と束縛と


- 第14話(1) -


 物が増えていくに従って、この部屋の居心地のよさが増していくのは、果たしていいことなのだろうか。
 横になってぼん やりとテレビを眺めながら、和彦はそんなことを考える。
 この部屋の何もかもが心地よく、愛しい。必要最低限のものを揃 えただけのワンルームは、何日かに一度、一晩を過ごすぐらいしか使っていない。それでも、ここで確かに生活している空気や匂 いが染み付いている。――二人分の。
 和彦に腕枕をずっと提供してくれている男は、体にかけた毛布の下で和彦の肩先が冷 えていないか確かめるように、ときおり思い出したようにてのひらを這わせてくる。大きくて温かい、さらりと乾いた感触のての ひらだ。
 てのひらだけではない。体を横向きにしている和彦は、ずっと背に、包み込むような体温を感じていた。
 和 彦は、テーブルの上に置いた小さなテレビからそっと視線を外し、目の前にある大きな手を見る。腕枕をしている三田村の手だ。 和彦はその手に、自分の手を重ねる。すかさず、ぐっと握り締められた。
「――眠っているかと思った」
 背後から和彦 の耳に唇を押し当て、ハスキーな声をさらに掠れさせて三田村が囁いてくる。和彦は自然に笑みをこぼした。
「ああ、軽くウ トウトしていた。……気持ちよくて」
 外で食事を済ませてから、夕方、この部屋を二人で訪れた。シャワーを浴びて、ベッ ドの上で体を重ね、そのまま三田村に抱き締められながら、少し眠っていたのだ。
 和彦が目を覚ましたとき、買ったばかり のテレビがついており、夜のバラエティー番組が流れていた。漫然と観てはいたものの、実は内容はよくわからない。音量がかな り抑えられているせいだ。番組を観たいというより、電気を消した部屋での、照明代わりということだろう。
「邪魔なら、テ レビを消そうか?」
「いい。あんたと一緒の夜は、夜更かしすることにしているんだ」
 三田村が笑った気配がしたあと、 肩に唇が押し当てられた。
 三田村は、いつでも和彦に優しい。その態度は、和彦が鷹津に抱かれたあとでも変わらない。
 和彦も三田村も、普通の恋愛関係にあるわけではない。あくまで、長嶺組に――長嶺賢吾に飼われ、許しを得たうえで関係を持 っているのだ。異常な環境下だからこそ深く結びつき、一方で和彦は、複数の男と関係を持ち、情を交わしている。
 先週は、 ホテルの部屋で鷹津と一晩中絡み合い、今は、こうして三田村と特別な部屋で一晩を過ごそうとしている自分を、怖い生き物だと 和彦は思う。怖いほど、貪欲で淫奔だ。ときおり自己嫌悪に陥ったりもするが、完全に呑み込まれてしまわないのは、結局、自分 を取り巻く男たちのおかげだ。
 皮肉なことだが、今の閉鎖的な環境の中で和彦は、ヤクザでないからと拒否されるどころか、 守られているのだ。
 和彦を守ってくれる男の一人である三田村は、慈しむように何度も、肩に唇を押し当ててくる。くすぐ ったくて小さく笑い声を洩らすと、背後からしっかりと抱き締められた。
 三田村の腕の中は、何よりも心地いい。この部屋 の空間だけでは不完全で、三田村の存在があって初めて、和彦が寛げる居場所となる。
 毛布の下で足を絡めながら、腰に三 田村の生々しい存在を感じる。もう少しで、新たな欲望の高まりが起こりそうだと予感しながら、それでも和彦は穏やかな気持ち でいられた。
 こんな気持ちに浸っていると、不思議と賢吾の思惑というものが見えてくる。
 賢吾は、さまざまな男と 関わり、交わる和彦の精神的なバランスを、気づかっている節がある。サソリのような鷹津と一晩を過ごした和彦に、こうして三 田村と過ごす時間をくれたのは、和彦の精神状態を落ち着かせようとしているからだろう。
