きながら――。
強烈な感覚が蘇り、和彦は身震いする。そんな和彦
に再び深い口づけを与えてから、賢吾はバリトンの魅力をもっとも引き出す淫らな言葉を、耳元で囁いてきた。
「〈あれ〉は、
やみつきになりそうなほど、ヤバイな。だからこそ、俺と先生だけの秘密だ。……俺だけが知っている、先生の姿だ。〈あれ〉の
最中の声も表情も、体の震わせ方も、何もかも絶品だった。尻の締まり方もな」
激しい羞恥のため、全身が熱い。もしかす
ると、言葉だけで官能が刺激されているのかもしれないが、和彦としては認めるわけにはいかない。
賢吾が与えてきた快感
は、屈辱でもあるのだ。だからこそ、賢吾を満足させたのだろう。とにかく賢吾は、機嫌がよかった。
「先生の乱れ方を見て
いたら、お仕置きとしても使えるかもしれないと思ったんだが……」
一瞬、賢吾の言葉にドキリとしてしまう。やましいこ
とはないと断言できる生活を送っているつもりだが、少しだけ気にかかることはある。
中嶋の存在だ。戯れのようなキスを
二回交わしており、そのことを和彦は、賢吾に告げていない。たかがキス――というのは語弊があるが、悪いことをしたというよ
り、中嶋の繊細な部分を賢吾に踏み荒らされたくないと思っているのだ。
だから、やましいことはないと断言できる反面、
正直に告げられないという、奇妙な状況に陥っている。
「……お仕置きされるようなことを、ぼくがあんたにすると?」
羞恥と屈辱を押し殺し、和彦はきつい眼差しを向ける。賢吾はなんとも残酷な笑みを唇に浮かべてから、和彦のあごの下をくす
ぐった。
「それも、そうだな。先生は、大事で可愛いオンナだ。それに、憎まれ口を叩きながらも、俺に従順だ」
従順
の証を求められた気がして、和彦は賢吾の頬に手をかけると、自分から唇を重ねる。そこまでしてやっと、賢吾は満足したようだ。
肩を抱かれたままではあるものの、愛撫はやめてくれる。
肩から力を抜いた和彦は、賢吾の膝に手を置いた状態で問いかけ
た。
「――それで、ぼくはどこに連れて行かれるんだ」
「長嶺の傘下の組が、内輪で跡目の披露式をやるんだ。そこに顔
を出す」
ダークスーツの理由が、これで判明した。ただし和彦は、昨日、澤村と食事をするために選んだ、明るいグレーと
ブラックのストライプのスーツ姿だ。まさか、本宅に泊まったうえに、こうして賢吾に連れ出される事態になるとは、思いもしな
かったのだ。
思わず自分の格好を見た和彦に、賢吾が言った。
「よく似合ってるぞ、先生」
「前に、千尋が選んで
くれたんだ」
「さすが、俺の息子だ。好みが一緒だ」
そういうことは別に知りたくないと、和彦がちらりと視線を向け
た先で、賢吾は唇の端をわずかに動かした。
「心配しなくても、仰々しい場じゃない。あくまで内輪での祝い事に、俺が祝い
酒を持ってちょっと顔を出すだけだ。先生は俺の隣で、澄ました顔して挨拶をすればいい」
「えっ……、ぼくも、あんたにつ
いて行くのか?」
「俺のオンナだからな」
本気とも冗談とも取れる口調で、さらりと言われた。目を丸くしたまま返事
ができない和彦を楽しそうに一瞥して、賢吾は膝に置いた手の上に、自分の手を重ねてきた。
「――お前は、長嶺組の専属医
だ。当然、長嶺の看板でメシを食っている奴らの面倒を見て、命を守っていくんだ。臆する必要はない。堂々としていればいい」
賢吾の言葉に、面映くならないと言えばウソになる。ただ、嬉しい、と素直に認めてしまうのは抵抗がある。長嶺賢吾とは、
長嶺組の看板そのものの男だ。身内の集まりとはいえ長嶺組以外の場で、そんな男の側に一介の医者が控えているのは、どう考え
ても不自然だ。
その不自然さを、賢吾は受け止めるつもりなのだ――。