 鷹津という男の強烈な〈アク〉に 慣れてしまったら、配慮されることもなくなるのだろうかと、ふとそんなことを考えた和彦は、腕枕をしている三田村の腕にての ひらを這わせた。すると背後から、さらに強く三田村に抱き締められる。
 求められていると実感していると、思惑も理屈も、 どうでもよくなってくる。三田村が優しいのも、こうして抱き締めてくる腕の感触も現実で、それは和彦と三田村の二人だけが知 っていることだ。
 三田村の体温を感じながら、思い出したように他愛ないことを話していたが、和彦の視線はテレビに吸い 寄せられる。あるイベントには欠かせない、白と赤が特徴のコスチュームが映っていた。
「――……そういえば、今月だった な……」
 思わずぽつりと洩らすと、三田村の息遣いが耳に触れた。
「先生?」
「あー、いや、もう十二月になった んだと思って。慌ただしいから、世間のイベント事にすっかり疎くなった」
 和彦は寝返りを打ち、体ごと三田村のほうを向 く。その三田村は、テレビに視線を向けていた。和彦がなんのことを言っているのかわかったらしく、小さく声を洩らす。
「ああ、そうか……」
 申し合わせたように二人は、同じ単語を口にした。
 クリスマス、と。
 物騒なヤクザが口 にするには不似合いな言葉だなと思った途端、和彦はつい声を洩らして笑ってしまう。そんな和彦を、三田村は優しい眼差しで見 つめてくる。
「クリスマスの日は、イブも含めて、先生は大忙しだろうな」
「どうかな。案外、みんな予定が入って、ぼ くは一人で過ごすかもしれない」
「それはないだろう。……もし仮にそうなったら、俺が喜んで、先生の予定を押さえさせて もらう」
 和彦は三田村の頬を撫でてから、囁く。
「ぼくより忙しい若頭補佐が、何言ってるんだ」
 三田村は、淡 く苦笑した。否定しなかったということは、実際、忙しいのだろう。こうして一晩過ごす時間も、スケジュール管理をある程度自 由に行える和彦とは違い、組の都合が優先の三田村は、賢吾の命令とはいえ苦労して作っているはずだ。
「クリスマスまでの 浮ついた空気は好きだけど、クリスマス自体はあまり興味はないんだ、ぼくは」
 つい先日、澤村と会ったときにクリスマス の話題が出たというのも、すっかり忘れていたぐらいだ。普通の暮らしをしていれば、他愛ない世間話として耳に入ることもある だろうが、今の和彦の生活は、そういうものとは無縁だ。
「……そんな先生と、クリスマスを過ごしたいと願う人間はいる。 案外、ロマンチストな男は多い」
「あんたも含めて?」
 三田村からの答えはなく、代わりに、頭を引き寄せられて唇を 塞がれる。熱っぽく唇を吸い合い、焦らすように舌先を触れ合わせ、擦りつける。和彦は、穏やかなキスを堪能する。
「大き なクリスマスツリーを見るのも好きなんだ。きれいに飾りつけられて、キラキラ光って……。そのクリスマスツリーを見上げる人 たちが、みんな楽しそうな顔をしてる。そういう風景を含めて、見ていると楽しくなってくる」
 キスの合間に話しながら、 和彦はベッドに押さえつけられ、十分に高まった三田村の熱い体にのしかかられる。和彦は甘えるように、三田村の背に両腕を回 してすがりつく。
「クリスマスツリーなら、もう今から飾っているところもあるだろ。先生が見に行くなら、俺もつき合って いいか?」
 三田村の背の虎を丹念にてのひらで撫でながら、和彦は笑いかける。
「残念。――あんたが興味ないと言っ ても、無理やりつき合わせるつもりだった」
 よかった、と三田村の唇が動き、そのまま深い口づけを交わす。
 すでに 三田村を受け入れ、精すら受け止めた和彦の内奥は、柔らかく蕩けている。それどころか、身じろいだ拍子に内奥の入り口から精 を溢れさせていた。三田村は、指先を這わせてそれを確認すると、すぐに熱い欲望を擦りつけてきた。
「んうっ」
 鼻に かかった声を洩らした和彦は、逞しいもので再び内奥をこじ開けられる感触に、身を捩りたくなるような肉の悦びを感じる。
「はっ……、あっ、あうっ……ぅ」
 三田村の精に塗れた襞と粘膜が、三田村の欲望に絡みつき、吸い付く。深い悦びを与え てくれる大事な〈オトコ〉に対して、和彦の体は従順で、健気ですらある。
 ぐうっと内奥深くを突き上げられ、自分で も恥知らずだと思うほど、和彦は感じて、嬌声を上げていた。
「ああっ、いっ、い、い……、三田村、そこ、好き――」
 三田村はゆっくりと律動を繰り返しながら、必死にしがみつく和彦の耳元に深い吐息を注ぎ込んでくる。子供のように三田村の 唇を求め、与えられた口づけを堪能する。
 抱き合い、体の位置を入れ替えると、今度は三田村に求められ、和彦は繋がった まま上体を起こしていた。三田村の腰に跨った姿を、その三田村に見上げられ、羞恥で体を熱くしながらも、下から突き上げられ るたびに快感に身を震わせる。
 三田村は両てのひらを和彦の体に這わせながら話す。
「――変な感じだ。いい歳になっ てから、クリスマスの話を誰かとするなんて。柄にもなく、俺も少し浮かれてきた」
 すでに反り返り、先端から透明なしず くを垂らしていた和彦のものが、三田村の片手に握られて扱かれる。背をしならせて乱れながら和彦は、意識しないまま内奥をき つく収縮させていた。
 和彦は三田村の逞しい胸に両手を突き、緩やかに腰を揺らす。そして、息を乱しながら三田村に尋ね た。
「三田村、子供の頃、クリスマスは?」
「俺のあごに傷をつけたのは、親父だ。……つまり、そういう家庭だってこ とだ。あちこちたらい回しにもされたが、愛想のないガキをわざわざ喜ばせようとする物好きはいなかったしな」
 先生は、 と問い返してこないのは、三田村の誠実さの表れだ。かつて和彦は三田村に、自分の家のことについて尋ねるなと言ったことがあ る。三田村は律儀に守ってくれているのだ。
 和彦は三田村の左手を取り、肉が抉れたような傷跡がある手の甲を撫でてから、 自分の胸に押し当てさせる。和彦の求めがわかったのか、三田村はてのひらで捏ねるように胸の突起を転がしたかと思うと、凝っ たそれを指先で抓って刺激してくる。
「んっ、んあっ」
 快感の源でもある三点を同時に責められ、和彦は三田村が見て いる前で悩ましく腰を揺らす。内奥で蠢くものを、さらに奥に誘い込むように締め上げた。
 強烈だが、穏やかでもある交歓 を二人は堪能する。もっと長くこの悦びに浸りたくて、ギリギリのところで和彦も三田村も快楽をコントロールしていた。
  ただ、和彦の気持ちの箍はわずかに緩む。自分の武骨なオトコが、ほろ苦い思い出話をしてくれたからだ。
「――……ぼくも、 クリスマスはしたことがない」
 喘ぐ息の下、和彦がぽつりと洩らすと、三田村はそっと目を細めた。
「そうなのか?」
「イベント事を嫌う家があったところで不思議じゃないが、そういうことじゃなく、佐伯の家は変わっている。人の出入りは 頻繁にあったのに、いつも家の中は淡々とした空気が流れていた。……あの家に住んで、馴染めなかったぼくだけが、そう感じて いたのかもしれないが……」
 ここで三田村の手が伸ばされて頬にかかり、和彦は目を丸くする。三田村が、真剣な顔で言っ た。
「先生を騙してさらうようなマネをしたヤクザが、何を言っているのかと思うだろうが……、今の環境なら、先生にそん な思いはさせない――というより、させたくない。不器用で気が利かない俺にできることなんて、ささやかなものだろうけど」