思わず和彦が賢吾の手を握り返すと、こちら
を見た賢吾の眼差しが一瞬だけ和らぐ。肩を引き寄せられるまま、賢吾と唇を重ね、深い口づけを交わし合っていた。
「本宅
に戻ったら、〈あれ〉の感覚を忘れないうちに、もう一度味わわせてやる」
口づけの合間に官能的なバリトンで囁かれ、和
彦の胸はズキリと疼いた。
ヤクザの跡目の披露式とは、どれだけ仰々しいものかと身構えていた和彦だが、拍子抜け――というのは表現が悪いが、想像し
ていたほど格式張ったものではなかった。
凶悪な面相をしたダークスーツの男たちで埋め尽くされているのかと、内心では
戦々恐々としていたのだが、確かにダークスーツを着た男たちは何人かいたが、言われなければヤクザとは思えない物腰と容貌を
している。どちらかといえば、めでたい席のために集まった親戚の男たち、といった印象を受ける。
座布団の上に正座した
和彦は、グラスに注がれたビールを飲みながら、室内を見回す。襖を取り外して二間を繋ぎ、広い座敷にしているが、普段は客間
として使っているのだろう。きれいにはしているが、そこはかとなく生活感のようなものが漂っている。
ヤクザの組長の家
とはいっても長嶺の本宅とは違い、三階建ての住宅の周囲には、威圧的な塀はない。大きくはあるが、普通の住宅だ。そして内部
も、大勢の男たちが酒を飲んで盛り上がり、その妻らしき女たちが忙しく働いてはいるものの、やはり普通の家であり、〈家庭〉が
感じられる。
さすがに、今、賢吾が顔を出している二階は、緊張感が満ちているようだが――。
和彦はちらりと視線
を天井へと向ける。二階では、この組の組長と幹部、それに賢吾が膝を突き合わせて話をしている。和彦も顔を出し、一通りの挨
拶だけは済ませたが、そのあとは一人だけ一階に案内され、こうして飲食して待っている。
和彦のような青年が一人で座っ
ていても、違和感はないようだった。一応、幹部クラスと、それ以外の組員との間で、見えない仕切りのようなものは作られては
いるが、みんな寛いでいる。
すでに、跡目披露式は終了しており、あとはただ、こうして飲み食いして祝うだけなのだそう
だ。
長嶺組を交えての盃事はまだ先で、今日の集まりは本当に、親戚の集まりと表現していいのかもしれない。正式な儀式
となると、警察にも届けを出すなどして大変なのだと、さきほどまで和彦の隣に座っていた男が教えてくれた。
賢吾がダー
クスーツまで着ながら、こっそりと立ち寄ったという建前も、そこにあるのだろう。長嶺組の看板そのものの男が派手に動けば、
この組に迷惑がかかる。
ふっと息を吐き出した和彦は、喉元に手をやる。暖房がよく利いた部屋に、煙草と酒と食べ物の匂
いが混じり、そこに男たちがつけているコロンの香りまで加わると、さすがに新鮮な空気が恋しくなる。他の男たちは気にした様
子がないため、多分、和彦が神経質すぎるのだ。
向かいや隣に座る男たちに軽く会釈してから、静かに席を立つ。座敷を出
ると、行き来する組員や女たちの邪魔にならない場所を探すことになり、所在なく一階を歩き回る。そして、庭を見つけた。
きれいに手入れされた広い庭で、今の季節は使わないのだろうが、テーブルとイスが置いてある。さすがに他人の家の庭に足を
踏み入れることはためらわれたので、和彦は窓だけを開けさせてもらう。
入り込んでくる冷たい空気を吸っていると、ふと
人の話し声が聞こえてくる。どうやら庭に誰かいるようだ。
思わず身を乗り出して庭を見渡すと、思いがけない人物が木の
陰にいた。今回の披露式の主役である、組の跡目となる青年だ。
さきほど和彦も挨拶をした青年は、組長である父親ととも