「……若頭補佐は、ずいぶん口が上手くなったな」
 からかうように言いながらも、和彦は笑みをこぼす。今、たまらな く三田村にキスしたいが、繋がりを解きたくはない。
 和彦は、頬を撫でる三田村の左手を取ると、指を舐め上げる。このとき、内奥深くに収まっている三田村のものが脈打ち、さら に大きくなったようだった。
「先生……」
 和彦は三田村を見下ろしたまま指を丹念に舐め、ゆっくりと口腔に含む。舌 を絡めて扱くように動かしながら、口腔から指を出し入れする。最初は好きにさせてくれた三田村だが、欲望が抑えきれなくなっ たらしく、和彦のものを扱く手の動きが速くなり、下から激しく突き上げられる。
 たまらず三田村の胸元に倒れ込みそうに なったところを、すかさず受け止められて再び体の位置を入れ替えられる。
「あっ、あっ、あっ――ん。三田村……、三田村、 もうっ……」
 三田村の力強い律動が繰り返され、和彦は奔放に乱れる。内奥深くを抉るように突かれた拍子に精を迸らせ、 絶頂の余韻に酔いながら、引き絞るように三田村の欲望を締め付ける。
 獣のように低く唸ったあと、三田村が精を内奥深く に注ぎ込む。和彦は放埓に悦びの声を上げながら、三田村の背にすがりついた。
 三田村の体が熱い。それ以上に、内奥でビ クビクと震えるものが熱い。それが和彦には、たまらなく愛しい。
 荒い呼吸を繰り返す三田村の顔の汗をてのひらで拭い、 勇ましい虎を撫でて慰撫する。珍しいことだが、三田村が甘えるように和彦に頬ずりしてきた。


 グラスに注いだ牛乳を一息に飲んだ和彦は、天井を見上げてほっと息を吐き出す。まだ体に、三田村との激しい情交の熱が留ま っている。朝だというのに、酔ったように頭がふわふわとしていた。
 小さなテーブルに頬杖をついた拍子に、空に なったグラスがひょいっと取り上げられ、再び牛乳で満たされた。
「先生なら、オレンジジュースのほうがよかったかな」
 そう声をかけてきた三田村が、向かいのイスに腰掛ける。大人の男なら、こうして向かい合って座ると、足が触れるようなテー ブルだ。ただ、二人がこの部屋で寛ぐことを優先して考えると、このサイズのテーブルが最適だったのだ。和彦も、不満はない。 むしろ、気恥ずかしくなるぐらいの三田村との距離の近さを、楽しんでいた。
「ぼくはよっぽど、オレンジジュース好きだと 思われてるんだな」
「先生の部屋の冷蔵庫には、常備してあると聞いている」
「……もしかして、冷蔵庫に何が入ってい るか、全部把握してるんじゃないか」
 まさか、と言って三田村は顔を綻ばせ、つられて和彦も笑ってしまう。
 朝から こうして、三田村と穏やかに会話を交わしていると、自分がとても優しい人間になったような気がする。世の中に嫌なことは何も ないとすら、思えてくるのだ。もちろんそれは、この部屋を一歩出てしまえば消えてしまう錯覚だとわかっている。
 それで も今は、優しい錯覚に浸っていたい。
 三田村に促され、サンドイッチを手に取る。和彦が眠っている間に、近くのファスト フード店まで三田村が買いに行ってくれたものだ。具がたっぷりの大きなサンドイッチとスープは、和彦の普段の朝食としては十 分すぎる量だ。
「昼まで一緒にいられるんだろ?」
 サンドイッチを頬張る合間に問いかけると、和彦を安心させるよう に三田村は目元を和らげる。
「ああ。もうそんなに時間はないが、先生の行きたいところがあればつき合う」
「別に今日、 どうしても行きたいってところは……ないな。あんたこそ、出かける用はないのか? どこだってつき合うぞ」
「……そんな ふうに言われたら、何か考えないとな」
 生まじめな顔で考え込む三田村を眺めながら、サンドイッチを食べていた和彦だが、 ふと今の時間が気になる。三田村とあとどれぐらい一緒にいられるか、知っておきたかったのだ。
 イスの背もたれにかけた ジャケットのポケットをまさぐり、携帯電話を取り出す。この部屋を訪れたときは、電源を切るまではしないが、着信音を消して おくようにしている。仮に急な呼び出しがあったとしても、三田村の携帯電話に連絡が入るため、あまり意味のある行為ではない が、少なくともこの部屋では、自分の携帯電話の着信音は聞きたくない。
 時間を確認するつもりで携帯電話を開いた和彦だ が、メールが届いていることに気がついた。
 誰からだろうかと思いながら操作して、送信者の名を確認する。その途端、心 臓の鼓動が一度だけ大きく跳ねた。送信者は澤村だった。
 ホテルのショップで千尋と一緒にいるところを見られて以来、初 めて澤村から連絡をくれたのだ。すっかり距離を置かれたものと思っていた和彦としては、嬉しい反面、戸惑いもある。
「先 生、どうかしたか?」
「いや……、友人からメールがきてるんだ」
 澤村からのメールは画像つきで、それを見た和彦は つい口元に笑みを浮かべてしまう。
 メールの内容は、拍子抜けするほど〈普通〉だった。他愛ないことを、当たり前のよう に書いてあり、自然だ。自然すぎて不自然だとも言えるが、澤村なりに、和彦に気をつかわせないようにしているのだろう。
 自分に都合よく解釈するなら、このメールは、これまで通りつき合っていこうという澤村からのサインなのかもしれない。
「……本当に、見た目によらずお節介で、優しいな、澤村先生は」
 小さく呟いた和彦は、携帯電話を三田村に差し出す。三 田村は一瞬、物言いたげな顔をしたあと、黙って受け取った。
「タイミングがいいと思わないか、その画像」
 携帯電話 に視線を落とした三田村に話しかける。
「これはもしかして――」
「クリスマスツリー。他のイルミネーションもきれい で、友人が今時期、女の子を口説くときによく使っている場所だ。去年までは、ぼくも出かけて眺めてたんだ。……そうか、もう、 そんな時期なんだな……」
 昨夜、ベッドの中で三田村とクリスマスについて話したと思ったら、澤村からはクリスマスツリ ーの画像が送られてきたのだ。偶然とはいえ、和彦の気持ちを高ぶらせる。
 同時に、感傷も刺激された。
 ほんの一年 前までの、自分の生活を振り返っていた。大手のクリニックで毎日何人もの患者を診てはやり甲斐を感じ、合間に気の置けない友 人とバカ話をして笑い、仕事が終われば遊びに出かける。無為に過ごしているようで、あれはあれで充実した日々だった。
  今は――。
 ふっと三田村と目が合い、こちらから何か言う前に、伸ばされた片手に頬を撫でられた。
「……あまり、寂 しそうな顔をしないでくれ、先生」
 そう言う三田村のほうが寂しそうな顔をしているように見え、慌ててイスから腰を浮か せた和彦は身を乗り出し、三田村の首にしがみついた。
「違うんだ。そうじゃないっ……」
 自分でも何を言い訳したい のかわからないまま、咄嗟にこんなことを言ってしまう。三田村は宥めるように髪を撫でてくれた。
「――先生、このクリス マスツリーを見に行かないか?」
 驚いた和彦は三田村から離れると、ストンとイスに座る。
「今晩?」
 咄嗟にこ う答えたあと、自分の性急さに思わず苦笑を洩らす。三田村は、〈今日〉とは言っていないのだ。
 もちろん、優しい三田村 は、否とは言わなかった。
「先生の友人が、こうしてメールを送ってきたんだ。先生にも見せたいと思ったんだろ。それ に……俺が誘わないと、先生から見に行きたいとは切り出しにくいだろ。武骨で、情緒の欠片なんて持ち合わせてなさそうなヤク ザに」