に紋付羽織袴という正装をしており、傍目にわかるほど緊張していた。だが今は、その表情は和らいでいる。
二十代半ばの
その青年は、ヤクザの家で育ったとは思えないほど、非常に育ちがよさそうで、粗暴さとは無縁な雰囲気を持っていた。それに拍
車をかけるように、少し線の細い整った容貌をしている。
雰囲気も容貌もまったく違うが、千尋と共通するものを持ってい
ると和彦は感じている。ヤクザらしくない物腰や雰囲気を持ちながら、がっちりとヤクザの血に縛られ、当然のように組を継ぐこ
とを受け入れている姿勢のことだ。
和彦はそっと目を細める。木の陰に隠れていたためわからなかったが、青年の傍らには、
まるで影のようにひっそりと付き従っている男がいた。青年とほぼ同年齢ぐらいに見え、こちらはごく普通のスーツを身につけて
いる。
思わず和彦は唇に笑みを刻んでいた。なんとなくだが、その男が、青年の護衛だとわかったからだ。持っている雰囲
気が、三田村そっくりだ。
若い二人は主従の空気を漂わせながら、青年は柔らかな表情で男に話しかけ、男は若い顔に不器
用な気づかいを覗かせて応じている。
「――まだまだ、甘ったれなツラをしているな、この組の坊やは」
突然、背
後から声をかけられ、驚いた和彦はビクリと体を震わせる。振り返ると、まるで黒い獣のように賢吾が近くまで忍び寄っていた。
どうやら二階での話は終わったようだ。
「ここの組長に、内輪でいいから、跡目披露をしておけと言ったのは、俺だ」
「あんたのことだから、単なるお節介でそんなことを言ったんじゃないだろ」
「俺が長嶺組を千尋に任せるとき、その千尋を
盛り立ててくれるのは、あの坊やたちの世代だ。……うちの甘ったれの子犬のために、しっかりと地ならしをして、人間と組織を
育てておいてやらないとな」
和彦が目を丸くして見つめると、賢吾はニヤリと笑いかけてきた。獰猛な笑みにも見えるが、
もしかするとこの男なりの照れ隠しなのかもしれない。
和彦には、父親の気持ちというものが、よくわからない。ただ、胸
の奥がじわりと温かくなる感覚が満ちてくるのはわかる。
「この組にとっても、俺があの坊やの後ろ盾となるという約束を取
り付けるのは、悪くない話だ。組が、確実に息子の代まで存続できるという証を得たようなものだからな」
「……そんな大事
な場に、オンナなんて連れてきてよかったのか? あんたはよくても、事情を知っている人間は……気を悪くするかもしれな
い」
賢吾に促され、和彦は窓を閉めてその場を離れる。
「大蛇の〈オンナ〉は特別だ。もう、そういう話は広まってい
る。総和会とも繋がりを持っている先生を、この世界じゃ誰も、単なるオンナ扱いはしない。もし、する奴がいれば――大蛇が鎌
首をもたげるだけだ」
怖いな、と洩らした和彦に、冗談とも本気ともつかない口調で賢吾は言った。
「先生には優しい
だろ、俺は」
反論しようと口を開きかけた和彦だが、さきほど聞いた賢吾の父親らしい言葉に免じて、黙っておくことにし
た。
ただ、和彦がこんな甘い気持ちになれたのは、ほんのわずかな間だった。
家の主に暇を告げて玄関を出たところ
で、さりげなく賢吾に切り出される。
「先生、仕事絡みの頼みがある」
「なんだ」
「――鷹津と連絡を取ってほしい」
和彦は表情を変えないまま、賢吾を見つめる。大蛇が潜んだ賢吾の目は、怜悧な光を湛えていた。
感情を排した、い
かにもヤクザらしい目だなと思っていると、賢吾は言葉を続けた。
「俺のオンナとして、仕事をしてくれ」
もちろん和
彦は、その言葉の意味がわかっていた。頭だけでなく、体でも。
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