 柄にもないことを三田村に言わせているなと思った途端、和彦は笑みをこぼす。ここまで言ってくれた〈オトコ〉に、 恥をかかせるわけにはいかなかった。
「行く。……あんたと一緒に」
 和彦がこう答えると、三田村は心底ほっとしたよ うな顔をした。


 昼間まで会っていたはずなのに、数時間後、日が落ちてからまた三田村と顔を合わせるというのは、むず痒いような気恥ずかし さがあった。
 なんといってもこれから、〈デート〉をするのだ。
 そう考えた和彦だが、次の瞬間には、顔を背けて小 さく噴き出す。妙に肩に力が入っている自分が、おかしくてたまらなかった。
 必死に笑いを噛み殺し、隣を歩く三田村に視 線を向ける。こちらは、普段は落ち着いている若頭補佐らしくなく、どこか浮き足立ち、しきりに周囲を気にしている。
 和 彦が見ていると気づいたのか、目が合うと三田村は、決まり悪そうに顔をしかめた。
「……俺は、こういうシャレた場所だと、 身の置き場がなくて困る」
 三田村が言う『シャレた場所』というのは、ホテルも入っている商業ビル前の噴水広場のことだ。 普段から雰囲気のいい場所として、待ち合わせによく利用されているのだが、クリスマスが近くなると、さらににぎ わう。
 広場の照明や植樹がイルミネーションで彩られ、大きな噴水も、クリスマスらしいオブジェをたっぷり使って飾られ ている。LEDの青白い光が、芝生の上に人工の海を作り出しており、見入ってしまうほどきれいだ。
 寄り添っている恋人 同士の姿も一組や二組ではないが、会社帰りに立ち寄ってみたという感じの、スーツ姿のビジネスマンたちの姿もちらほらと見え る。
 二人きりの甘い空気に酔っている恋人たちにしてみれば、ビジネスマンや三田村、もちろん和彦も、気にかけるような 存在ではないだろう。
 和彦は、ニヤリと三田村に笑いかける。
「堂々とした立ち姿が渋くて、この場所にいても様にな っているぞ、三田村」
「先生も人が悪い」
 柔らかな表情でそう応じた三田村に、マフラーを直してもらう。
 少し の間噴水広場を見て歩いてから、今夜の本来の目的を果たすため、人の流れに乗るように、ビルのアトリウムへと移動する。
「――……悪かった。忙しいのに、時間を取ってもらって。気をつかわせたな」
 ゆっくりと歩きながら和彦が切り出すと、 三田村は首を横に振る。
「先生は、もっと俺たちにわがままを言っていい。むしろ、そうしてもらったほうがいい。今朝、先 生のあの顔を見たら、心底そう思った。俺たちのほうこそ、先生に気をつかわせているんだ」
「あまり大げさに考えないでく れ。ただ、前までの自分の生活を懐かしく感じただけなんだ。つらいとか悲しいとか、そういうんじゃない」
 少なくとも今 は、周囲にいる男たちに大事にされていると、肌で感じることができる。それが打算含みのものだとしても、和彦に惨めな思いを させないだけの配慮をしてくれる。
 このとき和彦の脳裏をよぎったのは、〈惨めな思い〉をしている頃の、自分の姿だった。
 込み上げてくる不快さに身震いすると、それを寒さのせいだと勘違いした三田村が、肩に手をかけた。
「今夜は特に冷 える。早く中に入ろう」
 和彦はマフラーで口元を隠しながら頷く。
 嫌なことを思い出したと、苦々しい気持ちになる。 普段は意識して遠ざけている記憶がふとした拍子に蘇り、それが和彦を憂鬱な気分にさせる。汚らわしいものに触れてしまったよ うな、忌々しさすら覚えるのだ。
 三田村に悟られたくないと思いながらも、どうしても険しい表情になってしまう。しかし それは、ほんのわずかな間だった。
 吹き抜けとなっているビルのアトリウムには、巨大なクリスマスツリーが飾られている。 隙間なく、という表現が大げさではないほど、イルミネーションやオーナメントで飾りつけられ、眩しいほど輝いている。
  寸前までの不快さも忘れて、和彦はクリスマスツリーに見入っていた。見に来てよかったと、素直に思う。
 本当は、澤村と 出くわすのではないかと、少しだけ危惧していたのだ。だが、忙しい男が連日ここに立ち寄るとも思えず、また、もし仮に三田村 と一緒にいるところを見られても、いくらでも言い訳は立つ。強面である三田村だが、それでも真っ当な勤め人に見えるはずだ。
 そこまで考えてやっと、和彦は安心できる。
 本来であれば、落ち着いた雰囲気の中、きらびやかなクリスマスツリー をじっくりと眺め続けたいところだが、そうもいかない。
 さすがに人気のスポットだけあって、クリスマスツリーの周囲を 囲むように人の輪ができ、混雑している。和彦の前に立っていた女性が移動しようとして、ぶつかってくる。思わずよろめいた和 彦の体を、さりげなく背後から三田村が支えた。
 クリスマスツリーを中心とした人の輪から抜け出し、少し離れた場所から 眺めることにする。
「今でこの混み具合なら、クリスマスイブともなると、もっとすごいんだろうな」
 感心したように 話す三田村がおもしろくて、和彦は小さく声を洩らして笑う。
「先生、このビルの中で少し休もう。温かい飲み物でも飲ん で……」
「だったら、いい店がある。店の中から、クリスマスツリーの上のほうが見えるんだ」
 頷いた三田村を促し、 移動しようとしたそのとき、着信音が鳴った。三田村の携帯電話だ。
 和彦に断って三田村が電話に出る。向けられた背をち らりと見てから和彦は、もう一度クリスマスツリーをよく見ておこうと、人の輪に近づく。
 照明を受けてキラキラと輝くグ ラスボールに目を奪われていた和彦だが、何げなく、クリスマスツリーの向こう側に立つ人たちに視線を向ける。
 みんな、 クリスマスツリーを見ていた。一人を除いて。
 その一人と目が合った途端、和彦は総毛立つ。心臓を冷たい手で鷲掴まれた ようなショックを受け、数秒、息ができなかった。
 和彦を見ているのは――和彦とよく似た顔立ちの男だった。
 スー ツがこれ以上なく様になり、かけている銀縁の眼鏡は、知的な雰囲気を際立たせる小道具としては効果がありすぎて、攻撃的なほど怜 悧に見える。こんな華やかな場所にいながら、男が持つ空気は、あまりに異質だった。
 和彦は、男の内面をよく知っている。 苛烈なほど切れ者で計算高く、そして、冷たい。特に、六つ歳の離れた弟に対して。
「――……兄さん……」
 和彦は呻 くように呟いたあと、射竦められたように動けなくなる。頭が混乱していた。会うはずのない人物が、会うはずのない場所に姿を 見せたのだ。一体何が起こっているのか、わからない。
 和彦とよく似た顔立ちの兄は、冷たい空気を振り撒きながら、こち らに歩み寄ってこようする。
 この状況で体が硬直してしまった和彦に、行動のきっかけを与えてくれたのは、電話を終えた 三田村だった。
「すまなかった、先生」
 そう言って三田村が顔を覗き込んでくる。和彦は必死に三田村を見つめると、 絞り出すような声で訴えた。
「……三田村、早く帰りたいっ……」
 和彦の様子から、一瞬にして異変を悟ったのだろう。 三田村は次の瞬間には殺気立ち、辺りを威嚇するように素早く見回したあと、和彦の肩を抱いて足早に歩き始める。
 ビルを 出るまで、和彦は背後を振り返ることはできなかった。もう一度兄の姿を見てしまったら、かつて味わってきた〈惨めな思い〉に 足を取られると思ったのだ。









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